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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
昨日一昨日、リアルに合宿に参加してきました。
何年ぶりだろう?
話すことが増えますが、話し切って残りの4日間はネタ切れになるので、いろいろ考えつつ行きたいです。
考えつつ行きたいのですが、考えつつ行っていません。
その辺で、グッドモーニングバイブス的にいろいろ怒ってしまうと思います。
まず、眠かったというのがあったんです。
この眠かったというのは、寒かったことと関係があるんですよ。
わりと甘く見ていて、寒いかなと思ったのですが、事前に調べた気温ではさほどニノミヤと変わらなかったので、大丈夫だろうと思ってちょっと厚着をしていくだけにしたら寒かったんです。
寒かったり、暑かったり、暖かかったりを繰り返していると急速に眠くなるところがあって、
まずそういうところもあった上に、合宿とかでよくつきものなんですけど、食事量が増えるんですよ。
普段家で食べているものを2倍弱くらい食べるんですよね。
これをやると眠くなるんですよ。
しかも睡眠時間を減らすんですよね。
多くの場合、僕よりほとんどの方は寝ていないので、集団行動をとっていると僕は寝不足になっていくという傾向があって、
3つ合わさって初日からすでに眠気があり、2日目はもうなんていうんですかね、要するに眠かったんですね。
良くなかったかというと良かったんですね。合宿そのものはすごく。
つくづくですね、こういう時に自分は体でないというのがまず一つ大事だなと思います。
100%は無理なんですよ、自分は体ではないとか言っても、
歯医者に行くと自分は体であるということを思い知らされるんですけれども、
歯医者とか行ったりするとですね、眠いとか言うのだってある意味そうですから。
ただ100%体ではないとかいうふうに考えるのは無理がありますが、
100%体だと思うのをやめるというのも同じくらい大事だと思います。
今回温泉付きだったので温泉良かったんですよ。温泉厚かったんですけど、
だいぶ違うんですよね、温泉に入るというのは。
03:00
でも自分が100%体であると思っていると、
私はこれがグッドバイブスより前にずっとそれを思っていたために、
精神分析を始め、ありとあらゆることが半分ぐらいずつしか頭に入ってきていなかったんですよね。
ここが大きかったんですよ、グッドバイブスで。
多分僕の学びと中ではですね、それ以降大きく変わることができたと思うのは、
自分が100%体だと思う必要はないんだというふうに思えるとですね、
いろいろなことが割と入ってきやすくなるんですね。
ここを頑張っちゃうんですよ、今の時代だと。
オカルトを一切認めたくないという気持ちから、
自分は100%体以外の何者でもないんだと思うじゃないですか。
そうするとオカルトから距離が置けたようで、
別のオカルトみたいなものに巻き込まれる感じがあるんですよ。
例えば今回の合宿でも温泉が何より良かったみたいになってしまうんですよ。
温泉は良かったというのは全然そうなんですけども、
温泉に入ってないとダメみたいな、
あるいは温泉付きの旅行にさえ行けば全て良くなるみたいな、
それはそれで結構スピリっぽくなるじゃないですか。
これ100%自分は身体だと思うと、
こういう発想になりやすいんですよね。
私が今回の合宿で一番良かったのは、
温泉がなかったら困ったと思うぐらい温泉は良かったけど、
やっぱり人とダイレクトでですね、
結構そこそこの人数の人と
ダイレクトに生活を共にするというのが結構大事なんですよ。
これを身体主義的にいくと認めたくなくなるんですよね。
こういうことは本当に久しぶりで、
これがなくても私は結構行けちゃう方なんですが、
これをするというのは人間に必要なんだなってちょっと思いました。
様々あるんですけどね。
一つ今回の、そういうことの流れで、
来週というか今週だな、土日に、
コミュニケーショントレーニングというのをオンラインでやります。
これはオンライン合宿です。
オンラインになると、
リアルとは違うということがとにかくあるなと思ったんですけど、
人と接触するというのは、
オンラインであろうとなかろうと大事なことなんだなというふうに、
今回は非常に感じたので、
よろしければコミュニケーションというのは結局、
人と接するということですよね。
このコミュニケーションそのものというよりは、
このコミュニケーションを通じて、
これからは多分コロナが落ち着いてきたので、
またちょっとわからないですけどね。
でも多分、これは先のことはわかりませんが、
落ち着いてくれば、いずれ落ち着くじゃないですか。
そうすれば必ず人と接することになり、リアル。
そうすれば必ずコミュニケーションがそこで起きるはずなので、
06:00
これに参加いただいて、
損することはない。
