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おはようございます。働く人に送る精神分析チャット、第1029回お送りします。
7月31日、水曜日、朝10時11分です。
結構、これからカツカツの予定というか、カツカツというのかな?
押せ押せで詰まっております。
昨日は申し訳なかったんですけど。
なんかね、スポティファイ、昔Anchorだったわけですよ。
Anchorだと複数のファイルを勝手に接合してくれてたんですね。
要するに、ただアップしておけば、順番通りアップしておけば、
ファイルが分割されていようといまいと関係なかったはずなんですけど、
今、よく見ると、1エピソードに1ファイルしかアップできないようになっちゃってるんですね。
僕、それに気づいてなくて、2つ上げた。
今までずっと2つ上げとけば、それでこれを足りてたのに、合体しなきゃいけないんだけど、
音声エディタっていうアプリを私は用いていないものですから、
それを使えってことなんだな、これはと理解し始めたんですけど、
全然、そういう意識も全くないまま、2つアップしたものと思い込んでいて、
1個しかアップしてなかったから、ああいう変な形になっていて、
いまだにこれを2つどうしようかっていう問題が解決しておりません。
おりませんので、ちょっと解決したら、あるんですよ。
ただ、これをしゃべってる3分分ぐらいしかないから、
別にないとすごい突然始まるのもいいところという問題はあるにせよですね。
別になくても問題は、内容的な問題あまりないので、
アップできたらしますって感じですね。
覚えていてかつ、できるようになったらします。
引き続き、同じお知らせです。
8月4日、これ昨日アップされてないからね、この部分多分。
8月4日、日曜日の14時から、タスクシュート手帳術セミナー第3回、
渋谷でかつ、ハイブリッドオンラインでも同時開催します。
同じ内容です、要するに。
オンライン、オフライン、ハイブリッドでやります。
私は、最近ちょっとまた収支を少しだけ変えまして、
タスクシュートクラウド2の今後の進化次第なんですけど、
基本的にはタスクシュートクラウド2に集約していく。
だからこれは手帳になっていくっていう話をするとともにですね。
外部ツールの参照先としても、タスクシュートクラウド2、
これはだから昔からタスクシュートで言われていたこと。
私の方がより原理主義的にタスクシュートクラウドしか使ってないよみたいな感じだったんだけど、
使えるやつは外部化していこうと。
外部化をしようという気はないんだけど、外部参照はしようという感じで、
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これは別に普通に誰でも考えつくことなんですけど、
私がどういう外部ツールを参照先として使っているかというの。
それでですね、外部のツールを使い込むって考え方があるじゃないですか。
なるべくツールを減らして、一つ一つの重みを多く持ってる方がいい。
それを多く活用。
例えばタスクシュートクラウド2だけではなく、エバーノートも使うけど、
エバーノートしか使えませんみたいなね。
エバーノートに何でも入れるんですっていう、そういうのがいいとされてるけど、
僕は逆だなと最近思うようになって、
これは昔ですね、小橋製造さんが、
1ツール1機能っていうような、
1つのツールは1つの役割みたいなのを提唱されていたことがあって、
これも原理的に難しいところがいっぱいあるんですが、
やれれば1つの理想だなと思うんですよ。
このツールはこれにしか自分は使わないということにしておくと、
非常に使いやすくなるし、
1つのツールの負荷が極端に下がるので楽なんですよ。
私、これをちょっと試してみようと最近思い始めまして、
ほんのちょっとしか使わないツールをいっぱい持つっていう、
いっぱいになるかどうか分かんないし、
いっぱい持ってばもっと面倒なことになりうるんですけれども、
ツールを増やさないほうがいいってこともないかなって、
最近思うようになってきたんですね。
1つにはそれはほとんどのツールが今、
ブラウザに集約されてきているっていうことがあるんですよ。
だから結局使ってるアプリはほとんどの時間ブラウザであれば、
結局はいろんなブラウザのタブをいっぱい開いてるじゃないですか、
おそらく皆さまも。
私もいろんなそれに対する小手先の工夫が、
Googleが次から次へと繰り出してきますよね。
タブごとにグループ化するとか、フォルダに入れるとか、
いろんな方法やるけど、
やってることは基本的にたくさんのタブをどういうふうに見やすくするかとか、
使い勝手よくするかって話なので、
あんまり期待はできないわけですよ。
せいぜいショートカットキーを覚えて、
特に9番を押すとタブの端っこに行くのは重宝するとか、
