タイトル決定の難しさ
おはようございます。 佐々木正悟のライフハックからの精神分析第1288回をお送りします。
12月3日水曜日8時10分です。 今日はライブ放送をやめました。
理由は非常に簡単でして、何も考えつかないのでタイトルコールができないなっていう。タイトルコールって内容は1288回目のこのタイトルを何にするのかが全然決まらないのでやめました。
別にいいんですけど、先にタイトルを決める仕様になっちゃってるんで、これから何を喋るかについては分かっているという前提で喋らないといけないんだけど、それがさっぱりわからないのでしょうがない。
ライブにしても全く問題ないんですけど、結局喋ること何も変わらないと思うんだけど、タイトルがつけられないというね。
それを理由にしてこれは取ってから出すという形にすることにしようと。
タイトルを先に決めなきゃならない仕様って本当に難しいと思うんですよね。昔からエディターで話題になる話ですよね。
ワードとかでもいいんだけど、無題になっちゃったりするじゃないですか。名前をつけて保存とか言ったって名前がないんだよっていう。
私はタイムスタンプ入れるんですけどね。今日の日付と時刻。それは絶対に被ることはないし、この辺の日に書いたことだよなっていうのはあるんで、とりあえずまずは日付にしておいて後で名前変えると。
非常に手間感ありますよね。やっぱり今のGPTとかみたいに最初から勝手にタイトル決めといてくれればあれ変えられないのはさすがにちょっとどうかと思うんだけど、とりあえず決めといてくれればいいと思うんですよ。
コンピューターなんだから。なんか考えておいてくれよっていう感じがします。タイトルなんてですね。それっぽいやつをつけておいてくれればいいのにと。
これもそうなんですよね。喋ってるうちにタイトルを勝手にAIがいずれ考えてくれるようになると思うんだけど、とりあえず私が考えるっていうのは非常に僕にとってはですね、一つの余計な負荷になっちゃっていて、それが理由でこの収録の仕方が変わるぐらいの負荷にはなっているんで、絶対やめてほしいわけですよね。
カウンセリングの重要性
タイトル考えるだけで時間がどんどん経過していくのがあまりにもバカバカしいというか、全くそのことに私は前向きになれていないのに、それをただ要求されているうちに寝ちゃいたくなっちゃうんで、これを取った後寝ることが多いんですよね。
もうそういう感じです。お知らせはあんまり残念ながら今はないんですけれども、3ヶ月チャレンジも12期過強に入ってきましたし、100日チャレンジも12期スタートいたしまして、ワンオーワンオーお一人お一人お一人、私は今進めている伐採中で、今日もあり明日もありという感じなんですけど、
これはですね、やってよかったかなって思っているんで、私だけがそう思っている可能性もないわけじゃないんだけど、とりあえず第1期もこの何らかの形でこれは残そうというふうに思いました。
2回目と1回目ではね、1回目とりあえず経験してみたいっていうのと2回目やってみたいかどうかは全然違うんですけど、2回目で激減したら中止にしますけれども、とりあえずはやってみようかなというふうには思っております。
で、100日チャレンジ第12期、3ヶ月チャレンジも第12期はちょっと紛らわしいなとは思うんですけど、今となってはちょっとしょうがないんでね、同じような時に同じようなこと、全然違うんですけど、タイトルだけはやたら似たものを始めちゃったんで、
まあちょっと100チャレが先なんで、ちょっとそこは申し訳ないなと思ってはいるんですけれども、でもだからといって今更このタイトルを変えるには3ヶ月チャレンジはチャレンジで、それなりにここに意味を認めてしまいましたからね、3ヶ月であることには大きな意味があると思うのと、チャレンジといえばチャレンジだよなと、何にチャレンジしてるんだってちょっとややこしいんですけどね。
まあそのあれですね、心に向かうということですね。
でこの心に向かうなんですけど、この辺から本題かな、心に向かうというタイトルでもよかったな。
あの、遠畑海斗さんのカウンセリングとは何かな、あの図をね、あの本やっぱあの図が秀逸なんだなって最近思います。
とはいえあの図はフロイドの図が横になっちゃってるんですよね。横にしたのは一つのエポックなのかもしれませんけど、横になってしまうとね、外界が右方に展開するってことになるんですよね。
別に外界が右方に展開してもいいんだけど、外界が右方に展開する、じゃあ左方は何なのって感じ。内界なんですけど、左が内界で右が現実って必然性が何もないじゃないですか。
なんかちょっと引っかかるものは感じますよね。やっぱり私たちにとって現実は情報にあると思うんですよね。
