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2023-06-23 42:43

怒られることはなくなった!【GMV804】

「悪いこと」に対して人は怒る。

サマリー

このポッドキャストエピソードは、プロジェクト管理について考えるものです。多くのプロジェクトは同じ方法で管理できるという指摘があります。怒られることが怖いと感じていた人がいましたが、自信を持っていなくても、怒られることが起こらないと受け入れることが大切だと思われます。彼は、怒られることがなくなり、悪いことをしていないことを自信を持って確信しています。彼は自分の行動を見直し、怒られる理由のカテゴリーを狭めていきました。結果、彼は怒られる状況にほとんど遭遇することがなくなりました。悪いことをしない限り、怒られることは起こりません。

タスクシュートセミナーについて
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
6月23日金曜日、朝8時27分ですね。
今日は先にシャワーを浴びるという、いつもとちょっと順番逆なんだけど、
この後シャワー浴びるんですよね。
今日は先に浴びてしまって、これを撮ってます。
気分ですね。
明日、タスクシュートオンラインセミナーやります。
明日じゃない、ごめんなさい。明日じゃないね。
来週の明日ですね。タスクシュートセミナーですね。
明日はTTCでやってる、大橋哲夫さんとやってるやつですね。
こっちの方、明日は私も参加してやります。
これは何でしたっけね。参加する方法はあるはずなんですよ。
だからもう締め切りは分かんないですけど、
できれば確認して参加いただければと思います。
TTCというですね、タスクシュートトレーニングセンターだったかな。
タスク管理トレーニングセンターだったかな。
ちょっと僕の中ではもうその2つは同じ意味になっちゃうんで、
あんまり区別してないんですけど、
多分タスク管理トレーニングセンターだったと思いますね。
これにご参加いただいていれば、
無料で毎月参加できるオンラインのセミナーがあると。
大橋さん主催で私も参加して、
もう1人ゲストの方なども参加することもあって、
タスクシュートの話をがっちり1時間聞いて、
質問も答えてもらえると。
もうちょっとな。
1時間半かな。
そういうのが明日やります。
これは明日ね。
長期計画の必要性について
タスクシュート私が単独主催でやるセミナーは、
来週の土曜日ですね。
7月1日。
昨日100チャレ編をこちらでしゃべりましたね。
この100チャレ編なんですけども、
話した内容なんですけど、
もしあるのが分かりにくいと、
昨日の話はそんなに別に分かりにくい話ではなかったと思うんですが、
そもそも佐々木の言うタスクシュート論は分からんという場合には、
構わないのでそれは却下して、
知恵松崎さんの方などもベースにやっていただければいいと思います。
あるいは逆算などがいいという方は、
別に逆算はいけないっていうことは、
私は常々言ったことはないと思うんです。
1回ぐらいは口が滑ることもありますが、
逆算でもなんでもガンドチャートを引こうと、
そこはもうその人その人がやっていただけばいいというか、
それを抑止するとか制止するとかできないんじゃないですか。
私はやらないというだけなんですよ。
私は逆算はしない、ガンドチャートも引かない、
プロジェクトノートも事実上作ってません。
長期のレビューも長期の計画も本当に全くないんですよ。
ただそれだけですよ。
それでも運用できますよという話をしているのであって、
そうした方がいいですよという話も必ずしもして言えませんので、
そこら辺は迷ったら私のはバサバサ捨てておいていただいて大丈夫です。
なぜならばですね、私は多分これを永続的にしゃべっていくから、
聞こうと思えばいつでも聞けるわけですね、一つにはね。
分かんないですけどね、60万円死んじゃったりするかもしれませんけど、
それはまあそれとして、とにかく聞こうと思えば聞けますから。
そんなにこれを却下しておいても問題はない。
あともう一つはですね、このやり方って一番簡単だと僕は思うんですね。
そこには一つのアドバンテージみたいなものはあると思うんですよ。
タスクシュートしか使わないんだから。
もちろんそれが難しいという場合は、だからその場合は捨ててしまえばいいんですよ。
タスクシュートだけじゃやってられないよねっていうことであれば、
Evernoteであり、Notionであり、分かんないですけどObsidianであり、
LogSeqあり、何でもあるわけじゃないですか。
そういうのを使いいただいて、並行してやっていただければいい。
