ビジネス書と心理師の視点
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1170回をお送りします。
4月17日木曜日、朝8時ちょうどです。
はい、えーとですね、もうここら辺で最終のお願いということにして、ちょっと方々にお知らせをしようと思っておりますが、
3ヶ月チャレンジの第10期、最終1枠を、現在継続されている方は皆さん継続されるという前提を僕は最初に持っておくんですね。
だから、新規あと1名枠と1名様枠を持って終了と、募集終了しようかなと思っております。
それを、これでお知らせしている方の他に、できるチャンネルで全開にしてやろうかなと。
もうちょっと早くやれよって話もありますが、ギリギリまだ間に合うタイミングなので、このタイミングでそれをやっておしまいにしようかなと思っております。
昨日なんかですね、これも3ヶ月チャレンジの参加者さんに教えていただいたんですけど、
なんかある本がXで炎上していて、なんとなくそれを読んでいるしに吹っ切れたんですね。
まあまあ、これは当然炎上案件になるでしょうと、もしかするとそもそも著者はそれを狙ってるんじゃないのっていう意見もあって、
それはわからないことなんですと、僕は思っちゃうんですけどね。
僕は両方に足を突っ込んでいるとはとても言えずに、ビジネス書の世界に足がどっぷりなわけですよね。
ビジネス書ですよね、あれははっきり言って。
だからビジネス書として見るのと、そもそもメンタルボンと言っておきましょう。
そして見るのとでは、見え方が変わってしまうんですよね。見え方変わっちゃいけないのかもしれないけど、
やっぱり私はビジネス書作家なので、またこれが書店のオーナーさんとかで見るのと、
出版業界の人として見るのとでは、やっぱりまたちょっと違うとは思うんですけど、
そこに主にですけれども、心理師さんが見ると、もうなんかとんでもなく見えるのは見えて当然だと思いますし、
私は心理師目線というものを本当の意味では持ってませんから、どっちにしてもですね。
少なくとも正規の心理師目線というものは、私には実存的にはないわけですよ。
こんな言葉を使う必要はないんだけどね。
で、まあそうだろうなと思うんだけど、炎上を狙ったのかどうかまでは私じゃあわかんないし、
これはどうなるんだろうというのを見守っていくみたいな話でしか結局ないんですけど、
大して面白い話が私にできるわけではないってことなんだけど、炎上はしちゃうよねっていうのは思います。
この話はすげー難しい話だと思うんですよ、ある意味では。
シンプルだって言えばシンプルなんでしょうけど、話はシンプルかもしれませんけど、
こういうのって本当にいろんなことが似たようなことが今後も起きてしまうようなと思うんですよね、ある意味では。
似たようなことはかつてはっきり言って何回もあったし、心理系の世界でないっていうのを含めると本当に山のようにと言ったら言い過ぎですが、
確かに思い出せる限り思い出すと、10死では数え切れないって満たされないみたいな、そういうところありますよね。
ありますし、良くないですけど、良くないからといってなくせるかっていうと、なくせるのかもしれない。
方法はあるのかもしれないけど、私じゃあ考えつかないなっていうそういうところもあります。
中で私がこの意見に僕の意見は近いと思ったのが、白目の漫画を描かれている漫画家兼後任心理師の白目美沙絵って本名じゃないと思いますけどね、
方が描かれていた、結局どっちかに肩入れをすることはできないんだっていう、あれが僕はやっぱり一番意見として近いかなと。
どっちかに圧倒的に肩入れしてしまうというのは、どう考えたって、要するに偏見を助長するような結果にしかならないんだと。
だからあれ、どっかですね、不意に、もともとそうじゃなかったと思うんですけど、不意にですね、正規のカウンセラーと非正規のカウンセラー問題、
だから野良カウンセラー問題みたいに論じられちゃうんし、それはそれでわからなくはないんですけど、
僕みたいな、それこそほとんど一般人でしかない人間からすると、産業カウンセラーなんていう肩書きは正規ですからね、ある意味。
それは非正規だっていうことなのかもしれないけれども、そうとは言えないんじゃないかなみたいな、
そういう言い方をするならば他にもちょっといろいろあるよなって感じもしてきてしまうし、
そもそもあれは正規の人が書いてなかった、だから公認心理師ではないってことなのかもしれませんけどね、
肩入れの難しさ
そこが問題なわけでもないような気がしました。
まあ感想ですけどね、はっきり言って。
だからどっちかに肩入れしすぎるってことは起きるわけですけれども、それが多分問題なんだろうと思うんですよ。
まあそれもわざとやってるのかもしれないし、結局のところわからないんですけどね、書者さんじゃなければですね、
わざとやってるのかもしれないし、たまたまそうなっちゃうのかもしれないし、それはわかんないんですけれども、
ただもちろんこの番組でもおなじみの課題になりますけれども、
お話を伺っている話は一応全部事実だと考えるわけですよね。
で、ここはそれはだって態度として不誠実なんて言われるかもしれませんけど、
でも絶対そうなる、むしろ誠実にやりゃそうなるだろうっていう感じがあるわけですよ。
つまり夫婦問題だと仮にこれがしてですね、
私は妻に散々ひどい目に合わされていますって言った時にですね、
その人が被害者だという訴えは、それが事実として受け入れるわけですよね。
中立って言うけど、そこにはその訴えてる人しかいらっしゃらないんだから、
訴えてる人の肩を持つというのは、いかにもこの場合あれなんですけど、でもやっぱりそうなりますよね。
でも同時に本当に加害しているのは奥さんだけなんだろうかという観点は、
だからこの話はPSポジションの人が被害を訴えているっていう風に捉えた時に、
