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おはようございます。グッドモーニングボイスです。
昨日、ある人とお話をしていて、お題を与えられたというかいただいて、小田急のあの事件の話を分析的にするとどうなるのか、喋ってみたらどうなのかという感じだったと思うんですけど。
情報不足と言いますか、こう言うと、大変奇妙に聞こえると思うんですよ。情報過剰だろうと思われるかもしれませんが、まず多くの場合ですね、ライドショーとかを見ていると、しょうがないんですけどね、当然。出来事をみんな拾ってくるわけですよ。
こういうことがあったんじゃないかみたいなね。それは大事なんだと思うんですよ。大事なんだと思うんですけど、精神分析って、これは僕は現象学の用語だと思うんですけど、「間主観性」って言うわけですよ。
この間って書いてる主観。つまり、私と誰か、2社しかいなければ、私と蔵殿さんでもいいや、2社いて、2社の主観しかない世界を作り出すわけですよね。つまり、主観なんですよ。そこに客観はないです。第三者いないですからね。
この客観ないっていうのが非常に大事で、昔々フロイトがですね、一番最初におそらくこの問題、精神分析的に当たった人がヒステリーの患者さんだったとおそらく言われているわけですね。
ヒステリーというのは今では使われない用語ですが、何度も言う通り、ヒステリーの患者さんというのは、昔よくお父さんに性的に誘惑されたとか、そういう話になることが多いんですね。
一番最初にこういう戦いがあったもんだから、幼少期に非常に困ったことがあったためにトラウマになって、それが今のこういう症状を生んでいるんだろう、みたいな、かなり単純なですね、今でも知られているような、これは誤解以外の何者でもないですが、知られているような心の傷が心理症状を作り出すみたいな。
それから始まったんですよ、やっぱり。
でもフロイトはずっとそういう話を聞き続けているうちに、何か嘘じゃね?と思った時があったんですよ。
患者は、来ている人は必ずしも本当のことなんて喋らないんだ、考えてみれば当たり前ですよね。
だいたい私たち、カウンセリングみたいなセッションみたいな、あるいはタスクカフェみたいなですね、グループで相談されるケース、ライフハックみたいな話でもですね、彼らが常に事実ばっかり喋ってくれるかっていうと、そんなはずはないですよね。
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そんな義理もないよね。
脚色しようと、少々カッコつけようと、逆に酷い目にあったのをもっと持ったって、いいわけじゃないですか。
というか、やりますよね、人ってそういうこと。
ましてそこに来ている人は難しい問題、ヒステリーとか、かなり重度のケースもあるわけで、非常に脚色される、ほぼデッチ上げ、嘘っぱちっていうケースは多々あるはずなんですよ。
ここで最初の極めて単純な、出来事、トラウマ、心理症状っていう、こういう図式は崩壊するわけですよね。
ここから始まるんだと僕は思うんですよ、やっぱり。
どう考えてもここからしか始まりようがないと思うんですよ。
だから、彼はメンタルリアリティという言葉を考えたんだと思うんですよね。
心の中の現実と。
そんな現実はないんだけど、あるいはあったかもしれないんだけど、大いに脚色を施されている現実っていうのがある。
この段階で科学であることからかなりカウンセリングで離れざるを得ないんです。
科学っていうのは事実を検証する話じゃないですか。
ところが、心的現実、心的現実っていうのは事実でもなんでもないですよね。
夢、心的現実ですよね。だって現実感にあふれている。
しかし心の中にしかない。だから心的現実。
グッドバイバスでいうイリュージョンそのものですよね。
このイリュージョンというものを扱う以上、
実証的に扱えますとか測定できますってことはありえない話なわけです。
だから脳を見るって話になるんですけど、脳をいくら見てもですね、
そんなに簡単にこの事実がどの程度脚色されているのか脳を見ればわかるかというとわからないんですよ。