ただ私にそれを尋ねられても、お答えの仕様がないですよ。
どうやれば長期計画のためのプロジェクトノートのツールを並行できるんでしょうかと言われても、
実質的に私はそれを使ってないから、これについて何となくは分かりますけど、
何となくNotion使うとこうなるだろうなみたいなことなら言えますが、
これは専門の方が他にいっぱいいらっしゃるわけだから、
そっちに聞いたほうがいいと思うんですよ。
佐々木も同じ方法を使ってないと不安になるなどという必要は、
さらさらないと僕は思うんですよね。
僕はそれらを使っていないというだけであって、
使うとまずくなるという話をしているわけではないわけですから、ある意味ではね。
私は使うとうまくいかなくなる気がするんだけど、
プロジェクトの管理方法
それは私の事情ですから、
使わないと不安だっていうんだったら、お使いになったらいいと思うんですよね。
しかもこれ100チャレ編向けに喋るときは、もっと気をつけて喋ってますから、
100チャレ編じゃないときに喋っていることまで含めて整合性を取ろうとして、
ここに矛盾があるんじゃないかとか考えられる必要は僕はないと思うんですよね。
そんなことをしていたらキリがないじゃないですか。
そうしたら全ての人の方法の間にある矛盾みたいなものを全部突き詰めて考えてからでないと、
何にもできないということになる。
でも実際にそんなことをしなければならないことのことはない。
これが3つ目の理由だと僕は思ってます。
つまり実際には長期計画と言ってみたって、
そんなのが大事になってくるのは1つや2つだと思うんですよ。
10個も20個もそんなのがあったらむしろ大問題だと私は思いますよ。
現在20個のプロジェクトが並行して走ってて、
1つ1つの締め切りが全部違いますとか、
3ヶ月後のあれば1年後のもあるし、
10日後に迫っているのもあればみたいなことをやっていたら、
その事態自体の方法をまず何とかした方がいいと、
私なら思いますね。
だってタスクシュートでやってて、
1日分それも100日チャレンジでは今推奨していませんが、
私がやっている限りでは70ぐらい、
人間は5、60の名前のつかないタスクとかいう話もありましたが、
とにかく名前ついているやつだけでも50個ぐらいはあるんですよ。
長期計画と何の関係もないですからね。
朝食とか歯磨きとか、長期計画も何もないじゃないですか。
そんなものに。
そういうのが大半のはずなんですよ。
寝るとか入浴とか、入浴に長期計画はないですよね。
まずこの1ヶ月では10分だけ入り、
次の2ヶ月では安心浴にしてとか、
そういうことはできますが、
それは長期計画でも何でもないですよね。
趣味で勝手に分けているに過ぎない。
これことをわざわざ言うこともないんだと思うんだけど、
散歩とか、長期計画とほぼ何の関係もないタスクのほうが圧倒的なんですよ。
ということはつまり、私の方法だろうと、客さん志向だろうと、
J松崎さんの方法だろうと、
それぞれがそんなに違っているわけじゃないんだけど、
私さんの方法だろうと、どれをやっても、
大半のタスクの管理に関しては同じようになるはずなんですよ、これが。
タスクシュートである限りはね。
やっぱり歯ブラシ、歯磨きとか、朝食の準備とかするのにおいて、
客さんもガンドチャートもいらないじゃないですか。
だから私がやってるのと、方法を報酬しようと、
Jさんが言ってるようにやろうとですね、
同じ結果になるんですよ。
本当にそこで違いが起こるとすれば、
3つから5つっていうところだと私思うんですね。
そこにどれがベストか、ノーションなのか、エヴァノートなのかで、
そんなに頭悩ませるぐらいだったら、
とりあえずやってみた方がいいと思いますね。
どうせ3つか5つの話であり、
それ合わせて1時間から2時間の話なんですよ。
そんなにガリッガリにバッチリガンドチャートを引いて、
締め切りから考えて、
これにきちっと間に合わせなければ、
精子に関わるみたいなプロジェクトをですね、
人間1日のうちに50も60も回せませんから、
そんなことができるわけがないんですよ。
だって単純計算してみればすぐこれはわかるんですね。
起きてる時間って長い人だって18時間ぐらいじゃないですか。
1時間で60分で構成されてるはずなんですよ。
これはもう少しくと関係ないですよね。
1時間は60分で構成されてる。
長い人でも19時間起きてるとしましょう。
ってことはどういうことかというと、
60さっき私やることあるって言いました。
60前後やることがあるということは、
1つのタスクに割り当てられる時間は、
せいぜい19分。
これ19時間起きてる人の計算ですからね。
19分の20分がいいところなわけですよ。
1日20分しかやらないようなことが、
