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  2. 精神分析「的」とは?【1110】
2024-12-23 50:12

精神分析「的」とは?【1110】

やれるだけのことはする。
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サマリー

精神分析的ポッドキャスト第1110回では、精神分析の定義やその必要性について考察し、日本における精神分析の現状を探ります。特に、精神分析的心理療法とその実践者の数が少ないことについて議論し、心理療法の多様性にも触れます。このエピソードでは、心理療法に関するさまざまな側面が議論され、行動科学とその応用についての知識が深められます。日本における精神分析的アプローチの特異性や文化的な影響についても考察し、効果的な治療方法とその背景が探求されます。また、精神分析が日本の心理療法に与える影響について考察され、行動療法や共感の重要性、精神分析的アプローチの限界にも焦点が当てられます。本エピソードでは、精神分析の視点から自己責任論と他者の影響についての議論が展開され、ヘルプレスネスや精神的な落ち込みが日常生活における行動に与える影響についても考察されます。精神分析の概念について深く掘り下げ、この表現が持つ意味と価値が探求されます。

日本の精神分析の現状
おはようございます。働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト第1110回をお送りします。
12月23日、天皇誕生日かな?の月曜日7時49分です。
はい、えーと、ものすごく寒い。
マイナス1度っていう表記が見えますね。
マイナスは、たぶんこの冬、関東ではね、一番寒いんではないかなと思います。
先日も、なんかこう、私の中で寒さ更新しましたけど、
今日はもう、明らかにその日を大幅に下回る、相当寒いですね。
当時かな?昨日か今日が当時だと思います。
ちなみに当時って、私もよく知らなかったんですが、
朝が一番遅くなる日は、もっと後なんですね。
なんとなく、体感的に毎年そういう感じってしてたんですが、
正月の方が朝遅くない?って思ってたんですけど、実際そうで、
1月6日ぐらいまでは朝は遅くなり続けるらしいんですが、
日没の時間もこの日を境に。
だから、当時ってのは、両方のピークが来るんではなくて、ずれるらしいんですよね。
たぶん日没の時間は、これからは少なくともどんどん後ろになっていって、
夜が来るのは少しずつ遅くなってくるらしいんですよ。
ただ朝が、朝の夜明けも少しずつは遅くなっていって、
両方とも、朝も早く日が昇るし、夜も日が落ちるのが遅くなるっていうのは、
1月6日を過ぎたあたりかららしくて、
確かにあの辺から急に日昇時間は長くなっていくような感じはしますよね。
寒くなっていきますけど、なぜか、なぜかっていうのが、
気温もきっと日の長さ等々とはずれるんでしょうね。
まあずれるだろうなって感じはしますけどね。
1月が一番寒いっていう人と、2月が一番寒いっていう人と、
東京もなんかこう意見が分かれるという気がするんですが、
これもなんかこう、年によって少し、どこいどこいなんだけど年によって少し違うようですね。
えーと、まあまあ、気候の話を2分しちゃったんですが、
えーと、今日は特にお知らせがあるわけでもないので、
まあちょっと先週はとびとびで、今週もとびとびになる気が、
何しろ今週もお正月が来ちゃいますかね。
まだお正月は来ないか。
来週がお正月か。
それにしても、あのもう寸前ですので、
とびとびになりそうな予感はするんですが、
まあ分かんないですけどね。
正月って結構暇なんで。
とりあえずこう、
えーと、そうそう、今日は精神分析的ホットキャストという、
この訳のわからない名前について、
少しお話ししながら、それを呼び水に入っていこうと思っておりました。
的というのは、精神分析では少なくともないね、と言ってるわけですね。
この的に、なんかね、ロゴとしては、
的だけ色を変えて、斜めにして変なフォントを使いたい、
そういうのをイメージしているんですが、
私はそういう能力がないし、やる気もないので、
なんかこう、ただ普通に書いてあって、
よくわからないと思いますが、
あの精神分析的心理療法という言葉が少なくとも日本にはあります。
海外にもあるんじゃないかと勘ぐってますけど、
僕は勘ぐっているだけです。
サイコアナリティック、
的っていうのがすでに形容詞的ですからね、それこそね。
あの、ここに的つけてるのは精神分析ホットキャストだと、
もはやさっぱりわからなくなるというところと、
あの精神分析でも何でもないよねって言っているだけです。
最近あの久しぶりに山崎孝明さんの
精神分析の歩き方という本を読んでまして、
ここにもうこの精神分析的っていうキーワードが何回も何回も登場するわけです。
それであの精神分析的心理療法って言っても、
そこを厳密に書き分けていけるっていう人は、
もう専門家でなければとても無理。
専門家であったとしても、
まあツッコミを入れられずに書き切るのは困難なのではないかと思いますね。
それぐらいなんかよくわからない、普通に考えればよくわからない世界になってます。
そもそも日本で精神分析、精神分析科と言われている人は、
おそらくですが私の知る限り100名いるかいないかなんじゃないかと、
