グッドバイブス ミッドナイト楽座 by 倉園佳三
こんばんは、ただいま6月9日金曜日の午前2時27分です。 今日はですね、あの珍しくというのも変なんですけども、この番組にね、あのコメントというか感想が寄せられましてね。
これをちょっと最初に紹介したいと思うんですが、その前にですね、この私はそうですね、この情報インターネットを使った情報発信というのは、どのぐらいかな2002年ぐらいからね、やっていまして、もちろんその前はインターネット雑誌の編集をやってたんでね。
仕事自体が情報発信だったんだけども、これはあの紙のメディアだったんでね、このネットを使って、そして個人としてね、情報発信しだしたのが2002年ぐらいなんですよね。
で、それからもう多分ブログももう多分10個はやってるかなという感じがします。
最初の頃はね、なかなか続かなくて、で一つ、割とね、こう見ていただけたというかね、それなりのビュー数というのがあったそのブログでゾノスタイルっていうのがありましてね。
これはもうあの一つアクシデントで消えてしまったんですけども、もうこの世に存在しないんですけどね。
これはガジェット系とかクラウドサービスとかね、今で言うとライフハック系とかになるんだけどもね、私はあまりその自覚がなくて、自分が好きなハードウェアとかね、それからサービスみたいなものを紹介していたんですが、こういうブログをやってたし、
あとグッドバイブスのね、ブログももう300以上書いてるし、今でもその、まあこちらは有料なんでね、ノートの今日のグッドバイブスとかね、あと最近新連載で始めたザ・ギフト、そしてこのポッドキャスト番組ね、あとはYouTubeもまあそれなりにやったし、
あのバンドのライブみたいなのもね、結構な数上げてたんですが、でまあこれにソーシャルメディアの投稿とか、いろんな情報発信がありますよね。で、どれも例外なくですね、まずコメントがつかないという特徴があるんですよ。
なんていうのかな、もう一言でシンプルに言うと絡みにくいんでしょうね、きっとね。なんかこのコメントしにくい感じというのがあって、それでもね、あのフェイスブックとかは時たまね、あのポツポツとコメントをくださる方はいらっしゃるんだけども、まあそれでも月に1回あるかないかみたいな、そんな感じなんですよ。もうこれは私は自覚していましてね。
まあ多分私の何か、何かがコメントしにくい雰囲気をね、かもし出しているんでしょう。まあ時々気になってね、何を改善すればいいのかなとか、あのちょっとこう考えたくなる時もなくはないんですけどもね、まあでももう多分変わらないだろうと思っていて。
そもそもあのグッドワイフスファクトリーというね、いわゆるオンラインコミュニティにしてもですよ、私の投稿に余ずコメントがつくことはないのでね。
このコミュニティの運営をしている立場でね、コミュニティに情報発信をしておきながら、そのまるで反応がない人がですね、この一般のなんていうのかな、この平場、平場のコミュニティっていうかソーシャルメディアとかね、この情報発信でコメントがつくはずがないっていう。
まあここはもうなんか開き直ってるっていうほどのことではなくて、まあ仕方ないなと、俺というのはそういうものなんだろうなという感じでいるんですけどもね。
だからこういうふうにコメントがね、一つでも来ると、もうちょっとこう、何ていうのか、もういい気になってここで読み上げたくなるというかね、レアケース、レアケースなんですよね。
今この話をして思い出したんですけど、そのゾのスタイルにはね、まあ結構いいコメントもいくつかあったんですけどもね、ほんとポツポツで、今でも覚えてるのが2つあって、最初ね、デスマス調じゃなくてね、何とかなので何とかだよねみたいな、こういうラフな感じで書いてたんですよ。
そしたら、タメ口うぜんだよっていうコメントが一つつきましたね。
それからデスマス調に変えて、そのね、そのコメントでちょっとショックを受けてね、そうなんだ、タメ口うぜんだとか思って。
まあというのも、その情報をね、見に来てくださる読者なんですよね。
おそらくその方たちはね。
