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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
現在、10月31日月曜日の20時30分くらいですね。
残念なことに、昨日、日本シリーズは第7戦をもって、4勝2敗、1引き分けでオリックスが優勝してしまいました。
オリックスが優勝したのが残念なのではなくて、どちらの応援もしていない私としてはですね、第8戦が見たかったというようなんですね。
昨日、ヤクルトが勝ってくれれば3勝3敗、1引き分けで、今日だったのかな、わかんないけど、神宮の野球が楽しめたはずだったんだけど、これが無くなってしまったと。
この辺りはですね、喪失感があって、グッドバイブスでもどうにもならないなと。
これについて、くよくよ思い悩むことほど無意味なことはないんですけど、大体どっちのファンでもないわけだからね。
にもかかわらず、野球がついに全部、第2022年のシリーズは終わってしまったということで、非常に喪失感があり、また2023年の野球が始まるまでは生き延びなければならんだと。
僕にとって野球ってこのぐらいの意味を持っちゃってるんですよね。どうかと我ながら思うんですけどね。
まあまあ、やむを得ませんと終わってしまうわけです。
しかも第7戦まで行くと思わなかったので、はっきり言ってヤクルトが4勝1敗くらいで優勝するかと思ったのに、逆になりましたからね。びっくりですよね。
やっぱりこんなことを一つとっても、本当のことはどういうか、先のことはわかんないんですよね。
本当に第3戦くらいまで見た感じでは、頼むからオリックス2勝くらいはしていいよねと思ってたんだけど、4勝したのはオリックスだったわけですからね。
まあまあ、そういうわけでですね、今日はある意味すっきりとこの収録に臨んでいるわけなんですが、
昨日の話が僕にとっては一つの区切りがついておりまして、もうこのセントラルエゴ、フェアバーンの言ったここに自分を置くぞっていうのがあるわけですよ。
いつになるか僕には厳密にはわかっていないんだけど、しごたのおはしえつおさんとですね、ポッドキャストを出しているんですね。
しごたのキャストと。こちらの中で、私はグッドモーニングボイスについては聞き直しもしなければ何の修正も施さないということを偉そうに述べているわけですけども、別に偉そうじゃないんだけどね。
これには大きな理由がありまして、私これ実はセントラルエゴから究極的に外れてないなと思っている限りはですね、取って出しするっていうふうに決めてるんですよ。
で、外れてしまったなと思ったらそれはもう出さないんですよ。
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修正するっていうのは、人が修正するという言葉を使ったときに、これがよくできるっていう意味を持っていると思うんだけど、僕はそれがですね、信用ならないんですよね。
よくできると思ってしまうと、どこかを削ったりキットするんですよ。それしかできないと思うんですよね。
何かをブラッシュアップかけたりもできるんだと思うんですけど、やりそうなこととしてこれを言うのはまずいだろうと思ったようなことを外してみたりするんですよ。
で、まさにそこを聞いていたときにこの番組を聞いてよかったと思っている方がゼロだと言い切れないんですよ、私の中で。
例えば先日ねじ巻き鳥が妙に聞かれまして、400近くまで来てるんですけれども、400再生のうち、わかんないですよ。
ある部分を削ってしまっていたらその人にとって一番大事なことは言わずにおいたことになっちゃうっていうことが絶対に起きないかっていうとそうは思えないですよね。
これは私の中でさほど重要な方ではないものなんだけど、これ一つとっても改善というものの疑わしさを思わずにはいられないんですよね。
誰にとって良くなるのかってことが究極的に私にはわからない気がするんです。
もちろんノイズを取るとかはできるじゃないかって言われるかもしれないですけど、これも僕は疑わしいと思うんですよね。
ある種のやつって僕は聞いている音楽とかノイズがあるからよく思えてしまうことって、それは僕の聞き方に問題があるにしてはそういうことって起こるんですよ。
これを言ってもしょうがないんですけれども、例えば私が今仕事のというところで大橋さんのブログで記事を書いているのもですね、
基本的にはあまり改善しようと思っていないから続いているっていう、これはね続けていることがいいっていう話ともまた違うんですけれども、
