2022-04-01 35:09

【GMV 575】なぜノープラン、ノーログで白紙に向かって書くのか?

過去のいきがかりから自由になる
00:05
おはようございます、グッドモーニングバイオスです。
第6期の書き上げ塾が申し込みいただけます。
4月10日まで2万円オフです。
この機会に申し込みいただくと、また始まるのに1ヶ月以上はあると思います。
しかも、1倍になるのもこれまでの経緯だと早いです。
お値段高めに思われると思うんだけど、半年で20万円なので、
6で割るとそんなにすごい金額じゃなくなるのと、書き上がれば損ではないと思えるんですよ。
商業出版を出す人がここに申し込みいただくかどうかは分からないし、
お申し込みいただけないことが普通だろうと思いますが、
ゼロではなかったんですけどね。
ただ、商業書く人の場合、絶対初摺りで20万もらえないってことはない。
でも、あるんですよね。
かなり予算がカツカツの場合でも、かなりレアケースで、
30万もらえますよ。文庫でも。
今でも予算絞ってるケースもありますからね。一概には言えませんが。
でも、20万もらえると思うんですよね。
少なくとも損にはならない。
本は出ますからね。
これは紙だけの話をしているので、
年収書籍、今出すじゃないですか。ほぼ確実に。
その分は自分のものになっていくので、
商業は20万で出せれば損にはならないんですよ。
これは自信の問題になっちゃうんですけど、
自販が出れば確実に元は取れますから。20万出しても。
これは何を言っているかというと、
つまり、書いているプロセスというものに
ひとつの揺さぶりをかけるという考え方を持っていて、
ホテルに缶詰になって書くとかあるじゃないですか。
あれも無料でできないことですよね。
投資になっちゃうと思うんですよ。
そういう意味での投資としては、
ここはかなり書くことに役に立つので、悪くはないんじゃないかと。
ちょっとスランプ気味みたいな時に、
こういうのも考えられるという話になっちゃいますけどね。
そのスランプ気味なんだけど、
書けないということは当然問題になるわけです。
書き上げがテーマなぐらいですから、
誰もがすいすい書けるならば、
03:01
この塾自体がなくなっても良いことになっちゃいますから、
書けないという問題は、
随所に、随所にというか、そこかしこにありますよね。
それについては、
グッドワイブス的に色々あるんですが、
とはいえ、じゃあ書けるかというと、
必ずしもそうではないと。
タスクシュート的にも色々ありますよね。
ここから原稿が始まることになっているから、
そこに行き着くと違うことをやりだすという問題ですね。
先送りなどとも呼ばれていますし、
名称は先送りと言おうと言うまいと、
変わらないと思うんですけどね。
私が色々思うに、
原因は2つ、3つしかないとしか思うんですよ。
いっぱいあるようですけれども、
そんなにたくさんなるはずがないんですよ。
原因云々をする前に、
書き上げ塾ではノンプランライティングという、
まずどうしてこれなのかという話を先にしたいんですが、
ノンプランライティングというのは要するにあれ、
目次案だの、企画案だの、
そういうものを作ることで、
その場をしのごうとしないというふうに、
今私は解釈しています。
アウトライナーを書くとか、
別に書く分には構わないんですよ。
でもアウトライナーを書くことを、
書くことの代わりにし、
違うな、書けないことの代わりにしちゃ駄目だと思うんですね。
書けないからアウトラインをいじっていると、
書いた気になるみたいな、
そういうのは、
私はこのケースでは一番よろしくないと思うんですね。
逆の方向も同じで、
書けないときに、
記録とかに走ってはいけないと私は思うんですよ。
これのありうで書けないときに、
情報収集に走っても駄目だと思うんですね。
これらのことを書けないことの代替品にしてしまうと、
書けなくなっちゃうという気がします。
ここがややこしくてですね、
それで書けるならいいんですよ。
私はそう思うんですね。
クラゾン様の計画は趣味だと思えばいいという話もあったんですけど、
これはグッドワイブスのところなんですけどね。
別にそう思わなくてももちろんいいんですが、
要するに計画をするということに意義を、
