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2025-05-09 33:30

母がいない時ほどライナスは毛布を愛する【1180】

移行対象が重みをもつとき。
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サマリー

このエピソードでは、メラニ・クラインとドナルド・ウィニコットの心理学的観点から、成人期における幼児体験とその影響が掘り下げられています。特に、移行対象としての毛布の重要性や、母親との関係がどのように個人の発達に関与しているかが議論されています。また、ライナスの毛布を通じて母親との感情的なつながりや移行対象の重要性についても考察されています。特に、母親の存在が個人の心理に与える影響や、その結果として生じる喪失感と向き合うことがテーマとなっています。母がいない時ほどライナスは毛布を愛し、失うことによって得られる深い心的体験と他者の重要性についての考察がなされています。

心理学の基盤
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1180回をお送りします。
5月9日金曜日、7時49分です。
昨日ちょっと落としちゃったんですけどね、今日は、
最近、外で仕事しなければならない関係上、ちょっと寝不足でね。
昨日はそもそも寝不足も何もなく、娘を送ったら即に出るぐらいなスケジュールだったんで、こういうことになったわけですけれども、
今日は、少し時間があるので30分ぐらい収録やろうかなということで、ここに無理矢理詰め込んでみた感じです。
余計なことを喋っている余裕はないので、早速テーマの話に行きたいと思うんですけど、
昨日、意向対象ということをつらつら考えてたんですね。
メラニ・クラインのお話っていうのはですね、
私、3ヶ月シャレンジ、日を覆うごとに、彼女の見てきたものと言いますか、教えてくれていたものが、非常にこの分野では大事だと。
つまりあれは、ウィニコットあたりに言わせると、正常にというか、すくすく育った赤ちゃんは青はならないっていう話なんですけど、
分からないですよね、やっぱりね。
とにかく、我々成人の中に、私、父母おりますけど、まだ健在ですが、
あのぐらいの年になってきますとですね、
俗に、俗にというか、自我心理学でいうところの対抗と言いたくなるようなシーンが目立つんですよ、やっぱり。
80度もなってくると。
で、それはよく日本人でも、昔から赤ちゃんのようになるとかって言うんだけど、
そういう言い方もできるような気がする一方で、なんかやっぱりそういうのとは違う気もするんですよね。
あの人たちが昔、2歳の頃があだったって感じはしないんです。
分かんないですよね、これはね。
なんかやっぱりちょっと違うんですよね。
むしろ、クライン的に見るっていうのはですね、大人の中の幼児を見ると、ああ見えるみたいな感じで、
あの、発達、やっぱり、この辺が藤山直樹さんが本で時折よく書かれているようにですね、
発達を観察的に見てきて、クラインのような幼児が見えてくるっていう話として捉えるよりかは、
多分幼児の見方としてはウェニコットの方がやっぱり正しいんだと思うんですよね。
だってあの人は小児科医なわけですから、多くを見てきたわけじゃないですか。
でも、成人の中の幼児を見ると、クラインのように見るのがいいんだろうなって感じがするんですよね。
そういうふうな気持ちに最近はなりました。
現状な時に我々には見えないものなんだけど、やっぱりこう、密室というわけではありませんけどね、3ヶ月チャレンジは。
でも時間をある程度厳密に定めて、そこでぐっと情緒的な話に深入りしていくと、そうする必要があると思うからするんですけど、
そこに現れてくるものはクライン的なものになりやすいというのは、だから幼児にはそういうものがやっぱりすごく出やすいと思うんですよね。
なんですが、幼児の発達がそういうものをベースにしていると何も考えなくてもいいんではないかなと。
