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おはようございます。グッドモーニングバイブスを改めましてですね、グッドモーニングボイスでいこうかなと思いました。
これならば、頭文字は変えずに済むのと、とりあえず一旦グッドバイブスというのもハズレるけど意味は通るので、
この名前で、朝というのは動かさないでおこうと思ったので、この名前でちょっとしばらくいこうかなと思いました。
忘れなければですね、今まで頭文字、GMVの後ろに567とかをつけてたんですけど、
これを逆にしようと、このポッドキャストの番号を通し番号として、後ろにGMVをつけようというふうに思います。
これだけなんですけどね、これでもテーマは、私が喋れば何でもいいということに一応なりましたから、
ボイスですからね、ボイシーのボイスを見ているうちに気がついたんですよ。
ボイシーの方でやることは多分ないかなって思ってるんだけど、ボイスでいけばいいんだと思った次第です。
いろいろとちょこちょこ動かしてるんですけど、まずお知らせがありまして、
Changes、有料マガジンが今月いっぱいで更新停止となります。
新規更新はですね、まだオープンにはしておきますが、新しい記事が上がるのは4月いっぱいまでということになります。
私の方でもお知らせを兼ねて1、2本あげようと思っていますが、それでおしまいという感じになります。
これはですね、いろいろ考え深いマガジンでしたし、何とか継続できないかなと、
あがきにいてみたんですけど、そもそも運営会社さんの意向があるわけだから、
私がひたすらあがきゃいいってものでもないなと思うようになったので、
全体の方向性としてはですね、もちろん続けたいという人たちとか、続けてほしいという人たちもいらっしゃるから、
少なくともゼロじゃないから、悩んだんだけど、一旦もう閉鎖するという方向になりました。
私それもあがいてる感じになっちゃうんだけど、永遠にオープンにしておけばいいんじゃないかと思ったんですけど、
永遠にオープンにすると維持費誰が出すんだってことになっちゃうんですよね。
これ考えてみるとそうなんで、これもだいぶ間を空けますが、
10月ぐらいまでは開けていると思うんだけど、閉鎖するという流れになります。
03:00
なので、今のうちに入っていらっしゃる方は読みまくってみてください。
他にお知らせとしては、もう基本的にはこれだけなんですけど、
この後ですね、現在進行形で連載している方もいらっしゃるじゃないですか。
具体的に言うと、Zoeさんと岡野淳さん、漫画を描いているのが前々からずっと連載していただいてたんですが、
私自身もある程度続けておりますが、この3人ぐらいで何かできないかなというのもあります。
それも今検討中と。ただ、新サイト立ち上げるところはなかなかあれじゃないですか。
大変な上に採算が取れた試しが私の企画ではないし、いろいろ悩ましいところなんですね。
チェンジ図の業間とか引用とか綺麗だし、もったいないかなというのもすごくあって、
その辺も含めて考えたいことは山のようにあるんで、きんきん考えようということにこの3人で考えることにしております。
その結論がまた出ると思うので、その時にはほぼにお知らせしたいかなとそういうふうに思っています。
私は最近は家にひたすらこもった生活なので、基本的にまだ外出してもいいんだけど、極力避けろという状態にあるんですね。
まもなくそれも解除される日を迎えるんですけど、これ厄介なんですよ本当に。
何の症状もなくたって何にもできなくなるという意味でこの病気は厄介なんですね。
よく最近プラA級の選手なんかでも濃厚接触の疑いみたいなのがあるじゃないですか。
それでも出場できなくなっちゃってますよね。
あれが起こってしまうんで、本当にこれはある意味かからずに済む手段としてのうがい手洗いみたいな話になっちゃいますけどね。
そういうので、かかった可能性があるという事態を避けられるなら、やっぱりこれは避けておいた方がいいなとは思います。
なんかこれはですね、社会的な問題でもあるような気がするんですよ。
だって本人に自覚症状がないばかりか、そもそも陽性ですらないかもしれないとしても事実上出られなくなってしまうというのって病気だけの問題じゃないですよね。
これは分かりきったことではありますけど、実際これ出てみると濃厚接触の疑いという話が出てしまうとですね。
