心の葛藤と健康
おはようございます。朝っぱらから精神分析、第1253回をお送りします。
9月19日金曜日、8時4分です。なんかですね、あの…
まあいいや、普段だったらこうは反応しないはずのものがこう反応するんで、ちょっと気になっているアプローチのことなんですけど、なんかちょっと反応が悪いなという感じで、
収録そのものは関係ないんで、関係なくはないんだけど、それほどの関係はないんでこのまま続けますけれども、寒くなりました。
というか、非常に過ごしやすくなりました。これは平年なんだそうなんですけれども、さすがにですね、ここのところの9月とは思えない国書から一点平年になると、
まああれですね、体に気をつけましょうってあんまりここでは言わないようにしているというか、あんまりね、簡単さごときでそこまでからだって来ないと思うんですよ。
でも一方で、我々は体を、これ倉澤慶三さんの私はグッドバイブスのですね、とてもいい考え方だなと思うんですけど、
人間、健康を目的にしてはいけないって、人生の目的に健康を置くのはどうかと思うっていうのが彼の割と初期の頃から言っていらっしゃった話で、
これ私はとても大事だなって思うんですよね。個人主義が行き着くと、結構もう健康ぐらいしか人生の目的なんてなくなっちゃう気がするんですね。
人生の目的がまだ私ないっていう方が健康を目的にするよりはマシなんじゃないかって思うぐらい、体に全面的に向かっていく。
体が健康なら、個人はいけるみたいな、そういうの、何て言うんだろう、それはちょっとこう、なんかおかしな方向になっていく気がするんですよね。
あともう一つが、とはいえですね、我々は結構体というものを大事にはするんだけど、至って作主的に扱うんですよね。
どういうことかというと、心の悩みをすぐ体に押し付けるんですよ。
眠れないっていうのは結構典型的なものの一つなんですけど、私の場合のように皮膚病を発症するとか、これも割とありがちなんですよね。
あるいはお腹壊す、これも早い段階できますよね。かなり早い段階でくるんですよ。
で、これをやって割と平気でいる、男の人でいうと、女性もそうかもわからないですけど、ださらマスターベーションするとかね。
これもですね、ストレスが多くなると。
あとすごい甘いものを、しかもすごい微妙な時間に食べまくるとか、そもそもお酒飲みまくるとかタバコ吸いまくるとかいろいろありますけれども、
全部やっぱり身体の快適な感覚によって不都合な気持ちを吹き飛ばそうという発想なんですが、
あるいは、私がやってたみたいに皮膚をむしるみたいなんですね。
私いまだにその癖が完全には抜けなくて、皮膚をむしるのはさすがになくなったんですけど、
身体にこうね、押しつけてるんですよね。身体をさするとか無駄にやるんですよね。
身体さするのを僕多分無意識のうちにやっていた量をですね、今ではなくなったら全然いないんですけど、すごい多いなと思うんですよ、気がつくと。
でも10%以下にしてみたらそれだけで体調は抜群に良くなってるんで、身体に罪はないっていうのが倉園さんの表現なんですけど、
僕これ非常に大事な表現だと思うんですよね。
大体私たちはヤムウイズだとは思うんですけど、罪を犯したという人にそもそも身体に罰を与えたがるじゃないですか。
昔からそうじゃないですか、大罰とかムチ打ちとかね、ああいう酷く残酷なことをやるのは、大体身体は何も悪くないわけですよ。
言うなら身体というのは命令されて全ての行動を行っているんで、
私はウィリアム・ブレイクっていうイギリスの宗教詩人と呼ばれる人なんですけど、
あの人の施策で、とにかく身体っていうのは大人しいんだ、ひたすら善良なんだ、ある意味私がイメージするのは牛なんですよね。
多分身体だけだったら人間って牛とあんまり変わらない動きなんだろうなと思うんですけど、
精神がありますからね、人間にはね。
だから精神の命令をずっと引き続けている身体は、その責任も大体取らされることになってるんですよね。
大変これは私は不公平だなとよく思うんですけど、結局死刑っていうのは身体を破壊するわけじゃないですか。
なぜ身体自体は悪いことをしようとしないのに、身体が破壊されてしまうんだろうっていう感じを、
