00:04
おはようございます、Take2です。
グッドモーニングバイブスです。
なぜTake2なんだろう?
別に気に入らなかったってわけじゃないんですけどね。
でも、自分のある種のノリがやっぱり好きになれずにTake2にしました。
10月31日にセミナーをやります。
昨日、連追したつい顔色を伺う私を手放す方法の出版記念セミナーという格好で、
クラズノケイゾウさんにもご参加いただいて、
要は皆さん、10月31日セミナーにもし来ていただいたら、
11月1日以降、人に怖がられることへの恐れは、
多分、当社費で半減する。少なくとも半分以下になる。
うまくいけば消えるっていうつもりでやります。
私は今はほぼない。
もうそういう年齢じゃないし、雇ってくれるところはそもそもないと思うんですけど、
会社行けるって思います。
これが40年生きてきて、48年生きてきて、会社行けると思えるように確信できているのが、
48になってからだっていうのが僕って人間なんですが、
そうは言っても、NTTドコモサービスに行ってたんですけどね、派遣社員とはいえ。
行けるっていう気は持ってないまま行ってたんですよ。
やっぱりあれは厳しいですよね。
すごいひどい目にあったとか、ブラックだったとかは全然ないんですよ。
本当に。怒られたことだって全くないというわけじゃないけど、
もう数えるほどしかないんですよ。
でも毎日憂鬱だったと。これがもうないと多分思うんですよね。
満員電車とかは僕は依然として憂鬱だと思いますけど、
グッドバイブスでも憂鬱だと思いますけどね、私にとっては。
でも会社に行くっていう憂鬱さ、特有のものがあったんですが、
それは今はあんまり考えるところはなくなっています。
でもそれは今年に入ってからぐらいなんですよ、私にとっては。
この心境の変化は非常に大きい。
今、行かれてる方とか、行かないわけに行かないっていう方もいっぱいいらっしゃると思うんで、
信じられないっていうこともあるとは思うんですけど、
私はこの本に書いた通りの流れで、この問題は解消できるはずだと思っているので、
お勧めしたいと思います。
昨日の連追なんですが、連追はつまり、
Twitterにですね、バンバン本に書いたようなことを、
こういう言い方でも言えるっていう内容を書いたんですね。
最初あれ、ノートってありますよね。
あっちで書くつもりでいたんですが、なんとなく連追しちゃいました。
要は迷ってるわけですよ、私はSNSとかそういうのの使い方で。
03:01
いろんな解があるじゃないですか、こういうふうに使うべきって。
私自身がそれについて喋ってたような時もありましたから、
でも私は今は全部信用してないんですね。
理由は割と単純で、答えを言っている人たちの基準がよくわからない。
例えばSNSであれば、それによるよりバズる率とかフォロワーが
もう絶大的に圧倒してなければいけないと思うんですけど、
僕の考えではですね、一つにフォロワーを増やすっていう意味であればね、
だって100万とかの人もいるわけじゃないですか、あんまり知らないですけどね。
そういうふうになれなかったとしてもっていう話が出たら、
僕は基本は信用しないんですよ。
喋っている人が10万ではないですっていう話をしているのに
バズる方法とかフォローされる方法と言われても
納得はできないという立ち位なんですね、私はきっと。
100万とか言うのはあれはダメですっていう話をされると、いよいよダメなんですよ。
あっちが間違っているんだけれども、あっちの方が多いっていう話になっちゃうのは
納得できないんですよね、私は。
私って人間は結局、ある方法がある基準に基づいているというならば、
その基準に則って、白黒がはっきりしてしまうというふうに感じてしまうので、
相手の言っていること自体は受け入れられるんだけれども、
それを私が実行する気になるかというと、明瞭に無理なんですよね。
だから私は結局、もしこれにより効果があるという話であるならば、
その効果通りの効果をその人が出していないと受容できないというところがあります。
ので、私はタスクシュートというものとグッドバイバスというものを
私が書いたような話をお勧めするんですね。
