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2023-06-27 43:55

グッドバイブスで私はなぜそんなに楽になれたか?【GMV806】

罪の意識からの解放

サマリー

7月17日には板橋でリアルイベント、7月4日には対談が行われます。対談では、質問に真剣に取り組むことが大事であり、1対1の時間を大切にする旨が述べられます。また、話者は助けられていることに気づき、心の負担が軽減されたと語ります。また、不適切発言や罪悪感についても話されます。

00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
6月27日の朝、9時19分ですね。
少し今日は遅めなんですけど、これにもやっぱり諸事情ありまして、
今日は何編にするかまだ決めてないんですね。
お知らせ先にしましょうね。
リアルイベントの告知
7月の17日、月曜日の海の日に祝日ですけれども、
プラザの慶三さんとかなり久しぶりにぶっちゃけ相談というのを、
しかもリアルでやりますという告知です。
リアルでやるというのはつまり、場所を決めているんですけれども、
板橋だったかな。板橋っていうのは懐かしいんですけどね。
私は朝霞だったから板橋はいつも電車で東部東上線で通過する駅でした。
7月17日の3時ですね。
15時から17時まで。青空キッチンっていうところかな。板橋にある。
多分青空キッチンとかで探していただければどうなんだろうな、出てくるんだろうか。
あれです。GoodVibesの公式サイトから見つけることができると思います。
リアルで復活、GoodVibesなぶっちゃけ相談という告知がありますので、
PDXのほうからですね。
ぶっちゃけ相談を会場の多分皆さまから募ったりして、
そこでフラズモさんと私で答えると。
そういった催し物ですね。
7月17日で値段ですね。
一応、
3300円で飲み放題のお茶とお菓子付きということになっています。
3000円プラス税ですね。
なのでそんなに高いというようなもんではないかなと思います。
相談いただいてから、私のほうで先にこういうことかなという話をまとめて整理して、
何かこう、手に負いにくいというのかな。
少なくともここは私とは違う答えするだろうなというところをフラズモさんに聞くと。
これが一致してしまうことが稀にあるんですけど、本当に稀にあるんですけど。
それはそれでいいと思うんですけどね。
通常ないんで、2人分聞けますと。
それがお得かどうか分かりませんけどね。
2人が違うことを言わないほうが分かりやすいんじゃないかということもあるかもしれませんが、
まあまあでも多分面白い感じになるんじゃないかと、
私のほうでは勝手に思っているんで、
ぜひいらしていただけるといいかと。
板橋ってちょっと独特なんで、板橋でしょ、練馬の手前ですよね。
だから成馬市とかまで行かないって言っても、
ローカルネタすぎてちょっとピンとこないですかね。
とにかく池袋からすぐ近くです。
うちからはむしろ今は遠いんですけどね。
でもあの辺は行くと、なじみ感というもので、
すごい行きやすいんですよね、自分の感覚としては。
池袋から上に上がっていくっていうのは、
もう風景が馴染んでる感じが圧倒的に違うんで、
東京から南東京のほうは、僕は最近ようやく渋谷がですね、
なんとなくイメージができるようになってきたんだけど、
基本的には僕は池袋周辺でずっと過ごしていたために、
あの辺のことしかよく分からないんですよね、東京は正直。
東京駅とかも最近少しは行くようになって、
これは実家に帰るという関係上行くようになったんですけど、
関係ないですね、そんなところです。
もう一つ、告知ではこれはないんですけれども、
最近ちょっと、私のデビューについての見解が、
タスクシュード協会的にいかがなものかみたいなお話がありまして、
釈明会見的にね、釈明会見っておかしいんだけど、
そんな釈明するわけじゃないんだけど、
ちょっとその辺のことをしゃべりなさいということで、
しゃべるという流れになっておりまして、
多分これは7月4日になるんじゃないかと思うんですけど、
まだちょっと正確には分からないですけど、
これはあれです、イベントじゃないので、
普通に無料でお聴きいただけます。
ライブで聴きたい方はこの日をチェックしてくださいというぐらいですね。
多分、分かんないな、分かんない。
とにかくインターネットラジオです。
スタンドFMと言うんですかね。
あるいはボイシーかな。
そういったところで、J松崎さんと、
もう一人、クミさんという認定トレーナーの方と、
3人でカナエ談をすると。
その中で私が日頃から穏やかじゃない言動をしているから、
ちょっと釈明しなさいということで、
特にレビューについてお話をすると。
あと、最近のこの問題発言なのか知りませんけど、
そういうテーマについてちょっと突っ込んでいただくと。
これはすごい良いんですよ。