そういう話でしかないと思うんですよね、結局は。
しょうがないと思うんですよ。
これをどうするかってことだとすると、
結局は拡散させるツールがあるんだけども、
それはそれぞれブラウザみたいなものであって、
言ってしまえば、
そのブラウザをどのときにはどういうブラウザを見ると便利か、
みたいな話をしているような、
だからといって、
ブラウザを行ったとき、
複数使い分けるみたいな話もあったんだけど、
今もやってる人いらっしゃると思うんですけどね。
Safariにしたり、
Firefoxにしたりってやつですけど、
Operaにしたり、
多分あれは結構相当めんどくさいことになると思うんですよ。
パスワードの問題とか、
アカウントの問題とか、
様々なことが出てくるんでね。
そこを使い分けるために、
さらにそれを使い分けるって話もあるんだけど、
あれはやってみて、
つくづくめんどくさいだけだなと思ったんで、
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やめちゃったんで、
やっぱり少々めんどくさくて負荷が高くなっても、
僕はChromeだけになりがちなんですけれども、
そういう話を交えてしていこうと。
結局はLifehackの話になってるよね、
っていう話もなくはないですね。
8月4日です。
今日は今の話にカコつけるわけじゃないんですけど、
昨日に引き続いて、
リテラシーってところから入ろうと思ったんですね。
リテラシーというのは、
なんでこのワードが出てきたかというと、
カウンセリングが野良化、正式化っていう話は、
結局はあるかなりの部分、
リテラシーって話でしかないなと、
も言える気がするんですよ。
まず正式のカウンセラーさんが、
何を理想のモデルと思っていらっしゃるかは、
全く人それぞれだと思うんですけど、
すっごい極端な人の場合、
フライアントのリテラシーゼロであるのが望ましい、
っていう人すらいると思うんですね。
そして正式だけがあるのが望ましい。
ここまで極端に思ってる人はいないか。
でもそういう一つの究極モデルを、
想定したとするじゃないですか。
こう考えてみると、
なぜ世の中に野良カウンセラーという人たちが、
普通に正式の人に言わせれば、
なぜ消潔を極めているのか、
というのが説明しやすいと思うんですね。
これは僕が消潔を極めていると、
思ったわけじゃないですよ、もちろん。
つまりリテラシーゼロであるほどいい、
っていうのは失敗例っていうやつが、
あるんですよ、
カウンセリングの失敗ばかりを集めた事例。
あれの全てが失敗だとは思えない気がするし、
偏者の人もそうは思ってないんじゃないかなと思うんですけど、
とにかく失敗例を集めてるのがあるんですね。
そこにめちゃくちゃ詳しい人が出てくるんですよ。
要するに野良カウンセラーじゃないんですけど、
なろうと思えば野良ぐらいにはすぐなれそうなぐらい、
めちゃくちゃ詳しい人。
あれですよ、いるのかいないのか分かりませんけれども、
でもいると思うな。
お医者さんとかに行って、
これは肝臓のこういう機能がこういう風になってるでしょ、
みたいなことを言ってきて、
多分医者に嫌がられる人。
いると僕は思う。
いても相手にされないかもしれないけど、
カウンセラーはそうはいかないんですよね。
ここで相手にするのがカウンセリングになっちゃうんで、
僕みたいに、僕の振りかざしてる用語を、
さらに難しいようなやつをですね、
ドイツ語だけじゃなくて、
象徴的投下物がここではこうなって、
ああなって、みたいなことを、
とことん膜仕立てられるみたいな、
そしてカウンセラーの人はとてもヘキヘキするみたいなね、
あると思うんですよ。
これが嫌だと、
こういうやつは絶対良くならないと思ってる人がですね、
とにかくクライアントっていうのは、
無知で素直なほどいいんだっていう風に考えてるとするじゃないですか。
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でも、現段階で、
クライアントさんが完璧に無知だと、
これは頭が悪いっていう意味じゃなくて、
心理療法について完璧にリテラシーゼロだと、
正式の人のところにはいかないはずなんですよ。
なぜというか、いけないと思うんですよね。
だって知らないんだから。
個人心理師と臨床心理師だけが正式だとかって、
知らないんだから。
だって知ってたらそれはリテラシーじゃないですか。
知らない以上は、そこに行くか行かないかは、
もう誰も発見ですよ。
だからこの究極モデルにはもう一つのセットがあって、
この世には正式しかいないっていうのが、
セットでなければいけないんですよ。
このモデルを僕は、
モデルっていうのかな、一つの試行実験ですね。
試行実験をしてみると、
なぜこの世にノラカウンセラーさんという人たちが、