会う会わないとか、人によって会う会わないがあるとかは分かるんですが、
私が効果を発揮、自分でさせられなかったことを人に勧めるということはできないんですよね。
だからこれが誠実とか正直とか、そうなのかもしれないですけど、
僕の中ではそういうことよりも、効力のないものって好きじゃないってことがあるんですよ。
自分が効力を感じなかったものは結局好きじゃないんですよ。
好きじゃないものを押すっていう気持ちになれないんですよね。
押すのは好きなものだから押してるわけで。
これは、なんていうのかな、固くならないとは思うんですけれども、
ただ単にマッチングの問題だけで処理する気にはなれないんですよ。
でも正解がないというのはよく分かります。
私結局SNSにいるのは何の正解もないと今では思っているので、
06:03
好き勝手なことをつぶやこうとも思ってるんですよ。
ただ好き勝手なことをつぶやくようにしてるんだけれども、
意外につぶやけてないなと。
なんでだろうっていうことを考えて、
昨日の連追のような話に戻るんですね。
要するに、罪っていう罪悪感って話はしょっちゅうしてるんですけど、
もう一つ僕は、派生物というのかな、
これは精神分析でも非常にしばしば話題になるんですよね。
恥という概念があると。
しかもネガティブな方。
ポジティブな方もないわけじゃないんですよ。
恥に有意義な意味があるって話じゃないですよ。
そういう意味では恥も罪も僕はダメだと思ってるんですが、
恥ずかしいというか、
もうちょっと言うとバカだと思われるってやつなんですよ。
このイリュージョンをなんとかしなければいけないっていうのを
ツイートするたびに考えるんですね。
僕はブログではこれ感じないんで、
間違いなくイリュージョンなんですけれども、
ツイッターだと感じてしまう。
僕も昨日連ツイしたんですよね。
あれは結局顔色を伺う方法のCMとして連ツイしてるわけです。
二重に何か自分にとってネガティブなイリュージョンが走るんですよ。
一つは告知をするということ自体にある種の後ろめたさがある。
もう一つは告知に失敗するということ。
こんなツイートではダメだと言われることについてある。
どっちも無用だって思うんですよ。
人が言う分には良いはずなんですよね。
これがクラウノさんがグッドバイオスのブログで書かれていた通り、
彼らは彼らのものだから、
僕に何を言っても良いはずなんですよ。
僕がこの話なんですよね。
つまり顔色を伺うということは怒られたくないということで、
怒られたくないということは馬鹿にされたくないということでもあると思うんですね。
ちょっと昨日チラッと目に入ったんですけども、
言う内容じゃなくて言い方の問題なんだっていうお話があるんですよ。
HSPさんとか先生さんにとっての問題は言い方の問題なんです。
つまり注意されるのはいいんだと。
でもその注意の仕方っていうものがあるだろうと。
まあまあありますよね。
特に乱暴だったり粗暴だったり大声である必要はないだろうって話なんですけど、
僕はこれは問題の本質じゃないと思っているわけです。
これはですね、クラウノさんに昔グッドバイオスで怖い対策として一つ。
VRをつけてみるっていうのを僕も本の中で書きましたけどね。
09:03
VRで疑似体験すると。
で、私はですよ、目の前で怒鳴っているVRを見ても怖くもなんともないんですよ。
怖いって人もいるとは思いますね。
だけれども私は怖くもなんともないんですよ、VRだったら。
これで私にとっては問題は言い方の問題とかじゃないことになるんですよ。
大声を出されること自体が嫌なんだとか、
怒られている人を見ているだけでも自分が怒られている気になるとかいうのは、
声の出し方とかその内容の粗暴性とかいう問題ではないと思うんですね。
もしそうであるならば犬に吠えられてもめちゃくちゃ怖いっていうことになっちゃうと思うんですよね。
声が出かければ。
でももしそうならないというケースがあるならば、
それは敏感さだけの問題じゃないと思うんですよ。
昨日悔しさというのをキーワードに出したのはそういう理由なんですね。
VRに怒られても悔しくはないと僕は思うんですよね。
ここにあるのは正しさの問題であって、