主観としてはその通りなんだけど、客観的には剥害妄想なのかもしれないんだけれども、
でもやっぱり剥害妄想だって剥害されてることに違いはないと、
その人は主観的に感じてるんだから、それが正しいんですよ。
それでは堅入りしたことにならないじゃないかっていうと、
言われる可能性が一方に残るわけですよね。
本当に加害されてるのと、剥害妄想だと言われるのとでは全然違う。
ほぼ180度違うんで、でもそこはそういうことなんですよ。
一方で奥さんがそうやってきたら、私は加害は全くしてないんだってことになり得るじゃないですか。
だから両方同時に話を聞くのがいいんだけど、両方同時に話を聞くことはまず普通は不可能なんですよね。
家族両方的な難しさの話にこれはなってる気がするんですけども、
これが対社会であっても同じことはあるはずで、
会社でパワハラを受けてるんですって言われれば、話を聞いた人間としては心理師でなくたってですね、
それが大変だっていうその人の立場に立つんですよ。
でもそういうふうにしてしまうと、もしかすると業務指示を出しただけなのに、
私はそれを理由に攻撃されていて、むしろ私が傷ついてるって言い出す人だって、
当然言うるじゃないですか。
で、そっちの人がもし私のところに来た唯一の人だった場合、
そっちの人も肩をもすことになるはずなんですよ、今度は。
つまり私は部下に指示を出すと、なんか部下からそれはパワハラだと言われて、
とても困るという話をされた時、それは困るだろうという肩を持つんですよ。
結局そのどっちかだけに肩を持ってしまうから、そしてそれが本になるとおかしなことになるのであって、
話を聞くという立場にある人にしてみるとですね、客観的にはそうでないかもしれないが、
この人の主観をとりあえず全面的に信用するっていう立場を取る以外はないんじゃないのかなと思うんですよね。
私はわかりませんけど、正規であればまた違うのかもしれないんだけど、そこまで僕が考えることではないので、
かぐや姫コンプレックスの考察
私としてはそういうスタンスだけど、本にそれを書くのはまた話が全然違ってくるという話だと思いました。
だからつまりどっちかに肩を持つというのはそういうことになるよねっていうことですよね。
この話はもともとどっちが正しいと決められないところが出発点にあるわけですから。
そういう気持ちを持って家族両方の本を、家族両方の本じゃないんですけどね。
昨日もお話しした、あれ名前出てこなくなった。恐ろしいですね。
鈴木智美さんの接触障害の時に母子を両方、最後にお父さんも一緒に同席面談と書かれてましたけど、そういうことをされていたわけです。
これだからつまりお母さんの言い分と娘さんの言い分が180度食い違ってるわけですよ。
ただこれはとてもいい話なんですよ。
なぜなら180度食い違ってるってことが目の前でわかりますからね。
だからいいんですよ。
だけど普通はそうはならないってことなんですよ。
まず私の経験でもそんなことは起こらない。
それはその人のどっちかの話を聞くしかないからですね。
久しぶりにこの言葉を見たなと思ったんですけど、本題に入りますね。
かぐや姫コンプレックスって言葉が出てきたんですよね。
こういう言葉を精神分析の方も使うことはあるんだなと。
精神分析で出てきた言葉だったと思うんだけども、ここはちょっと詳しくは立ち入らないです。
またそのうちこの話はしたくなりましたけども、詳しくは立ち入らないです。
でもこれは僕はみんな知ってることだと。
これも昨日も喋ったようなことですけど、みんな知ってることだと思うんですよね、かぐや姫コンプレックスなんて。
いやこの言葉の概念は知らないし、あんな風に精神分析的に鮮やかに説明してみせるなんてことはできませんけど、
でもああいうことってあるじゃないですか。
おじいさん子っていうのもおかしいんですけど、要するにかぐや姫ってお嫁に行きたくないわけじゃないですか。
おじいさんとおばあさんのところで大切に育てられていて、ちょっと接触障害気味に見ることは十分可能ですよね。
なんかこう自分特別なものだと明らかに思ってそうだし、そういう人っているじゃないですか。
まあこういるじゃないですかって言ったら変なんですけど。
でそこに早期エディプスを見るっていう、だからメラニー・クラインのプレリプスみたいな話になっていくんですけど、ありそうな話ですよね、いかにもね。
で大体そういう人に限ってめちゃくちゃ絶世の美女であるって、まあそれは勝手に外側から妄想かき立ててるだけなんだけど、
ついで天皇陛下みたいなのまで出てきて、絶世の美女だと聞いたみたいな、そんな話ないんだけど。
いやわかんないですよ、絶世の美女なのかもしれないけど、誰も顔見たことないとか、外してそういう話になってますよね、ああいう話って。
わけわからんよなっていう感じですよね。
誰が、どこで誰がそう言ったんだみたいな、おじいちゃんがそう言ってるだけじゃんみたいな。
おじいちゃんが孫のことを絶世の美女だっていうのも、いかにもありそうなことじゃないですか。
つまり万能空想と現実が入り乱れてしまってるんですよね。
しかもそれが世代完結号っていう、また独特の表現で使いますけど、要はおうちごとおじいちゃんとおばあちゃんとお孫さんが一体化しちゃって、
もうなんだかこうよくわからない世界を作り上げてしまってるわけですよね。
でもあり得ると思うんですよ、僕は。全然普通に。
そんな家はあるし、私も昔、1週間前後に渡っておばあちゃんの家に、すごい好きなおばあちゃんだったんですよ。
栗駒高原のね、今では。もう家ないですけどね。
そこで預けられてたんですよ、ちょっとうちの父母が物々忙しかったんでしょうね、引っ越しとかが絡んでね。
しかも私栗駒の父方の実家なんですけど大好きだったから、いやそれはもう1週間全然オッケーだよってなったんだけど、
どっかでおばあちゃんと喧嘩になっちゃったよ、私がね。