さっきも言ったように大量発生するのかというのがですね、
非常に分かる気がするんですよね。
よく傷ついた治療者って言うんですけれども、
ユングファかな、これはだから肯定的なのか否定的なのかが、
分からん言葉なんだけど、
とにかく、傷つきました、治りました、
だから私も医者になりますっていうモデルは、
妥当だと思うんですね、ある意味では。
で、この人たちは自然とリテラシーが上がっていかざるを得ないんですよ。
私、アトピーがそうだったんですよ。
別にアトピー治す医者になろうと、
皮膚科の医者とかにならなかったですけど、
アトピーについて当事者がどんどんどんどん詳しくなるのは、
治してくれないからなんですよね。
治るんだったら絶対詳しくならないんですよ。
なんかこう、フルコートみたいなのが昔あったんですけど、
うちの親とか、科学万能時代に生きてたから、
フルコートをベタベタ塗りまくるんですよ。
あのステロイドの強いやつね。
しかも顔とかにも平気でベタベタ塗るわけですよ。
で、それはダメですって言われたら、
途端に、途端にね、今度はやめちゃうんですよ。
一番まずいやり方だと思うんですけど、
僕がそれ、小学校上がる前ぐらいの時に、
もっと前かな、うちの親が、
それで、未だに親は、親的にはよ、
これは役買いだと信じてるんですよ。
ここに難しさがあると思うんですよね。
無知なほど良いっていうのは、
こういう事態を招くんだと思うんですよ。
で、役買いだと信じてるっていうのは、
つまり、うちの父とか、未だに言いますから、
ショウ、お前、本書けるようになったんだから、
このフルコートの外について書けみたいな。
いやいや、それ全然ジャンル違うし、
今先はそんなこと書けないし、
そういうことを書いたら、
訴えられるからねっていう感じだと、
世の中腐ってるって父は思うらしいんですけど、
そういうことになるんですよ。
デテラシーというものをですね。
父はすごい善意で言ってるんですよ、これは。
良心的な社会派ぐらいの感覚でいますからね。
あの、あれですよ。
昔のドシデフスキーが書いてたのは、
実に皮肉っぽく書いてたけど、
カラマゾフの兄弟だったと思うんですけど、
カトリックのくせに社会主義を標榜している連中が、
西欧には結構いるみたいなことを言ってたんですよね。
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そういう時代だったんだろうと思うし、
別にそれはおかしなことだとは思わないんですけど、
父とかすごい好きそうだな、それって感じがするんですけど、
宗教はアヘンですからね、
共産主義に言わせれば。
うちの親とか全然、
全然あれでそっち系だと思ってるのが、
非常にいい感じなわけですけれども、
あれですね、つまり、
フルコートの役外とか言っていられるということは、
リテラシーがほぼないからなんですね。
リテラシーがほぼないのが理想的だと言うなら、
うちの親とかめちゃくちゃ理想的なの、
何にも知らないんだから、
どうしてベタベタ塗りまくるわけですよ。
これ良いって言われれば塗る、
ダメだって言われればやめる。
非常に素直。
で、子供はアトピーが慢性化していくっていう、
ステロイドの役外なのかなんだか分からないような、
複合的な病気にだんだん重くなっていくわけですよ。
そして子供はそれを恨ぶっていう、
非常にそれが良いのかどうかってことですよね。
ただ、詳しくはなります。
絶対にこういう目に遭えば。
だってもう何十年とか塗ってはやめて、
温泉に行ってみたり、
スチームをかけてみたり、
電気ショックを与えてみたり、
紐で縛って寝てみたり、
もう本当に薬を飲んでみたり、
欲意能源にしてみたり、
ショコラBBにしてみたり、
やれることはほとんどやりますからね。
詳しく。
しかも全部人体実験ですからね。
自分の体でやっている。
糖質制限してみたり、
これは聞いたね。
冷やしてみたり、
温めてみたり、
スチームにしてみたり、
鹿児島の方の砂掛けの温泉に行ってみたり、
やりますよ。
本当に。
家にやれるだけの何かがあれば、
とことんやります。
そして治らない。
治らないから詳しくなるんですよ。
これがノラカウンセラを産むんですよ。
そうですよね。
砂掛け温泉はノラカウンセラですよね。
ショコラBBもノラカウンセラ。
欲意能源も現在ではノラカウンセラ。
糖質制限だって当時はノラカウンセラ。
全部ノラカウンセラ。
温泉もそうです。
温泉なんて何個行ったか分かんないぐらいですよ。
100は絶対行ってますね。
海外のも行ってます。
で、塩水がいいみたいな感じで
海水浴とかやたらしていた時代。
だから僕8キロとか運営できたりするんですよ。
愚かなこと極まりないように見える人もいると思うし、
頑張ってるなと思う人もいると思います。
様々だと思うんですね。
とにかく治ったわけだけど、
最後に僕が治ったんだって治してくれたのは、