単に敏感さだけの問題だとは思えないわけです。
怒られている人を見て何で気分が悪くなってくるのかというと、
その怒り方に問題があるのではなく、
やっぱりその言い分に問題を感じているんじゃないかなと思います。
その言い方がもしどれほどある程度穏やかなものだったとしても、
その内容に納得がいかないと多分気分をその人は害するんじゃないかというふうに思います。
そうするとこれは敏感でもなんでもないんじゃないかって話になるんですけど、
何が敏感なのかというと、正しさについて敏感なんだと思うんですよ、私は。
HSPと言われている方々は、繊細さんという方々は、
そういうことで怒られるということが、あるいはそういうことで怒る人が嫌なんだと。
もうちょっと言うと、そのことでケチをつけるというその価値観が嫌なんだと。
でも我々は人の価値観に口出ししにくい時代に生きているので、
飲み込むしかないと。
その時に粗暴さとか口調とか、怒鳴られるということを問題視、
事差の問題視しているように自分は思っているんですね。
だから大きな問題はびっくりすることとかじゃなくて、やっぱり悔しいことなんじゃないかと。
だって、よく言う通り後に引きずるという話あるじゃないですか。
後に引きずるという時はもう怒られちゃいないわけですよね。
知覚的な過敏さが問題になっていないと思うんですよ。
怒られたことを後々まで記憶の中で苦しんでいるということは、
その言い分の問題であって、言い方の問題じゃないと思うんですね。
言い分に納得ができないということはことだと思うし、
12:04
それはおかしいことじゃないと思うんですよ。
なぜならば、我々の正しさというのはすこぶるいい加減なので、
みんながみんな適当なことばっかり正しいと思っているというのが実情だと思うんですね。
だから、この正しさは絶対ですという話に納得できないということはザラで、
そのことによって他人が行動を制限されていたりコントロールされているということに
気分の悪さを覚えるということもごく普通に、
ほぼ確実に毎時間のように起きるに決まっていると思うんです。
そのことについて問題になっているのであって、
地殻花瓶はついでにあると思うんですけど、
あくまでもついでにあるものじゃないかなというふうに考えているところですね。
私たちは、昨日もこの話をしましたけど、
やらかすという、私はやらかすんだけど、やらかす問題というのがありまして、
やらかした時も、僕は罪の意識を感じるというよりもまず恥の意識を感じるんですね。
同じことなんですけどね。
この恥の意識を感じたという時に、最初は自分が恥ずかしいんだけど、
そのうち恥をかかせた奴が憎らしいに切り替わるわけです。
この2本目、つまり憎らしいは100%イリュージョンなんですが、
その前に恥ずかしいがすでにイリュージョンなんですね。
このことが超大事だと思います。
露頭に迷う話もしますよね。
売れない本ばっかり書いていると、そのうち誰からも声がかからなくなって、
露頭に迷うというこの一連のイリュージョンがあると。
そこまでいかなくても売れない本ばっかり書いていると、
声がかからなくなるぐらいの想定は正しいんじゃないかという話も時押に入ってくるんですけど、
私はそういう問題では全くないと思ってるんですよ。
想定そのものがイリュージョンであって、
それ自体をやめるようにした方がいいと思うんですね。
ということは、最初の一本が最初からダメなんですよ。
恥を感じた段階でもうイリュージョン。
なぜかというと、一つは過去にやったことだから。
必ずその時の羞恥心に関する不安は未来から来るもののはずだから。
既に起きたことだったら、次のことが不安になるのであって、
そのこと自体は不安にならないと思うんですね。
私たちはすぐそのことから目線を切るので、すぐ分かんなくなっちゃうんですけど、
今今恥ずかしいという時に今今何が起きているかって考えると、
ほぼ100%何も起きてないです。
たまにありますよ。
たまに目の前で何かが起きているってことがありますが、
それはごくごく稀です。
実際私たちが恥ずかしいなんて思っている時なんて、
15:02
私なんかしょっちゅうですけど、過去の何かを思い出してますからね。