根掘り葉掘り陽性になった人は医者に聞かれるし、聞けっていう指示も絶対出てると思うんですけど、その上県の方から、神奈川県の場合ですけどね。
06:11
ひたすらLINEで、AIなんですが、問い合わせ、問い合わせ、問い合わせ、ずっとそれに答えていかなきゃいけないわけですよ。
結構頭もろうとしている中で、これをやっていくと濃厚接触というのは必然的に割り出されていきますよね。
だから非常に濃厚接触の定義っていうのも、グレーゾーンも当然あるし、微妙なところもあると思うんですけど。
野球選手なんて言ったら、お相撲さんもそうですけど、あの辺は濃厚接触なんだろうか、そうじゃないんだろうかみたいなのって定義はあるんですけどね。
でも結構、あれやこれやがありまして、本当に接触した人の数が少なければ、少ないほどありがたい。
後から考えるとそういう風になってしまうんですよね。後から考えると。
自分なんかがかかってしまうと14日間は家から出られないし、できれば家族と触れるな触るなだから、お風呂も入れないし、実質上一歩も出られない人心理ですよ。
トイレに行って実にこもって食べては寝るだけという。
しかもこれ症状があるときは、そうするから多分39度くらいの熱があるときはこれしかないんでできなくなるんでいいんだけど、
熱がさまってすっかり元気になるとですね、やることなすことが何もないんで、本当に厄介だなこれっていう感じになります。
下に降りたとしてもですね、やっぱりしばらくは病原菌持っている人扱いなうえに、基本外に出るなですからね。
そういう感じでめんどくさいことこの上ない病気です。
で、こいしょこいしょ言うじゃないですか。
今日はこの話を少しまたしようと思ったんですけど、
グッドバイブスの名前を外した途端にこれを出してますが、
グッドバイブスでこうでなくてもいいという面白い表現を倉園さんがするんですね。
こうでなくてもいいは、一番やっぱり自分なんかの場合も来るのはですね、
怒らなくてもいいだと思うんですね。
怒らなきゃダメだみたいになっちゃうことって、怒っている時には一つの心理状態で必然みたいな感じになるんですよ。
怒り返すのは必然みたいなんですね。
ここで何か言っておかないとダメだなんて、なぜダメなのかはいろいろ理屈はつけられるんですが、
実はですね、なぜダメかは本人にもよくわかってないんですよね。
09:02
とにかくダメなんですよ。言ってやんなきゃダメだという風になっちゃうんですよね。
で、その時にこうでなくてもいいっていう言葉が発案されたわけですね。
このこうでなくてもいいっていうのは、もう一つ私がよく感じるのはですね、
テレビを見ている時なんですね。特に報道系の番組ですね。
マイルドなのもありますよ。マイルドなのからシビアなのまでいろいろありますが、今も当然やってますよね。
こうでなくてもいいんだというのはどういうことかというと、
この番組にある種のことを感じさせられましたと。
基本ある種のことを感じさせるような作りになってますから、
それに沿った方向でものを感じる、判断する、ある種の感情を抱く、罪悪感とかですね、抱くんですが、
それを抱かなくてもいいっていうことなんです。
これは、だから平気でいられるとか、だから違う見方をしなきゃいけないという話ではないんですよ。
そういうふうに考えなきゃまたいけないように思っちゃうから、政治的闘争みたいになるんですが、そういう意味ではないんですね。
仮に何か言い返したくなった時に、言い返してはいけないってわけではないんですよ。
言い返さなくてもいいっていうことでしかないんですね。
これってそうだと思うんですよね。自由であるならば、こう思わなきゃいけないってことは別にないはずなんですよ。
例えば今では当然一番多く報道されている番組があれですから、
例えばあれを見て自分の無力感に苛まれるって言ってる人が結構ちらほらお見受けするし、
すごく良心的な話じゃないですか。でもそうでなくてもいいはずなんですよね。
これを言うとどうしても非常に冷酷だったり、あるいは逆の見方をあえて取るのかみたいな話になると思うんですけども、
そういう意味ではなくて、無力感を感じなくてもいいはずなんですよね。
なぜならば、例えばその人が無力なのかどうかっていうのを一つまず考えてみたいところなんですね。
これは政治的な闘争って話になりやすいんですけど、無力かどうかってことを考えた時に、
その人はなぜ無力なのかって話ですね、私が考えたいのは。
なぜ無力なのかというのは、その人が活動したいからとか、行動を起こさないからではないと私は思うんですよ。