幼児の発達の方、それも比較的ポジティブに発達していく部分に着目すれば、それはやっぱりウィニコット的なんじゃないかな。
だからですね、つまり何が言いたいかというと、分析化はウィニコットの幼児感みたいなものをベースに進めていくと良いんだけど、
必ずそこにクライン的な幼児感みたいなものが随所に現れて、これを並行して追っていくっていうのが必要なんだろうなというふうに思うんですよ。
もちろんその中にいっぱいいろんな人の考え方があるんで、それを追々ですね、追々というか自分にできるペースでっていうのは私に言ってることなんだけど、
それこそメニンガーとかシーガルとかハイマンとかの、ほとんど読めてないんですけどね、そこまでやる余裕がないということもありますが、
日本人の書いたものを読んでいきたくなるという、結局臨床例は文化的背景を持ってるんで、やっぱり日本人らしさってあるんですよね、ここにはどこか。
クラインの幼児の発達モデルとはいえですね、発達モデルではあれはないんだけど、たぶん今言ったようなわけで。
移行対象の役割
でそのウェニコットの発達モデルみたいなものを見ると、やっぱり意向対象というのがもう絶対的に大事だなと思うんですね。
つまり母親代わりの、母親と一緒にいる、一緒にいたっていうのかな、母親と一体であった時のその心地良さというのか、
なんと言ったらいいんでしょうね、つまり私たちの、おそらくは、これみんなに当てはまらないことなんで、この言い方も問題はあるんだけど、つまり暴力的と言われればそうなるんですけど、
そこをずっと気にしていると話が一個も進まなくなるんで、ここは言ってしまうしかないんですけどね。
つまり普通の在り方。普通の在り方というのは、私が世界の中心で、私は、世界は私のためにあって、宇宙というのは私に都合よくできているんだという、そういう誤解です。
この誤解はどこかで信じてないとダメなんだと思うんですよ。最初赤ちゃんは、たぶんですが、これだけであった瞬間はあったと思うんですね、結構長くそれ。
この間隔の連続性について、ウィニコットは言ってると思うんですよ。でもこれっていうのは宇宙すなわち母親だから言えることであって、世界すなわち現実すなわち母親。
地球の中が一番、その極地の例なんだけど、地球の中にいるときは、松木さんの表現を、松木さんの表現じゃないと思うんですけど、これもウィニコットなのかな。
でも松木さんの本に書いてあった表現によると、我々は水中生物なわけですよ。少なくとも反水中生物なわけですね。水中で生きている存在なんですよね。
でも我々は、要するに人生始まりとともに、機体の空気中の中で生きていく生物に切り替わらなければいけないわけですね。
ここの時にすでに世界は私に常に都合の良いものではなくなるわけですが、だから赤ちゃんは出生時に泣くわけですが、
でもお母さんがいて、まあまあ多くのケースにおいては、多くのケースにおいては、世界とは母親であり、地球の中と同じでは全くないんだけど、その連続性が保たれているわけですよね、どこか。
相変わらず自分は世界の中心だし、世界中は自分に良くしてくれると。これを僕らは一生がいい、どこかで保っていなければ、もちろんどんどん成長にするにつれてですね、この連続性は揺らいでいくわけですよ。
世界の中心にいる感じが全くしない瞬間というのが、どんな人にも訪れるわけですよね。
世界の中にずっと自分がいますという、それだけでやっていけること幸せな一生を送れる人はおそらくいない。
やっぱり途切れるわけですよね。これが不連続と呼ばれるやつだと思うんですけど、その時に、つまりなんで不連続になるかというと、
環境としての母親、つまり子宮同然のように振る舞ってくれる母親がどんどんどんどんその時間が減っていくから、その代わりを見出さなければならなくなるわけですね、私たちは。
それが毛布なわけですね。だから移行対象というのはそういう毛布なわけですよ。
移行対象をどんどんどんどん、依存先っていう言い方も一般にはしますが、その移行対象をどんどんどんどん、飛び石のようにですね、こっからそっちにジャンプみたいな感じで、
