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2024-12-19 43:59

偉業は目の前にある【1109】

なぜ働くメンタルを精神分析で取り戻せるか?
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00:06
おはようございます。働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト1109回をお送りします。
週2月19日の木曜日、朝10時39分です。
昨日ですね、例の東中野にあります【雑談】というですね、これを先に言えよって話ですが、終わってから言うというね、ポッドキャストの聖地なるところにお邪魔して、
夫婦関係学ラジオの鶴田敦史さん、通称アツさんとコラボでお話をしてきました。後日それもアップされると思いますけれども、
まずはですね、いや良かったなと思いました。 シンプルに。
あの、何と言いますかね、すごい独特のバーで、発想としては多分、
まずあのポッドキャストの人たちが収録できるように、相当設備が完備されているんですね、整備されているんですよ。
で、その収録用の部屋がありまして、まあ多分かなりの防音になっていると思うんですけれども、
そこに非常に高そうなマイクと、ミキサーっていうんですか、なんかこう、私はちょっといじりたいとは思わない、難しそうなものが、
なんかピカピカ光ってるやつが並んでおりまして、それをいじると、なんかいい具合になるらしいんですね。
それは最初からいい具合にされてセットされているわけですが、そこで喋ればいいと。
あの空中に浮かんでるマイクに向かって喋ればいいわけですよ。素晴らしい環境で、大変こう、その環境で久しぶりに喋れたということが非常に、
昔ね、商業ラジオの番組で喋ったことって2回ぐらいあるんですけど、もっとすごい設備だったんですけど、
当時はまだその価値がよく分かってなかったんですね、私。ホットキャストやってなかったから。
自分でやるようになって、これはこういう環境がどれほど恵まれたものであるかということをですね、痛感しまして、
グッドバイオスTVというですね、グッドバイオスファクトリーという倉園さんの主催されているコミュニティで、オンラインコミュニティでも流れてるんですけど、
そのグッドバイオスTVの収録の時、倉園さんはやっぱり音楽やってた方だけあってですね、方だけあってなのか知りませんが、
音のどういう風に撮れるかということにはかなり気を使われる方で、それはやっぱり結構大変じゃないですか。
大変というのはつまり、Zoomでオンラインで喋っているものとは随分違う労力がかかるわけですね。
03:00
ということは、それだけの価値があるはずなんですよ。
ということは、これをやるのは、それをやれる設備が揃っているというのは大したことだわけですよね。
非常にその辺を痛感いたしまして、昨日はそこで喋ってきて、バーになっててですね。
要するに素人ラジオを聴けるバーですよね、これはね。
当然そこに人を呼びますよね、フォトキャスターがやる時にはね。
こういう、そこでワンドリンク飲むとバーは潤うのかわかんないですけど、ワンドリンクぐらいじゃ潤わないかもしれませんが、そういうことなんだろうなって思いまして、
なるほどなぁと思ったんですよね。
別にほらバーとかってよくラジオとかかかってたりするじゃないですか、僕はよく知りませんけれども。
それが別にポッドキャストであっていけないわけではないというか、ポッドキャストの方が人を呼ぶ理由にはなりますよね。
だからなるほどなと思ったという次第なわけですよ。
一般の人も入れるんですよね。
だからますますですね、上手いこといけば上手いこといくんじゃないかと。
初期投資がかかりますけどね。
そんなところに行ってきて、これは要するに余談なんですけれども、
いろいろとまた考える機会があってよかったなと思いました。
ますます自分はですね、3ヶ月チャレンジと精神分析的ほにゃららをやっていくっていう方向に意識を向けていかざるを得ないなというのも改めて感じまして、
要するに頑張ろうと思ったってことなんだけど、端的に言ってしまうとですね。
タスク集と総決算もありましたから、2025年はですね、ジェイン松崎さんと大橋哲夫さんと協力していろいろやれることはやっていきたいとは思ってるんですけど、
それにも少しは僕も精神分析的なものをこっちに入れていこうと思いつつ、
入れられる分だけということですよ。
ごく薄くなってもいいから、それだったら今までも入れてきましたけども、そういう方向を模索しつつ、サンチャレもあるいはこのポッドキャストもやっていこうと思ったわけですね。
で、一番思ったのがまずこのメンタルを取り戻すってやつですよね。
これは非常に簡単な話でして、私の信じるところではね、
昨日喋ったわけですよ、アツさんとね。
例によって例のごとく何も考えずに言って何も考えずに喋ってて、
しかもですね、これは僕ちょっとうっかりしてたというか、うっかりも何もないんだけど、