突っ込んでいただかないと、
私は自分で口を滑らせたとか出現したという自覚症状がゼロなんで、
全然、それってどこかおかしなところありますかぐらいになっちゃうので、
突っ込んでいただかないと分からないんですよね。
突っ込んでいただくというのは非常に素晴らしいことで、
なんで突っ込んでくれないんだろうなってむしろよく思うんですよね。
問題だと言うなら。
いや、あれはおかしいじゃないですかみたいなことをただ言われても、
どこがおかしいのかなみたいに、
本当にそうなってるんですよね、今、私の中では。
どこにも矛盾がないように、
むしろ気をつけてじゃべりましたぐらいなつもりでいるんで、
その辺が僕の抜けてるところなのかもしれませんけれども、
つまり僕から見える風景はそうなっちゃってるから、
誰でもそうだと思うんですよ。
他の人から見える風景と当人の見てるものはずれてるわけですよ。
このずれがない人って実はいないんですよ。
この話はもうさんざんたらしておりますけれども、
このずれがあることが、
いやそれは失策だし罪ですって言ってるのって、
実は本当はおかしくて、
これが失策で罪だって話になってくると、
その人には客観はそのまま見えてるってことになっちゃうんだけど、
そんなことはあり得ないんですね。
だからみんなずれてるわけですよ。
僕のほうがずれがでかいかもしれないけど、
程度の差でしかなくて、
ずれてることがいけないっていう話って、
実は本当は微妙にあり得ないことなんですね。
ずれてることはいけなくはないんですよ。
だって全員ずれてるわけですからね。
大谷翔平さんだってずれてるわけですよ。
どっかずれてなければ10割になっちゃいますよね。
これで打てると思って振るわけだから。
全部ホームランになってしまうんですよ。
だからそうはならないじゃないですか。
そしてピッチャーのほうもそうで、
投げていて、
打たれるだろうなと思って投げてる人はいないんですよ。
前もちょっとそういう話したことありますけど、
草野球やっててもそうだったんだけど、
僕ごときがピッチャーやってた時もあるんですよ。
僕たぶん110キロ出るかどうかなんですよ。
そういうピッチャーですらね、
絶対打ち取れると思って投げてるんですよ、あれは。
いやこれじゃ打たれるよねとかって思ってないわけですよ。
でも打たれるじゃないですか。
それはずれてるんですよ。
でもそれはしょうがないんですよね。
どっちかがずれてるわけです。
両方ずれてることもありますけどね。
野球の場合はね。
多々ありますね、そういうことはね。
何の話してるのか分かんなくなったんで、
そのままいきますが、
7月4日ぐらいだとたぶん思うんですよね。
でもまだ日程確実じゃないので、
追ってこの番組でも決まったらまたお知らせします。
たぶん面白い回になるんじゃないかなと。
興味がある人にとってはですけど、
そのタスクシュートなりレビューなりという話を、
Jさんと私とクミさんという方で、
カナエ弾的にやると。
対談の告知
これもこちらは無料で、
ただイベント会場とかはないんで、
オンラインの、
たぶんポッドキャストではないと思いますね。
分かんない。
ポッドキャストでも聞けるのかな。
分かんないな。
最近そういうの分かんなくなってるんで、
ポッドキャストでも聞けるかもしれませんが、
ポッドキャストでは無理だよね。
これポッドキャストで撮ってますけど、
今度はポッドキャストでは撮らないんで。
Spotifyとかなら聞けるのかもしれません。
ということですね。
なんかVCは専用のアプリとかあるし、
LandFMは僕ちょっと全然分からないんですけど、
たぶんあるんじゃないかと思いますね、アプリがね。
無理あった方が何かと便利ですもんね。
なんかそんな感じのことをやります。
で、えっとですね。
そうだな、
今日はこの流れでグダグダモードでもいいんじゃないかと、
思い始めたんですが、
今日はすでに始まってる時間がグダグダしていまして、
しかも僕まだ朝食もバナナ1本で済ませてしまってるという、
なんか腹が減ってきたんですよ。
だからなんかちょっとね、
まとまったことを喋るっていうニュアンスになかなかならないんですよね。
2つ告知はしましたよね。
あ、そうそう。
それでですね、
この込んでもらえるのが楽だっていう意味では、
ちょっとこちらは無料ってわけにはいかないんですけど、
対談ですね。
対談もぜひご利用いただけるとうれしいなと思います。
話すことの大切さ
私の生活資金的な理由でもそうなんだけど、
やっぱりでも聞かれて初めてすごいそこが分かってくるってことが多いんで、
そのために使っていただく必要は全然ないんですけど、
いわゆる60分対話ですね。
あれも直接対話みたいな名前にちょっとしようかと思ったんですけど、
別に名前はいいんですけど、
とりあえずあれは申し込みが多かろうが少なかろうが、
しばらくはオープンにしておいて、
なんか佐々木に言いたくなってきたみたいな時に、