もしあれがなくなったら残念だっていう人にとってはやっぱり続いている方がいいと思うんですね。
ところがその人と何の関係もない人のですね、たまたま私が仕事の批判を読んで、ここは修正しなきゃダメだなと思って修正しようとして、
それは簡単にできる修正なんだけどなぜか面倒臭くなると。
なぜか面倒臭くなったから仕事のいつしか書かなくなってしまったということになったら、その全く関係ない人に悪いじゃないですか。
これも今の話と似ていて、最も重要じゃない方の話を実は僕はしているんですよね。
これはかなりどうでもいいことなんだけど、でもそのかなりどうでもいいことですらですね、どんな影響をその人に与えるかわかったもんじゃないんです。
そういうふうに諸々考えてしまうとですね、結局修正するっていうことの意義って何なんだろうなって思うんですよ。
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私は手間がかかる、誰かにとっては悪い結果をもたらすんですよ。
ノイズを取るということを一つ取ってもそうなりかねないんですよね。
これはあまりグッタワイブスの話とはちょっと違う気がするんだけど、私自身がずっと本を書いてきたりしたときに一つ心がけていることなんですよ。
例えば私昔、山根赤鬼さんだったかな。この話前もしたような気がするんですけどね。
影マンという非常にシンプルな漫画がものすごい好きで、もうとにかく読んでたんですよね。
学校で嫌なこととか、私幼稚園時代とか腕押し弱かったから、すごいいじめられたりして嫌な思いしてたんだけど、常にそれを救ってくれたのが一つが影マンだったんですよ。
影マンって結構線とかはみ出してるとかいろいろ言われてたり、割としょうもないって言われてたんですけどね。
私は影マン以上の漫画っていまだになかなか自分にとっては見出せないというところがあるんですよね。
あれを見るととにかく落ち着くぐらいのところがあったんですよ。
こういうのって題外が効かないじゃないですか。線をきれいにしたから影マンが良くなるとかはナンセンスで、出てこなくなるのが僕にとって一番困るんですよね。
こういうことって起きちゃうんですよ、どうしても。
山根先生とかも結構わかんないんですけどね、原稿を落とすことはあったみたいな、それって僕は結局ナイーブな人に起こることだと思ってるんですね。
あれぐらいシンプルな漫画が落ちるということが、影マンが落ちてるのかわかんないですけどね、やっぱりナイーブなんじゃないかなって後から考えると思うんですよ。
ドコンジョウガエルの娘もそうなんですよね。
ご本人の問題もたくさんあるんだけど、ドコンジョウガエルあれ絶対持っていき方によっては彼はもっともっと出せたと思うんですけれども、やっぱりナイーブなんですよね。
彼もすごくナイーブっていうのかな、傷つきやすいと。
この番組で言うセリフじゃないんですよね、傷つきやすいなんていうのはもっともっと分析すればいくらも出てくるし、これは明らかに今で言うところの発達障害ですし。
発達障害とかではないんだと思うんですけどね、ここを今日は深掘りしないんで、それぐらいで済ませておきますけどね。
とにかくああいう人を描いてもらう方法なんて私から思えばいくらもあると思うんだけれども、そういうことにはならなかったと。
だからなかなか続編なんか描くわけにもいかなかったということで、残念だった人はいっぱいいると思うんですよね。
そこに改善案とかを持ち込むっていうのは、私は誰のためにそれになるんだろうっていう感じを持っちゃうんですよね。
今ならまた別ですよ、今は本当に読みきれないほどの漫画が無料とかで読めちゃうじゃないですか。
それもどうかとは思うんですけどね、でも読めちゃうじゃないですか。
でもドコンロガエルの時代はそうじゃなかったと思うんですよ。
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私の影マンもそうだったんだけど、そんなにどこに行ってもいくらでも読めるなんていうことはまだまだない時代で、
ああいう時代はああいうものって貴重だったと思うんですけれども、それをですね、むやみにPDCAできるもんではないと思うんですよね。
できるんだったらすればいいんですけどね。
そんなようなことを昔の思い出とともに思い出すんでですね、私はとにかく続けようっていうのはすごい思うんですよね。
作品そのもののブラッシュアップは大事だけれども、芸術作品にしようって思うよりは継続作品にしようっていうのは一つ思うところなんですよ。
それが少々ああであってもこうであっても、そして何よりもですね、僕の中では昨日言った、これは昨日たまたま名付けられたって言うんですけどね、