なぜならば、やっぱりあのフロイドの心の図というものはですね、母子関係がメタファーに入ってるわけですよ、なんだかんだ。つまり立ってるのは赤ちゃんというか幼児なんですよ。幼児にとって世界とは情報にあるものじゃないですか。
やっぱり右方にあるので右側に世界がありますって、なんかちょっと現実としてどうかと思うんですよね。情報に上の方に世界が展開し、心はやっぱり自分の中だから下の方にあるわけですよね。
特に下半身ですよね。えっと、だってやっぱり私たち二三歳児の時って多分に下半身か口周りか、だから肛胃か肛門かということはそういうことなんだけど、しか意識してないぐらいだと思うんですよ。
食べる、飲む、おっぱい飲む、泣く、全て口でやることですよね。一方でやっぱりトイレトレーニングが子供にとっては重要ですよね。おむつ締めてるわけですからね。
だからやっぱり下方に心があり、上の方に世界がある。そして上には自分を押さえつけてくる親という、そして自分の面倒を見てくれる親という、自分が大好きな親という、自分が腹が立って仕方がない親という、全部上にいるわけですよね。
この上にいるってこと自体が象徴的だし、非常にこうある意味煩わしいことじゃないですか。自分は上の方に手も届かない、上の方に強い人がみんないて、上から押さえつけてきて、上に抱っこしてくれて、そういうことなんだと思うんですよね。
だから世界は上にあるわけですよね。決して右にあるわけ。右なら右に行けばすぐ話なわけで、行けないっていうのが天上界というものの、まあ雲上人とか天上人とか言ったりしてますけど、子分でも、行けないっていう、だから我々はやっぱり空の彼方に憧れちゃうわけじゃないですか。海の彼方に憧れる人もいるんですけど。
私結構ドラえもん見てね、あのドラえもんってやっぱ、何ていうのかな、昔の人が偉かったのか藤子富城さんがやっぱり大人だったのか、子供向けの話なのにやたらと地底人が出てくるんですよね、あの話。いやータケコプターでしょう、やっぱりって。私なんかは思っちゃいますけどね。なんか地底に何かがいてもそれはろくな感じがしないじゃないですか。
なんて地底っていうのはやっぱりうんこが落ちていくところですからね。地底人ピンとこんなっていう感じがするんですよね。情報にはやっぱりいいものがあるから、やっぱりタケコプターで空を飛びたいわけですよね。空を自由に飛びたいわけですよ。それは大人になりたいということでもあると思うんですよね。
今日は少しいい話みたいになっちゃってますけど、別に何を考えてるわけでもないんですけど、何の話かと、あれを横に転がしたのはまあ確かに秀逸なんですよ。それをすることに何ができるかというと、やっぱり大人の世界が始まるんですよね。右側に世界が展開するというのはそっちにホイホイ行ける大人の感覚なんだと思う。つまりカウンセリングが結構大人向けなんですよね。
昨日のあまりポッドキャストは聞かれておりませんけれども、10名とSTIFEで、10ってなんかもうヤバい人じゃないですか。1200回もやってて、10っていうのはどうなのかと。STIFEだけでも200ぐらいやってるはずなので、10ですからね。ヤバいですよね。反省せずにやっていくわけですけどね、こういうところはね。
1000回ぐらいで悩んでちゃダメだなって思うんですよね。やっぱり5000回ぐらい行っても10なら悩む必要があると思うんだけど、1000回ぐらいで悩めてもしょうがないかなと。私は決してそんなに超有名人というわけじゃないわけですからね。
で、無法に展開すると。何が無法なのかというと現実なんだけど、そこで現代のカウンセリングのあそこには特徴が全部大体書いてあるんですよ。それが素晴らしいんだと思うんです。心と現実の接点、つまり我々からすれば、例えば会社、例えば電車、現実に出ていくとき、心というものが動き出す。
そして電車に乗るのが辛いんです。会社に行くのが辛いんですっていうのをカウンセラーにお話しする。つまり接触面について我々はカウンセラーにお話しする。接触面があるということは接触できるということですよ。
タケコプターは我々持ってないじゃないですか。空は自由に飛べないじゃないですか。空と私たちは接触しないわけじゃないですか。憧れるのが精一杯ですね。憧れって心を反映してますからね。空に行くことはできないんで。我々が行けるのは会社とか電車とかそういうところなわけですよ。そこはいつも悩みの種になってるわけですね。
心に向かうチャレンジ
だからそれについての話をすると、そこに接触面があると。これが認知行動両方の世界ですよね。まずは行動ですよ、行動。電車に乗れませんとか、動くものに乗るのが怖いんですとなったら、あるいは朝、会社に行くのが辛いんですとなったら、これはすべて行動ですよね。