今風だなと思うんですけどね。
損したくないわけじゃないですか、皆さま。
だからコミュニケーションは良いですよと、
お伝えしておきたいと思います。
損したくないという話からいきたいと思うんですけど、
今回の合宿でもつくづく思ったんですけど、
私はずっとここのところ、甘えという一つのキーコンセプトを、
グッドバイブスの感覚の中に取り入れながら展開しているんですね。
多分甘えというものがいけないとされているのは、
甘えさせるとつけあがり、甘えさせた人だが損をするからだって思われているんですね。
この感覚の中には、さまざまないい加減な要素があるんですけれども、
そのうちの一つにですね、甘えさせるというときには、
相手の甘えが見えているということがまずあるんですよ。
ところが相手の甘えが見えているというときには、
自分の甘えは見えなくなっているという構造があるんですね。
クラゼンさんのグッドバイブスの表現を借りれば、
怒っている人は助けてくれと言っているというのと同じなんですね。
怒っている人は甘えが出ているんですが、
甘えが出ているというか助けてくれと言っているということは、
甘えが出ているわけですよ。
そうは聞こえないというところが大事というか、
私たちにとっての難しさなんですよね。
助けてくれと言ってくれれば話は楽なんですが、
大体そういう聞いたことはないと思うんですよね。
助けてくれという言葉そのものをですね、
大体ふざけんなとかって言われるんですよ。
だから困っちゃうんですよね。
もう一つ僕が今回の合宿で、
僕がレクチャーしているときにクラゼンさんのお話を聞いているうちに、
思い出したことがあって、
助けるなともう一つ難しい用語に甘えるながあるんですよ。
私が甘えるなと言っている人が甘えているんですよ。
この構図を見落とすんですよね。
甘えるなと言われると、僕が甘えているような気がしちゃうんですよ。
害して甘えるなと言われようと言われまいと、
我々は甘えているので通常、
甘えるなと言われると自分の甘えのことを恐れてしまうんですよ。
だけど甘えるなと言っている人は100%助けてくれと言っているんですね。
助けてくれと言っているということは甘えているわけですよ。
だから甘えるなという表現は甘えの表質なんです。
甘えの表に出ているんですね。
この辺が見えにくくて、
この辺が見えにくくなってしまう。
ふざけるなと甘えるなが
どっちも助けてくれない。
その人たちの甘えの表質なんだけど、
それが全く見えなくなるために
09:00
人を甘えさせることに困難が生じるんです。
コミュニケーション上のですね。
だからコミトレなんですけどね。
コミュニケーション上の困難というのは
この種の全く逆の表現をとるときが結構多くて
一番いいのは助けてくれと言ってくれればいいんですけれども
助けてくれという言葉は大体聞かないんですね。
甘えさせてくれという人は
ゼロなんじゃないかと聞いたことがないですよね。
恋人同士くらいですかね。
これが許されるというか成立し得るのはですね。
成立し得るのはですね。
甘えさせてくれというのは聞いたことがないですね。
だから甘えさせるというのは
わけわからん感じになってしまうところもあると思うんですね。
助けてくれというのは言えないということは
我々は理想的にはなんですけど
理想的には人に甘えてないという生き方をしている
気になっていて
私たちが
僕はこのグッドモーニングバイブスを最近ずっと
基本ライフハッカー系の人に向かってしゃべっているつもりなんです。
つまり自立心が旺盛で
社会的には自立十分できているという風な方に
向かっているつもりなんですね。
この人たちが私もそうですが甘えてるのは
情緒上の話であって基本的に
最大一番甘えてる部分は
情緒的な話であって
活動的とか金銭的という話ではないんですよ。
活動的にも甘えてはいるんですよ本当は。
かなり初期の頃にだと思うんですけど
グッドバイブスで倉園さんが渋谷で
私たちは人の仕事に
要するに頼って生きていると。
ここをそもそも現代の社会では見えにくくしていて
優秀な人ほどそれを意識しないで
済むような一つのシステムがあるんですね。
例えばテレビを見るというのは間違いなく
テレビを見るために
テレビ番組を放映するその他
テレビを作っているその他の
ありとあらゆるものによって支えられているから
当然テレビを見ている人というのは
人の仕事を頼っているわけですよね。
でも十分お金を稼げて
十分有能で十分頭のいい人は
テレビ制作側に頼っているなんて
感じないようにできていますよね。
別にお金は私が払っているし
こういうものがすごく必要だというわけではない
ぐらいの意識になりたいんですよね。
つまり自立していると
そういうふうに思いたいんですよ。
パソコンどうかなって思うんですけどね。
パソコン使ってたら
パソコンは作れるかもしれないけれども
一からは作れないじゃないですか。
12:01
でもそういうのってね
やっぱりお金を払っているという意識が