子供の頃に漏らしたとかね。
それは40年前の話ですからね。
目の前じゃ何も起きてませんから。
で、一見そのことはただただそのことが恥ずかしいって人は思うみたいなんだけど、
それは間違ってます。
必ず次に何かが起こる不安ってものを考えてます。
例えばそのことを見ていた奴に暴露されるとか、
すごい不思議なんですけどね。
これはイリュージョンじゃないですか。
そのことを見ていた奴の名前も覚えてる人一人もいません。
私は幼稚園時代とかね。
一人いるかな名前ぐらいは。
でも名前しか覚えてないですからね。
顔を思い出せません。
つまりイリュージョンなんですけれども、この種のものは。
この種のことが起きるか起きないかなんて問題じゃないんですね。
起きようと起きないと構わないんですよ、本当は。
次に起きることが怖いんだけれども、
そのことは起きたら困るじゃないかって言うんだけど、
それは真っ赤な嘘です。
起きたら困ると思ってること自体がそもそもイリュージョンです。
起きても困らないはずなんですよ。
で、起きて困る。
例えば人に笑われると困る。
あるいは本が売れなくなると困るって言うんだけれども、
そうじゃないんですよ。
もちろん本が売れなくなると困るような気はしますよね。
自分が悪くもないのに謝ると損をするような気がします。
これが最大の問題なんだと思います。
損はしないんだけれども、損をするような気がします。
で、本は売れなくならないし、
今の私のように売れないのかもしれないんだけど、
そこは問題じゃないんですよ。
これが起きると困ると思うことが問題なんですよ。
こっちの気持ちの方がはるかに重大な結果を引き起こすから問題なんです。
まず第一に苦しむ。
これ本来全く苦しまなくていいことなのに苦しむ。
それは自分の中で本が売れなければいけないんだ、
そういう人生なんだって思うから苦しいんですよ。
私、よく考えてみると48年のうち、
本が売れた年月って、
全部合わせても1年とか2年しかない。
だから私が生きていく上で必須のことではない。
路頭に迷うなんてとんでもないんですよ。路頭に迷ったことがないんですから。
そういうふうに僕らは考えない。
こういう人生設計をしたならば、
その設計に乗っていなければダメだって考えちゃう。
人に笑われるなんてもっとはなはだ馬鹿げています。
私は笑われること多いけど、
たぶん笑われた時間を全部足しても1年になるかどうか疑わしい気がします。
残りの47年くらいは笑われることとは無縁で生きてきている。
18:00
なのに笑われると人生に差し支えがあるとでも思ってしまう。
差し支えないですよ。差し支えたことがないです。
差し支えると思ってなければ。
つまり恥と罪って人工的なものなんですけど、
人間関係の中のものな上に人の価値観で上下をつけているから
人工的なものなんですが、
この人工的な判断はとってもいい加減なのに
何か確信めいたものを感じるんですよね。
損をするっていうのは最終的にはたぶん最大のポイントになります。
結局恥をかくのは損なんですよ。
やらかすのも損です。笑われるのも損。
ただ、どんな損なのかはたぶん考えられていないと思います。
私がよくその言葉では十分ではないと思うんですが、
緻密にっていうのはそういうことなんですよ。
どういうふうにその損は形状されているのか。
金銭的なものではおそらくなく、時間的なものですらないんですよね。
笑われることによって時間を失うことを恐れているわけではないですよね。
おそらく古券とかメンツとか結構古臭いものなんだけれども、
それを失うと仮にしても損なのかと考えるべきだと思うんですよね。
少なくとも私はそう考えるようになったわけです。
なぜなったか。
例えばなんですけど、一つだけではないですが、
露頭に迷うだの、古券に関わるだの、
なんでもいいんですけど人生にダメージを与えるだのと考えるのであれば、
例えば私は何で整形を立てているのかというと、
この種の情報発信ですよね。
この種の情報発信以外、私の整形のメインはほぼない。
おはじめさんとやっているものにしても、
喋ったり書いたりすることだけがメインとは言い切れないですけど、
結局コンテンツ発信をしている。