我々の時代はまず行動に焦点を当てます。従って心に、さっき心に向かいたいねっていう話をしたじゃないですか。3カ月チャレンジはここにこだわるわけですよ。異常にこだわるわけですよ。心に向かいましょうと。行動に向かっちゃうのやめましょうと。行動に向かうのはタスクシュートとかでいいんですよ。私の世界ではね。
だって私はタスクシュート協会の理事なんで、行動に向かうって言うんだったらタスクシュート使ってくださいよってことになって、7万運営もする3カ月チャレンジ。しかも3カ月もいらんわけですよ。1週間で十分。マスター講座だって1週間なんてある意味8時間かな、あれはな。長いけど。でもタスクシュートのマスター講座でさえ1日2日でいけるわけですよ。
ベーシック講座もあるからね。それだったら1日でいけるわけじゃないですか。タスクシュートのベーシックやるんだったら1日でいけるわけですよ。行動の問題だと本当に言うならば私はそれでいいと思うんですね。でも怖いんですってなったら会社って怖いわけじゃないじゃないですか。まして朝起きるのが怖いってことはないはずで。怖いってのは心の問題だからやっぱりそれは心に向かうべき話であって行動に向かうべき話では本当はないと思うんですね。
わかりますよ。その行動が怖いからその行動を克服する。克服しないまでも工夫してうまいことを電車に乗れるようになり、うまいこと会社に行けるようになるのがいいっていう話をしているわけですよね。そうすることによって現実の悩みっていうのは行動で解決できるならば現実の悩みも解決できるでしょうという話じゃないですか。話としてはね。話としてはわかる。
だからそれでもうまくいくんだったらそれでいいと思うんですよ。ここに無法に現実世界が展開する大人の世の中があるわけですね。私はなぜ心に向かうかというと子供の心に向かうから。子供を見てるって話じゃないですよ。3ヶ月チャレンジは未成年は残念ながらご参加いただけません。
しかし子供に向かうっていうのは子供のケアをするって話ではないんですよ。心の中というものには子供が住んでますと。子供だけが住んでるわけじゃないんだけど子供は住んでますと。だからその子供の心にとって会社が怖くなっている可能性について考えましょうと。
行動にフォーカスを当てて、例えば今日電車に乗って会社に行けたらスタンプを1つ押すと。明日も行けたら2つ押し、明後日も行けたら3つ押し、1週間行けたら5つ押して5つ連続で並んだねと。よくやったねと。これでなんかカフェラテでも飲みましょうと。
これが行動科学における報酬系を刺激することによって行動習慣を形成する行動原理、行動科学に基づくやり方の多分一つだと思うんですね。
何だかんだ言ってもこの報酬系で行動を継続させるという点において、行動療法というのはおそらく何らかの形で、もちろん絶対恐怖って今絡んできていると思うんですね。報酬だけでは人を引っ張れなくなっているという時にこの話は出てくるはずだから、そこをさらに報酬だけでいくとは考えにくいんですよ。
そこで次に出てきやすいと思うのが認識を改めましょうと。会社とはそもそもそんなに怖いんでしょうかと。ここら辺から心に入っているようなんですけれども、やっぱり認識を改めるというのは改めるわけじゃないですか、認識を。認識を変化させる。
もはやここからは極めて多くの手法が出ていますし、一人一人がお話を聞いているうちにいろんなことを考えて、その都度その都度いろんなことが考案されていると思うんで、一概には言えないと思うんですよ。ただ、どこか今の時代はどこかその時に心に向かうということをおそらく当事者も意識しないうちにふと避けている。なぜならば無駄だと思われているからだと。
私は認識に向かうという話だって、要するに認識っていうのは目の表面とか脳の表面とか、つまり何とかそれを目に見えるところに位置付けようとしているわけですよね。
接触面の行動とか行動は目に見えますね。脳は実際に脳を見ることはなかなか難しいですけど、やっぱり画像を撮ったりすれば見えますよね。認識というのは見えませんけど、認識の結果が行動に現れると、コンピューターモデルみたいなものですけれども、見えますよね、行動に現れれば。認知行動っていうのはそういうことですよね。認知に基づき行動する。それは確かにそうです。
私たちは赤信号を見てブレーキをかける。認知が行動を促す。それはそうです。ただ、なぜか赤信号を見ているのにアクセルを踏んじゃう人もいます。だから認知というもの、これが入力って言うんでしょうけれども、同じ出力を絶対に保障するものではないですよね。認識を変えるというのは行動を変えることにつながるかもしれないけど、つながらないかもしれませんよね。