少なくとも現段階では全然。
ましてフロイトの時代にはわかりっこないんで、
心的現実っていうのは大事だっていうところから始まると、
つまりフロイトが考えたのは、最初は事実だと考えてたんだけど、
お父さんに誘惑されたと思い込んでるとか、あるいはそう思いたいとか、
夢で見たとか、そういうのを扱うようにだんだんなったわけですよね。
エリザベス・ロフタスっていう人がですね、確かそういう名前だったと思うんですけど、
アメリカでアンチフロイトの実証として、
昔の話を喋らせてもそんな記憶は全部デタラメで、
何なら記憶を、間違った記憶を作り出すこともできる。
これは画期的な研究として今でも評価されてますけど、
全然アンチフロイトになってないというのは今の話でわかっていただけると思うんですよ。
ロフタスは子供時代の証言なんてデタラメだよっていうことを言ったんですけど、
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デタラメなのは折り込み済みというか、デタラメ前提なんですよ、精神分析というのは。
お父さんやお母さんに性的な誘惑をされましたみたいな話が精神分析でデタラ出てくるけど、
そんな事実はないとロフタスは言ったんですけど、そんな事実はいらないんですね、別に。
本人がどう思ってるか。ないしは。
そんな事実はないと百も承知で本人が何を喋り出すか、そういうことが全部大事なんですよ。
それに対して私は時代にまた脱線しておりますけど、
つまり出来事を追っても無駄なんですよ。
という出来事があったから私はこうなりましたって話を、
ただしてもその人はこうなりましたって話を客観的にやってもダメで、僕はダメだと思うんですね。
何度かこの番組でも話している通り、私と母の関係には当然なんですけど、いろんなことがあったわけです。
けどこれは私の心的現実なんですよ。事実だとは誰も言ってないんですね。
非常にこれは重要なことで、昔こういうことがあったとか、お父さんとお母さんが喧嘩したとか、
あったかどうかはほぼどうでもいいんですよ。
喧嘩すると子供の心を傷つくとか、そんな事実はないんですよ。
ないと言い切るとちょっと語弊があるかもしれないですけど、そうた限りないんですね。
だってそれをどう解釈するかっていう話の方が、はるかにその種のケースでは問題になってくるんで、
それはもうたった一度なのかとか、年から年中なのかとか、いろいろあるわけですよね。
私の心理状態とか、私が遺伝してきている脳の在り方とかによっても全然違う結果が出るんで、
だから科学的な分析に向かないし、子育て理論みたいな話も簡単にはいかないわけですね。
だから今回の悲惨な事件の件をとってみてもですね、
まず言えることは、その人がそのことをどういうふうに定義付けているのかとか、
勝ち組とかっていう言葉も出ましたけれども、勝ち組って何なんだと。
多分私が考えるようなのと違うと思うんですよね。
多分違うと思うんですよ。僕はそれについて細かく考えたことってないですけれども、
お金持ちになることなのか、多分違う気がするんですね。
で、結婚することなのか、これはどうなのかわからないですけどね。
つまりそれって多分僕が思うに、日本に1億人いるならば、1億個ぐらいはあると思うんですよね。
それぐらいその人の主観の中ではどうなっているのかが大事で、
客観的に見て勝ってるか負けてるかというのは、ほぼほぼこのケースでは、この種の場合はどうでもよくて。
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だから、わからない話を本人に話を聞かないとって、いつもこれ思っちゃうんですけどね。
この種のことは本当にそうで、自体が上挙位してみられるケースであったり、
わかりにくかったりすればするほど、あるいは非常に極端であったりすればするほど、
本人に聞かないとわからないだと思うんですね。
で、もうちょっと考えてみたことはあってですね。
この番組でもしょっちゅう登場してもらっている名前にメラニー・クラインという女性がいます。
この人は学位もなければ学士も、学士はあるのかな?大学は出てるのかな?