ちゃんとそこに含まれるようになっているせいか
頼っているとか思いたくないと思えば
思わずに済むんですよね。
それほどまでに守っているものは
自立しているという気持ちなんだと思うんですよね。
これが僕が言う
情緒的に甘えているという意味なんですけどね。
一切取り外されてみたらどうですか
という気もしなくはないんだけども
そういう意地の悪いことを言わなくても
全部が全部
セルフヘルプはできないでしょう。
ヘルプなんですよ。
やっぱりセルフヘルプって言うぐらいなんで
ヘルプ言うはセルフですよね。
どこまでヘルプマイセルフで行けるのか
ということと
本当のところ
情緒的にはヘルプマイセルフで行ける部分は
かなり少ない。
でも
割と大事なのは
その時の姿勢だったりするんですよ。
つまりこれがヘルプだったら
わかりやすいはずなんですよね。
甘えるなとか
人に頼るなっていうのは
簡単なんですけど
それは言ってみれば
見えない部分は見えないから
というやつなんです。
人がもし、自分がでもいいんですけどね
海で溺れてますという時にだったらですね
その表現がどうであれ
助けようとはするじゃないですか。
その時に
例えばですけど優先順位とか
考えないと思うんですよ。
マインドマップを書き始めるとかも
しないと思うんですね。
私たちは人に依頼されましたとか
人から仕事を割り振られましたといった時には
この問題を持ち出すんですよね。
人に怒られましたの時ですら
この問題をやっぱり持ち出すんですよね。
あいつのために何々をするのは
どの程度自分の人生にとって有意義なんであろうか
みたいなことを考え始めるんですよ。
その時に甘えさせるとつけあがるとか
そういう話が出てくるんだと思うんです。
甘えさせるとつけあがるとか
依頼を最優先でやると自分の時間がなくなるとか
言ってることは同じなんですけれども
要するにエスカレートするというわけですね。
もし溺れている人を助けると
その人は何度も何度も溺れる癖がつく
というようなことがあるならば
そういうつけあがるみたいな話にも
一理あるんでしょうけど
多分そういうことは起きないですよね。
自分がやっている時のことを考えると
わかると思うんですよ。
甘えが出る時、人に甘えるなと言ったりする時
あるいは人に怒ったりする時というのは
どういう心理状態にまずなっているかというと
多分苦しんでいると思うんですよね。
人に怒る時に
グッドバイオスでフラザさんも
お話しされていましたけれども
危機として怒っている人っていないんですよ。
15:01
多分結構苦しいわけですよね。
これはこの番組の最初の頃では
盛んに言っていたコルチゾール的な話で
十分だと思うんですね。
いわゆる返答体が活性化して
だいたい一人で
逃げるか戦うか死んだふりをするか
楽な状況は一つもないんですね。
サバンナとかで
動物がこれをやらなければならない時は
決死に近い状態。
致命的なレベルに入っていますよね。
この時すごく楽しくやるという
シカとかいたらむしろそっちの方がすごいですよ。
全力で逃げるか死んだふりをするか
死んだふりはもう最悪ですよね。
多分死んだふりしても死んじゃいますよね。
死んだふりをするか
もうやむを得ないからライオンにシカが向かっていくか
どれも絶望的な状態だと思うんですよ。
怒っている時の心境がこうなっていることは間違いないです。
もしこうなっていないんだったら
その人はただ怒っているふりをしているだけですね。
これが表に出ている時というのは
でもヘルプミーじゃないですか。
助けてくれということですよね。
これは助けてくれる人が
あるいは助けてくれる存在の外側にあるならば
助けてくれということは
セルフヘルプはできないということですよね。
つまり甘えが出るということです。
甘えが出るということは
つまり切羽詰まっているということですよね。
もう瀕死な状態なんです。
幸いなことに人間社会はサバンナじゃないんで
これが出るからといって
必ずしも必死なわけでも
決死なわけでも
致命的なわけでも
絶望的なわけでもないから
だからむしろ分かりにくくなっているんですよ。
その人が怒っているということは
その人が
セルフヘルプしきれなかったんだ
ということが
分かりにくく見えています。
分かりにくくなっているから
みんなは甘やかすと
つけあがるんじゃないかとか思うんですけど
サバンナで鹿を助けたからといって
鹿は別につけあがらないですよ。
そういうことなんですよね。
我々はそういうふうにはできていないので
なるべくそういう目にはやっぱり
いろんな意味で
会わないようにはしますよね。
会わないようにしているんだけど
会っちゃうから
ヘルプミーなわけじゃないですか。
その時にヘルプミーと言っても
周りに誰もいない場合は
3Fのどれかを選択するしかないから
怒るわけですよ。
怒るというのは
そのくらい追い詰められているわけで
だから私は怒りたくはないわけですよ。