ここまで来て移行対象をこれでは、例えば毛布ではもう持たない。これからちょっと会社に行くのに、なんか汚くなったタオルケットみたいなのをこれ持っていかないとちょっと会社でやっていけないからねみたいな、そういうのでは持たない。
あれだっけ、松本太陽さんがある漫画で描かれてましたね。すっごい頭のいい男の子なんだけど、常にダンボール箱かぶってんですよね。あれも移行対象の一種だと思うんですよ。
なかなかやっぱり、ある先生が言うんですよね。あなただったら東大だって、あの、海星だって、ラサールだってすぐ受かるんだから受けに行きなさいと。
でも僕が受けに行くとなると、この箱をかぶったままになっちゃいますけど、それでも大丈夫ですかって聞いたら、いや、箱は取るのよと先生が答えて、それじゃダメですねと。そうなんですよね。それじゃダメなんですよ。
僕が箱を取って、そのセリフが聞いてんなと思ったんですけど、僕が箱を取って受験をするということは、他の生徒が箱をかぶって受験をするということと同じなんですよっていう、そういう表現があるんですけど、まさにそういうことなんですよ。
我々は何か移行対象を用いることによって、世界の中心は自分であるという、その間違ってはいるんだけれども、主観的には必須な感覚をどこかで継続しなければならないわけですね。
で、メラニー・クラインのお話って最初からそうじゃないですよね。最初から良い対象と悪い対象にスプリットしてっていう話になってるんだけど、そのスプリットの前はどうなっていて、なぜそのスプリットが起きたって話はあんまないわけですよね。スプリットから始まっちゃうって感じなんですよ。
でも世界は絶対前みたいなところがあったはずで、だから良いおっぱいと言うときはいいけどっていうのは確かにすぐそうなりますけど赤ちゃんは。でも最初からそうなわけではないはずなんですよね。やっぱりこの私たちがスプリットに頼り始めるときというのは危機が訪れてるはずであって、じゃあ危機が訪れるというタイミングに何が起きたんだって話がないわけですよ。
もう最初から危機的状況になってしまってるような話として始まってしまうんですよね。どうしたらその良い状態を保てますかというその、何て言うんですかね、私たちが当然死しているような連続性みたいな部分がコンテナーって概念がその後出てくるわけですけど、それはビオンによるもので、暗い目のものではないんですよね。
でも非常に近い概念はすでにあったように見えますけれども、フロイドからあったように見えますけど、でもまあなんとなくそれが説明不十分な感じはしますよね。つまり言ってみれば外傷体験みたいなものがどうして起こるんだっていうのがあれはやっぱりミニコットのすごいところだと思うんですよ。
外傷体験が起きるのは環境としての母親が対象化してしまうからだみたいな、つまりお母さんにお母さんの事情があるんだよって話を始められると突然外傷的になる。
これが非常にこの種のことに敏感な、要するにXとかでは毒親とか言われているケースにおいてはですね、すごく敏感になっちゃうので母親のその事情というものがあまりにも手前勝手に優先されたために赤ちゃんを大いに傷つきましたというような養育歴を持っている人にしてみると、
やっぱりカウンセリングというものが信用ならないわけでして、だからカウンセラーの事情というものがやっぱり許せないわけですよね。
私を中心に見て、私だけを全てに優先してくださいという、このナルシシズムが完璧に達成されるという確信を持つまでは、私は世界の何者も信用なりませんという、それがつまり外傷体験の結果、その人が得る世界観なわけじゃないですか。
この世界観で現実原則なんかに飛び込むのはとてもじゃないけどやってられないので、だからやっぱりこう、まず何か自分を完全なものだと見出してくれるような意向対象を探し求めてしまうわけですね。
でも意向対象というのは、意向対象だから不完全に決まってるわけですよ。だって毛布が母親代わりをするんだから、完璧には程遠いものですよね。
むしろそこに完璧でないんだけれども、あとは自分の過去の経験、良い経験というのかな、環境としての母親が自分に集中していたという、だからその一時的母性的没頭っていう悪名高い概念がここで必要になるわけですけど、