中心自画で描いてる限りは大きな問題はないと思うんですよね。
炎上がするとかしないとかいうのはこれから比べれば些細なことなんですよ、僕にとっては。
センターで描いてるっていうことだけがある意味ではね。
これもですね、先日言った悪い対象について描くっていうのもできる人はできるんですよね。
だけれどもそれはですね、むしろどっちかというと芸術作品になっていくんですよ。
そんなものは継続的には出せないと僕は思うんですね。
日本の詩小説にそういう傾向がちょっと見えないんですけど、
結構大変じゃないですか。
ラザイオサブとかは頻繁に自殺ミスを起こしている。
僕はあれをやっぱりやるのは大変だと思うんですよね。
グッドバイオス流に言うと、やや他者への攻撃になってしまうっていうこともあるんだけど、
これも同時にグッドバイオス流に言うと、自分への攻撃になるんですよ、どうしても。
でもそこを何とかする、何とかしないといけないんですよね。
自分への攻撃になるんですよ、どうしても。
でもそこを何とかする方法もあるんですけど、
それはもう本当に精神分析と何ら変わりませんが、
そこをでも自分でやってるっていう認識を持ちながらやらないと、
結構やっぱり自殺したくなっちゃうっていうところまで行ってしまいかねないんですよね。
自分への攻撃だから。
自分への攻撃っていうのは自分、止まないですからね。
それほどの強烈な攻撃じゃなくても、ずっと365日攻撃され続けるようなことになったらたまんないですよね。
だから僕はセンター自画で、中心自画で行くっていうのは大事だと思うんですよ。
自分への攻撃を含まないから。
そういうことをメインで語るつもりはなかったんですけどね。
でもこれの派生経過、今日話したいというのはですね、
今日ちょっとお話ししてみたいのは、僕の今机の上に載ってる本って右から上げていって、
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河合ハヤオさんのカウンセリングの実際問題、その上にですね、ヘアバーンの昨日言った人格の精神分析学、
その横に馬場玲子さんの精神分析的人格理論の基礎、その横に藤山直樹さんの集中講義精神分析の下が置いてあるんですよ。
下を繰り返し読んでるんですよね。
ほとんどこれじゃないですか。なんかちょっと病気みたいじゃないですか。
私これ、なんで今自分こうなんだろうって、これをパッと見ていつも変なことやってるなって思うんですよね。
これを読んでても、僕の仕事、僕今書くべき本の原稿すらないという、これ多分14年ぶりぐらいの出来事なんですよね。
まずいじゃんって感じもするんだけど、それなのにこれを読みまくってるって、で、どうしようって言うんだろうっていうね、思うわけですよ。
で、先日藤畑さんのこれは有料の講義を聞いたって話をしてましたけど、とにかくこれなんですよね。
で、あの、例えばなんですけど、例えばこの馬場玲子さんの精神分析的人格理論の基礎っていうのはもう教科書みたいな本なんですね。
で、もしかしたらですよ、これを聞いているうちに、もしかして精神分析にものすごく興味を持っちゃって本を読み出してましたって方がいらっしゃったら大変素晴らしいんですけれども、
多分ね、この馬場玲子さんの本を読むと、あ、なるほど、そういうことだったのねってすっごくスッキリされると思うんですよ。
で、その後に例えばフェアボーンの人格の精神分析学とか読むと、わけわかんなくなっちゃう気がするんですね。
同じような話がなされてるはずなのに、わけわかんなくなっちゃうような気がするんですよ。
僕はこれがものすごく大事なことだと読んでてずっと思ってるんですね。
だから本当は受けたりする方がいいんだろうけど、でも僕にはそういうお金も時間も余裕はないんですよ。
それはイリュージョンかもしれないけど、とにかくないんですよ。
これに手を出したらやばいことになるなって思ってるんですよ。
だって、あの、それこそ消費税のインボイスの日じゃないですからね。
僕にとっての経済的時間的なリソースの投入必要度は、
ある意味この精神分析の本全部の総額だってちょっと身の丈にあってないぞって思う。
この辺の本高いですからね。
で、これ収入に直結してるとは言えないですからね。
で、とにかく、例えばそうですね。
例えばババア・レイコさんのこの教科書的な本の中で脅迫神経症を取り上げてみるとですね。
脅迫神経症ってのは要するに、行き過ぎた脅迫的防衛だって書いてあるんですよ。
すっきりわかりやすいじゃないですか。
例えば、とじまりの確認、大事だよねと。
Sに任せていちゃまずいよね。Sってのは素の自分みたいなやつですよ。
本の中に入ってくるときは、