どういう状態であるにせよ。
状況によっては
怒るということになってしまうと
それは相手をつけあがらせないためだとか
いうのは
こういう文脈で追っていくと
相当ナンセンスな感じがして
怒るというのは
絶望的な状態にあるはずなわけですよ。
絶望的だから
自分の甘えが外に出るわけです。
ヘルプミーが外に出るわけですよね。
セルフヘルプできているんだったら
それ出ないですから。
それが外に出るということは
セルフヘルプは無理だ
18:01
ということになっているわけです。
そんなことになりたくないじゃないですか。
そもそも。
だから怒りたくはないわけですよね。
怒るのというのは
全力で逃げるのと
ほぼ同じ状態にあるという認識なので。
で、なんですよ。
さっき言った通り
ここはサバンナじゃないんで
そのような状況には
実はないんですね。
実はそれはイリュージョンなんです。
っていう話を
グッドワイルスでは散々しているんだけど
僕らはそれが
信じられない。
理由は簡単で
イリュージョンと現実は
区別がつかないからなんです。
このことがですね
このことをグッドワイルスでは
ずっと言ってるけれども
ずっと言ってるんですけれども
区別をつけるのは難しいというか
不可能なんですよね。
区別をつけるのは不可能なので
イリュージョンだという風に
考えておく必要があるわけです。
これ事前にってことになりますよね。
結局。
その時にはもう
ますます難しくなっているから
事前に自分が怒った時は
実は追い詰められていると
サバンナの鹿になったような気分で
いればいいんですよ。
周りにライオンの群れがいて
でもこれがイリュージョンであるならば
いいわけですよ。
問題なのは
明らかにイリュージョン
っていうか現実とイリュージョン
見分けがつかないから
その恐怖心というものは
一杯になるから
その人は怒るわけですよね。
この人に向かって
実はこれはイリュージョンでしたと
告げることは
相手を甘やかすというか
甘えさせることになるんですけれども
これをイリュージョンですと
告げることによって
相手がつけあがるかというと
それは絶対ないと思うし
万が一つけあがったとしても
やっぱりこれはイリュージョンですと
伝えてあげたほうが
親切だろうと思います。
これを伝えるのに
躊躇するというのは
現実が見えていれば
ありえないことだろうなと思います。
これを伝える優先順位について
考えるために
これからマインドマップに書き出すとかも
ありえないと思うんですよ。
そんなことは多分
この状況がよく見えていればしないだろうと
多分それをするってことは
この状況がよくわからないんですよ
私たちには。
私たちには
残念ながらわからないことが多いんですね。
状況が複雑なんで
だからなるべくシンプルな
例え話に切り替えているのが
グッドバイブスなんです。
このイリュージョンと現実が
見分けられないというのが
甘えさせるでも
という文脈を使ったとしても
やっぱりネックになるんですよ。
大きなネックになります。
だって甘えさせたらつけあがる
というのは完全にイリュージョンなんだけど
それも現実だと思うからこそ
できないわけですよね。
21:00
いろんなイリュージョンがここにはあり
それが全部自分の中では
現実だ、現実だってことになっちゃってるから
できないんですよ。
自分が怖がってる
多分甘えさせるという自分が
許せないっていうのも
最近の我々で言うと
時間がもったいないとか
言うんですけど
それも溺れてる人を助けるのに
時間がもったいないとか思わないように
現実が見えてくれば
そうは考えないんですが
それも現実だと思うので
時間はもったいないわけですね。
怒ってる相手のために何かをするなんて
とんでもないわけですよ。
時間がなくなる上に
相手がつけあがりエスカレートし
ますます自分の時間が奪われて
自分はサービス残業を死ぬほどさせられて
やがて過労になって
職場打つになって死んでしまうわけですよ。
こういうイリュージョンが
これをイリュージョンと言うと
今は非常に
このような表現自体が
恐れられると思うんですけど
やっぱりこれもイリュージョンなんですよね。
相手が言ってることは
ヘルプミーなので
ヘルプミーも甘えなんですけれども
ヘルプミーが
エスカレートすることはないんですね。
ということが
エスカレートすることがあるんだという
風に考えるのをですね
やめるためには
どうしても目の前で見ているものは
特にこの種のことが絡んだら
怒りとか
ブチ切れるとか
ふざけんなと言われたとか
そういう強い懸念がある場合
イリュージョンかもしれないと
思うためには
普段からどうしてもやっぱり
こればっかりは普段からですね
自分の見ているものは
原則イリュージョンなんだということを
認識しておくしかないと思うんですね。
そうしないと
いざ巻き込まれた時に
周りがライオンだらけですって時になって
これはイリュージョンかもと
急に思えないですよね。
