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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
3カードというのを、昨日も話しましたけど、始めました。
一応、私、昨日、記事1本あげました。
本に合わせると2本なんだけど、定額のマガジンとしての記事は1本でして、
ここにできれば、週3くらいは投入していきたいかなと思っています。
週3くらいは何かしら書いているので、それを全部投入するつもりでおりますから、
週3くらいは上がるだろうと。
しごたのあげません。しごたのは無料で出しているものですからね。
しごたのと、タスクシュートクラウドに書いている記事を除いて全てかな、
というふうに今は思っています。
で、月額500円と決めたんですが、この月額の値付けも、
妙するに適当な500という数字にとりあえずしておこうくらいの勢いです。
で、すでにご登録いただいている方が割といらっしゃって大変ありがたいんですけど、
何しろまだ記事が上がっていない段階だったので、本当にありがたいです。
で、この500円なんですが、
今日その話をしたいかなと思っていたんですけども、
昨日ちょうどそういう話を少し耳にして、
なるほどこの件、面白いなと思うように、
時々やっぱり考えないわけにいかないんですよね。
で、私の本なんかもそうなんですが、
1000円しない本も山のようにというか、山のようにはないけど、
ちらほらあるわけですよ。
一体全体この本が数百円で、
3人でやっている定額マガジンが500円というのは、
どういうふうにして決まるのかと思うとですね、
多分経済学ではなんかあるんでしょうけど、
私の頭ではわからないわけですよね。
ただ、こういうことは最近すごく考えるようになったんですが、
およそ普遍的というとあれなんですが、
水平的と言いたいんですけどね、
普遍的な価値に近づいたものは、
安ければ安いほどいいし、
値がつく場合には結局は安くなっていくという、
世の中の法則みたいなものを感じます。
でもこれは当たり前のことであって、
そうでないと困るからなんだと思うんですね。
例えば、箸とかあるじゃないですか。
あれってめちゃくちゃ高いですが、
ほぼタダで使えますよね。
税金かかってるっていう話なんですけど、
つまり公共ってそういうことだと思うんですよね。
みんなが使う価値が高いものは、
基本安くなっていくと思うんです。
水平的な価値が高いものは。
みんなが使うものでないものは、
そしてそれが値がつくならば、
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それは割高になっていくはずなんですよ。
希少価値ってことになっていきますからね。
だから値段が高いほど、
そのものなりサービスなりの価値が高いっていうのって、
奇妙だと思うんですね。
多分そうはなってないと思うんですよ。
実態として。
水とダイヤモンドって時々話題になりますが、
まさにそういうことで、
水の方がダイヤモンドより高かったらやばいですよね。
もはや血で血を洗う世界になってしまうと思うんで、
みんなにとって間違いなく貴重なものは安いはずなんですよ。
だから僕の中では水とダイヤモンドに相当するのが、
まさに本で。
本と私が勝手に出すメルマガネであれば、
当然本の方が安くならなきゃいけないんですよ。
そうでない本を出してちゃダメだと思うんですね。
そうでないものはメルマガネで出しとけよっていう話なんですよ。
つまりダイヤモンドより高い水を出してたんじゃ絶対ダメだと思うんですよ。
もちろんそういう考え方ってありますよね。
何とかの水みたいに言ってやたらめったら高いと。
つまりそれは誰もが買わないじゃないですか。
そしてこの世にそういう水しかなかったらみんな死んじゃうじゃないですか。
だから価値というのはそういうことであって、
カスタマイズされればされるほど値はつり上がっていかなければいけなくて、
カスタマイズされなければされないほど、
つまり水平的に価値が高ければ高いほど値段は下がっていかなきゃいけないんですよね。
だから一番世の中で読む価値があると、
されている本はタダで図書館で借りられることになってるはずなんですよ。
これ多分聖書がナンバーワンだと思いますね。
聖書は価値がある意味ではものすごい高いことになってるから値段はタダなんですよね。
で、翻訳もされていておそらく世界で一番読まれている本でしょう。
詳しいことはわかんないですけど。