でも少なくとも院は出ておらず、インスティチュートみたいなのでもないというですね。
つまりお医者さんじゃない。
センシャル分析家なんだけど、それはフロイトがそうしてくれたから慣れたんだって。
今ではあの形では多分慣れないわけですが、この人はすごい人だと言われていて、
論理がすごいというよりは、この人のカウンセリングは特別なもので、
当時扱えなかった子供を扱えて、子供の精神分析をやっちゃう。
この話が実に面白くてですね。
だからいいおっぱい、悪いおっぱいとかって言うんですよ。
あるいはうんちをぶち込むとかって言うんですよ。
子供の言い分なんですよ、これは。
すごく大事なんですね。
彼女しか扱えなかったというふうに当時は言われていて、
精神分析の仲間の人で、子供のちょっと具合が悪いとか、
心理的に少し難しそうだっていう時は、
この人のところに連れて行ったみたいな話が結構あって、
怖くないかなって僕なんかは思っちゃうんですけどね。
密になりすぎる問題って人間関係はあると思うんですけども。
でもあったんですよ、そういうことが。
その時に、子供の精神分析って何すんだって思われると思うんですけれども、
要はですね、例えば、
よくフロイトって言うと性の話ばっかりっていうことで、
何でも性的に説明がつくと思ってるっていうような批判を受けがちなんですけれども、
私これ非常に聞いてて毎度毎度わりと不思議でですね、
例えば今回のこの事件にしてもですね、
性的な事件だと僕にはしか思えないんですよね。
人はでもこれをわざわざですね、
まるで性とは違うところに持っていきたいかのように回避していきますよね。
ご当人すらそうですよね。
勝ち組とかっていう言葉を使って、
僕にはそうなんでしょうけれども、
それが嘘だとは言いませんが、
経済格差とか社会問題っていう視点は大事なんだと思うんですけれども、
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何よりもこれはまず性だろうと思うんですよね。
性欲というものがなければ、
この事件のエネルギーはどっからも出てこないんじゃないかと思うんですよ。
話題になっているじゃないですか、
女性ばっかり誰でもいいと言いながら女性をっていう、
どっちかしらやっぱりそれは社会問題というところから来ている、
女性蔑視という話から来ていると思うんですけど、
そういう話からしたって性と無関係というには思えないわけですね。
ところがこれを扱うときにわざわざのように、
そうじゃない方向に持っていこうという雰囲気が出るじゃないですか。
この話を性的じゃないところに持っていこうとする。
高校で昔どうのっていう話、
ああいうところから来る男が覚えがちな屈辱感みたいな。
性と無関係だったらおかしいと思うんですよ。
だけど性じゃない方向に。
僕らは性をまともに取り扱うのがとても苦手だなって思うんですよね、
ああいうのを見ていると。
これがフロイトだと思うんですよ。
本当は性的な話なのに、
そうじゃないところに持っていこうとしているうちに、
だんだん意識の中心からその話が遠のいていって、
だけれどもことの発端がそのエネルギーから来ているから、
いつか不思議な形で融合していくっていうのは、
思いっきりフロイトだと思うんですよね。
何でも性でって言う前に、
性で片付く話を違う話に持っていってしまうという、
そうしたいという気持ちは何でなんだっていうことが大事だと思うんですね。
メラニ・クラインがやったのはまさにそういうことで、
たぶん今時からすると、
ひどくナンセンスな感じがするか、
常識な感じがするかどっちかだと思うんですけれども、
例えば子供が勉強ができるようになりませんとか、
いろんな考え方がありますよね。
遊ばせてあげなさいとか、
こういう工夫をして勉強させましょうとか、
メラニ・クラインは割とまっすぐですね、
性的な興味を解放してあげるという方向に出るんですね。
精神分析なんて。
それはまっしぐらにセックスの話をするとかそういうわけじゃないですよ。
1歳、2歳ですよ。
もしかすると3、4歳なのかもしれませんけど、
3、4歳ですよ。
そうやって性に向かいすぎているエネルギーを解放してあげると、
その子は勉強できるようになるみたいな。
非常に僕は興味深いとずっと思っているんです。
人間の頭を良くする方法って、
いまいち開発されてないんですけど、
勉強させるっていうことばっかりなんで、