むしろそういう時こそ
もはやイリュージョンだと思っている場合
じゃないと思うほうが当たり前なんですよ。
それがサバンナとシカじゃなくて
大体の場合は
皿をおしまいと言って
奥さんに怒られたとか
書類をちょっと小さなミスをして
上司かアホみたいに怒ってるとか
そういう状態なので
あるいはもうちょっと複雑なのでも
このプロジェクトの一定進行について
最初から懸念があったんだけど
周りの人は楽観的に
能天気に進めているように見えて
後になってくると
自分に責任が降りかかってくるとか
そういうイリュージョンですね。
今の最後のなんかは
多分イリュージョンではないと
経験した人はきっと思うと思うんですが
そうではなくて
全部イリュージョンだと
まず思っておいたほうが
いざそういう問題に巻き込まれた時に
いろんなイリュージョン
全部じゃないんだけど
9割型イリュージョンだっていう部分が
見えてくるので
24:01
ようやくそうなって初めてですね
人が怒っている時は
基本的には
ヘルプミーであって
甘えの表出なんだと
表出は表で出るんですね
甘えが出るんですよ
自分も助けきれないわけですからね
今回の合宿の夜に
私は夢を見まして
その夢を見ている真っ最中に
名刺勤務だっていうのに
気づいたんですね
つまり自分は夢を見ているんだ
ということに急に気づいたんですよ
その時前々からやろうとしていたことが
いくつかあって
一つは2桁同士の暗算だったんですよ
68×49なんです
それはもう前々から決めてて
できたんですよ
できたというのがなぜ大事かというと
一般に夢見の最中には
数字の計算等は
無理だと言われていて
これが一つの夢を見ているのかどうかの
判断基準になると言われてたんですけど
言われたのでやったんですね
68×49を暗算で
できたんですよ
だからそっか
夢見中の暗算ができない説は嘘だなという
そしてその後
時計を探した
僕は夢見の最中は渋谷にいたんですね
時計を探したんですよ
時計もちゃんとあり
時刻もちゃんとしてるんですね
時計も数字がなかったり
数字が99時間とか
変になってるってことになってるんですけど
そんなことはないんですよ
きちんとしていて
そっか
夢見中の判断基準に
時計使うのと暗算使うのが
ダメだなということが分かったんですね
これをまず知りたかったんです
もう二つあって
どの程度この夢の中の現実というものは
リアリティがあるだろうかと
もっと夢っぽくですね
もう少しリアリティが
入ってるかと思ったんですけど
そんなこともないんですね
ほぼ完璧なんですよ
ていうかほぼじゃないですね
完璧です
だから自分はなぜこれを夢だと
こんなにはっきり分かったんだろうというのは
いわゆる内的確信というやつで
夢の光景そのものには
夢である根拠はなかったんですよ
道路のヒビとかもバッチリで
バスの排気ガスとかも
臭いもするんですよ
臭いしないっていう風に
言われてるんですけどね
臭いはするし
この中に飛び込む気は全然しないな
っていうくらいちゃんと
グオーンっていくんですよね
びっくりするレベルです
すっごいよくできていますね
最後に僕が
これはでもダメかもと思ったのが
太陽を見ようと思ったんですね
これも前から決めてたんです
夢は目をつぶっている上に
部屋暗いはずなので
隣に誰が寝てるかっていうのを
僕が懇親会で
みんな喋ってんだろうなというのも
はっきり意識していたけど
自分は渋谷にいたんですよ
だから明石部っていうのは
27:00
少し病的な感覚なんだと思うんですよね
現実検討式がおかしくなり
兼ねない頭の使い方なので
通常できないのは
当然だなと思ったんです
太陽を見たんですよ
つまり真っ暗の中で
あんなに光輝くものを見るって
どういうことなんだろうと
真っ赤っていうふうに考えれば
明るさもイリュージョンなので
太陽であろうと何であろうと
暗闇の中であろうと
目をつぶっている音
だって聞こえてない音が完全に聞こえるし
人の話し声もしてるし
さっきのバスの無音もしてたし
しないはずの排気ガスの匂いも嗅げたので
光がないはずないんですが
面白いことに
太陽はちょっと雲がさしてたんですね
本当に夢というのは
よく作られてるなと思いました
太陽なんだけど
海星の太陽を真っ正面から見たときほどの
光は感じなかったんですよ
とはいえ光はあるんでね
だから光というのは
外的なフォトンの
エネルギー格子とかではないな
っていう感じがやっぱり私はします
夜空はなぜ暗いのかっていう本が
あれは名著だと思います
夜空っていうのは
必ずしも暗くなる
本当の理由はないと
宇宙航空の時に
宇宙航空の時に
宇宙空間には
太陽の何万倍という
光の星が何個もあって
遠いからって簡単に
我々は考えちゃうと思うんですけど
遠いからは答えにならないんですよ
夜空が暗いことの理由として
根拠として遠いからはダメなんですね
とにかく星というのは
どんどんどんどん
要するに遠くまでは
無限に近く星があり
しかも何て言うんですかね