だから来てくれていて、で、この情報を読みたいのにそのこのタメ口気になって、もうなんか集中できないよみたいな、そういうのであればね、別に僕はタメ口にこだわってたわけじゃないんで。
そりゃ申し訳なかったなっていうかね、なんつーのか、このお店対そのお客さんみたいな感じでね、ちょっと椅子硬くない?みたいな。
わかりましたってクッション引くみたいな、そんな感じ。
そんな感じでタメ口やめたんですよ。
したらその後デスマスに変えた後に結構ね、この私このポッドキャスでもほとんども何とかですよね、何とかですよねってこう念をつけるね、そういう癖があって。
あのリスンとか読んでても、あのこのポッドキャストなんつーの文字起こししてくれるサービスでね、リスンというのに登録してるんですけども、文字読んでももう大体何とかですよね、何とかですよねって言ってるんですよ。
で、これをあの文章でそのように書いてた時期があるんですね。
このタメ口期、初期のタメ口期の後に第2期デスプラスネの時期があって、したらもう即座にね、あのすいませんって今度は丁寧だったんですよね、タメ口ウゼンだよみたいな感じじゃなくて。
大変申し訳ないのですが、私はこの倉園さんの園スタイルをいつも楽しみに配読させていただいております。
ただ一つだけネが気になって気になって仕方ないんです。
申し訳ありませんがこのネをもう少し減らしていただけないでしょうかっていうコメントが来たんですよね。
だからもうそっから先はもうほとんどネはもう一切封印しましたね。
封印しましたねなんですけど。
で、変な話ですけど、書き上げ塾でもネはあまり使わない方がいいですよみたいな。
これは私がそのように指摘されたのでね。
ネっていうのは文章に使うと相当ある種の印象が湧くんですよね。
ネと言ったんで喋りにもちょっと意識がいきましたけども。
そんな感じでちょっと前書き長くなりましたが、そんな私のコメントが少ないやり取り、ほとんど双方向にならない。
おそらくこれはですね、いわゆるソーシャルメディアマーケティングとかしている方にとっては相当良くないやり方。
グラソノさんそれはまずいですよ。
それからまあまあ下手くそみたいな感じかな。
あのやっぱちょっと下手くそですねみたいなそういうことになるんだろうけども。
私はですねここをもう今更あの投稿するつもりは全くないのでね。
もう慣れていますからねコメントは来ないというんで全然いいのでこのまま行こうとは思うんですが、
あの来たものに関してはねやっぱりちょっとこう読ませていただこうかなと思います。
一昨日グラゾノさんのポッドキャストをBGMに残業しました。
終わる終わらないの答えを持たないようにすると残業にすっと取り掛かりました。
レポートを書きながら時間かけてるなと思いました。
しかし視点を忘れて過ごす視点というのは始まりの点ですね。
視点を忘れて過ごすとポッドキャストから流れてきます。
耳を傾けているうちに今はどれだけかけてもいいんだったと自分を責めなくなっていました。
一つレポートが終わった時聞きながらやったから思っていた以上に時間が経ってたなとがっかりしかけました。
でもちょうどポッドキャストから終わったことを忘れて暮らすやら過去を自分の価値と見るのをやめると流れてきます。
聞いているうちにまた自分を責めることを忘れていました。
その結果初めて全く疲れを感じない残業になりました。
本日も頑張って終わったことは忘れるを実践しながら仕事に向かっております。
本当にありがとうございます。
こういうお便りだったんですね。こちらこそ本当にありがとうございますですよ。
嬉しいですよね。お役に立ててよかったなというそういう感じ。
今日はここから始めたいんですね。
これはつまり何かというと簡単に言うとこの支点を忘れて過ごすというのは支点について考えないということですよね。
時間かけてるなと思った時にあれこれいつから始めたんだっけというこれは考えの中に僕らは保存しているわけだからこの始まりの点を考えない。
そして思った以上に時間経ってたなとがっかりしかけたんだけどこの終わったことを忘れて暮らすこの過去を自分の価値と見るのをやめるつまりこれは終わったことについて考えないってことですよね。