計算いっぱいしていれば頭が良くなるかどうかは、
おふいに疑わしいじゃないですか。
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この考え方はすごいなと思うんですよ。
幼児向けとはいえ。
あるじゃないですか。
入試の頃に、特に大学入試の頃ですよ。
エッチなことばっかりに興味があって、
勉強に手がつきませんって。
あんなになんですよ、これを。
これを2歳児とかに適用したんですね。
メラニー・クラインは。
1900年代初頭ですからね。
で、これは中盤くらいか。
1900年中盤くらいか。
だからナチスドリーツの頃なんですよね。
で、この話を私は今回のケースで
すごく感じるところがあって、
要はですね、
よく興味の範囲を絞るっていう考え方がありますよね。
ライフハックなんかでもよく出てくるんですよ。
いろんなものに興味を拡散させるのやめて、
興味の対象を絞ろうと。
それをやった挙句の、
めったにそういうことはないかもしれませんけど、
それをやった挙句、起こることってあるような気がするんですね。
大体なんで受験勉強ばっかりやってると、
そういう性的な方ばっかりが興味を持って
勉強が手につかなくなったりするのかって考えると、
そういうことなんじゃないかと思うんです。
興味の範囲を絞ろうとするということは、
まずやりたくもないことに無理やり
リビドウというのかな、向かわせようとするのと、
その反動で、
なんて言うんですかね。
その反動で巨大なエネルギーが
ある種のことにしか向かわなくなっちゃいます。
つまり、一つのことにエネルギーを集約させるって
まずいと思うんですよ。
昨日たまたまですけど、一発逆転みたいな話をしましたが、
あれってギャンブルにしか興味が持てない状態っていうのは
きっと来ると思うんですね。
そうなった時、ギャンブルが楽しいかというと、
これは倉澤の慶忠さんに伺った件なんですけど、
楽しくなくなるみたいなんですよ。
これってよくわかる気がするんですよね。
先日オリンピックでも言ってましたよね。
楽しい日が一日もなかったみたいな、
つらいことばっかりだ。
僕は一つのことに興味を集中させた結果に、
私たちの身体って多分耐えがたくなっていって、
楽しくもなんともなくなると思うんですね。
興味って拡散しているから楽しいんだと思うんですよ。
興味が一点に集中してしまうと、
あるいはさせようとしてしまうと、
多分それは二つぐらいのものになっていって、
だから勉強と生みたいなね。
どっちも全然楽しくないですよ、あの時代って。
僕の経験では。
僕は絶対ああいうことは済まないと
いつも思ってるんですよね。
ライフハックで何と言われていいよと。
興味の対象を人為的に絞るっていうのは、
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そういう事態を招くと思うんですよ。
多すぎるエネルギーってダメだと思うんですね、ある意味。
オリンピックで筋トレとかの場合は必要でしょうけど、
今ほどのことがない限りそんなのいらないと思うんですよ。
よくありますよね、大学の先生とかで
論文を書くことだけに集中したりとか。
僕はいつもそれに何のかんのと言って、
少しずつそれに対してそういう相談を頂いた時は、
そのままは言いにくいんで、
拡散させる方向に持っていこうとするんですけどね。
拡散させてれば書けるはずなんですが、
ここを頭で考えると逆にしちゃうんですよね。
一転集中すれば上手くいくっていう風になぜか思われてるんですよ。
うちの子を見ててもそうなんですよ。
どうしてもじわりじわりと中学受験ですよね。
じわりじわりとこの時期まで来ると、
勉強だけに集中させようと塾とか周りはしがちじゃないですか。
私あの時期が一番伸びないような気がしてるんです。
なんて言うんですかね、体が耐えられなくなるっていうのかな。
フロイト的な用語を使うと、
リビドが一点に集中しすぎると、
多分快楽を感じられるポイントを通り越しちゃうんだと思うんですね。
そんなのを毎日毎日やってたら、
苦行でしかなくなっちゃうんですよ、どんなこともきっと。
つまり一日中勉強やってるから苦行なんじゃなくて、
興味の集中度が高すぎるから苦行になっちゃうと思うんですね。
これがですね、
いろんなことに起きると思うんですよ。
結局オリンピックっていうものがそうであるように、