これは高年期障害ってやつなんでしょうね。
言ってて恥ずかしいんですけど、顔がほでっちゃうんですよ。
ちょっと暑いところに入ると足冷えてるのに頭がめちゃくちゃ暑くなってきて、
普段は何も考えてないって言ってて何も考えてないんですけど、
これがですね、本当に何も考えてない状態になってますよね。
06:03
人だから何喋ったか何一つ今は思い出せないんですよ。
これもそんなに驚くようなことじゃなくて、いつもそうなんだけど、それにしてもすごいんですよね。
言ったことすらしっかり実感できてないんですよ、実はね。
現実見当がすごい怪しくなってて、あれは夢だったんだよって言われると、うんそうだよねって感じがするぐらいの
意識への残り方の気白さなんですよね。
普段は頭が真っ白になるって言うじゃないですか。
だけど違うんですよ。
照明がオレンジ色だったせいがあって、頭が真オレンジになってたんですよ。
脳内にオレンジしかありませんみたいな、そういう感じになってて。
顔赤いですよって言われてたんだけど、顔赤いっていうかオレンジだよねみたいな気がしていたわけですよね。
何言ってんだ、全然自分で喋っててわけわかってなくて、聞かれたことにとりあえず口から出まかせですよ。
まさにね、そんなことを喋っていて、たぶんいつもと何も変わらないんじゃないかとは思いますが、
問題なのは顔のホテリーって結構不愉快だってことなんですよね。
考えられないのは別にいいんですよ。
考える気は最初から別にないんで。
ホテるのはね、これは嫌ですね。
だからネッククラー持ってけばよかったなと、このあの寒空でネッククラー持ってくって発想が全く思い浮かばなかったんだけど、
ネッククラー持って行ってれば少なくともホテリーはなかったよねっていうのがね、
年は取りたくないというありがちな話なんですけど、本当にね、びっくりしますよね。
最近本当に簡単にのぼせてしまうんですよ、お風呂入っててもね。
簡単に。
どっちかっていうとこれは女性画っていう風によくネットとかには書いてあるんだけど、
僕は思いっきりハマってますね。
これね、51歳にして。
これはね、全然愉快ではないですよ、本当に。
とにかく顔だけ暑くなるっていうね。
だから何を喋ったのかよく覚えてないんです。
終わった後に喋ったことは覚えてるんですよ。
耳のやつ外すから一気に熱取れていって、
少しホテってるんだけど大体大丈夫な状態にすぐ治るんですよね。
その後喋ったことの方がよく覚えてるよねっていうぐらい覚えてなかったりする。
働くメンタルを取り戻す話なんですけれども、働くメンタルはあるんですよ。
取り戻すっていうのはデフォルトでっていう意味なのですね。
で、ミニコットの言葉になってしまいますけれども、
グッドイナフでいいんですよ、グッドイナフで。
私たちはグッドイナフマザーに育てられたグッドイナフ人間であれば、
多分働くメンタルを持ってるんですよ。
これだけの話。
働くメンタルがないっていうときは、
多分見失ったか、
このグッドイナフなグッドイナフっていうのは素晴らしいっていう意味ではさらさらないですからね。
09:00
全ての人はグッドイナフですから。
全ての母はグッドイナフですから。
ちなみに実母って意味じゃないですからね。
いや、そうじゃないだろうっていう話が社会側にあるのは存じてます。
そういう意味ではありません。
でも、例えば皆さんはこれはグッドイナフです。
なぜならこれを聞いてられる。
これを聞いてられるということはグッドイナフマザーに育てられたはずなんですよ。
どんな育ち方をしたとかではない。
親が厳しすぎたとか、あんまり良くなかったとか様々あると思いますが、
グッドイナフは良いって意味じゃないですからね。
良いとか素晴らしいとか健全だとか健康だとかはどこにも入ってないんで。
ただグッドイナフなだけなんで。
それで、それで働くメンタルは取り戻せる。
ただし、取り戻すということを言うってことは見失うことはどうやらあるらしい。
例えばもうすごくよく打つ気分でどうしようもないって時には働くメンタルはどっか行っちゃってる。
だけどこれは改めて手に入れたり高いモチベーションを維持したり、
ゴールを、目標を設定してPDCAをやっていくといったことはさらさら必要ございません。
私の考えでは。
というかメンタルをPDCAするのは、言葉を選びたいところですが、
メンタルをPDCAするのは私だったら選択しません。
絶対にです。言葉を選びました。私だったらだからね。
他の人はともかくとして。
私だったらPDCAをメンタルには絶対に適用したくありません。
メンタルは良くなるものではない。
メンタルとはもともと良いものです。グッドイナフです。
グッドイナフから上を目指すのは私はごめんです。
メンタルのレジリエンスとかそういうものを高めるとか、
高い思想性を維持するとかそういうのはまっぴらごめんです。
絶対嫌です。
というのが僕はグッドイナフだと思っています。
だから私に働くメンタルは十分にある。