私はその人が無力なのは、その番組を見たからだと思うんですね。
この出来事がある前と起こった後、そしてそれを知らされる前と知らされる後で、
12:00
本質的に私が持っている能力なり力なり、単純に力って無力って言うなら力っていうものがあったとして、
そこが増減するとは思えないんですよ。
ある国が侵略を受けた途端に私の力が100あったのが2になりましたっていうことはないと思うんですね。
あるいはその力だけだとちょっと訳わかんなくなっちゃうので、腕力とかだったら間違いなくそんなには減らないんですね。
行動力っていう意味でもやっぱりそこまでは減らないわけですよ。
多分全く減らないと思うんですね。
タスクシュートに関する知識が侵略が始まった瞬間にゼロになっちゃいましたとかってことはないわけじゃないですか。
なぜ無力感を抱くのかは、つまりその出来事が起きたからなんだけど、起きただけじゃないですよね。
例えば今が鎌倉時代とかだった場合、そんな遠くで起きた戦争の話みたいなのがそんなに瞬時に伝わってくるわけがないんですよ。
ここ大事な点だと思うんですよね。
でも今は伝わってくるんですよ。何ならばSNSで伝わってくるわけですね。
しかもほぼ瞬時に。すごいことですよ。
これが起きるから僕らは無力になるとしたらやっぱりおかしいじゃないですか。
鎌倉時代ならならないんですよ、これは。
単にその出来事が起きただけではもちろん無力にはならないんだけど、
その事実を知らされるということが、何かを促されている感じを抱かされるんですね。
無理やり厳密に言おうとするとこういう感じになっちゃうんですよね。
それを促してませんよとか、強制してませんよって伝える方は当然思うでしょうし言うから、
これは伝えられたとか促されたとは言い切れないところがあると思うんです。
それを見てどう思うかは自由じゃないですか。
大事なのはどう思うかが自由であるのは当然なんだけど、
ついでにどう思わないかも自由だと思うんです。
どう思わないからといって反対の見方を取るとか、反対の立場を取るっていうわけではないんですよ。
単に例えば無力だとか、罪悪感を抱くという話になった時に、
その出来事が起こっただけではそうはならないし、
その出来事を知らされただけでも本当はそうはならないと思うんですよね。
その出来事が知らされましたと、今は早いですからさっき言った通り、
鎌倉時代とか江戸時代じゃないですからね、
多分河原版とかで伝えられてたと思うんですよね、時間がかかったとしても。
でもそういうことが今みたいでは当然ないでしょう。
その場合人々は出来事イコール無力感にはならないんだけど、
今は人によってはそうなるんですが、やっぱりその時にもそうならなくてもいいと思うんですね。
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そして事実はそうじゃないと思うんですよ。
私の腕力なりが知らされた途端にいきなり激減するとか、
行動力が大幅に吸い取られるとか、そんなことはないはずなんです。
ということはつまり一つには、それが知らされることによっていきなり要求行動力なるものが、
今作った言葉ですよ、行動力として要求されている水準がいきなり跳ね上がったという話だと思うんですね。
今までは私は数値化できるものじゃないですが、100あった行動力が100で大体いいでしょうということになってたんですけど、
いきなりあの報道が知らされた途端に、良識ある人は10万行動力を出しなさいと言われたから無力感に苛まれることになるんですよ。
減りも増えもしませんからね、そんなに急には。
知識なり、知識とかもそんなにあるわけじゃないじゃないですか。
それに関してはここでタスク修道の知識とかは早々役に立ちませんから。
だから知識なんかももっともっと遥かに必要なんですって言われてるような気がしちゃうんですね。
そうすると全然足りないということになって、良心的な人はあるなという言い方をしたいところなんですけど、
とても人がいいという場合には、罪悪感と無力感を一斉に感じるんだと思うんですね。
私の知ってる人でいらっしゃいますもん、年配の人ですけどものすごく良心的で、
しかも年配ですからテレビしか毎回ないんですよ。
ずっと最近テレビ見てないのよって非常にわかる気がするんですよね。
だってテレビをつけては無力感に苛まれない、テレビをつけたり罪悪感に苛まれるのは嫌じゃないですか。
