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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
バイブスって言った方が座りがいい感じがしますけどね。
結局、いつも通りの話に近い気もするんですが、
東方カイトさんが、「するといる」っていう言葉に、すごく基本的な言葉というか、
何々をするというのと、どこどこにいるっていうのは基本的な言葉なんですが、
これ、精神分析ですね。
彼は精神分析家って名乗ってたのかな?
カウンセラーって名乗ってらっしゃると思うんですけど、精神分析的な発想ですね。
いるっていうのがポイントで、
いられないということを、甘えとこれはすごく似てるんですよね。
甘えという言葉は当然ドイツにあるわけがないから、フロイト用語ではないわけです。
今では精神分析の世界には、そこはドイツさんのすごさなんだけど、
コンセプトオブ甘えっていう言い方をするらしいんですが、
つまり日本語にしかないからですね。
これと似ている使い方で、
いることができないと、気が済まないもそうですね。似てますね。
脅迫神経症という代わりに、手を洗わないと気が済まない。
あるいは、鍵を閉めたかどうか確認しに行かないと気が済まない。
すごくGTDに気が済むまで洗い出すとか、気になることを洗い出すって言うじゃないですか。
すごくここを脅迫症っぽい方に聞いてみたいなと思ってしまうんですよね。
気が済まないことがエンドレスっていう状態がある脅迫症の特徴だから、
気が済むまで洗い出すことはできるだろうかというのと、
気になることを洗い出していったらエンドレスになっちゃう。
同じことですけどね。
エンドレスになっちゃわないだろうかというのが僕が気になる。
この気になるというのと、よく似た使い方で、
OCDという代わりに気になると言ってみる日本語のですね。
虫の居所が悪いもいいんですけど、
すごく精神養護っぽい日常語。
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そういう意味で居られないというのがある。
っていうのが戸端さんがよくテーマにされているんです。
居られないとそこでは何もできない。
だから居ることに無闇に固執するというか、
ここは俺の居場所なんだぞと、
無闇に主張したがるというような一つの傾向ってありますよね。
あるいは本当に居られなくなって、そこにはいつも居ない。
これオフィスでイメージするとすごく感じるところが私なんかにはあるんですよ。
私の社会人経験は乏しいですけど、
無闇にそこが自分の居場所であることを主張したがるおじさんっていたんですよ。
別にそのこと自体は通常問題にならないんだけど、
時々それによってトラブルが起きて、
私はそういうトラブルを引き起こせるほど長くいなかったんですけど、
そこのところで問題が起きることがあると。
逆にいつ見ても居ないよねっていう人がいるんですよ。
この言い方も変ですけどね。
この人いつ見ても何らかの理由で外に行っちゃってるよねと。
基本的には私が居たところは事務職なんで、営業じゃないんで、
そういうことが頻々にあってはいけないはずなんだけど、
居ないんですよね、その人は。
やっぱりおじさんだったんで、いつも居ないおじさんなんですよ。
私はこれは無意識のなせる技だと思いますよね。
まず居場所を作ることに。
昔、今思い出したんだけど、高校卒業するとき先生が、
大学で居場所を作りなさいってことをすごく最後に言った先生がいて、
今思うと、あのアドバイスをするっていうのはちょっとあれなのかもな、
アドバイス自体の問題じゃなくて、
その方自身のトラウマなのかなと今思うと感じるものがあります。
居場所を作りなさいっていうことをさらに言うっていうのは、
やっぱり居場所はなきゃ困るんですよ。
だけれども居場所を作ろうと今の私たちの時代あたりから
するようになっちゃったかもしれませんけど、
本当は居場所を作ろうとするものではないと思うんですね。
例えば家庭の中で考えるとこれはわかりやすくて、
家庭の中に居場所を作ろうとある家の子供がしているとすると、
その家は多分表面的に何も問題がなくても問題があると思うんですよね。
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家庭の中の居場所がないっていうのは、
やっぱりそれを意識するというだけでも妙ですよね。