働くメンタルと稼ぐメンタルは全く違います。
またちょっとここは微妙なんだけど、
働くメンタルと会社に勤めるメンタルも大きく違います。
働くメンタルを持っているということと、
実際に働きに出かけるということははっきり言って関係ないです。
関係なくはないけど、
十分条件とか必要条件とか、
そういうものを満たすためのものではありません。
働くメンタルを持っている人が、
例えば専業主婦の方とかが、
でもあんまりものすごくバリバリやれてないんですよ。
いいんですよ、そんなこと。
働くメンタルを持った専業主婦の人が、
ご飯用意しなきゃなと思っている。
もうこれでいいんです。
これができればグッドイナフです。
そしてこれが僕が思う価値マックスってことなんですよ。
価値マックスは価値マックスなんです。
でも、そうは感じられないとか、
12:01
そういうのは一旦置いておくとして、
とにかくグッドイナフなんだよってことですよ。
働こうと思えば働ける。
全意識に働くという意志がある。
それでもう十分、今はっきりできてなくてもいいんですよ。
無意識にいっちゃったっていうのはあれです。
無意識は最近読んだ、
上田克彦さんが訳されている
オグデンのいい本に書いてあったんですけど、
不安には色もなければ形もなく、姿もなければ、
要するに不安というものは知覚できないよという話です。
知覚できたらもうそれは不安ではないでしょう。
知覚できないものを知覚したら変ですから。
現実圏と書いてるじゃないですか、それじゃ。
無意識にあるんですよ、不安は。
だから私たちは心臓がドキドキして不安だみたいな、
それは心臓がドキドキしてる段階で、
すでに完全に身体感覚を持っちゃってるから、
不安ではなくて、不安によって心臓がドキドキさせられたものを知覚してる。
だから知覚が発生してしまって、
自覚があるってことはすでに手遅れだってことなんですよ。
不安は手遅れだってことはないんだけど、
すでに事後だってことなんですよ。ことは終わったんだ。
不安はすでに駆動しました。
この駆動によってあなたの心臓がドキドキしました。
それをあなたは知覚したんです。
だから知覚したものは不安ではなく、不安の結果なんですね。
これとよく似ていて、
働くメディタルっていうのもそういうものに限りなく近いと思うんですよ。
持ってるものであり、
意識しようと思えば意識できるっていう状態。
なくなってしまったらもうそれは無意識にいっちゃってるんで、
事後なんですよね。
それは結果なんですよ。
もちろん出てきた場合も結果なんですけどね、ある意味ではね。
これはもう取り戻すための3ヶ月チャレンジなんですね。
それを私は提供したいと思っていて、
なぜこれを言ってるんだろうと一生懸命考えながら、
昨日考えてないんだけど、
喋りながらずっとこのことがオレンジ色の頭の中に転倒してたわけで、
オレンジ色の中に転倒してても大して見えないんだけど、
ブリンクしてたわけですよ。
しきりに働くメンタルと精神分析のことを、
僕は頭に置きながら喋ってるなと思ってたんですよね。
アツさんは夫婦関係学ラジオの方で、
特に夫側から見た妻が、
口聞いてくれない、別居状態になった、
いつも機嫌が悪い、向こう向いて喋るとかね、
僕だったら働くメンタルゼロになっちゃいますね、はっきり言って。
私はそういうのに弱めて弱い人間なんで、
絶対働けないわ、その状態で働こうという発想がないわっていう感じなんですよ。
つまり働くメンタルがこのようなことと、
とても密接に絡んでると思うんですよ。
変な言い方になっちゃってますけどね、今。
15:01
なんでなんだろうと思ったんですよ。
働くメンタルが見失われているときに、
私は何が起きてるんだろうと。
夫婦関係学的に見ると、そこは夫婦関係に何が起きてるんだろうを見るんでしょうけど、
私はやっぱり、こういうときの私のメンタルは、
一体どうなっちゃってるんだろうを見るんですね。
私にしてみると、結局母子一体で出来上がってるというか、
母子一体を内在化したのが私の心なんで、
母に側方向かれてるっていうものが私の心の機能を壊していくんですよ。
えーと、なんていうんですかね。
機能不全に陥らせるわけです。
また苦しく言えば。
この機能不全状態になると、働くメンタルというものは全く出てこない。
稼ぐメンタルなんかとんでもない。
でもね、ここはまた変なんだけど、稼ぐメンタルだけ出てきちゃったりするんですよ。
いやもう働けないから稼ごう、みたいなね。
つまりこれは万能空想に逃げてるわけですけど、
働けないんだから2億円稼ごうよ、みたいな。
この訳わかんない発想になりがちなんですよ。
僕はよくなる。こういう転倒が起きる。
働かずに金を稼ごうと。
2億円手に入れれば奥さんがずっと不機嫌でもなんとかなるっしょ、みたいな。
非常に病んでますよね。
このような状態に陥りたくない。
陥った人の肩を持ちたい、みたいなところがありますね、私にはね。
陥ってしまった人に悲はないと思ってるんですよ。
だって私は陥りがちなんで。
いや、良くないのかもしれませんよ。