少なくとも生後10日ぐらいは一時的母性的没頭で、他のことを一切顧みずに自分だけのことを最高級のもののように扱ってくれた10日間ぐらいの体験を心に宿さないと。
毛布ごときでは、毛布だけではね、自分を完全に包み込んでくれるっていうそういう信念を持つには程遠いので、ましてリクルートスーツとかでは無理ですよね。
だから私なんかできなかったわけですけれども、逆に言うと大概の人にはこれができているということは、リクルートスーツに身を包めば、もう私、世界で最高のものだっていう感覚をどっかに宿すことができるから、仕事なんかに行けるわけですよ。
成長のプロセス
これが簡単なのか難しいことなのかは、その人の力量とか能力とはほとんど関係ないというのが、この3ヶ月チャレンジで私が言いたいことなわけですね。
ライナスは毛布さえあれば、大概のことはやれるんですよ。でもあの毛布がなくなっちゃうと、毛布探しの旅しかできなくなってしまうんですね。
この差が非常に大きいので、だからその毛布によって何を思い出しているのかというと、自分の母親が一時的母性的没頭だったときに、自分をどう扱ってくれたかの感覚というものを思い出して、それを思い出したときは自分というものがそもそもなくなってしまうわけですね。
自分と母親がいるという観念とか感覚とか、そういう認識とかが一切ない世界なので、つまり宇宙と合一ですよね。ニルバーナーの世界です。
その感覚を我々は持っていたことがあったと。まあこれが運悪く、その一時的母性的没頭の母親がその時没頭してくれないなどということがあった場合に備えて、備えてっていうのかな、あえてそこを無理やり頑張ると地球内にいた頃の記憶っていう話になってしまうんですけど、戻れば戻るほどやっぱり不利益ではありますよね。
もっと後まで、この辺にディレイって概念があるんだと思うんですけど、1歳の時にもその感覚が結構連続していたと。2歳の時にもなお連続していたと。ちょっとアンフェアな話には聞こえるかもしれませんが、そういう人の方が将来はやりやすくなるということはあると思うんですよ。
ただ、私3ヶ月チャレンジで何回かやっぱり何回もですね、個人セッションをやっていく中で、この不連続は一件ないような人でも結構あって、例えば私なんかは自分恵まれてるみたいなある種のマイナス系ですよね。マイナス系なのかノー系なのかちょっと難しいところなんだけど。
とにかくそういう思い込みの中で生きてきたから、私はすくすくと慈しまれて育ちました物語を持ってたんだけど、よーく考えてみるとやっぱ思い出しますからね。他の方が思い出してるのを聞いているうちに自分も思い出していくんで、そうすると結構雑だったなと。
まあ別にだからこれを言うとどうしてもね、実母に対する恨み事みたいに聞こえるかもしれないんだけど、そういうことではないんですね。不連続になるのは親がしっかりしているとかいないとかに関わらず起きることですよね。
例えば私は幼齢菌感染症という病気は本当に恐ろしかったんですけど、たぶん小学2年の頃にかかったんですけど、本当に恐ろしい病気で、母親がちゃんとしてなかったとかは関係ないんだけど、あれになってしまったらもう自分が世界の中心だなんて思えなくなるから、やっぱり一気に不連続になってしまうわけですよね。
もうとてもじゃないけど無理だって感じがするわけですよ。でもまた面白いことに、そんな時ほど、これもご家庭によると思うのでレアじゃない話かもしれませんけど、少なくともうちではね、あんな時ほどやっぱり親も医者もかかりっきりになってくれるわけですよ。
ここにある種のパラドックスがありますよね。普段は学校に行って、私なんか結構男だったけど、ひ弱で弱っちかったので、世界の中心になんかとてもいられる心境じゃなくなるんだけど、幼齢菌感染症になって、うわもう本当やばいわ人生ってなった時には世界の中心に引き戻してもらえるわけですよね。
こういうフライン的な体験とミニコット的な体験とこういう説明っていいんだろうかを目まぐるしく切り替えることによってですね、私はやっぱり2つの事実っていう、なんかこれもね教育の方によく書いてある話で僕あんまり好きじゃないんだけどでも、そういうことなんですよね。