自分の精子を分けるのではたまったもんじゃない。
しかもそれだけやることはできないんですよ。
今言ったのはすっごい極端な例で、
じゃあもう私はプロジェクトまみれなんですと。
1日50個ぐらいあるんですってことになったら、
その1つのプロジェクトにかけられる時間は、
1日20時間起きてる人でも18分ぐらいだってことに、
計算上なっちゃうんですよ。
たまったもんじゃないじゃないですか。
そんなことをやっていたら死んじゃいますか。
普通に考えればプロジェクトが一向に回らないと思いますね。
それはどんな方法を使っても回るはずがないですよ。
だって15分おきに、
この話って寝食もトイレもほとんどできないという、
前提でしている話ですからね。
そして50なりのプロジェクトを、
15、6分ずつガンガン回していって、
あとは寝るみたいな。
寝られる時間もせいぜい4時間みたいなね。
死んじゃいますよ本当にそんなことやってたら。
だからそうはなってないはずなんです。
多くてもプロジェクトというのは、
自分ががっちり取り組めるのは、
僕の考えでは1つか2つです。
よくてね。
3つ4つやってる人は相当大変だと思ってます。
3つ4つやるのを本当に真剣にどれにも取り組むってなると、
4つだったら4時間かかるわけですよ。
でもさっき言いましたが、
自食・重診食合わせると、
私の考えでは、
一種類7、8時間は持っていかれるので、
寝る時間を加えてますからね。
3食と3食の準備と寝る時間と入浴と加えて、
しかも休憩を入れれば、
17、8時間は有に行くんですよ。
本当はもっと生きうる。
18時間に達して、
4つのプロジェクト1時間ずつ、4時間でしょ、22時間。
ほとんどもう残ってないじゃないですか。
これは仕事ばっかりしている人の話ですからね。
だからこの考え方をとる限りですね、
どの考え方をとっても、
本当は一緒だと僕は思うんだけど、
毎日やることに視界を集中させる。
私はそういう方法に近い、そういう方法なんですよ。
毎日というよりは毎分なんだけど、
逆算なり、そういうことをJさんが言ってるわけじゃないんですけどね、
長期計画なりを俯瞰するという考え方をとったとしても、
そのどっちを採用するかで悩むプロジェクトってのは、
たぶん2つ程度なんですよ。
それだったらどっちでもいいと私は思うんです。
残りの49項はどっちにしてもほぼ同じ方法をとることになりますから。
怒られることの意味
そういうことです。
だから自分のやりたいようにやりましょう。
私の方法、私の喋ったほどに
いちいちとらわれる必要は別にないということですね。
これが4つか5つ目の理由かも、
なんかもうよくわかんなくなってきたんでいいですが、
あと6つ目か7つ目の理由の理由として、
私はそれより全く気にならないんで、
私以外の人がタスクシュートをどのように使っているとか、
どう理解しているという話については、
私はもう全然気にならない、全く気にならないんで、
そのことで私が自分の支持者が増えてうれしいとか、
減って悲しいとかはありませんから。
むしろその人が誰の方法なり、
自分の方法なり、何でもいいんですけど、
しっくりきてるかどうかだけが大事だと思いますね。
こういうものは特に。
そして私の考えでは結局誰のやり方を採用しても、
さっき言った通り大した差はない。
実質的な差はない。
だからここにこだわらないほうがいいと自分は思うんですよ、本当に。
全然こだわらないのが一番いいと思うんですよ。
私だって趣味でガントチャートを弾いたりしてもいいと思ってるんですよ。
やり方がよくわからないからやらないけど、
別に趣味でガントチャートを弾くのは全然いいんですよ。
趣味でエバーノートを使うとか、
趣味でログシークを使ってみるとか、
全然ありだと思うんですよ。
だからここにこだわりじゃダメとむしろ思うんですよね。
仕事進めてるわけじゃないんですから。
僕の考えですけど、
僕はちょっとそういう風な方向に偏ってるのかもしれませんけど、
やっぱり原稿とか本のプロジェクトっていったらですね、
どう進めるかなんて相当かなり言いますから、
重要じゃないとは言わないんだけど、
やっぱり僕はですね、一文字でも多く書いたほうがいい派なんですよ、結局。
そういう人間なんですね。
だからこのポッドキャストとかYouTubeとか最近やってませんけど、
ノートとかでも全部そうで、
毎日やる仕組み作りとかには本当のところあんまり意識回してないんですよね。
ポッドキャストなんてしゃべればいいと思うんですよ。
だから1分でも手がけるというJさんの文脈があるんですけど、
私の文脈で言えば0と1じゃ全然違う。
これはですね、毎日の積み重ねがって言ってるんじゃないんですよ、私はね。
習慣化が大事っていうのとかそういう意味ではないんです。