あれを使っていただくっていうのが一番いいんですよ。
いや、別に無料で喋れる人にしてみれば、
金払って私と喋るっていうのはどうかというのはよく分かるんだけど、
確実にそれを最優先で空けますからね、その時間はね。
空けるってことが大事なんですよ、非常にやっぱり。
質問についてやっぱりすごくその日は集中していきますよね。
私もその日はもう罪悪感とか持たないようにするとか、
なんでそういうことになるのかっていうのは話すと長くなるから、
これ話せばいいのかな。
攻撃を絶対しないようにするとか、やっぱり心がけるんですよ、事前に。
そういうことがあるから。
マスクを開けておいていただくとですね、
確保していただくと話の身に入り方が全然、
ある意味やっぱ違ってきちゃうんですよね。
これがやっぱりなんとなく喋ってるというのとはまるで違うんですよ。
ここで喋ってるのはそれなりに気合入ってるけど、
やっぱり1対1でお金いただいてこの時間を作っていただいたという時に
やることっていうのは大事だなと思いますね。
例えば攻撃をしないと違っても、
ちっちゃいそうになる時っていうのが出てくるわけですよ、私レベルでは。
やっぱりね、あからさまに攻撃することは絶対ないけども、
やっぱり反論してみたいなのは出るじゃないですか。
そういう時に効くんですよね。
ここの時間とここの意味っていうものを考えると、
それは一切私のためにやらないっていう、
お金もらって喋ってるわけだから、
私のために喋ったんでは意味がないっていう感じなんですよね。
だから必ず聞いた内容に対するメリットを最大化するために頑張る。
やっぱりこの努力は1時間まるまるそれを続けると、
すごい疲れるんですよ。
自然とそうなるんだけれども、
だからといって疲れないわけではないんですよね。
疲れるんですよね。
グッドバイブス的には疲れというのもないのかもしれないんだけど、
実際には私はかなり疲れるんですよ。
この状況が終わると水とかをガブ飲みしたくなるんですよね。
これも最近気をつけてしないようにしてるんだけど、
一歩間違えたら2リッターくらい飲めちゃうんですよ。
あれはやっぱりある種の疲労なんだろうなって思うんですよね。
だからそういう意味で1時間で1万円ジャストくらいなんですけど、
水2リッター分の消耗
高くはないんじゃないかと私は最近は思っているんですよね。
水2リッター分くらいは消耗してるんで。
人間が1時間で水2リッター分くらい消耗するっていうのは、
あとを考えつくのは私の中ではスイミングぐらいなんですよね。
僕はマラソンしないんで、マラソンはもっと大変なんだと思うんですけど、
スイミング1時間ってきついんですよ。
ずーっと泳いでたら喉カラッカラになるんですよ。
水の中にいたのに。
あれは私子供の時何度も経験して、
なんかね、本当に、なんて言うんですかね、
喉乾いて死ぬんじゃないかぐらいに思うことがあったんですよね。
あれは何なんですかね。不思議な不思議な不思議な。
プールの水って絶対飲みたくないですよ、泳いでる最中はね。
今日はやはり言っただけあってぐだぐだモードですね。
まとめたテーマにしよう。
先ほど途中申し上げた対談直前までには、
罪悪感をゼロにしておくというのは、
私の考えではですね、混ぜないためなんですね。
この、例えば対談暗唱に乗り上げるっていうのは、
微妙なレベルではよく起こるんですよ。
いや、これ言ったこと伝わってないし、
あれうまくいってないなみたいになった時に、
どっちが、ここに何をどっちが持ち込んだんだろうって、
基本的に罪悪感を持ち込んだせいなんですよ。
ドバイブス的な言い方がすごく今日は多いですけど、
罪悪感を持ち込んだせいなんですね。
何かが罪だというか、何かが悪だというか、
そういう感じを抱いちゃったんですよ。
で、それをどっちが持ち込んだのかっていうのを、
はっきりさせておかないと、
基本的に相手の方が持ち込むというのが、
この場合やっぱりいいわけですね。
お金払っていただいてるわけだ。
私が持ち込んでしまうと、
相手の人に私の罪悪感を取ってもらうということになってしまうんですね。
これだと、やってもらってる感が出ちゃうじゃないですか。
せっかくだから、そのレビューの話にまつわってみましょうか。
例えば私がレビューについて、
不適切な発言をしたという話になったとするじゃないですか。
この時、まず不適切って言った瞬間に、
もう罪悪感が入りますよね。
不適切なんだから。
それは良いことではないっていう意味ですよね。
よく言いますよね、釈明会見みたいなやつで、
私の不適切な言動が誤解を招きまして、
申し訳ありませんでした。
謝ってますもんね。
つまり罪悪感ってこと、罪悪ってことね。
感が謝ってる人にあるかどうかはわかりませんが、
とにかく不適切という表現が出たということは、
すでにその時にそこに罪があった。
この場合、2つ考えられるわけですよ。
2つ同時に発生するというべきですね。
2つ考えられるって言って、