つまり、私は世界の中心だという主観的事実と、どう考えても自分世界の中心じゃないだろうという客観的事実は並行して動いていくしかないんですよ。
この客観的な私はワンオブゼムで、だからこの言葉が好きじゃないんですけどね。ワンオブゼムでしかないっていう方が現実原則だし、私は唯一無二で、グッドワイブス流に言うところの価値マックスで完全無欠なんだっていうのがこれが一時仮定ですよね。
親的現実ですよね。でもこの2つは両方ともリアリティがあるはずなんですよ。親的にはそうだし、客観的にはそうではないっていう、この2つが両方あってリクルートスーツ着て会社に行くことができるんですよ。だって本当に一時仮定だけでいいなら、そもそも行かなければいいじゃないですか。
移行対象について
一方で、二次仮定だけでいいって言うならば、ライナスの毛布なんて全くいらなくなるじゃないですか。どっちも成り立たないっていうことを、ウィニコットは非常に弁償法的とかって言ったりするんですけど、哲学用語ですよね、これはね。パラドキシ感なわけですよね。でもそれが多分落ち着く姿なんだと思うんですよ。
で、移行対象の話をしたくて、特に私は3ヶ月チャレンジで9期10期あたりに何度も体験することになったんだけど、この移行対象、元の対象の喪失っていう体験を人はしていくことになる。当然なんですよね。
ライナスの毛布を移行対象にしたと言うても、その時まだライナスのお母さんは生きてるわけじゃないですか。つまり母親対象がありつつ移行し、移行対象を見出して、言ってみれば母観とモバイルみたいな感じですよね。でもいずれ母観を失うという日がやってくるわけですよ。
その時にこの移行対象というものの持ってる力というものがある意味増してくると言いますかね。だからこれは思い出の品とかそういうものになってくる。遺品とかそういう話になってくると思うんですよ。
僕はこれが以前はですね、だから片付けられない論につなげていた時期があったんだけど、前よりももっと遥かに片付けられない論に肉迫してきたなって感じがするんですよね。ネタに片付けちゃダメなんだなってことですよね。片付けるっていうのはそもそもどうなのって感じなんですよ。
片付けるっていうのは全くの二次過程なんですよね。片付け一つとってもですよ。これはもう単なる一つのメタファーというか、それこそ一例であって。片付けられないんですよ。片付けられないってことはとても大事なことなんだなと思うんですよね。
移行元を失った時の移行元対象っていう言葉、僕が勝手に作り出した言葉ですが、移行元対象を失った時の移行元対象喪失みたいな課題が私たちにあって、この時移行対象というもの、この辺の概念はフロイトのいわゆるもの作業にはあるんだけれども、そういう観点で見ればあるんだけれども、やっぱり見えやすくはなってないなって感じがします。
ミニコットの概念を使うとこの辺の見えやすさがいきなり上がってきますよね。やっぱりほら、よく演技でもないかもしれないけれども、やっぱりでも家に行ってあるわけじゃないですか。写真ですよね。
で、人によってはビデオとか今の時代だったらあるわけですけど、やっぱり大事です。そしてそこには明らかに悲哀がありますよね。悲哀以外ないぐらい悲哀がありますよね。
つまり物作業と悲哀ですよ。悲哀の物作業なんですけれども、怒りとか理不尽さとかそういったものではなくて、悲哀というものですよね。だから欲打つポジションなわけですよ。
これもウィニコットに敬意を払って言うなら歴史的ポジションと言うべきなんですけど、この意向対象の文脈に沿って言うならば歴史的ポジション、歴史があるということはそういうことは起こるということですよね。
喪失があるから歴史があるんだし、また喪失があるから欲打つにもなるわけだし、懇賛もするわけですよね。永遠に喪失されないんだったらそんなに大事にしなくてもいいだろうってことになりますよね。