グッドワイブス的に例えばですね、
意義を見出せなくなっても、
別に計画したっていいじゃないですか。
ラフ書きをしていけないわけじゃないように、
計画をすればいいんですよ。
こういう言われ方は釈然としないかもしれませんけれども、
私なんかはそうしてるんですね。
私はプランとか立てるときありますよ、
ラウドライナーで。
遊んでるわけです。
つまり記録とかも取るときもありますし、
ネタを集めることもありますよ。
使うわけじゃないし、見るわけでもないというだけのことで、
書くこととそれらは違うということですね。
06:00
つまりもうちょっと言うと、
クリエイトする代わりにですね、
それっぽいことを自分を時間軸の上に置いて、
未来軸についていじってみたり、
過去軸についていじってみたり、
記録をしてみても役に立つはずはないと私は思う。
ですが、だからといって、
それをしているうちに書けるという人までが、
それを放棄することもないと思うんですよ。
落書きしているうちにやる気が出てくるということはあり得るので、
その前に落書きを剥奪する意味は全然ないんですよ。
やったらいいわけです。
ただし書けないのに、
それをつまり書けないときに落書きをしておいて、
しかも書かないということをするのは、
良したほうがいいような気がするのと、
もっと良くないのは、
落書きするうちに書けるようになるだろうくらいに思っているくせに、
結局落書きだけして書かない。
これが一番僕は良くないと思うんですね。
つまり書けないときのライフハック術として、
アウトライナーを作るとか、
情報収集をするとか、
記録を残すとかは全部ダメだと思うんです。
役に立った場合はアリだと思います。
そこら辺はもう自分で決めていただくしかないと思うんですね。
で、何で書けないかなんですよ。
つまり、この何で書けないかを放置したまま、
アウトライナーを作ってみたり、
エヴァノートに記録を残していったりしたんじゃダメなんですよ。
何で書けないかが残っちゃってるからですね。
何で書けないかを、
アウトライナーを使わなくても突き止められるはずなんです。
一つには自分に自信がないからなんだけど、
もちろんというと自分とですね、
自分をグッドバイブスで言うと
弱いものと見出すってことなんですけども、
この場合はもうちょっと、
実筆者として、
自立できていないものと見出している。
だから、エヴァノートとかアウトライナーとかに
極力寄らないでほしいんですね。
あれですよ、
白紙に書くなってあるじゃないですか。
私、あれを今しめたいんですよね。
私、今、白紙にしか絶対書かないようにしているんです。
途中続きものであってもですね。
前のところを読むのは結構ですが、
書くときは白紙に書くと、
真っ白いところに向かうべきだと思っているんですね。
つまり、ちょっと添い沈むかもしれないんだけど、
だからそういうこともしなくても構いませんけど、
途中まで書いてあると書けるような気がするというのは、
ライターとしての自分がですね、
自立できていない感じがするんですよね。
なんか支えがいるみたいな。
やたらとその支えを用意するのは、
やっぱりあまり好ましくないような感じがするわけです。
アウトライナーも格好の支えになっちゃうんですよ。
09:00
あれを使っていると書ける気がするから。
マインドマップとか全部そういうものもそうです。
日記とかね。
一切見ない。
一切見ないことによって、
要するにあの感じなんですよね。
自転車のホジョリを外した直後の感じ。
自転車って乗れるようになったら
ホジョリにつけたいと思う人いないですよね。
それとよく似てるんですよ、このことは。
乗れないときはホジョリを外すなんてとんでもないですよね。
この2つってすごい楽さがあるじゃないですか。
でも誰が考えてもないほうが走りやすいんですよ。
走れるんだったら。
だから走れる自分が、
自分で痛いのかホジョリがないと走れないということは
自分でバランスは支えられないという話ですよね。
それと非常によく似てるんですよ。
自分で支えられないライターっていうのは
支えを必要としちゃう。
支えが必要だと思ううちにですね、
自分で支える能力というものを見失っていくんですよね。
でもそれはあるんですよ。