場合分けをするところではないんですよね。
多くの場合、この2つは、
というかすべての場合、
この2つは同時に発生するんです。
1つは私が不適切な発言をしてしまったかもしれないという罪悪。
これはしてしまったという罪悪感ではないかもしれないけど、
結局程度の問題から、
程度の問題は私はここはゼロにしないと、
あんまり意味がないと思うんで、
100とゼロを言うならば、
1とかにしておくことは意味はありますが、
基本的にはゼロか1かが大問題なんですね、罪悪感は。
処罰意欲を生むから。
すぐに膨らむからですね。
1が100になるのは簡単なんでね。
罪悪感と不適切発言
だからゼロにしなきゃいけないっていうか、
いけないっていうのともまた違うんだけど、
ゼロにするのが望ましい。
そしてゼロにはできるんで。
不適切だという言葉を使ったということがすでにですね、
私の思い出せないですよ。
だいたい思い出せないです。
あのような頃にした発言のあの辺があって、
もやっとしたらもう罪悪感を持ったんですよ。
で、不適切な発言がありましたよねとか、
あったんじゃないんでしょうかって言ってる方は、
もちろん私の罪を見てるわけだから、
ここが大事なんですけど、
私の罪を見るってことは、
相手の人の心の中に私像が作られて、
そいつが罪を犯したんですよ。
私と関係ないんですよ。
ここはものすごい大事なんですよ。
ここはね、とっても分かりにくいと思うんだけど、
やっぱり私の考えでは、
全ての人は原則的には夢を見てるんですね。
特にこんな時には夢を見てるんです。
当日こんな話しませんからね、多分。
分かんないけど、
私のことだからしちゃいかねないけど、
でも当日は違った話する予定なんで、
こういう話はここでしますね。
別にレビューの話じゃなくてもいいですよ。
私不適切だという発言は定期的にしますから。
言われますからね。
出言の多い人間みたいなところありますから。
政治家にならなくてよかったと常々思ってるんで、
なれそうにないですけどね。
つまり、
不適切な発言を佐々木がしたって言った時の
その佐々木はその人の心の中にいるんですよ。
私はその人の外にいる存在だから、
その人の心の中とかには住んでないので、
不適切な発言をしたよねっていう風に、
この人が思った瞬間に、
その人の心の中に
罪悪を犯した人間というものが生まれるんですね。
当然そいつは排除したくなりますよ。
私であろうと誰であろうと、
その罪が重かろうと軽かろうと。
だって、
私が余計なことさえしなければ、
これも大事なポイントですね。
しなければ、
その人の心が汚れることはなかったわけだから。
心の中にもやもやが生まれることはなかったわけですよ。
だから当然それは、
私の平安な心をこいつに乱しやがってということで、
このこいつは自分の心の中にいるんだけど、
当然それは真っ白にリレーズしなければ。
僕は最近それをリレーズって呼んでるんですけど、
心の中でね。
心の中で消しゴムを使って、
シューって消すわけで、
特に最近デジタルなんで、
コントロールYとか、
わかんないですけど、
コントロール何とか押すと速攻消えるんですよ。
スパッと消えて、
あー気持ちいい、
あいついなくなった、
よかったってことになるわけですよ。
この2つが同時に発生するんですね。
私の心にそれを生み出し、
相手の人の心にもそれを生み出すと。
この状態で対談してはいけないんですよ、
私の考えでは。
この状態で対談すると、
次にやり合うことはですね、
こんなに細かいことを言わなくても、
次にやり合うことは、
相互的長寿が
いやそんなに悪かったですかな、
いやあれ悪かったですよ、
みたいなことになるしかないですよね。
つまりどっちが悪かったか問題になっちゃうんですよ。
これが私は桃太郎状態と言うんですよ。
鬼から見れば桃太郎は侵略者だし、
桃太郎から見ると鬼は村人をいじめる悪者なんです。
ここに議論の余地はないんですね。
相手が悪いかこっちが悪いかのどっちかだっていうことを、
お互いでやり合うしかないんですよ。
これを松木先生が同害報復って呼んでるんだけど、
この状態に少しでもなったら、
わざわざ僕に金払って話する意味が全くないじゃないですか。
だからこれはカウンセリングではですね、
この同害報復を避けたいと多分、
どんな人も思ってると思うんですよね。
特にカウンセラーは思ってると思うんですよ。
こうなっても構わないやって思って、
こうなって1時間なんてあっという間に経ちますからね。
何の意味もない会話をそこで、
まあそれが何の意味もないかどうかわからないんですけど、
それは裁判所じゃないってことですね。
裁判所はこの状態をただ言っててもしょうがないから、
あえていろんな手続きを使ってですね、
弁護士の時間、検察官の時間、何とか陳述とかね、
そういうことをやって、
どっちからも確実に中立性が確保されている人が裁くわけですよ。
でも僕らこれができると思ってるところがあるんですよ。
