コミュニティの整備
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1169回をお送りします。
4月16日水曜日、7時18分です。
1169、あまり意味のある数字ではないんですけど、でも今日はこういうことをしゃべっている場合ではないです。
ちょっと短めに切り上げなければならなくてですね。
さっさと本題に入ろうと思います。
3ヶ月チャレンジの第10期は、私の勝手な理想を言えば、あと2名で2枠が埋まるとすごい仕事をしているぞ感が、私の中で究極になって、それはそれで嬉しいんだけど、
今ぐらいがちょうどいいとも言えなくもないような気もしていて。
つまり私のキャパシティ的に、キャパシティというのは能力を指す気がこの場合しますが、限界かなみたいなところもなくはなくて、
まあ、わかんないですけどね、そういう感じのところなんですが、
もう一つなんとかですね、こう、なんて言えばいいんですかね。
情報交換だけする場みたいなものが欲しいなとはちょっと思っていて、それを用意しようと思っているんですけど、
10期ちょうどに間に合うかどうかは定かではない。
例のほら、例のっていうか、これを聞いている方はご存知かと思うんですけど、
5月にJ松崎さんが帰国して、たぶん5月はすごい慌ただしくなるだろうなと連想されているんですね。
珍しくですね、100日チャレンジに間を空けるんですよ。
4月で一旦10期終了するんですが、11期は6月からということに、つまり5月がすっぽり空いてるんですが、
それは彼が日本にいるからでして、たぶんこの間は彼の半分も忙しくはないんですけどね。
あれ忙しいんですよ。私はアメリカ留学中ですね。
もう3週間とかで、なんかいろいろできそうに思っちゃうんですけど、
日本にいる間は、もう本当にですね、不眠不休で人と会い続けているのに、
全然日数足りないみたいなことに、そこにしかも時差ボケが絡むんですよね。
本当にあれはね厳しいです。なんか夢のような、なんていうんですかね、夢のように過ぎ去っていくっていうのは、
本当にそういう感じで、なんかこうアメリカに帰ってきてみると、
あーなんか日本にいた夢を昨日見たわみたいなノリになっちゃってるんですよね。
意識って本当にそんなもんですね。
てなわけでして、たぶん彼に会わせて忙しいので、どうかな、最悪ってことは別に悪くはないんだけど、
このコミュニティを用意したいと思っておりますが、
まずどういう募集要項にするのかって話もなくはないんですよね。
一度は私と1回でいいからワンオンセッションした人に限るみたいなのは作りたいと思っているんですよ。
なんか1回もワンオンセッションしないけど、いきなり割と安く参加できるっていうような形は、
あまり望ましくないかなというふうに思っております。
でもちょっとね、まだ手が回ってないのに話だけ進めるのも、
抑うつと心のメカニズム
公開の場ではどうかと思うので本題に入りますが、
今僕、欲打つというものを一生懸命読んでいるわけですね。
珍しくですね、藤山さんでも山崎さんでも松木さんでも名字だけでもわかると思うので名前言いませんが、
鈴木智美さんという方の、
たぶん彼女はすごく松木さんと近しい関係にあるんだろうと思うんですよね。
なんか論の運びが同じですからね、実質的に。
安心して読めると言いますか、それはまあ、
お前文科生でもないのにそれはなんだって感じなんですけど、
結局本って文科生末端みたいな存在だなって思う時があります。
やっぱりですね、藤山さんと松木さんは別に対立的なことは何も言ってなくて、
ほとんど同じようなこと、ほぼ同じような意見だと思うんですけど、
だから僕、藤山さんと松木さんの意見が合ってないところにすごい興味は湧いちゃうんですけどね。
でも、藤山さんの流れというのと松木さんの流れはやっぱり違って、
鈴木智一さんの精神分析の臨床例は、松木さんの運びと同じように見えるんですよね。
趣旨、ここで変えることは違うな、みたいなのがあるんですけど、
私には鈴木さんの方が柔軟に見えるんですが、でも流れはそっくりなんですよね。
これは一体何なんだろうって思いますけれども、
解釈の仕方もよく似てはいないんですけど、
でも理解しやすいっていう感じがあるんですよね。
私はやっぱり松木さんのロジックしか根本的に精神分析は知らないので、
だから結局松木さんのロジックしかわかんないんですよね。
その流れは究極的にはそういうことになると思うんですよ。
自分はそういうロジックで運んでるつもりは全くないんですけど、
読む限りでは一番わかりやすい感じがします。
それで、欲打つというのの三つまず分けている感じなんですよ。
一番重篤としているのが精神病性を打つということで、
これはもう言ってみればこれがすごい難しいんですよね。
欲打つポジションだから、打つっていうのは基本欲打つポジションなんですよ。
つまり自責の念というものが持てるってことなんですね。
自責って自分の責任って書きますよね。
単に罪悪感を多罰的にならないんですよ。
この多罰っていうのは我々の物の見方なんですよ。
わかります?