だから自分で支えるようになりましょうと。
単純にそういうことなんですね、1つには。
だからライターとして支えられる自分であるという状態を
見失わないためにも
ホジョがないという状態で
常に描き続けているのがいいと思うんです。
これが僕は描き上げ塾で割と
それまでそうじゃないかなと思ってたのが
きっとそうだと確信できるようになった1つですね。
で、もう1つは罪悪感です。
これは持つときもあれば持たないときもあるんだと思うんですが
持つときは非常に厳しいものになります。
つまりこれを描いただけで笑う人いませんから
これを見せたら笑われるんじゃないかですね。
これですね、やっぱり学校がいけなかったと思うんですよ。
今はかなり気をつけているようだけど
それでも怒るし、私たちの子が本当にひどかったんですよね。
作文を笑い者にする先生と
みんなで笑い者にするクラスみたいなのもあって
本当にあってですね、あんなことをやられればですね
描けなくなるんですよ。
これは日記云々、アウトライン云々とは
あんまりそのレベルとはだいぶ違って
単純にトラウマ感があるし
描いたものを見せるというのは
とにかく好意的に受け止められるとは限らないと思う。
それは当然限らないです。
当たり前ですよ。
だって日本は非常に良い方で
一歩間違えると
描いたものによって殺されるのが世の中じゃないですか。
物を描くということに対しては結構世の中は厳しくて
燃やすとかね、何とか収容所に連れて行かれるとか
描いたものによってそういうことが起こっちゃうわけですよね。
だからそういうことを考えてみれば
12:03
笑われるなんてすげえ良い方ですよ。
笑われるんで済むならばですね。
笑われるとかバッシングされるとか
良いと思うんですよ、そんなのは。
これはですね、そんな目にはいたくないと言われれば
その通りだと思うんで
まず一つには
自分で読むと
それはそれが一つの
罪悪感を持った時の甲斐だなと思うんですね。
自分で読むというのはですね
自分でOK出したって笑う人がいるんじゃダメじゃん
って思われるかもしれないけど
そこのところをよーく考えてほしいんですよね。
自分でOK出しても人が笑うのはダメなのかと
昔私、これは学生時代に
彼女がめちゃくちゃ欲しかったということと
非常に関係の深い病理なんですが
自分の顔がすっごい嫌になったことがあるんですね。
顔が嫌だから付き合わないと言われたことは
一回もないんですけどね。
顔のせいに僕がしちゃったんですよ。
あれはね、厳しいんですよ。
非常に厳しいです。
腫毛恐怖症って言うんですけれども
自分がこう、僕の場合気色悪い顔だ
っていう風に思ったんだけど
これがですね、もう外行けなくなりますよね。
まさかお面とかフードとか被って出たら
いっそやばい人になっちゃうじゃないですか。
もうなんかKKK感が出ちゃうじゃないですか。
あるいはジェイソンみたいになっちゃうので
どうしてもこれはですね、やっぱり
克服しないとまずいなと思ったんですよ。
その時、つくづく鏡で見て
これでいいと思う以外の選択肢がないんだ
っていうことが自分に
どう言うんですかね、了解できるようになったんですよね。
もうこれは俗に言う命がけに近くて
これだって了解しないと外出られなくなっちゃうんで
命がけ感があったんですよ。
こういう時に僕はグッドヴァイブスデイ
今やってることを思い出すんですよね。
ガッツって乗り切るとかいうのは
こういうことなんだよなと思うんですよ。
とにかくこのままだと飢え死ぬと
そうなっちゃうんですよ、あれは。
怖いことに。
外に出て買い物にも行けないから
フード被んないと。
それに近いことやってることはありますよ。
フード付きのトレーナーみたいに飲んで
瞼に被るってやつね。
でもああいうのはさっきの日記とかアウトラインと同じで
こじょりんなんですよね。
外に出るという自分を支えられないので
支えを必要とする。
それやっぱり究極的にフード被るしかないんですよね。
昔なんだっけな、友達だったり
松本太陽さんの漫画に箱被る男子出てくるんですよね。
あれと同じになっちゃうんですよ、本当に。
箱被る男子はなんかすげえ頭が良くて
IQとか呼ばれてましたけど
そんなにIQ高くても
箱被んないと外出られなくはなりたくないと思いません。