この考えないということによってなんと全く疲れを感じない残業になったわけですね。
このお便りによると一瞬考えかけてそしておっととってたまたま僕の番組でそういうメッセージがいいタイミングで流れてきておっととってやめようって考えを手放したってことなんですよね。
だからここにはとても大きな僕がお伝えしたい大きな答えがここにあるということなんですよね。
ここにあげていただいているお話は多分この最近の5話ぐらいのねちょっとまとめてこのgood vibesの本質に迫るようなお話をしたその内容なんですけどもね。
でも面白いことになんかこの話をまあいろんなことでこう複雑にねお話をしたんだけども複雑じゃないかな。
ちょっとこうややこしい話同じかなまあいいやそれをお話したらこの考えないというね原点のところこの考えないはgood vibesの取り組みとしては本当に第一歩なんですね。
ここに戻ってくるというこれがなんか僕がいつもこのイメージしている螺旋階段のような同じとこをぐるぐる回る回りながらねもう一度その原点に戻りながらおそっかそっかつまり考えないということなんだなっていう風に。
このいろいろに複雑に絡み合った話をシンプルに戻すっていうねこれが重要なんですよね。
でもこの考えないければいいんだそっかって言ってこれを取り組んでいるといつしかそのなぜ考えない方がいいのかなっていうことを忘れてしまうんですよ。
僕らはそのまあこれが今日のテーマなんですけどもね考えるということをすごく頼りにしながら生きてきてますから。
ついついこのもともとの習慣の方にグーッと引き戻っていくんですね。
これはよく私はその利き腕を変えるのに似てるっていう風に例えるんだけどね。
まあ職場のようなちょっとソーシャルな場であろうとね私がどんな行動をするか私がどんな発言をするかね。
これをなんていうのかな気の向くまま気の赴くままに自由自在にしてる人ってのはまずいないと思うんですよね。
これはしっかりと見張っておいていやいやここでこういう発言はないでしょうとかいやここでこの行動しちゃダメだよねみたいなことをね。
やっぱそれなりにこう自制するというのかな自重するというかやってるはずですよね。
今特にねこの空気を読めようみたいな時代ですから多分ここには相当みんな慎重になってるはずなんですよね。
じゃあ一方でこの自分の考えはどうだっていうねこれをちょっと振り返ってみるとおそらくほとんどこの注意を払わないでね野放しにしてるはずなんですよ。
なぜならばこの発言や行動というのは即座に結果を生みますよね。
私がこの発言をしたから皆さんがこんなことを感じてこんな風に取る受け取るとかねこの行動を見た人たちがなんだかのその僕を僕の僕に対して感じたりその判断したりするわけだから結果を生むわけですね。
なんかこいつムカつくなとかこいつ嫌な奴だなとかって思われるとかね失礼じゃないかみたいな結果が生まれるわけですよ発言や行動にはね。
でも一方の考えはそのように形として外に現れませんからね悟りみたいな人でもいない限り僕が何を考えているかバレないのでまさに誰にも見られず形として外にも現れないという理由でねこの考えは僕らは野放しにしてるんですよね。
でもここがここがその最初の一歩なんですよそんなことはないと考えほど僕らの人生にね多大な影響を与えるものはないという風に認識しておくことが大切なんですね。
これはもう僕はそうだな発言とか行動以上にねこの自分の考えというのを野放しにしてはいけないなというふうに思います。
なぜならばものすごい力を持っているからなんですねこの考えというのはねもちろん誰にも見られないし形にも現れないんだけども僕らの人生に自分の人生にものすごい多大な影響を与える力を持っているんです。
例えばこれはこの番組でもねよくお話しするんだけど僕らの考えはこの目や耳というねいわゆる五感ですね感じるものこのインプット装置か外の下界を捉えてくるこの装置ここに対象をこのように捉えなさいという風な指令を与えるんですね。
これはなかなかその自覚しにくいんですけどもえっとどのように見えるかっていうね。
最もわかりやすい例で言うとすごいやっぱり職場で揉めてね。
まあもしくはすごい説教されたとかね。