積み上げる量が大事とか700回が大事とか、
僕は700回だろうと800回だろうとそんなことは大したことではないと思います。
大事なのはこのしゃべっている話を聞きたい人にしてみれば、
この声、声ってのはちょっとやだな。
このポッドキャストの番組がアップされているかいないかが大事だと思うんですよ、やっぱり。
記事もそうで、毎日上がっているかとか穴が開いていないかとか、
正直そんなのは発信する側の満足ですよ、と思いますね。
私はやっぱり本当に子供の頃の記憶なんですけどね、これは。
好きな漫画が発刊されていない時のあのがっかり感が来たらやっぱり大きいんですよね。
他の人にとってはどうでもいいことなんですけど、
代わりに800億記念とか言われても大して響かなかったんですよ、正直。
やっぱり出している人の気持ちですよね、それはそれで大切だけど、
用側の視点に立ってみれば、あるかないかっていうのがもう分けるわけですよ。
だから質をいくら落としてもいいからとは思わないんですけど、
やっぱりこれに期待している、なんていうんですかね、
ここはちょっと僕はクラウドの平蔵さんと完全に一致してるか一致してないかっていうのをちょっと考えちゃうんだけど、
本当は考えなくていいことなんだけど、最高品質ということかどうかはとりあえず置いといて、
私がちゃんとできるラインっていうかな、そのミニマムって意味じゃないですよね。
このPodcastではこういう感じの感覚、感触が得られるはずだっていうのが、
繰り返し聞いてくださっている視聴者さんにはおそらくきっとあって、
そういうものが担保されている限り数は多いほどいいっていうふうに私は思っているんです。
本もそうなんです、私の中でも。
最高品質ならもっと数減るだろうなとは思うんだけど、
佐々木の本を読みたいと思う人が、
佐々木の本とはこういう感じを読中の楽しみとして得られるんだっていう、
そのレベルのものが世に出る限りは考えが少々変わろうとなんだろうと、
数は多く出ていた方がいいと思うし、
もう昔はGood Vibes以降考え変わったから前の本引き上げますとかは、
信じることと確信
私はしない方がいいと思うんですよ。
やっぱり漫画家さんの昔の作品とか読むと、
僕が好きなのは大半全部集めるようなところがちょっとあったんで、
下手は下手ですよね。
例えば、最近亡くなっちゃった不運地たちを描いた源太郎さんとか、
初期の作品は結構ひどいものだけど、
やっぱり僕はほぼ全部、手に入る限り買って読んだんですよ。
レイ・ミゼ・ラブルとかね、ホモホモセブンとかね、
わけわかんないこと言ってるようですけど、面白いんですよ。
私に言わせればね、彼の絵が載ってる漫画であれば何でもいいんですよ。
ある意味そういう読者もいるんですよ。
あれが質が低いから出さないでおくべきだとは僕は思わないんですよね。
だから私は出すんだけど、
それは最低品質でもいいから数をたくさん打ちましょうっていうのとも、
また僕の中ではちょっと違うんですよ。
今日はこんな話でなぜか18分も使っちゃってるの。
もうやめますね。
だからつまりダスクシュートの使い方というのは、
私が思うに方針はそれぞれあるんで、
それはそれなりに意味があると思いますが、
やってれば誰もがだいたい同じところに落ち着くはずなので、
そこに過度にこだわることはないという、そんな感じですね。
改めて何を話せばいいのかもはやほぼわからなくなってしまったんですけどね。
最近、何と言えばいいのかちょっと。
何も新しい発見ではないんですが、
とても新しい発見をしまして、
散々喋ってもいたし困ってもいた。
昔本当これで困ってくれずに相談したくらいなんですけど、
怒られる問題ってやつですね。
これがですね、僕の中でいつの間にか決着していたんですよ。
いつしか怖くなくなってたんですよね。
まだ静電気が怖いから、これが怖くなくなったということの意味は
僕の中では明快なんですよ。
つまり静電気は怖いけど、怒られるのは怖くないんですよ。
全く怖くないのかって言われるとちょっと考えちゃうんだけど、
怖くない感じがするんですね。
アトピー治った時と似てるんですよ。
お前本当にどの皮膚科に見せても治ったと言われるのって言われると困っちゃうんだけど、
治ったんですよ、僕の中では。
こういうのってあるんですよね。
難しいんですよ。
医者の言うことは医者の言うことで、
いやあなたはまだアトピーですよって言われれば、
多分それはそれで本当なんですよ。
怒られることの不可能性
でも私の中で治ったというのも確実に本当なんですよ。
こういうことあるんですよ。
まあ、よた話みたいなもんだけど、一応ご理解いただけると嬉しい。
で、私怒られるのは怖くなくなったんですよ。
いつしかね。