ただ、いずれにしても、認知機が行動を変えるという時には、やっぱり非常に我々の物の見方は見えるわけだから、三次元的になってはいくと思うんですよ。この瞬間何が起きているのかを問うことにはすごくなると思うんですね。だって見えないじゃないですか、時の流れを。
タイムラプスというものはありますけど、やっぱりこう過去あなたはどうでしたみたいな話は見えないわけですよ。だからそういうのを問うというものは、インチキ臭く聞こえるようになり、どんどんどんどん廃れてきていて、今が私は廃れたところのピーク、そこに近づいてきていると思うんですね。
社会的背景と福祉
認知行動が一つの認知行動、あと役理なんだけど、一つの慣性を見たという感じがする。ピークを迎えつつあるなという感じがするんですよ。私には。行動を修正するとか、物の見方を変える、物の考え方を変える。会社そんなに怖いところなんでしょうかと。会社に恐怖を覚えるのはなぜなのかと。
パオハラを受けたからってことになると、これは社会の話になってくる。社会心理的な話になってるんですよね。そこから福祉ってものが出てきますよね。朝が起きられないということは、夜が寝られないということだから、睡眠導入剤を入れるわけですよね。これも心には向かってないわけですよ。
薬に向かってるから。薬は飲んだ時に神経に作用するものだから。神経とはつまり、見えるじゃないですか。神経見えませんけどね。でも神経系は見えますよね。絵に描くこともできます。絵に描くことができないんですよ、心というものは。
一つには過去と歴史があるからですね。歴史ってすごい絵に描きにくいじゃないですか。しかもあやふやじゃないですか。歴史は、しかもカウンセリングで言う歴史ってその人が心的現実を語る歴史だから、その心的現実はその人が語る上で、その人がそういう歴史を自分が持ってると思ってる上では本当なんだけど、思ってるだけですから。本当にそうだったかどうか、本当じゃないことも多分含まれていたりしますから。
さっきも言いましたけど、自分が幼かった頃は戸棚にも手が届かない。戸棚にも手が届かない自分から見える世界ってものは、大人の見る世界ではないんですよ。子供から見ればそれは事実なんだけど、やっぱりそれは心的現実なんですよ。
なぜなら、だって戸棚が大人しか届かないような位置に作ってあるのは、まさに子供から見た世界というものを軸に、世界を設計はしないからだということになるわけです。子供でも手が届けられる棚には割れる食器は入ってないわけですよ。だからこれをママごとと言うわけですよね。これは移行対象なわけですよね。
大人になる途中で手にするべきものっていうことですよね。そういう世界は全てが心的現実であって、全てが心の世界なんですよ。心の世界というのは多分に子供の世界なわけです。子供目線の世界なんですよね。
これを、つまり我々はさっき言いましたが、行動変容、認識の変容、一つのピークとしていると。普通に考えると、極力子供に薬飲ませたくはないじゃないですか。睡眠導入剤なんてまして子供に飲ませないんじゃないですか。行動の変容を子供に促すこともありますが、結構ありますが、やっぱり行動の変容を促すなどというのは大人にやることですよね。
我々やってますよ。子供にご褒美を与えて行動を変えるって。でも行動科学を子供に適用するっていうのは、やっぱり教育関係の人でも、それをすごくやりたがるっていう人もいるんだけど、やっぱりできれば避けたいような、なんでなのか知らないけど、感覚的には避けたいと思っている人も少なくないと思う。私も掃除でそういう方だけど。
やんないわけじゃないですよ。全然全く少しもとは言いませんけれども、そもそも受験って、受験によって子供を勉強させるっていうのはまさに懲罰っていうものを使って子供の行動を変えようとしてるんだから、そしてそれによっていい成績を収めると、なんか将来いいことがあるらしいっていうのは、認識を変容させようとしてるんだから、認知行動的なものを子供にはっきりと当てはめているんですよ。
うちの娘が言ってた大手の塾でも、やっぱりPDCAの図がまんま書いてありましたからね。プランを立てて志望校まで逆算して、どのような計画を夏休みに何を勉強し、冬休みに何を勉強し、いつ頃志望校の過去問をやり始めるといいのかって、詳細に埋めていく図があったんですよ。
うちの娘は埋めませんでしたけど、それは僕の本とかを片っ端から読んでたら埋めるようにならないだろうなと思うんですけど、やっぱりならないですよね。で、やっぱり埋めないうちの娘には認識の変容を迫るっていう圧はちゃんとかかってきてましたからね。