普段の言動がなってないから奥さんが不機嫌になるとかね。
あると思います。あると思うけど、悲はない。
それは悲ではない。何かをしくじってるに過ぎない。
そのしくじりが、そんなに絶大な影響を人生に与えて欲しくないし、
与えて欲しくないと思っている人はいっぱいいると思うんですよ。
だから、そういうことがあったとしても、あるんだけどそんなことは。
あったとしても、働くメンタルは取り戻せる。
壊れたわけじゃないから。
仮にやや壊れかけたとしても取り戻せます。
どう取り戻すかっていうときにやっぱり母子の内在化であるならば、
母子が形成され内在化された頃に意識を向けていくしかない。
そうすると過去のことを自然思い出すことになると思うんですよ。
昨日、アツさんとトラウマをどう扱うのか。
村カウンセラーでは難しいんじゃないかみたいな話があって、
その通りだと思うんだけど、
トラウマをダイレクトで扱うことは扱わなくても必ずしもいいと思うんですよ。
最近のCPTSDみたいな話になってくると、
あるいは複雑性トラウマみたいな話になってくると、
18:01
そこをどういうふうにアセスメントするかまで
敏感で考えてしまうのは行き過ぎだと思うし、
そこまで行く必要がないケースは多々あると思うんですね。
トラウマがあったとしてもですよ。
これは松木邦博さんのトラウマ、精神分析的なトラウマのアプローチかな。
そういうような本にシリーズもあった一節なんですけども、
トラウマというものがあったから心のコンテナが、
どうしろ一体の心が機能しなくなったのか、
それともそもそも自己愛的な投影をしすぎていて、
コンテナに載せきらないものを抱え込んじゃっているのかを、
一発で見抜くような方法はないっていうようなことが書いてあるんですよ。
これは趣旨、引用ではないので不正確ですけど、趣旨です。
私もそう思うんですよね、やっぱりね。
ここをまして、野良の人、私みたいな人間が、
アセスメントできっちり判別するっていう方向に、
あんまり過剰にこだわらないほうがいいんじゃないかなって思うんですよ。
災害にあってどうのこうのっていうのはまた別なんですよ。
そういうはっきりしたもの、そうではないもの。
慢性化した両親とか家族がひどいですと言った場合に、
でも例えばですよ、そういう方が、私だってそうだと思うんだけど、
そういうお母さんがひどいこと言われたんです、
いつもそうでみたいな話があったとき、
そういう夢を見たことだってそういう人にはあるでしょう。
これはサイキックリアリティですよね、完全に夢なんで。
僕が言いたいのは、家族が攻撃してきているのは全部夢ですって話じゃないですか。
夢も追加されましたよねと。
夢も追加されたっていう言い方は本当は不正確なんだけど、
この際もちょっと話を簡単にするために、
体験プラス夢が追加されてますよねという話をしたいわけですよ。
何が言いたいかというと、本当にあったことが自分の心に害をなしているのか、
本当にはなかったことなんだけれども自分の心には害をなしているのかを、
きっちり判別する方法なんてなかなかないんじゃないかってこと。
私はこういう光景を最近意識するようになったんですよね。
突然扉が閉まるんですね。
突然目の前に、目の前に、本当に目の前に、おでこにぶつかるぐらいのところにバンと扉が閉まるんですよ。
僕のミステラレファーの象徴的な光景の一つはこれなんですね。
2歳かその辺だと思うんですよね。
ちょろちょろちょろちょろ母の周りをまとわりついていて、
うるさくなったとうるさく感じた母がトイレの扉をバタンと閉めたんだと思うんですよね。
そうすると私の前で、母と母にくっついていきたい私に扉が邪魔をする。
その扉が本当に目の前に迫ってくる。
で、私多分相当泣いたんだと思うんですけれども、覚えてない。
し、この光景、果たして本当にあったのか。
夢じゃないのかって言われると困る。
21:02
だって2歳児ですもん。覚えてるわけがないじゃないですか。
僕の場合2歳児で明快に覚えてる光景って3つぐらいあるんですけど、その3つの中にこれはないんですよ。
ただ、じゃあこれはトラウマになりましたか。
おそらくこれがあまりに累積されれば、いわゆる複雑性トラウマのようになったと思います。
であれば、じゃあこれは自己愛による投影というべきなのか、それとも現実にあったトラウマというべきなのか。
そんなことわかんないですよ。
外側に現実としてこれを体験したのか、それともこういうことがあってほしくないという光景の象徴なのか。
そんなことわからないですよ。
わかるわけがないと僕は思うんですね。
僕にわからないんだから他の人にはわからないですよ。
でも正式の人が必至になってくだされば、もしかするとなんとかできるのかもしれない。
でも私はそこにそこまで注力してもらうほど、
私はこのことで結局私の人生に大きな影響をこういうことが与えているんだけれども、
だからといってこれを分析して何時間もかけて、
多額の金額を払ってまでやりたいかというとそんな気はないです、全然。
つまりそういうことなんですよ。