で、そこまで覚えてるんですよ。以降覚えがないんです。
で、その後うちの母によるとめっちゃ私が泣いてて泣きあわなかった。
そのことをうちの祖母がめちゃくちゃ不機嫌になった。
これが僕の経験しているギリギリかぐや姫、かぐや姫じゃないですけど僕は姫じゃないから。
かぐや姫コンプレックス的な何かだなと思うんですよね。
だから、祖母の家っていうのはもうそれこそ月の世界なんですよね。
なんて言うんだろう、万能空想を満たされてしまうんですよ。
かぐや姫の思考
でも相手は人間なんでやっぱり、いくら孫とはいえ、どっかで、で結構おじいちゃんおばあちゃんでそうじゃないですか。
うちの母を見ててもすっごいそれよくわかるんだけど、
いやもうなんかうちの子を連れて行くといやもう本当なんかこう、
まさにこう飴玉の風呂に入れたくなってるぐらいのノリになってるけれども、
どっかで飽きちゃってる。
もうなんか勝手に遊んでてねみたいになって、なんか自分はテニスに行くみたいなね。
ノリになるんですよ。
急に対象としての母親になっちゃう。
なんかもう甘々勧強としての母親だったくせに、なんか一瞬でそれが切れちゃうみたいな。
なんか二重に子供みたいな。
だからこれが世代間の混乱なんでしょうね。
やっぱりおばあちゃんと、要するに70歳と5歳とか6歳は同じようで違うから、
どっかでやっぱりこうつまんなくなるんでしょうね、簡単に言うと。
これがなるからいいんですよ、むしろ私が思うに。
ならないとかぐや姫みたいになっちゃうと思うんですよね。
私は月の住人だから、たとえ天皇陛下がやってきたからって、
そんなお嫁に行くわけにいかないよねみたいな。
やったじゃないですか、こういう過等な地球という人間にさせられてたのはお前が罰を受けたからだみたいな。
まさにそういう妄想を抱きそうですよね。
それっていかにも万能空想だし、めちゃくちゃもう空想の世界じゃない。
いかにも少女が夢見そうな夢ですよね。
それをだから文学化するんだろうなと思うんですけれども。
その時に、それを接触障害と、牛島さんって方だったような気がするんだけど、
結びつけたんだと思うんですけれども、それはそうだろうと。
下船のものと同じものを食って、もりもりかぐや姫を食べて割とふくよかになりましたって話にならないじゃないですか。
もうガリガリに痩せていることが良さそうじゃないですか。
そんなものを私食べる、そういうものじゃないしみたいな。
だからめっちゃ自己愛ですよね。ナルシシズムの世界ですよね。
見下すわけですよね、結局ね。
外に悪いものは、ろくでもないものは全部外界に。
地球ですからね。地球すなわちダメ世界みたいになって、月の住人なんで、天皇陛下とかすらないわけですよ。
地球人は全員下等なんですよね。
そういう世界ですよね。それってナルシシズムの世界ですよ。
だから地球のものは食べられないし、いつまでも地球にはいられないし、もちろん地球の男から求婚されてもね、
なんか龍の鱗持ってこいとか、そういうことも言いますよね。
ってことになってしまうっていうこの万能空想を、昨日の話はひっくり返せばいいと思うんですよ。
要するに、すっごく抑制になってしまうじゃないですか。
この善悪をガラッと入れ替えて、地球最悪みたいだったのが、私最悪みたいになってしまうわけですよね。
かぐや姫って固くなじゃないですか。めちゃくちゃ固くなですよね。
求婚者5人やってきて、最後に御門までやってきても、固くななんて自分の思い込みの世界に完全にどっぷり浸っているわけで、
ただしそれがポジティブなんですよ、彼女のあれは。
なんかこうポジティブなんだけど、実は実にネガティブですよね。
つまり妥協の余地は一切ないと。
妥協の余地が一切ないと生きていけないんですよ。
あれはそういう話になっていると思うんですよね。
だって結局、宇宙に帰っていくって死の世界じゃないですか。
変化とナルシシズム
どう考えたって。土に帰る以上に死の世界。天井に帰るって明らかに生きていられないじゃない。
生きていられない話ですよね。
食べもしないし、結婚もしないのはもちろんのこと。
要するに地上の男はみんなダメなんですよ。
味方でもダメなんですよね。
食べもしないと。天井に帰ると。
これはもうどう考えても生きてないってことになって、
生きてないのと我々にとっては同じことですからね。
これをネガティブにやるとどうなるかというと、
やっぱり同じくめちゃくちゃカタクナなんですよ。
つまり私は何物にも値しないからっていう話になっていって、
結局何物にも値しないから、
せめて人並みにするために完璧なリストみたいなのができるんですよ。
僕はここにですね。
この真理をややマイルドにしたもののところに、
しばしばこの仕事術系の話が。
最初にビジネス書の話をしたせいか。
あれビジネス書だと僕は思ってますから。
思ったんでね。
昨日炎上したのをチラッと見て、
あーって感じ化してビジネス書のように見えたんで、
ビジネス書を読む人にはこの完璧主義というものが、
表に出たり裏に出たりする。
それはすごくやっぱり硬いですよね。
硬い心というもの。
もちろんあれですよ。
昨日お話したみたいな鬱病の硬さみたいな話ではないですけど、
でも心に何て言うんですかね。
柔軟性がない。
だって完璧主義って完全主義って言うのかもしれませんけど専門的には。
柔軟性がないじゃないですか。
でその柔軟性の無さには明らかにやっぱり万能空想があるじゃないですか。
このリストさえ完璧にこなしていれば、
自分の人生安泰だって言うのって明らかに空想の産物ですよね。
あーこう言うといやいやって言われるかもしれませんね。
このリストやれば人生万能なのは確かでしょうって言われるかもしれない。
だからJマスザキさんが今度ジャンボリーで帰ってくるからみんなでジャンボリーしたいと思うわけですが、
5月11日ですね。
Jマスザキさんが行動によって価値は上下しないって一生懸命言ってる。
今今しがた言ってるわけですが、