一歩間違えばですよ。うちの大手の先生は言わせんでしたけど、こういうのちゃんと埋めないからあなたは第二志望にしか浮かなかったんじゃないの?みたいな、そういうノリってありますよ。10歳児に対してもあります。
これはやっぱり認知行動的なものが一つのピークを迎えつつあるんだと思う。私が中学受験した頃は先生スパルタだったけど、ああいう感じではなかったですもんやっぱり。あそこまでエビデンスベースの人間の行動を変容させることで子供の成績を伸ばすんだみたいな、ああいう発想はなかったです。
今の方がはるかにシステマティックに行われて、その分競争は激化してます。子供の数も少ないしね、奪い合ってますからね、私立はね。超一流の、というのか要するにトップの3校とかはさすがに子供がいくら減っても倍率が1倍切るなんてことはないでしょうけれども、いのき並み下がっていくんで、私たちの頃に比べると子供の数が異様に少ないじゃないですか。
私なんて板学校に1学年で350人もいて、1クラス50人ずついましたからね、たまったもんじゃないというぐらい教育パンパンでしたからね、今は絶対そういうことないですよね。50人学級なんて考えられないと思うんですよ。担任の先生1人しかいなかったし、話が盛大に逸れてきていますけど、話を元に戻しつついくとですね、心に向かわないわけですよ。
実は行動に向かう。認識に向かう。物の見方に向かう。そして薬を入れる。で、あとはマッサージ。体に触れてトラウマを癒す。だからこれが効けば、そっちの方がしかもアメリカのなんとかという博士が研究したカントカという話に、証拠に、エビデンスですね。
よるとって話をして、そしてタッピングをしてトラウマがなくなるなら、それに越したことはない感じがするじゃないですか。そこに子供時代の目線からすると、戸棚がどうこうで、その時にある安心毛布をかぶると母親を思い出してっていうように、心の世界に入っていくというのはですね、それ自体がまどろっこしい感じがするでしょうし、
実際そういう方法で、5年の分析を経て終結を迎えたとか、5年?みたいになるじゃないですか。いや、明日会社に行きたいんですけどっていうようになるわけですよね。
明日とは言わないまでも、このプロジェクト今なんとかなんで、あと2ヶ月のうちには自分元気になっていたいんですけどってことになるわけですよね。この時元気と言っている元気は、体がスイスイ動くっていうニュアンスをやっぱり取りやすいんだと思うんですよ。
体って私からすると、特にこういうホワイトカラーの仕事のプロジェクトなどというのは、少々体を使うものであったとしても、スイスイ別に動かなくったって、なんとかなんとか動いていればなんとかなんとかなると思うんですよね。
私原稿書きますけど、動かなきゃいけないのはせいぜい手先ですからね。もちろんそれは体全体が健やかである方が原稿も進みますけど、正直言って原稿を書くとか、ワンオンセッションするとか、口が動けばなんとかなる仕事なわけで、そんなに体がスイスイ動くっていうことは実は望まれてるとあんま思えないんですよね。
夜すぐ寝られれば十分だと思う。これがまた簡単じゃないんですけど。夜すぐ寝るっていうことを皆さんご希望になるから、やっぱり眠剤ってものができるんでしょうし、マッサージとかタッピングとか全て体に向かう。そして睡眠とは行動だと思われている。
心って言うから、睡眠ではアルファ機能で夢思考とかって言い出すんだけど、そんなものに興味を多くの人は持ってないわけですよね。私は夢を見た睡眠と夢を見なかった睡眠では、睡眠は全く、これをもう皆様は睡眠の質とおっしゃるんですよね。私は質では全くないと思ってるんだけど、夢を見るってことに意味がある。これは行動じゃないしね、私からすると夢を見ることは決して行動じゃないし。
で、夢を見た方が睡眠の質が良いのか悪いのかという議論には私は何の興味もないんですよ。そんなことは全然関係ないだろうと思うので。夢を見るということが、やっぱり安全なところで私の情緒をどこまで動かせているかっていうこと。
そして、安全なところで私の危険な状況的な何かの心における消化活動というのかな、消化機能がどれぐらい働いているか、こういうのは全部心の問題だと思うんですけれども、行動でもなければ体の問題では絶対ない気がする。夢ってだって私別にベッドで見るとは限りないですもん。昼日中に仕事しながら夢見ることもありますもの。
というか見てます。で、そういう時に見ている夢っていうのが集中力を欠いていて無駄だっていうふうに人は思うらしいんですけれども、夢を見なかったら仕事できないと思うんですよね。どう考えても夢っていうのはビジュアルという意味ではないですよ。
ビジュアルという意味ではなくて、どう考えたってまず我々は外界のものを変換してるはずなんですよ。心の中に入れるとき。