昨日アツさんとの対話の中で自己分析って言葉も出てきたんですけど、
こういうのを佐々木さんは自己分析できるんですねっていうような話をされるんだけど、
そんなことではないと僕は思うんですね。
自己分析なんてできない。
僕の言ってることは全然自己分析の範疇、
自分で分析してるっていうのを競技に捉えればそうなるのかもしれませんが、
やっぱりこれはですね、3ヶ月チャレンジとか、
佐々木さんの本やたら読むとかいった事村の中でこういうところに行き着いたのであって、
決して自己が分析してきた結果ではない気がするんですね。
だから私は昨日もそうなんだけれども、口からデマカセを喋るようにしてるんですね。
口から出た通りに喋り、普段あんまり色々なことを考えずメモも書き留めないわけですよ。
そうしないと自己分析みたいなのが世界に入っていくような気がするんですね。
そうしたら多分この光景出てこないんですよ。
やっぱりこの光景は不意に出てきたものなんです。
作り出されたものなのかもしれないし、無意識にあったのかもしれないんだけど、
とにかく不意に出てきたもの。
そこが大事なんで。
3ヶ月チャレンジの方と色んな話をしていくうちに、
自分の過去へ過去へと舞い戻っていくし、傾向がかなり強いんですよね。
そういうことを昨日をつくづく思い出させられた大きなヒントがあったなと思うんですよ。
やっぱりこれはアチさんと喋ってるから出てきたのであって、
自己を分析して掘り当てるなんてことが私にできるとはとても思えないんです。
そんなことをしたいというモチベーションがいまいち湧かないんですよ。
いくら自分について知りたい。
だってこれ本当に真相がわかるっていう保証はここにはないじゃないですか。
24:00
思い出そう思い出そうとするって言ったって、
それは思い出そうという対象があっての話で、
二歳児のことを一つ一つ思い出していくワークとかをしたくないですよ。
何にも出てこないかもしれませんからね。
ウソッパチばっかり頭の中ででっち上げちゃうかもしれないし、
そういうことをわざわざしたいと思わない。
聞かれるから答えられるってやつであって、
何かのやり取りの中にあるから出てくるって話なんですよ。
3ヶ月チャレンジで目指してるのはいつもそれなんです私は。
もう極力質問も深掘りしたくないなって思うし、
隠さずに全部言ってほしいとも思わないんですよ。
だって我々は熱像することができますからね脳ってのはね。
一番いいのはリラックスすることなんだって思うんですよね。
リラックスして疾患して緩めて緩めて不意に出てくること。
それはちっとも大事そうには最初は思えないんだけど大事なんですよ。
物の本にやたらと書いてある通りなんですよね。
それが大事なんですよ。
なんでそんなのが出てきたんだろう。
それに何か意味あるかなっていう程度のものを口にできるかどうかが、
昨日も同じような話いたしましたが、
それを口にできるかどうかがポイントだと。
口にできないと筆談になりやすいんですけど、
筆談でももう僕はいいと思うんですよね。
口にできないと物に書く。
物にも書けないってことがつまり思い出せないってことであることが多いんですよね。
物に書く。できれば口にする。
口から出まかせる。
出るにまかせる。
そうやってればいつか大事なことに必ず不意には突き当たる。
そのための、私にとってはですよね。
そのための手鶴が精神分析なんですね。
精神力道と言いたいところなんですけども、手鶴なんですよこれは。
これを使って投影同一化とは何なのだろうとか。
変異って何なんだろうとか。
変異性恋愛ってどうして起きるんだろうとか。
トラウマとかいうものは何なのか。
コンテナーってどういうもので。
ベータ要素って何なんだろう。
いいんですよ。
訳分かってなくてもいいから。
エディフスコンプレックスについて喋る。
応答分裂ポジションについて考える。
っていうことを近いなと思ったら、ためらわずにやる。
これってもしかしてこういうことなんじゃないだろうかって思ったら、
ためらわずに自分のものとして適応して考えてみる。
辛くなったらそこで引き返す。
しんどくなったら深入りしない。
繰り返し繰り返しこういうことをやっていればですね、
想像できないほどいろんなことが、
必ずしも辛い記憶ばっかりじゃなくて、
結構穏やかな記憶も含めてですね、
いろんなことが出てくるんです。
自分の風景ですよね。
こういう体験的風景が出てきて、
これについて夢の中を歩むように人と喋っていれば、
この場合私がその役をやらせてもらうんですけれども、
夢の中を微睡むように人と話していればですね、
27:03
不意に何かが戻ってくる。
その時にはすでに、
アタックメンタルはいくらかは取り戻されていると思うんです。
この先は長いかもしれないけれども、
少なくともいくらかは取り戻されていくと思うんですよ。
なぜならこういう風にしている人は、
政権を挑んで生活を営むものだし、
仕事をするものだからですよ。
とても信じられないという方が多くいらっしゃるのは、