いやあいつ悪いの100%明らかでしょみたいな。
佐々木不適切発言したでしょみたいな。
これはもう間違いないことだろうっていうね、
自分が検察官であり、
これも昔の武行書みたいですよね。
自分が検察官であり、
同時に裁判官でもあるっていうことが、
やって大丈夫だっていうふうに僕ら思ってるところがあるんですよ。
だから例えば私が皿を汚したのもいないのに、
皿を汚したでしょって言われて奥さんに怒られると、
なんかもう私が裁判官兼検察みたいになって、
そんなことを無実の罪を着せる奴はとんでもないから、
僕はちょっとグッドバイブス棚上げにして、
こいつを取っちめないと気が晴れないみたいになっちゃうわけですよ。
非常に面白い心理状態なんですね。
これが私は普通に精神分析の言葉を借りると、
相互的な長寿がっていうんだけど、
相互っていうのは要するに、
お尻に青い斑点があるから相互なんですね。
毛子犯ってやつですね。
青いって書いてある。
だから相、相は青い、子は古いですね。
相互的長寿がっていうのは要するに子供の長寿がですよ。
お前をやっただろ、悪いだろ、謝れよみたいなこと言って殴り出すやつね。
僕の子供の頃にはそういう子供がいて、
あれなんですよね、人を裁くんですよね、言ってみれば。
なんかわけわかんないガキ大将なんだけど、
要はそいつにとって悪いと思った方を殴る蹴るしていいみたいにその人を思っていて、
なんだという風に思うのかな、あれすごい不思議なんですよね。
よく彼に殴られたんですよね、蹴られたりもしているんですよ。
あれはどうしてああいう心理が生まれるのか、
なんていうんだろうな、まさに相互的長寿がっていうのを体現していて、
ちょっと蹴られたのは嫌だったけど、
非常に今でも彼のことを思い出すたびに、
そうかあれだなっていうのを考えるんですよね。
あれがあるんだな、人間ってものには。
だって彼はそんな、こう言っては失礼かもしれないけど、
今はもうお題とか出てるかもしれないけど、
当時はもう全然楽がないというか、楽がないっていうのはおかしいけど、
僕がこの種のテストでこの点取れるかっていうような点を
バンバン取ってる学校で、でもあれなんですよね、
いざ善悪が起こるとその人が裁いちゃうんですよ。
裁くって言っても要するに気に入らないやつを殴る蹴るやりまくるってだけなんだけど、
非常に喧嘩強かったんですよね。
当然ですけど、この種のことをやる人が喧嘩弱いようでは話にならないんで、
みんなそいつの言うこと誰も聞きやしませんからね、それじゃない。
まあまあそういう相互的長寿がってのはあるわけですよ。
こんなね、彼の行動を振り返って60軸を当てる必要あるかっていうくらい、
喋っててもおかしくなるんだけど、
なんかそれこそあれですよ、なんか面子でズルをしたから蹴るとか、
そういうことをやってるやつですよ。
いるんですよ、そういう人ってね。
でもあれでも相互的長寿がってやっぱり僕の中で今なってるんですよね。
名称としてはね。
わかるんですけどね、今はね本当にすごいお医者さんとかになってるかもしれないんで、
世の中わかんないもんなって。
話がどんどんずれている気もするんですが、
つまり、裁くっていうか、裁く手前ね、
両者が罪の意識を持っちゃうと相手なり自分なり、
その相手か自分かっていうのはここでは実はほぼ問題になってないんですけどね、本当はね。
だからさっき言ったんですよ、不適切って言った瞬間に、
もう自分の心の中の人間が不適切なことをしてるんで、
罪悪感と苦労
相手に持ってると思った時は自分も持ってるんですよ。
それを両者がやってるんですね。
だからこの状態って実はすごい複雑なんですよ。
2者いて、2者ともお互いに罪を見てるんです、実はね。
これを東映同意使って僕は言う、その状態の手前の段階なのかもしれないけど、
東映同意使っていうところまではほんの半歩なんですよ。
あとはかつて私が見た悪人、別に東山の金さんのチンピラみたいなのでもいいんですけど、
そういうのを相手に見て、だんだんその人はそういう振る舞いを始める。
そういうことになってるんです。
僕も僕で相手から見られている悪人の代表格みたいになってるはずなんですよ。
そしてそこで悪とされるわけですね。
上映が始まっちゃうわけですよ。
それは上映に過ぎないんですけどね。
演劇が始まってしまうわけです。
悪人を懲らしめる劇みたいなのが始まっちゃうわけですよ。
全然不毛というか、これをやらないということが現実同士、世界で一番楽になる方法なんで、
そのためにまずどっちかのほうが、まず自分に罪の意識を持たないということは、
つまり私に不適切発言というものは存在しないというふうに、
確信できないといけないんですね。
特にワンオンワンみたいなものが始まる直前までには、
不適切発言などというものはないし、
悪人などというものはいないし、
基本的には誤解されて困ることなんて起きない、
というのを確信しておかないといけないんですよ。