グッドマイブスでいうところの意味付けですけど、
勝ち付けとも言ってもいいと思うんですが、
要するにこれには価値があり、
それ以外には価値がないっていう心理状態を作り出すわけですよね。
金メダルに価値があるわけですよ。
自分のやってる種目の一点集中するわけですよね。
そうしないと取れませんもんね、レベルでは。
だから楽しくなくなるんだと思うんです。
そして、そういうライフスタイルにしちゃう。
そうすることで、
ドックイザドックイザドックですよ、
発砲を塞ぐんだと思うんですよ。
一点以外の発砲が塞がれるんですよね。
あの心理状態っていうのは、
私は健全だからみんなはいいものとして称賛してるけど、
多分あんまり変わらないと思うんですよ、
発砲を塞がりの状態と。
犬は犬であるわ、犬であるわ、犬であるの世界。
だって金メダルは金メダルは金メダルじゃないですか。
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なんというかそういうものを感じざるを得ないんですよね。
この話がどういうふうに関係してくるかというと、
つまり幼児が性に興味を持っちゃうと、
これが起こるとメラニー・クラインが感じたのか知りませんが、
多分そういうようなことなんだと思うんですね。
幼児が本格的に性に興味を持っちゃうと、
そうでなくても性的ですから。
うんこドリルってご存知あるか知りませんが、
小学生の間で結構流行っていて、
要するに漢字のドリルにひたすらうんこの絵が書いてあるだけなんですけど、
めちゃくちゃ人気があって、
これやってる子は漢字大体伸びるんですよ。
これがメラニー・クラインがやったことだろうなって、
あれを見るたびに思うんです。
うちの子これ嫌いで、
なんか潔癖なんだなと思いますね、そういうところが。
妻が嫌いとは言うわけじゃないんですよ、
うちの子だけが嫌いなんですよ。
私は別にどっちでもいいと思うんだけれども、
これで点が取れるぐらいだったら、
これはいらないっていう、
これもすごいなって思うんですけれども、
そういう子はこれじゃ点取れないだろうなと思うんで、
別にいいんですが。
妻に誰かが言ったんですよね、
小さい子とはエッチ比べだと、
頭の中エッチなことしかないんだと、
うんことが大好きですよね、
そういうことなんですよ。
だけれどもそれはほどほどであって、
子供の興味って拡散しやすいじゃないですか。
すぐ積み木手に取って、
1歳児とかですよ、すぐ積み木手に取っては、
何かやり始めたり、何か食べてみたり、
もうとにかく拡散してますよね。
これが一点に集まり始めると、
多分いいことないんですよね。
これは僕は成人しても、
あんま変わんないんじゃないかと思うんですよ。
とにかく集めたがるっていうのは、
要注意な感じがあって、
だからオリンピックみたいな特殊事情じゃない限りは、
やめといた方がいいとしか思えない。
僕自身の経験から言っても、
受験時代でしょ、
大学時代、彼女欲しくて仕方がなかった時代も、
一点に集中しがちだったわけですよね、結局。
留学時代は心理学しかやんないような、
英語と心理学ばっかり。
いい思い出が少ないですもん。
やってたときは本当に嫌だったって感じがあるんで、
あれがいいとは思えないんですよね。
しょうがなくやるのはしょうがないと思うんですけど、
好きでやる、いやなんていうんですかね、
やらなくていいときまでやるようなことじゃないなと、
私今本書くとき、
本のことっていうのは1日30分以上意識しないように
大体決めてるんです。
せいぜい1時間までにしておくと。
昔はこれを男児になれば必ずやるとか、
タスクシュートに乗っけてるっていう話してたんだけど、
違うなと思うようになったんです。
タスクシュートはやってるんだけど、
この原稿に関して言うと一番僕が正解だと思ってるのは、
それ以上やっちゃダメだっていう風に、
限定するのがいいと思ってます。
だから1時間経っても書けなかったら、
もうその日は書かない。
これが一番ある意味進むんですよね。
書く内容はノープランなんで、
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何も考えてないんですよ。
その場で考えてその場で書く。
しかも区切るんですよ、時間を。
最大でもこんだけと。
それ以上、その日はもう考えてもダメだし、
メモを取るのもなしみたいな感じ。
ちょっと僕が極端なやり方してますけど、