もしくはすごくダンツーが激しい議論をしてね。
まあすごい気取った感じこの後に行く飲み会の風景がどう見えるかってことですよね。
反対になんかすごく活躍して表彰化なんかされて社長賞かなんかもらって賞金100万円ですみたいなその直後にちょっとそのお祝い行こうよって言ったこの飲み会と全く同じ場所で同じメンバーであったとしても僕らは違う景色を見てるはずなんですね。
これが考えが僕らの五感に影響を与えているっていうことですね。
影響を与えるって言うよりも自分の考えている今こうだよななんかこう落ち込んでるような今つまんないよなというこの考え。
今の世の中というのはこの頭の良さという価値にかなり偏っていますよね。
人の価値というのは頭がいいというもしくはこれともう一つね運動神経というのがあるんだけどもこれは一部のやっぱりそのパフォーマンスとかスポーツの世界だけに限られていてね。
多くの場合はやっぱりこの頭の良さなんですよ。
僕らがおそらくその人を測るね人を測る確かな基準というのをやっぱりまだ持っていないんですね。
ここがとても僕はまだまだ発展途上なんだと思います。
そんなにね例えばねその採用にしても一人一人のねパーソナリティを細かく見ていく時間はないそんなコストもかけられない。
だとしたら手っ取り早くこの人大丈夫だよねってわかるそのなんだろう判断基準ってなんだろうって言った時に頭がいいっていうところにやっぱり行ってしまうんですよね。
そうすると試験みたいなテストみたいなことでなんとなくもしくは学歴からもうすでに終わっている試験というかなその人が通り抜けてきた様々なその試験の結果みたいなことで測るっていうのは一つのね。
まあそれなりにそんなに外さない基準ではあるんだけどもねでもやっぱり僕は編集編長をしているというかね偏っているなぁとは思います。
そうするとやっぱりこの頭の良さというのは考えるということなので余計に僕らはねえっとここを自分の価値と見た瞬間に考えるというのは非常に大きな武器なんだというふうにみなしてしまいますからやっぱりこの考えということに偏っていくんだよね。
でもこの考えは今言ったようなものすごくその僕らの人生に負の影響を与える力を持っている。
じゃあどうするんだってことなんですよね。
そこで私はですねもうこの考えをどうこうするというこれをやめた方がいいなと思ってるんですね。
考えている限り多分この状態からは抜け出せないんですよ。
例えば面白いことにねこのねグッドバイブスという話私がしているこの話これもグッドバイブスという正しさを作り出すんですね考えというのはね。
例えばねまさに今日の話その考えが怒りを生み出すんだっていうね。
なるほどってこういうふうに思って。
日々生きていると怒っている人が隣に見えるわけですよね。
そうするとああこの人そうやって考えながら自分で怒りを作り出してるんだよなそれを周りのせいにしてんだよなと言って怒るみたいなことですね。
ぐるぐる回ってるわけですよ。
考えるとその考えが自分に怒りをもたらすというこの考えを持ちながらね。
それをまあある種の正しさのように持ちながらほらだからあいつはそうやって考えて怒ってるんだよくだらねえなと言って怒るというこのループにはまっていくというね不思議なものなんですよね。
だからこういう話もねやっぱりこの頭で理解して最初頭で理解するってのはもうこのプロセスだししょうがないんだけども。
そこから先はねやっぱりさっき言ったようなワークのようなねシンプルな形にしてこの考えは力を持っているあそっかって気づいてねすっと手放すみたいな風にしないとここをここを考えながら考えながら取り組もうとするとそのこの取り組みを考えることによって怒りが生み出されるとかね。
この取り組みを考えることによって罪悪感を持ってしまうみたいなえっと真逆の方向にはまっていくんですよ。
本当のことを知らないのにどうして考えられるんだろうというところに立ち返るわけね。
でもここでやっぱりさっき言ったようなこの頭の良さみたいな価値に変調しているこの時代はいやいや知ってないことなんてないよとずいぶん勉強してきたもんといろんなことを学んできたんだもん。