蔵野さんとやっているのに至ってはましてそうです。
質問に答えるのもある種の、
これを情報発信と言わなくてもいいと思うんですが、
とりあえず情報発信ですね。
自己表現、
Twitterをするというのもそうです。
連継で告知するのもそうです。
セミナーで喋るのもそうです。
もし本当に人生のダメージだの、
露頭に迷うことを心配するのであればですね、
人生設計をどう計画するとかいうことを考えるんじゃなく、
この情報発信そのものを
滞りなくできるようにすることが一番ベストですよね。
これをできないようになったら、
ダメージありますよ。
喋れなくなるとか、書けなくなるとか、
一つにはそれ、怪我を考えますよね。
何か重大な交通事故とかに会い、
21:02
書けなくなりました。
こうなればしばらくは私は発信がピタッと止まるので、
多分差し下がりますよね。
労災認定とか多分されないと思うので、
わかんないですけどね。
でもこの可能性はあまり高くはないんですよ。
ゼロじゃないですけど、あまり高くはない。
もっと遥かによくありがちなのが、
書けなくなるんですよ。
メンタルブロックがかかってってやつですよね。
私メンタルブロックというのも避けたい言葉なので、
心理的にハードルが高くなってって言いたいんですけど、
メンタルブロックの方が通じやすそうな気がするんで、
メンタルブロックにしておきますが、
何でメンタルブロックがかかるのかというと、
現れるというイリュージョンによってですよね。
あるいはやらかすというイリュージョンによって、
あるいは恥をかくというイリュージョンによって、
あるいはやらかすという罪を犯すというイリュージョンによって、
かくと罰されるという恐怖によってですよね。
これもイリュージョンですよ。
これが最大です。
なぜ、こっちを恐れようとしないのかですよ。
私たちは、損をするのが嫌だと言って、
笑われるというのは損だから。
だから、損をするのが嫌だから笑われないようにしたい。
ってすぐ思うんだけど、
笑われるということを恐れることによって、
かけなくなる方の損はどうするんだろうと。
笑われるという恐怖のせいで、
かけなくなったり喋れなくなったりしている人は、
多分、僕が見る限りいっぱいいます。
そういう話を直に聞くことすらありますから。
バカだと思われたくないから質問したくないと。
セミナー中に。
私がセミナーで質問ありませんかというのは、
質問というのはすごいしてほしいことだからなんですよ。
できれば、その人が本当に聞きたいことを聞いてほしいんですよ。
格好のいい質問とかじゃなくて。
これもすごい難しいところのようなので、
強要できないかなって感じもしてるんだけれども、
正直言って、聞かれなければ答えようがないってことって
いっぱいあるんですよね。
聞かれで初めて真剣に考えて、その場でいい答えが出るってことも
いっぱいあるので、
あった質問がないことになっちゃうことは、
それこそイリュージョンだけど、
機械損失感が華らしいので、
ぜひ、その人が一番聞きたいことを聞いてほしいんだけど、
聞くことによってバカだと思われるということを
その人はすごい損害だと思っているから聞けないんですよ。
これがメンタルブロックであって、
このようにして僕たちはコンテンツ発信の機械を
奪われるわけじゃないですか。
この損害はどうなるんだってことなんですよ。
笑われるだろ、恥ずかしいだろ、
罪を犯すだろ、罰されるだろって言ってるうちに、
何にも書けなくなって、何にも喋れなくなるということは、
24:00
交通事故にあうのと何にも変わらないじゃないですか。
僕にとっては。
絶対こっちだと労災認定おりませんよね。
あの、こないだ書いたやつが、
ビブ、ラタネって書くべきなのが、
ラネタって書いちゃって、
すげえ専門の人にバッシングされて以来書けなくなりましたので、
ちょっと生活保護を出してくださいと言っても、
出ませんよきっと。
僕はこっちの方がはるかに怖いことだと思うんですよね、今は。
路頭に迷いかねないですよ、こっちやってたら。
だから僕は売れない本を出してしまったとかいうことに、
メンタルブロックのネタにするということを
自分に許すわけにはいかないなと思うんですよ、