イギリスの王様が訳したとか何とかありますけれども。
けれどもこれって読まれないじゃないですか。
もちろん非常に真剣に日曜ごとに読んでるんですけど、
私アメリカに行ってこれほどやっぱりみんな読んでるんだなって思うんですけれどもね。
一般的に言うとそこら中にあり読もうと思えば誰でも読めるんだけど、
まあまあ私は旧約聖書を通しで読んだことはあるんですが、
まずそんな物好きな人はそういうもんではないんですよ。
で、なぜかうちにもあったんですよ。
これがまた奇妙な話で脱線しちゃいますが、
うちは寺なわけですよ。
でも聖書を配りに来る人ってちゃんといるものなんですよ。
だからうちに置いてあったんですよね。
なんかそこら中編に無造作に数冊置いてあるわけですよ。
うちでは価値のないものですからね。
しかもやたら分厚くて字もなんか辞書みたいにちっちゃいわけですよね。
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六方全書とかもそういう感じが僕の中ではあるんだけど、
本当にもっと読みやすくするという気持ちにならないものなのかなっていうぐらい、
読むのを拒否しているようなのがあれなんですよね。
で、その聖書が一番僕の中では極端な一つの例なんだけど、
要は本ってのは聖書に近いものだと思うんですね。
つまりみんなが読む価値があるということになってるから、
誰でも手に入りやすい携帯を取り、
やっぱり電子よりは紙の方がみんなが読みやすいですよね。
フォントとか低層とかもすべてに合っているっていうのは、
水平に水平に広がっていくっていうことを目指しているから。
だけれどもこれを普遍的とか言うんですが、
普遍的ってのは本当はおかしいはずで、
私の本が普遍的に読まれるはずはないじゃないですか。
100万人にすら読まれていない。
日本国だけでも1億人もいるのに、
世界では78億というのは、
グッドファイブスですごく仕入れた知識の一つなんですが、
78億の人が私の本を読むはずはないですよね。
つまり普遍的な価値はないわけですね。
で、普遍的な価値を持たせようと思ったら、
全言語に直されなければならない。
これだけでももうこの世に普遍的な価値のある本って
多分ないってことを意味していると思う。
これだけの言語に聖書にしても、
全家、全ての国の言葉には訳されてないんじゃないかと、
私は詳しくないからわからないですけど、
しかもあれも、さっきも言いましたけど、
本当の最初の言語でなきゃダメみたいな話もなくはないはずじゃないですか。
でも実際には英語とかになっちゃってますよね。
子英語だったりもするケースもありますけど、
そういう今さら子英語とか読まれませんし、
だから結局、財とかね、そういうのは読まれないと思うんで、
結局ないわけですよ、そのような価値は。
日本語にはなってますけどね。
それだけでもすごいことだと思いますけど。
で、ということはですね、
私の出すスリーカードとかメルマガとかは、
当然割高になっていて当たり前なわけですね。
なぜならこれを作る人の中に、
作る人しか基本的にいませんから、
編集さんという存在がいない、
そして営業さんという人もいない。
こう考えると、これを大いに反則していく方向、
手法そのものはここにはないわけで、
したがってこれがそんなに爆発的に読まれるということにも、
当然なり得ないわけです。
だから垂直的な価値っていう感じが私はするんですが、
それしかないんですよね。
横に広がっていくには限界があるし、
横に広げていく方向を基本的にそもそもあまり持ってない。
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横に広げるということは、
結局のところはみんなに喜ばれるということですね。
みんなに喜ばれるためには、
やっぱりみんなに喜ばれるように書かなければいけないわけです。
私は編集さんに、
編集さんは僕のことを怒りませんが、
怒られるわけですよ。
そういう書き方ではみんなには喜ばれないでしょうと、
その指摘は実にしっかりごもっともなわけで、
私はだからそれを読んで反省して、
もっとみんなに喜ばれると。
だけれどもみんなに喜ばれるように、
自分が書くべきだと思っていることがすんなり変換できるというと、
そんなことはないわけですよ。
そういう技術はとても長けている人もいれば、
そのように決してそうではない人間もいて、
ここのところで自分の書きたいことを書かなければいけない云々の話を
持ち込むのはダメだと思うんですね。
私はそう思うんですよ。