だから僕は本当のことを知ってるよと思いたいんだけどもえっとそうそんなに実は単純じゃないんですよね。
この世界で起こることはねそもそもこの自分の考えが自分にね怒りやその恐れをもたらしているということすら本当は気づかずに過ごしていたりもしますからね。
そして面白いことにねさっき言ったようなまあいろんな正しさ自分でねこう身につけたり本を読んだり学んだりしたその正しさこれが実はその怒りの原因だったりもするわけですよ。
なんで他の人たちはこの正しさに沿ってないんだろうみたいなね。
じゃあどうすればいいんだわからないんですよ。
そして多くの場合さっき言ったねで私はどうなるのっていうことを気になるんだけどもこれは基本的には未来のことですよね。
わからないんですよ。
そしていつも言うようにこの因果関係ものすごく複雑いつになったらこの結果が出るんだみたいなこともわからない。
でもこれを僕らはねやっぱりいろいろいろいろいろ考えようとするこれをやっぱりねいやいや本当のことがわからない。
僕は知らないんだから考えても意味がないよね。
考えるとさっき言ったような力を発揮して僕を苦しめるよねってところで受け入れる方がね私はいいんじゃないかなと思ってるわけですね。
そしてもしね私がそのいわゆる本当のことはわからないではなくて本当のことを知っている存在であるならばねここに一つ条件がやっぱりあると思うんですよ。
もし私が本当のことを知っているんだあれば私の考えはねさっき挙げたね平安か怒りか愛か恐れかのどちらかだろうと言ったときにこれが平安もしくは愛かねこのどちらかであれば私はおそらく本当のことをすべて知っているんだっていう風にね認識してもいいと思います。
そうでなくてこのいかにとね恐れが出てくるんであれば多分僕は本当のことを知らないんですよね。
じゃあどうするかねえっとここからが2つ目のワークになるんですけどもえっと僕らの中にねさっき言ったこの考えることで作り出した偽りの自分というのは基本的にはこれは幻の自分。
そうではなくてもう一人このねもう一人というかこのもう一人じゃなくてもともと一人なんですけども僕らの中に一つ意識の方が現実と知るね本来の自分がいるんですね。
いつも2人の自分がいると言ってるんだけどもえっと2人の自分はいないんですね本来の自分が私であるだけでもそこに考えることによって生み出した偽りの自分がまあこう幻影のように私を乗っ取っているそんな感じかな。
これはえっともう一人ではないんですよねいない自分ですからねまあでもこれが普段私たちをね支配しているというかコントロールしている自分にまあ成り変わっているここがまあ問題なんですけどもねこの本来の自分はえっとさっきのお話と全く全てがひっくり返るわけですね。
この自分はえっと考えによって生み出された自分ではない。
そもそもまさに宇宙の森羅万象の広がる想像によって生まれた実在の私なんですよ。
この私はただ私である私なのでえっとさっき言ったようなね孤立したがとかね孤独ながとみたいなことを考える必要はないんですね。
この偽りの自分というのは私というものをいつも考えていないと存在できないわけですよ。
なぜならば考えることによって生み出された自分だからね。
だからずっと考えているというこの自分を存続させる必要がある考えによってね。
そうではなくてこの本来の自分は全くそんなものをする必要がなくここにあるんですよただあるんですよ。
これをなんていうのかな一度もう一度感じ直してみることが重要なんですね。
私は何も考えなくとも私として今ここに存在しているよねっていうこの感覚ですね。
ただ私である私というのをこう一度感じ直す必要がある。
木が生えてるね。
花が咲いてるね。
雲が流れてるね。
今日あたりはちょっと天気が悪そうなので雨が降ってるねみたいなことになるのかな。
それを一つ一つ眺める中でこれを今どうしなきゃならないっていうことがあるかなっていう風に眺めてみるんですね。
あ、ダメだこいつ言っちゃダメだってプチッとこの映像の中で潰さなきゃいけないとかね。
多分ないはずなんですよ。
ここに自分というさっき言ったねこの孤立してるがみたいなのをドンと登場させるとそれで私はどうなるのっていうこの世界に対してねこの答えを知りたくなる。