何万年前の光というものも
届くのに時間がかかってたら
夜は暗いじゃないですか
夜というのも昼と同じくらい
異常に明るくても
おかしくはないという
パラドックスなんですね
でも夜は暗いと
なぜなのかということを
物理学的に検討している本なんですけど
大変面白いんですが
私はあの本でどうしても
納得できない部分があって
つまり夢の中に昼がある
という問題は
夜空が暗くない理由を
説明できてないんじゃないか
ということなんですよね
これはですね
夜空が暗いことには
心理学的な理由があるはずだ
というふうに僕はずっと思っているんです
たぶん現実検討式が
正確でない
こういう言い方もあれですけどね
正確でない人は
夜と昼を取り違えたまま
夜を歩いている人にとって
夜は明るいに違いないと思うんですよ
そういうのは余談なんですけどね
この話をなぜ今したかというと
つまりイリュージョンと
現実の区別ができないのは
当たり前なんですね
起きておりますと言っても
これはウィルフレッド・ビヨンの
言ったことですが
起きていたって
起きていながら夢を見ているだけであって
寝ている時は現実と
30:01
現実の素材を使わないで
夢を見ていると
起きている時は現実の素材を使って
夢を見ていると
私たちがやっていることは
基本同じだというふうに
ちゃんと正しいなというふうに
今回、明晰勤務で確信しました
少なくとも自分の見ている光景に関する限り
眠って渋谷を見ようと
起きて渋谷を見ようと
同じです
バスの行き先も
記号のあのなんとか
うの64みたいなの
あれも完璧です
完璧に再現できちゃう
当然なんですけどね考えてみると
とにかくそういうことがあるので
私は今起きて
喋っているつもりになっているし
目の前に何かがあるというふうに
思っていますけど
全部夢で再現できちゃうレベルなんですよ
外のものなんて何も見てないんですね
ということは全部イリュージョンなわけですよ
ということは
甘えさせるとエスカレートするだの
ここはもう怒るしかないだの
という気持ちも感情も
その光景もその相手も
全てイリュージョン
間違いないと思うんですね
あるならば
絶望して怒るという選択肢を
取りたくはないですよね
そういう話なんですよね
最終的には
自分が相手を甘えさせるということと
自分が自分を甘えさせるということが
一致するんですけど
この話は飛躍がありますけど
さっきの話からは
でもやっぱりイリュージョンが
そこに介在するから邪魔なんですよ
イリュージョンが介在しなければ
話は簡単なんです
相手がヘルプミーと言っていると
怒られたくないと言ってる人は
要は相手のヘルプミーを
聞きたくないわけじゃないですか
これはヘルプミーだと
聞こえればですね
多分そうは思わないと思うんですけど
ヘルプミーが聞きたくないと
聞きたくないなら助ければいいんですよ
助けてあげれば
相手のヘルプミーは止まります
そうすると仮に
そうできなかったとしても
そうしようと全力を尽くすということは
結局自分の身を大事にして
いるってことになるじゃないですか
相手のヘルプミーを聞きたくないというのが
自分のニードですよね
ニードというのはつまり
言葉にならない要求ってことなんだけど
何を自分が望んでいるか
分かりもしないってことなんですが
その自分のために
総力を尽くすということは
結局それは自分を大事に思っている
ってことになるはずなんですね
だからどういう観点からしていってもですね
目の前の人が怒っている
ということに対して
逆襲でことを片付けようとする
あるいはその人を無視して
何とかしようとするというのは
どっちも100%
イリュージョンというものを
完全に認めてしまう
ということになってしまうんですよ
これが僕は
イリュージョンを完全に認めてしまう
ということは
名刺勤務ならいいんですよ
名刺勤務であることを忘れて
33:00
また夢の中にどっぷり浸っても
目覚めないで
でもイリュージョンの中に
100%どっぷり使ってしまったら
もう目が覚めようがないですよね
起きているのに夢を見ちゃうわけですから
本当はですね
これをやっても
何とかしてもらえるんだけれども
私が思うに
これをやるのはしばらくの間
なんていうんですかね
無有病に自分を委ねるようなものなので
やっぱりリスクを取ることになる
と思うんですよね
むしろ
甘えている相手を
突き上げらせるのに比べると
はるかにでかいリスクを取るような
気がするんです
そのリスクを
覆されるってことは多分
精神障害なんだと思うんです
現実圏としては
失うということですからね
多分
怒っている相手のヘルプを
完全に無視するということをやると
このイリュージョンを
自分が見ているイリュージョンを
イリュージョンであることを
二度と目覚めることができない
ということは多分ないですけれども
しばらくの間
夢を見たまま
現実を生きることになっちゃうんだ
と思うんですね
それをやっぱり私たちは結構