つまり行動によって価値が上下しないってことほど、
ライフ確定的でなかったりビジネス性的でないものもないわけですよ。
行動によって自分のライフの価値が上がると信じてるからこそ、
あんな大変なリストを作ってそれを実現するということになるんですよ。
でもそこにはさっきのかぐや姫コンプレックスみたいなものとよく似たものが出現しちゃうわけですよ。
接触障害の影響
要は普通にのんべんだらりと感覚的に地球人のように生きていちゃいかんわけですよね。
月の住人としては。
なんかあのね、一時非常に極限に差し掛かったミニマリズムにはそういうところあったじゃないですか。
妙にこう徹底的に削ぎ落とされて、無駄なものは何もない。だから冷蔵庫もないみたいな。
下のコンビニに買いに行くから。ちょっとお金かかりそうですけどね。
家には何もないわけですよね。美しいわけですよある意味。
まああれ美しくない家でやると結構しょうもないものになっちゃうんですけど、
あれをピッカピカの家でやるとですね、いかにも月の住人な感じになるわけですよ。
下船のものと同じものは食べられないわけですよ。
ちょっとそこまで言ってないですけどね。
だから下船のものと同じような暮らしはなんかね、
今にモップとか置いてあったりして、うちがそうだったんで、よく妻にけなされるんですけど、
なんかね、家に食器台なのにモップとか置いてあったり、
やらって忙しいんですよ、なっちゃうんですよね。
なんか変にベタベタしてるんですよ、家のテーブルがね。
でなんかこうハエ取り紙とかがあったりして、
ほんと嫌だわーみたいなある種の人から見ると、まさに下船の暮らしなわけですよ。
まあ寺ってそんなもんですよ。
で、このようになるのが嫌だから徹底的にそういうハエ取り紙とか、
まして部屋にハエがいるなんてそもそも許しがたいことで、
で食べ物も置かないとなってくると、何もない家がそこに出現するわけですよね。
マックだけ置いて、マッキン都市の高そうなやつだけ、
マックミニとか、あとなんかこう薄いディスプレイとかだけがあって、
要するに生きてないわけですよ。
生きてないじゃないですか。
なんか生き物としているのは自分だけみたいな。
他はもう徹底的に殺されてるわけですよね。
面白いですよね、このなんかこう死の世界に生きることが一番美しいみたいな。
でそこにこう完璧になる人リストが置かれているわけですよ。
もちろんデジタルですよ。
紙とか雑然としてるんでね、紙とかダメじゃないですか。
なんかダメそうな感じ、カレンダーを切ったやつとかナンセンスですよね。
できれば紙が置かれてるにしてもやっぱロディアでないとダメですよね。
そのきちっと切られてるやつで、でもやっぱ紙ダメだよねって感じがしますよね。
できれば変にやたら高いやつ、6万円ぐらいするやつでPDFを扱えるやつじゃないとダメですよね。
そういう感じがしますよね。
やっぱり月の住人としても。
で、同じことだと僕は思うんですよね。
ここのベースに、一番ベースのところにあるのはやっぱりその、
ソーケリプスコンプレックス化の世界。
つまりPSポジションましぐらな感じのする世界。
だってかぐや姫って割とそうじゃないですか。
良いものと悪いものを分けて、良いものだけがあの沖縄と三人の生活の中にあって、
中でも抽出された徹底的な良いものだけは全部月の上にあるわけですよね。
で、悪いものは全部排除されていて、竹取の沖縄の家の外にあるわけですよね。
まあそこに旧婚者とかがみんないるわけですよね。
悪いものはみんな外にあるわけですよ。
あれがひっくり返ってしまうと、良いものと悪いものってもともとないわけですから、
価値的に中立なんてとても無理ですよね、私たちには。
だって私たちは明らかにカブドムシの肩を持ち、ゴキブリを蔑むじゃないですか。
そういうふうに僕たちは考えるようになっちゃっているじゃないですか。
だから良いもの、だから不思議なんだけど、良いもの良いもの良いものっていうふうに良いものばかり集めていくと、
そこに生きたものの世界はなくなって排除されていって、死の世界が出現するという。
死の世界って三次元的にはめちゃくちゃ良い世界ですから。
変化がしないから。変化を嫌うんですよ。
だから四次元的世界っていうのはダメなんだよ。
四次元的世界っていうのは人が生きていて老いるわけでしょ。老いて腐るわけでしょ。
その変化も許せないわけじゃないですか。
自分が伝えたものが変質し誤解され炎上するわけじゃないですか。
昨日の炎上案件もそうでしたけれども。
変化というものが、動きというものがすべてをダメにしていくっていう恐怖に耐えられないから脅迫症というものは出てくるんだと思うんですよ。
とにかく変化させない。
変化どうしてもするっていうなら全く同じ事態を繰り返し繰り返し、良い事態だけを出現させたいっていうことですよね。
何かが無駄になるとか、何かをメンテナンス。
メンテナンスはいいんでしょうけど、何かがダメになった後でそれを取り戻すとか。
そういうのが許せないわけですよ。
だから地球の運行に関する誤解があるわけですよ。
惑星の運行っていうのは全く同じところを繰り返し繰り返し回ってるような誤解があるわけですよ。
実際にはそうはいかないから、ウルウドシとか。
多分あれはね、結構完璧自由な人にとっては屈辱的だと思うんですよ。
だってウルウドシってすごいわざとらしいじゃないですか。
4年に1回だけ1日増やすとかね。
すごいご都合主義。
でも自然ってそういうもんじゃないですか。
完璧に計画されてるわけでも何でもないから。
しかも実はウルウ病もあるとか。
地球は本当は綺麗な円じゃなくて楕円であるとかね。
多分ね、許せない人からすると全部許せないと思うんですよね。
そこのところの感覚に、私はやっぱり生きてない世界っていうものを愛好する不思議な人間の傾向っていうのが、
特にこの無機質な世界みたいなものに感じられなくはないんですよね。