これを聞いてくださっている方の中にはですね。
でも信じられん。
働くのはもっとサツマスとしていて、
なんか高齢としていて、
ヒリヒリとしていて、
とてもじゃないけど、
そんな海岸を歩くような気分で働けないですよ、
って言われるかもしれませんが、
働くというのは私はやっぱり最も、
最もというのかな、
僕にとってはそれは、
そういう風景に近い中で働いているのが実際だし、
そうすることは可能だと思うんですよね。
それは恵まれているからだって言われれば、
その通りなんだけど、
その恵まれているっていうことの意味がですね、
恵まれているとは何なのかって考えると、
今のような話に舞い戻っていくしかないんですよ。
恵まれているというのは決して、
お金に恵まれているとか、
人間関係に恵まれていれば、
必ず恵まれた働き方ができるってものでは、
全然なくて。
なぜなら私は30代はヒリヒリしてたんです。
この話はタスクシュード総決算2024で、
12月14日にお話ししました。
僕は30代には仕事しつつヒリヒリしてたんですよ。
今と何も変わらないですよ、人間関係は。
大橋栄一さん出身でね。
あるいは家族が家にいて、
その家族構成も何も変わってない。
途中からかな、娘が。
でも娘だって30代の後半にはもういましたしね。
だから何も変わってないんですよ。
人間関係変わってない。
でも恵まれているって意味では、
今の方が恵まれている感じはします。
働き目から言えばそうでしょう。
でも、
例えばお金回りにしたって、
当時の方が今よりも良かった時期はあったんですよ。
だから今の方が恵まれているのは、
人間関係とか収益とか、
やってる仕事の内容云々じゃない。
内容は近いですもん。
今やってることと当時やってたことと比較しても、
そんなに劇的に、
当時は建設現場で働いてましたとかではないんですよ。
当時は満員電車に毎日乗っていて、
会社に行ってましたって訳でもないんですよ。
働き方は変わってないんですよ。
でも当時は、
それこそ高齢としている感じはありましたし、
まあもうヒリヒリはしてました。
殺伐とはしてなかったけど。
今は全くないです。
本当に海岸を歩いているような感じです。
この差は、
私のメンタルの違いであって、
環境設定の違いでは全然ないんですよ。
住んでたところが埼玉か神奈川かの違いで、
そんなに劇的に違うんだったら、
みんな神奈川に呼びますよ。
埼玉で働いてきたから、
そんなひどいことになってたんだって訳でもないんですよ。
30:00
海は見えなかったけど、
海さえ見えれば、
仕事が海岸を歩いているような気持ちでできるとかいう話ではないから。
保全ですよ。
そういう問題ではないんです。
働くメンタルが戻ってくるというのは、
私たちが元々持っているものを機能させるだけでこと足りると思うんですね。
そのメンタルが元々持っているものを機能させるという表現を取っただけでも、
私の頭にはコンテナーのイメージがあるんですよ。
そういう言葉がある。
つまりコンテナーって言葉が必要なんですよね。
私からすると。
パーソナリティ障害の症例とか発達障害とはこうです。
忘れ物が多いです。
集中できませんみたいな話をしておいて、
それに対する行動変容とか身体に働きかけるというやり方には、
何かが不足している感じがするんですよ。
そうしてもメンタルは戻ってくる可能性は十分あるんですけれども、
その場合メンタルとは何なのかはないじゃないですか。
あるべきメンタルと、そうでないメンタルというものがあるとするならば、
なぜある種のメンタルの状態であっては、
ある意味では不都合なんだろうって考えられないと困るじゃないですか。
なぜ集中できなければいけないのか。
それは結果ですよね。
集中するメンタルというのはその手前のところにあるはずで、
そのモデルが症例診断という考え方、
あるいはライフハックでもいいんですけど、
という考え方には欠けているような気がするんですよ。
集中できたかできないかだけが問題になってしまっていて、
集中する能力が、あるいは集中するメンタルというんですよね。
心的機能が機能できる状態にあるのかないのかっていうのが必要だろうと僕は思うんですね。
集中するために必要な心的機能なり心的状態というものはどういうものであるべきかっていう議論が、
よしよしをそこまで言わないにしてもですよ。
そういう心的状態のあり方というものが、
なぜそういうふうにあることが良いのか。
やっぱり一応良いのか。
超える必要があると思うんですよね。
なんでそういうふうに機能すると良いかというと、
下毒できる。
例えば心的機能の一つの重要な機能として。
下毒とは何かと。
ひどいメールをもらったと。
それは毒を持っている。
悪意がある。
そういうように読める。
そういうようにしかもう読めない。
そういうと働くメンタルは損なわれる。
なぜならば心は機能しなくなっているから。
ではその下毒って何がやってくれるのか。
内在化した母親なんですよ。
内在化した母親的な心というべきなのかな。
それはどういったものなのかというと、