ここはスキルの問題であって、
言うことを曲げているとは言いがたいんだけど、
つまり、曲げずにみんなに喜ばれるように言う方法はあるはずなんだけど、
ただ自分の手に余る可能性はあるんですよね。
あとは、僕がこうやってものを書いてきたんだけど、
あとはその折り合いがつくかどうかの問題だなと思うんです。
私は大体の本、依頼された本は大体出してきたんですが、
やっぱり100%ではないわけです。
100%は無理だと思うんですよね。
ここまではできるが、これ以上はできないというところがありまして、
それはついつい思いの問題だと思っちゃうんですけど、
これは多分技術の問題だと思います。
技術次第ではやってやれないことはないんだけど、
やっぱり技術次第でありますから、
自分の技術が及ばないレベルってあります。
さっきも言ったように、営業さんなり編集さんなり、
場合によってはその他様々な会社の大きさによりますが、
様々な人が関わる以上、ある程度以上の水平的な価値は
担保しなければいけない。高くはできませんからね。
そうすると、それができるようでなければ、
その本は出せないということになるはずなんですよね。
これを究極的にどこまで言えるかは分からないんだけれども、
少なくとも私のような、ある程度以上実用書であればですね、
やっぱりそういうことになるしかないと思うんですよ。
1万人に、最低1万人の人は喜んでくれる。
それがどんなものか、私には想像もつかないんだけど、
でもやっぱり最低1万人の人はわかってくれるように、
タスク集となりをかけるようにならないとダメなんですよ。
私はまだその能力は多分ないから、
3、4千人をもって頭を打っちゃうところがあるんですね。
ただ、これも反則の持っていき方とか、
帯の書き方とか、Amazonでの紹介文の書き方とかによって
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変動しますんで、この数字そのものが変動するんで、
不思議な感じもしますけれども、そういうものですからね。
昨日分かんなかった人が今日分かるなんてことは、
ザラにあることなので、そして言っていることそのものが
難しいってわけじゃないので、本当のところ、
無人テレビよりは難しいかもしれませんけれども、
そうは言ったってどんぐりなわけですよ。
これが、何ですかね、
良識局みたいに難しいなんてことは絶対ないんで、
分かんないことはないはずのことでしかないんですよね。
だから分かるように書く。
あとはそれをできるようになるかどうかっていう問題だと思うんです。
これが水平的な価値を担保できるかどうか。
この水平的な価値が広くなれば広くなるほど無料に
ぐんぐん近づいていって、最後は無料になると思うんですよ。
図書館に置かれまくるみたいな。
だから無料まで行き着き得るものであって、
値段は下がる方向へ下がる方向へしか進まないと思うんですね。
でも、例えば倉澤さんのグッドバイブスの
個人セッションはそうはならないじゃないですか。
つまりあれは垂直的な価値なんで、
本が500円で個人セッションが2枚ならおかしいということにはならないと思うんですよ。
本は水平的に進まなきゃいけないし、
だから無料に近づくしかないと思うんですね。
箸が無料であるほどいいようにですね。
箸がアクアラインみたいになってしまうと、
渡る人がほとんどいなくなって、
何のために作ったのかわからなくなっていきますよね。
1回渡るのに5000円ですとかいう話になってしまうと、
それは慣行になっちゃうと思うんですよ。
あれは慣行で作ったとは言い難い箸だと思うんで、
やっぱりあれほどのものを作ったからには、
本当は無料にしてみんながあれを使うというのが一番いいわけじゃないですか。
本当は税金払ってるから無料じゃないんだけど、
無料に少なくとも1回あたりはタダで渡れると。
せいぜい有料にするにしたって、
やっぱり数百円ですよね。
数百円だったら渡れるのかもしれない。
だけど渡る人にしてみれば毎日使うものになっていくわけだから、
やっぱりできれば極力300円とかでありたいわけですよね。
1回4000円とか取っていたんではたまったもんじゃない。
だからそういうふうに今は4000円もしないかもしれないですけどね。
垂直的な価値と水平的な価値っていうのは、
逆の方向に根付けの圧力としては働くだろうなと思います。
もしグッドバイブスのセッションがものすごく希少価値が高いものならば、
1回10万円とかでも高くはないって話にだんだんなっていくと思うんですよ。