そんなもんだから、それ作り出したの誰かっていうと、結構完璧に家事をやってたお母さんとか、そういう人だったりするわけですよ。
この話が鈴木智美さんの接触障害に。
接触障害ってまさにそうなんですよ。
攻撃性と完璧主義の関係
やっぱり性の、松木さん感じですかね、いやらしさとか意地汚さとかを削っていきたいって感じがあるわけですよ。
モリモリ食べて、割といい感じの体験になりますみたいな。
それは許せないわけですよね。
もうなんかもっともっと痩せていて、できればアバラは見えるぐらいでないと美しくないわけですよ。
欲望がね、愛という欲望が意地汚くはみ出しているような感じで、しかもそれが何か出すところでいっぱい出すわけじゃないですか。
それが全部嫌なんだと。
できれば水だけ飲んで水だけ出すみたいな。
それでももうなんか色がないものを出すみたいなね。
それが多分攻撃ってことになってるんだろうなという感じがするんですね。
だからこれは山崎隆さんとのイベントで、彼がおっしゃっていた、昨日も言いましたけど、
脅迫症というのは攻撃性の現れだと。
でもあれは私はどう考えたって、本によってはチェックリストなんて本があって、
脅迫症がそのまま本になりましたみたいな本もなかないわけですよ。
これは攻撃性の現れなのかと。
でもですね、完璧に舵をやる母親って出てくるんですよね。
3ヶ月チャレンジとかでも全身となっていた、全身となってたわけじゃないけど、
私が昔やっていたようなタスク管理の相談室ですみたいな感じで相談を受けると、
家庭のダイナミクス
舵を完璧にやりたいみたいなのはそのご相談を受けるわけですよね。
特に夫がいる場合には、これは夫や子供のために、つまり家族のために、
対して家政でもいない私は完璧にやりたいんだとおっしゃるんだけど、
鈴木智美さんが完璧な舵をやることで夫を攻撃しているっていう、
ああいう力動的な観点というもの。
だからこれはカスタマイズなんだと僕は思うんですよね。
常に必ずしも舵をする、掃除をきちんとやる、完璧に近いミニマリズムは極端だとしても、
完璧に近い形で超整理法とかでもいいんですけど、書類は整理するし、
引き出しにもできれば透明なラベルを貼って、どこに何があるか完璧に把握できている。
ここに攻撃性は見えますよね、見えるといえば。
ないですよ、そこにエビデンスとかがあるわけじゃないんです。
そしてみんなも同じなわけでもないから、エビデンスがあるはずがないんですよ。
私をずっとよく聞いていると、
いやそれは、倉園慶三さんのGood Vibesでいうところの防御ですよねってことになるわけですよ。
私をこれ以上攻められてたまるかと言っているように聞こえるわけですよ。
お前稼ぎもないくせにいかにもできないのかっていう攻撃を想定して、それに対する防衛をしている。
倉園さんが言うところの攻撃や最大の防御。
つまり防御するというのは攻撃したいという気持ちの表れであり、
それはどうしてかというと攻撃されているという気持ちの表れであり、
そこに罪悪感があるはずでってことになっているわけですよ。
だから鈴木敏さんは恥を完璧にお母さんはすることで、
ご家族に復讐をしたいんだという話になるわけですよ。
そこでお母さん泣くみたいなね。
つまりすっごいそこには思いがあるわけですよね。
実はおじいちゃんの話が出てくる。
だからかぐえ姫コンプレックスが出てくるんだけど。
おじいちゃんに攻撃したかったわけですよね。
ということはおじいちゃんに攻撃されてたってことですよね。
お前だらしないんだしみたいなことを言われていた。
それが養父母とかだったりするともう、
あからさまですよね。
けっちりやってこいつらに二度と口出しさせないと。
もうなんかこうお前らの片付けのなってなさを、
この私の完璧な片付けぶりを見せつけることで、
お前らに強い劣等感を抱かせて、
いやいや私別にそんな大したことやってないからとかって言って、
やりたいわけですよ。
で、こうであるとは限らないんですよしかし。
みんながみんなライフハックやってる人が
これを意識してるとは限らないんですよ。
だから一人一人の話を聞く以外に、
一般論としての掃除ってあると思うんですよ。
掃除の仕方って。
だけど動員は動機付け、欲動でいいと思う。
欲求としては全然違うわけですよね。
片付けたいという気持ち一つとっても。
実際のところそれは夫と子供のこのだらしない夫と子供に、
私の完璧ぶりを見せつけてやると。
でもそれは本当は自分を不思議だなく罵った、
あのママハハゲの復讐だったりするんですよ。
本人も知らないところで。
んなもんだから片付けたくなくなっちゃうんですよね。
自己防衛と行動
場合によっては。
だって子供可愛いし、別に子供攻撃したくないと思えば、
つまりそんなことどうでもよくなるわけですよね。
だから片付けられません。
ってなった時に困るじゃないですか。
本人も全然そんな知りもしないところの気持ちがあるわけで、
片付けられないのが問題なんだよって言ってるのかもしれないけど、
実は片付けないということによって攻撃せずに住んでいて、
可愛いから片付けてないのかもしれないんですよ。
そんなことはわからないんですよね。
エビデンスどこにあるんだって話をここに持ち込むと、
よりわけわかんなくなっていくんですよ。
でも私はこれとほとんど、こんな通りじゃないけど、
だから鈴木トウミさんの読んで非常に感銘を受けたんですよ。
いや人間ってのは、
一人一人が全然違うけれどもそっくりのことってあるんだなっていう、
同じじゃないですよ。
でも私はやっぱりこういう、
これに限りなく酷似した話、
ギリッギリ6ヶ月の最後の方でそこに行き着けたから良かったんですけどね。
僕はお客さんが集結されたんで、
また一枠失った面もあるんですけど、
そういう対象喪失もあるんですけど、
やっぱりこれとほとんど同じ話があるんですよね。
すっごい綺麗にするってことによる攻撃。