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本能みたいな自分ですよ。
とじまり忘れて平気でどっか行っちゃうよねと。
そこで長自我的にきちんととじまりしましょうと脅迫的に確認するわけですよ。
で、程度問題だって書いてあるわけですね。
程よくやれば脅迫っていうのは良い防衛なんだと。
つまり、Sをコントロールするわけですよね。
私の中の本能というのか、それというのか、自然な振る舞いをコントロールしてきちんとやると。
まあ、ライフ把握的ですよ。はっきり言って。
だけれども、これをどうこすと100回とじまり確認したんだけど、101回目に行かないと空いてるかもしれないなって思っちゃう。
シンプルに言ってそういう話なんですね。
これを読むとすっきりすると思うんです。
ところがフェアバーンの本を読むと脅迫症というのは内的対象というものを既に言い出している段階で、これを何度も聞いてくださっている方にもまたその話かぐらいにわからない話になった感じがすると思うんですよね。
内的対象に対して愛しすぎているというのかな、フェアバーン的に言うとね。
昨日言った要するに魅惑する内的対象も内側にとどめておいて、本来嫌いなはずの内的対象をも内にとどめておくと。
そういうのが脅迫神経症だというふうに書いてあるんですね。
意味不明だと思うんですよね、これは。めちゃくちゃわかりにくくなったと思うんですよ。
私はこれが大事だと思うんですよ。
実際に脅迫症の人を、私はカウンセリングすることはないけれど、脅迫症の人を前にしたときには、さっきのババさんみたいなことを言っても、そう簡単に相手の人は納得です、程よくバランスよく脅迫にしておかないとダメですよねって言って、
明日から100回閉じまりの確認してたんだけど、1回で済むようになりました。ならないですよ、絶対に。そんなに簡単な話にはならないですよね。
だから人の心っていうのはわかるようで、訳わかんないんですよ。
この訳わかんないんだけれども、それでも取っ掛かりがあるっていうのが大事なことで、訳わかんないなっていう感じがする中でも、
何カ国でもこの人何カ国で脅迫症っぽいこと言ってんなみたいなことがよぎるというのが大事なんだと思うんですね。
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このぐらいのことしか起こらないんですよね。実際に人間というものを目の当たりにしちゃうと。
それは当然じゃないですか。例えばどんなにシンプルだって言ったって目の前に犬がいて、この犬は本当は何が望みなんだろうって考えだしたら、わかんなくなっちゃうと思うんですよね。
わかんないのがデフォルトなんですよ。僕らはわかると思い込みすぎているところがすごくあって。
だから単純な図式を提示されると、それを使って世の中を渡っていける感じがするんだけど、そうはいかないというかそう言ってるっていうのが大きな錯覚だと思うんですよね。
例えばさっきの内在化された、要するに魅惑的な、例えばアルコールとかギャンブルも内側に取り込んじゃうと。
一方でそのギャンブルで二日酔いで嫌な目に遭ったっていうのまで内に取り込んでガッチリ抱えて離さないようにするのが脅迫症だって言われても、そこまで考えてみても何かわからん、よくわかんないなって感じがします。
例えば脅迫症っていうのは何なんだろうって考えると、お家から出られなくなりそうだよねっていうのは何となくわかるじゃないですか。
閉じまり100回も確認する、ガスの持つエンジン100回も確認する、何となく出られなくなりそうな感じがするよね。
あと完璧主義だって言われると何となく納得できるじゃないですか。何度も何度も確認確認確認確認。
例えばエクセルの表計算の課長にやっといてねって言われたんだけど1週間経っても停止できませんと。
サボってるのって言われたら、今日で1万回目の確認がまだ済んでないんですっていう話をしたら、ん?って感じになるじゃないですか。
つまり万が一のことを恐れてるってことが何となく感じられますよね。
で、この人はおそらく一般で言う言葉で言うところのケチだろうって感じがしますよね。
これ面白いと思うんですよ。
フロイトはですね、訪問期っていう言い方をするんですね。訪問期の問題だって。
これも何のことやらさっぱりわかんなくなるじゃないですか。
最初の馬場玲子さんの教科書的な説明、脅迫症というものは、程よくやれば部屋もきれいになるし何度も確認していいことなんだけど、
行き過ぎちゃうと脅迫神経症になって困るんですよっていうのはみんなわかりやすい話だと思うんですね。