娘とか見てるとね。
このような個人的損失みたいなものかな、
というのを一個一個、
本当はやっぱりこれはカスタマイズだから、
直に話を伺うしかないんだと思うんですけれども、
一個一個ですね、一般論としてでも、
答座を出していきたいとは思うんですが、
この話が最初の、
すみません、
説聴のつい顔色を伺う人、
私を手放そうと直結していると思うんですよね。
つまり読者の顔色を伺っちゃったらアウトだということです。
でも、伺ってますよね。
私はでもこれはやめられつつあるんですよ。
どうするかと。
いろんなことがありますが、
一つ、やっぱりただしたなんですよね。
最終的にというか、
もう第一歩目からそうです。
恥ずかしいというのはただしたにすってないということじゃないですか。
何か違反したということ、
空気が読めてないとかも全部そうですよ。
誰かが空気が読めてないと思った段階でもうダメですよね。
こいつ空気読めてねえとか、
例えばセミナーでもうすぐ終わりの時間だという時に、
大きな質問は思い質問をボンと投げかける。
全然それに対して、その人に対して
罰したいという気持ちをゼロにできないといけないと思うんですよね。
それ質問したやつをバカだと思ってるじゃないですか。
この価値観が自分を縛るし裁くんですよね。
つまり持っちゃいけないものなんだと思うんです。
その種の価値観というものは。
でもまあ人に強要できないですよね。
やっぱり正しさは手放すんで。
人がそういうのをバカだと思うのまで
差し止めることはできないと思うんですよ。
あんなところでこんな質問しやがってと
誰かが思うのはしょうがないと思うんです。
自分がそれをどっちに対しても思わなければいいわけです。
バカだとは思わないということが一つと、
バカだと思った人のことも悪く思わないということがもう一つ。
これをいつもいつも徹底していると
27:00
びっくりしたんですけど、できるようになってくるんですよね。
ある程度。
早速に全部は無理ですが、
かなりの速度で進行していきます。
そうはなりたくないんだよっていう人もいると思うんですよ。
つまり、バカだと思われたくないから
バカだと思う人は罰するんだっていう心の中でね。
これもOKだと思ってないとダメだと思うんですよ。
他人に関しては。
自分に関してはしないようにしても。
ここら辺がややこしいというか
自分の心の中で複雑としていくんだけど
こうでないと結局書けなくなる。
書くってことは複雑なものをいっぱい含んでいくんで
どんなことが何かを
他人に対して何かを
ある基準を作って
その基準にのっとってアウトであるっていうことをやっちゃったら
書けなくなるんですよ。
いろんなところでね。
そういうことが起こるかわかったものじゃないわけです。
だから一切OKということにしておかないと
やっぱり書けなくなるんだなっていう。
昨日の連追していてそのことをずっと感じたんですよね。
メンタルブロックがいちいちかかると。
思われるかもしれないんですよ。
あの種のツイートをしていれば
いろんなことを誰からかまわずですね。
ああ思われたりこう思われたり。
でも全部イリュージョンなんですよ。
思われないって話じゃないですよ。
思われると私が考えているこの考えがイリュージョンなんですよ。
これがいらないんですよ。
思われるのはいいんです。
思われるだけならば書けなくはならないから。
思われるだけならば情報発信にブロックはかからないんです。
誰かが
ラタネを間違うようではダメだって言っただけならば
私はずっと書いてられるんです。
そうだよなと思うからいけないんです。
つまりブロックはイリュージョンなんですね。
イリュージョンがブロックするんですよ。
こうなってくるとイリュージョンなんだか現実なんだかって思うんだけども
先に折れることができない悔しい
相手が正しくないのに私が謝るのは損だというイリュージョンが
これですね。
相手が正しい間違ってるという意味では
間違ってるのかもしれないんですよ。
ただ間違っているにもかかわらず
折れて出るのは損だというイリュージョンが
僕をブロックするんですね。
このブロックが邪魔だということです。