多罰というのは心がある非人間しか言えないことなんですよ。
赤ちゃんにとって多罰も自罰もないわけですよ。
自他の区別がほぼないわけですから。
つまり心がないというか、
心というのの一番終局的機能というか最終的機能は、
ここが読み取りにくいところなんですけど、臨床の話で。
心の何といったって絶対に譲れない機能は、
心の内と心の外は別だってことじゃないですか。
心の内っていうのは自分の中ってことなんだけど、
ここで何が起ころうと現実界には影響しないよと。
だから私が別に心の中で美少女にいくらセクハラしても、
逮捕はされないしバッシングもされないわけですよ。
ですよね。
これが反対になったら大変なことになりますよね。
だから脅迫症っていう問題が出てくるわけですよね。
心の中でガスコンロの火消してもダメじゃないですか。
現実のガスコンロの火が消えてなかったら。
この区別がつくってことが、
その人が精神病でないってことなんですよね。
基本的に。
だから精神病性を打つって、
めちゃくちゃ奥が深い言葉だなって思うんですよ。
打つっていうのは、
自責の念っていうものが対象を喪失したってことが、
つまり自分は大事、
自分は大事なものを失って、
それが心の中のなんていうのかな、
心の中のまだ重要な存在はあるから、
一致できてませんみたいな。
一致できてないってことは、
心の内と外の一致を言ってるわけですよね。
最愛の人を失くしました。
でも最愛の人は心の中ではまだ、
心には生きているんですっていうか、
心には残ってるんですって、
一致してないってことを知ってるわけじゃないですか。
知ってるからこそ、
打つなわけですよ。
それが自分のせいだとなってくると、
もう本当にいたたまれないんだけど、
それは自分と他人、
つまり現実に影響を及ぼしている存在の、
原因が自分にあるのか他者にあるのかが、
分かってるってことですよね。
だから分かっているということは、
区別がついているということで、
区別がついているということは、
精神病ではないということなのはずなのに、
精神病性を打つという言葉があるということは、
一体これは何なんだって感じになるわけですよね。
心の状態の理解
これやっぱり対象喪失っていうことになるんですけど、
場合によってはそれが、
多くの、少なからぬ場合、
当然人なんですけれども、
大事な人とかね、
大事な、
例えばなんですけど、
なんだろうな、こういうケース、
精神病にはならないような気がするんですけどね、
もうすぐ投資で100億儲かって、
一生遊んで暮らせると思っていたのに、
その100億が一瞬にして、
トランプ関税とかのせいで消えた、
っていう対象喪失のショックとかで、
人はどのくらい何かロスみたいになるんだろうな、
なると思いますよ。
なると思うんですけど、
その、この対象って、
実態は何もないじゃないですか。
儲かる可能性というものを失ったみたいな感じですよね。
あと一歩だったみたいな。
あれですよ、あの、
昨日大谷翔平さんが打ってましたけど、
これは行ったみたいな感じなんだけど、
実はライトフライみたいなね、
あと一歩ってやつですよね。
あれはでも、要するにライトフライですから、
ホームランだったはずだとかいうのは、
心の中で起きた出来事ですからね。
そういう可能性を失ったみたいな時の、
人のショックの受け方ってどうなんだろうな、
って考えながら、
昨日精神病性打つについて読んでいたわけですね。
で、ここには、もし精神病性打つと、
精神病ってのはやっぱり、
ある種僕は最近はですね、
自己愛性パーソナリティ障害って言葉があるけど、
何でもそうだな、
抑鬱性パーソナリティ障害もそうだけど、
パーソナリティ障害ってすごいこう、
縦のものを横にしてる感じなんですよね。
意味わかりにくいかと思うんですけど、
要するに、本来縦で見るべきですよね。
重篤になりすぎると、
心がもう現実と心の中というものの、
区別ができなくなるレベル。
区別はできているんだけれども、
あまりにも排出というか、
結局排出っていうのはメタ波なんで、
心の中から悲しさとか、
怒りとか苦しみはいらないから、
捨てる心の外に置くんだみたいな、
