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2020-09-11 38:28

【GMV 222】他人は現実なのか?

いただいたご質問にお応えしました
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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
クラソノケイゾーさんと一緒に、グッドバイブスの人生相談というYouTubeの番組をお送りしているんですね。
その番組は、視聴者の皆さんからご質問やご相談をいただいて、それに私たちがお答えするというものを動画で配信しているんですが、
その質問の中に、まず私だけに当てられたご質問が時々いらっしゃるんですよ。
それも番組で答えることもあるんだけど、今回は私がその質問をこの番組を通じて読んでお答えしようという回にしようと思っています。
2つあるんですけど、1つ1つ言って、1つで2つとも答えられるかなって感じなんですが、とりあえずまず読みますね。
佐々木さんは、どうすれば成功するかは他人に教えてもらえばいいと、現実に教えてもらえばいいということを書かれていたように記憶しています。
この文脈でいくと、他人イコール現実となるのではないかと思います。
他人がイリュージョンを抱いているとすると、自分もその人と同じイリュージョンを抱かなければならなくなるのではないでしょうか。
これは相談なのか質問なのかというと質問だと思うんですけどね。
ちょっと込み入っているので、整理しながらまずいくんですが、成功するのに限らず自分が何をすればいいかは他人に教えてもらえばいいということ。
現実に教えてもらえばいいというのは、倉園さんの受け売りですが、あえてタスク管理的な文脈でいうと、依頼主は他人ですよねということはあると思うんですね。
これを私は今ではさっぱり言わなくなりましたけど、本当のタスクと呼んでいた時代があったんです。
タスクシュートでは、これはご存知の方はご存知だというぐらいで、多分ご存知の方が多いんですけど、タスクシュートでは私は3つに分けたんですよ。
やらずには済まされないこと。これは整理的要求と言いたいわけです。
食事・排泄・睡眠です。やらずには済ませられないことです。
これは結構時間をとるんですよ。だからそういうふうに書いていたんですね。
まずやらずには済ませられないことはとにかくやるんだということです。
次に約束と予定。予定なんですけどね。
人と会うこと。例えば11時から今日打ち合わせで池袋に行きますと。
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やらずには済まされないことよりはやらずに済ませられるんですよ、これは。
トイレに行かずには絶対済まないけど、約束は完璧にぽかして大丈夫じゃないけど、大丈夫じゃないですか。
だからやらずには済ませられるんだけど、世間常識的にこれはやらずには済まされない。
だから第一に整理的要求、第二に社会的な約束、その次に本当のタスクというものがきますよという話をしていたんですね。
本当のタスクというのは、例えば池袋で打ち合わせするときに私が原稿を持っていくことになっているということになると、原稿を書いておく必要がありますね。
この原稿を書くというのが本当のタスクです。
この3つはやらずに済ませることもできるんだけど、この3つのうち2つは無理すればやらずに済ませることもできますが、
この2つをやらずに済ませていくとですね、整理的な要求を満たすだけで人生終わるし、それが日々難しくなっていくことの方が多いでしょうと。
ただ人によりますよ、一生全く食うに困らないお金を持っている人が何もしなくったってですね、じりじりと生活水準が落ちるとは限らないですけど、
私たちの大半はそうもなかなかいかないという話です。
単純な話なんですが、このうちの3つ目、そもそも他人に依頼されているタスクのことは他人に聞けばいいという話をしているんですよ。
そうすると他人イコール現実となるんだけれども、
他人って現実ですよね。
ここで私が言いたいことは、他人がもしイリュージョンだとすれば、そういう哲学があるんだけど、
他人がもしイリュージョンだとすれば、その他人からの依頼などというものを果たす必要ないじゃないですか、ってことなんですよ。
他人が現実だと思っている程度ってあるんですよね。
その他人は現実であると信じているレベルっていうのかな。