私は死刑制度にはそういう感覚を持ちがちなんですが、
でもね、日本社会的にもそうですし、なかなか持ちこたえられないと思うんですよね。
犯罪の被害に遭うっていうことはね。
この持ちこたえられないものはどこかに押し付けられるんだけど、
その最大の被害者は身体になりがちだなと思う。
身体と心の関係
だから私はとにかく心理臨床の第一歩として心の悩みを身体に押し付けない。
だからやっぱり外に置かないっていうのは大事だなと思う。
なるべく心に心にで、それをやると抑鬱になるって話があるんで、
ここで結局カウンセリングっていうのが出てくると思うんですけど。
ここでCMなんですが、おかげさまで20名突破させていただきまして、
タスク種と関連が強実ですね。
残り9枠なので現状ですね。
キャンセル出るかもしれませんけど、9枠なので、
まだ23日まで1週間はないかも。
1週間はないな。
あと4日ですけど、この週末で埋まる可能性はありますんで、
一応チェックしておいてください。
まだなおこれからっていう方はチェックしたらいいかなと思います。
ここでお話しするのは先日お話しました、
これに珍しく3ヶ月チャレンジの参加者さんに反応がありましたんで、
やや意を強くして。
意を強くすると気が強くなるんで、
これは大事だなと思うんですけど、
意を強くしてこのシンメトリーの話をしていこうと思ったんですね。
タスクシュートでシンメトリー。
それのシミュレーションとしてここでしゃべるようなものなんですけど、
企業によってはですね、
私たちは現実が未可理論に沿わないと現実把握を失敗するから、
未可理論に頑張って沿いましょうね、
に聞こえるかもしれませんが、
未可理論にだけ沿うってことは人間には不可能なんですね。
人間だけじゃないと思うんですけど、
現実には不可能。
そんなこと。
赤信号は渡らない。
だから赤信号は渡らないんですよ。
これが未可理論ですね。
赤信号だから渡るってことはできないんですよ、我々は。
多分赤信号だけど渡ることしかできないんですね。
未可理論に従うというのはつまり、
ある記述を持ってすると、
その記述の反対を同時に実行することはできないって感じなんですね。
なんか僕はこれは一つの土地に一つの建物を建ててしまったら、
二つの建物をそこに重ねて建てることはできないっていう感じなんですよ。
これを精神病水準の人はできると思ってしまうんですね。
だからあたかもその人たちのお話を伺っていると、
一つの建物の土地に一つの建物が建っちゃってるじゃないですか。
もう建てられないじゃないですかって言われると、
怒られるわけですね、裏剣が。
建てられるだろうって言われて、
うーんっていう気持ちになるわけですね。
うーんっていう気持ちに僕がなるということは、
僕は未可理論に従おうとしてるからじゃないですか。
別に建てられるんですって言われたって、
実際には建てられないだけなんで、
そこでうーんって苦しまなくていいはずなんですよ。
多くの人が精神病水準優先の人の話を聞いていることが辛くなってくるのは、
実は非精神病部分に従って生きていきたいっていう欲求を、
我々は自然とじゃないんだけど、
いわゆる健常な人はそういう欲求に従って生きているからこそ無理なんですよ。
対象理論の探求
聞いているだけでも辛くなるってことが起きるんですね。
戸畑海人さんがいるのは辛いよっていう、
山崎孝明さんが先日いるつらと訳されていて、
いるつらなんだみたいにも。
そういえば昔山崎さんに飲み会とかの時に、
一番戸畑の本で好きなの何?って言われたり、
のんのん医者化でなければ、たぶんいるのは辛いよですね。
ああ、いるつらみたいに言われて、
いるつらって言うんだっていう。
これは病界ではいるつらって言うべきなのかな、
みたいに思った記憶があるんですが、
全くどうでもいいんですけど、
そのいるつらの中でですね。
戸畑さんが、
霊気屋の彼はスタッフの仕事を一緒にやってたんで、
戸畑はなんで施設の利用者さんたちの話を聞いてられるの?って言ったら、
だって話聞くのは仕事だし面白いじゃないですか、みたいなこと言って、