心の外には置けるはずがないじゃないですか。
怒りってのは、
その人の心の中の出来事であって、
赤ちゃんとかはそれをやるわけですよね。
心というものがまだ形成しきってないから、
怒りというのは外に出せるとでも思ってて、
そしておしっこするとかね、
そういうことをするわけですよ。
だから、怒りがおしっこの排出になってくるとか、
そういう怒りが、
怒りとはうんこを投げることだとか、
なってくるのは、
要は赤ちゃん水準であり、
精神病水準であり、
現実見当が怪しくなってますよ、
ということなんですよね。
これを怪しくしないために、
リストアップとかするわけでしょ。
だからリストアップっていうのは、
チェックリストみたいなやつね。
ああいうのっていうのは、
山崎孝明さんがイベントでおっしゃってたんですけど、
脅迫っていうのは、
怒りのコントロールをしたいってことだから、
それがライフハック的って、
佐々木さんみたいな人が言うのは、
興味深いっていうふうにお話しされていて、
そっか、
まあそのことは薄々考えてはいたんですけど、
なんかね、
ああいう公的なところで走って言われると、
そっかって思っちゃいますよね。
だから外に出ちゃまずいんだっていう、
心が外に漏れ出ちゃまずいんだ、
抑うつと心の硬化
ちゃんと内側で閉めておかなきゃダメなんだって、
思ってるから、
そういうことになるわけですよね。
夢の中でエッチな夢を見て、
思わず口走ったらすげえ恥ずかしいから、
寝る前には布団を四角に畳むとか、
そういう儀式を開始したりするのは、
これ脅迫的なんですけど、
つまりそれは外に漏れちゃまずいものを、
閉めておかなきゃっていう気持ちが、
そういう閉めるということが、
どんどん儀式化していくわけですよ。
お尻は3回拭くとかね。
そうやって儀式的じゃないですか。
どんどんどんどん儀式化していく。
だから儀式的なものと、
拷問器的なものっていうのが、
絡んでくるわけですよね。
何それって感じがするんですけど、
フロイトの考え方っていうのは、
斬新だなって思うんですよね。
閉めるって言うじゃないですか。
キャッチャーは言うんですよね。
閉まっていこうって言うんですよ。
閉めるっていうのはね、
やっぱりけちくさいわけですよね。
すごく日本の野球の特徴なんですよね。
日本文化って、
やっぱり脅迫的なところがあるんで、
スモールベースボールとか言って、
ちょっとエバってますけど、
すごくミミッチー野球をしてるようにも、
見えるわけですよね。
きっちりするわけですよ。
エラーをしないとか。
できることはちゃんとやるとか。
すごく文化的なものを反映してるんですよね。
それがアメリカの野球に勝つっていうね、
僕はすごいこう、
日本人だから嬉しいけど、
嫌な世の中だよなとも、
思わなくはないわけですよね。
アメリカの野球が縛ってないわけじゃないですよ。
メジャーリーグともなってくると。
ただ、日本ほどきっちりはしてないですね。
いろんな意味でね。
でもあれぐらいでないとね、
あれ遊びですからね。
遊びまで占めたくなるのは、
やっぱりこの国の、
なんだろうな、
リソースが不足してたのかもしれないですよね。
島国だったから。
今そんなことないんだけど、
その癖が抜けないのかもしれないなって感じがしますよね。
なんかこう、
もったいない精神とか、
そういうの大好きじゃないですか。
つまり、
力動的に言うと、
完全に拷問器的な文化なんですよね。
人前で操作をするっていうのは、
非常にやがるわけですよ。
それもやっぱ拷問器的ですよね。
おしっことうんこを、
どこでどう出すかっていうのを、
すごく気にしてる文化圏なんだと、
いう感じな気がします。
なんか口じゃないんですよね。
口八丁みたいな、
だいたい口について、
そんなにいい言葉がないって感じがしますよね。
その割にあの、
大人が小さいみたいな、
やっぱり示す気に対する、
文化的な、
なんていうのかな、
批判、否定もなくはないんですけどね。
この辺のことは、
馬場玲子さんも書いていたような気がしました。
話が盛大にそれてる気がするんだけど、
つまり欲打つ、
精神病性打つっていうのは、
すごく考えさせられます。
ただ、
現象としては、