他人が現実だと思っていれば思っているほど、その他人に対する依頼はですね、約束はですね、果たさなければならなくなっていくんですね。
で、他人イコール現実となるのではないかというと、その通りなんですが、
それは他人イコール現実だと信じていればっていうことなんですよ。
信じているかどうかなんだと僕はこれを思っているんですね。
その他人もしかして夢の中の他人かもしれないですよ。
そしたら夢の中でですね、あれ取ってきてって言ってるの、取ってこなくたっていいじゃないですか。
ここの話実は難しい問題は僕は含むと思うんですけど、取ってこなくたって他人は本当は怒らないんですよ。
なぜならそれは夢の中の他人だから。
というふうに他人を扱う人もいますよねっていうことも一緒にここで僕は本当はしたいんですよ。
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醤油取ってきてって奥さんに言っても無視するっていう人いるわけですよ。
夢の中の他人の扱いと同じになってるわけですよね。
僕はそうなっているときにその他人は現実度が下がってるってみんなしてるんですよ。
その人の中ではね。
その他人の現実存在レベルが下がれば下がるほどその他人は存在に扱われていくはずだと思うんですよ。
私たちにとっての現実っていうのは、間違いなく現実はこうなっているって信じてるレベルがぐんと高いほど現実的で、
うんと低いほど非現実的になっていって、私たちはその両極に行くことは多分できなくて、
現実のある程度イリュージョンレベルがある、つまりその現実は非現実的に存在しているレベルがある程度あって、
ある程度現実的に存在しているレベルがあって、そのどこかのグラデーションの中間地点にいると僕は思ってるんですね。
だから他人イコール現実とはならないんですよね。完全にイコールでは結びつけられない。
どこか他人はですね、イリュージョンな面があると僕は思うんですね。
これ他人にほんとは限らなくて、あらゆる現実に存在しているものを私たちはある程度はイリュージョンだと思ってる。
というかイリュージョンにしてしまってると思うんですよ。
ある意味では私たちの現実は全部イリュージョンだとも思うんですよね。
なぜならば、私しか見てない現実っていっぱいありますので、
私が分かっていない現実もいっぱいあるということは、みんなとは違うわけですよね、見てる景色が。
みんなとは違うんですよ、見てる他人も。
私が私の妻を見るときと他の人が私の妻を見るときじゃ、同じ人を見ないんですよね。
少し絶対どこか違うと思うんです。
しかもその人を重視する程度も違うと思うんですよね。
その人をどう扱うかというか、その人にどう対応するか、その人の依頼をどういうふうに捉えるかも人によって違うと思うんですよ。
私と私の娘とでは違うんですね。
そうすると、どこかでそこにはイリュージョンが挟まってきている可能性が結構高いと思うんです。
良い例がなかなか思い浮かばないんですけど、これは日常どこにでもあることでは、
普通にそこら中にむしろそうじゃないことの方が珍しいぐらいあることです。
空の色一つとってもそうですね。
人によって見え方が違う。
どこかにイリュージョンがあって、そうは言ってもどこかから現実だと信じているわけです。
夢の中でも同じことは起きているんですけど。
例えば夢の中で私たちは大人になると余を足さないじゃないですか。
これは私はすごいことだと思っているんですよね。
心のどこかでこのトイレは現実にあると思っていて、
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このトイレは現実にはないと思っていて、その区別ってすごい大事なことなんですよ。
このトイレは現実にはないと思っていて、その区別ってすごい大事なことなんですよ。
このトイレは現実にはないと思っていて、その区別ってすごい大事なことなんですよ。
この区別できなくなる病気はありますよね、現に。
で、他人に対しても全く同じことが起こっていると思うんですよね。
どの程度その他人は事実存在していると、事実私はその他人の動向を気にかけていると、
事実その他人が怒っているかどうかってみんなすごく気にするじゃないですか。
で、もし怒ってない人に向かって、今怒ってますかって聞いたら、それはイリュージョンを見てますよね。
本当にそのことを心配しているならば。
だから他人に教えてもらうというのは、現実に教えてもらうということと何ら変わらないところに向かっていくと思うんですよ。