全部が100%彼ってわけじゃないけど、
クラザノケイゾウさんというノラカウンセラ。
こういうことになる。
ノラカウンセラって言っちゃ怒られるかもしれない。
野の医者と言っちゃうけど。
こういうことになるんですよ。
なぜなら正式の人が治してくれないから。
で、心の病ほどそうなるじゃないですか。
心の難しさ。病じゃなくても。
メンタルがやばいみたいになった時に、
正式に行くか行かないかというのは、
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リテラシーに応じて決まるんですね。
リテラシーが高いからノラに行かないって話では全くないですよ。
リテラシーがないからノラに行かないって話でもないです。
リテラシーがない人は、
思わず正式に言ってるかもしれないけど、
それはそういう認識がないかもしれないですよ。
うちの親はそうだったと、私は思うんですね。
あんなに医者に対して、
思うところありまくりの社会派なのに、
病気になったら絶対医者に行きますからね。
そして絶対正式の医者に行きますからね、うちの父は。
本とかは、本人が坊さんなんだから、
いかにもですけど、本とかはそういう風に、
中村添付で治ったとか、
中国で修行したら治ったみたいな本も、
山ほど、山ほどっていうのは、
本棚3冊分、本棚3個分ぐらい山ほど。
そしてそれが、
寺の廊下にあふれ出していて、
震災の時に倒れてすごい問題になるという、
そういうことをやる人なんですよ。
だけども、くくりつけるやつやったから、
その後は大丈夫になりましたけど、
でもそれは寺を移るときに、
全部廃棄させられてたんで、
いろいろと無駄が多いところがある方だったんですけどね。
父の話が多いな。
そういう風に、
分からない人は正式に行くんだけれども、
それは偶然かもしれないわけですよ。
あんまりこの話、最近出してないし、
あんまり出さないようにしてるんですけど、
例のうつぱんて本の本で、
あれは非常にいろいろ思わせられるところがあるんだけど、
ついに彼はほぼ正式のカウンセラーさんに
かかってないように見えるんですね。
でも彼は正式が嫌いとか批判的だったりじゃないです。
彼が愚かなったけど全然ないです。
あの漫画は頭悪くしか描けないんですよ。
ただ彼は、
心理療法のリテラシーは、
運が悪いことにほとんど見受けられないんですね。
だから、どうしてこんなに待たされるのかとか、
どこに自分助けに行ったらいいのかっていうのが、
全然見えてこない。
すっごく、それこそランダムウォークになっちゃってるわけですね。
分かってる人からすればってことですよ、ある程度。
でもランダムウォークになってるんですよ。
行って助かる場所は結構あるように見えるけど、
そこには全く目が向いていない。
これはリテラシーがないときに起こる現象。
でも本人はつらいわけだから、
必死に頑張るじゃないですか。
で、詳しくは少しずつはなっていくわけですよね。
で、詳しくなったときに、次の事態が起こると思うんですよ。
詳しくなってすぐ、
あ、うつだったらこの抗うつ薬飲めば治るんだってことで、
ポイポイって飲んでおけば治るんだったら、
詳しくならないわけで、
その人は多分普通に正式というものにものすごく傾倒し、
正式がほぼ万能空想の役割を果たしてくれるレベルに入っていくでしょう。
でも実際の彼の漫画を読むと、そうはなってない。
なぜそうはなってないかというのはともかくとして、
そうはならない場合、ある程度以上、
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正式に対する不信感が残りますよね。
こうして詳しくなった、リテラシーが高まった人が、
不信感が募っていくから、
それを正式との相性の悪さになっていくように一見見えるんですよ。
でもこれは、リテラシーが高くなったことと、
それに並行して起きている事態が、
とても不幸な話だからこうなってるんだって。
だって直せないから詳しくなってるっていう事情があるから、
詳しい人が不信感を持つわけですよ。
私が皮膚科というものに強い不信感をかつて抱いていたように、
直んないまま年数が経って、
こうすれば直りますって言い続けられるほど、
不審の念が高まるじゃないですか。
まるでこの時期繰り返されている、
旧日本の軍隊組織みたいじゃないですか。
こうすれば勝てますって天皇陛下に何度も言い続けて、
時代がどんどん悪化していったら、
不信感が募るわけじゃないですか。
だからそれと同じ目に合ってる感じがするようなわけですよね。
自分に直す力がないわけだから。
だから自分で直す力をつけようとするわけですよ。
この辺で話が急展開して、
戦闘機みたいに急展開するんですけど、
こういう話を意識して、
例えばさっきの失敗例であったり、