ああおしめ濡れてて気持ち悪かったのねっていうこれが下毒ですよ。
これが何らかの形で伝わればいいわけですよ。
私たちが心の中に内在化したのはこれなんですよ。
ああこのメールは厳しすぎるのねと。
33:02
大丈夫大丈夫と。
これが言えるってこと。
自分の心の中でですね。
そして言った言葉がこっちに伝わるってこと。
こっちどっちだよって話ありますが。
こっちに伝わるってことですよ。
そこをいやもうどういうメールが来ようと。
仕事なんだから返すんだよっていうやり方もあるでしょうけど。
これは下毒になってない。
だから不雑性PTSDだったり累積型のトラウマになっちゃうわけですよ。
毒がそのまま残るんで。
毒とは何なのか。
それはわかんないです。
メールが厳しすぎるのか。
それとも自分が自己愛が強すぎて。
このメールが厳しすぎるように読めてしまうのか。
その2つをどうやって分けるのかってことに。
過剰にこだわらなくていいと思うんですよね。
メールである間は。
これが犯罪に巻き込まれたってんなら話は別です。
が、これが仕事のメールであるならばどっちだっていいじゃないですか。
あなた甘えてるんだよって言われる話なのか。
それともこのおっさんが厳しすぎるよって話なのか。
いいじゃないですかそれは。
どっちだって。
中間にしといたらいい。
でもこれは下毒できる話だ。
と思うんですよね。
お締め濡れたぐらいで騒ぐなんてあなた甘ったれてるのよって言うべきなのか。
お締めをちゃんと変えてくれないってことの方が問題なのか。
エースバイケースですよね。
どっちだっていいじゃないですか。
まずまずやることはこんなお締めではあなたは死んだりはしない。
あなた致命的なことにはならない。
赤ちゃんなんでね。
お締めが重い。
ダメだ。
もう人生絶望だ。
なるわけですよ。
しょうがないですよ。
お締めって言葉知らない。
これは古い言葉か。
おむつね。
むつって言葉を知らないんだから。
それをお母さんが変えてくれるってことも知らないんだから。
で、何よりも問題なのは、
それが決定的で致命的な問題を引き起こさないってことを知らないんですよ。
赤ちゃんはね。
この時の状況に引きずり戻されるような状況状態であっては仕事にはならないってことですね。
だから下毒ってものが必要です。
下毒するのは母親です。
もちろんそれは実際には父親かもしれない。
実際にはお姉ちゃんかもしれない。
実際にはいとこのお兄さんかもしれない。
何だっていいんですよそんなことは。
それを環境としての母親というコンテナーが下毒するべきポイントなんですよ。
その時に適切な言葉というものが与えられる。
これを解釈と言うんですよ。
カウンセリングの世界では。
あなたが困ってるのはおむつが濡れてるからだ。
これは解釈です。
まず子供は訴えます。
グワーって訴えます。
あなたのそのグワーはおむつが濡れてるってことだね。
っていうのが解釈ですよ。
この解釈ってことが下毒でもあるわけですね。
その体験を得ていくということは。
今のような話。
それ自体を外側から客観的に会話しただけでも。
36:00
私は自分に思い当たる部分が出てくるはずだって思うんですよ。
例えば私にとってのドアがバタンがそれですよ。
つまりカウンセリングっていうのは。
私がそのドアがバタンの話を直接扱い。
直接下毒し。
直接解釈してくれたりするのかもしれないが。
私はコンテナーの話をいっぱいするうちに。
このドアバタンという光景が不意に思い浮かぶようになったってことなんですよ。
これを僕は狙ってるわけですね。
精神分析しなくても精神分析について語る。
現象例について喋る。
漫画の中とか物語の中に出てきているこれは。
あのコンテナーとかβ要素のことですよね。
このキシボジンってきっとβ要素ですよねって話をしているうちに。
親がキシボジン的であったっていうことはどういうことなのかとか。
高階良子さんとね。
それはうちの親にもあったような気がするとか。
そういうふうに。
いずれ人間の思考は展開していかざるを得なくなってきて。
苦しくなりすぎたらそこで立ち止まればいい。
引き返してまた別のところを考えていけばいいんですよ。
と思うんですね私。
だからほとんど掘り進めなくてもいいと思うし。
なんなら自分の話はしなくったっていいと思うんですよ。
時間かかるかもしれないけど。
時間をかける覚悟さえできれば。
この時間かけるうちに持ちこたえると言うんでしょうけどね。
ここで踏ん張るという覚悟を決めていくっていうこと。
それ自体が一つの働くメンタルというものを取り戻す上で役に立つとも思うんですよね。
自分の壊れやすいコンテナーみたいなものがありつつも。
やっぱりコンテナーに保持するっていうことをやってみるってことをやってみると。
やってみることで機能できるようになってくるってこともあるんですよ。
実際には。
だからなんであってもこの線で踏みとどまれれば役に立つと私は思うんですよ。
これが私が精神分析的に話をしたいと。
間違っててもいいし。
間違ってないほうがいいけど。