僕は今、うまく説明しているとは思ってないです。
かなり分かりにくい説明の仕方してますけど、これはこのGood Morning Vibesでは特にそうですけど、
分かりやすく説明するということをしばしば諦めて、自分が考えている通りのことを喋るようにしてます。
だから多分分かりにくくなります。文章で書けばこうはしないです。もう少し整理して分かりやすく書きますけど、
Good Morning Vibesでいつもそうなんですが、私が感じている通りに喋っているんですよ、なるべく。
なので、これが私の頭の中身だと思っていただきたいんですね。
整然とされてないんですよ。
しかも感じている通りなんで、私がいつも悩んでいることもここにそのまま含まれるんですね。
私こういうことを実はいつも考えてたんですよ。
最近そうではないんだけど、大学の時代は本当にですね、私は減少学的な話にすごく悩んだ時代があって、
目の前に何があっても考えちゃうんですよね。
なんていうのか、ちょっとした病気なんだと思うんですよ、あれ。
この目の前にあるものは本当にあるんだろうかって考え始めちゃうんですよ。
で、マトリックスという映画を作った人は、あの映画がウケるとある程度思ったと思うんですね。
だからこの種の悩みに悩み始めている人間がある程度いると。
あれ一世代前の人たちに見せるとね、何このくだらない映画はって言うんですよ。
私何人かそういうのを見てるんです。
で、それを見るたびに、これは一世代前の時代にはこのようなことは本当の意味では問題になってなかったんだと。
今僕減少学って言いましたけど、例えばフッサールとかメルロポンティとかサルトルとかいう人たちがいるんですが、
あの人たちは僕らより2世代ぐらい前なんですね。
最初に多分問題になったのが今からもう150年ぐらい前だと思うんですね。
本当はもっと前からあるんだけど、こういう問題に悩んだ人たちがいて、そういう人たちがいろんなことを書いたりして、
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その後に私たちが、そういう人たちが予告したような時代を生きて、私のような人間がある程度量産されたんだと思うんですよ。
目の前にあるものは本当にあるんだろうかというようなことで、一般大衆が悩み出したと。
そういう哲学的な先駆者じゃなくてですね。
でその後で映画ができるわけですよ。そうじゃないと多分ダメだと思うんですよね。
サルトルとかだったらマトリックス見てある程度楽しんでくれたと思うんですけど、
あの時代の同時代人がマトリックスを見ても意味不明だったと思います。
で、そうやってですね、私はでも大学時代ずっとだったんで、ほぼ3年ぐらいはいつもそんなこと考えてたんですよ。
生活になりやしないんですよね。今例えばビールとか飲むじゃないですか。
これって本当はどういう味なんだろうとかって考え出すんですよ。
でそもそも自分はこれを味わっているんだろうか、それとも味わっていると思い込まさせられているのか、
それとも夢の中で自分はビールを飲んでいるんだろうかって考え始める。
答えが出ないんですよね。
でなぜこういうことを考え始めるかというと、一つは性的な野球不満みたいなのもあるわけですよ。
あると思いません?
あの、例えば目の前にすごい可愛い女の子が来ているとするじゃないですか。
でこの子に話しかけていいんだろうかって考えるじゃないですか。
話しかけたところでこの子は実在しているんだろうかって考えませんか。
私は話しかけることのリスクをものすごく恐れていたので考えたんですよ。
夢の中であれば何をしてもいいはずだと。
現実に存在しているんだと考えてしまうから、話しかけたりするだけでもはばかられるんだと。
ましてここが面白いと思ったんですよね。
例えばキモいって思われることを恐れているとします。
夢の中だったらいいと思うんですよ。
何と言われようと。
それは夢だから。
でもそれっておかしいんじゃないかなとも思ったんですよ。
夢の中でもダメなんじゃないかと。
そう思われてしまったら怖いんじゃないかなと。
怖いことに違いはないじゃないですか。
なんでなんだろう。
なぜキモいと現実に思われることは問題なんだろうと。
現実に思われることが問題だというのは、現実にそう思われるということを信じているってことですよね、この場合。
そのことを僕はすごく悩んだんですよね。
現実に何かが起きることが問題だというのは、
例えば人を殺してしまって取り返しがつかないというのは、
私何度かあるんですよね。
夢の中で殺人をしてしまったという。
