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2022-04-18 22:26

【585GMV】「自分」は改善できない

最初から最高のものはよりよくなり得ない
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
テイク2となりました。
しかも、裏では多分、バイオリンの音とかが聞こえると思うんですが、なるべくスルーしてください。
いろいろ事情がありまして、これを収録するタイミングが、もはや早朝は難しいというか、早朝に家族みんなが起きる事情が発生したので、
これをお届けするのは朝にしますけれども、収録するのは常に朝とは限らないという状況です。
これも、おいおい形が定まってくると思っておりますが、今もこれしかないなというところですね。
今日はですね、その前に岡野淳さんとタスクシュートクラウドについての対談というか、情報整理についての対談というか、その辺の話題を中心にして、
4月23日の18時から対談したいと思っております。
無料でご参加いただけるので、もしご都合があったら、ぜひよろしくお願いします。
これのですね、きっかけとなったのは、タスクシュートクラウド2がJマツ株式会社さんの方で企画指導されるというのを受けての話です。
こうだったらいいよねというようなざっくりとした楽しいお話から、今どう使っているかというやや現実的な話まで、1時間でお届けしたいと思っています。
今日はそれとは別に関係のない話をするつもりでいるんですけれども、何になるかはまだまだはっきりしたところは言えないんですけどね。
今日かな?違うな、今日じゃないな。
一昨日かその前ぐらいに、しごたのさんの方でですね、自分を改善しないという記事をあげたんですね。
相変わらず私のタイトルは引きがいまいち強くなくて、Aしろという話をビジネス書を書くものなのに何とかしないという話を書いてもですね、漠然としすぎていて、本来はあんまりよろしいタイトルじゃないんですよ。
しかも改善はカタカナでカギカッコまでついていると。
本当は私がカギカッコをつけるべきは自分の方だったんですね。
私たちって改善はするんですよ。
普通に生きてて。
例えばプリンターが壊れたら修理に出すし、最近ではうちの自動でコーヒー入れるコーヒーメーカーがあるんですけど、ぶっ壊れそうなので買い替えようと思って。
これも一種の改善ですよね。
こういうふうに物の改善をするのは良いんですよ。
というかするんですよ。
良し良いも悪いもないんですね。
車が変な音を立てたら改善するしかないじゃないですか。
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修理って普通は言いますけどね。
例えばパソコンがアップデートするとか全部そうなんですよ。
でもあの記事で私が言いたいことはですね。
自分というものは改善の余地がないと。
これは非常にグッドバイブスで強調されているポイントでもあるんですけど。
自分というのはすでに生まれた時から完全で価値マックスだという話をしますよね。
あれはとても大事なポイントだと思うんです。
自分のことは肉体だと思わないっていうのも。
なんていうかな。
自分と肉体をイコール同等種しないっていうのもグッドバイブスの大事なポイントなんですけど。
私は仮にあれがなかったとしても自分というのはつまり肉体であると感じようと感じまいと。
なんであっても改善の余地なんてないって考えるべきだと思うんですね。
つまり確かに身体というのは傷つくし衰えるしスキルアップするし筋力増大するし立てるようになるし歩けるようになるし走れるようになるし走れなくなるし歩けなくなるし立てなくもなるんですけれども。
でも改善の余地はないと思うんですよ。
これは感覚的なところもあるんですね。
私なんか病気がちなので体質改善とか子供の頃は寒風摩擦とかわけわからないことをさせられたりしてたんですよ。
でも自分を改善したいと思うことは実はあんまりなかったんですね。
運動神経って実は私はそう悪い方じゃないんですよ。
信じてはもらえないと思うんですけれどもそう悪い方じゃないんですよ。
なんか幼稚園とか小学校とかでお父さんと競争出てくださいとか無理やり引きずり出されて走りたくないんですよ全然。
走ると怪我すると思ってますからこの歳になると。
でも走ればですね大体その時にお父さんが借り出されると大体6、7人いる中で一番速かったりするんですよ私は。
まあ多分嘘だと思われてると思うし信じてほしいわけでもないし走りたくもないんですけど。
まあまあそうなんですよ。
でも私は自分の運動神経が良かろうと悪かろうと筋力があろうとなかろうと
病気がちであろうとなかろうと基本的に身体なんていうのは完全だと思っているんですね。
っていうのは私結構生き物っていうのが好きでいろいろ飼ってるんですけど