知る限りってのは本で読んだ記憶が曖昧でありますがという意味です。
1000は絶対ないと思うんですね。4桁はいない。
3桁もいるかいないかなんじゃないかと思うんですよ。
どういう数え方をするかにも多少よるみたいなんですけどね。
この極端に少ない数字、だって4桁はいないんですから。
まず例えばですけれども、知り合いにプロ野球選手がいますっていう人、少ないと思うんですよ。
現役にいますっていう人は本当に少ないと思うんですけど、
4桁はいなくはないはずじゃないですか。
まあそれもちょっとカウントの仕方にもよりますけども、
でもまあ支配下登録で現在一軍ですっていう人が今ストーブリーグ中ですけどね。
25人はいるはずなわけですから、25×6球なんで、
まあ少なくともこの段階でも200名近くの一軍だけってことですよ。
これはいるわけですから、まあ3桁は有に超えていきますよね。
で引退して選手みたいなものを含めていいんだったらもう有に3いるんだけど、
それでも知り合いにいますって人はそうはいないと思うんですね。
2桁ってことになってくると、もうこれは内閣の数ぐらいになってきますからね。
内閣の数って大臣の数みたいなね、一歩間違ったそのレベルですよ。
だから日本で精神分析を正式に受けられる、受けているという人の数はものすごく少ないわけですよね。
で、しかも精神分析というのは定義上、定義によるとなんですが、週4以上やらなきゃいけなくて、
心理療法の多様性
週4を正式の今言った2桁の人の誰かによって受けてますって人の数って、
もうなんかものすごく少ない、本当に内閣に関わってる人の数より実数少ないんじゃないかぐらい少ないわけですよ。
ということはですね、私たちの大半は精神分析と日本人の大半はですね、だって日本人って1億いるわけじゃないですか。
1億人のうちの9999万人ぐらいは、多分もっと多くの人は精神分析というものに具体的に関わったことはないはずなんですよね。
ってことは日本では基本的にこれに関わってない人の方が、当然圧倒的に普通だということになるじゃないですか。
多分比較する意味はあまりないので、とにかくほとんど誰もいないんだということさえわかっていただければ十分ですね。
つまり精神分析的に関わってる人はいっぱいいらっしゃると思うんだけど、いっぱいつってもまあそんなに大多数ということはないにしても、
でも精神分析的な何かに関わっていらっしゃる方ならば、
まあ多分、知り合いにはいないかもしれないがいても全くおかしくはない。
しかし精神分析そのものに関わってる人は多分いるはずがない。
いるはずなんですけどね、どこかには。
まあよっぽど関わるという意思を強く持ってない限りは関わることはない一生を思いますから、どうしたって精神分析的になってしまうわけですね。
まず普通にやれば、心理カウンセリングを普通に受ければそれはもう絶対精神分析では、まあ絶対ではないけどオールモストオール違うだろうなと。
で、そうなってきますとですね、精神分析に関わっている人がほとんどいない中で、でも精神分析的な心理療法を受けている人は一定数いらっしゃるという状態があるわけですよ。
おそらく日本で、大畑海人さんの書いていることが大筋当たってるとして、私はそういうふうな認識でおりますけれども、ロジャーズなんかフレーバーのなんたらかんたらみたいなユンギアンがちょっと混ざってみたいな、要するにあれで言ってることって基本的にロジャーズ的なものが入ってるよねと。
あとまあユング的なものも入ってるよねと。したがって精神分析ではなくても精神力道、これも精神力道っていうのは精神分析プラスユングプラス何かみたいな感じ。とにかくフロイト的なものであるってことですよ。精神力道的なものも入ってるよねと。サイコダイナミックスみたいなものは入ってるよねと。ミックスジュースだってことですよ。
だから、傾聴、共感がすごく重視されていて、話をよく聞いてくれて、ユングっぽい知識がどっかに入ってきて、カワイイハヨウさんの影響でですね、フロイディアン的なものも当然入ってきて、プラス何か認知の歪みをどうのこうのみたいな知識は正式であればベースに持っていてって感じの、平成のあり触れた心理療法みたいな。
よくわかんないですけど、要するに全部混ぜておけばそういう感じになるんだけど、全部混ぜたものをその人なりにうまいことやって、人生相談みたいなところも兼ねてやっているカウンセラーっていう像が何となく浮かび上がってきますよねってことだと思うんですよ。
専門家の必要性
それを少し今は整理されてきて、整理されてるって言ってもどう整理されてるのかを一言でわかるほど簡単に、少なくとも一般の人はそれを認識できている段階には遠いと思うんですが、とはいえ、整理されてきて公認心理師という肩書きもできましたし、公認心理師と臨床心理師という肩書きが2つあるんですが、
この辺の話もしていると、興味のない人にしてみれば、そんな話を50分も聞かされても困るでしょうから、2つあるんですよっていうことですね。
それで、この辺の話を読み直してみますと、これはつまり、このことを説明できるだけでもはや専門家だよなって感じがしますよね。僕には到底できないし、する意欲ももう一つ湧きません。
なんとなくそういうことを追っていけば、読んでいけば意味はわかるぐらいでも、現代の日本においてはリテラシーのある方だということになっちゃうと思うんですね。