だからやっぱりこれは何かを犠牲にしてるんですよね。
15:03
今の展開の中だとガッツになっちゃうんだけど
分かってるんですよ、自分では。
しかし顔がダメだから振られてるんじゃないと
そういう経験はなかったわけですからね。
だから分かってる方の自分に寄っていくっていう感じなんですよ。
ガッツでない方法を取るならば。
その時にやっぱりつくづくやるべきだと僕は思うのは
僕はその時は自分の顔をよく見たんだけど
それと同じで自分の文章をよく読むことだと思います。
本当にそれは笑いものになるようなものなのか
まずいものなのか
だったら修正して出せばいいじゃないですか。
修正する能力は自分にあるじゃないですか。
ここなんですよね。
修正する能力プラス自分の表現する能力というものは
それ自体は笑われるようなものではないということが
了解できればですね。
そのことと笑うということは関係ないっていう風に
思えるようになります。
一朝一夕ではならないかもしれないんだけれども
徐々にはなっていきます。
自分でOKを出すということと
人がOKしてくれないということは
別のことなんですよね。
もちろん別のことなんだけど
別のことだと言われただけでは
納得できないじゃないですか。
なぜかそうなんですよね。
質問するとバカだと思われるとかいう
セミナー中で質問が出ない大きな要因が
いまだに私は残ってるなって思うんだけれども
私は質問するのは全然平気ですよ。
ただそういうふうにおっしゃる方の気持ちは
その場でどうにかこうにかできないなって思うことが
多いんですけれども
特にそれに人生かかってるみたいな雰囲気の人の場合も
特にそうですけれどもね。
ただそういうのは日頃から極力やめておいたほうが
いいと思うんですよ。
これは私の結局顔色をうかがわ派にして
話になっていくんですよね。
人のご機嫌が自分の心理状態の平安を決定するっていう
つまりグッドワイブスの平安と言われたときに
まず他人の顔色が浮かんじゃうっていうのが
一番僕はグッドワイブスから遠いと思うんですね。
他人によって自分がコントロールされるっていうことを
それは意味するじゃないですか。
みんながニコニコしていてくれれば平安だけど
みんなの顔の雰囲気がちょっとでも曇ると
もう全然平安になれないと。
つまり平安は全く他人次第であるって話になっていきますよね。
私これが一番グッドワイブスじゃないと
本当にこれは人生つらくすると思うんですよ。
だから自分の心の愛用は他人の機嫌と何の関係もないと言えれば
18:01
自分の出したものが笑われるかどうかによって
自分が本を出せるかどうかが決定されることは
ありえないはずなんですよね。
この話は多分もう一回ぐらいは回ってくると思うんですが
とにかくこの他人の顔をリトマス試験紙みたいにするっていうのを
日頃からどんな機会でもやっているかやってないかを
チェックする必要があると思うんです。
はっきり言ってアウトラインできっちりしてるから
だったらこれなら笑えないとかそういうのないじゃないですか。
だからこの話はノーブラウンとは何の関係もなくてですね。
いかに自分の心の愛用を最終的にはグッドバイブスであって
結局自分が幸せかどうかは環境とは関係がないってところまで
持っていかないとダメなんですけれども
今盛んに逆のことを言われてますよね。
環境次第で私の人生の価値は決まるって
平気でみんなポンポン言うじゃないですか。
あれはつまりこれは昔グッドバイブスの誤解だという話を
ぶっちゃけ相談にしたことなんですけど
置かれた場所で咲きなさいっていうのはダメだ
ナンセンスだっていう置かれた場所が地獄のようなところで
親は自分に辛くあたることばっかりしていて
そういう環境ではちゃんとできるはずがないし
幸せになれるはずないでしょうって話の展開と
同じ話をしているんだけれども
環境次第で自分の幸福幸が100%決まるかのように
考えるということはですね
自分じゃ絶対幸せになれないって言ってるようなもんなんで
この種の努力とはちょっと違うと思うんだけれども
自分の選択というものについての買いというものを
もしかするとゼロにしてしまう風に思えると思うんですよね。
ここでどっちかを選ぶのは書くのを選ぶ
書かないのを選ぶのは自分の選択ですよね。