そうじゃないんですかって言ったら、
疲れるさって沖縄なんで言われるわけですね。
戸畑、疲れるんだみたいな。
戸畑さんは自分は臨床心理師だから聞いてられて、
そんなに疲れずに住んでるけど、
一般の人たちは確かに疲れるよなっていう、
そういう短いエピソードが入ってるんですけど、
あれはつまり対象理論に従っている人の話をずっと聞いてるのは疲れるってことなんですね。
我々は似た理論に従っていようと、
だってそうしないと現実の戸畑が非常にあやふやになっていくんで、
ここにコップがありますって言ったら、
ここにコップがないですっての同時に意味はできないわけですね。
ここにコップがありますって言った瞬間に、
そのこと自体があそこにはペットボトルがありますにはならないんですが、
なっちゃうわけですね、対象理論の世界では。
普通にここにコップがあるっていうのは、
ただここにコップがあるだけで、
あそこにペットボトルがあるかどうかは別の問題だってなるじゃないですか。
これが似た理論の理論的なところじゃないですか。
でもここにコップがありますというのは、
あそこにはペットボトルがありますなんですってことになっちゃうわけですよ、
対象理論では。
つまり何でもできてしまう万能空想の世界ですよね。
何でもできてしまう。
無意識の世界ってそういうふうにできているんですよっていうことなんですよ。
カエルを床に叩きつけたら美しい王子様になりましたみたいなことに、
何の違和感も持ってはいけないんですよ、無意識的に。
めでたしめでたしですってことで納得しなければいけない。
これがおかしいっていうふうに思うじゃないですか。
おかしいって思って何でカエルは王子様になるの?みたいな。
お家嫁さんはよく泣くない?みたいな。
なんかとりあえずナラティブを一生懸命考え出そうとするのが
似た理論的世界ってやつじゃないですか。
いやそもそも叩きつけてもカエルは王子様にならないでしょうみたいなね。
そういう理屈を子供がこね出すというのは間違いなく成長してますよね。
1歳児だったらお喜びするかもしれませんよね。
この対象理論に従うというのはしかし、精神病部分と非精神病部分。
これはビヨンの言葉ですけどが、同居している私たちにおいては
対象理論も当然成立するシーンが多々あるということなんですね。
対象理論はなくなりましたではないってことは
心の葛藤の理解
対象理論を卒業しましたでは絶対ありえないってことなんですよ。
並列してきていくしかないってことなんですね。
多分僕は似た理論だけに従おうとしていると
その人は生きていく気力がほぼなくなっていくんではないだろうかって感じが
するんですね。このことをタスク主導完全活用術で
しかし私たちは対象理論に沿いまくっていると
時間を大幅に喪失していって別にそれはそれでいいと思うんですけど
いいと思うんですけど世の中で生きていく上では
結構都合が悪いわけですよ。
いつも電車には乗り遅れ、いつも会社には遅刻して
約束の時刻はすっぽかしいってやってると
みんなにバッシングされる可能性がある恐れがあるわけですね。
これは似た理論に我々が従い切れていないから
こういうことが起きちゃうわけですね。
アンビバレンスの重要性
どうしても我々はどこか対象理論に従い従って生きている
でもそれは必要なことなんですよ。
これをそれから説明するんですけど
例えば普通の人は親に愛と憎しみを持ってるんですね。
これ対象理論的じゃないですか。
私は親を愛していますって言ったら
いや逆がいいな。私は親を憎んでいますって言ったら
愛してはいないって意味じゃないですか。
似た理論的には。
でもそんなことはないでしょ。
私は親を憎んでますって言ってる人は
対外に私は親を愛しています。
でもあるじゃないですか。
同知じゃないですかこれは。
これはさっきの私はミルクを飲む
違うな。私はコップを使ってますわ。
私はコップを使ってないですとか
私はコップを使ってます。
同時に私はペットボトルを使ってます。
いやそれはおかしいでしょっていう
交互に使うならわかるけど
同時に使えないでしょっていう風になるかもしれないけど