この辺が甘えと居るっていうのは似てるんですね。
甘えもそうで、甘えようと思ったらもうアウトなんですよ。
甘えというのは意識されないところにあるもので、
意識してまでやろうとか作ろうとか成立させようとするようなもんじゃないんですよ。
だから私は本の中で成立してないときの問題を取り上げていて、
甘えさせましょうになっているわけです。
これをすることで自分の居場所はできていくはずだから、
そういう流れで書いたんですよね、あの本は。
顔色をうかがう本ですね。
だから居場所がないからといって、
私を主張するっていう作り方にはならないと思うんですよね。
その場所は居場所になるはずで。
私一番最初に会社に行ったときよくよく覚えてるんですが、
ここの机は君の城だからって言われたんですよ。
誰に言われたんだか覚えてないんですよね、初日だったから。
ここを君が好きに使っていいんだからって言われたんですよ。
そこはアルバイトに近い形で入ったんで、そういう風に言われて
へーっと思った記憶があるんですよ。
その時は調子のいい会社だったってこともあると思うんですけどね。
これが居場所なんですよね。
居場所与えたぞっていうサインで、
この状態である限り、ここから始める限り、
普通にやってればですね、居場所はなくなるはずはないんですよね。
だけど、顔色を伺うの中で、
あの表紙を書いてくださった永田香美さんという方のコミックに、
私の居場所がなくなっていくっていう恐怖について、
漫画で切々と書かれているんですよ。
私はこれが非常に大事なポイントだと思って、
甘えが成立しているところ、すなわち自分の居場所なんだけど、
甘えが成立していないというのは、
そういう風になって初めて気づくことであって、
例えば私は会社に行って、
ここが君の城なんだからって言われた時に、
私は甘えているなどという自覚は全くなかったんですよ。
当時若かったからってことはあるにせよ。
そんな風には思ってなかったんですよ。
むしろ当時若かったから、会社に行ってやってるくらいなつもりでいたんですよね。
こういう状態がでも私は健全だと思うんですよ。
ここ居場所だからなんとかして守んなきゃと思ってるっていうのは、
決していい状態じゃない感じがするんですよね。
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学校行っててもそうだったと思うんですよ。
今の子はわかんないですけど、
私は当時学校行ってて、
まさかここが居場所として確保しなきゃと
机に関して思ってたことはないんですよ。
それは恵まれてるんだけど、
やっぱりそう思ってないとダメだと思ってるんですよね。
行ってやってるくらいな。
眠いの無理やり起きて無理やり行ってやってるくらいな。
そのくらいがちょうどいいと思うんですよ。
子供が自分の居場所にいるっていうのは。
確保をしなきゃとか、
ここを自分の居場所として支手しなきゃっていう風に
思い始めてるということは、
すでに居るのが難しくなっているんですね。
戸畑海斗さんがかなり初期の本で、
最近の本みたいにスイスイ読める系じゃないんだけど、
居るのは辛いよっていう本があるんですが、
あの通りなんですよね。
居るのが辛いんですよ、多分。
なんつうんですか、
表面に現れない神経症なんだと思うんですけど、
ノイローゼっていうのはつまり、
居るのが辛いという定義。
定義ではないんですけど、
そういう言い方をすることもできるんですよね。
上手く甘えられないと言ったのが、
どいさんですけど、
居るのが辛いという症状なんですよね。
居るのが辛くなるとしても、
することはできるんですよ。
これが居るとするを対比させてるんだけど、
することができるんだけど、
ある条件になると、
必ずすることばかりを意識するっていう、
そういう神経症というのが多分あってですね、
私はですね、
ライフハックの人々に
グッドバイブスを伝えるみたいなのが
一つの僕のミッションっていう言葉は
僕の中にはないんだけど、
僕の一つの役割と考えるように
なっているんですが、今は。
なんでそう思うかというと、
ライフハッカーであろうとなかろうといいんですよ。
要はこの居られなくなるとすることで
それを担おうとするという症状に
グッドバイブスなりは有効だと思うんですね。
そして、ここをケアしないと
いずれはすることがうまくはいかなくなるはずだし、
そもそもこの状態で何をしても
とてもつらいはずだという