トワタカイトさんのカウンセリングとは何かの図で行くと、右側に現実があるならば、左側に心の世界があるならば、右から左に映るときに何かが起きてるわけじゃないですか。像を見たとき、像が心の中にパオーンと入ってこないじゃないですか。
それは図。絵に変わったり、雰囲気に変わったり、像という認識に変わったり、エレファントという認識に変わったり、鼻の長さに着目したりして、心の中に入れて、しかも心の中に入ったら、例えば私の場合には、暖房の絵本のあれを読んでいた頃の自分ってものが嫌をなく、私の場合はね、呼び出されてくるんですよ。
あそこに書いてある像さん、上手いけど、実はリアルな像を見てみると似ても似つかないんですよね。暖房の絵とかはね。似ても似つかない絵なんだけど、像以外の何物でもないと思ってるわけじゃないですか。
心的現実と感情
それは私の心の中にしかない。あの絵本も世の中にはないんじゃないかと思うんだよ。同じような絵本はいっぱいありますよ、もちろん。私が青森県で読んだあの絵本はもうないんじゃないかと思う。別になくてもいいんだけど。
それは象徴化機能ってものじゃないですか。夢を見るってことじゃないですか。像をただ写真のようにして脳が認識するというだけじゃないじゃないですか。一気にそこからかなりの世界が展開するわけですよ。
絵本を読んでくれたのは私の母だし、私の母がもう二度と絶対に望むべくもないぐらい髪が長くて、その髪は真っ黒だったわけですよ。赤いちゃんちゃんコみたいなのを着てたんですよ。東北だからね。そして昭和50年、もしかすると40年、49年、それはないな。昭和51年とかでしょう。の話ですよ。
私は赤にべったりだったはずなんですよ。覚えてないけど。しかしそういうことが象を見ると瞬間的に展開していくのが心の中なの。私のね、他の人の心とは何の関係もないんで。これが心的現実ってもの。
あのカウンセリングとは何かで言うところの分と左の方の黒いところの世界。父には世界があるわけで、現実世界とその心の世界をつなぐところには確かに大脳生理学的な認知行動療法的な世界は確かにあるでしょう。つまりそこだってでも変化が起きてるんですよ。FXなんですよ。
つまりFXは投資のじゃなくてね、ファンクションXですよね。ビヨンの世界ですよ。ビヨンの世界というか、ビヨンが言った方ですよ。変化は起きてるわけじゃないですか。だって象というのはフォトンですから。それは我々にとってはビジュアルですから。
要するに光のエネルギーじゃないですか。光のエネルギーは心の中には一切ないじゃないですか。光のエネルギーは心の中にはなくて、それが網膜にぶつかったところからNAだかKだかプラスとマイナスがニューロンを通ってここで電気信号に変わってるわけじゃないですか。電気信号は光のエネルギーではないじゃないですか。電気信号に光のエネルギーを変換してるわけでしょ。FXでしょ。
入力されているエネルギーから途中変更されてるわけですよ。ニューロンを伝わる電気信号にプラスとマイナスがひっくり返ると、そのプラスとマイナスが電言版みたいにカラカラカラってひっくり返っていて電位差が生じるから。で、伝わるわけでしょ。それが脳に入っていくというか、脳に伝わっていくわけですよね。変換されたわけですよ。
音のエネルギーも同じですよね。空気の振動でしかなかったもの。空気の振動などというものは私たちの心に入ってきませんからね。空気の振動を通じて、それが中耳と内耳とかに入っていって、耳の中にある水が揺れると耳の毛が動くわけでしょ。
その水の中の毛が引っ張られる。この引っ張られたという、引っ張られるから、そこで紐を引っ張るわけだから、引っ張ったところから電気信号が動き出すね。これがある種痛みにつながる場合もあるけれども、音じゃないですか。音というのはつまり、外部のエネルギーを内部の電気信号に変換するから発生したと我々の脳は認識するわけじゃないですか。
ここまでは確かにこれだけのことなんですよ。物理学の世界ですよ、ある意味では。でも、我々はある種の音を聞くと心の中の展開が始まりますよね。過去に聞いた音と音楽と思い出の世界が一挙に展開するはずですよね。
聞く音楽によっては鳴き出す人もいるわけじゃないですか。つまり情緒が動くはずですし、動くべきとは言わないけれども、少なくとも動かぬべきであるとは思わないわけです。これが全く動かなかったら、アンドロイドじゃないですか。ただ電気信号に変わりました。以上っていう感じで、外で聞いた音について検索をかけますみたいな。我々そういうことしないでしょ。