私は親を憎んでますわ
同時に私は親を愛してますを意味していますよね。
この葛藤が心に置いておけないんだとすると
その人は欲打つポジションを達成できていませんよね。
その人が欲打つポジションを達成しているのであれば
私は親を憎んでますわ
同時に私は親を愛してます。
親に対するアンビバレンスな思いがありますよね。
アンビバレンスというのはつまり対照理論的ですよね。
つまりそれは無意識のどこかに置かれているのが
一般的だと思うんですよね。
いやもう親を憎んでいる親は本当どこやで許せないから
私は親から離れたんですっていう場合に
憎む一方であり憎む一方であるっていう風に
ニカ理論的にはそうなるでしょうけれども
たぶんこの発想で生きていくのは
相当混乱を極めると思うんですよ。
これだけで生きていこうと思ったら。
例えばそういう風に離れているにもかかわらず
親がやってきたらどうするのかっていう問題が
重大な問題として普通に考えると
好きになれないがしかし一緒にいるときは
一緒に飯ぐらいは食うとかなるじゃないですか。
ここに対照理論的なものがないと
はっきり言ってやりにくくなるんじゃないですか。
やりにくくなるというか
息づらさを抱えることになるわけですよ。
つまり我々は葛藤を抱えるということが
できる心象が必要なんですよ。
葛藤を抱えるということはつまり
赤信号だけど渡る日が来るってことなんですね。
赤信号ながら渡る日は来ないわけですよ。
赤信号だけど渡る日が来る。
ニカ理論はどこかで否定されなきゃ
ならない瞬間がやってくる。
その時我々は対照理論に助けを借りているような
意識と無意識の関係
ところが出てくるんだと思うんですね。
対照理論をもよしとするっていうのかな。
それは通常無意識に置かれてるっていう話なんですね。
マテ・ブランコっていう人によれば
イムナシオ・マテ・ブランコだったかなっていう
多分あれはだから私は私がそう思ってるだけで
スペインとかなのかもしれませんね。
ラテン系のどっちにしても
別に無責仮なんじゃないかなと
なぜならよく知られていない気がするんですよ、日本で。
これも3カ月チャレンジの参加者さんに教わったんですが
フル本で1万円くらいにしちゃうんですよ。
これはつまり日本であまり読まれてない証拠なわけですよね。
一部マニアックな人だけがやたら好んでるから
こういう値段がつくわけで。
フル本ってそういう商売なんですよね。
だから我々はこれだけに沿って
生きていくことは不可能なんですけれども
でもこれがないと生きていけない
生きていけなくはないのかもしれないけど
生きるのは大変深刻に難しいことになっていくと思うんですね。
ニカ理論は理論的なように聞こえるんだけど
我々はニカ理論だけで生きてるわけではないんですね。
だから例えば私は親を憎んでいますっていう
こういう記述で
同時に私は親を愛していますっていう
これは愛と憎しみの対象を入れ替えてるわけですけど
同時なんですね。
例えばですよ
いやいや私は親を愛してなんかいないんだとしても
私は親を憎んでいる
これはもう絶対的に揺るぎなくニカ理論であるが
同時に親は私を愛している
これ全くおかしくないんですよね。
でもこれ完全に対象理論ですよね。
私は親を憎んでいる
親は私を愛している
非常に困るみたいな
こういうことって世の中いくらでもあるじゃないですか。
私は親から離れていたい
親は私と一緒にいたい
これ全然不思議じゃないですよね。
こういう対象理論は随所にありますよね。
対象理論っていうのかな
でも対象的な記述が並列して成立してしまう。
つまり親と私っていうのは対象的なものなので
ここで入れ替えられるわけですよ。
私は親を憎んでいる
親と私を入れ替えますね。
親はに変わるわけです。
私をに変わるわけです。
親と私入れ替えたんだ。
憎んでますを愛してますに入れ替えるわけですよ。
そうすると親は私を愛してますになっちゃうわけですよ。
全然おかしくないじゃん。
でもこれは完全に
私で言うと一番身近なのは
私の兄弟が使いがちな理屈なんですね。
これは理屈なんですよ。
こういう理屈で現実を把握しようとすると