例えばそれによって、そういう話にはならないですけれども、
どんな悩みでもピタッと解決するとかだったら、
たぶんそういう値段になっていくと思うんですよね。
なぜならば、垂直的にしか提供できないもの、
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その人にしか提供できないものなのに、
それを提供してほしいという人がわんさか現れると、
そういうことになるはずなんですよね。
だから、ほぼ中間に位置する個人が出すメルマガナリ、
定額のマガジンなりそういったものというのは、
全部割高感を持たなければおかしいだろうと思います。
例えば本などというのは、毎月毎月出せるようなものではないですし、
毎月毎月出すようなものでもないと思うんです。
だけど、メルマガというのは毎週毎週出したりしないと、
それが一つの価値じゃないですか。
ここで、ワイルドカードというのかな、
ちょっと特殊なものがあって、
それが無料ってやつだと思うんですよね。
図書館の本が無料になるのは、
水平的な価値が目いっぱい広がった結果で、
一つの当然の方向だと思うんですが、
個人が出すメルマガナリが無料だというのは、
意味が全く違うんですよ。
水平的な価値は全然ないのに無料であると、
それってすごく例外的でキーな場所に立っていると思うんですね。
時々というか、わりとあちこちで行われているんですけど、
本当は私あれは微妙だなってよく思うんですよ、見てて。
でも悪いことではないので何とも言えないんだけど、
例えば非常に有名で本をバリバリ書いている人のメルマガは無料ですと、
それって何なんだろうという感じがするんです。
もちろんそれはCMなんですけれども、
水平的な価値があるものはすでに出しているのに、値付けでね。
しかもその人の本はしばしば図書館とかに置いてあるにもかかわらず、
メルマガまで無料で出ちゃうと。
これが今の時代に始まったかなり特殊な話なんだろうなという感じを持ちます。
無料というのはすごく例外的ですよね。
これが100円になると全然意味が違ってくるし、
読む人の数も激減すると思うんですよ。
ただ、編集さんも営業さんも手をかけていないものが無料になっちゃっていると。
それってつまりとっても垂直的な価値のものなのに、
無料で出ている。
本人がお金に困ってないからとか、
本人がそれで様々な活動を可能にするからとか、
いろんな意味があるんだけど、
この例の昔話題になった、
フリーって本で言われていた話に違いないという気がします。
まず、無名な人はこれをやるしかないですよね。
無名なのにいきなりメルマガ100円ですっても、
多分お金出されないと思うんですね。
お金を取らないメリットってすごくいっぱいあるんですよ。
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オンラインでセミナーするとよくわかるんですけど、
まず無料であるならURL一本打っておけば済むわけですね。
誰が参加して誰が参加してないのかを区別する必要もないわけです。
ついでに言うとめんどくさいことの一つである、
税理処理が無いんですよ、無料であればね。
これも大きいですよね。
税務処理が無い上にURLが動向するとかいった話もせずに済む。
しかも今はかなり良くなりましたけど、
課金回りの決済って昔はすごくめんどくさかったんで、
それもせずに済む。
めちゃくちゃ楽なんですよ。
この楽ってつまり仕事じゃないっていう話だと思うんですよね。
でも仕事のような雰囲気でやっちゃう。
でも仕事ではない。
だから無料で水平的に確保したいんだけど、
それはすごく垂直的な価値の高いものを目指すような形になる。
だって自分が絶対に良いと思うものは、
まずそういうことは起こらないんですけど、
一番究極的に言うと自分だけが満足するものじゃないですか。
もうめちゃくちゃ垂直的ですよね。
これはさっきの完全な普遍的と同じように、
所詮は理屈のだけの話なんですけどね。
聞きに来る人がゼロということはあり得ますよ。
だけれども聞きに来る人がゼロだからといって、
この喋っていることの価値は自分以外誰にも伝わらないということは、
まずそんな話はできないと僕は思います。
どんなものでもそれに価値を見出してしまうという人は、
むしろ出てくるものですから。
私のこれなんかがまさに今言ったものに相当するんですよ。
無料じゃないですか。
これについて誰が聞きに来ているのかということも、
私は全く感知できていないんですね。
これ完全に私の満足のためにやっているとみなしても、