こうやってきちんと説明していくのが自我心理学の精神分析のアンナフロイト科の一つのやり方で、きちんとわかる枠組みがもらえるんだけど、
さっき言ったように何でも溜め込むんですって言われると、わかったようなわかんないようなわかんなさに放り込まれて、
フロイトがそれは訪問期の問題だって意味不明な感じがするんですよ。
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全く意味不明だなって思うんだけれども、例えば馬場玲子さんも書いてるんですよ。
日本語でケツの穴が小さいって表現ありますよね。あれが脅迫症だって言われると何となくわかる気がするんですよね。
僕はケツの穴が小さいって言われていたの、だいぶ昔の話で僕が言われたじゃないですよ。
昭和のおじさんはよくそんなこと言ってたなと。だけどあれってわかったようでよくわからない表現ですよね。
つまりそれは何が言いたいんだろうって感じがするじゃないですか。
でも何となく正真な感じがしますよね、まず。何となくしみったれた感じもしますよね。
とにかくやることがひどく細かそうな感じがするじゃないですか。訪問期の問題ってフロイトが言ったのは面白いですよね。
なんで日本人はケツの穴が小さいとかって言ったんでしょうね。
なんかよくわかんないけれども、でも脅迫症っぽさってものを連想させる何かを感じるんですよ。
ここでさっきのヘアバーンを思い出すんですよね。
何でも溜め込みたがるっていう話。何でも溜め込みたがって。
トイレに行ってすら出汁を済むっていうその感じ。
何で出汁を済むんですかっていう。何でそんなものまで出汁を済むんですかっていうそういう感じ。
これと何かを連想させるんですよ。
平気で嘘をつく人たち。僕はこの話がしたくて今の話したんですよ。
平気で嘘をつく人たちの冒頭、めちゃくちゃひどい脅迫神経症ですよね彼は。
この橋を渡っている最中に橋が崩落して、先日ありましたねインドでね。
橋が崩落して命を落とすかもしれないということで、もっとガッチリした陸橋を渡るべく、
うーんと遠回りして帰りが真夜中になりましたとか。本当に困るんですよ。
それは困るよねっていう。この人でも明らかに正真な感じがしますよね。
何がどう悪いってことは別にないんだけど、この人ってなんだかものすごく正真な感じはするんですよ。
あの本読んでいて。日本人のおじさんがですね、昔のおじさんが、
で、やっぱり何かを出し惜しむ。もちろんこの人は細かいでしょうし、
そして最後は自分が最も最愛の息子だと言っているクリストファーというのを
生贄に出してでもいいから悪魔に助けを求めるという話になった時にですね、
この悪魔が悪魔に助けを求めるという話になった時にですね、
この悪魔が悪魔に助けを求めるという話になった時にですね、
この悪魔ってなんだかさっぱりわかりませんよ。悪魔だからね。
ただヘアバーンが言った内的対象、悪い内的対象っていうとピッタリくるじゃないですか。
この人の心の中にいる非常に悪い存在なんだろうと。
そして誘惑してるじゃないですか。誘惑する悪い対象。
アルコールとかギャンブルとかそういうものを連想させますよね、悪魔というのは。
24:02
取引するから。お前それ大変なの助けてやるから。
お前のその一番大事な息子っていう奴の魂を俺によこせみたいな。
意味のわからん取引だけれども、非常に何か悪いことが起こっているという雰囲気はありますよね。
これと脅迫神経症が結びつくっていうのは、
なんとなくなるほど精神分析の世界というのは
面白いなって感じをやっぱり私は持つんですよ。こんなもんなんですよ。
こういうことを考えているうちに、いろんな本をそれについて連想させるようなことが書いてある。
いろんな本を読みたくなってくるんですよ、私は。
で、読んじゃうんですね。これを繰り返していて、
この話を皆さんになぜかお伝えしているんですよ。
何の役に立つのかはわかんないんですよ。
今私の頭の中にあるのは今言ったような連想ゲームみたいなものなんですよ。
そういえば悪魔に何か言ってた人いたな、
あの人脅迫神経症ってアメリカですからね、自我心理学で診断されてたんだなと。
で、ヘアバーンは脅迫神経症っていうのは何でもかんでもうちに溜め込んでおいて、
特に悪いことを言っているんですよ。
一見良さそうに見える悪いものを内側に置き、
それと全く同等の悪いものも内側に留め置くっていう風に言ってたなと。
で、ババレーコさんのはもっとわかりやすい説明だったなと。
さらにここで藤山直樹さんの中中抗議を読むと、
もう意味不明になってきます。
本当にすっごいわかりやすい話が続いているような、