どっちかというと、話が錯綜しすぎているからそうなってしまうだけで、専門的知識が深いとか、頭が回るとかいう話ではないような気もするんですけれども、
こんなにだから錯綜してなくてもいいだろうって思うんだけど、してしまっているものはもうしょうがないですよね。考えてみれば、どんな国のだってきっと読み込んで詳しくなっていけば、実に錯綜しているのではないかという気もいたしますけどね。
そういうふうになっていて、それを言ってしまえば、みんなそうだと思うんですよ。ある意味、私がやってることなんて思いっきりそうだということに。だって、傾聴しないでできないじゃないですか。傾聴はするよねということですよね。
この番組ではどちらかというと、やや批判的なトーンで喋っちゃってますけど、認知行動療法みたいなものだって、使ってるに決まっていますよ。今の時代に。心理学を勉強しちゃえば、これを避けて通れないだろうと。
具体的に何かのアドバイスなり、介入なりするってことになってきたら、しないつもりでいたって、やっぱり黙ってるわけにはいきませんし、黙っているわけにはいかない以上、それっぽいことを言わないわけにもいきませんし、全く心理療法でないと言い切ってしまったとしてもですよ。
だから、心理療法が必要な人はみんな正規に言ってくださいと、仮にそういうものすごく露骨というか、相当危機現実的な線を無理やり引っ張ったとしてもですね、そうは言っても相談ってするじゃないですか。
そうは言っても相談する人がトラウマゼロです、ではない可能性が十分あるじゃないですか。そうは言っても相談する人が依存性ゼロですとか、そんなわけないじゃないですか。はっきり言って、来る人来る人みんなトラウマゼロです。依存性ゼロです。
だから私は純粋にコーチングを受けに来たんです、なんてことはありえないと思うんですよね。オーダーが二桁になった瞬間にそれはないだろうと私は思うんですよ。考えてみてほしいんですよ。自分に刺激がゼロだと言い切れるかと。
辛いものをいっぱい食べちゃうみたいなものまで含めての話ですよ。タバコはしない、アルコールもやらない。私からするとゲーム依存だってあるし、SNS依存もあるんですよ。しかも筋トレだって依存になるし、仕事中毒って言葉もあるんですよ。
こういうの一切ない人って、むしろ妙じゃない、ある意味では。そこまで適応度がものすごく仕事もちゃんとやってます。刺激的なものも一切ありません。トラウマって言われてもちょっと思いつきませんという方が、人に何かを相談するとはもはや思えないわけですよね。
で、刺激ってことになってくれば、普通にですよ、行動療法みたいな、行動療法とは言わないまでも行動変容を疑す行動科学的な知識を提供するなんてことは、普通に一番最初に誰もが誰もがとは言わないまでも考えつきますよね。
そしてそれは少なくとも専門的、専門家ではなくたって常識で考えれば、それなりに行動科学を全く知らないなんてことは考えにくいと思うんですよ。スキナーもワトソンも聞いたことがありませんとは思えないということですね。心理学に欠片でも興味があれば。
教育と行動主義の影響
そしてスキナーとワトソンに全く仮に興味がなくたって、犬に餌をやってお座りをしつけるってことぐらいはすると思うし、考えつくに決まってると思うんですよ。犬ってすごいですよ。私は犬を3回飼ったことが実家の方でありますけど、ポテトチップス1袋あればお座りは絶対しつけられますね。
と父が言っておりました。
つまり父は多分スキナーぐらいは知ってるかもしれないけど、行動家族なんて興味持ってる人じゃなかったけども、あれは行動科学ですからね間違いなくやってることは。
だって私アメリカでスキナーボックスで思いっきりラットをレバー倒しするようになったけど、やってることは全く同じですから。レバーを倒したら餌が出る。レバーを倒したら餌が出る。あれお座りって言って、お座りができたらいい子いい子ってやって、頭を撫でてポテトチップスあげればいいんですよ。
だいたい勘のいい犬なら4回やれば身につきますよはっきり言って。
あとはこれをどういう風にやっていくかって話なんで、1時間に1回やるとか、毎回ご褒美をやるのかやらないのか、ランダムでポテトチップスだいたいランダムになっちゃうんですからね子供がやってると。
ランダムにやると行動科学の教科書に書いてある通りでランダムにやると一旦覚えると忘れませんよ。
ランダムなんてね、やったりやらなかったりするんで子供の気まぐれがそこに介入してくる。
だからランダムに褒めるというのは非常に何かを身に染みさせるには良い方法なんですよ。
ということは僕らはだいたいランダムにしつけられてるから、親がしつけたがってることはだいたい身に染みてばっちり身につくわけですよ。
だって毎度毎度これを定常なんとかとか言うんですけれどもね、そういうやり方をすると。
で、このことを使って酒やめさせよう、勉強させよう、なんでもいいですけどね、筋トレさせよう、タスク柔道覚えさせよう、なんでもできますよね、これでね。
だからこの世はとても危険な考えだという意見もあるわけですよ、アメリカの方では。
これって共産主義につながるじゃん、それはまあレッドパージーしていただけのことはあってね、実はすごい警戒されていますねっていうのがよくわかります。
受験を受けた身としては2000年過ぎてたのに、やっぱりコミュニズムじゃんそれみたいな意見って結構学生からバンバン出ましたね。
そうなんですよね。