あるいはそれこそ山崎孝明さんの精神分析の歩き方であったりを読んでいくと、
私たちの置かれている状況そのものが、
まさにこういうじくじくっとした、
うまくいかない人ほど詳しくなり、
詳しくなると正式の人たちはそれが好きじゃなくなって、
でも素直でリテラシーが不足している場合には、
そもそも正式に行くっていうこと自体がなかなかスムーズにはいかなかったり、
だって詳しい人の方がどこに行けば公認心理師で、
大体どういう人のところに自分が行くべきでっていうことが全部わかるわけですから結局はね。
詳しければ詳しいほど正式に近いわけですよ。
当然です。
ですが、詳しくない人の方が正式と相性がいいように一見見える状況が常にあるわけですよね。
これも比較的正式の資料が聞きやすく、しかも用語がよく、
かつそのリテラシーがじわじわではありますが、
おそらく上がってきている現状はかつてよりはよっぽどマシなので、
以前の方が遥かにひどかったと思うんですよね。
だって私もそうですけれども、そもそも公認心理師というのはつい最近存在したものですし、
これもすごいいろいろ言われたりもなんだりもしていますけれども、
とにかくできはしましたもんね。
あの、公認という言葉がですね。
いいか悪いかいろいろあると思いますよ。
そこは僕はあんまり立ち入らないことにしているんですよ。
立ち入っても僕が、別にここに僕が立ち入っても得るところは何もないし、
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生み出せるものも何もないような気がするんで。
ただ、あの、例えば先日私がずっと読み直している藤山直樹さんの本にしてもですね、
治療がうまくいくケースといかないケースがあって、しかも面白いことを書いているんですよ。
それらのすべての可能性と原因について、すべてを挙げ切ることは人間には無理だというふうに彼は書いているんですね。
原理的に無理だって。
すごいそこのところがですね、ある種のパッと読んだ人を大いに失望させられるだけの力を持っているな、この書き方はっていう感じがするんだけど。
でも非常に多くのヒントが、彼の本ってだいたいそうなんですよ。
松木さんの本とはまた違ってですね、ロールプレイングゲームを解かされているような感じになるんですよね。
答えは教えないからねみたいな、そういう雰囲気があるんですよ。
ある意味非常に教育的だなって感じがする、啓蒙的と言ってもいいのかもしれない。
誰をどう啓蒙しているのかはよくわからないところがまたミソなんですよ。
それはいいんですが、ヒントがですね、ここが急旋回するところなんですけど、
やっぱり象徴機能だって書いているんですね。
象徴機能を使えるかどうかなと。
これってすごくフロイトが出した結論に、結論なのかわかりませんが、
近いものを感じるんですよね。
結局言葉がちゃんと使えるかどうかってところで、ボーダーを引いてるんだなって感じがしますね。
ただ、藤山さんはやっぱり21世紀の方なので、大きく19世紀から始まっている精神分析でも、
大きく先に進んでいて、象徴機能が使えるかどうかっていうのを患者のせいにある意味してたわけじゃないですか。
患者さんが言葉を使えるかどうかにボーダーを引こうとしてたのが、ある意味古典的な世界だったと思うんですけど、
藤山直樹さんが書いていることって、要は、象徴機能が治療者とクライアントの間で使えて、
ちゃんと使えたかどうかによって治療の成果は変わっていくんだっていう含みが強いんですよね。
この辺のことは松木国弘さんもしっかり書かれている。
松木さんの方がある意味しっかり書かれてるんだけど、結局それは、象徴機能は使えるんですよ。
藤山さんが使えないはずないですよね、松木さんとか。
でも、使えたとしても、うまく使えていない治療と、うまく使えているケースがあるっていう話なんですね。
ここのところにも、私は話をすっごい複雑に難しくしちゃってますけど、
野良カウンセラーっていうものが生きている理由があるのは間違いなくある感じがある。
感じですね、もう僕には。ここを図式的に説明するのは僕には難しいんで、今の段階では。
言語化って最近、これも性感的化の化なんだけど、言葉に直すにしようねって感じがしますけど、言語化が難しい。
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ただ、ある種の野良カウンセラーさんとそこに来ているリテラシーが比較的高い人の組み合わせになった場合、
うまくいくと本人たちが意識しないとしても、
象徴機能が他のところではうまく使われていなかった象徴機能が機能し始めるというケースは、おそらく偶発的に近いんだけど。
だって藤山直樹さんだって彼は正式の、間違いなく正式の偉い方の人なんですが、
これを全て挙げ切ることは無理だ、少なくとも著しく困難だって書かれているってことはですね、