あるじゃないですか、絶対に。
昔の漫画とかに出てきた過剰な優等生みたいな、
学級委員。
学級委員だって僕実は一度も見たことがないんだけど、
我々の世代のうちの学校では学級委員って言わなかったんですよね。
プラスリーダーみたいな名前だったんですよ。
同じことなんですけど結局。
通帳とかいう言葉はなかったんですよね。
そういう本当にこれもスティグマなのか、
でもしょうがないよな、本当だったんで。
きちっと髪揃えた女の子で、ものすごい厳しい子で、
私なんか何回殴られたかわかんないぐらい。
私はなよなよっとした男の子だから、
すぐ女の子に引っ張られるわけですよね。
あの時代そういうのが別に普通に許されていたんで、
泣かされるってことはほぼなかったんだけど、
要するにきちっとしろって言われるわけですよ。
きちっとしろと。
きちっとするということは、
もうそれ自体が攻撃になり得るわけです。
だって男子なんてね、昭和の60年、昭和59年ぐらいの男子なんていうのは、
もう本当に机の奥にアンパンと牛乳入れといて腐るみたいな、
そういうアホなやつばっかりだったんだから、
もう存在そのものが攻撃的であり得たわけですよね。
もうなんかその女の子はそうだったけど、
教科書に線を引くときに定規を絶対使うっていう。
しかもなんか印刷したのかそれっていうぐらいきちっと引けるみたいな。
で、かたや僕の教科書とかも、
なんか何がついてるかわかんないような教科書。
僕がそうでしたから。
他は押して知るべしなわけですよ。
そういうことになってくると、
攻撃ってできるわけですよ。
きちんとしてることそのものによって攻撃ができる。
なんならテストで常に100点であるってことは、
すでに攻撃的なわけですよ。
テストがあの種のテストでどうやればそうなるのかわかんないけど、
なんか10点とか取る子も普通にいるわけじゃないですか。
いや、それなんかこう、
1、2、3って書いておけば、
少なくとも30点は取れるテストなんだけど。
漢字で1、2、3ね。
10点ってみたいな。
しかも別にその、あれなんですよね。
そういうことがまるでできないって感じの子ではないんだけど、
そうなってしまうって子もいるわけですよね。
そういう子はもう容赦なく攻撃されるわけですよね。
昔の学校、容赦ないんで。
女の先生とかも、
何ふざけてんだみたいなことを言って、
棒で殴るみたいなね。
そういうことが平気で行われてたんで、
わからさまな攻撃だったんだけど、
要するにそういう攻撃もあるわけですよね。
これをすごく洗練させるわけですよ。
だからキッチンに全てラベルが付いてますみたいな形で攻撃できるわけですよ。
子供さら置き間違えるじゃないですか。
置き間違えたことに対して、
例えば怒鳴らなくたってですね、
無言で元に戻すとか。
十分攻撃的な態度によってはですけど、
なり得ますよね。
でもそれをしたくないから片付けられないんですっていう気持ちになっている人がいたとして、
しかもその種の人の心の持ちっていうのは十分固いんで、
たとえ慈しむにしてもやや固めだったりするわけですよ。
だから片付けられなくなるみたいな。
実はそれは自分の攻撃性というものに対するセーブだったりするんだけど、
セーブしようとすると今度片付ける意欲そのものがセーブされてしまうってことは起きうるんですよ普通に。
起きえてたんですよ。私の知る限り。
証拠はないんですよ。
だからわからないわけですよ。
行動によって価値が上がるか下がるかは上がりも下がりもしないんだけど、わからないわけですよ。
本人にもわかってはいないんですよ。
もしかすると誰にもわからないのかもしれないんですよ。
そんなもんだから事前に三ヶ月チャレンジ、この件は申し訳ないと思うんですけど、
事前に何が起こるのかをはっきりさせることはできないし、はっきりも何も道を示すことすらできないし、
仮説を立てるって言ったって、変な仮説を立てる気がそもそも私の方にも起こらないですよね。
だって想像もできないような話が出てくるんで。
想像もできないような話が出てきた時にでも、やっぱりそれに合わせて動いていかなきゃならないわけですよ。
話を非常に単純化するから、ついついパワハラなんですって言われた時にそれを信じるみたいな単純な話をしてるように聞こえるかもしれませんが、
話は実はそんなに単純ではないんですよ、具体的に伺った時には。
いや実はおばあさんは、お母さんは養子でみたいな話になってくるわけですよ。
しかもそれが本当だという証拠はないわけですよ、僕は別に戸籍見せていただくわけじゃないから。
それはその人の空想なのかもしれない。
でもその空想がその人の現在の行動に明らかに相当結びつきそうであればそれは空想ではもうないんですよね。
真的現実なんですよ。
でもそれは真的現実なんだから、いやあんた騙されてるんだよと言われれば、それはそうなのかもしれないんですよ。
少なくとも騙されてはいないんだけどその場合は。
しかしそれが事実そのものを語っているわけではないと言われれば、それはそれでそうなんですよ。
でもそれはその人の肩をとりあえず全力で持っておくしか他に取れるべきオプションがそもそもないはずだと僕は思うんですよね。
だからその人の肩を持たせても他の事実が出てこない以上そうする。
ただ私の心の中でそうでない可能性を空想するのであればその空想そのものを否定する理由もない。
空想ですけどそれはあくまでも。
いやそうじゃない可能性も頭をよぎってしまう。
よぎんなかったらもう丸々ただ信じます。
でもよぎってしまったらそれを打ち消す理由はなくなる気がします。
だからその空想はその空想でしょうがないから保持しておく。
まあ忘れてしまいますけどね。
心を柔らかくする重要性
ただそれがですねしばらく経ってからそれこそ3ヶ月ぐらい経ってから
そういえばこの話聞いた時私はこういう疑いを抱いたっていうのをなぜかそのタイミングでは口にできたりするんですよ。