それを聞いた音楽の作曲者、オルフガンゴ・モーツァルトみたいな、何年から何年になんとかザルツブルグで生まれとか言い出さないじゃないですか、普通の人は。普通のって言っても難しいですけど。違うでしょ、やっぱり。だからこういう変換というものが起きたら、次の変換というものが促されると思うんですよね。
これはひたすら入力の話ばっかりしてますけど、これだけ、でもこれ一つ取ったって心の世界ってものが、あるとは言いませんよ、ないですからね。ないけれど、やっぱり我々はあると思っている、生きてるわけですよね。
恐怖と社会的課題
で、不安なり恐怖なりというものが問題になっていて、それが故に、夜寝られないというならば、それは民罪はありだと思います。そりゃ楽になれるから。やっぱり、この時の恐怖というものは、誰の何なのか、誰の何なのか。
私の上司からの恐怖ですっていうのを、私はなかなか信じられないわけですよ。それだけだったら、私は会社に行けなくはならないなって。私だって相当気の弱く、気の小さい人間だけど、ただただ怖いというだけならば、その外にいる人たちが。
だってそりゃ、あれですよ。何でもいいんですけれども、ボコボコに殴ってくるとかだったらば、ちょっとあまりにも恐ろしすぎていけないんですけど、私、これでも小学校6年の時は、割とボコボコに殴られながら、ボコボコまでは行かないけど、結構ガッツリ殴られながら、塾行ってましたからね。
あそこはもうないけど、あれはもうないけど、でも、今の会社の上司がこういうのはそういうんじゃないと思うんですよね。で、私が言いたいのは、それはOKですって話では全くないんですよ。ここを無駄に強調する気はないんですけど、別に。
社会問題として捉えるというか、会社の問題ですわね、それはね。そりゃあ何とかするべきですよ、当然。それとはまた別に、でも行けなくなるほど怖いということであるならば、誰の何の恐怖なのか、私の上司への恐怖ではなくて、私の上司への恐怖が変換された何かになっている、思い出されている。
像を見ることによって何本の絵を見たように、やっぱり父親にガッツリ厳しく言われて、自分こんなんでは世の中で渡っていけないなとしょんぼりした頃の、例えば自分の子供だった時の気持ちを思い出す恐怖とかね、不安とか、そういったものが絡んでないとおかしいと思うんですよね、正直言って。
そうでなければ、それができなくなるほどのことが起きていると人は認識しないんじゃないんだろうかという感じがするんです。その時に行動の変容は苦しいなって感じがするんですよ。認知をただ動かすってことも無理があるなと思うんですよ。認知をただ動かすっていうのは語弊があるんだけど、でもやっぱり認識を変えるってこととは違う気がするなと。
私は思うんですよね。そういうことではない気がします。そういうことではなくて、自分の父親に対する、母親でもいいんですけど、やっぱり愛憎というもの、そこに強い葛藤があるということ。
まあ私はあるから言うんですけどね。私はあるんだけど葛藤があって、この葛藤が表に出てしまうと偉いことになるというか、かなり困ったことが起きる気がするんですよね。
目の前にいる人間を母親だと誤解し、誤解はしないんだけど、ほぼ母と見つめ、そして子供の時に、私が2歳だか3歳、今日は50年ジャストぐらいの時に、私が抱いたあの3歳児、2歳半児の強い憎しみをまんまここに持ってきたらやばいよ。かなりやばいと思う。
少なくとも警察に連れて行かれると思いますね。そんなことになるわけにいかないじゃないですか。たかだか上司に口頭で注意されたという程度のことであるならば。だからなんとかその現実を現実のものとして、現実は現実だということにして、ここにいるのは親じゃないんだという、1ミリもそうじゃないんだと。
1ミリでもそうだったっていうことになったら、現実の剣とは実は揺らぎ始めてますからね。1ミリそうなら何ミリそうなるかわかったもんじゃないじゃないですか。自分の感情は揺れてるわけだから。だから人は感情を揺らしたくないんでしょうけど、でも私はそこで体がすいすい動くかどうかではないような気がするし、元気かどうかでもないような気がするんですよね。
それよりは少なくともだいぶ手前に、この現実を心の揺れによって完全に幻想に変えてしまわないファンクションがそういう働きをしないように、少なくともその場だけでもこのファンクションが機能して母と私になってしまいました。
この黒い髪の赤いチャンチャンコを着ている母と2歳半の私になってしまいます。これが何とかしなければいけないと思うんですよね。そういうつもりで例えば、お母さん絶対話したくないからとか言っていきなりハグしたらやっぱり警察だったじゃないですか。そういうことが起きないとは言い切れない気がするわけですよ、私は。