歴史から書き起こしているんだけど、トータルで考えると意味がよくわかんないんですよ。
全然まとまりが、全体的なまとまりがつかない感じがするんですね。
でも、脅迫神経症というものについて以前よりも
明らかにわかるようになっている自分がいるんですよ。
私は最初はこれは要するに手を洗うのがやめられないマクベス夫人みたいな人だとしか思ってなかったんだけど、
今はもっとはるかにわかるような気がするんですよね。
これは馬場玲子さんの本に書いてあったんですよ。
公問機の問題なんです。公問サディズムなんですみたいな言い方をする。
これってどういうことなんだろうっていうので、私が一番わかりやすいなと思ったのは、
ネコごと飼っている人にはわかるんですけどね、
うんこ出るとすごい嬉しいことってあるんですよ。飼い主がものすごい猫が好きなので。
ずっと便秘で苦しんでいる猫ちゃんがやっと出してくれるとめちゃくちゃ嬉しい。
うんこをトイレでしてくれるとすごい嬉しい時期ってあるんですよ、親には。
ほんの数日しかないかもしれないけどね。あるんですよ、そういうことって。
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子供の方が、そんなことはないと思うんだけど、
子供の方がこれ使って親コントロールできるようなと思っちゃうことがあるっていうふうにフロイトは言うんですね。
こういう連想から来ているわけです。つまり私がこれを出さずにいる。
いつ出すかということによって親の感情というものをコントロールできる。
で、親という自分より強いもの。
どうしてもコントロールの効かないものをコントロールするために
自分の中にあるものを出したり引っ込めたりすることで
相手をコントロールできるんだと思ってしまうっていう病理。
そういうふうに考えるつもり、コントロール欲に取り憑かれてしまった病理だっていうような
解釈なんですね。
こういう話を繰り返し繰り返し読んだりして忘れたり忘れたり読んだりを繰り返しているうちに
なんとなくこういう感情に囚われている人の気分というものが
なんとなく分かってくるような気がすることがあるんです。
それって分かったことにはならないんですけど。
分かったことにはならないんだけど、その中のいくつか
脅迫症の点について自分にも当てはまる話はあるなと思えたときに
脅迫症らしさというものがなんとなく見えてくる感じがするんですよ。
つまり脅迫症の人っていないんですよ、こういう言い方をするならば。
河合駿さんが言ってたことですけども、健全な人ほど
いろんな神経症を持っているっていうのは多分正しいんですよね。
脅迫症的でもあればヒステリー的でもあるんですよ。
分裂気味なところもあるしっていうことなんですよね。正常な人ほど。
状況状況に合わせて使う防衛が違うという言い方もできれば
出てくる病理が違うという言い方もできるでしょう。そういうことなんだろうと。
ただやっぱり極端な方面に戦略的にうまくいくやつが決まってくるんで
その人の性質もあれば周りにいる人との兼ね合いもあって
脅迫的な防衛の仕方というか脅迫的なコントロールの仕方では
うまくいくこともあればヒステリー的に過剰な演技をした方が
うまくいくように思えると。自分の人生ではそうだったという人もいるわけですよ。
男女どっちかによっても多分やっぱりどうしても偏りは出るわけですよね。
そうしてあんまり偏ったときに自分でも困ったことになるんだけど
止めが引かなくなったりもするわけですよね。っていう話なんだろうと。
でもそういうふうに思ってみたところで、やっぱりよくわからないことが
たとえば私の場合、私の肉親について何度かこの番組でもお伝えしてますけど
さっぱりわからないところがいっぱいあるんですよね。はっきり言って。
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もちろんグッドファイブス流に根本には恐れがあるんだっていうのはわかるんですよ。
でもそれしかわからないとも言えるんですよね。根本には恐れがあるから
たとえば今で言うと、あの人が盛んに言うのは
インボイス制度の問題のことをずっと言ってたり
ずっと言うんですよ。ずっとね。それは問題なんですけれども
でもその人自身にとっては問題だとは思えないです。僕にとって問題かもしれないけど
でも僕にとっての問題なんで大した問題じゃないんですよ。っていう話をずっとするんだけど
根本に恐れがあるにしても、なんだかよくわかんないなという感じはいっぱいするんですよね。いっぱいする。
分裂なのはわかるんですよ。私にも。さすがにこれは分裂だし
意味が寸断されていて、いろんな投影が行われていて