ちなみにアメリカの学生さんって面白いことに、すごい受験勉強で勉強してくるというタイプと全然違うんで、好きななんて知らないって人普通に心理学科にいますからね。
あれも僕は目が丸くなったんですけど、好きな知らないんだみたいな、でもフロイド知らないって人は一人もいませんけどね。
この辺が日本人の感覚とは全然違う。
ちなみにユング知らないって人はいっぱいいます。ユング知ってるって人はやっぱりすごいスピっぽい方向に興味持っていらっしゃる方が少なくからずいて、
私もそういう話好きなんで、英語を喋る機会を増やしたいということもあって、すっごい相手してくれたアメリカの中年女性の方と仲良くなりましたね。
もうめちゃくちゃスピでした。
星占いから占いからタロットから、もうなんでもそっち系であればあの人と喋ってて英語結構いけるようになったんですよ。
偏っちゃいますけどね。
そういうことから来てるんですよ。
精神分析的心理療法というふうに言ったときに、多分日本ではそれはですね、多くのカウンセラーさんが一般的に納得できるニュアンスがあるんじゃないかなって私は思うんですね。
本読んでて思ったことは上田克久さんのその系の本もあるんですけれども、今ちょっとタイトルが出てこなくなったんでその系の本とか言っちゃってますけど、
たぶんここに書いてあることに一番僕が納得いくのは、作想した歴史ではなくてね。
たぶんこの形状と共感に本腰を入れて、あまり物思いとかまでは行かずにですね、形状と共感に本腰を入れて環境としての母親なりコンテイナーとして機能するっていう、
河合駿さん流に言うと母性的な共感というものを発揮しつつ、話をよく聞き、介入は控えめにし、したがってアドバイスは控えめにするってことですけれども、
してトラウマとか死壁といったものを視野に置きつつ、精神力動的な解釈が必要ならば時々やって、
変異についても目配りをしながらことを進めていって、なんか常識的に良い方向に向かっていくように、
伴奏するなり一緒に走るなりね、作業を行っていくんだっていうのが、日本人の特に心理臨床を目指す方の感覚とニュアンスに納得感を与えるんじゃないだろうかと思いました。
これはなんか今のように喋ってみると、読んでても思うんですけど、なんかよくわかんないけどその辺に納得できそうな感じがするじゃないですか。
しません?ここは僕は日本人的だって思っちゃうんですよ。
なんかこうね、お酒を一回やめたらその度にクーポンを出すみたいな、これは日本人の感性にはなはな合わないなって思うんですよ。
効果出るんですよ、これは。効果出ることは私は朝霞第五小学校の小学校3年のときと4年のときの担任の先生がこればっかりやってたんで、この話先日いたしましたけど、
こればっかりやってたんで、少なくとも子供には効果絶大だってのがよくわかるんですよ。
あの、当時はなんて言ったっけあれ。要するにソプラノの笛ですよね。縦笛って言われてるやつ。めちゃくちゃクラス中上手くなりました。
あれやってるだけで。あれやってるだけですよ本当に。その先生は特別褒めもけなしもしないんですよ。
割と行動科学を熱心にやって、そういう雰囲気の先生ではなかったんですけどね。
普通の女性の先生で、いかにも学校の先生って漢字の方だったんですけど、
やってることはもうとことん漢字から計算ドリルから、それこそ縦笛から、ポートボールっていうボールから、
もう全部それで統一していく、統一するんですよね。
金のワッペンと銀のワッペンと銅のワッペンと青いワッペンと赤いワッペンと無視して、
クラス中に名前とその棒グラフを貼っていって、まあ競争意識は追ってもいますけど、
でも基本的にはいかに早く報酬にたどり着けるかでクラスをマネジメントしてるわけですよ。
もうめちゃくちゃそのクラス一組だったんですけど、
日本における治療法の特異性
一組は何やらせても優秀だということではいつも話題になってたんですけれども、
まあ日本人の感性には一般的にあってませんね。
親御さん決してよく言ってる親御さん一人も聞いたことがなかったんです。
うちの親も含めてね。
だってあのやり方ってさってみんな言ってましたね。面白いなって思いました、あれは。
実に興味深い現象だと。
勉強できるようになって運動できるようになって音楽できる、特に音楽に効果を発揮するんですよ。
理由はわかりませんでしたが。
だっていいことづくめのようなんだけど、あれをよく言う親御さんはいなかった。
僕はだから、あの行動療法って日本人の感性に少なくとも、
昭和60年代頃のつまり段階の世代と言われている親御さんの感性には、
著しく反する何かがあるんだろうと、当時からなんとなく感じました。
あの時僕はですね、その好きなという言葉を知ったんですよ。
なんかこれは絶対にこの先生のオリジナルではありえないだろうと、なぜか思ったんですね。
そうはとても思えなかったんですよ。
だってあのやり方さっていう風に親御さんが言ってるってことは、
みんなこうやれば一定の効果があるに決まってるじゃんっていうニュアンスがどこかにあったわけですよね。
だからこの行動主義的なものっていうのは、当時そういう言葉をもちろん私は知りませんでしたけど、
どこかに絶対オリジナルがあるはずだと。
しかもそれはアメリカにあるはずだ。
だってあの頃アメリカ来産すごかったんで。
それはその先生とかだけじゃなくて、どの先生ももうアメリカ万歳だった。
アメリカ型民主主義というのは、全てを良くするっていうのに、