もちろんそういうことが起きないように心は二重三重に原子力発電所みたいになってるわけですよ。きっちりと防備がなされていて、二重三重に張り巡らされていて、ちょっとやちょっとでそういうことが起きないようには、これを防衛システムと言うんですよ、たぶん。
心のシステムと現実の認識
私は防衛規制っていう言葉をもう今なるべく使いたくないんですけれども、でも心はそういうシステムを張り巡らせている。しかも意識は全然それに解体することはなくできるんで、我々は自分がそんなことやってるなんて思わないわけですけど、明らかにそういうことをやってるなって思うんです。やってるなというものの見方に立つとすごく世の中では見えてきやすい事柄が山のようにあるわけです。
昨日ある方に教えていただいたニュースでも確かに見ましたけど、あの山上さんでしたっけ?被告のお話。あれを読んでいてもやっぱりこうシステムがすごい発動してるなという感じを抱く。もちろんあれほどの、やっぱりでも正義区域ですよね。つまりやっぱり心の世界に彼は生きてる感じがすごくするんですよ。
いろんな意味で。話としてはなんとなく社会問題としても分かる気はいろいろする部分はあります。確かに異性とか宗教とかそういう問題だと。でも話を読めば読むほど心のドラマがそこに猛烈に動いているような感じがするんですよね。
私はやっぱり人によっては全然違うという立場は分かりますし、それはその通りだとも思うんですけど、同情的にどうしてもなってしまう。私は別に被害にあった方が嫌いとかはないですよ。私それほどじゃないです。そんなに私はリベラル寄りっていうほどリベラル寄りではないです。リベラル寄りでありたいなんぐらいには思いますけど。
普通にどっちにも同情的です。ただ非常にあれは心のドラマだって感じがするんですよ。だからどうしても現実見当を完全に書いてるとは言えないっていうように言われてしまうだろうなこれだとっていう気はするんですけど、本人もそういう方向での無罪ですって主張してるわけじゃないですからね。
ただ、自分がそうだったらってやっぱり、まあそうですね、私は世の中に向かってそれを言いたくなりますね。自分がそうなったらって考えてみてほしい。宗教異性だったらって話じゃないですよ。無有病ですと。
夢を見ていましたと。確かに夢を見ていましたと。気がついたらなぜか自分は警察に呼ばれていて、人がここになんでか知らないけどっていうことが仮にあったとしたら倒していたってことでなくてもね。
例えばなんか知らないけどここをずっと見ていたら気分がホワホワしていたと。気がついたらどっかに連れて行かれたってことは、私は心のシステムからすると起きえないことではないと。で、これは1億2千万いたら8千万人ぐらいには起こり得ることだろうと。実際にはそんな比率では起きないです。でも起こり得ることだろうとは思うわけですよ。
いろんな意味。だって例えばうんと年を取ればわかりませんし、あるいはうんとある種の出来事が起きればわかりませんし、その時にいやお前それは心が弱いからで、こういうふうに現実を認識ちゃんとすればって言われても、現実をちゃんと認識っていうのがそもそも人間にとって何を意味するのかと思うじゃないですか。
だって人間は赤信号で急ブレーキを踏みますからね。現実をちゃんと認識していたら動物に言わせるとやっぱりちゃんちゃらおかしいと思うんですよそれって。それ記号じゃんっていう赤いからって何で止まるのっていう話じゃないですか。現実を人間がちゃんと認識するっていうのは明らかにかなり危ういことをやるんですよ。
記号とかによって自分の行動が左右され、象徴とかによって自分があっちに行ったりこっちに行ったり戻ってきたりしたくなるというように作られてるからこそこういうことが起きるわけじゃないですか。起こせるわけとも言えますけどね。だからやっぱり同情的に私としてはなるんですけどね。このシステムは極めて複雑で、この複雑なシステムによってとても複雑な世の中を作ってしまっていて、
誰が悪いっていうようには私には全く思えなくて、みんな基本的には善意で動いてるんだけど、ただやってることが難しいので非常にね。これだけ難しいことがうまくやれませんでしたって時にそんなに怒られても、お前の言ったことは何かこう罪深いことだみたいなことを言われてもって思わなくもないんですけど、でも一方でそういうシステムの中で何か犠牲になっちゃいました。
そっちはいいのかって言われると、これはこれでやっぱり確かにそっちにも深く同情したくなるっていうのはあるわけですよね。だから結局で同情は役に立つのかって話になるんだけれども、私は役には立つと思いますし、やっぱりもっと同情的であるということがこれだけ難しいことをしている私たちにはいるんじゃないかなと思うわけですよね。
こういう結末でしたね、今日は。