その確信を得られれば、相手の人が何を望んでいるのかが分かってくるんですね。
そうしないと、何を望んでいたとしても、
それが適切でないことになってしまうので、
話の展開が全く見えなくなってしまうんですよ。
そういう話ですね。
これは、鶏が先か卵が先か的な話でしかないというか、
そういう話にどうしてもなってしまうんだけど、
同時だからですね。
同時なものを順を持って話そうとしてるから、
そういう話になってしまうんですが、
普段からこの1on1をやるぞっていう、
だからこれを本当にやるのと、
普段からやると思っているというのとは話が違って、
やるぞと思っている功用というものがありまして、
普段からやろうやるっていう意識でいると、
この罪悪感を人に認めない、
自分にもちろん認めないっていうのを、
常時訓練することができる。
そしてそれがですね、最近、
つくつく感じるんですが、
これが人は一人では生きられないって意味なんだなというのを、
グッドバイフ宣言的になってきましたね。
倉園圭三さんが最初の頃に、今でも言いますが、
特に緑の本を書かれてすぐの頃によくおっしゃっていた、
もちろん人が一人で生きられないにはいろんな意味があって、
例えば自分じゃお米は炊けませんし、
そもそもお米を取ってこれませんしっていう意味でもそうなんだけど、
そういうことよりも、そういうことも大事ですから、
お米食べるのは大事ですが、
精神的に結構ですね、
最近私はすごい楽になってきているのはどうしてなんだろうって思っているんですね。
仕事量が極度に減っては困りますが、
仕事量が極度に減ったわけでもなく、
朝は相変わらず早く起きて弁当作んなきゃならないし、
そんなに楽になってないはずなんだよ。
楽になってるんですよね、非常に。
これはグッドバイブスのおかげだとよく言ってますが、
それはつまりどういう意味なのかと言いますと、
グッドバイフ宣言と真よけの護符
楽になるということはですね、苦労してたってことなんですよ。
何に苦労してたんだろうって考えてみると、
さっき言ったような、やっぱり罪悪感を細かいタイミングに、
何て言うんですかね、入ってくるじゃないですか、そういう話って。
例えばさっきの不適切発言、しかも今頭で思い浮かばないんですよ。
ここちょっと熱くて。
だから本当は違う例出したいんだけど、スッキリにしときますが、
不適切発言があったって、
昔の私がグッドバイブス以前の話なんですけど、
言われると、あったのだろうかって怖くなる。
この段階で既に大した話じゃないっていう風に相手に言っていただいても、
怖くなってたんですよ、昔は。
Jさんなりに大したことじゃないんですけどって言われても、
いや大したことだと思ってるんだろうな、Jはとかって思っちゃうわけですよ。
この辺はもう精神分析で全然ダメな発想だっていうのは散々言ってますよね。
その時僕が裏ではJがこう思ってるだろうなって思ってたんですよ、昔はよく。
これは内的対称ですよね。
いきなり分析用語で済まないんですけど、内的対称ですね。
つまりJの、例えば上半身の顔から前、後ろ姿とかないから。
前で佐々木さん困ったことしてくれたよねって思ってる、
私が想像したイメージはJ本体じゃないですよね。
これをやったらアウトなんですよ。
これをやるってことがアウトなんですね。
グッドバイブス的にもアウトだし、僕からすると精神分析的にもアウトだし、
メラニー・クライーン的に見てもアウトなんですよ。
これをやれば必ずスプリッティングが起きる。
世の中を分裂させて、悪いものを自分の心の中に置いて、
それを何とかしなければならない。
これにかかる時間が長いし、これにかける心理的なエネルギーもでかいし、
つまり見合わないんです。
それをやる価値は全然ない。
でもやっちゃってるときにこれを払拭する努力をするっていうのは大きな価値があります。
みんなするんですけどね、これ辛いから。
それでもこれを作り出すのが一つは、脳みそだってことを意識するといいんですよ。
こういうこと目高とかしませんからね。
なんとなく目高を思い出すのは僕の足元の前の方に目高がいるからなんだけど、目高しませんね。
昨日からですね、ちょっと困ってることにビワの実をハクビシンに食われるという打ち現象が起きてるんですけど、
ハクビシンもできませんね。
友達があいつちょっとダメなハクビシンだなと思ってるっていうのをイメージするハクビシンって多分いませんね。
これは大脳の大きさが小さいからとてもできないんですよ。
大脳神秘室がおでこの、猫の額ほどもないからハクビシンには。
だいたいそういう、人間の脳よりも全体が小さいですからね。
無理だ。
だから彼らは今ここに生きているんですよ。
人間だけがこれをやるんですよ。
スプリッティングをやるんです。
そして人間は、しかもこれをやめるのは無理でしょって言ってるんだけど、そんなはずは絶対ないんですね。
なぜならば、これをやるために使ってる、最近調べたんですけど、脳のエネルギーは通常よりでかいんですよ。