それを信じられる時代だったんですよ。経済的にもいろんな意味で。
ただ何かが見えてこなかった時代ってこともあって。
公害とかあったんだけど、公害とかは別に共産主義にもありましたしね。
だからとにかくそういう風な雰囲気があったんで、
絶対アメリカにこれの原型があるんだろうと僕は当たりをつけて、
あの時好きだって言葉を知ったんだと思うんですよ。
てか知ったんですよ。小学校4年の頃だったと思います。
で、私ももちろんめちゃくちゃ感銘を受けて、
一時は全部それにしましたね、自分を。
当時四ツ矢大塚っていう塾に通ってたんですけど、
でも僕は徹底できないんだな、きっとな。
徹底してれば正解ぐらいにはなれたと思うんですよ、さすがに。
徹底できなかったんですよね。でも適用したことは確かです。
行動科学を自分に適用すると。だからお母さんにご褒美もらうんですよ。
僕はその辺は無駄なことをやるのが嫌いな人間なんで、
ドーナツをくれるとかバナナくれるとか、
精神分析のアプローチ
そういう猿みたいなことはしたくなかったんで、
必ずお金にしました。1円玉でいいから金にしろと。
金が一番やっぱりね、行動変容には強く響く。
で、うちの母もそういうの大好きな人間なんで、
うちのその一組の先生のことを非難する割には好きなんですよね、そういうのはね。
もうバリバリ親子でやって、だから早稲田に入れたんだと思うんですよ。
僕の程度の頭脳では、あそこの中学に入ったのはもうスレスレだったと思うんで、
入らなきゃよかったんですけどね。
この行動科学的な何かが良くなかったというより、
早稲田なんかに入るっていうのが、僕にとっては一つの間違いだったなと思うんだけど、
東肌カイドさんがですね、あれはアザブかな、
同じようなことを書いてたんで、
あのおぞましいというか、あの情けない経験も悪くはなかったと今なら思えるんですけど、
当時は嫌でしたね。
それで、これが行動科学的な世界だと思うんですよね。
これって明らかに精神分析的とはだいぶ違うじゃないですか。
何がどう違うかの説明を始めると結構ややこしくなるんですけど、
なんかニュアンスが違うのは確かだと思う。
そして精神分析的、的っていうのは精神分析はできないからっていうことだと私は思うんだけど、
あの精神分析的なものをそこに投入して、
で共感度を計上というものを重視しつつ、
いろんなそのお話を伺っていくと、
これを正規と民間で分けるって言ったら、
それは資格しかないよねって私は思います。
だってこの方法論って今の日本で常識的なそこそこレベルの高い教育を受けた人ならば、
誰もがこの線に行くだろうと。
日本人のさっき言った神聖みたいなものも加味して考えるならば、
心理療法の違い
大半が少なくとも半数以上は絶対この線に行く。
実際にやればますますそうなっていくわけですよ。
話を聞くか、行動変容を徹底するか、ある意味二者卓一的なところがあります。
もう一つが説得するってやつですよね。
だから説得するってのは多分に認知療法なんですよ。
合理的な考え方にやっぱり引っ張っていくってわけだから。
お酒をしこたま飲みます。会社に行けません。どうしたらいいでしょう。
ってなった時に、まずお酒の量を減らそうねと誰もが考えるじゃないですか。
朝からお酒飲むのは少なくともやめましょうねと誰もが考えるじゃないですか。
じゃあどうしてそんなにお酒が飲みたくなるんでしょうねって話に当然なるじゃないですか。
どうしてそんなにお酒が飲みたくなるんでしょうって話になったら、
その人のおそらく自己肯定感がやたら低いだとか、
ものすごく傷つきやすい同じことですけれども、
同じようなことですけどとかいう話になるじゃないですか。
その時に、例えば力動的な話としての環境としての母親が機能してないんじゃないかという言い方って便利じゃないですか。
そして、あるいはですね、自己肯定感がものすごく低いってなった時に、
あなたが仕事ができないっていうのは本当でしょうかって話を是非ともしたくなるじゃないですか。
本当はそんなにできないわけじゃないんじゃないのって話って必ず出てきそうなもんですよね。
仕事ができないとか、遅くて迷惑かけてる、それは本当なんでしょうかねって話しますよそれは。
この話聞けば、普通の頭脳を持っていればですね、もちろんそこで抵抗されるに決まってるじゃないですか。
いやいや先生わかってないですよ。私は実は本当に仕事が遅いんですって言葉がおそらく出てくるだろうなっていうのは、
それこそビオンのあれじゃないですけれども、理解なく記憶なくなんて言ったって絶対そういう言葉が出てくるっていうのを意識してしまいますよね。
先取りしてしまう。で実際に出てくると思うんですよ。
そうなったところから説得というものをするでしょ。やっぱり。
もちろんそこで本当に黙って聞いてるっていうスタイルの人もいらっしゃると思うんですよ。
結局どんなスタイルを選択するかというのはもうだんだんだんだんスタイルの問題になってきますよね。
そして例えば絶対に構造を動かさないとかいうのだって本当に全ての正規の人が守っていると思いますよ。
守っていると思うけれども、確信してそうされているかどうかはやっぱり微妙なところだと思うんですよ。
確信しているのは例えば形状がいいみたいな話であれば、特に最初の頃は確信して形状はいいんだ。
もっと話し聞こうって思うと思うんだけれども、構造を動かさないというようなものに至ってはですね。