仮説からきています。
例えば家庭の中に居場所がなくなると
することがすぐに思い浮かんでいくと。
例えば、自分は会社に行ってお金が稼げると
これがすることですね。
つまり家庭の中に居場所がないと。
男女どっちでもいいですし、
どういう条件でも構いませんが、
とにかく家庭の中に居場所がないので
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居るのは諦めて、
でもその人は居るに関しては
何にも考えることがないか
ことさら考えるのが嫌だから
居るに関しては考えないと。
ただ居てもダメだとまず考えると思うんですね。
例えば、
ただ黙ってテレビを見ているということが
無生産な感じがして、非生産的な感じがしてできないと。
これは私は非生産的とか時間がもったいないという
言い方はしますが、
要は居られなくなっているっていう。
それは誰かが追い出すとか
冷たい目で見るって話ではないですよ。
もしかしてその家庭には一人でいるかもしれません。
でも居られなくなっていると。
それだから心理的な問題なんだけど
夫婦喧嘩とかすれば分かりやすいですよ、確かに。
家庭の中の空気だとか
雰囲気が悪いって言うじゃないですか。
でも雰囲気とか空気って悪くならないから
その時居られなくなって居心地が悪いのは
自分の心の中の作用なわけですよ。
だから居るは純然たる心理問題なんだけど
とにかく居られないので
そこで人が考えることというのは
私は金が稼げる
夫との関係が難しくなってきて
必ずですね、この種の
最近、密かに離婚を考えるコミック
この離婚が利便になっているんですけど
要するに無神経でダメな夫に対して
反省を促すために離婚するみたいな
私は離婚したら反省相手がしているかどうかは
重要じゃないと思うんだけど
人間心理ってそういうところがあるんですよね。
この居るという時にもやっぱりですね
自分をまずお金が稼げるだろうか
するという問題に置き換わっているんですよ、気が付くと。
ここにはもう居たくないから
私は何々することができるだろうかと。
だから私は孤独感というものが
後々問題になりやすいんだと思うんですけど
まずお金が稼げることからですね
次に例えば外に飲みに行くとか
これは居るに近いんですけど
居るの大体に近いんですけど
なんとなくやっぱり何かをしていますよね
そういう感じがあります。
あるいは活動的な趣味みたいな活動に打ち込むみたいな
これも多いんですよね
人が居られなくなった時に
何かに没頭するとか打ち込むということによって
その代わりにしようとする
極めて極端な事例が
心が見つからないのが最近の本に出てきていましたけど
何でもかんでもPDCAを回してしまうというやり方ですね
それは全部をするにしちゃうということですよね
食事から何からするになってしまうわけです
居るというのがその人にとって心理的につらいので
全部するに置き換えていくわけです
そういう人はですね
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能力にもよるんだけど上手くすることができるんですよ
だから全てを上手くすれば問題が一切起きないはずだと
でも問題は居られないということにあるのであって
何もかもうまくやってみてもですね
全てが終わった時にそこにほっとくつろいでいられるかというと
それができないという状態だと
永遠に続いちゃうわけですよね
上手くしなきゃいけないということが
どっちが先に始まったのかも分からないぐらい
上手くしなきゃいけないという問題が最後まで続いていて
大概どこに行き当たるかというと
眠れないに行き当たるわけですよ
眠る時には上手くする行為じゃないので
あれはいるの究極形みたいなものなので
その時に居られないわけですよね
非常に非生産的な時間とよく書かれたりもしているじゃないですか
眠りの時間というのはですね
どうしようもないですよね起きてないんだから
ここで不眠とかショートスリープとか
そういった独特の現象となって現れるわけです
そもそも睡眠って自意識だけではできないわけですよ
無意識の力はどうしてもいるんです
その無意識のほうが
つまりそれはいるという側のほとんど大半を占めてますけど
こっちが信用されてなかったり
機能が弱くなっていたりするわけだから
当然この無意識がほとんど司っている
寝るという行為に関してはとっても難しくなるわけですよね
戸畑ガイトさんの本の中では