もちろんgood5sのおかげなんだけど、
いつなのかって言われるとちょっとこれが答えられないんですよね。
いつしかなんですよ。
でもなぜなのかというのは、
突然数日前に言語化できるようになったんですよね。
なぜなのかも、
怖くなくなったんだからわかってたんだけど、
なんかこう、
なんて言えばいいんだろうな。
人に説明できるほどはわかってなかったというのかな。
もちろん説明してましたよね、今までもね。
あの説明の通りなんだけど、
でも、
そうか、だからかっていうことが一応言えるようになった。
でもこれも不思議なんですよね。
だからさっきも言った通り、何にも新しい発見はないんだけど、
新発見があったんですね。
これたまたま昨日ですね、
ある方にお話しする機会を得たので喋ってみて、
通ったかなーみたいな感じはあるんだけども、
昔から言ってることと違いはないんだけれども、
でも、もっとこう、なんつうんだろうな。
間違いなくこうだという、
確信を持って言えるようになったというところが新しいのかな。
確信は今までもあったんですけどね。
あったんだけど、
昨日のような確信を持って喋れてはいなかったなということを、
喋ってみて気づいたみたいなところがあります。
でもここ数日喋ってることの内容と多分ほとんど変わらないんで、
そこがね、非常にこう、
この発見のどこが新しいんだろうっていうのはあるんだけど、
私の中で、
信じていたことが確信に変わったみたいな、
そういう変化なんですね。
自分信じることと確信はどう違うのって言われると困るんですけどね。
困るんですけど。
うじゃうじゃ言ってるんで、
結論から言いますと、
つまり、私は非難されるとか怒られるということが、
やっぱりあると思ってたんですね。
この世の中に。
この言い方変だと感じる人いっぱいいますよね、多分。
いやあるだろって言われるかもしれませんけど、
でもないんですよね。
言葉ってそういうもんですよ。
これはだいぶ最初の頃にクラノンさんがすごく強調されていた通りで、
仏教哲学みたいなんですけど、
要するに名前がつけられているその名前通りの行いってないんですよ。
別の言い方をすると、
一度起きたことがあると全く同じことは二度と起きないというのは事実なんですよ。
つまりこういうことですよ。雨は降らないってことですよ。
いや雨降るだろって言われればもちろんその通りなんだけど、
雨っていうのは結局カテゴライズなので、
昨日と全く同じ雨が降ることは今後1億年経ってもないっていう意味では雨は降らないんですよ。
これと同じ文脈で怒られるっていうことはないんですよ。
これは言葉の通りに解釈するとそうなるんですね。
怒られるという事柄は起こらないんです。
特にこの自分が被害に遭うのを受け身刑で使ったときは、
この件について雨は降らないとか真剣に考える必要はないと思うかもんだけど、
怒られるとか責められるとか文句を言われるとか、
つまりネガティブ受導体に非難される、批判される、悪口を言われる、
陰口を叩かれる方のことは起きないっていうのを確信しておく必要があるんだなというふうに私は昨日確信したんですね。
でもこういう話は倉園さんもポッドキャストでもセミナーでも耳たこなくらい話してくださってますし、
私もそれを精神分析的に一生懸命いろんなパターンで喋ってきていて、
それと同じ話をするだけのことになるんですけれども、
でもなんか昨日は違うものがあったんですよね、確かに。
昨日怒られるのが怖くなくなったのではないんですよね。
怒られるのが怖くなくなったのは、いつだったかは正確じゃないけど、ちょっと前なんです。
怒られることと悪いこと
ただ、昨日そのことが私は怒られるのが怖くなくなったんだと、確信するにいたみたいな感じなんですよね。
これはどうでもいいことなんですよ。
どうせ本人にとってしか大事じゃないような程度のタイムラグで、
だってそれが4ヶ月で昨日確信しましたっていうのと4ヶ月後でしたって、
別に他の人から見ればどっちいうことはないじゃないですか。
たった4ヶ月ですからね。
それも正確な日付がわかるわけでもないような話ですから。
だいたい怒られるのが怖くなくなりました記念日みたいなのが確定してみたところで、
どうせ私にしか意味はないわけですよ。
具体的な例で言えばいいと思うんですが、
例えばさっき朝ですね、私がご飯、お弁当のため解凍しておいたんですけど、
1個170gだから、
170gってお弁当でうちの娘のためにはちょうどいいんで、
これは1個でいいなと思ったんですけど、
起きてくるなり、
1個だけ!?っていう声がしたんですね。
これを私は今まで怒られたと捉えてたんですよ。
で、倉園さんのよくおっしゃる言葉を使うなら、
怒られたと捉えたということは、
私は罪悪感を持ったという意味になるんです。