確信してはいないっていう人だって別にいらっしゃっても、少なくともその人を責めたいとは思いません。私だったらですね。
だって1秒でも遅れるっていうなら、それは抵抗の現れであると。
教科書に書いてあるからそうなんだろうなって当たりをつけてみると割とそうで面白いなって思うってことあると思うんだけど、
実際にどんな風に思えないなと思いながらも、結論は多い方がいいんで、話をいきなり始めた人をどうしていくかっていうのは相番行き詰まりに決まっているわけですよ。
例えばその仕事が本当に遅いんですと、で、自分が情けなくなるからお酒飲んじゃうんですと、そしていろんな話が出てきますよね。
実は道さんがすごく厳しくてと。
効動的になってみたり、認知的になってみたり、そしてお酒を減らしましょうという行動的になってみたり、普通はここを一生懸命真剣にマネジメントすれば普通は一定の効果は上がると思うんですよ。
だってそういう方は多分なかなか多くの人にいろんな意味でケアされてこなかった可能性があるし、
ケアされるってやっぱりありがたいじゃないですか。
だから普通のやりとりの中で、私は最近とても親しい知人っていう考え方を取ってるんですけど、友人ではないし、
医者と患者ではやっぱり私たちはないし、
その他何であると言っても何でもないところがあるので、もちろん恋愛関係にあるわけじゃないし、親類でもないし、
やっぱりとてもよく知ってる知人同士っていうふうに考えるんですけれども、
ツイッターの逆ですね、Xの逆です。
とても何も知らない緩やかなつながりっていうのが、Xがツイッターが出た頃の歌い文句の一つだったんだけど、
あれと逆ですね。
ものすごくよく知ってるんだけど知人でしかないみたいな、そういう関係かなと。
つまり関係性に向かってるわけですよね。
関係性に向かうっていうのも、なんとなくいかにも関係性って言葉は良くないと思うんだけど、
関係なんだけど、より良い関係、より良い関係っていうのを向かっていくっていうのが、
やっぱり普通の日本のカウンセリングスタイルなんじゃないかなと思います。
もちろん転移があったり東洋ドイツ化があったりして、そこが一筋縄ではいかないとも思うんだけれども、
一筋縄ではいかないんだろうなと推測するわけですが、とはいえ日本人の普通の感性でいけば、
よほどの人でない限りは良い関係というラポールって流行りましたからね。
日本の心理臨床の世界ではラポールって言葉はすごく受けが良かった。
私の知っている、なぜ知ってるかというと、留学中に日本人留学生の大半は、
実際にカウンセラー目指されてるんですよ。心理学であればね。
現代日本の心理的課題
少なからずカウンセラー目指されている方が多いんですね。
それらの人たちはラポールって言葉はすごくやっぱり好きでした。
それはよくわかる、日本人としては。
ラポールだけじゃダメじゃんみたいなことを言いたくなるのも日本人なんだと思うんですよ。
それはラポールが重視されているっていうのがデフォルトにあるんだろうと思うんですよね。
もちろんラポール大事だっていうのはアメリカでも言うんだけど、でもアメリカ人にはもっとクーポン効くんですよ。
彼らはクーポン制度を、それこそ私の昔の三年一組の先生みたいにですね、
アメリカ中の先生が平気でやります。平気でって言うのもおかしいけれども、普通にやりますからね。
しかもクーポンの先にはドーナツが待ってますから、金のわっぺんどころじゃないんですよ。
その割には統制取れてねえなあと思うことも多いんだけど、
やっぱりあれはアメリカ人の感性に最初から合いすぎちゃってるのかもしれないですよね。
そこまで統制取る気はないってこともあるんだろうと思うんですけど。
そんなこんなで、行動療法っていうのはですね、日本人が思う以上にアメリカ人の方ではしっくりくるみたいだし、
それだけにきっと僕は、敬長と共感みたいなのは、少なくともアメリカのカウンセラーさんは、
日本人ほどは納得感を持ってやるわけじゃないのかもしれないなとは時々思うんですよ。
だって私、それこそ認知行動療法はアメリカで2度受けて、少なくとも正式に2度受けてるんですけど、
これはいわゆるプラクティカムとかいうやつの一環でやったんですけれども、
全然敬長はあんまり敬長もされた気がしない。
僕の英語がどうしようもなかったせいはあるにせよですね。
共感はされた気が全くしませんでしたから、文化の違いがあるんでしょうけど、
共感されてるなんて感じはしないなって思いました。
当時はそれで全然良かったんですけどね。
そんなこんなで、何を言ってるかというと、
この番組は精神分析的っていう表現をとってるのは何を意味してるか。
でだらめですってことを意味してます。
これは僕にとっていつもいつも重視している一つの大きなポイントなんですね。
精神分析では全くないばかりでなく、精神分析的な心理療法ですら全然ありません。
ビジネスコンサルタントです。これはね。
で、コーチングとかでもありません。
私はこの資格がないというのが私のレッテルなんで、資格はないんですよ。
これを埋めることができないじゃん。
日本現在っていうことを一つは言いたいわけです。
こういうことを勝手にやりだした人間を罵ることまでしかできないじゃん。
っていうのが私の今の言い分なんですよ。
批判もできるし、バッシングもできるんだけど、やめさせることは不可能だよな。
っていうのが、さまざまな警告を出すことができる。