片身の品をすごく大事にとっておくと、そこに何か金銭的価値とか実用的価値とか言わないじゃないですか。そんなお母さんの片身の手帳をご承大事にしてても手帳として役に立たないでしょうっていう、それはそうじゃないですか。タスク集と手帳の方が役に立ちますとか、この文脈においてそれを言うことほどしょうもないことはないですよね。そういう問題じゃないってことになりますよね。
移行元大将を失うということは、母親大将を失ったときのライナスの毛布の価値っていう話なんだけれども、それはすごく三ヶ月チャレンジにおいてでもですね。
別れと記憶の重要性
最近、松木フニロさんの分析の集結についてのエピソードをいっぱい読むようにしてるんですけれども、やっぱり9期が終わり10期が始まるっていう状態を僕はセットしてしまっておりますから、始まった分析は終わらねばならないっていう独特の表現があるんだけど、それは分析において終わりなき分析っていう考え方もあるからですよね。
でも3ヶ月チャレンジには終わりなき3ヶ月チャレンジはないので、毎期一応終わるので3ヶ月チャレンジそのものは終わらないかもしれないけど、毎期1期は終わるんで、その終わるっていうときに移行っていう話が必ず起きて、今回はそもそもメタのFacebookからDiscordに移行したわけですが、移行っていうことが必ず起きるはずであって、起きなければおかしいですよね。
そのときに参加した、参加、つまり始めた、私で言えば始めたときの最初の不安というのが、クラインの言葉ですけどね、必ずまた表に現れてくるはずであるっていう、それを松木さんはですね、すごく逆転移という文脈から検討しているわけですよね。
つまり別れが辛いというのは逆転移だと。それはそうですよね。だってこれは、何て言えばいいんだろう。始めたから終わるものであって、で、終わるときというのは原則としてはですね、特に治療においては、つまり松木さんの文脈においては患者さんよくなったわけだから、よくなったから終わるわけですからね。
だから終わるということは、めでたいことでなければいけないんだけど、ひたすら終わったとき、終わるときの感じが想的に何かこう万歳三昇みたいになるっていうのは、だいたいあり得ないじゃないですか。そこまでうまくいかないです。し、そこに悲哀ってものがあるっていうのは、まあ悪いことではないですよね。別れが辛いみたいな話って悪いってことではないですよ。
だから、それを喜ばなきゃならないんだけど、喜べないとしたら、治療が不十分であるか不完全であるか、何かこう治療者の方がナルシスティックな状態になってるか、いずれかみたいな話に。まあ、さらにその他にもいろいろあると思うんですが、いずれかみたいな話になっていくと。
そのときにこの異向対象っていうのが、私はすごく独特の姿の現れ方になるだろうなと思うんですよ。異品というのはおかしいですけれどもね。でも、残るわけじゃないですか、何かが。非常に思い出が残るみたいな話。
仮に終わらなかったとしても、期は終わるんで3ヶ月チャレンジとはいえ、やっぱりこう、そうかそうだった。昔はこうだったよねと。特に大事なのはこのように始めたよねってことですよね。
で、そのそれを私は最近よく言うようにノートとかに必ずしも書かないので、もう心の中にあるかどうかが全てを消すするみたいな感じがあるわけですよ。
つまり、関係がね、関係がいわゆる形式的なあるいは外的な関係が終了し終わるわけですね。内的な関係に移っていくというのが意向ですよね。要は。
毛布それ自体が母親のはずはないですよ。大事なのは毛布というものが対象が母親というものとの過ごした時のその体験を再起動させてくれるってことじゃないですか。固い言葉を使えばそういうことになるじゃないですか。
つまり、母親との関係が外的な関係。母親との関係が外的ってのは変ですが、外的な関係から内的な関係へと移行していくわけですよね。その時に移行対象というものがあれば、より鮮明に細かく思い出すことができて、従ってその移行元の対象喪失についてもある意味耐えやすくなる。
ある意味辛くもなると思うんですけど、だからそこに移行対象にはですね、冷えの陰影ってものがすごく色濃くあるはずなんですが、でもこれがですね、その人の何て言うんですか。