これが実はトータルでは一番納得のいくものが
一番早くできる気がします。
よく考えてみるとおかしいんですよ。
散歩中にメモっておいたものを集めておいて、
本に書ける時間を最大限にすれば進むっていうのは、
なんか僕がやってる方法も納得いかれないと思うんだけれども、
その散歩中の方法が納得いくっていうのも
同じぐらい根拠は怪しげだと思いますね。
だから今回の事件のことで一番僕は思ったのが、
メラニックラインの性的なレビドー、
性的な関心に向かっちゃってる子どもの関心を、
言ってみれば解放してあげるんだと思うんですね。
消化って言いますね、精神分析が。
そうするとその子は勉強にも興味を持つようになるし、
食べ物にも興味を持つようになる。
もともとそういうものですからね。
この形になれなくなっちゃう時がある、精神は。
勝ち組みになるっていうことが、
金メダルを取るようになっちゃうというケースがあって、
絶対取れねえということになると、
その競技人生を歩まされていること自体に、
強い怒りと屈辱感を感じるじゃないですか。
そういうふうに私には思えるんですよ。
怒りと屈辱感、この際置いておくにしてもですね、
解放されるっていうのが大事だなという気がします。
とらわれるんですよね、僕らは。
パチンコとか、お酒とか、甘いものとかにとらわれるんですよ。
私、美しくなければいけていけないっていうブログかな、
書かれている人と何回か会ってしゃべったことがあるんですけど、
すごくとらわれの切実さというものを教えてもらったんですよ。
そういうふうになるんだと。
それはやっぱりあれだなと。
なんでも同じだなと思いました。美しくなければっていうのも。
この話は勝ち組みとかはどうでもいいんですよ。
男性とかもどうでもよくはないんでしょうけれども、
まあまあ置いておいて、まず美しくあるということが何より大事だというような
ドッグイズはドッグイズはドッグですね。
犬は犬であるは犬である。
それ以外ない人生になる。
美しくなければ、美しくなければっていうのが、
金メダル以外は何にも興味がないというのと全く同じですよね。
これを人為的に僕らは作れるんだと思う。
恋愛ってそうじゃないですか。ある意味そういうモードに入ることですよね。
27:03
結婚してみると一体あれは何だったんだろうって思う人も少なくないと思うんですよ。
それは夢を見ている状態と何ら変わらないと思うんですけど、
この夢の見方はですね、片目つぶって覗き穴を穴あけて、
その先にAとか書いてあるわけですよね。
それにだけ視点を集中させるような、
そういう感じの人生がライフスタイルかなって思う。
それはやっぱり苦しいですよね。
でもこれすぐにやめられるはずなんですよ。
本当はだからここで養育歴とか、
お母さんについてどう思ったかとか、
何があったと感じているかとかが大事になってくるんですよ。
何があったと感じているかとかが大事になってくるんだけど、
そういう情報がない場合、言えることは覗き穴から離れて、
それを見なければそれを見ることに価値があると思うのをやめましょう、
に尽きると思うんですよね。
だから僕はすごい不思議な感じがすると思われると思うんですけど、
私が考えたのはですね、
この人がそういうふうになった時、
勝ち組ってなければならんってなった時は、
大学の先生が論文を書き上げなければ死ぬって思ってる。
死ぬって思ってるのと同じだと思うんですよね。
意外にそういうふうに考えられると、
離れられるんじゃないかなっていう気が少しするんです。
全然関係ないように。
そして世の中で推奨されているのはケースバイケースで全く逆になりますが、
僕は一律で何かに一定集中するのはやめたほうがいいと思うし、
それをやると病気が、
病的に人はなっていくと思います。
ただ、恋愛とか論文とか、
論文はやめたほうがいいと思います。
恋愛とか金メダルとか、やむを得ないケースがありますよね。
やむを得ないケースがあると思います。
ウィニコットがですね、
リー・ウィニコットさんがクライーンの弟子なんですけど、
子供が生まれた直後の、
これが結構フェミニズム的に攻撃の対象になるんですけど、
でも僕はこれはですね、
しょうがないと思ってるんですよね。
20歳の0日から10日ぐらいまでは少なくとも、
都市の関係は完全に一時没頭状態に入るっていう、
彼は話を唱えているんですよ。
要するに恋愛状態になり、
ほぼ自他の区別がつかない、