つまり、
心の内と外の区別がつかなくなっているんだけど、
根本的に自責の念が心の中に、
なんかデンッと居座っていて、
ものすごい私は悪いことをして、
ものすごい悪いんだって思っていて、
自分をほぼ失いかけているのかな。
そんな感じなので、
なんとなく出てくる出来事としては、
もう、
なんて言うんですかね。
罪悪妄想みたいな感じになるのかなって感じがしますよね。
なんかすごい悪いことが起きている。
世の中でっていうのか、
世の中と自分の心の区別がないので、
さながら悪夢をずっと見てる感じですが、
多分、
悪夢の原因は自分にあるっていう感じなんだと思うんですよ。
これが精神病性打つなんだと思うんですよね。
だから大変なんですよ。
やっぱり。
例えば、
それこそあれですね。
ウクライナが侵攻されました。
私が悪いことをしたせいで。
っていう流れに繋がっちゃうんですよね。
心の内と外の区別がないから。
多分そういうようなことが始まってくるという。
あとは、
割と重症の心肌症は当然あるだろうなって感じがするんですよ。
体が悪くなっていく。
私が悪いことをしたせいで。
これは、
子供、
お子さんの中ではこれを言い出す人っていますよね。
私の時代は結構いた気がします。
割と普通にあるじゃないですか。
悪いものを食べちゃったからお腹が悪くなったみたいな。
それってすごい反落的じゃないですか。
これの極端なやつですよね。
これを道徳に回したような。
昨日ちょっと悪いことを口走ったから。
そういうのってあるんですよね。
イギリスのことわざに悪口言ったら口すすげみたいな。
これって完全に具体象徴の世界ですよね。
悪口と口をすすぐって関係ないじゃないですか。
考えるじゃないですか。
それは非常に象徴水準が怪しくなってますよね。
だから内と外の区別がつかなくなる。
心の内というのは具体物が入れないわけですよ。
心なんで。
マトリックスの世界はその逆をやってるんだけど、
心の内に具体物が入ってくるっていうのはとてもおかしいですよね。
私の心の中には本当に売れてるバナナがありますみたいな。
おかしいですよね。
あなたが心の中にいたいっていうのはバナナの表彰であって、
バナナそのものとかはおけないわけですよ、心の中には。
あくまでも現実世界にしかおけないものだから、
現実世界と心がくっついて繋がっていくっていうのは、
大変危険なことを招くと思います。
大変素晴らしい瞬間がもしかして時々あるのかもしれない。
何かの漫画であったな、タイトル忘れましたけど、
愛そのものが見える。愛そのものは見えませんよね。
愛そのものが見えるって言って死んじゃうっていうような話なんですけど、
そういう素晴らしい具体象徴みたいなものが、
ハトってそうなんですけど平和の象徴ね。
で、ずっと精神病性うつの話はできないので、
この次に俗に言ううつ病みたいなのが来るんだ、
みたいなのが下の方には書いてあるんですよね。
僧侶性障害も入ってくるんだけど、僧侶の中の特にうつ気の方ですね。
俗に言う普通にうつ病と言われてるやつです。
難因性うつっていうのも入ってくるんじゃないかなと思うんですけど、
日大変動があるんですよね。
ヘルマヘッセがやっぱり荒野の狼という本の中で、私あれ好きなんで、
ちょいちょいこのポッドキャストで言ってるけど、
あの荒野の狼という主人公にとって午前中にいいことは起きなかった。
あれは完全に難因性のうつですよね。
あれは日大変動リズムでちゃんとDSMとかに書いてあったと思うんですけど、
朝はうつ症状が重いんですよ。
夕方になると柔らぐと。
で、荒野の狼にはちゃんと書いてあるんですよ。
夕方になってようやく気分が良くなってくるのが彼の常だ。
お前はうつなんだよっていうことなんですけどね。
彼は統合主張症でもあるんだけど、
それは何かさもですね、荒野の狼という主人公のロマンティックな雰囲気と、
つまり夕暮れの雰囲気が好きとかそういうことを言いたそうなんだけど、
そうじゃないんですよね、あれは。
日大変動リズムっていう言葉があるんですよ。
で、この図は当然重病ですよね、重篤ですよね。
精神病性うつほどではないのかもしれないけど、
つまり精神病性うつってのはどういうことかというと、