酸素消費量で測れるんですね。
脳内血中濃度でも測れると思うんですけど、そういうようなことですよ。
とにかくこれをやりだすと酸素を消費するんです。
この文献ちょっと後で確認して探してまとめておきたいと思ってるんだけど、とにかくそうなんですよ。
ってことはどういうことかというと、本当はそんなことを人体はしたくないとか思ってるはずなんですよ。
無駄なコストは避けたいのが生物ですから、そういうふうにできてますからね。
で、これにそんな普段より2割高い1、15%かな、もう酸素消費量増やしてもいいぜって思ってるってことは、
これにはメリットがあるって思い込んじゃってるんですよ。
これにメリットは何もないってことが確実になればですね、やめるんですよ自然と絶対に。
なぜならば、無駄なコストだ。
あれですよね、エンジンを無駄に空振かしてるのと同じことを実際やってるんですよ。
脳内で何かを考えるってことは、多分行動は一切とってないじゃないですか。
しかも多分それはグルグルグルグル同じことを考えては気にやんでるだけですよね。
それによって何かがうまくいくとか、気分が良くなるとか一切ないはずなんですよ。
それでもやると。
しかもコストはでかい。
物理的なコストがでかいということであればですね、やるってことはやっぱりここにメリットがあるんですよ、何かしらね。
じゃなきゃやんないと思うんですよね。
てか、やれなくなっていくと思うんですよ。
人は努力を余計することを好かないですから、余計な努力をすることによって苦しみ、何かが生み出されることもなく、
おそらくそういう人は時間の経過にも多少気を配ってるでしょうから、時間も経過しつらいことになり、
で、良い結果に至ることは多分なかったと思うんですよね。
でもやるってことは、何かあるんですよ。
何があるにせよですね。
私の場合はそれは真よけの護符だみたいな感じだったんです。
そうしておけば何か悪いことが、最悪の結末だけは防げるみたいに思ってたんですよ。
それを捨ててしまっても最悪の結末は防げるんで、捨てるようになったんですよ。
それからこの種のことには頭が回らなくなる。
そうすると不適切発言がありましたよね。
っていうのをどんなに言われようとしたとしても即座に忘れますから。
これは相手の人からすると違和感があるかもしれないけど、
不適切っていう言葉の成立を私の脳内では受け付けてないので、私がそれをするってことはありえないから。
Good Vibesの恩恵とイヤホンのオフ
犯罪とかになれば別ですよ。分かんないけど。
多分でも同じようなもんじゃないかなと今は思ってるんだけど、
でもこれだと問題発言になりかねないから犯罪とかは別としておきましょう。
別に私がそれをするってことはないと思うんだけど。
でも不適切発言とかは実際上は認めないわけですよ、脳内に。
それを私が主体としてするっていうのが成立しない。
成立させるために想像力を働かせるということは全然しない。
そうするとですね、ごく初期の段階でその種の芽は一旦詰まれるんですよね。
これが私を思いに楽にしているんですよ。
ということは昔こういうことでひどく苦労してたってことになるはずなんですね。
Good Vibesを知る以前は。
だからこれを知る前はそんなにこんなことで苦労していたということはですね、
これを頻繁にやってたという意味になるんです。
もしかして四六日をやってた可能性があるんですよ。
いろんな出来事が起きますからね。
だからこれをいろんな出来事があるたびにどっちに罪があるんだろうってやる。
常々最大のエネルギーを使ってるとか、真っ暗い部屋で膝を抱えて苦しんでたとかそんなことはないんだけど、
これをそれでもですね、起きてる時間中やっていてはですね、
普通にならなかったら滅茎ものぐらい精神的には厳しい修練を包んでしまっているようなものです。
例えて言うならば、自分をなんとなく責める声をするワイヤレスイヤホンでもくっつけながら、
その声が常にリアリティを持ってるわけじゃないんだけど、とにかく自分を責める声をずっと聞きながら、
例えばあれですよね、別れ話を持ち出して、
女の人の恨み事がずっと耳元で鳴っているような状態で仕事をしているみたいな、私から私の例で言えば。
そんなことを僕は言う。
だから、Good Vibesの恩恵というのは、そのイヤホンを切ったってことなんですよ。
時々オンになりそうになることがあるけど、即オフにする。
オフのスイッチを見つけたみたいな意味でもいいと思う。
なんならそれを取り外しちゃうのが一番いいんですけど。
今でもでも、なりかけることはあるから取り外せてはいないってことになるんだけど、
いずれにしてもオフに即座にするってことができているんで、
それによって、素晴らしいことが起きましたっていうのとはちょっと違うじゃないですか。
素晴らしいんだけど、体感すると素晴らしいんですけどね。
素晴らしいことが起きましたというのとは違う。