迫害妄想が非常に強いんだっていうのはわかるんだけども
だからと言って、なぜ今インボイスなのとかはわからないわけですよ。
当人にとっては今一番重大な問題はインボイスなんですよ。
全然わからないんですよね。正直言って。いまだに戸越著書の本をずっと僕は読んでいるわけです。
それは仮に私がわかってみたところでどうするんだと言われても困るんだけど
分かりたいんですよね。やっぱりね。
一緒に暮らしてきたから昔。昔からね。子供の頃から。
子供の頃は仲が良かったと言えば仲が良かったわけですよ。家族全体でね。
その頃に戻れないもんだのかなと漠然と思ったりするわけです。戻れはしませんよね。もちろんね。
なんかね。ひどくウエットになっているとかではないんですよ。
そうではなくてこんなにこじれる理由ってどこにあるんだろうって思うわけですよね。
ある意味では。私との関係というよりは親子関係でね。
ここまでこじれる理由って何なんだろうって思うわけです。
話を聞くしかないから。
戸畑海人さんじゃないですけど聞く技術で聞くんだけど聞くのも大変ですよね。
そしてそれは良いとしても聞いても何も改善されないわけですよ。ある意味。
非常に陰謀論めいているし。
分かるんですよ。話はね。話の筋が分かるっていうんじゃなくて
なぜあの人が陰謀言いたいのかはその気持ちは分かる。
だけれども、でもそこまでだろうかって思った時に
さっきと同じような流れで脅迫症というものは
つまりよく分からないんだけれども
今まで臨床に立ち会った人が、例えばフェアバーンは
この人は内部に何でも溜め込むっていう風に見る。
フェアバーンがそういう風に見たことによって
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取っ掛かりができるんでしょうね。フェアバーンが。
そしてフロイトはそれを拷問器の障害だって考えた。
そういうイメージを持つことでやっぱり取っ掛かりができるし
ママレイコさんがもっとシステマティックで分かりやすいんだけれども
彼女がじゃあそういう防衛でどうのこうのっていう理屈で
ケツの穴が小さい脳がものすごい動腰だっていう
連想をパッと持ったっていう風に考える方が
分かり易いんじゃないのかなっていう感じを僕は持つことが多い。
そして一瞬一瞬の出来事、人とのやり取りの中で
何かがよぎるっていうのが意外に大事なんですよね。
何にもよぎらないよりは。この人またこういうことを
ババさんはケツの穴かとか言ってた。
フロイトは拷問がとか言ってた。
ヘアバーンは溜め込むって言ってた。
やっぱり分かんないんですけど、でもこうやっているうちに
自分はそういう風に考えてみると
昔お母さんとの間ね、トイレで一生懸命やって
いたようなことを思い出すんですよね。
おとんど間違っている記憶かもしれない。
とにかく思い出すんですよ。そういえば便秘になったことも
あったなみたいなことを思い出すわけですよ。
そんなようなことなんですよね。そういえば
ふんころ菓子っていうのは黄金の象徴だったりするんですよね。
意外と大事だなっていうふうに今思って考えているわけです。
これを分かりやすく理路整然と伝えるっていうことも
自我心理学的にやれるんだけれども、意外に臨床で
っていうことだろうと思うんだけど、役に立たないんですよね。
そういうのって。抽象的すぎて当てはまらないっていう感じ。
そういう感じなんです。
先送りの話をされるわけですよね。
あるいはこういう話があるんですよ。
第二領域的なことをずっとやらなきゃいけないんだけど
毎日仕事の締め切りに追われて第二領域が毎日おろそかになるんです。
正直言って聞き、何度も何度も聞いたような話ですよね。
何度も何度もそういう話を聞いている。
そんな感じがするし、第二領域も
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1分だけやってみたらいいんじゃないですかっていうのも
なんか気休めの息を出ない感じがするんですよ。
結局この人本当に訴えていることは何なんだろうって考えていくと
精神分析みたいなものに入っていっちゃうんですよ。
気がつくと。あるいはとにかく今この人を楽にしてあげたいなって
とか、釈量するしかないんですよね。自分にとっては。
ここで7つの習慣を持ち出すっていうのは僕の中では
なんか全然そういうのではない。そうなのかもしれないんですけどね。
相手の求めているものは。でも僕はやっぱりそういう感じは
持てないんですよね。なんかとにかく持てないんですよ。
そういう感じは。自分はgood vibesで楽にはなったから
なんていうのかな。不安かどうかは分からないんですけれども