差し支えないようなものなんですよ。
思いっきり垂直的なんですね。
全然水平的に広がっていく要素を持っていない。
せいぜいツイッターで告知しているに過ぎなくて、
全く僕はその経営、SNSマーケティングとか、
ど素人もハナハナしいんで、
多分平均的な素人よりこの種の能力は足りてないんじゃないかという気がするんですよ。
私最近ようやくストップしたんですけど、
いろいろツイッターやっているうちに、
フォロワーさんがどんどん減っていくという、
ツイートするたびに減るぐらいの勢いだったんで、
全く不思議だなと思っているんですよね。
平均的な能力よりも僕は多分劣っているんだろうなという気がします。
一時1万を超えそうになったんですけど、
今9000もありそうになっていますから、
なんかですね、それはあるんだと思うんですよね。
にもかかわらずこのポッドキャストを聞いてくださる人は、
じわじわと常に増えているんですよ。
これってすごい不思議な現象だなと思うんですよね。
このポッドキャストでやっている私のことっていうのは、
21:02
本当は何らかの形でお金を取るなり、
差もなければものすごく水平的に広めていくなりの努力をするべきだと思うんですけど、
今言ったようにどっちでもないんですよね。
これがフリーなものの活動の独特なポジションという感じがします。
スリーカードの方がある意味、私にとってはずっとわかりやすいんですよ。
割高感がありますから。
間違いなくあれを100にするというとんでもない努力がいると思うんですね。
本当はだからもっと高くなければいけないんでしょうけれども、
その値段にするといよいよ人が激減していくので、
たぶんこれは今後ネットというものの決済に人々が慣れていって、
これが自然な形になればなるほどですね。
そういう風になっていくような気がします。
サブスクになるかどうかは知りませんけれども、
個人が出す割高なものというもの、
個人か個人に近いグループが出す割高なものというものが、
一定の経済的な何かになっていって、
他方では水平的なものがさらにぐっと安くなっていく。
今なんか驚きます。
昔あんなにお金をそこそこ払っていた、
昔読んだような漫画とかが無料で相当読めてしまいますから、
すごい面倒くさいですけどね。
私はちまちまとですが一応課金をしつつやってます。
広告を何とかするとか本当にやってられない感じがするんで、
でも安くなっているのは間違いない。
結局こういう圧力というのは変かもしれないけど、
かかっていくのは間違いないわけじゃないですか。
ダイヤモンドと水なんで。
水はたたでに近づけば近づくほどいいわけで、
そうでなければ大変なことになってしまうので、
水と漫画は違いますけれどもね。
でもやっぱりみんなが面白いと思う漫画は、
手塚先生の漫画なんかが今図書館で大体置かれてますけれども、
まあやっぱりみんなが読めた方がいいと思うんですよ。
そういう意味では非常に微妙だなと私がいつも思うのは
トルストイなんですよね。
間違いなく面白いし、
みんなが読む価値があるとは思いますけれども、
まあみんな読まないですよね。
そして手塚治虫さんのように読んだ人がみんな嬉しいかというと、
手塚治虫さんがそうかどうかは別としても、
みんながすいすい読む気になるかというと、
それはどうかなって感じはするんだけれども、
でもまあどこにでも置いてある。
そういう本って結構いっぱいあるじゃないですか。
明らかに読まれないんだけど、どこ行っても見かけるよねという。
まあ聖書もそうでしたけど。
ああいう水平的なものっていうものは、
要するに1円とか10円でも全然いいわけですよ。
それでも買う人の数を考えれば、
24:01
もう十分みんながそれでビジネスをやっていけるみたいな、
そういう世界で。
だから昔の塩みたいなものの話ですよね。
塩って必ず後者がどこでも扱っていたみたいな、
そういうようなものですよね。
私は、私に限りませんけれども、
今は黎明期だったんですよ。
私がこういう仕事を始めて、
なんとかネットで直接課金していこうっていう時代に、
私が社会人として始まった頃に、
ちょうど社会人を始めてしまったと。
よくもあるかもね。
私がだから大学出た頃に、
ネットってものが普通の人でも一応使えるようになった。
そうは言っても、当時めちゃくちゃ割高でしたから、
それこそ、やっぱりこれも同じじゃないですか。
水平的な価値が高くなってくればくるほど、
ネットにかかるお金ってのは下がっていくわけですよ。
今でも高いって思う方はいらっしゃるでしょうけど、