多分その方は寄付とかもされてると思うんだけど、そんなにそんなに行動できないわけですよ。
足も不自由ですからね。
だから結局要求行動量がいきなり高くなりましたと。
しかも見るたびに高くなりますと、これなんかおかしいんですけどね。
見るたびに高くなるから自分が相対的にすごく弱くて無力だと、
そういう感じを抱くっていう話に過ぎないんじゃないかなと思うんですね。
だからなんですけれども、こうでなくてもいいんですよ。
つまりそのように感じ、ある程度させようという意思が作ってる人にはあると思うんですね。
そうは言わないし、あからさんにそう思っちゃいないと思うんですけど、
無力感を感じさせてやろうと思ってないにせよ、
罪悪感を感じさせてやろうと思ってないにせよ、
そういう結論になるのも当たり前だよねみたいなノリはあると思うんですよね。
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お前そこでノーノートしてていいの?みたいなそういうメッセージが投げかけられたと感じる人がいて、
当然だよねというノリはいろんなこれに関わることではあると思うんです。
それは必ずしも実はそんなに社会的なでかい出来事でなくてもよくて、
実はそれが南海トラフとか新幹線の脱線とかでもいいわけですよ。
いざとなったらあなたは大丈夫ですかっていう風なメッセージは普通に持っているじゃないですか。
あれも結局同じですよね。
いざとなった時にいきなり行動力なり良心なりがボーンと高くなるんですよ要求量が。
それに対応できますか?
できませんよねって言ってるんですよ。
できませんよねっていう言葉をメッセージをまともに受けてしまった人はですね、
そこで架空の罪悪感と架空の無力感にいきなりとらわれるわけですよ。
でもそれは架空なんでイリュージョンなんだから結局この言葉を使ってるんですけど、
イリュージョンだからそうでなくてもいいわけですよ。
そういう風に感じなくてもいいんです。
この感じつまりいつしかですね、ある種の思考停止を迫られて気がつくととらわれているというこの感じが
この番組でもおなじみの東映同一化そっくりなんですよ。
これが東映同一化なんだと私は思うんですよねある意味では。
この言葉をこのシチュエーションに持ってきちゃダメかもしれませんが、
これはカウンセリングで行われていることと同じで、
つまり夫婦喧嘩の真っ最中と同じだって思うんですよ。
夫婦喧嘩の真っ最中にもうこいつに言い返してやらなきゃダメだってなってしまう。
それと自分はなんて無力なんだって思ってしまう。
それはそっくり見ている感じなんですね。
ここをグッドバイオスでもよく指摘する部分だし、
私もここをすごく問題にしたくなるんですね。
つまり全く違う話をしているじゃないですか。
ひとつはカウンセリングの話、ひとつは夫婦喧嘩の話、ひとつは報道番組の話ですよね。
でも僕らの心がそういった外界の支援に対して、
いつもいつもおんなじようなネガティブな反応、
しかもだいたい本人にも周囲にもいい影響を及ぼさない反応を
ガチッとはめ込むような仕掛けがここにある。
つまりそれは外にある仕掛けではなくて、
心の内側にあるそういう仕掛けで、
私たちはそこで思考が停止するようになっている。
アルフレッドかな、アルフレッドか分からないですけど、
ビヨンという人が言った、心にはスペースがあるんだけど、
そいつが奪われる。あるいは埋め尽くされる。
つまりスペースがなくなって、スペースがなくなった途端に
抽象的な思考が全く進まなくなって、
21:03
ひたすら具体的になってしまう。行き詰まってしまう。
犬は犬である。
これはミニコットかな。
つまり、こうでなきゃいけないになっちゃうんです。
こうでなきゃいけないに囚われてしまったら、
そこにも思考する余地はないじゃないですか。
そうでなきゃいけないんだから。
ヴェルクソンという哲学者が断言名法みたいな表現を取りましたけど、
要するにそういうことなんですよ。
アリに働いているアリに捕まえて何で働くのかと聞くと、
もし口が聞ければこう答えると、
働かなければいけないから働いている。
これが断言名法なんですよ。
私たちはそういう風になっちゃった時の心理状態って
いつも同じなんですよね。
怒らなければいけないから怒っている。
何もないわけですよね、そこには。
自分はそれになっちゃうと表現も時々使われるんですけど、
それになっちゃうんですよ。