あまりにも現実に失ったものが大きいので、
もう現実というものが心の内に置けないと思っちゃってるということなんですよ。
全部心の外に出たんだけど、
でもそれをやると心の中のものも心の外に出てしまうから、
結局現実というものと心というものが接続されてしまうんです。
そしてさっき言ったような話になってしまう。
うつは精神病水準ではなくて精神病とされてますが、
ここがややこしい。
精神病水準ではなくて、
一応心の内と外というものは分かれているはずなんですね。
だから私が悪いなんですよ。
だけれども悲しみというものを心に置いておくのがあまりにもきついということで、
悲しみを心の外に置いてしまう。
これもできないことですけどね。
ものが心の内に置けないように。
やっぱり感情は心の外には置けないんですよ。
でも置いてしまう。
置いてしまうということをやると、
心が機能できなくなっていくっていうのかな。
心の機能が止まろうとしているわけですね。
置けないわけだから。
本来は悲しむというのがその時の心の機能なんだけど、
それができない。
そんなことはとてもじゃないけど無理だっていう状態。
つまり悲しみを超えてしまっているっていう感じの対象創出なんだと思います。
日本文化の影響
この時に重要なキーワードに変性という言葉が出てくる。
変わるになるですけども、
要するに変質してしまうと。
つまり心がものすごく固くなると。
これが私はやっぱりうつうの型の一つの特徴かなと。
重大なものを失い、
あるいはもはや取り返しがつかないほど取り戻せなくなってしまって、
心が固くなってしまったと。
頑固な感じっていうのを受けるんですよ。
とても多分。
固いっていうのはそういうことですよね。
心の柔軟性みたいな、
包み込む機能みたいなものが特に失われて、
なんで固いのかっていうと、
やっぱりこれは一番最初のもの作業にうまくいってないか、
その機会が十分与えられてない。
もの作業っていうのはあれですね。
例の良いおっぱいを破壊してしまった。
だからシンデレラは気づくべきなんですよ。
ママ母じゃなくてお母さんが厳しくなったんだと気づくべきなんですよ。
良いものと悪いものは同じなんだと気づくべきなんだけど、
これがだからワークスルーなわけですよ。
もの作業なんですね。
自分というのは自分の中にはいい部分も悪い部分もあるんだと。
自分ひたすらシンデレラがいい子なわけじゃないんだと。
泣き喚いたり、そこら辺でうんちしたりするのが自分だったんだということ。
つまりそれって残念なんだけど、
それは自分ですから、
やっぱりその残念さっていうのを引き受けなきゃいけないわけですね。
感情の内外の区別
この中で一番引き受けられない子供にとってのすごいすごい残念なこと。
お母さんは私を愛してないとか、その系ですよね。
お母さんの愛を失う。
そうすると心がすごい固くなる。
なぜならば、私がいい子でなかったから、ここに私が発生してますよね。
私はあるんですよ、もう既に。
だから一番大事な現実見当がついてるわけですよ。
私がいい子でなかったからお母さんの愛を失った。
理屈は通ってますよね。
ただし非常に極端なわけです。
だから私はスーパーいい子になろうになってしまうんですね。
これが心の固さなんですよ。
テストはいつも100点とか、学級委員会の委員長をやるとか。
だいたいでもそういうですね。
だってそんなに子供が頑張るのおかしいんで。
そんな風に子供が頑張ってしまう家というのは、
だいたいにおいて子供の心の固さを火に油を注ぎがちなんですね。
あなた今回99点だったじゃないって言ってめちゃくちゃ叱りつけるとかね。
そういうことをするんですよ。
だから母の愛を失ったと子供が感じるのは最もで、
なんていうのかな。
ここにおいてもうね、心の問題にするというよりやっぱり、
ここで福祉の方が出てきて、これは幼児期虐待でしょうっていうのは、
そりゃそうだよなって私も思います。
これだからいつも言ってますよね、この番組でも。
ジェンダーの問題はソーシャルの問題なのか、
それともパーソナルな、そしてパーソナルということはつまり心の問題ととるべきなのかは、
それはもうその人のどう扱いたいかによると、