もともとイリュージョンでしかなかったものをずっと上映していたのを上映しなくなって、
普通に現実の中で、何らかのノイズがない中で暮らしていますっていうような意味でしかないんですよ。
いいようによってはね。
その声をもう全く聞こえない中でやると、こんなに身軽なものなのねっていう話にはなりますが、
それだから何かが起きましたってこととは違うんですね。
一人で頑張っていると思い込んでいた
違うんですが、そうしてみると、つくつく自分は人に助けられてるんだなっていうのがよくわかるんですよ。
これも不思議なんですよね。
以前だって助けられてたに決まってるんですよ。
私のこの能力から考えてできることの幅の狭さを思えば、
生きていくのでもっと精一杯になってないとおかしいんですから、
助けられてたんだけど、なぜか助けられてることが見えにくいんですよね。
さっきの罪と罰の上映会をずっと見てると、ずっと自分一人で頑張ってるような気がしちゃうんですよ。
なぜ?多分ですね。
さっきの、それこそ適切でなかったかもしれないんだけど、
別れ話を聞き出されて泣き言と恨み言を言われているっていう状態をずっと付き合って仕事なりをしてる感じがしてると。
小群奮闘してるような気分がしてくるんですよ。
昔、倉野さんがカプセルの中でっていう話をされて、
カプセルの中に一人閉じこもって生きてるつもりになってるってお話されてましたけど、
それのつまり精神状態ですよ。
だって、なんかそういう、何だろう、罪と罰ノイズみたいなのを聞いてるのは答えるんで。
なんかそれと戦って、しかも俺仕事までしてるっていうのに、そこで一人感っていうのが出るじゃないですか。
一人感って変だけど。
やっぱり孤立している感じっていうのが抜けないんですよね、そういう感じの状態って。
今のは例え話なんで。
でも例えば不適切なことを言いましたよねって話を聞いてしまって、それを真に受けると。
不適切って言葉を自分が主体としてやりうるんだっていうふうに思ってしまうと、
それを何とかしなきゃって思うじゃないですか。
それからずっと何とかしなきゃと思いながら仕事するなり、皿洗うなり、弁当作るなりするってことになるでしょ。
そうすると、こう、活動のメインでしているメインっていうか、現実に行っている活動と、
精神が引っ張られている方向に大きなズレが生じた状態が続くわけですよ。
これはやっぱりその恨み事言われているのと変わらないんですよね。
その時にやっぱり私は、
あ、俺すっごい一人でこんなに大変な話して頑張ってるよって思いたくなるんですよね。
その弁当誰が作ってくれたのかとかって気を回している余裕ないんですよ。
助けられていることに気づくことが解放感につながる
その仕事は誰が回してくれたのかとかね。
その仕事で出している誤字とかを直してくれているのは誰なのかとか、
興味持っている場合じゃないって感じになっちゃうんですよね。
ずっとそうだったわけじゃないんだけど、
そういうことを言われて場に受けて引きずってるって時間が長ければ長いほど、
人が自分と関わっているってことに気づく時間が断片的になってしまうんですね。
今はそれが持続的になってるんで。
なぜなら不適切とかを認めていないから、すぐそういうのは心の外に、
なんていうんですかね、
基本的には忘れちゃうんですよ。
忘れてしまった後であれば現実というものと関わっているだけじゃないですか。
その他のものと僕は意識上関わっていないで済むんで、
そうすると現実的に人がやってくれていることというのが常時自覚されるんですよね。
これが多分僕を一番楽にしている。
なぜなら助けられているんで。
助けられていた事態そのものは変わらないから、
助けられている量が増えているわけじゃなくて多分あんまりないから、
それによって楽になるって本当はおかしいんですけれども、
でもこれやっぱり精神的なものなんだと思うんですよね。
精神的に見えなくなってる。
つけられている実感って湧かなくなるんですよ。
仮に助けられていたとしても。
これ本当は喋ってて不思議だなと思ったんですよ今。
そんなに大変なところを助けられている時の方が、
もっと恩の感じでいいような気がするんですよ。
そうやって孤軍奮闘で恨み事言われて頑張ってるのに、
助けてくれる人がいるって時に、
むしろありがたいなって思いそうなものなんだけど、
思わないんですよ、そういう時だと。
むしろ逆になっちゃうんですよね。
今のように楽になっていて、
だから楽になっていて助けられている方がありがたいと思うというのは、
やっぱり不思議なんだけど、実際はそうなってるんですよね。
やっぱりこれは目や耳を通じて、
人が助けてくれるというのが入ってくるからとしか、
もう言いようがないんですね。
昔はそこが空想によって遮断されていたので、
入ってこられなかったんですね。
だから大変だったと。
今は楽になってると。
そんな感じがしますね。
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