メダカとかカブノムシとかそれこそ飼うじゃないですか。
完璧だなってよく思うんですよね。
身体って実にすごいなってよく思うんですよ。
何を持ってすごいと思ってるのかよくわかんないんですけど見て関心しかしたことが実はないんですね。
だから私は虫とか殺すの嫌いなんですよ。
よく虫とか殺す役にさせられるんですけど本当に嫌なんですよ。
なんとも残念なことをやっているとよく思うんですよ。
こんなに完璧なものをなんでこう人っていうのは色々わかりますよ。
衛生事情とか害を出すとかもわかるんだけど意味嫌うような対象じゃないとよく思うんですよね。
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この季節になると植物っていい感じじゃないですか。
僕の目には全生物がほぼ全てが植物であるというか
恥怖いとかあるんだけど美しいといつも思ってるんですね。
自分の身体だけそうじゃないと思う理由って別に何もないんですよね。
主観を通して見るからより完璧にしたいとかより健康にしたいとかあるけれども
基本完璧だと思うんですよ。
爪とか作れませんからねこんなに美しくね。
自分の身体だけそうじゃないと思う理由って別に何もないんですよね。
基本完璧だと思うんですよ。爪とか作れませんからねこんなに美しくね。
黙ってても放っておいても毎日できていくわけじゃないですか。
何十年も基本的には損なわれることもなくすごいものだと思うんですね。
私の自分の工作能力とかは何億分の一ぐらいしかない。
非常にこれも不思議なんですけどね。
自分で作れる自分の身体から程遠いレベルのものしか作り出せない自分って何なんだろうと思うんだけど
それはそれとして完成度という意味で身体で非常に高いと思います。
だから価値マックスだと言われて私はそれを最初からあまり疑う気はしなかったんですよね。
そうなんだろうなっていうのがどっかにあってそうじゃないというのはいっぱいありますよ。
もっとモテる顔だったらいいのにって思ってた時期がそれこそ20年ぐらいはありましたから
改善の余地がないとは言わないんだけれども
改善の余地なんてないっていうのが本質的なところだろうとはずっと思ってもいたんですよ。
という意味で塩田さんの記事で書いたんですよ。
自分というのは改善の対象じゃないんだと。
忘れっぽいとかしくじるとかそんなのは何ら改善する話じゃないと思うんですね。
にもかかわらず私はライフハックをずっとやってきたということにしているんですけど
ライフハックで私がやっていることというのは
人と人との関係の中で求められる話ってあるんですよ。
それに関する一種の調整であってそれ以上のものではないと思うんですね。
あるいは人と私、物と私とのちょっとした調整であってやっぱりそれ以上のものではないと思うんですよね。
だから自分で評価はしないんですね。
人が私を評価する上において、私の仕事を評価する上において
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それは人が改善の余地がありと言うならばそれに合わせることはします。
本当はそれがいいとは僕は思ってないんですけど
つまり結構傲慢なんですよ。傲慢というよりはうどぼれてるんですね。
実は私は自分の書いているものは自分の評価する限り最高だと思っているんですよ結局。
人がそう受け取らないのであればしょうがないので修正はします。
求められてのことですから。
でもそれは実際には修正じゃなくて変更なんですね。
変更というのはつまり相手の満足に合わせて変更するんです。
よく言うじゃないですか。人の満足に合わせて変えるのか自分が良しとするのかと。
この話は基本矛盾しない話だと思うんですよ。
私としては私が出すものが最高ですが、私が出すものはいつでも最高なんですよ。
非常に手前勝手なことを言うようなんだけど
人の修正に応じれば応じた上で最高なんですよ。
応じる前だったら応じる前なりに最高なんですよ。
誤字脱字があろうとなかろうと僕の書くものは誤字が多いと言うんですけど
それは最近は書き上げ塾等でいろいろ教わっているうちに
構成したり脱字を直したりするようにはなりましたが
基本的に誤字があろうと脱字があろうと僕の書くものは最高なんですよ。
僕はそれを信じて実は疑ってないところがどこかにあるんですね。
これは僕の身体が最高だと勝手に思い込んでいる。
風は低し不恰好だと思うんだけど、それと最高でないってことにはならないんですね。
これでいいんですよ、ある意味では。
これって僕は不思議な感覚だなとは思うんですけど、自分の中でも。
でも主観的に見て最高だということと客観的に見てそうではない、修正の余地ありだ
っていうのは矛盾しないんですよね、私の中では。
人が見てそう見えない、そう評価できないということは当然ある意味ですね。
しかし自分で出す上でこれが最高だというのはそれはそれであるんですよ。