私はソーシャルの方にゆっくりというか、
頑張って運動を起こすっていう方向に期待しきれないので、
やっぱり確かに企業はブラックだが、
個人はその中で何とか、
ブラック企業はいつかなくなることは望むが、
ブラック企業をなくす運動をするのが僕の仕事ではない気がするので、
なんかコンプライアンスの話をするよりは、
精神分析の話がしたいのが私の気質なんですね。
ブラック企業がなくなれば、
こういう3ヶ月チャレンジもいらなくなるのかもしれませんが、
その日は少なくとも来年やってきますってことはありえないと思うんですよ。
だからしかもブラックじゃなくたって、
ブラックっぽいグレーとかいろいろあるわけじゃないですか。
グレーも全部ホワイトになりましたってんなら、
それはまた別の展開かもしれませんけど、
そうなるにはあと10年はかかると。
10年後に私60歳過ぎると、
やっぱここまでは今の仕事だよなって感じはしますよね。
だからこれもそうで、
やっぱり子育たしっていうものが形成された以上、
親が100%虐待だけしてたとは考えにくいわけですが、
そうは言ってもやっぱり290点でもビシビシ怒るとか、
うちの母が言っときそういうところあったんですけどね。
心が固くなりますよね、子供はね。
なんか失敗できないみたいになってしまう。
そうすると、私が悪い子だから、
何か現実に厳しさがあるって、
全部私のせいにするという意味で、
さっきの精神病精打つとよく似た現象を生むわけですよ。
抑うつの心理的メカニズム
心の場合、心におけてないのは現実とかではないんですよ。
母の愛がないというこの事実の中でおけないものはですね、
やっぱり怒りなんだと思うんですよね。
悲しみでもあると思うんですけど。
悲しみも怒りもあまりにもでかいんで、
自分の心に置くと、何が起きるかわかったもんじゃない、
あまりにも怒りすぎて、とでもじゃないけど耐えられない、
あまりにも悲しすぎて、全然耐えられないとなった時に、
やっぱり心を固くするんですよね。
非常に超自我的にしてしまう。
私がとにかくすごい良い子になって、
こういう悲しみに二度と味わわないようにしよう、
っていうようなものの失い方。
これがですね、やっぱりすっごい世話を頑張っていた、
ペットがいなくなっちゃったとか、
そういう自責の念でもあり得ると思う。
この次に飼う時はもっともっとちゃんとやろうみたいな、
心が固くなりますよね。
ペットの方にも事情があるからさっていうのがないわけですよ。
そういう柔軟性が許せない。
で、これが自分にしか適用されないという意味で、
ある意味正気なんだけど、
自分にしか適用されてないという意味で、
ナルシシスティックでもあるわけですよ。
おかしいじゃないですか。
ウクライナに進行したのはプーチンであって、
私の力の及ぶところではないわけですよね。
なのに私のせいだって考えるところに、
実は万能感があるんですよね。
その人はそんなにスーパーマンなのかっていう逆の意味でね、
私は全世界を悪くできるっていう、
いや本当ですかって話なんですよね。
つまりこういう問題、
私さえいい子ならば両親は離婚しなかったとかね、
それは無理だろうって話なんだけど、
そこがどうしても譲れないから、
とても周りには頑固に見えるわけですね。
固いわけですよ。
これ多分、鬱というものの、
小屋の狼読むと、
小屋の狼の頑固さというものが、
この種の頑固さというものが、
よくよく描き出されています。
エッセは知ってやって描いているのかどうなのかが、
ちょっと判明しないんですけどね。
で、今日はここまでにしますけど、
ここまでが多分私は本当の意味で、
鬱的というか欲鬱という部分も、
本当はこういうふうに垂直に追っていくべきなんですよ。
ところがですね、
ヒステリーにも欲鬱的な症状が起こるし、
漂白症にも欲鬱的な症状が起こるし、
ナルシズムには当然起きるということで、
欲鬱がいろんな病理現象の中の欲鬱的な状態というものを、
全部欲鬱症と呼ぶようになったんですね。
この辺のことを松木さんは本の中では批判的に書いているように読めます。
私にはね。
専門家じゃないからはっきりしたことは分かんないんですけど、