というかね、
もう少し厳密にというか、私の中で厳密に言うと、
私にとっての厳密さを追求すると、
そこに罪悪感というものの存在可能性を信じちゃったんですね。
って感じなんですよ。
わかりにくくなりましたね。
怒られるってことは、悪いことをしたこととセットなんですよ。
何にも悪いことをしていないということが100%確実であるならば、
怒られるということは発生しないんですね。
これ、どうかこういうふうに言っててもわかりにくいんですね。
確かにわかりにくいわ。
誰かが何かに怒るということは、
その怒るという行為の先に悪いことがありますよね。
悪いことをしたから怒るんですよね。
悪いことをしたから怒るんですよ。
もしそこに事実であれ、誤解であれ、事実無根であろうと、
本当に悪いことをしていようと、どっちでも同じなんですが、
これは概念だから、怒るって概念です。
悪いことという対象がなければ、怒るという行為はないんですよ。
そこに悪いことがあるから、悪いことに対して怒るんですよね。
怒るの目的語って、悪いことしかないってことなんですよ。
だから、悪いことというものがこの世に無かったら、
怒るという行為もこの世から消えてしまうんです。
っていう話を僕は暗算をしている気がするんです。
その通りじゃないかもしれないけど、
でも私の中ではこれで決着がついたっていう話なんですよ。
でもこのような話は今までも散々してきた気はするんですね。
してきたと思います。
ただ、ここをあえてめちゃくちゃ強調するに値するということを
昨日知ったってことなんですけどね。そんな感じかな。
とにかく怒るっていうのは対象が悪いことなんです。
だから、罪と罰は人が作ったもので、
罪悪というのは人が作ったものですっていう、
つまりこの世にあったものじゃないんですっていう観点を取るならば、
怒るってことは消えてしまうんですよ。
だから私は怒られるってことは、
その文脈に沿う限りないんですよ。
私が悪いことをしたと全く思わなければ、
怒られたと思うこともできないってことなんです。
カテゴリーを狭める
言語の性質上っていう意味ですね。
これね、昔甘えの講座の取竹男さんが
邪魔で全く同じことを言ってたんですよね。
邪魔されたっていうのは、ある人の主観の中にしかありえないものなんですよ。
いや、世の中には本当にですね、
俺は邪魔をするぜって言って邪魔をする人もいるかもしれないけど、
まずそうではないんですよね。
例えば交差点で車が何か立ち往生してます。
邪魔だな、邪魔されたなって思うというのは、
でも前の車は邪魔をしてやるぜって思ってるわけじゃないじゃないですか。
邪魔されたというのはですね、
被害にあった、
侵攻ということをしようとしている人が、
ある種の不可抗力によってそれが妨げられたと。
妨げるっていうのも同じなんだけど、
妨げられたという意味なんですよ。
厳密に言えばですよ。
だから邪魔されたっていうのは結構なんだけど、
邪魔をするという、
邪魔をしていると意識している主体がない以上、
邪魔されるというのはあくまでも主観の中に生まれる、
一種の被害妄想みたいなものなんですよ。
これと怒られるは実は全く同じなんですね。
悪いことをしたという非難なんだけど、
悪いことってこの世の中にないから、
悪いことっていうのは誰かが定義するものですから。
これは私の言い方であれば超自分が定義するものですから、
それは悪いんだよと。
だから怒られたとか怒られるって思うっていうのは、
私は悪いことをしたんだっていう感覚とセットなんですよ。
で、怒ることの目的っていうのは、
この悪いことをしたという意識を持たせることになるんです。
だからここはものすごくループしていくんですね。
怒られるって思った段階でも目的は達成されてるってことなんですよ。
怒られると思ったということは、
私に非難されるポイントを認められたという意味なんです。
で、ここである種の人は、
私さっきの1個しか回答しなかった件のようにですね、
いや、でも悪いことを私はしようとしてないし、
悪いことしてないじゃないって言った時には、
今度はですね、悪いこともしていないのに怒った人がいる。
つまりそれは誤解や間違いによって、あるいは権威を振りかざしたり、
なってない人が悪いこともしていない私を怒ったという罪を犯したと思ってるんですよ。
でも世の中に罪悪がないということはですね、
悪いこともしていないのに怒るということは罪じゃないんですよ。
だから、そのような悪は存在しないんですね。
これはこう言うといかにも詭弁っぽく聞こえてくると思うんですけれども、
だからですね、多分多くの人が言うようにそれが本当なんですが、
相手は怒っちゃいないんですよね、この場合は。
そんなことは信じられないと言われるかもしれませんけど、