でも第二領域をおろそかにしているうちに
自分は質の低い人生を送ることになるんじゃないだろうか
っていうニュアンスであるならば
そういうことはないですよっていう話は私は結局
倉園さんから一番近く聞いたって感じなんですよね。
書いてる人は本に書いていたり言う人だっていないわけじゃないんだけど
一番色濃く聞いたって感じなんですよ。
そして私はそれとは全然違うんだけれども
引き寄せる悩みみたいなもの。私の場合は
この肌で一生終えたら自分の人生残念なんじゃないだろうか
っていう不安が大きかったんですよ。
それに投げられることがあるような感じを抱ければ
いけるような気がする。
でもそうじゃなくて、この人が言っている
第二領域と締め切りのこだわりのようなものってのは
何なんだろうって思ったときに
何かまだよくつかめないなって思ったときに
そうすると精神分析の方向に
自分の頭というのかな、心が向かっていくんですよね。
反復脅迫で自分に繰り返し提示されているわけだから
結局それは東映ドイツカみたいなものなんじゃないだろうかっていう
この人は私を同じ気持ちにさせたいんじゃないんだろうかって思うんですよね。
そしたらそういう線に沿って伝えるべきことが出てくるわけです。
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同じことで僕も悩みましたみたいに言うケースもあると思うんですけれども
あんまり同じことで悩んだような気はしないなと思ったら
また別のことを言うっていう感じなんですよね。
これってさっきのフェアワンだったら内的対象の話をしているし
マバレーコさんだったら自我心理学の構造について説明するし
フロイトだったら訪問期に云々するしっていうのと似ているような気がするんですよ。
結局それって蔵園さんそこに引っ張ってくるってわけにいかないじゃないですか。
今はそういくんですよね。頑張ってそう考えればそれはそれで一つの考え方として
でもやっぱり現実的な感じがしない。
実際にそうできない時ももちろんありますよね。
将来的に言えば当然できなくなる降参というのは十分あり得るわけで
その時蔵園さんだったらどう言うだろうと僕が考えるのっていうのは
明瞭な完全にグッドバイブスの置き換えには決してならないんだけれども
でもなんか僕の中でそれによって何かが出てくるならばそれでいいと思うんですよ。
というか結局それしかできないと思うんですね。
今日のお話はこういう風な話なんですよ。
一向にまとまりがつかないんですね。再現性もきっとないと思うんだけれども
でも私はこれしか再現性はないと思うんですよね。
結局その人がその人なりにできることをするしかないという意味で
それがカウンセリングであろうとタスク管理であろうと同じだと思うんですよね。
ここに絶対にその人がこれを使えば間違いないモデルってのはないと思うんですよ。
100%グッドバイブスで蔵園さんがこう言って
そうすればきちんと相手の人が安全になると
仮にしても同じことを僕が喋ってもダメなんですよ。きっと。
だからお経って面白いんですよね。いきなり話が飛んでるんだけど
お経に書いてあることを読めばいいことになってるわけです。お寺ではね。
みんな読んでるわけですよ。でも悟れないじゃないですか。
でもこれは釈迦が嘘ついたってことともまた違うじゃないですか。
そういう話ってあるっていうことなんですよね。
つまりそういう意味では一期一会なんですよね。
僕がいろんなのをぐるぐるぐるぐる回っては自分をある意味混乱させているのは
フェアバウンド・カワイハヤオと藤山さんとパバレイコさんと倉園さんをぐるぐる回ってれば
頭おかしくなっていくわけで。頭おかしくはならないけど
その都度整合性の取れないところに入っていくんだけど
そしてその上僕はこれにタスクシュートかけてますからね。
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タスクシュートで自分は2004年から2005年の間に
明らかに何かが変わった感じっていうのを持っている。
特に2007年かな。6年と7年の間ぐらいに大きく変わったものを持っているから
それを信じているわけですよ。
こういうものを全部ごったににしてぐるぐるぐるぐる回すんですよね。
そうすると絶対に整わないですよ。
これが整理されないわけですね。整理がつかないわけです。
ものすごくあちら立てればこちらが立たなくなるわけですよ。
赤信号と青信号が同時に点滅しているような感じになっていくんですよ。
全然整わない。整理もつかない。すっきりもしない。
これこそ大事なんだと言いたいわけですね。今日は。