心の拡張に欠かせないと思うんですよ。ミニコットの表現を使うと、失うということを失う体験ができるためには、本当の意味で所有してなければできないという言い方があるんですね。あれはすごくさすがにミニコットらしいという感じがするんですけど。
だから私はあの言葉がですね、読んだ時に、やっぱりこうさすが他者っていうものを重視しているだけの精神分析だなと。
他者と失うことの重要性
なんで他者がいるのかとか、話したところで無駄だとか、話をしたからといって病気が良くなるわけじゃないとか、とにかく自己完結が好まれる今みたいな時代で、例えば環境を良くすれば人は動けるようになるみたいな笑い迫撃ですけど、そこに一者しかいなくていいっていう感じがあるわけじゃないですか。
二者何のためにいるんだってことですよね。他者というのは他者他者言うけれども、他者が何かの役に立つのかという話ですよね。しかし、失うことによって心がそれほど深みを増したり、隣営というか被愛というものを、つまり自分だけでは味わえないあるいは体験できない心的体験を持つためには、
やっぱりこの失うというのは欠かすことができない。失うってことがそんなに辛いって思えるような体験ができないんだったら、そもそも深い心的体験なんて、その人はしてこなかったってことになるじゃないですか。
辛いけど、これができたということはそれだけの心的体験を持てたってことですよね。そのことを意向対象というものは何度も何度も思い出させてくれると厳しいですけども、そういうことがあるわけですよね。本当に所有できたから本当にの失う辛さというものがわかるっていうのはそういう話になるんだろうと思うんですよ。
で、このことを理解することができるというためにはどんな他者であれ、他者じゃなければ無理ですよね。自分一人ではその人がどんなに優れた人であってどれほどの人であっても無理ですよね。なぜなら自分自身を失うということは、精神病状態っていうのはまた別ですが、自分自身を失うということは正気のままではできないからなんですよね。
我々は正気のままでもものすごく重要な他者を失う。逆に言うとものすごく重要な他者を失ってもなお正気でいるっていうのがそれほどの意義と言っては軽いんですが、それでも意義深い心的体験ってことは言えると思うんですよ。
そのためにはどんな人であっても、他者というものが必要で、で、他者というものに出会ってしまえば、他者というものと別れなければならない日がどうしたってやってくると。つまりそれが歴史的ポジションっていう表現になると思うんですよ。時間には限りがあるんで、流れてしまうんで、時間というものは。
時間というものがこの世になければ、つまりPSポジションにいればですね、万能空想的に死者を呼びかえらせることもできる、会えもしない人に会うこともできる、出し入れ自由の世界というものがそこに広がるんですけれども、そういうことができないんだと。
そういうことができないということがわかるってのが、移行対象の、移行対象の元の対象の創出ってものが、移行対象が教えてくれる、そういうふうな体験になっていくというようなことがですね、最近つくづく感じるようになったんですよ。
やっぱりどんな人からも何かをもたらされるわけですよね。3ヶ月チャレンジみたいな個人のセッションを色濃くやっていればですね、濃密にやっていけば必ずいろんなものを受け取ることになる。有形無形。有形のものは滅多に受け取らないけど、それこそお金ぐらいですけど、有形無形ですよね。さまざまなものをいただくことになるわけです。
その受け取ったことの意味ってのは、もらった瞬間にはなかなかわからないんだけど、終わりが来るときに必ず浮かび上がってくるんですよ。移行対象ってそういうもんですよね。別にライナスはこれが母親代わりにいつかなってくれるんだと思って毛布にくるまってたわけではないんだと思うんですよ。
でも母親というものと離れ離れになりそうになればなるほど、あの毛布というものの意味が大きくなっていく。そういう体験をしてきたんだというのがそこに凝縮されているような、それが移行対象なんだろうと思いますよね。
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