あの番組を見ている少なからず人が同じ状態になってしまう。
そういう状態にさせようという意図が実際働いているんですね。
そして自分は罪深くて無力なんだという、
そういう名称を表現は取らないかもしれませんが、
そういう風な感情にとらわれるんですよね。
そしてそうでなければいけないんだという気持ちになる。
これが僕は嫌なんですよね。
この感覚ってきっと全体主義を支配している感覚に違いないと思うんです。
この感覚が一番問題だと思うんですよ。
こうでなければ私たちはそこまで困ったことにはならないと思うし、
実際こうでなくてもいいんだなと、
例えばいわゆる夫婦喧嘩のど真ん中でも、
そういう風に少しでも思えた時には何とかなっちゃうんですよ。
これが現実なら何とかなるってことなんだろうなと思うんですよね。
そして現実なら何とかなるというのは、
つまりこうでなくてもいいという状態を見失わない手鶴を自分が持っているっていう感じであって、
この感じを持ってさえいれば仕事でも生活でも何とかできる自分というのが
そこに残されるはずだっていう、そういう心強さなんですよ。
ちょっと。
だけども、繰り返し繰り返しやっているとこれが不思議なんですけどね。
こうでなければいけないような気がだんだんしてくると。
本当に報道番組ならばまだあれなんですけれども、
これがしばしばバラエティーですら起きてくるという、
最近のバラエティーは非常に微妙な曖昧な作りになっているから余計なんですけども、
24:05
きっちりとこれは報道特集ですよみたいな顔はしてないんだけれども、
微妙な感じでこれをやられる時があって、
油断してたなっていうのはおかしいんですけどね。
油断も何もありませんから別に。
ただ自分がそういうスペースがなくなったなっていうのは、
スペースがない時には気づきませんから、
必ず後から気づく。
これも精神分析でよく言われる。
これは後から気づくんだっていう話はよく表現されておりますけれども、
後からになって、あの時スペースがなかったわと。
スペースがなかったこと自体は人に謝りようがないんですよね。
ごめんなさい、あの時私はスペースがありませんでしたと。
そう言ってもいいと思うんですけれども、
ことの内容について謝っているわけではないので、
こうやって謝るということは、
心の、自分と心の状態について謝っているので、
それって本当は人に謝る筋の話でもないような気がするんですよね。
ただ心のスペースがなくした時の言動は、
外視で周囲にとって不愉快なものなので、
そういうやっぱり表現をするならば、
グッドバイブスじゃないのでね。
だから最近このグッドモーニングボイスとしたんだけど、
グッドモーニングバイブスと言ってた時にも、
本当にあれグッドバイブスにちゃんとなってただろうかって、
後から失敗になったことが何回かあるんだけど、
よくよく考えてみるとですね、
グッドバイブスというのは心のスペースなんです。
この文脈ではですね、精神分析的な文脈を使うならば、
グッドバイブスというのは心のスペースなんですよ。
グッドバイブスでクロノンさんが
愛のラブとかいう表現を言うんですね。
つまり存在自体が愛だとか。
もしそうであるならば、
心のスペースがある時の自分、人は、
どんな場合でも平安だと思うんですね。
バイブスとしてグッドなはずなんです。
これがそうでなくなることがあるとするならば、
やっぱりそれは心のスペースがない状態。
そういう心理状態に、
ある意味あれば矯正されている感じになるんだけど、
誰も矯正はしてないので、
やっぱり自分で自分の心のスペースが
全くない状態に入った時、
だからといってその人が愛じゃなくなるわけでは、
本当はないんですけどね。
これはあるひと手間をかけなければならないから、
大人はこの状態に陥らないようにくらいには
気をつけておいたほうがいいとは思いますが、
それも絶対できるわけじゃないです。
例えば、夫婦喧嘩をせずに生きていけるか
というような問いに近い。
例えば赤ちゃんが、赤ちゃんとか幼児がありますよね。
27:03
お菓子買って泣き喚いている幼児っているじゃないですか。
あれが心のスペースがない状態ですよ。
じゃああれは愛じゃないかと。
あの存在は愛じゃないかと。
あれはバッとかってと。
別にそんなことはないですよね。
ただ大人があれと全く同じことをした場合、
これがつまりニードとニーズの話になっているんだけど、
大人があれと全く同じことをした場合は、
多分ダメな感じがします。