混乱の極みになっていくんだけど
しかしだからそれは現実に沿わない理屈なんですね。
でも我々は夢の中ではそういうことをやってるわけですよ。
この人別れたはずなのに
なんか私セックスしてるしみたいなことは
あり得るってことなんですよ。
夢の中なら全然。
そういうもんだよねみたいになるじゃないですか。
夢の中では。
つまり夢水準まで思考の
現実に沿うかどうかですから
現実検討ってのは正しいかどうかじゃないですから
現実が正しければ正しいんですけど
現実検討というものを放棄すれば
私この人すごい嫌いなんだけど
この人とセックスしてる。
でもこれは現実に実はあり得ないことじゃないですよね。
つまり我々はニカ理論だけで生きてるわけでは
決してないはずなんですよ。
だから対照理論というものはあるし
心の中にちゃんとあるし
夢にしばしば活かされているし
つまり夢の中はその理論に沿って
夢を見、夢を解釈し
夢を思考しているし
夢で思考しているし
夢が思考なんですよ。
美音ですよねそれは。
夢思考っていった時に
つまりそして我々は美音によればですけど
起きていても夢を見続けているわ。
確かにニカ理論に沿って生きてます。
普通に私は明らかにそうです。
赤信号でも言っちゃう時が
なかったとは言いませんけど
赤信号だから言ったことは一度もないです。
それってすごいことじゃないですか。
なんて言うんだろう。
ミスはしますが
意図的にミスすることはないわけですよ。
ミスというのは意図せずしてすることなんですよね。
その時にしていることは
無意識の理屈に沿っているわけです。
赤信号言っちゃう。
それは不能なことですよね。
対照理論的なことは起こり得ることですよね。
私は親を憎んでる。
親は私を愛している。
これは対照理論だけど
起きてますよね実際に。
そこ賢で。
そういう理論をしかも起こしていくわけですよ。
これが東映同一化ですよね。
つまりスプリッティングってそういうもんだと思うんですけど
良いおっぱいと悪いおっぱい
良い対象と悪い対象
それに対になるものとして
良い自分と悪い自分
良い対象と不快な対象
良い自分と不快な自分
良い状況の自分と不快な自分
そういう風になりますよね。
だから私は親を憎んでる。不快だ。
だから離れて暮らしている。
しかしそうするとなぜか寂しくなってくる。
これは一体何なんだろうっていうようなことが起きるわけ。
憎いんだから離れているのはとても良いことじゃないか。
思っておけばいいんだけど
その時に悪い対象、親ね。
悪い親とその時不快な親と不快な自分がセットだったから
これは不快なのが嫌だから離れました。
愉快な、要するに不快なものがない
良い環境と良い自分が平穏で落ち着く良いわってなるんだけど
寂しくなるっていうことが起きるわけですよね。
その寂しさというものは当然否定したくなるわけじゃないですか。
だけれどもここに対象理論が作動してるから
無意識の中では。
どういう対象理論かその人その人次第で分かりませんよ。
本当に親は嫌いなんだってことかもしれないし
無意識でも嫌ってるんだってことかもしれないけど
無意識ってのは意識できないわけですから
私は親を愛しているだった場合は明らかに寂しくなりますよね。
私は一人でもやっていけるっていう風な理屈に対して
私は一人じゃ到底やっていけない
これはアンビバレントですよね。
これを意識の上に置けるかどうか
アンビバレンズって言うんですよ。
置けないとなってくるとアンビバレントなくなっちゃうわけですよ。
だから私は親を愛していない必要としてもいない
一辺倒になろうとする
一辺倒になっちゃってるから
一辺倒にしなきゃなんないってことになるから
二か理論的に生きようとしてるから
対象的な理論は無意識下に置かれますよね。
しょうがないって意識したくないわけだから
私は親を必要としているって部分は
無意識の葛藤
無意識に作動し続けることになるわけですよ。
無意識はその理論に沿うわけです。
無意識は親は必要なんだけどなんでいないわけみたいな
私は30には確かになってるけど
親は必要なんだけど
親すぐに傍にいてくれて慰めてくれて