私はひどかったんですよ。
数分使うといくらいくらみたいな、
割と懐に十分なダメージを与える重量課金制があったから、
夜中だけは一応できるとか、
それも決して安い値段ではなかったんですよ。
夜中だけしかできない割には。
しかも今よりもはるかに使いにくかったですから。
でもその頃からすでに、
これでどうやって商売しようみたいに考えてた人はいっぱいいて、
無理やりでも結構頑張ってやってたんですよね。
だからそういうふうなことを、
僕はちょうど始めたときに社会人になっていて、
周りの人を見ていて、僕はすっごい不思議でした。
私はネットしかやりたくないぐらいだったんですよ、大学。
ちょうど出る頃に始まってて。
何が何でもこのネットで生きていこうと、
なぜか当時思ってたんですけど、
そんなことを真面目に聞いてくれる人誰もいなかったんですよ。
僕は大学の友達と一緒にこういうことをやりたいとずっと思ってたんですけど、
ネットにそもそもアクセスして何かをしようという人がいないんですよ。
私はメールアド取ったとき非常に嬉しくて、
ほぼ全ての知人に、知人にですよ、友人じゃなくて、
配ったんですけど、メール全然きませんでした。
今思うとすごい不思議だったんですよね、あれが。
そしてちょうど大学4年ぐらいだったから、4年だったと思います。
なので、就活をみんなしてるわけじゃないですか。
どうしてみんなが就活を平気でしていて、
ネットに全くアクセスしようという気にならないのかが、
正直全く理解できなかったんですよね。
これで生きていこうよみたいな感じだったんで、
クルートスーツとかを着て会社に行きたいと思うのかなという、
そういう感じをすごく強く当時は抱いたのをよく覚えています。
ちょうど僕の年から、大学4年になったときから就職表記がいきなり始まって、
27:05
ほとんど前の年の先輩の話が何の参考にもならないというのが
1年目を迎えたので、余計僕はそうだったんですよね。
なんかすごいかわいそうな、当時はそんなに深刻だということが
認識されることもまだ難しかったんだけど、
どうやら急に深刻になったということが
なんとなくなんとなく内定が取れないということから分かってきて、
だからその度に私はその人にネットで何かやろうという話をしたんだけど、
ほぼなんか狂人みたいなほぼ、
本当に文字通り頭のおかしい奴みたいな感じで、
友人が減っていった記憶があります。
なんか面白がってくれる人はいるんですけど、
それはあくまでも僕が芸人みたいな位置づけで面白いんですよ。
なんかちょっと足りないか、行き過ぎて発狂しちゃった人が
なんか不思議なことを喋っているのを見てて面白い。
なんかこうあれですよね、動物園で芸している動物みたいな、
そういう感じになっちゃってたんですよ。
私の学校が非常に地方の頭のいい人、
これも当時先進的だったんですけども、
優先的に地方で入所をいっぱいやって、
そういう生徒を集めてくるという、
とっても気真面目な人たちが多かったし、
しかも文系だったから関係ないんですけどね、
本当はこれらのことはいずれも何の関係もないんだけど、
だから非常に発想としてそういうちょっとわけわからん橋を渡っていくという
発想の人がいなかったということは事実なんですよ。
必ずしも違う大学に行っても
全く当時は同じような扱いだったとは思わないんですけど、
私は非常にそういうポジションで不思議な感じがしたし、
ある意味ちょっと残念な感じも当時はしたんですね。
でも一緒に学生とともにぶち上げたりしなくてよかったですけどね、
まず一問なしになってたのはほぼ僕の場合確実だったと思うんで、
詳細とかは別にないですから。
ちょっと話が三転してるんですけど、
要はそういうふうにできる時代までも来たわけですよね。
垂直的な価値というものを少しずつ広げる、
少しずつ膨らませるっていうだけで食えなくはないみたいな、
少なくとも私が大学時代にあの時モンモンとしていた時の状態と比べれば、
今は間違いなく食えなくもない。
当時はネットにお金を払う方法自体は存在しませんでしたから、
私の友達、友達じゃないな、
でもそういうやっぱり秋葉原で作った友達で、
そういうのにたけりくるっていた人が他にもいたんで、
その人とは僕は組んでやってないんですけど、
その人はネットで何かを売って、
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その紙みたいなものを配ることで、
郵送で振り込んでもらうみたいな、
商売のやり方を取ってましたからね。
それくらい決済というものの困難があったんですよ。