成果を挙げる治療だけをすることはほぼ不可能だって言ってるのとほとんど変わらないと思うんですよ、この場合には。
だから象徴機能が使えるか使えないかというのがクライアントのせいではないのならばですね、
これも相性という言い方は僕は良くないと思うんだけど、
でもやっぱり相性ではないけれども、ある種の偶発性、外相だったらまだ再現性がありますもんね。
ある種の偶発性に頼るより他仕方がないところもあるだろうと。
こういうのをだからインフォームドコンセント的にあからさまに無責任だってことになるんでしょうけど、
僕もある種の象徴機能が機能するかどうかを予見し、それをある方向性を持って持っていけっていうのは土台むちゃくちゃだとは思うんですよね。
これは結局転移と逆転移みたいな話に限りなく近いんだろうなとは思うんですが、
中川派の人たちがシニフィアンとシニフィエというおしゃれでよく意味のわからん言葉にしてしまってるのと同じですけど、
要は象徴と象徴機能、言葉の指すものと指し示されるものの関係っていうのは分かりやすく対応させていて、
しかも過剰にそこに思い入れがなければ容易なわけですよ。
日の丸は日本を示しますみたいなそういうやつですよね。
非常にいい象徴と象徴機能じゃないですか。
距離もありますし、この距離が大事なんですよね。
ベッタリ貼り付いてしまっていたら、例えば日の丸を日本の土地にベッタリ貼り付けた方がいいっていう感じを持ってる人がいたとすると、
なんか奇妙な感じがするじゃないですか。
言葉と実態というものはくっついてちゃダメですよね。完全にくっついていては。
私に佐々木賞吾って名札って昔あったんですよね。
今はセキュリティの問題で名札って小学生してませんけど、小学生名札してたわけです。
私は佐々木賞吾そのものになっちゃうわけですよ。
同性同盟がいたらどうするんだよって感じがするんだけど。
実は佐々木賞まで同じやついたから。
こういうことをやってると、吾の方の賞とかわけわかんないこと、
これはつまり象徴機能というものはこういうことをやりうる、こういう事態を招きうるっていう証拠だと思うんですよ。
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僕らがどうしてその象徴機能というものが使えないと病みがちかというと、
それはあれですよね。
事態が切迫すればするほど象徴機能はだんだん怪しげな用いられ方をするようになる。
例えば人を見たら泥棒と思えみたいな。
人間は全て泥棒みたいな。
これ意味ないじゃないですか。
人間という代わりに泥棒って言っといたほうがマシなぐらいで。
つまりそれはひどい目にあっていると。
これはあくまでも格言ですから。格言っていうのもやっぱり象徴ですよね。
格言だからいいんですけれども。
距離を取れなくなってしまう象徴みたいなものっていうのは、すっごいその人にとっては嫌なものというか困ったものなんですよ。
例えば昔私にとってのスズメバチ。もはやスズメバチという言葉は何の象徴でもないんですよ。
あえて言えばホラーみたいなものなんですよね。
見ると家に閉じこもりたくなってしまう。
ほら、こういうところに問題行動が起こるじゃないですか。
スズメバチが外に飛んでるからって家に閉じこもるっておかしいじゃないですか。
でもこういうことが起きるじゃないですか。
恐怖症みたいな問題が発生すると。
そしてその時には決まって何かが象徴というものがある現実に対して適応不可能になっている。
そういうことが起きるわけですよね。
そういうことがカウンセリングの場面というものではものすごく起きやすくなるんですよ。
先日密会と言いましたけれども、密会というのはすごく非象徴的な感じがする。
逆に公開の会議みたいなところでは我々は言葉のやりとり以外はほとんど意味をなさなくなりますよね。
外でみんなで会議してるみたいな状態だと。
そこにいた人たちの顔も全部は認識できないとかそういうことになってくると。
そこで追っかわされている言葉のやりとりが全てみたいになって。
それが何かを生み出せるかどうかはまた別の問題ではありますけど。
こういうことが多分全部絡んできて、一番やっぱりというか何と比較して一番なのか分かりませんけど、
密会というものは象徴機能を使いにくくさせると思うんですよ。
よく恋人同士に言葉はいらないとかそういうことを言うのと同じで、言葉いるんですけども。
でも言葉が意味しているものと意味されているものの距離が極めて近くなってくると、
言葉のやりとりでは物事は進まなくなってくるんですよ。
大体人生相談ってそうじゃないですか。
これから君ちゃんとやらなきゃダメだよって一言言えば済むんだったら。
これはつまりちゃんとやるという言葉、象徴ですよね。
ちゃんとされるという行動との距離が程よく適当にあって、
お互いの了解もバッチリでそんなことありえないんだけど、