だからそいつを少し引っ込めておいてただただこの見えているこの世界が見えているよ。
でもこの中に私は今ボンとそのね人という形で存在してはいないよね。
でも私はこれを見ているこの私はここにあるよねというこの感覚の中で世界を眺めるとねプチって潰したりこのこっからこいつを排除しなきゃいけないとかねこの景色をこう変えなきゃいけないみたいなことは全く感じずにただ眺めていることができるんですよ。
これが本来の自分。
この感覚をなんとなく一度ねまず味はそしてこの後この自分にあらゆることを聞くということをやってみるんですね。
まあ目を閉じて頭のおしゃべりを止めるんですね。
そして今自分が判断しようとしていること自分が決めようとしていることを1回白紙に戻すんです。
これは違うとこれは偽りの自分ね孤立しているがみたいなものが私はどうなるのという前提のもとに考え出した答えだとこれはこの世界でうまくいく答えではない。
それどころか自分に様々な不の影響をもたらす力を持っている。
こいつを少し1回どけてみようと。
そしてさっきね私はただあるただ私である私というのがいたよねと。
こいつはおそらく何もこのままでいいそのままでいいあらゆるものをそのように見る自分であるからこの自分はきっと本当の答えを知っているよねというふうに信頼して。
まるまるについてさっきまるまるに入れましたよね。
仕事が終わらないというこれについて答えを教えてほしいというふうにこのただ私である私に問うわけですね。
本来の自分この習慣をつけるということです。
でこの時にこれをまた難しく考えようとしてはダメです。
例えばね本当にそんなものがいるのかとかねこれはさっき感じたはずなんですよ。
私というこの主体がねえっとはっきりとこのなんつーかな体としてこの世界に存在していないような感覚で世界を見ることができるとこの意識はしっかりとあるよね。
目をつぶっても消えなかったよね。
そして目を開けるといろんな世界が映っている。
でもこれをねそこに私は登場していないただただこの意識のようなもので眺めながら。
映画の映画みたいだよねこの景色はって言って眺めているとここに何の一文もつけずに済むんだっていうような自分がいる。
これは感じることができるわけですね。
だからでもでもでもこのなんつーのかなこの話を聞くとやはり難しく考えたくなるわけですよ。
それはどこにいるんだとかね本当に答えてくれるのかとかねどのようにすればえっとその答えが聞けるんだろうかみたいなことをやっぱり質問したくなるわけですね。
ノウハウハウツーを聞きたくなるわけそれは知らない自分がえっとと問いを立てているということね。
その自分はただある私なのでえっと皆さんの中にいるんですよ。
そしているからそのように生きていられるし今日までねえっとただあり続けていたんですね。
だからこの問いこの質問どうすればいいどうやればできるみたいなこのノウハウを質問したくなるというのは。
まさにこの考えというものに絶大なね信頼を置いているこの孤立したが偽りの自分の抵抗だと思ってください。
これを考えれば考えるほどこのただ私である私に答えを聞くというのはできなくなりますね。
いくら待っても答えは降りてこないじゃんみたいなねそんな感じになる。
だからこれはですねえっと何も考えずにただ私である私はここにいますからね。
この私は考え考えによって作り出された私でもないね。
そしてこれはおそらくこの宇宙の森羅万象と一つである一つ意識を現実だと分かっている自分。
つまり本当のことを知っている自分なんですね。
これに答えを聞いてみるということです。
○○についての答えを教えてほしい。
これが考える代わりにやること考えるという習慣の代わりに。
3匹腕を右右から左に変えるように新しく習慣づけることなんじゃないかなと思います。
これが冒頭の考える力を持った考えから僕らが解き放れ解き放たれ。
そして何も知らない本当のことを知らないこの偽りの自分の答えに翻弄される代わりに最適最善。
そして必ずその平安と愛というかそちらをもたらしてくる答えになるんじゃないかなというふうに思います。
よかったらやってみてください。