そのようなことは環境に左右されるって話になってしまったら
実はすっごい大変なんだと思うんですよ。
例えば書けないとなった時に笑われるからだとか
その他様々な理由を持ち出して
つまり条件次第によって自分が書くか書かないかが
決定されてしまうという意味になってしまったら
はっきり言って私はタスクシュートなんてやる意味は
全くないと思うんですよね。
タスク管理もGTDも全てナンセンスですよね。
だって環境が全部その行為を決定するんだったら
そこに何か移動を行うと無意味じゃないですか。
書く時にはその環境がどういう環境か分からないわけですから。
だから環境が100%決定するかのような
振る舞いを自分に許しているっていうのは
やっぱりリスクがでかいと思うんです。
これで2点目ですよね。
もう1点がですね、これは直接
21:03
今の2点とはまたちょっとだいぶ違う話になっちゃうんですけど
直接関係ないんですけど、時間がないってやつですよね。
この時間がないというのはつまり
今の2点が大きな理由になっていると私は思うんだけれども
自信がないということ、書くことに罪悪感があるということ
この2つを混ぜ合わせるとですね、時間はなくなっていくんですよ。
このことがですね、また非常にあんまり
それで納得された顔を顔で決めてはいけないんだけど
してないなと思うんですが
朝起きる時、起きた時、顔を洗う時からずっとですね
何かしら気分の上でですね、昨日の話だとあれがいいですね
心の中の内在化した他人が危険なものになっている
この状態をずっと続けていることが
どれほど時間を奪っていくかという話なんですよ、これは。
これも他人と何の関係もないっていうところに行きつければ
自体は自動的に収束するはずです。
タスクシュートは一つ、これを実現するのの補助になってくるんですよ。
補助品なんですね。
心の中の他人である、結局自分なんですけど
要は自分のことなんですよね。
例えば自分の母親が嫌な顔をしますとか
自分の父親のイメージがよろしくありませんと
イメージですから、そいつは今頃パフェでも食ってますから
両親はパフェ食べないかもしれませんけど
とにかく心の中にいるものは外にはいませんからね
このイメージがですね、例えば布団から出られなくするわけですよ
布団の中にいる時は優しいお母さんなんだけど
出ると何かろくでもない奴がいるかもしれないじゃないですか
だから心地よくいつまでもこの布団の中にいたいんですよ
つまりどんな心のタシャンといたいかということが
自分の行動を消しやすいんですよね。
この間、時間を失っていくんですよ。
私たちは、私たちではない、精神分析では
意向対象とか意向機関と言いますけど
問題は意向なんですよ。
寝てるところから起きる時は意向しなきゃならないじゃないですか。
で、そういう子供のような話は
自分に関係ないと皆さん思っているらしいんだけど
例えばライファックを書く人は平気で
今のこの気力ではパソコンに電源を入れて
原稿を書くのにはとてもそういう気力はないと
部屋も書斎は寒いし
だけれども布団の中に入ってiPadを操作するんだったら
24:02
もう心地よくやれるからやりたい。
私はこれは内的母親対象の問題だとしか
言いたくないんですね、はっきり言って。
何と言ったって構いませんよ。
だけども、なんでお前は立って歩いて書斎に行けないと思っているんだと
言いたくなるわけですよ。
つまりこれは甘えの問題なんですよ。
どこにいれば自分が甘えられるかの問題になっちゃってるんですよ。
布団の中にいないと甘えられないっていう話をしてるんですよ。
甘えているからいけないって話を私はしてないんですよ。
書斎に行って甘えましょうねって話をむしろしてるんですね。
書斎に行くと甘えられなくなるんですっていうのが
私たちが自立してないっていう問題なんだと思うんですね。
部屋あったかくできるでしょう、自分で。
電源を入れて座ることは自分でできるじゃないですか。
赤ちゃんはそれができないんですよ。
だから母親は本当にいなきゃいけないんだけど
私たちの年齢であれば自分でやれるんですよ。
なぜなら自分の中に母親がいるからです。
自分の中の母親はこういう存在でありたいんですよね。