そうするといやいやって言われてしばらくしてそういえばねっていう話が始まったりするんですよ。
でこの時に出てくる事実はこの両方の矛盾を接合できるようなっていうか矛盾を何とか解消し得る新しい話だったりするんですね。
こういう時にそういう話を思い出すためにあるいはナラティブするためにかな。
思い出すだけではないんで。
この話は一見矛盾してるますが実は矛盾しないように語ることができますみたいに語るために心が柔らかくなってないとならないってことがあって。
でその心を柔らかくするためにここ3ヶ月が必要でしたってことが現実にはあって。
でこれを心を柔らかくするために柔らかくすることを目標に置きましょうとか。
心を柔らかくする仮説とかを持ってみたところでだいたい無駄でどうすりゃ心柔らかくなるんですかって。
心は物質じゃないんで固くなったり柔らかくなったりはしないんですよ決して。
これはあくまでメタファーなんですよ。
柔らかいというのは固くないというのは要するに長時間のルールがルールとしてはあるんだけど。
緩み売るとか例外が認められ売るとか言った話でしかないですし。
出し入れができると。
つまりそういうことは私は受け付けませんっていうことが。
まあでも受け付けてもいいかなと思うと。
例えばなんですけどどいたけおさんがある方にですね。
いや私何時間かけてここ来てると思ってるんですかと。
時間とお金の無駄ですよと。
何にもどい先生に向かってですよね。
何にも目標を立てずに何にも治療計画もなくて。
よくなるのかどうかも分かりませんって平気で言うけど。
時間とお金の私は今日はじゃあだったら今日は何をここで得たのかと。
先生に話をして話聞いてもらったけどそんだけじゃんと。
よく時々Xで言ってますよね。
カウンセラー話聞くだけなのかと。
でもそれでいろいろできるみたいなことを書かれてるんだけど。
いろいろできるならそのいろいろについて書いてほしいなと思う。
僕はここ話聞くだけって言っていいと思うんですよね。
そうXで言っちゃうと営業的な問題があるのかもしれないし。
農業者に対する営業妨害になっちゃうからっていうのもあるのかもしれないけど。
いやでもだって話聞くだけにしか見えないっていうケースはいっぱいあるはずで。
逆を批判されてるわけじゃないですか世の中では。
批判されて叱るべきだと僕も思いますけど。
一発で劇的に。
遠畑海人さんもありましたよね。
農業者で。
劇的に変わるわよ。
一回で。
だからそれに対する批判をされるってことは、
劇的には変わらないってことでしょ。
一歩間違うと何も変わらないってことじゃないですか。
でもそこを言っていくのが価値みたいなところあると思うんですよ。
よく考えてみるとですよね。
劇的に変わりたいかっていう。
カフカの変身じゃあるまいし朝起きたら虫になってましたね。
劇的に変わってるけどいいのかそれでっていう感じですよね。
やばくないですか。
劇的に変わるっていうのをよく考えてみると。
良かったからと言って、
良い変化だからと言って、
劇的に変わって大丈夫なのって感じがするじゃないですか。
私は絶対やめてほしいと思いますよね。
うちの娘が。
だってさ、
なんとかこう、
それこそ自己分析セラピーとか1回受けにうちの娘が行きました。
劇的に変わりました。
絶対やめてほしいですよね。
僕なら思います。
だから問題なのは、
劇的に変わるのが本当か嘘か、
エビデンスがあるかないかじゃないんですよ。
私は、
劇的に変わりたくはないと人は思うんですよね。
だってそれは危ないですからね。
元に戻せるのかって話もあるし、
元に戻せたって嫌じゃないですか。
いや劇的に変わりました。
でも望まないって言うんで、
またじゃあ自己分析的セラピストのところに行ったら、
元に戻りました。
なんだそりゃって感じじゃないですか。
危ないこと好めないですよね。
だから私は、
3日間のプログラムであろうと、
30日のプログラムであろうと、
劇的に人を変えてほしくないと思うし、
私だったら絶対劇的に変わるのは嫌ですよね。
ごめんごめん、
日常生活の小さな成長
30日ぐらいで、
そんなに変わってたまるもんかと思いますね。
英語が喋りたくて仕方がなかった時代が留学中ありましたけど、
30日でペラペラになるっていうのは事実だったって嫌ですね、私だったら。
それは何かが明らかに変わるんですから。
何にも変わらないんだったらそんなこと起きないわけですから、
タドタドしくでもいいんですよ、やっぱり。
これがだからよく打つポジションにおける、
なんていうんだろう、
煩悩とか嫌いなんですよね。
一昨日かな、昨日かな、そういう話をしたんで、
これもディスカッションみたいになってしまって、
極端に言うとPSポジションでの、
ほとんど言い争いでしかないみたいになっちゃうんですけど、
でも、やっぱり僕は、
なんていうのかな、
しょうもないなって感じってすごい、
これはですね、通じるとは思わないんですよね。
なんかこう、私の部屋でも、
妻がですね、庭とかでいいや、
庭もいい加減綺麗にしようよと。
わかるんですよ。
それは盲々だしね。
だけど最近寒かったり暑かったりするじゃないですか。
寒い時は庭に出たくないし、
暑くなると悟りとかしたくないし、
すっげー凡庸なこと言ってますよ。
奥さん怒りますよね。
奥さん怒って、
だったらお前やれよとかって言うじゃないですか。
しょうもないですよね。
めっちゃダメですよね。
でも、歴史的に変わりたいか。
果たして本当に、庭きちっとしたいか。
庭きちっとなってんのはいいですよ。
誰かがやってくれるんなら、
ぜひ庭はきちっとしたい。
でも庭は草も棒なんですよ。
で、私はただ話を聞いたりして、
で、何かいい方法、
心が堅いって言うんなら柔らかくする、
何かこう巣につけるみたいなね。
そういう具体的なものがあるならば、
そういう話はしたい。