少々怪しくてもいいから。
ここで頑張る。
だってここに行かないと。
あと残ってるのはもう日の光を浴びて散歩するようになってしまうんですよ。
それじゃあなんつーのかな。
それはそれでいいと思うんですけれども。
それはそれでコンテナーの強化みたいな話だともはや踏みとどまるよりも見入りが薄いって感じが僕はやっぱりするんですよね。
わかりませんけど。
でもやっぱりネットに書いてあるような行動療法的な、もはや行動療法ですらないような。
39:00
だって一般論になっちゃってる。
みんなにはいいことってことになっちゃってる。
8時間寝ましょう、朝方に戻しましょうってやつですよね。
誰にでも良さそうな話をただ抽出して、どういう理由があるのかすらよくわからないままに抽出して、この生活習慣をつければ鬱にならないとか。
そういうもんではないよねってことですよね。
だってここにはトラウマの話出てきてないですし。
自己愛の話も出てきてない。
何にも出てきてない感じがあるわけですよね。
ただ身体に良さそうだっていう。
それしかない。
身体じゃなくて、心を取り戻そうという話をしておりますからね。
もう聞き飽きてると思うんで、その辺にしておきますけれどもね。
だから、どんなコンセプトであろうと、心のモデルであろうと、私は対照関係論が一番いいと思ってますけれども、
結局、心のモデルであろうと、そのモデルについて真剣に検討すれば、いずれ自分の心のぴったり当てはまるということはありえないと思うんですけれども、
について、心がそれこそ動き出す。
心が考え出す。
Thinkはそういうふうに使うべきだと思うんですよ。
想像が先にそこにあり、ニードがあって、考えてニーズにできるかどうかが勝負って感じなんですよ。
ぐわーって泣いている赤ちゃんは、まだ何も分かってない。
そこにはThinkは何もない。
ただのニードがある。
考えられていない考えがそこに。
考え、考えるための素材がそこにあるだけ。
それがいいと思うんですよ。
ついでに言うと、私のこの、そうですね、総決算の時におそらくこう思われた部分があったと思う。
その後話した、Jマスザキさんの第二領域がますますその意を強くした人がいらっしゃったと思うんです。
新しいJマスザキ流の新第二領域ですね。
あの発想って、いやそんなことばっかりやってたら、人生価値のないことばっかりやらされることになるじゃないですかって思われると思うんですね。
この心配を軽く取り除いておきたいんですけど、時間がもういい加減にあれなんで、次回に回したいところなんですけど。
要は何が言いたいかというと、赤ちゃんが泣いていて泣き止まない。
泣き止まない、夜泣きするっていう赤ちゃんを寝かすってことの価値はあるでしょう。
少なくとって、みんなその博物館に行って見るのと同等以上の価値はあるでしょう。
と言いたいんですよ、私は。
この意義あることを人生でやるっていう発想は、20世紀中世以降非常に流行った気がするんですよ。
アカデミックな世界に身を置く、美しいものの世界に身を置く。
僕はですね、それを出す価値かって言うんだと思うんですよね。
ジェイ・マズザキさんが、自分の期待と人と共にしている責任のうち、自分の期待が低い方を選ぶと豊かな人生が選べるっていう。
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僕は2020年の総決算で一番いいことはこれだと思ってるんですけど、全体の中で。
ちょっと悔しながら、私が喋ったやつよりもいいなと思ったのがこれなんですが。
つまりこれをやると損臭いってみんな思っちゃうんですよ。
少なからぬ人がそれを思うんですよ。
これは僕はアカデミズムの責任だと思ってるんですけど。
放題に入ったり、新しい理論を発明したりしたいんですよ、皆さん。
多分。意義のある人生を送りたい。
動物館に行ったり美術館に行ったり、いい音楽を聴いたりする。
そういう、教養豊かな世界が豊かな人生だって思われてしまってるんですよ。
それに比べれば夫婦関係学、話してくれない妻の起源を取る。
何それ、そんなんで人生終わっちゃっていいんですかっていう話になりやすいんです。
虚しくないかと。
僕は美術館の方が虚しいだろうと比較するならばですよ。
別にどっちがどっちってことはないと思うんだけれども。
どっちかというならば、その解決し難い問題に取り組んでる方が人間が考えるに値するんじゃないか。
だって答え出てるじゃないですか。相対性理論だったら難しいかもしれないけど答えは出てるんだから。
それを理解しようとすれば理解できますよ。
でもパワハラ上司がいつになってもセクハラをやめてくれ。
この会社で一体自分どうしたらいいんだっていうのって答えがないじゃないですか。
こっちに携わってる人生は本当に情けないって思ってしまうのかもしれないけど、
僕はこっちを解決できた人の方が断然人生豊かだと思うんですけれども、いかがでしょうか。
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