私の身の回りの世話をしてくれないと困るんだけど
っていう無意識がずっと主張し続けてるわけですよ。
抑え込もうと頑張ってしまうわけですね。
二か理論的に。
意識しない意識不満とするわけですね。
意識するとアンビバレントがそこに起きるわけですが
アンビバレントを置けることを
抑鬱ポジションというわけですよ。
だから抑鬱ポジションというのは
嫌な名前なんだけどいい名前なんですよ。
抑鬱的になっていくわけですね。
どっちか一個だけだったら
元気に、元気ではないかもしれないけど
親になくなって生成したみたいな
これだけでいけるんだけど
これだけでいけないわけですよ、私たちは。
無意識も持ってるから、多分。
無意識を持ってるっていうのは
決して強力的にはわからないわけですが
無意識も多分持ってるわけですね。
これをずっと切り離していると
つまりスプリットオフですよね。
切り離して分裂させておくと
とても辛くなってくる。
理由はわからない。
対象理論の何かが動く。
私は親を実は愛していたり
私は親を実は必要としていたり
するのかもしれないし
親が私を必要としている。
これは動知です。
これを頭から無視することはできない。
親が私を必要としている。
そんなの知ったことじゃないみたいな。
そうではない。
これは葛藤じゃないですか。
そんなの知ったことじゃないって言ってるけど
意識はしてるじゃないですか。
対象的なものを脳耳に置いておくことは
本当はできないから
あえて置いていこうとすると
赤信号だけど渡るの世界が
つまり葛藤の世界がやってくるわけですね。
私は親を憎んでいる
けれど一緒にいる
みたいな世界が
これがミカでありながらも
葛藤を抱える世界じゃないですか。
私は親を必要としていない
だけどいなくなると困るみたいな。
本当はおかしいんだけれども
おかしいかもしれないけれども
これをアンビバレントを
私たちの心の中に置いておかないと
対象理論の理解
私たちは無意識にそれを置いてしまうことになり
で、無意識に圧倒された時に
大変困ったことが起きるわけですよ。
無意識に圧倒される
つまり必要がないということに気絶はした
だけれども実際には何か非常に困ったことが起きた。
でもニカ理論に従っているので
私は親を憎んでいる
私は親を必要としていないだけで生きていきたい
だけど実際には困ったことが起きている
ということになった時に
この私はという私が
異様に頼りないものになってみ
って言ったりして
ひっくり返るしかないから
どっちかしか置けないニカ的な世界では
なんで声が忘れてきたんだろう
無意識にこれを言わせたくないんだろうかって
僕はこういう時にも
今や思うことにしてるんですけどね
僕はちょっと頑張っていきたいんですけど
ニカだから
一個目の記述が成り立たないということは
反対側の記述を成り立たせることになっちゃう
いきなり無意識が前面を追い始めるんですね
これがつまり理想化と脱価値化の世界ですよね
あの人は素晴らしい
あの人は素晴らしいって言ったら
その人は素晴らしいだけの人なんですよ
あの人は素晴らしい
同時にあの人はダメな人だ
成立しないわけでニカ理論において
だから無意識に落とされる
あの人はダメな人だはなくならないんですよ
だってダメなところがない人なんていないから
親ならいいですよねこれはね
親は私を愛して
親は私を捨てようとしている
同時には成り立たないんだけど
同時に成り立つのが対象理論ですよね
同時に成り立たないというものを成り立たせようとすると
つまり矛盾と葛藤の世界に入ることになるわけです
今は赤信号である
今は青信号である
並立しないですよ
この並立しないことが徹底されているというのは
つまり社会的なシグナルの心は
多分にそうなってますよね
だから最近ほら40度以上は
夏日と呼ぶのはやめようみたいな
木曜日と呼ぼうとか
炎曜日と呼ぼうとか
心の複雑さと防衛
なんかいろいろやってますけれども
ああいうことをしなきゃなんないの
いや別にいいじゃんって感じなんだけど
そうじゃないんですよ
線を引かないわけにいかないんですね
人工的な公的な世界というものでおいては