僕は自由に行動できるはずであって
相手が間違っていても
構わず謝ることができるはずであって
現にできるんですよ。
できてしまえば実に簡単なことなんですね。
損だというイリュージョンは起こるんですよその時にも。
でも損だというのはイリュージョンだから損ではないんですよ。
これもまた非常に
納得されない時は納得されないと思うんですけど
イリュージョンはイリュージョンなんですよ。
30:01
夢はイリュージョンですね。
夢の中で謝れないと思っていて
謝らない夢の中で
でも夢の中で謝ったって何の損害も起こらない
というのは事実のはずですね。
だけれどもそういうことは起こります。
夢の中でも私はそういう悔しさにまみれて
結局謝れないみたいなことが起こる。
奥さんとか母とかに
でもそれはイリュージョンじゃないですか。
奥さんも母もいないんだから。
これが夢だと明らかなんですよね。
でも何ら変わらないんですよ現実にも。
本当にメンタルブロックを自分にかけてしまったら
かけなくなりますよね。
その時僕らはすぐに時間がないとか
やらがやすいとかって言うけど
そんなのは嘘ですよね。
僕は嘘だと思うんですよ。
やっぱり馬鹿にされたくない。
叱られたくない。
誰に叱られるんだか知りませんが
叱られたくない。
だからかけなくなる。
っていうのは僕が作ることのはずなんですよね。
本当に叱られることはあるんですよ。
これ何かしつこく繰り返してるんですけど
なぜしつこく繰り返すかというと
その想定が間違ってるのが正しいのか
っていう議論になっちゃいやすいからです。
その想定が間違ってても正しくても
関係ないんですよ。
現実に私をブロックする
交通事故とかを除けば
僕が喋るのを今ここで
口を塞いでやめさせることができる人はいない。
だって僕の周りには誰もいない。
妻がやめろと言っても
やめずに喋ることはできます。
でも今のはだって僕の脳でこしらえたもんですけどね。
いかにこの種のこしらえ者が多いかということで
大橋さんであれ、倉園さんであれ
僕の意見を変える、止める、差し止める
あるいは筆を折らせる
不可能ですよね、本当の意味では。
物理的に警察権力ぐらいを持ってこないと不可能ですよね。
でも人はそんなことをしなくても
糸も簡単に書くのやめちゃいますよね。
ちょっときついことを言われれば
すぐピタッと止まりますよね。
あれ自分でやってるわけじゃないですか。
だって物理的な強制力が働いてもいないのに
止まるんだから。
僕は本が売れなくて声がかからなくなって
うんぬんかんぬんで路頭に迷うよりは
自分が欲打つ状態になって路頭に迷う方が
よっぽど確率が高く
そして糸も絶やすく
瞬速で起こる、瞬速じゃ起こらないけど
速やかに実現すると思いますね。
そういう人は見てきましたし
今でも見ますよね。論文を。
論文なんて多分それしか理由ないんじゃないか
って思うんですよ。
大学で緊急論文書くのに書きあぐねるという話は
33:02
山ほど耳にしますし読みもしますが
多分例外なくイリュージョンだとは思います。
同僚にすげえ言われるとか
直続の教科にすげえ言われるとか答えますよ。
すごい答えます。
けれどもそのことそれ自体を持って
論文を書くのが手が止められるということは
絶対ないじゃないですか。
大々そうじゃなくても物理的な力は発揮しないですからね。
大学の関係者の方って。
物理的に書くのが止まるわけじゃないんですよ。
心理的に止まる。
心理的に強制される時の方が
はるかに有効に止まっちゃうんですよね。
でも心理的なんだから
自分がやってるはずなんですよ。
その時に間違いなく正しさがそこにあるわけです。
笑われるようなことをしちゃいけないという。
で、その教えってのは
社会経験とかでは僕はないと思うんですよね。
世の中の人がそう言うとかでもない。
親だと思うんですよ。
もしかするとおじさんとか親戚のおばさんとか
うんと幼い頃の先生かもしれないけど
僕は多分親だと思うんですよね。
これは僕のちょっと育ってきた生育歴に
多分寄ってると思うんですけど
まあ親だと思います。
だからいう本を書いたんです。
子供になってしまうということですね。
小さな子供になってしまう。