ここをどうやってするかという問題に完全に置き換えられていたので
うまくいかないんですね
Excelで睡眠時間を記録したり
心拍をとってみたり
ありとあらゆることをするわけです
で、睡眠をPDCAすると
アロマとかベッドとか枕とかはおなじみです
この方が絶対にやりたくないと言っていたのが
睡眠薬に頼ると
睡眠薬に頼るのがなぜだめかというと
やっぱりこれは自力でないという感じがするからなんだと思うんですよ
睡眠薬というのは非常に内迫的であるように見えて
そうではない
でもこの方は最後はアルコールに頼っているシーンが
感じがしばしば見受けられるようになるので
アルコールと睡眠薬はこの場合は
何の違いもないような気もしますけれども
それでも睡眠薬は嫌だということなんでしょうね
本当はアルコールも当然嫌だとは思うんですよ
で、イルというのは
スルじゃ置き換えられないというか
イルの上にスルが乗っかっているわけですから
その会社でも結局会社の居場所を主張するというのは
自分が仕事をするには
18:00
このように居場所を設定しなければならない
そういう側面があるんですよね
その側面というのがそういう心理作用を要求している
逆に自分はオフィスでは仕事ができないというのは
結局オフィスにいるということができないから
当然その上で仕事をするってことができないと
僕が先送りの問題とされている問題で
捉えたいというのが
メスを入れたいのがここなんですよ
よくノマドというのが流行った時にも思ったことなんだけど
カフェに行かないと仕事が進まないとか
そういう話があるんですよね
そしてそれは電話が鳴るとか
上司がとかそもそもうるさいとか
いろいろあるから
一概に言えないところもあると思うんですけど
どこにでもいられれば
どこでも仕事ができるという感じが
私は基本線としてあって
自分がここにいないとダメとか
それが終わってからでないとダメとか
例えばシャワーを浴びてからでないとダメとか
そういう条件がついてくるということは
多分その人にとって
いるが難しくなりかけている証拠だと思うんですよね
ある場所に行けばいられるというんだから
いるができなくなっているというわけではないんですけれども
カフェにいないとダメとか
シャワーを浴びてからでないとダメというのは
やっぱり何かあると思うんですよ
いるを難しくしている心理的な要素がですね
それがするをややこしくする
つまり先を食っちゃうと
ある人の仕事にぶつかると
その重荷に耐えかねてできなくなるというのは
たぶんいるのがつらいという問題だと思うんですよね
するのがつらいという問題ではなくて
するのがつらいだと思うので
私たちは小分けにするとか
ライフハックを様々駆使してみるんですが
それでうまくいくときは
たぶん大した問題ではないんですよ
それでうまくいかなくなるときがきっとあって
それはいるが難しくなっている
これはもう仕事を小分けにするという話とか
仕組みを作るという話では
たぶん解決しないと思うんですよね
どうしてかというと
僕らはいるのがつらくなる外的条件は
山ほどあり得るからなんです
寒くなったり暑くなったりうるさくなったり
このうるさいってすごい大事だと思うんですけど
うるさいというのが単純に
外的環境だと思われてますよね
だけれどもすごく何かに集中していると
うるささってグッと減るじゃないですか
耳にいろんな音が入り込んで消えるという状態というのは
いるがうまくできていないということだと思うんです
色をうまくするというのは
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意識的にやることじゃないんで
だからヘッドホンとかをするわけじゃないですか
ボーズの小音型とか今すごい流行っていますよね
だけれどもものすごいうるさい環境ってあるから
これも全部を心理に還元することはできないんだけれども
やっぱりこれは心理のコントロール
それの作用だと思う
それもちょっとしたことだと思うんですよね
なぜならば子どもでもできる子はできちゃいますから
簡単に
勉強に没頭して物音に気づかない子はいますからね
あれは無意識がやってくれている仕事なんですよ
あれがどうも働かなくなっているというのは
何かあるんですよね
私は音ひとつない空間で没頭して作業するって
嫌いなんですよね
すごくそれをやるということは
私はそういうことをやると落ち着かなくなるんですが
何でかというと
無意識がやることがなくなるせいだとよく思っています