警戒するべきなんじゃないかと
倉澤さんの甘えるなと言われたというのは
音楽で生きていきたいって話と
関係があったようなんですけれども
音楽で生きていきたいだと
私も分かりにくいので
親がもしそれをやった場合
親としてとっさの恐怖を覚える可能性は
あるなと思うんですね
この恐怖感というのは何かというと
娘が例えば音楽でなくてもいいんですよね
絵でも同じなんですよ
漫画家になって生きるみたいなことを言うと
親としてはとっさに恐怖すると
甘えるなと言っても
ふざけるなと言っても
何でもいいんですけれども
これを言うということは
ヘルプニーなんですよ
親側としては
これを親になれば分かると思うんですよね
そこにはある種のやましさがあるんです
甘えるなと言っておけば
すん
もしもこれを親として
全力で支えるということになると
大変だという思いが起こる
大変だの中身は
やり方が分からないというのが
大変だということなんです
大変だの中身は
やり方が分からないというのが
絶対含まれていると思うんですよね
含まれているんですよ
音楽で食ったことないし
音楽で食うとはそもそも
どういうことなのか分からないし
できるような日が全くしない
ということを
という自分の状況の中で
相手をサポートするということに
鼻肌強い不安を覚えるんですよ
この不安ゆえに
3Fになってしまうんですね
牙を相手に剥くと
そして黙らせることが
それでできるならば
安心だという
36:00
その中には自分がやりたいことを
やりたいとか
休みたいときには休みたいとか
そういうものが
全部入ってきてしまっているので
実はやましいんですよ
後ろめたさがある
結局のところ相手のために
最大限の時間を使うのが
怖いということになるんですね
ふざけるなという表現って
多分こういうのが
音楽とかじゃなければ
対比しやすいんですよね
例えば娘が高校に行きたいとか言って
同じようにふざけるなとは
私は言わないじゃないですか
なぜかというと簡単なんですよ
高校には行くメリットが
どういうものであるかを
私は知っているから
そして行かないデメリットが
何であるかも知っているから
そして何よりも大事なのは
高校に娘を行かせることができるから
やり方も知っているから
さっきのは逆なんですね
今で言えば音楽よりも
TikTokで食うとかいう話を
されたとき恐怖感にとらわれる
やり方がわからない
それで食うことを考える
メリットも見えてこない
それを諦めたときのデメリットというのも
ないような気がする
しかも私が自分でTikTokで
食うということはできる気がしない
さっきと逆になるんですよ
高校に行かせる行かせないの話と
だから高校に行きたいというのは
甘えには聞こえないんですよね
というか甘えるなとは
言わないんですよ
こっちが恐怖してないから
同じことだと思うんですよ
ある意味では
子どもが何の気なしに
やりたいことを口にした
現に高校に行くなんて甘えるな
という表現って
私が子どもの頃
女の子は言われる子はいたんですよ
高校に行くには金かかりますからね
だから甘えるなという表現を取ることは
おかしなことではない
おかしなことではないというか
ありえないことではないんですよね
自分が怖くなっているから
そのようにむしろ逆に
高校に行かないと言うと甘えるな
と言いそうな気がするんですよ
これって要するに
自分にとって
何がその人がやると
安全で安心で大丈夫か
ということに関する
イリュージョンを持っている
ということなんですね
自分のイリュージョンが破られそうになると
つまり安全イリュージョンが破られそうになると
怖くなるわけですよ
自分の子だから
怖くなると
相手をとりあえず黙らせたくなるわけですね
そのようなことを言うなということですよね
これがこっちの甘えなんですよ
親側から見ると
自分の甘えというのは
分かっているので
セルフヘルプしきれない部分なんですね
TikTokをやって
うまくいかせて
食わせていくという自信が
私の方に100%あれば
多分甘えるなとは言わないでしょうね
それを応援するかどうかは知りませんけれども
多分ふざけるなとか甘えるなと
言わないと思うんですよ
私は
あらいぴろよさんから
39:00
この話も書きたいんですけれども
ヒステリーな傾向
自分自身のヒステリーな傾向というものは
漫画化された方なんですけれども
最初の方では
ひたすら男の人を
ナンパしてあふるというのを
繰り返しているギャグ漫画みたいなのが
だんだん後半になってきてから
深刻化していって
お父さんが言うするにすごい人なんですよ
高校行きたいというと甘えんだと言うんですよ
それを殴ると
そういう感じなんですね
このお父さんはもちろん甘えていらっしゃるんですけれども
娘にて
要は
高校に行かせるということになると
自分の負担が増えるということが恐怖なんです
これ
このお父さんの甘えを
甘えさせることによって
つけあがるということはありえないじゃないですか