最近聞いた警告の中でもなかなか震ってるのが、
佐々木さんの心が痛まないかが心配です。っていうやつ。
心配していただくことはできるけど、
私が心を痛めているかどうかということに頓着せず進むっていうのはやっぱり止めるってことはできない。
これは車の逆走とは違う。これは止められますからね。
車の逆走ならば同行法で止められる。
しかし私がこの勝手に精神分析的なポッドキャストをやっちゃうとかは、
自己責任と他者の影響
あれは本当ダメだよねということはできても、
これを停止させるってことはできないんですよ。
ここのところをこの番組を聞いてくださっている方にぜひお伝えしたいんですよ。
これはちょっとニュアンスは違うけど、
倉園圭三さんがグッドバイブスで言うところの、
心を傷つけることは誰にもできないっていうのに、
ものすごく僕は接近していると思うんですね。
心が傷つきましたとか、許せなくなりましたと、
私たちは割と簡単に言うんだけど、
これが他人の力によって可能なものなのか。
他人の力によって可能なのだと信じていると可能になってしまうんですけれども、
動けなくなった。やる気がなくなった。
ということを言えてしまって、
本当にやる気がなくなったかのような行動を取れちゃうんだけど、
そのように相手にさせることができないんだと決めてみると、
果たして何が起きるのか。
これをですね、自己責任論とか言いたいわけでは私はないんですよ。
あなた責任取れないでしょうと私に言うことはできるんですよ。
私はそれに対して別段反論があるわけでもないんですね。
ただ、だから私に3ヶ月チャレンジをやめさせるということはできない。
ここが僕はすごく、
いろんな意味で日本の心理臨床と関係がないわけじゃない話ですし、
ないといえばないんですけどね。
精神分析とはあんま関係ないですけれども、
その割に私はここで精神分析の話はしてますと。
落ち込みと絶望
他の人がこれをするってことも誰にも止めることはできないんですよ。
こういうことを私は何て言うんですかね、
何らかの形で伝えているんだよなと思うんですよね。
何て言えばいいんでしょうね。
さっきの自己肯定感の話とちょっと似てるんですけど、
人に迷惑をかけてしまうんだとか、
私は仕事が遅すぎるとか、できなすぎるという話って、
自分で自分にする話だと私は思うんですよ。
客観的事実なんだ。そこで頑張る。
頑張るのはその人の気持ちの上で、心理の中で、
そう頑張らせられる自分っていうのが発生してしまうという、
この辺はそれこそ力動的だと思うんですけれども、
これを私は基本的には何て言うんですかね、
みんなそこで行き詰まるだろうと。
だって行き詰まらなかったとして納得した、よくわかった、
お酒ももう飲まなくなってきましたって言っていたって、
50日後には酒タラフ飲んで、やっぱり俺すごいダメだわ、
ってなっている可能性は十分あるじゃないですか。
そうやって相談というものは行き詰まっていくわけだけれども、
相談行き詰まらざるを得ないと思うんですよ。
話がどれほど伝わっているようだとしてもですね。
それに対して、
例えば私なりができることって実際には何もないわけですよ。
さっきの私のこれを止められないのと全く同じなんですよ。
この人がお酒を飲むのは止められない、本当の意味では。
物理的な力を行使して止めることは決してできないんですね。
そこに欲打つ的になっていく理由、
つまりものすごく落ち込む理由がありますよ。
でも絶望しないということはできるんですよ。
つまりものすごく落ち込むということと絶望するということは
分けられるんですよね。
私は落ち込んでいるように見えないとおっしゃる方もいるんですけれども、
見えるかどうかなんて関係ないじゃないですか。
私が落ち込んでいるように見えようと見えないと、
実際に落ち込んでいようといないと、
そんなことは関係ないんですよ。
関係あると思ってしまうというのは、
やはりその人にとってのヘルプレスですなんですよ。
かなり私は言葉の本当の意味でヘルプレスネスだと思うんですよね。
ヘルプレスネスというものは、
行動変容への道
いつも本当にあっさりフロイトになっちゃってますけど、
いつも長寿がと関係があると思うんですね。
だってこれだって普通の心理カウンセリングの中に必ず出てくるじゃないですか。
親が厳しすぎだからあなたは自信が持てない。
これをどんな言い方をしているかによって、
様々な流派ができると思うんですけれども、
でも、話聞き手としては聞こえてくる言葉はこれといつも似てますよね。
あなたはかけがえのない存在なんだから、
もっと自分を大切にしましょうという言い方もあるでしょうし、
もっと具体化していって、
自分自身の幼かった頃の親に傷つけられた自分を抱きしめてあげましょう、
というような言い方だってできると思うんですよ。
それはとても受け入れられないっていう人もいらっしゃると思うんですけど、
これだって言う人、その人のトーンや口調、
声の調子とか、それこそ顔の表情とかによって大きく変わると思うんですよね、
事の効果は。
ものすごくその言葉によって、
ガラッと自分が変えられるような言い方ができる人だっていると思いますよ。
少なからずいらっしゃると思いますね。
もちろんこれは正義の中にって意味ですよ。
だから正義をお勧めしてるって意味ではありませんよ。
なら民間の中にも絶対いらっしゃると思います。
で、そういうのだって同じですよね。