無意識が程よいノイズを作り出すというのまで
ご丁寧に今あるじゃないですか
あれがつまり
無意識に仕事をさせておくということと
意識的に仕事をするということは
並行して行わないと難しくなるという証拠だと思うんですよ
グッドバイブスでは
倉園さんがよくおっしゃっていますが
自分を環境次第の存在にしないと
これは難しいんですよね
難しいと非常に思われやすいと思うんです
いろんな理由で
まず環境次第だとされているというのが
一つありますよね
もう一つは今は物質文明ですから
私たちが生きているのはもろに物質文明なんで
人は物質次第で
ライフオブクオリティって
物質をどれだけ豊かに持っているかという話をしていますから
多分に温かくするじゃないですか
寒く涼しくもしますよね
まずこの二つは超重要ですよね
完全に環境次第ですよね
私たちの状況が
それに合わせてさっきの静かとか
程よい音とかもありますよね
お腹が空いているかどうかというのもあるし
いろんなのがあるわけですよ
最近は匂いにまで手を出してきていますから
そういう風になってくると
環境次第だと私たちは行動で何度も何度も
自分に教え込んでいるようなものなので
当然環境が
今回起こっているほど
地震もそうですからね
台風だってそうですし
環境というものが変化しないなんてことは
まず考えられないので
私たちの環境次第で
いるが左右されてしまうということになったら
24:01
いつ居場所を知らなくても
ここに意識が全部集中しちゃうんだと思うんです
場合によっては
居場所を快適にし
居場所を確保するということに
全神経が向かっちゃうと思うんですよ
それが人生の目的みたいになっていくと思うんだけど
これは何と言うんですかね
過剰なんだと思うんですよね
自分もノマドの本とかを
書こうとしていた頃は
最大級にそうだったわけです
人は環境次第だと考えているのが
これやっぱり程度の問題で
環境を完全にスルーできる
私はそれがつまり
環境的な世界だと思うんだけど
無理なので
環境に100%依存するに近づける必要は
ないんですよね
僕は今どこでも仕事ができるようになっています
ノマドの時って全然そうじゃないんですよ
それこそカフェじゃないとできない人だったんです
その差はでかいんですよ
むしろ今みたいな世の中の方がかえってでかいような気がするんです
いろんな環境があるから
そのいろんな環境がある中で
わざわざカフェでないと物が書けない人になっちゃう
というのは面白い話じゃないと思うんですよね
今の方が全然便利だと思うんですよ
ごく単純に言って家でも書けます
当たり前なんだと思うんですね
場合によっては電車の中でも書けますと
音とかで書けなくなったりはしないんです
この2つはさっきも言った通り
完全に心理的な問題なので
つまりそこにいられるかどうかの問題
いられるかどうかというのは座っていられるかどうかの話ではなくて
そこにいて
基本的にはそこでやっていいと言われていることなら
やろうと思えば何でもできるという意味です
いられるというのはですね
そこでは物を書けないとか
そう決めるとそうなるんですよ
変な話ですけれども
不便だと思うんですよね
一見したところ仕組み化というものが便利そうに思われる
ある種の場所に行くと
ネズミのレバーダンスみたいに
ある種の仕切りにスイッチが入って
自然と物が書けるというのは良いと
とにかくゴリゴさんという方と
対談の本をまとめてもらったときがあるんですけど
ここがすごく
割と響いたという方がいらっしゃって
私はすごく意外だったんですが
つまり環境次第でできるできないが決まるって
すごく不自由じゃないという話を
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すごく聞いていたんですけれども
その中で
すごく不自由じゃないという話をしたら
なんか妙に反応があったんですよね
でもすごく不自由なことは確実じゃないですか
ノマドでカフェでボーズのヘッドホンをかけてなければ
仕事ができませんってそんなはずないじゃないですか
いくらなんでもそんなはずはないと思うんですよね
多分そういう思い込みがあると思うんです
ただこれを進行させていくと
やっぱOCDしか残ってないと思うんですよ
絶対にそうなるという気がします
環境が自分の思い描いたとおりになっていなければならない
環境が自分の思い描いたとおりになっていなければならない