そのシグナルはニカてきれなければ
混乱を呼び起こすので
心の世界は決してニカ的だけでは
成り立たないんだけど
我々は象徴的
特に社会的シグナルの世界は
基本ニカ的なわけですよ
今日は暑い
同時に涼しくもあるとかはないわけですよ
黒曜日である
だったら何度以上かみたいな
そういう話になっちゃうわけですね
あんまり意味ないわけですよ
ある部分においては
例えば39.99度です
それは黒曜日じゃないからみたいな
そういうのってあんまり意味ないじゃないですか
だけどしょうがないわけですね
どこかで線引かないわけにいかないから
赤と黄色と青の信号は
全て別々にしか絶対点灯しないことになって
同時にピカピカしてる時ありますけど
それはもう停電とかラプライとか
そういう時の話なんですね
つまり正常じゃないわけです
ニカでないようなシグナルは
基本正常じゃないわけです
しかし我々の世界は
我々の心はニカでは成り立たないわけです
ので親は私を愛しています
親は私を憎んでいます
これは並列しなければどうしようもない
どうしようもなくなってしまう
愛してる一辺党ということになると
ある意味大変なことが起こるわけです
もちろん憎んでる一辺党っていうのも
大変なことになります
意識の上に持ってくると
アンビバレントになるわけで
これに持ち応えられるかどうかが
抑鬱ポジションの発生というものを
握ってるわけですね
抑鬱ポジションというのは
つまり葛藤と矛盾というものは
心に置けるという状態であって
フィーエスポジションというのは
それは置けないということであって
置けないから無意識に落とすか
ニタで分けるか
私はいい人親は悪い人
全部みたいな感じなわけです
あるいは逆
親はいい人親はいい存在
私はダメ人間
全部100%そうである
したがって私は
親の言いなりになって
親が言ってる通りに生きることしか
許されていない
なぜなら親は素晴らしい
そして私はダメだから
これはニカ理論的な世界なわけですよ
尻尾に置いてしまうしかないわけですね
両方とも両方
良いところと悪いところ
良いところとダメなところがあるとかは
ないわけですね
でもこれは全然不思議ではないですよね
という感じがしますね
どう扱うかの問題
大変難しいんですけれども
結局のところはどこかで
持ちこたえる力をゲットするしか
つまりそれは心のポーズを変える
ってことになると思うんですけど
自分がいいか相手がいいかは
偏向的であるっていう状態を
脱しなければならないんだけれども
脱しきれないというシーンは
例えば恋愛関係においては
しばしばありますよね
だから見損なったら別れるわけですよ
見損なったんだから
もう相手には悪いところがあったらいけないわけですね
これが私たちの対照理論と
二化理論っていったときの
結局のところアンビバレンスの話をしているし
軽リンクみたいな
基本的に言うとですね
リンクを壊すみたいな
リンクへの攻撃みたいな
そういう話になってくる
リンクを攻撃して
繋がりを攻撃してしまえば
良いところも悪いところもあるという人間は
良いところか悪いところかしかない人間になり
わくわくに分裂されます
でも人間は二つに分けることができないので
その人間は悪人と決定されるか
善人と決定されるか
二か二つに一つを選ばなければならない
という話になっていくと
大体は善良だけ
善良さのみで作られている人っていないので
その人間とは別れなければならない
このときに我々はいい人を失うので
非常に鬱的になる
これを防衛するのが
相的防衛
元気に防衛すると
こいつはろくでもないやつだから
切ってやるっていうやつですね
これは非常に大事な防衛です
これができないと
私たちは例えば
DVDの夫とずっと一緒にいるみたいな話になってしまうので
この元気に防衛ってのは大事なんですよ
ただこの元気に防衛したときは
二か理論だけで行こうとしているので
対象理論は必ずどこかにあって
それが後々
そのときからニューッと作動しているので
必ずいつか
寂しさとかヘルプレスネスがやってくるわけですよね
私は一人ではとてもやっていけない
一人しかいなくなってるんだけど