例えば自分はこれで造形として問題なしだと思うのと
ある女性が見て全くイケてないからあらゆる面で変えるべきだと思うのは
全く両立する話だと僕には思えるんですね。
当然じゃないだろうかっていう気すらするんですよ。
だから私は実際のところAmazonのレビューだろうとTwitterの批判だろうと
本当の意味では全く気になってないとも言えるんですね。
あれ非常に不思議なんですよね。
ドキッとはするんですよ。
あんまりいい気持ちにならない面もあるんだけど
実はその人がそう思うというのは大変欠航なことで
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こう思っている面があるんですよね。
その人がそう私の本がクソだと思うのは
大変欠航なことで
是非そう思っておくべきだと思うんですよね。
主観に嘘をつくのは一番僕好きになれないんですよ。
自分がクソだと思ったものを褒めなきゃならないとか
あれ嫌なんですよね。
何の意味もないと思うんですよ。
本当のところ。
私が何かを見てろくでもないと思ってしまったら
それは事実なんで
そう思うのがベストなんだと思うんですよ。
自然物を見ていて
これ前も言ったことあるんですけど
自然物を見ていてそう思うことってないんですよね。
これも大変不思議ですけどね。
蜂ですらそうなんです。
造形としては美しいと思うんです。
殺虫剤で巻いて殺しちゃうのは
これは僕の中では両立するんですよね。
そんなにおかしなことだと
少々おかしいなとも思うんですけど
この点に嘘はないような気もするんですよ。
だから僕が書いたものがくだらないと思うのは
あるその人が思うのは
それが正直である限りにおいては
ベストだと思うし
私が出している段階で
どういう風に言われようと
くだらないとは全く思えないというのも
しょうがないんですよね。
そういうもんだと思います。
だから実は気にならないんですよ。
今の話ってどういうことかというと
つまり自分の書いたものを
編集さんが直せという限りにおいては
何歩でも直しますが
自分が書いたものが最高であるという点には
3回リジョンしようと4回リジョンしようと
1回目がベストであるという点に
何の疑問もないと思っています。
つまりそういう意味で
改善の余地というのは一切ない。
だから私は多分
実際にはいろんなことをやらかすくせに
それを直す気はさらさらないというのが
妻とかの勘に触るし
ある種の人の勘には
多分触っているだろうなとは思うんですよ。
これまで書いたことと今言っているようなこと
あるいはこれから書くようなことには
かなり整合性が取れていないし
矛盾するじゃないかと思われると思うんですけど
僕はGood Vibesを言うようにしてから
いわばエヴァンジェリストをやっているつもりで
いる頃からですね。
そんなの当たり前だと思っているんですよ。
つまり矛盾も整合性も取れていないのは
100も承知でいるんですが
でも本当はどうなんだろうなと思って
最近一番整合性が取れていなさそうなあたりに
突っ込んでみているんですね。
私の中では一番最初に書いた
ライフハックスとか
iPhone情報整理術あたりの本とか
あるいはやる気クエスト
やる気クエストというタイトルの本はないな。
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あれはじゅんさんの漫画だけかな。
ライフハック心理学とか
すごい手抜きあたり読んでいるんですけど
そんなに僕の中ではやっぱりですね
もちろんGood Vibes的に言って
ダメだなというのはあるんだけど
どう考えてもあらゆる意味で
あらゆる気持ちに裏切りきっているな
というのはないんですよね。
よく読めば僕がね
他の人が読むとそうは思えないと思うんですけど
よく僕が読む限り
これは言い抜けできるとか
弁護の余地は十分あるとか
そういう感じなんですよね。
ギリギリ出版社さんと編集さんの
言ってほしいところと
僕が受け止めた部分を
組んでその意を組み
かつ自分が心の底から言いたいと思っていたところを
練り合わせればこうなると
しかも私はそういうことをやるのが
外して好きなんですね。
だって僕にとって物を売るとは
そういうことなので
たぶん例えば
iPadとかでもそうだと思うんですけど
人が求めるであろうものと
自分が
言ってみれば表現だと思うんですけど
表現したいと思うものを練り合わせたいものって
出てくると思うんですよ。
作りたいと思う人が
芸術作品のように作っているだけの
一定の大量生産のものって
ないと思うんですよね。
私のものもまさにそういうもので
芸術作品ではないので
一個これを
彫刻のようにして
作って出せばいいって
ものじゃないから
やっぱり練り合わせて作るしかなくて
そうしてみると
この辺に落ち着く。
確かに
こう言われているっていうのを
これは飲むのが相当