子供だからあれが愛で通るんですよ。
だからやっぱり子供は母子、母子ユニットにいるんですよね。
多分泣きをめいている幼児を見かけた時、
あの子が一人でいるだろうと思う人っていませんよね。
おそらく近くに親がいるだろうってみんな思いますよね。
これ不思議だと思いません?考えてみると。
当たり前なんですけどね。
でも近くに多分大人がいるだろうと思うというのは、
全く母子ユニットなんですよ。
ミニコットって人はすごい指摘をしたなと思うんだけど、
つまり一人きりでいる幼児などというものがいないというのはそういう意味です。
逆に言うと大人ならば一人きりでいることもあり得るって言ってるんですよ。
だから心のスペースがない状態の大人というものが、
もしいたとするならば、
その人は仕事を進めるのも何かをするの上でも、
非常に困った状態に置かれることはしばしばあるはずで、
その人には多分具体的な、つまり自分の心の中じゃなくて、
自分の心の外に具体的なお母さんというものが、
そのお母さんというのが実母だって意味じゃないですよ。
年が下で男かもしれません。
でもいるはずなんですよ。
多分その人はいないと仕事にならなくなる。
そういうことが起こると思うんですね。
だから私もよくよく考えてみますと、
昨日もかき揚げ塾というので、
かき揚げ塾は今もなおキャンペーン中ですので、
よろしければ確認してくださいね。
かき揚げ塾のかき揚げタイムかな、
要するに30分使ってみんなで描きましょうという、
昨日2人だったんですけどね。
みんなで描きましょうという時間を設けているんですが、
あの前に、あれをする前にですね、
報道番組なんて見ませんもの、絶対に。
つまり心のスペースなくしては仕事にならないんですよ。
そういう意味では、
ああいう番組の持っている意図のいくつかは、
少なくともグッドバイブスとは言い難いなとは思います。
罪があるとは言いませんが、
罪はないと思いますからね。
そういう報道も必要だとも思いますけれども、
あれを見るタイミングについては、
私たちはある程度は考えておいてしかるべきじゃないかなと思います。
30:03
ということはですね、こうでなくてもいいはずなんですよ。
もし、あれを見て、
ある種の心理状態になることが本当に望ましい、
それは、正義の行動を取るためには、
そういう気持ちにならなければダメだから、
そういう気持ちになるために、
ああいう番組を見るということは、
100%批判する余地なく望ましいというのであれば、
いつ見てもいいじゃないですか。
私はそういう感じを受けないです。
あれを見るべきタイミングというものがあるし、
私の知っている年配のおばさんがおっしゃる通りで、
見ないようにしているという選択も十分ありというか、
どちらかというとその方が賢明な気がするぐらいに思うことも少なくないです。
ということは、
その番組の意図が100%望ましいという感じはやっぱり受けないんですよね。
さっきも言いましたが、
良心的な人って私が表現とっているのは、
ある程度鵜呑みにしやすい。
鵜呑みにしやすいというのは、
批判精神がないとか、
頭が足りないという話ではないですよ。
よく言われるんですけど、
そういう話っていうのが、
そうじゃないんですよ。
あれだけの意図を持っているものを、
平気でスルーできないということに、
良心性ってあると思うんです。
そのおばあさんは頭すごい良い人ですし、
とってもそういう意味では良心的なんですよ。
受けちゃうんですよね。
こうでなきゃいけないような気になれって言われると、
相手がどういう人であれ、
ましてよくテレビの人なんて目の前にいませんから、
こうでなきゃいけないと思っちゃうんですよね。
それがやっぱり、
でもこうでなきゃいけないと思っても、
実際に起こせる行動は限度というものがあるので、
実際には買い物に行くのも苦慮するというわけですから、
そういう限界があるから、
その限界をわざわざその限界に、
罪の意識を持つ羽目にしかならないじゃないですか。
何にもできない私は、
能々と生きてて罪深いみたいな、
よく言われている通りの言葉なんですよね、あれは。
そういうステレオタイプみたいな言葉が、
十分に思考できる人の頭から出てきちゃうということは、
スペースがなくなっているんですよ。
スペースがなくなっている時というのは、
つまり、お菓子買ってと泣いている子供の状態なんです。
あれ、心のスペースがないというのは、
非常によくわかるじゃないですか。