まあその、好鬱剤っていうのはですね、
私これはアメリカで習いました。
アメリカでは特にそうなんだけど、
はっきり言ってビジネスとしてデカいんですよ。
だから欲鬱症に好鬱剤を与えたくなってしまうんですよね。
みんながみんな悪いとか、
ビジネスと悪どいビジネス主義でいるとかいうわけじゃないんですよ。
みんなは結構善意で、
欲鬱で肌目で見ててもかわいそうだから、
良くしてあげたいというのはあるわけですよ。
薬が効くとなってくると、
その起床がどうなっているのかって、
そんなに細かく見ていかないじゃないですか。
一般的には。
よーくあれを見ると、
えーって感じの話なんだけど、
でもよーくは見ないですよね。
別の気分が吹き飛びますみたいな、
薬理的な広告の方を読みますよね。
あったらいいなみたいな世界になってしまうわけですよ、どうしても。
そりゃそうなりますよね、やっぱり。
リンゴかじっても、はぁんから血出ませんみたいな。
ものに近いものとしての幸福剤を読みたくなるわけですよ。
幸福安薬とか、僕だって飲みたくなりますよ。
今度本売れなかったらどうしよう、
幸福安薬飲んでおこうみたいな。
あれですよね、
心を救う薬もあるじゃないですか。
昔から、
なんとかがんとかね、
丸いってやつね。
だから、そういう風に考えていくと、
しょうがない面もあると思うんですよね。
つまり、この宇宙の起床とは必ずしも関係ない。
宇宙の起床っていうのは重要なのは、
心というものがあって、その人の中では、
現実の県と、特に現実には私というものがいるんだと。
気のある方と、鏡の、
ラカンですよねこれはね、鏡の話なんだけど、
やっぱり世界見てても自分っていうのは見えてこないんですよ。
でも鏡という世界は別なんですよね。
自分がそこにバンと現れるわけですよ。
これが認識できているかいないかって、
非常に大事なポイントですよね。
これと心は何か非常に深い関わりがあると思うんですよ。
だから、童話ではよく鏡の世界とか言っちゃうわけですよね。
鏡の国のアリスもあるけど。
とにかく、この心の中と外は、
全然別の秩序と法則で動いてるわけですよね。
心の中で起きたことは、
心の外には原則としてほぼ影響できないと。
少なくとも物理的にまっしぐらに影響することはないと。
だから自分の考えが、
考えただけで人に読み取られるといった、
電波思考みたいなものっていうのは、
統合失調症の一つの症例診断基準と、
されたりするわけじゃないですか。
心はあるんですよ。
抑鬱の場合には。
だけど心に置いておけない、
特に悲しみをおけない。
怒りになっちゃうとか、
怒りもおけないとか、
空っぽになってしまうとか。
心はあるんだけど空っぽだとか。
これが精神病水準だと、
そもそも心の内と外の不別というもの自体が、
はっきりしないってなるんだけど、
抑鬱の人は決してそうではないわけですよね。
で、この抑鬱という症状、
いっぱい出てくるんで、
必ずしも中核がこれだと決まってはいないわけですね。
ヒステリーなんかが特にいい例だと思うんですけど、
今ヒステリーって言っちゃダメなのかもしれないけど、
ヒステリーは昔は精神障害の用語でしたから、
このヒステリーは非常に抑鬱症を伴うケースが多いわけで、
こっちの抑鬱の方を、
今ヒステリーっていう病態自体を見ないから、
見ないというか、
そういう概念が認められてないですから、
ある意味公式には。
そうすると抑鬱の方を見てしまって、
あなたは抑鬱ですってことになりかねないわけですよね。
そうすると別にそうなのかもしれないんだけど、
そこはもう私には分かんないことですから、
説明するわけじゃないし、
ただヒステリーだった、
かつてはヒステリーとおそらく言われたであろう人に、
抑鬱薬が処方されるということは、
僕は残念ながらと言いたくなりますが、
かなりあるんじゃないかなって気はします。
つまり様々な抑鬱が、
本来抑鬱というのは、
心の中に悲しみをおけないっていう、
そして対象喪失の悲しみをおけないっていう、
ここが非常に大事。
対象喪失というのは、
ペットとか人とかとは限りませんよ。
特に会社に行って、
抑うつ症状の多様性
僕これは多いなって思うんですけど、