でも私は何も考えつかない。
私の頭では。
これでサンチャレに一枠用意したところで
入られるのかなって思いますけどね。
本当だから残念なんですよ。
この残念な自分っていうものが自分なんですよ。
月の上の住人じゃないんですよ。
このしょうもなく草ぼうぼうで、
奥さんに文句を言われて、
で、世の中では心を奥さんに共感して
受け止めましょうって言われてるけど、
そういうことはできずに、
お前やれよ、
いや、そんなにやりたいんだったらさ、
やって、みたいなことを言っちゃう。
そして喧嘩になり、後で謝る。
この残念な感じがいいんですよ。
劇的でもよくも何もない感じ。
だって土居武さんも言ったんですよ。
この人に。
一体私は何を得たんだと。
なんかもっと気の利いたことが言えたら
土居さんだって言いそうじゃないですか。
でも土居さんが言ったことは、
まあ少し損したっていいじゃないですか。
これ全然カウンセラーとしたら
ダメなセリフじゃないですか。
あれはカウンセラーの回では
絶対巨人なんですけど、
甘えのコンセプトみたいなものを
新しい概念として精神分析のページに
付けられることの人なんですけど、
彼が言ったことといったら、
いやでも少しぐらい損したっていいじゃん。
何それって感じじゃないですか。
相手の人が2時間ぐらいかけてきてるんだとすると、
また来週も来いとか、
明日も来いとか言うわけですよ。
それで言うことといったら、
少しぐらい損したっていいじゃないですか。
このめっちゃ無責任な、
しかしこれは実は、
実はこれって、
これでは相手の笑いを取ったって話なんですけど、
これって、
いや俺に任せとけよっていう傲慢さがここにあるんですよ。
と土井武夫さん書いてたけど、
その通りだと思うんですよね。
これを言うってことは見通しがあるってこと。
あんたには分かんないよ。
俺には分かってるんだよってこと。
これはめっちゃ悪いセリフです。
で、これを言っちゃうんですよね。
だってそうやって詰められるから
しょうがなく言っちゃうんですよ。
この絶対後で土井さんも、
残念なカウンセリングだよな、
これって思うんですよ。
これがいいんですよ。
僕は思うんですよね、やっぱりね。
このダメダメぶりが大事なんですよ。
人間のやることには限りがあるんですよ、やっぱり。
そんなに鮮やかでもなければ、
大したことはないんですよ。
しょうもないんですよ。
このしょうもなさを早く認められた人が
巨人なんですよ。
変な話なんですけれども。
やっぱり月の上には進めないんですよ。
生きていくってことはしょうもないんですよ。
しかもそれは泥臭いとか言う言葉ですらないんですよ。
格好をつかないんですよ、それほども。
もう本当に煩悩なんですよね。
つまらなくて煩悩でさまつて退屈で、
それが悲しいんですよ、人間としては。
せっかくなんかもっとできそうなのに、
こんなんなのかと。
悲しいっていうこと、悲しむってのは結局、
この話もして、
して僕も気の利いてない話だと思ったんだけど、
でも悲しいってのは悲しいだけじゃないですか。
悲しいからどうこうとかいうのはないんですよね。
悲しいから泣くとも限んないし。
悲しいってのはほんとただ悲しいんですよね。
ここにはだからつまりアンビバレントで
どっちつかずなものがあるんですよね。
悲しいってのはポジティブではないですよね。
でも悲しんで終わるという意味では、
いささかポジティブですよね。
どん底に突き落とされたとか、
生きてはいられないとか、
そういう劇的なものはないんだと思うんですよね。
でも前向きとは少しも言えない。
要するに残念だ、しょぼいって感じ。
昔の私の感じで言うと、
昼にテレビをつけて、
一生懸命勉強するとかね、
スポーツに打ち込むとか言うじゃないですか。
僕は何にもしないですよね。
ただぼーっと昼から、
しかも自分が見てても面白くなんともないような
昼のメロドラマみたいな。
中学校2年とかですからね、
メロドラマが楽しいわけないですよ。
時々出てくるちょっと一瞬だけのセックスシーンとかを見て、
異様に興奮するとか、
そういうしょうもない中学2年生。
でも僕はあれでよかったと
つくづく思うんですけれども、
勉強とかに打ち込めず、
部活とかにも行ってなくて、
ああいうものが今の私を支えているとしか、
ある意味3ヶ月チャレンジとかね。
全然クオリティーの高くない
ライフオブクオリティーが
めっちゃ低い感じのあれが
需要できるかどうかが問題なのであって、
だって考えるにあったら
めちゃくちゃ恵まれてるじゃないですか。
もうめちゃくちゃ大変な目にあってる
14歳とかもいるのに、
そういうしょうもないソファでしょうもなく、
でもそれがかえって悲しいって人も
いらっしゃいますよね。
中途半端な生き方の重要性
世の中では本当に
大変な目にあってる人もいるのに、
自分は恵まれてるのに
こんな時間の使い方をしてると。
そういうどうしようもない
救いようのない感じっていうものが、
そのまんま受け入れていいものなんだって
思えるかどうかなんだろうなと
思うんですよね。
でも、
例えばそのまんまずっと引きこもるんではなくて、
なんかこう仕事はするとかね。
その、
いかにも中途半端な感じ。
つまり、
いいものも悪いものも同じものだってのは
中途半端になるしかないですよね。
いいもの、
悪いものをスプリットオフして
白と黒にパチッと分けると、
そうして月面の世界に住むと
かぐや姫になれて、
で、死んじゃうんですよ。
だから生きていくってことは、
いいものと悪いものが混ざっちゃっていて、
いかにも中途半端で、
いかにも生ぬるくて、
いかにもしょうもない感じになるんだけど、
実はそれが一番いいものなんだっていうことに、
やっぱり気づくことってことになるんですかね。
これが3ヶ月で気づくための、
あるいは気づいていただくためのチャレンジ、
っていうことで3ヶ月チャレンジなのかな。