じゃあ娘高校
行くってことにしても
行かないってことにしても
このお父さんの恐怖は
容易には取れないと思うんですね
今のような時代に
女の子だから高校にも行かせない
みたいなことを
押し通したくなるほど
自分が切羽詰まっているわけですよ
何もできないわけですよね
ほとんどの苦労はないわけじゃないですか
今無償化すら話題になっているぐらいなわけですから
だけれどもそれを行かせたくないというほど
何か少しでも自分の負担が
ほんの僅かでも増えれば
自分は破滅するぐらいに
思っていなければ
この種のセリフは出てこないと思うんですね
でもこれ漫画家になりたいだろうと
音楽で生きていきたいと
同じなんですよ
切羽詰まっている度合いが弱ければ
多分反対する力も弱くなるでしょうし
切羽詰まっている度合いが強くなれば
当然恐怖感から子どもに対する言葉も
厳しくなるでしょう
この種のことが
キレるとか
怒るとか
不尽なことに言い返すと言った時に
全部の時に
私たちが追い詰められていた時に対する
反転構成という意味を持っているはずで
反転構成をするべきだと
確信している人に向かって
ここで甘えさせないと
イリュージョンが消えません
という話をすることによって
恐怖感が強化されるはずなんですよね
それ故に
ここはキレるしかないという人に向かって
キレる以外の選択肢の何を示しても
私がキレられるという形になるんでしょう
でも私の明石無が
それをそうじゃないことを告げているんですよ
やっぱり私は
イリュージョンと現実の区別をすることが
できないんですね
たまたまあの日は
いろんな要素が組み合わさって
夢であることが内的に確信できたんです
たまたまですね
外的には一つの根拠も証拠も見出せなかった
完璧な渋谷でした
42:01
だからここは夢だと確信して
刃物とか振り回す気にはやっぱり慣れなかったんですよ
そこまで確信が持てない
ちょっとバスの下に身を投げてみようとか
一気には慣れなかったんですよ
怖くて
怖くてってことは夢だと確信しているようでも
まだ確信しきれてないってことですよね
そこまでは確信しきれてなかったんです
身投げしても大丈夫だったはずですよ
夢だったからね
起きた後にやっぱり真っ暗だったし
隣に知った人が寝てましたし
そうだよなと思ったわけです
通常これは無理だよなと
通常これが起こってしまったらむしろ困っちゃいますからね
だけれども
通常これ
こういうふうに僕らは現実を見ているんだと
少しは自覚して動かないと
特に切羽詰まったときの行動が
完全に狂ってしまう
切羽詰まったというのは間違いなくイリュージョンなので
夢の中でバスに身投げしても死なないんですけれども
死んじゃうと思い込んでいるようなものなので
区別がつかないんですよ
でも現実にはどこかに現実があるはずなんですよね
完全に区別がついていなかったとしても
現実にはどこかに現実があるはずです
現実にはどこかに現実があるということは
イリュージョンの部分は
そういう決定的な行動を取るときほど
怒るとかね
そういうことを取るときほど
可能な限り慎重にならないといけないと思うんですね
だいたいそうじゃなくなるんですよ
逆になってしまう
そういう切羽詰まっているときほど
慎重さがほぼ見失われるので
ここを逆にすればいいんだろうなと思うんですけど
だいたい私たちが慎重にできるときというのは
何も起こっていないときだったりするし
一番慎重さが求められるときには
しりを熱烈なことを平気でやってしまう
というところがあるので
やっぱり普段からこれが全部イリュージョンだと思って
損することって別に本当のところはないんで
意味もなくというのは
おかしいのかもしれないんですけれども
セルフヘルプできしきれていない人に向かって
甘えずにセルフヘルプしなさいというのは
やっぱりほぼ意味のない話になってしまうと思います
そういうことが
例えば病人の布団をはぐとかですね
あるいは病人が
要するに病気というのはセルフヘルプしきれないから
病気というものそのものがヘルプにいいじゃないですか
ある種の外的な依頼へ向かっていると
そのときにやっぱり甘えるなとは言わないと
思うんですよね
そしてマイノワークも書かないと思うんですよ
この病気の人を面倒見る優先順位は
どの程度高いのだろうと考えるとすると
たぶん
現実は全く見なくなっているということなんだろうから
45:01
夢100%でOKですと
そういうことになっちゃうと思うんですね
夢100%でOKなまま
行動を歩きたくないと思うんですよね私は
夢100%でOKと考えたまま
車の運転をしたくないじゃないですか
大変怖いことっていう部分があると思うんです
目は覚ませますよ
健常な人であれば
2、3時間のうちに目が覚める瞬間がきますが
自分では気づかないですけどね
2、3時間でもやっぱり避けておきたいかなという風に
最近は思うので
だから自分は切れないんですよね
少なくとも最近はそうなんです