一人ではとてもやっていけないって日がやってきて
このときは非常に厳しいことになってるわけですよ
一人でやっていけないということは
あいつとやっていかなきゃならない
これが対象理論の困ったところなんですよ
そういうことを同時に意味はしていないんだけど
同時に意味してしまうんですね
私は一人でやっていけないとなれば
あいつと一緒になきゃいけない
自信満々で人をボコボコにして
でも実際にはパチンコしかしないような
あいつと一緒にやっていかなきゃならない
これが欲打つですよね
とても耐えられない
私たちはこれを意識の上に置いておけるかどうかが
勝負なんですよね
このときに私たちが
ひたすら自分がダメ人間だと思うのを
やめなきゃいけないわけなんだけども
なかなかそうはならないわけですよ
あんなのと一緒に
あんなのと別れてすら
心の葛藤と理論
自分はできないのかっていうことを
考えてしまうから
これは対象理論だからおかしいんですけど
私が一人でやっていけるなら
あいつと別れられるっていうのは
理屈になってないじゃないですか
対象ですよね
私は一人でやっていける
対象的に
私は彼といなければ
やっていけない
つまり全部家書いてあるわけです
私は私っていうところと
私と彼
やっていけるはやっていけないに切り替わってる
でもこういう理論を
持っちゃう人って
持っちゃうことって我々はあるじゃないですか
普通にみんな
あると僕は思うんですね
なぜかここから出られなくなるんですよ
別れるということは
今後はずっと一人でやっていくということだ
みたいなそういう理屈ですよね
そんな理屈は成り立たないんだけれども
成り立たせてしまうわけですよね
そもそも
別れたから一人でやっていかなければならない
っていう理屈がおかしいんだけど
これは対象の理論としては
おかしくないわけですよね
そういう文章
文章っていうのかな
一種のセンテンスの構造を使って
aは-a
動詞の部分は
vは-vみたいな
あるいはnot vみたいな
入れ替えて
ある種の心は
作動しているようなんですね
だからそれしかないような
気がしてくるわけですよ
もっとこれを大雑把に言うと
白黒思考とかゼロサム思考
っていうわけですね
それは思考の全体を指してるじゃないですか
でも大体そうじゃないと思うんですよね
ある特定の部分について
これをやるっていうだけの話であって
その人の思考全域を
白黒だけで
つけることが全てだみたいになっては
決していないと思うんですよね
白黒をつけることが全てだってなってしまう
っていうのはよっぽどの
二極構造であって
そんな風にはなってないと思うんですよ
僕は部分的に対称理論を使う
っていうのが我々の自然な姿であり
それは当然なんですね
葛藤を置いておくのは
辛いので
なるべく葛藤は置いておきたくない
さっきの明らかに嫌じゃないですか
あいつと一緒にいるのか
一人無人島で暮らすのか
極端に言うとそういうことになっていきますからね
どっちも無理なのは当然ですよね
だから本法は
我々は二家理論と対称理論の
根本でやっていくより他
なくて実際心というのは
そういう風になっていて
なるべくフロントじゃないですけど
Sのあったところに
私を置くようにする
つまり無意識にしか置かないように
していたものをなるべく
自意識の上でも置けるようになっていく
っていう心の中に
これを収納して
置けるようになっていった方が
その時心は
辛いかもしれないけれども
人生というものは
少し生きやすくなります
心がその機能を果たした方が
人生っていうのは
少しやりやすくなりますっていう
これが多分
あなたは今大変な状態にあるけれども
ありふれた不幸に
それを変えることならできるし
それによって得られるものも
少なくはないんです
だいたいこれを言ったから
フロイトはそういうことを言ってるよね
でも私は辛いんだよね
はびかれてしまうと思うんですよ
それは
私たちがニカ理論で生きることが
どんだけ辛いかということと
ニカ理論でなければ対処理論を選ぶ
っていうことがまた
どれほど現実を混沌とさせる
カオスとさせてしまうか
ということなんですよね