止められはしないじゃないですか。
僕はそこのところを、何て言うんですかね、
強く言いたいわけですよ、ある意味では。
それを止めるほどの根拠を、正義の側は、
もし正義と民間を分けて、しかもカウンセリングというものを独占する必要があるということであれば、
ここを止められる根拠をもっと強く持つ必要があるというのが一つですよね。
精神分析的なものは認められないということであれば、
ただそうすると精神分析的なものがこの世から消滅しなければならなくなるし、
単に二桁の人にもしかするとかかる、
二桁ぐらいかせいぜい三桁の人にしかカウンセリングが開かれてないみたいな話になっていくので、
現段階ではそれは全く現実的ではないですよね。
つまりここに現実原則ってものがあるんですよ、やっぱり。
なぜ民間の人、あるいはもうぶっちゃけ野良カウンセラーという人がいなくならないのかというと、
それは現実原則だからですよね。
深い原則だけで言えば、そんな連中は不快だから一層しろってことはいくらでも言えると思うんですよね。
それは一時過程だと思う。
し、その感性というか感覚はよくわかる気がします。
僕にはわかってないと思いますけれども、やってるぐらいですから近いことを。
このビジネスコンサルタントというものと、だからかぶってこざるを得ない中でやっていくんですけれども、
その中で私がこう感じるのは、さっき言ったようなことを結局やってるのは自分。
認知行動療法風の、ロジャース風の、ユング風では全くないと思いますけど、
フロイディアン風の、そしてなんだかよくわからない風のものをやってるなと思います。
で、結局絶望しないということ、そしてヘルプレスネスというものが、何て言うんですかね。
自作自演に限りなく近いものだということ、これは自分自身についての話です。
私って寄るべないよな、寄るべないに決まってるじゃないですか。
なんか中国でね、極音速ミサイルとかが飛んできます。
寄るべないでしょ。僕とか一瞬で消滅しちゃうじゃないですか、そんなものと喧嘩したら。
なんならそんなことまで言わずとも、宮沢須坂付近に一人で、新聞紙で寝なきゃなんだくなったら寄るべないですよね。
でもこの寄るべなさって、絶対長寿画と関係があるんですよ。
だから私は寄るべなくないんですよ。
寄るべなくない証拠って、一個も見つからなくたって寄るべなくはないんですよ。
で、いろんな圧がここにかかってきますでしょ。
それが皆さん嫌なんだと思うんです。私が思うに。
このレベルのビジネスコンサルタントっていうようなものを受ける可能性があるかないかはわからないけど、
本当に絶望的なレベルでという話でないのであればですね。
やっぱりこう、一定の抑鬱不安の中にいる話っていつもここにあると思うんですよ。
私だって父に言われましたもん。
お前なんか露頭に迷って布団が新聞紙だったら死んじまうんだからな、みたいな。
別になんてことはないですよ、父は。ただそういうことが言ってみたかったんですよ、昔。
まあ今で言うところの酒に酔ってマウントが取りたかった。
タイがないんですよ。そうなるじゃないですか、人間生きてれば。いくらかはね。
つまりこれは長寿がなんですよ。大した長寿がじゃないけど。
私はヘルプネスですね。身ぶるいする。こういうことでしかないんだと本当は思うんですよね。
自信がないフリをしたくなる。自信があるフリをするとひどい目に遭う気がする。
叩かれる気がするし、本当に失敗した時に身の動きどころがなくなるような気がするか。
こういう話になるとなんとなく流れが良くなってくるわけですよ。
さっきみたいな理屈っぽい話みたいな抽象的な話じゃなくて。
でも私はこの話は全部共感っていう話になってるだろうし、平調っていうことでもあるだろうし。
結局は長寿がとかって言うんだから、精神力動みたいなのが出てくるだろうし。
そしてそうやっているとでも結局新聞人が布団になっちゃうから、本当の布団を買うためには行動変容もいるよねと。
実にこうやってみると表面的でつまらない話に終始してる感じがしません?
そうなる、そういうふうに聞こえる、こういう話をしょっちゅう聞いた人にしてみれば、そういうふうに聞こえるんじゃないかと思うんですよね。
そして今のところ、これ以上の特効薬ってものを求めるならば、本当に、分かりませんけれども三感系の抗薄剤とかね、そういう話になってこざるを得ないんだと。
置かれてる状況が、そもそもまだまだ花火が打ち上がってないんですよということです。
花火がね、打ち上がってないんですよ。
そんな状況に我々は置かれているということですよ。
私のようなこういう活動すら、本当の意味で決定的に止められる、あるいは勝手になくなって衰退し消滅していってくれるっていう状況にはまだまだないんですね。
ないからやってられるんですよ。
でも、私は分析的な知識ってものは、結構それでも、だから使わないっていうよりは、構わないから使っちゃうっていうぐらいに実は有効だになり得ると信じていて、
精神分析適の意義
だからこの、実態が何もないくせに、適度までつけてでも、そして後ろに両方がつかないのに、精神分析適という表現を使って、この話が一体この話に何の意味があるんだって思われると思うんですよね。
そこが私が思うところのこの話をする価値なわけです。
【質問コーナー】
50:12

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