よくその時々の行為をきっちりカテゴライズするようにした方がいいと思うんです。
この問題で苦しんでいるなら、私は苦しんでいたから、
必ずこれのカテゴリーに当てはまるものなのかどうなのかを
いちいち検証するという作業を散々やってきたんですね、散々。
例えばさっきの1個しか回答してないんだ、1個なの。
これは大きな声で1個なのと聞いてきた。
事実、ここまでは確実なんです。
1個なのと確かにそういう言葉でしたからね。
もうちょっと悪い感じがしましたけど、悪い。
これもまた主観が入ってますよね。
だからもうちょっと音程が高かったですけどね。
音程高く1個なのと聞いてきた。
音量は大きい。
これは避難したというカテゴリーに確実に入ると言い切れるかという問いを立ててみるべきなんですよ。
同じ雨は二度と降らないって私は途中言いましたよね。
それと同じことで、これと全く同じ現象は二度と起きません。
カテゴライズとはそういうものです。
では、いろんな似たような事例、似たようだと私が思う事例はあるんでしょう。
避難されたと思った時に集めてきた事例っていっぱいあると思うんですよ。
その中に避難されたという、あるいは避難した、怒ったというカテゴライズを厳密にして、
なるべくその中には多くを含めないようにしましょうと。
ここは僕、つまり妥協してるってことです。
本当は怒るという行為はないんだけど、
いやいや、でも何の罪もない、何にも悪い事をしていない人となるもダメだな。
極めて強い調子で攻めてくるというのは良くない行為だというのであればですね、
つまり本当に怒るというのはこの世の中には一個はあって、
怒られることの意味
それは本当にダメな行為だと言うならば、そのためにこのカテゴリーはとっておくってことをしてもいいと思うんですよ。
つまり検証する価値はあるってことですね。
検証してみて、これは避難されたという風に本当に値するかどうかというのを、
可能な限り検証してみて、なおそうだったら避難されたことにしてみよう。
それぐらいでいいと思います。
これが現実を見に行くってことだと思うんですね。
で、これを私は長らくやってきていて、いつも当てはまらないんですよ、完璧には。
完璧に当てはまらないものはこのカテゴリーに、僕がこのカテゴリーに入るものを減らせば減らすほど良いと思うので、
増やせば増やすほど私は怒られどうしになっちゃうじゃないですか。
これは分かりやすいですよね。
小雨だろうと、霧雨だろうと、ものすごくどんよりしている空であろうと、
全部雨天であり、例えば雨天中止にするってことにしたら、中止になる可能性はぐんと高くなりますよね。
だからこのカテゴリーを狭めれば狭めるほど良いことって起こることがあるわけですよ。
私は怒られるというカテゴリー、避難されるも悪口をやれるも全部同じ。
ネガティブプラス受動体というもののカテゴリーの中に入れるべきことを極限まで減らすことができるとすると、
どこまで減らせるかという実験をしてきたわけですね。
私の場合はゼロになる。
ゼロになるんですね。
なぜゼロになるのかというと、今言ったような事情なんですね。
全く自分に火がないというふうに確信した場合は、
それは怒ったという表現には厳密に言うとならない。
なぜなら怒るというのは悪いことに対して行われること。
悪いことがここにない場合、相手は怒るってことはできない。
できることは尋ねるだったり、声を大きくするだったりなんですよ。
顔に血をのぼらせる、そういうことができるんです。
でも怒るってことはまだできない。
そこでですね、1個で十分だと思うけど、2個いるんなら回答するとするじゃないですか。
決してそれで一気に表情が笑顔に満ちるなんてことは起こりませんけれども、
その後の発言がほぼ穏やかなものになった場合、
さっきの一言は非難したにはならないんですよ。
そこのカテゴライズを狭めておけばそこに入らないんですね。
そうするとそういうことをやっていくと、めんどくさいかもしれないけどやっていくと、
怒られるというカテゴリーに入った事例が消えていくんです。
実質消えかけてるんですね。
このカテゴリー自体は今言ったような事情で私は妥協して残してあるんだけど、
カテゴリーの中に具体的な事象が滅多に入ってこれない、集まらない。
事実上ここ1年以上はほぼゼロだと思います。
そうするとカテゴリーって意味を失うんじゃないですか。
カテゴリーに属する具体的な事例がないようなカテゴリーって意味ないじゃないですか。
そして原理的にも悪いことに対して怒るという行為が悪いことに対して起こる。
でも悪いことというものがない。
私は悪いことというのをしないってことになってくると。
犯罪のようなものを一旦置いとくとしてですね。
私はここ1年は少なくても犯罪はしてないと思うので、