言われたい人はその通りですねって言ってそれで終わるということであれば、
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多分カウンセラーって誰もいなくなってしまうと思うんですよね。
これを言われた瞬間にもう二度とそいつとは口聞かない人になる人もいるわけじゃないですか。
こういう方がカウンセリングにははるかに正式のカウンセラーという人たちが存在する価値があるってものですよね。
だからこのちゃんとやらなきゃダメだよというふうに言った言葉、これが象徴ですけど、
象徴されるものというのがまず合意は全く取れていないわけですよ。
例えばですけれどもそういうふうに言われた方としては、
これを言ったということはもう自分に対して最も悪いことを言ったくらいな感じになるわけですね。
親衆そのものであると。
要するに親父に殴られたのと同じことだというような話になってくると、
べったりくっついてしまっている上に合意も取れていない話になっていますよね。
普通こうなりますよね。
やりとりの中で問題が起きているという時には、
普通は絶対こうなっているはずですよね。
言っている言葉の通りの意味を相手が受け止めていられるのであれば楽なものなんですよ。
だから下手なことは言えなくなりますよね。
下手なことが言えなくなるということを徹底的に意識し始めると、
カウンセリングの場は2人の沈黙というものが支配することになりますよね。
沈黙というのは言葉を使っていないわけだから、
何か象徴的ではありますけれども、言葉を使ってはいないわけだから、
そこで象徴しているものと象徴されているものの間柄について、
合意を取るのがすごい難しくなってくるわけですね。
そしてこれは藤山さんがよく使う表現ですけど、空間が開かなくなるんですよ。
ものすごく息苦しくなってくるというか、
そこで何にも考えることができなくなっていく。
例えば沈黙について何かを考えるというのはとても難しい。
それが気まずい沈黙だったりすると、こういうふうに気まずいという言葉を使って空間を開けようとするんですけれども、
うまく開かないんですよ。気まずいだけじゃないなとか。
これは気まずいというのとは違うとか。
気まずさぐらいでは済まないとか、そういう話になってくるんですね。
何回もお話ししている話で恐縮なんですけど、
私が昔、大橋哲夫さんとタスクカフェやってたときに、
割り込みを記録できないっていう非常にタスクシュードらしい、
タスク管理らしい、ライフハックらしい問題が提起されたことが何遍もあるんですね。
ある方が、その人に私はすごい学んだと思うんですが、
ある方が、須貝さん記録できないんですと。
私はまた来たなと思ったんです。
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これは私が象徴というものをごく普通の意味で捉えていたわけですね。
割り込みがいっぱいある、記録をする時間になったときの記録を落とす。
だからこれを記録できるようになれば、この問題は解決するという形で、
象徴と象徴されるものがはっきり分かっているような気でいたわけですよ。
それだったら、後で記録をしてもいいんですとか、
割り込みを入れた瞬間の写真を撮っておきましょうと。
そうすると、なるほど分かりましたと言って、
その人は非常にほがらかな感じで去っていく。
妖精にうまくいったなというふうに、妖精というのは陰と陽のようで。
私は納得して、また次の人とお話をするんですね。
ところがその人がまた来るんですよ。
私が次の人とお話をしていたら、その後ろに並び出すんですよ。
で、間髪入れず、佐々木さん、さっきの話なんですけどって言ってくるわけですよ。
で、こういう場合はどうしたらいいんでしょうという話が始まって、
なるほど、そういう場合もありますね。
だったらこういうふうにしたらどうでしょうって言って、
またほがらかになるほどね、よく分かりましたって言って去っていくわけですよ。
これを100回ぐらいやられる。
何が起きるかというと、
私はその人に何を言われたのかが、もうよく分からなくなってくるんですよ、普通に。
それは当然だろうって思われるかもしれませんけれども、これ仕事ですから。
つまり、私は散々から仕事については最大もなさず記録をしておきましょうなどと言っておいて、
記録は取れてないし、記憶も混乱してきていて、
とにかくこの人には繰り返し繰り返し邪魔されているような気がする。
邪魔という言葉はキーワードなんですが、邪魔されているような気がしてくるわけですよ。
ここ俺仕事してるんだけど、邪魔しないでくれるみたいな気になってるんだけど、
この邪魔こそが仕事じゃないですか。
これが象徴というものの、うまく機能しなくなった瞬間ですよね。
僕が邪魔されたとしか思ってないわけですよ。
邪魔されるということそのものが仕事であると言ったら、