練り込むの相当無理があるなと
分裂しがちなものになるなってことは
あるんだけど
それでも私は練り込もうとするんですね。
どっちかにしてしまうっていうのは
嘘なんだし
どっちかにしてしまうっていうのは
嘘になっちゃうと思うんですね。
私の中のある種の正直なところっていうのは
練り込みもしましたし
自分の言いたいことも
言いましたという正直さであって
100%僕の言いたいことだけを
言いましたというのでは
それだったらだいぶまだ
やっぱり簡単だと思うんですよね。
仕事にはならないんじゃないんだろうか
ってところがあります。
もう少しハードルが高くても
しょうがないだろうと。
だから改善の余地などというのは
ないんですね。
なぜならば
ある出版社さんと
ある編集者さんと
組んでやった
あるタイミングにおける仕事は
その時の後になってから
改善の余地ありだから
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ここを修正しましょうでは
ダメだと思うんですね。
そういう言い方をして
作り出すということも
あると思うんだけど
結局
新しい本は新しく作るんで
私の中では
前のやつを修正して
新しいということにして
出すっていうことには
ならないんですよ。
形式上そうなることはあると思います。
改訂版みたいな形で。
でも僕は改訂版っていうのを
読んだ時
いつも僕も好きな本の改訂版って
気持ちよさそうじゃないですか。
改訂されて出てくるんだから。
ほとんど変わんないんで
出るんだなっていうことに
アップデートという
言い方はしますけれども
やっぱりそれは新作だと思うんで
新作のようにして
出てきてほしいかな
という気はします。
実際には同じ人間が
同じようなタイトルで
同じものを作るんだから
ほぼ同じものを作るんだから
新作にはならないと思うんですよ。
それはそれでしょうがない
と思うんだけど
極力真新しくして
出してほしいかな
前の言っていることとの
矛盾などというものは
いくら発生しても構わないから
今その人が最高で最新だと思っている
ことを言ってくれた方が
どんなにいいだろうという気が
するんですよ。
どっちみち
同じ、全く同じだったら
それは全然改訂でも
なんでもないわけですから
まして改訂版じゃないものを
前回の改善版のようにして
出されても困るなという気が
私はするんです。
それだったら新作を
書いてくれた方がいい。
コミックとかがそうじゃないですか。
急に今になって
展開寺武道館の頃の絵も
だいぶ上手くなりましたから
鳥山さんが改訂版を出しました。
この辺がちょっと
BDCへの余地がありましたから
修正して出しますというのを
出されても
それだったら鳥山先生の
一番今新しくて面白いと思っているのを
書いてほしいなと
私だったら思うんですよね。
読むんだったらは。
それとよくこの話は似ていて
改善するという風にして
アップデートされたものというのは
大型は前と変わらないもの
という
なんていうんですかね
そういう認識で
作ってしまう気がするので
私はそういう作り方をするのは
本質的にあまり
たぶん好まないんですよ。
今言ったような事情で
自分が受け止め手であれば
一から作り出してほしい
というのがありますから
だから前のやつの
改善したものとして
行動するという
タスクの作り方を
自分は本当は全然
したいと思っていないので
そうなることありますよ。
時間もリソースも何も足りない
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という時は当然そうします。
ただそうでない時まで
そうしたいとは思わないと
自分というものを改善する
というのはないなと思うんですよ。
それだったら明日から
実際にはそうなるかどうかは
別として
明日から生まれ変わりました。
明後日も生まれ変わりましたの方が
無駄は多いかもしれないけれども
でもこの前の無駄というのも
何を積んで何を得るかという風に
考えた上での考え方ですよね。
そういう意味では
やっぱり一からやり直すというか
一から作り直すんじゃないんですよ。
そういう意味では
一から生まれさせるみたいな
そういう感じが一番いいかなと。
それが自分を改善しないと
いった記事の
基本的な趣旨です。
結局は反省して修正するわけでは
ないはずだと。
人はそもそも
私が信じているところによれば
心の余裕も多少あるのかもしれないけど
もっともっとうぬぼれ屋さんだと思っているんですよ。
あらゆる人が。
で、その方がいいとも思っているんですよ。
反省なんてしてほしくないと思うんですよね。
自分の出すもの最高だと思っている人と
出すものの方が
きっと最高に近いんじゃないかと思う。
そういう感じがします。
22:26

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