外でおしっこするのを深めてもしてないと思うので。
交通違反もしてないんですよね。
ここ3年はしてないです。
少なくともそれで捕まったということはないです。
レッドバイオスの行動とバッシング
速度制限超過がゼロだとは言いませんけどね。
ほとんどしてないですよね、それも。
そういう意味で、
これはでも定義された罪悪とは見なさないっていうのがレッドバイオスにありますから、
それを含めればですね、ゼロなんですよ。
悪いことは一切していない。
悪いことというものがないわけですから。
極力ないというふうに考えるならばですね、ゼロになる。
失策とか失敗もないわけですよ。
人がどう言うかはまた別ですよ。
ただ、これもまた今言ったような事情で、
実は人が言うってこともほとんどない。
人が何かを言うってことはあるんですよ。
それがバッシングかパージかっていう話になってきたときは、
さっき言ったようにカテゴリーは僕は狭めている上に、
悪いことに対してバッシングする。
バッシングってそういうことですよね。
だからバッシングされるかもしれないと思ったら、
私は悪いことをしたっていうふうに感じたって意味になっちゃうんですよ。
全く自分に身に覚えがなかったとしてもそうなんですよ。
なぜならばバッシングとは悪いことに対して向かうものだから。
私がバッシングを受けるかもしれないと思ったときには、
身に覚えはなくても私は架空の悪いことを自分がしたと、
思い込んだって意味になるんですよ。
これはとても若げているじゃないですか。
だからこれをなんとかクラゾンさんに寄せるとガッツで辞めるって話になるんですよ。
もう一つは身に覚えがないのにバッシングをするっていうのはどうなのって話なんですよね。
最後に残るのはこれなんですよ。
このときにそれがバッシングなのかどうなのかをちゃんと見ている。
問い合わせだったりする。
勢いがついてるかもしれないけど。
問い合わせだったりするかもしれないし、
単に声がでかいだけかもしれない。
あるいはその後の怒りというものを私が予測しただけなのかもしれない。
これもとても多いんですよね。
ここで下手なことを言うとこの人は怒り出すみたいな。
ここで下手なことを言うと怒り出すっていうのがまさに、
さっき言った通りの図式になってると思うんですよね。
下手なことというものを私が認めてしまったからそういうことになるんですよ。
そういう解釈になっちゃうんですよ。
何を言っても下手なことじゃないんですよ。
だったら相手が次に言ってくると、
怒声とか罵声ではないんですよ。
あくまでも興奮した上で大きな声が出たっていう話なんですよ。
興奮した上で大きな声が出たということは罪悪じゃないですよね。
多分私の考えでは罪悪ではない。
それはうちの娘でもやりますからね。
興奮して大きな声出す。
選択するバッシングされるカテゴリー
こういうふうに追っていくと誤解で怒られる。
誤解で怒り出す罪っていうものもこの世で犯す人はほぼいない。
ちなみにこれはほぼいないなんて言ったところで、
信じがたいよっていうケースはいくらでもあると思うんで、
だからこそ自分の身の回りの事象、現象は
自分で全部検討していく必要があるんですよ。
ここで私は残る選択は2つだけになると思うんですよ、最終的に。
そんないちいちめんどくさいことはやってられないっていう場合はあると。
僕はやったんですけど。
それはこういうことですね。
これがいちいちめんどくさいことはやってられないというふうに考えると、
必ず怒られたというカテゴリーにバンバン放り込むことになります。
あのあれですね。
部屋の片付けがめんどくさいから同じ箱にいろんなものをどんどん詰めていくっていうあれです。
いろんな事象、ちょっと大きな声で問い合わせが来たとか、
ちょっと厳しい目で見られながら喋られたとかを全部怒られたというカテゴリーに入れれば、
怒られるということはものすごく増える。
それでもいいめんどくさいからっていうのは選択としてありだと思うんですよ。
いちいち部屋の片付けのとき、
おもちゃとプラスチックと書類を分けるのはもう面倒でやってられないから、
全部同じ箱に入れてその他って書いておく。
あるいはこうなんだろうな、
まあなんでもいいんですよね、小物とかって書いておく。
自分でかいこのものもあると。
それはいいんですよ。
そうすると小物だらけになるってことですよね。
そうすると怒られることだらけになる。
選択なんだと思うんですよね、そこは最終的には。
私はここは手間暇かけても、
怒られる箱っていうものには空にしておきたい。
そうすれば怒られるってことはなくなるんですよ。
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