自他の区別がつかない話、
30:00
今日すっ飛ばしちゃいましたけど、
ああいう生産次元って決まってそうですよね。
倉澤圭三さんがブログの中で、
他人の人生は他人のものです。
それで何の問題があるでしょうって書いてあったんですけど、
さらっと書いてるけれども、
こうならないケースがとっても多いなっていうのを
あれを読んだ時、僕は毎回思っていたんです。
何度か読んで。
まさに典型的な価値組みは、
自分にとって丸々だっていう、
強烈に関係付けてしまいますよね。
でも私たちこれ頻繁にやってる気がするんですよ。
今みたいなのでないにしても。
人にという顔をされるようなことはできないとかって言うじゃないですか。
こういうことをすると人に丸々と思われるって言うじゃないですか。
その人が丸々と思うっていうことと、
自分の価値が直結してますよね、そういう時って。
他人の人生は他人のものっていうのは、
完全に他人がどう感じるとかどう思うとかどのように言うっていうのは、
100%他人のコントロール下にあっていいものだっていう感じじゃないですか。
僕はこの感覚だけで言えるのが一番いいといつも思ってるんですが、
だいたいそうじゃない話をされる。
モラルまで絡めてそうじゃないってことになるんですよね。
何々そんなことをするとと思われるよっていう。
相手がどう思おうと。
相手の自由じゃないですか。
僕この非常に思うのはモラルにですね、
よくあるんですよね。
他人の余計な面倒まで見ようとしないってのが大事だと思うんですよ。
何人がどう感じるとかどう思うとかは、
その人の自由なんだと思うんですよ。
権利なんだと思うんですね。
それが認められなくなるというのはつまり、
どこかで自らが繋がっちゃってるってことなんですよね。
その繋がりというもの、
これ一つ意識と混同されそうであれなんですけど、
これは一つ意識とは全く別のものだと思うんですよね。
勝手な意味付けなんですよ。
他人の顔色に対する勝手な意味付けで、
繋がってないものを繋いじゃうんですよね。
人と自分が繋がってると思うからそういう問題が起こるわけじゃないですか。
恋愛状態の時っていうのは不思議とそれが幻想なんだけど、
現実のように思えてくるんですよ。
さっき言った子供が0歳1日目2日目の時に、
母子関係はほぼ恋愛状態に入るっていうのはそういう話なんですよ。
目と目で見つめ合うみたいな時間をグッと、
ただ見ていてニコニコしてるとかではないんですよね。
その人たちだけの世界になってしまう。
それをやむを得ずやる時はあると思うんだけど、
僕らこれを極力少なくした方がいいだろうなと思ってます。
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母子のとか金メダルとか恋愛とか、
ごく一時的な状態であるべきなんですよ。
私なんかの時は新車買った直後とか、
車と自分が変な一体感を持っちゃって、
ちょっと傷つくと心が痛むみたいな、
ああいう感じになる時が似てると思います。
そんなことはあり得ないわけなんですよね。
今だったら別に車にそこまでも惚れ込みないんで、
新車じゃなくなるとそうなんですよ。
人ってそういうものなんですよね。
だから一時的没頭みたいな、
それに一意先進しちゃう、
何か一点集中しちゃうみたいなのってのは、
よほどの事情があればやるべきだと思うんですけど、
そうでないならば要注意だなと思います。
そのことは特に対人関係になった場合に、
自他の領域が、自他の協会が狂ってきた時、
僕は本当こう思うんですよ。
グッドバイブスっていうところの、
依頼を受けたら対応するっていうのと、
約束を必ず守るっていうのと、
反対は成立しないってことですね。
人が約束を守るほど守るまいって、
それはその人の自由じゃないですか。
こう思っておかないと、
相手の行為が自分の価値を決定できるか、
少なくとも強く影響を与える、
そういうくっついちゃうわけですよね、ある意味。
自他の領域がすごく曖昧になってしまうと、
そのことがある種の、
集中的なボットみたいなものと深く関係していて、
どっちも避けたいなと。
最近ほぼ避けられるようになってきたので、
人がどう思うと全くその人の自由じゃないですか。
その人の権利ですよね。
私のことを悪く思いたいのに、
悪く思わせる努力って、
しないほうがいいような気がしてるんですよ。
本当そういうのって、
わがままだと思います。