その中に自分を包んでおかなければならないという
思い込みを持てば
環境って常に動いていくから
そうなっているかどうかの確認に
ひた走らなければならないと思うんですよね
実際ヘッドホンをするという人はですね
例えばちょっと何かが気になったり
筆が止まったりした時に
スイッチとか気にするじゃないですか
バッテリーの持ちとか
自分の外は自分自身もなんだけど
常に変化し続けているのに
ある状態に完結させなければならないと
仕組みというものも常に働いている状態に
自動販売機みたいなもんですけど
ボタンを押したらこれが出るというのが
常に正確に作用しなければ
仕組みってのはダメですよね
そういうふうにしてしまったら
そのメンテに神経が取られていくと
しか思えないんですよね
それがつまり僕が考える
甘えの世界の不成立だし
本当は僕らは世界に甘えていられるはずなんだけど
そうできないと思っているから
人為的な仕組みに甘えようというふうになっちゃうんです
そしてそれは不可能なことなので
究極的にはそこで悩むわけですよ
あるいはこれがもっとだんだん
言葉がいるから
結局分かりにくい言葉に流れているんですが
ナルシズムなわけですよ
その見えている世界通りの世界になっていてくれないと
変化してしまうので
だから自分の何かが破綻していくわけですよね
破綻する気がすると
それが怖いという意味なんだと思うんです
家庭の空気が悪くなるとか
そういう話もそうだと思うんですよね
本当は奥さんの家はいつも良くあってほしいと
そういう二次的な世界なんですよ
あるがままの
夫婦には甘えられなくて
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いつも機嫌が良い人であってほしい
ということになると
機嫌が悪くなったら破綻ですよね
破綻するという世界にはいられなくなるので
そうして僕らはそこの上で何かをするというのに
困難を覚えるんだと
そういう心理的な順序があって
先送りというのは
そういうものの小さなところで
発生するんだろうなと今は思うんです
だからまずいられるようになる
そのためには
まず誰かの居場所を作ってあげる
こういった方が良かったかもしれないですね
もうちょっと違うんですけどね
ある人がそこにいられないと言うならば
そこにいられるようにしてあげる
そこで問いが来るわけでしょ
パワハラで頭のおかしい人が
サイコパスか
頭のおかしい人がそこにいようとするんだけど
そいつを排除するべきじゃないのかと
今の文脈で考えると僕は全然逆だと感じるんですよ
そいつは排除するべきじゃないかという
発想を取るということは
最終的にはそうなるかもしれませんよ
でもそいつは排除するべきじゃないのかという
発想を取るということは
例えばその人の座布団を燃やしちゃうとかそういう話ですよね
これは理由ですよ
つまり居場所を奪ってしまえば
その方がみんなにとって平安が訪れるんじゃないか
という話だと思うんですよ
でもある空間において
誰にせよ何をした人にせよ
その居場所にバッテンをつけるということを
するしできるんだという状態に
僕らは暗論としてられた気がするんですよ
いつ僕らの自分自身の居場所を
それじゃ失われても
居場所というのは安易に永遠の場所じゃないとダメで
永遠の場所ということはあり得ないですけど
でも心理的にはそうで
赤ちゃんはお母さんに抱えられて
こうして永遠にいられるんだって感じてるはずなんですよね
だから独特の表現で
トラウマが発生するって言ったわけですよ
お母さんが一人の人格であるだけで
赤ちゃんにはトラウマになるんだって言ったら
そういう意味だったと思うんですよ
これは永遠じゃないんですけど
永遠だと思ってないとダメなんですよ
それが永遠ではないです条件次第ですという話になってしまったら
もうそれは居場所じゃないんですよね
すごくここが逆に捉えられちゃう
環境次第ではないというのは
つまり条件次第ではなく僕らはいられる
どこにでも平安でいられると
それは永遠だという話
そう思ってないと
33:01
条件次第で一時的で
いつバレるかは分かりませんよということになったら
とても不安で一瞬たりともいられない
この落差がすごく不思議なんですけど
永遠か一瞬も無理かみたいになってるんだけど
だからこそ途中で言った通り
居場所主張するおじさんみたいな方も
現にいましたしね
いつ行っても居ないですおじさんも現にいましたし
実は僕の隣に居たんですよ
居なかったんだけど