邪魔とそれを名付けちゃまずいですよね。
邪魔というのは僕があっている被害であり、
べったり言葉と体験に張り付いてしまってますよね。
邪魔される、ダメだ、みたいになる。
仕事だったら、そういう名称っておかしいじゃないですか。
最悪でも割り込みって言うべきですよね。
ここに割り込みという言葉が出てくると、少しスペースが空きますよね。
割り込み、次にやるべき仕事、今すぐは対応できない仕事、
みたいな含意が出てくるわけですよ。
これをその人は上司にされているんですという訴えを、
私に体験をもって伝えてきてるんですよね。
つまり非言語コミュニケーションですね。
とはいえどいつかって言ってもいいんでしょうし、
他にもいろんな言い方があるんですが、
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要は空間が空いてないわけですよ。
頭の中で考えられる状態になってない。
考えられないから邪魔されたとか言ってるわけじゃないですか。
ちょっとでも考えておけば、
これが仕事なんだから邪魔されたらおかしいわけですよね。
表現としておかしいわけですよ。
象徴として使うべき言葉ではないはずなんです。
せいぜい割り込む。でもこれは質問です。
このほうが遥かに適切ですよね。
頻回の質問ですよね。繰り返される質問。
なぜ繰り返されるのか。
これがつまりこの事態全体が持っている象徴なんですよ。
なぜ繰り返されるのかという象徴ですよね。
なぜこの人は繰り返し私に質問を繰り返すのか。
繰り返しを何回も言っちゃってますけど。
という表現で表されているのがこの全体の事態。
つまり伝わってないってことですよね。
なぜ質問を繰り返すか。伝わってないからですよね。
伝わってないって何が伝わってないか。
彼の苦境が伝わってないわけですね。
彼の苦境が伝わっていないというのが私が体験、私がやらかしてしまっている事態なわけですよ。
つまりあなたの話がわかってないってことを私は身をもって示してしまっているわけですよ。
で、向こうはあなたは私の話がわかってないという身をもって示してきてくれる。
お互い意思疎通の上ではそれが認識できてないんだけど、
それを再現しているというか演じきっているという形ではお互いが全力を挙げてそれをやっているわけですね。
これが多分カウンセリングってものなんですよ。
そしてこういう形で伝えてきている彼の苦境というものは、
まさにこのお互いの意思疎通がうまくいっていないというそのタスクカフェの場で実演された苦境なんですよ。
これこそが彼の会社で起こっている事態なんですね。
上司は彼のことがわかっていない。
彼がどれほどこの邪魔、上司からの頻回の繰り返しの質問なり問い合わせなり法連想なりに苦しんでいて、
それで困っているかがわかっていない。
わかっていないということを持ってきて、私がそれがわかっていない部下という立場というものによって実演してみせたわけですよね。
こういうふうにして、象徴機能というものが私たちが使いこなせなくなってくると、
私たち人間社会は象徴機能によって成り立っている世界なので混乱していき、うまく回らなくなっていくと。
これをうまく回すためにはどこかで、これは一体誰が何の言葉を使ってどんな象徴を再演しているんだろうというのを見出さなきゃいけないわけですね。
理解しなきゃいけない。これが考えるってことで、私はその時にハッとしたんですよ。
この人こういう目にあってんだなと。
頻回の質問、頻回の割り込みに困っているってまさに言ってたじゃん。
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記録が取れないじゃん。私も取れなくなっている。
記憶で整理することもできなくなっている。
本当にこれ困りますよねって言ったんですよ。
ああ、よくわかりましたと。あなたのお気持ちがよくわかりましたって意味なんだけど。
そしたら、相手の人が何とも言いようのないぐらい納得したような表情をされて、二度と現れなかった。
だから良かったのかどうか難しいんですよね。
カウンセリングだったらこれは良かったってことになるんですけれどもね。
あれはタスクカフェなんで、お客さんを失ったという、私の中にそういう解釈はないけれども、
これで私はちゃんと本当に仕事をしたという気になれたんで。
仕事をするとはこういうことだと思うんですが、しかしちょっと違うんですよね。
ライフハック的な解決としては。
結局彼に割り込まれない方法を伝えることもできなかったし、記録を取ることを伝えることもできてはいない。
ただ仕事はできたと、役には立てたっていう気がしたんですよ。
これをだから良しとするならカウンセリングでしょうし、そうでないならば違う世界だってことになって、
このハイブリッドというか、ベンズの重なるところに野良カウンセリングってものがあるよねと私は思いますね。