小さな子供になれば書けなくなりますよね。
親が怒鳴る。ピタッと止まるよね。小さい子供の。
そしてとても傷ついた気がする。
でもそれは思い出ですよね。
思い出に引きずられてる。
結局この構図って同じですよね。
思い出に引きずられている。
ツイッターでバッシングされるとか
お叱りのメールいただくとか
全部思い出ですよね。だって記憶ですからね。
この記憶が僕らを路頭に迷わせうるものであって
実際に評判が路頭に迷わせるものじゃないと思うんです。
僕評判そのもの
例えば書いた本がいきなりアマゾンで星1がついて
それしかしばらくの間なかったっていう
しばらくというのは数年という意味ですよ。
ありますからね。かなり初期に書いた本で。
そのことが僕の本をその後書けなくするという力を
一切持ちませんでしたから。その星1が。
これで傷ついて書けなくなって書かなくなるという事態の方が
よっぽど確実に起こると思います。
バカにされるっていうののもう一つの問題は
やっぱり僕は倉園さんのブログを思い出すんですけどね。
彼らは彼らのものだってことを忘れるんですよね。
36:04
この路頭に迷う問題を持ち出す時に
本当に僕らがやってることは
実は相手の気持ちをコントロールしようとしてるんだと思うんですよ。
これがすごく変だと思うんです。
潜在だとかHSPだとか
私がまさにそういう風に自分を思ってたんだけど
私が何をしようとしてるのかというと
妻は機嫌よくあらねばならぬってことにしてるんですよ。
ここがおかしいと思うんですね。
本を書く上でも
ファンは僕のことを称賛し続けてなきゃいけなくなっちゃうんですよ。
そんなこと考えてたら。
セミナーでどんな発言をどんな時間帯にしようとも
周りについてもみんな心よく思うべきだって話じゃないですか。
彼らは自分の分になっちゃってるんですよね。
彼らは彼らのものなんですよ。
だから手放すって僕は言うんだと思うんですね。
で、手放しさえすれば
彼らは彼らのものに決まってるじゃないですか。
怒ろうが機嫌悪くしようが
バカにしようが笑おうが
自由じゃないですか。
僕が本に
いい顔をしなくてはいけない理由は何にもないじゃないですか。
編集さんは義務のようにいい顔をしてくださいますけれども
僕の場合
そんな義務は編集さんにだってほんとはないわけですよね。
クソだと思ってもいいわけじゃないですか。
だって彼らは彼らのものだから。
これを僕らは
なんか取り違えてるんだと思うんですよ。
僕の本に
一円も出す気がしないって思うのは
その人の自由ですよね。
そのことによって僕が路頭に迷うからといって
じゃあ読みたくもないけど無理やり買うっていう
わけにはいかないですよね。
でもこれをしようとしてるんですよね。
どっかで。
だって絶対バカにされない。
絶対笑われない。
絶対低く評価はつけられない。
絶対星に1をつけないとか
絶対怒らないとか
全部こっちでコントロールできるはずだって
思ってなかったら
このコントロールに失敗したことで
苦しむ理由はないですよね。
相手が不機嫌になっちゃったから
すごい残念だって思うってことは
相手を機嫌よくさせることは
本当は僕にはできるはずだと思ってるわけですよね。
あの、イフゼンとかチェックリストとかね
なんであってもですけれど
これほど努力をしているのに
不機嫌になりやがってって怒るってことは
結局私は
妻をこういうふうに態度をすれば
機嫌よくなるという正解を
知ってるってことになるはずなんですよ。
これを
仕事でも
プライベートでも
人間関係のおよそ全てで
例えば自分が習っているテニスのコーチとかね
こういうふうに打ったら
このコーチは褒めてくれるんだろう
って思ってない限り
褒められる以外の反応で傷つくということは
本当はないはずなんですよね。
39:01
このことがやっぱり
正しさってことだと思うんですよ。
正解知ってるってことなんだから。
で、
知ってるはずがないじゃないですか。
知ってるはずがないんですよ。
だからあとは
自分が正解だと思うものを
提出するしかないはずですよね。
情報発信って結局そういうことです。
自分が正解だと思うことを
提出できなくなるときに
僕らが多分
情報発信できなくなるんですよ。