会社に行って、
私バリバリ働こうと思っていたのに、
この会社はみんなやる気がないとか、
私の能力が全然足りないとか、
とにかく失うわけですよ。
理念みたいなものね。
これは多いなって思うんですよね。
この理念を失った後で、
私がもっと頑張れば的な人になってしまうと、
すごくヤングケアラっぽさが会社で出たりするじゃないですか。
そういう抑鬱的なものもあると思うんですよね。
本当だったら会社に行って、
私は割と凡庸だったということを、
ただ悲しめばいいんですけど、
これができないんですよね。
人はただ悲しむということができない。
自分に怒りを覚えるとか、
違う感情に変換してしまうわけです。
これは必ずしも抑鬱だけの話ではないんですけれども、
しかもここには必ずソーシャルなものが入ってきますよね。
どっちが悪いんだって話にしがちなんですけど、
そうではないんですよね。
どっちを根本的に見ていきたいかってことであって、
会社が悪いんじゃないの、
それって話とは違うと思うんですよ。
やっぱり悲しいというのは、
そりゃあお母さんが愛してくれなかったんだら、
お母さんが悪いのかもしれないけど、
悲しいというのは、
やっぱり私の問題というか、
私の側の話なんですよ。
悲しいのは悲しいので、
別に母が良くても悪くてもいいじゃないですか。
悲しいで。
これが、こうは言えないんですよ、やっぱり。
あまりにも悲しすぎるので、
悲しいでは済まされないわけですよ。
本質的に私が極悪だったみたいな話にする方が、
実はまだ楽だみたいなことがあったりするんですよ。
特に幼少期だった時代に、
心が形成途上にまだあった時には、
その後心は形成されたのでしょうけれども、
その時にものすごく超自我的に、
やっぱり固くなってしまうと。
固くなになってしまうと。
日本語で言うと固くななんですよね。
硬質に変性するみたいな記述なんですけれども、
鬱病においては。
心が硬質に変性するというようなのを
読んだことがあるんですけど、
日本語で言うと硬くなってことになるんだろうな
って感じがしますよね。
そしてそこには万能感が実際のところあると。
私次第で世の中が良くも悪くもなるみたいな。
でもその私次第で良くなったり悪くなったり
している世の中は、
私の心の世界なんで、
つまりそれはナルシスティックな世界なので、
実は外界には影響を与えていない。
ここで例の、もう終わりにしますけど今日は。
現実の誤解と幻想
あれが出てくるんですよ、ミニコットの。
やあ対象、私はあなたを破壊したっていうね。
つまり対象が失われたからといって、
現実の対象が傷ついたり死んじゃったりはしないし、
逆に蘇ったりもしないんですよ。
フィエスポジションはそうですよね。
蘇らせてしまうんじゃないですか。
あのおかしいじゃないですか。
よくやってますよね。
そんなもうお前みたいな恋人はいらないとか言って。
先日はそれが女性版だったんで驚いたんですけど、
もうあなたとは別れるからって言って、
別れた後に電話するんですよ。
反省したみたいな。
そしたらその男は別の女の子と付き合ってと。
おかしいですよね。
つまり自分が別れるって言ったわけじゃないですか。
現実を万能的に操作しちゃってるわけですよ。
その人は心の中で。
相手を痛めつけても相手はすぐに復活するんですよ。
3次元の世界に生きてるから。
瞬間瞬間なので。
世界は分裂してるから。
妄想分裂ポジションってのはそういう意味だと思うんですよね。
別れたと言ったんだけど、
それは心の中で起きてることだから。
相手はまだ恋人のままなんですよ。
ところが相手に対してその言葉が届いてしまうと、
現実が動いちゃうわけですよね。
そして反省したとか言ってるときには、
もう別の女の子とエッチしてますみたいな。
それはそれで問題だと思うんだけれども、
現実というのは自分のコントロール範囲の外にあるってことを
つい忘れてしまうんですよね。
彼は空想、知覚という名前の空想世界の中に生きているので、
こういうことが往々にして起きるわけです。
ビヨン流に言うと、
眠ってるときに見ている夢が夢と言って、
起きてるときに見ている夢がっていう、
要するにいつも夢見てるわけですよ。