心のスペースというのはもちろん、
計測したり、心とはこういうスペースで、
というのもあるわけじゃないですから、
心のスペースがない、心の余裕がなくなっているなというのは、
その感じとして伝わってくるものです。
もうちょっと言うと、
極めて具体的な状態になっちゃっているという表現を取るならば、
それでもいいと思うんです。
すごく具体的な存在ですよね。
何を買ってと泣き喚いている子供というのは、
33:01
全然抽象的じゃない。
その抽象性がなくなっていくというのが、
私たちの避けたい状況なんですよ。
物を買くというのは、すごく抽象的な思考、
ある意味抽象そのものを扱う状態なので、
抽象が扱えないような状態では、
物は描けないと思うんですよね。
こうでなければならない。
要するに描かなければならないから、
描かなければならないみたいな心理状態で、
物が描けたとしても、
いいものになるとはとても思えない。
このグッドモーニングマイブスと言っていたときは、
基本的に、全部が全部じゃなかったかもしれませんが、
基本的に私はここに一人しかいませんから、
心のスペースは空いてたと思うんですよね。
空いてればいいはずなんですよ。
空いてれば少なくとも平安ですし、
空いてればここでリベンジしようとか、
リベンジしたいという気持ちって、
つまり心のスペースのない状態ですから、
ここでリベンジしようとか、
誰かを徹底的に打ちのめそうという気持ちになっていなければ、
多分大丈夫なんだろうと、
そういう感じを抱いて、
今後はボイスでもいいかなと。
どっちでも、この件に関しては同じなんです。
人によっては、
ダイレクトメールでもいただきましたから、
辞めないでくださいみたいな、
そういうのをスーツをいただいたんですよね。
大変ありがたかったんですが、
つまりそういうのって、
おかし勝手と鳴いているこの声をずっと聞いていたいと、
思わないじゃないですか、あまり。
あれに本気で腹立てちゃう人もいますよね。
つまり、それが心のスペースがない状態というものを、
私たちはそれに触れていくというのが、
難しいということなんだと思うんです。
だから逆であれば、あるほど望ましいんじゃないかと。
逆であり得るならば、
多分この番組の価値というのは、
それで担保されているんじゃないかなというふうに思います。
もう一つが、このスペースをわざわざなくすようなものは、
何の媒体からどれほど意義深いとされているようなものであったとしても、
要注意だというのが、私の最近の感じるところなんですね。
これはグッドワイブスでも、
倉園さんがよくおっしゃっている話ですし、
倉園さんは元々媒体で、
かなり、報道とかではないですけど、
一定の影響力を持つ媒体を出していた側の方だから、
そういうことに明るいんだと思います。
私は必ずしもそういう立場じゃないので、
この辺不思議なんですけど、
倉園さんは編集という側の立場の人で、
出版というところに立っていたわけだけど、
私はその中にいたことは一度もなくて、
これを一緒くたに見えるとは思うんですけど、
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一緒くたに見ちゃう方っていっぱいいらっしゃるんですよ。
私が一番売れた頃、
出版社を運営している人みたいに思っている人すら、
一部いらっしゃったんだけど、
全然違うんですよ。
私たちは、言ってみれば、
中身を提供するだけなんで、
そういう言葉は妥当ではないんですけど、
ある種、下請けみたいなところがありまして、
本当に構造上は下請けと変わらないなって思う時があるんですよね。
すごく尊重されているから、
そういう感覚を抱きませんが、
どっちかというと、中身を納品する存在なんですよ。
簡単に言うと、工場ではないけど、
農作物で、畑で作物を採って、
それを納入していく感じ。
何かに、これを包んで売っておいてくださいみたいに、
行って持っていくっていう感じなんですよ。
包んで売っている人たちとは違うんですよね、これはすごく。
だから、ある意味、どんなに取れても、
全くそれを売ってくれる人がいなくなったり、
そもそも自分で取ることができなくなったりという問題に、
必ず晒されることになりまして、
それは他で代替えが利くという側に立っているのとは、
全然話が違うということはありまして、
何の話をしているのか分からなくなってきたので、
今日はこのぐらいにしておきます。