今はもう本当にそこから見ると天国みたいなものだと思うんで、
もうちょいキャッシュレスが進めばですね、
多分これでやっていくっていうことの方がむしろ、
今みたいなご時世ですから、
商売として普通なんじゃないかぐらいになってくんじゃないかなと思うんですよ。
そうすると間違いなく垂直なほう、水平なほうじゃなくてね、
垂直なほうでやっていくっていうのが、
のほうがですね、に有利だと思うんですよ。
その時にこのホットキャスト、
このグッドモーニング・ボイスみたいに、
無料で出すっていうことの特殊性をですね、
ここが多分一番考えなきゃいけないところなんじゃないかなと思います。
昨日たまたま大畑海人さんの、
私がこの番組でよく喋ってる大学の先生ですよね。
今先生じゃないのかもしれないけど、
彼が3000円で自分の講義っていうのをやりだしたんですよ。
これってすごいなって思ったんですね。
私思わず申し込んじゃったんですよ。
数回で辞めちゃうかもしれませんが、申し込んじゃったんですね。
3000円なんですよ、1回の講義が。
あれ大学の先生でしたからね。
こういうことだと思うんですよね。
それをあれは私は割りやすすぎるって、
でも3000円以上だったら申し込んでないかもしれないです。
そこら辺が微妙なんですけれどもね。
でもこれは今がまだ黎明期だからであって、
間違いなく割りやすすぎると思うんですよ。
大学に行って授業料払うことを考えてみると、
同じものが3000円でいけちゃうというのは妙ですもんね。
でもやっぱりこの考え方では無理があると思うんです。
それは3000円の価値なのか1万円の価値なのかじゃないんですよね。
これは何人の人間がそこに携わっていて、
結局欲しいのか欲しくないのかを問われているだけだと思うんです。
そして間違いなくあのやり方は垂直的であって全然水平的じゃないので、
チケットの限りがあるしその枚数も少ないですからね。
当然割高になっていくはずなんですよ。
一番いいのは無料なんですよ、このようなケースでは。
なぜならば大学の先生がやっていたわけですから、
みんなが聞く価値がおそらく高いものなんですよ。
だから3000円とかになってしまうと微妙なものになるわけですよ。
3000円で他の人たちの仕事はどうなるの?みたいな。
例えば東京大学研究会3000円って価値同じなの?みたいな。
そういう理屈を持ち出しちゃうじゃないですか。
それはやっぱり無茶苦茶だと思うんですよね。
そういうことではないと思うんです。
あれは水平的なものなんですよ。
だって臨床心理学の入門みたいな話ですごく専門的なことが
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喋ることができる先生じゃないですか。
例えばそういうものがちょっと今ではこれも古いですけど、
DVDなりが図書館に置いてあってもいいわけですよ。
東京大学研究会のビデオが図書館に置いてあったら
やっぱりそれはおかしいじゃないですか。
そういう意味で水平的か垂直的かっていうことがあると思うんですよ。
あれは水平的なものが垂直的な顔をして登場するから
ああいう極めて独特な位置にポンと立つんですけれども
私のこれなんかもそうですけれども
どう考えても水平的じゃないもの。
これを図書館に置いてみんなが聞くってことは絶対ないもの。
そういうものは割高でどっちかっていうと
ギリギリちゃんと高くなっていくっていう方がいいと思うんですよね。
何度も何度もここでもお話ししてますが
その最たるものがカウンセリングだと思うんですね。
これはもう価値というものにお金を払うというよりは
お金を払うってことがある意味価値なんですね。
僕は多分確実に起こる現象だと思うんですが
例えば1時間1000円でやってもらった場合と1時間1万円でやってもらった場合
同じ人にカウンセリングしてもらっても
後者の方が有効だと絶対思います。
ただは特別な意味を持つからわからなくなるんだけど
1000円と1万円だったら1万円払う必要があります。
そうしないと良くならないような気がするんですね。
マッサージなんかはちょっとこれに近いと思うんだけど
マッサージの場合はやっぱりどうしても
僕らは手術、指のスキルって考えちゃうからそこが微妙になるんですが
これが触らない職業であった場合
多分1000円じゃ効き目薄いだろうな
ないしはほとんどないんじゃないかなっていう感じがしちゃうんですよね。
ここのところで私がいつも
となると大金持ちって大変なんじゃないかなって
時々思うことがあるんですよ。