寝床にいるときは機能してるけど書斎に行くと機能しなくなっちゃいますというのは
ダメだと思うんですよね。
書斎、寝床にいるときはNをNSに変えられますと。
ニードをニーズに変えられますと。
寒さはあったかくするというニーズにしたいというのは
布団をはぐればいいですよね。
そして横たわったままiPadの操作をすると。
すごく天国のようなんだけど
寒い書斎に暖房椅を入れたりするのは地獄のようだっていうのは
おかしいじゃないですか。
こういう移行はできなくなるという状態を
自分の心理状態が時間を確実に減らしていくんだという
話をタスクシュート的にはするんですよね。
グッドバイブスでもしてます。
この3つを何とかしたいんですよ。
つまり1つ目は何だったか忘れたんだけど
2つ目から行こう。
2つ目は罪悪感でしたね。
罪悪感を意識せずに実行したいと。
3つ目は時間がないと。
これは移行がうまくいっていないという問題だと思うんですね。
だから移行するのに躊躇しなくなればですね。
これはわずかな時間だと思われてるんだと思うんですけど
移行するのにかかる時間が20分から1時間に達してると思ってます。
時間あっという間になくなりますよね。
この使い方をしていれば。
移行に20分から60分かけてたら
その時間があっという間になくなりますよね。
20分から60分かけてたら
その間2つ仕事を僕ならできるという印象ですから
移行をするだけですからね、それは。
1本の時間って寝て起きるっていう時間ですから
長いですよ、非常に。
27:00
長すぎるとか短すぎるとかいうのは意味がないんだけど
非常に長いと思います。
いずれにしても
簡単じゃないと言われてしまえば
アウトラインとか日記とかエヴァの音に逃げないと
書きかけの文章とかにも逃げないということですね。
この3つは結局
グッドライブスなんですけれども
1つには今ここなんですね。
解決するための1つの流れとして
結局そういうことになると思うんです。
もう1つは今ここなんだけど
同じように過去と未来というものから
どういう表現が一番いいですかね。
一線を隠しましょうということです。
私が1つ最近発見したことの中には
ご飯食べる時っていただきますってするじゃないですか。
しないかもしれませんが。
あれだなと思うんですね。
いただきますをするというのはどういうことかというと
あれなんか命をいただく云々の話されるんですけど
あれはやめたほうがいいと思うんですよね。
罪悪感を意識するじゃないですか。
やっぱりいただきますは感謝で持っていきたいですよね。
罪悪感。
罪悪感から払拭したいのに
わざわざ罪悪感を思い出すことはないと思うんですよ。
だから感謝の念だけでいいと思うんで
別に食べられることに感謝でも
作ってくれたことに感謝でも
なんでもいいと思うんですよ。
要は何が言いたいかというと
過去の行きがかりはどうであれ
これからは食事の時間ですってことですよ。
だから今ここだし
同時に過去の行きがかりから自由になる。
結局笑われるというのも
過去に笑われた話を先ほどしましたよね。
作文を先生とか友達に笑われた。
出なくても質問をしてバカだと思われるというのは
バカだと思ったことがあるか
そう思われたかどうかが
はっきり分かったことはないと思うんですけどね。
こいつなんでこんな質問したんだと
自分で思ったことがあるんでしょう。
だからそういう過去を思い出すんですよ。
そういう過去の行きがかりは
全部捨てることができれば
たぶん質問するときに
そんなことを思い出すことはなくなるんで
できると思うんですよね。
子供はできやすいとむしろ思うんですよ。
そういう時に。
もう一つが
時間がないも同じですよね。
要は移行するのが難しいというのは
過去に引きずられているわけですよ。
ずっとその状態でいたいという気持ちに。
次に向かえないという時には
やっぱり過去を一旦振りほどく
さっきは一線を隠すという表現を使いましたが
その辺りのことを意識していただくといいと思うんです。
30:02
切り替えるという形で
いただきますをするくらいな感じなんです。
切り替えるというか
切り替わらないのが問題なんで
手を合わせるみたいな
そういう感じですよね。
そうすることで
今ここは
こっちになったんだっていう
そういう感じです。
タスクシュートでもそれやるんですけどね。
だからいただきますをするというのと
記録をするというのは
この場合は似てるんですよね。
新しく開始時刻を入れますというものですね。
あれはだから
ある意味では
あれを忘れられるということは
いただきますを忘れるというのと
よく似ています。
なんかこう
切り替えの何かの合図を
そっちのけにして変えちゃうみたいな
そういう
いいんですよ。別にそうしても。
だけれども
そうしているうちに
過去を
しょったままずっと動き続けて
ついに動けなくなるというのは
いいことではないと思うんですよね。
だから
極力
今までの行きがかりみたいなものから
一旦自由になりましょうと
これさえできれば
描けないってことはないですから
行きがかりみたいなものですから結局
描いたものが笑われるとか
描いたものが笑われるとか
描いたものが笑われるとか
時間がなくなるとか
時間がなくなるって完全に行きがかりじゃないですか。
今あるんだったら
今描けばいいわけですよ。
時間がないというのは
常にあるタイミングにおいて
自分は描く気がしないということを
言い換えているので
基本的には行きがかり
いきさつの問題になっちゃっているわけです。
このいきさつの問題を
自分の中にわざわざ
作り出したくないからこそ
アウトラインを描くとか
記録をするという方法論は
避けた方がいいと思うんですよね。
それって未来の話か
過去の話をするじゃないですか。
つまり時間軸の話をしているじゃないですか。
これから描くことのアウトラインを作るとか
今までやってきたことの記録を
読み返すって話ですよ。
行きがかりをわざわざ
そこに再現させてしまいますよね。
再生させてしまう。
それを避けたいんですよ。
私が白紙のと言ったのは
空っぽの頭で描こうねっていうことなんです。
空っぽでは描けませんという話を
ここに持ち込まれるからこそ
描き上げ軸があるんです
というわけですよ。
あれはノープランライティングですからね。
ネタも情報収集も
アウトラインも
一切やらずに描き上げていくという。
描き上がって
全ての人が描き上げたわけじゃないかもしれないけど
描き上げた人は
もうすでに何人もいらっしゃるわけで
私もこの方法で描き上げているんで
この方法で描き上がるんですよ。
絶対に
補助輪なしには
33:01
描けないということは
ないはずなんですね。
補助輪なしに自転車が
乗れないということはないのと同じで
なので描けるはずなんですよ。
あとは
行きがかりを捨てて
描いてみるということを
やってみるってことですね。
たぶん
やったことがないというケースに
限りなく近いと思うんですよね。
よく読むじゃないですか。
リビングで
電話すると仕事が進むんだと
わざわざデスクトップパソコンに
電源を入れて
うんぬんするのは
ダメなんだと
あの話をしているうちは
僕はそれこそダメなんだと思うんですよ。
私絶対に本を書くときは
書斎でしか書かないぐらいです。
何かをしながら
iPadをつるつるやって
本を書けるなんて
到底信じられない。
つまりそれはですね
何かで
何かが来れば
それに自動的に
カチッと来るという幻想が
ほとんどオカルトでしかない
と思うんですよね。
昔よく流行ったんですよ。
何でしたかな。
なんとかリーダーとか
リーダーとかそういうやつなんですよね。
3とか色々出てましたけど
なんかこう
スワイプの操作を繰り返したり
スターをタップしていくと
いい感じに情報が
溜まっていくという
考え方なんだけど
そこから何かが
それこそインキュレーションというのかな
湧き上がってきて
自分が書くものが
自然と集まってきて
そこにちょちょっと編集すると
いい感じでアーティクルが上がってくる。
そういうもんではないんだと
僕は思うんですよね。
それじゃ本当に
オカルトになっちゃうと思うんですよ。
何か気がつくとですね
赤い機体と白い機体が混ざると
文章がボボって上がるみたいな
そういうニュアンスになっているじゃないですか。
そういうのも夢があっていいかもしれないけど
やっぱり書くときは書かないと書けないです。
35:09

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