殺人をしたことは覚えてないんだけど、
殺人をしてしまったという事実があって、
夢で警察に追われてたりするんですね。
大変恐ろしいんだけど、起きると夢でよかったって思うんですよ。
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つまりこれは私はある意味モラルの問題じゃなくなってしまっている気がしたんですね。
殺人が本当にただひたすらいけないということであれば、
夢で人を殺してもダメじゃないですか。
社会的な問題でしかないんだったらば、
夢であれば人を殺しても何も問題はないってことになっちゃいますよね。
私はそういうことでかなり悩んでたんですね。
そうすると、殺人にしてもそうなんだけど、
キモいって思われることもそうなんだけど、
現実の程度ってのがここにあって、
これをね、もっと違う言葉で言うべきなんだと思うんですけど、
私の頭の中では現実の程度って言い方になったんですよ。
現実度とも言うんですけど、私の頭の中でですよ。
現実度が高いか低いかってどうしてもやっぱあるんですよ。
現実度が高いかイリュージョン度が高いかなんですね。
夢はイリュージョンですよね。
イリュージョン度が高いところで何をしてもいい気がしてたんですよ。
それはモラルとしてはダメですよ。
僕はそう思うんですよ。モラルとしてはダメだと。
ただ実際の社会生活を営む上ではそうなっている。
現実度が高いほどことは深刻になっていく。
キモいと思われるのもシリアスに恐ろしいし、
人を殺すのも無論シリアスに問題だし、
つまり取り返しがつかないという感じになるのは
現実度のレベルが高まっていくときなんですね。
逆に何か素晴らしいことが起きたというのも同じで、
素晴らしさのシリアス度は現実度に比例する。
比例はしないまでも現実度が高まるにつれてシリアス度も高まっていく。
だから現実に例えば何でもいいんですけどね、
なんとか賞を取りました。
夢の中でなんとか賞を取った夢を見ました。
前者の方が全然価値が高いと私たちは考えてしまう。
マトリックスで夢の中で賞を取ってもダメなわけではないですか。
でも東洋人物の中にいましたよね。
この夢の中でいいから俺に最高の暮らしをさせろって取引を持ちかける人。
あの気持ち僕よくわかる気がしたんですよ。
あの中で私が一番感心したのはその部分です。
私も同じこと考えてたんですよね。
アメリカに留学したとき。
最高の夢だけを見させてくれる方法を手に入れたいと。
そうすれば不思議な話なんですけど、
そうすればそのモチベーションで会社員勤めもできそうな気がする。
これ大変変な発想だと思うんですけどね。
でも僕はそういうふうに考えてたんですよね。
なので他人はイリュージョンじゃないかっていう発想と
他人イコール現実になってしまうという話はですね、
すごくその通りなんだけど、
すごくそこには厄介なというか複雑な問題がありまして、
単純に言うと他人の現実度が高ければ高いほどいいんですよ。
結論としてはそういうふうになるしかないと思うんですね。
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他人の現実度が低いと、そこからの依頼はバカバカしくなってしまうでしょう。
それが確実に夢だとわかっていたら、
昨日私、娘の部屋を築く、
今そういうプロジェクトがありましてね、
娘の部屋の本棚を組み立てたり、
椅子を組み立てたりしているわけですが、
あれ全部イリュージョンだったらやらないですよね。
あんなに暑い中でですね、
あんなにこう指挟んだり膝痛めたりしながら作るのは、
リアルに娘がいて、その机はリアルなもので、
その依頼はリアルなものだと信じているからやるのであって、
作ってみたらすっげえ大変だったけど、
作ってみたら目が覚めましたっていう夢落ちだったんじゃ、
たまったものじゃないって思っちゃいますよね。
つまりそういうことなんだと思うんですね。
他人が現実だというのは非常に素晴らしいことなんですよね。
他人と現実を結べるならば。
でもしばしば他人の依頼はイリュージョンっぽいものになっていたりするわけですよね。
会社でもそうだと思うんですけど、
最近で言うとあれかな、やっぱり自分が犠牲になって家事をさせられているみたいなやつ。
あれは他人の依頼がイリュージョンに近づいている証拠だとよく僕は思うんですね。
人が、例えば何でもいいんですけど、
よく聞く、これはどちらかと言うと女性からのクレームというか不満だと思うんですけど、
私が家事をさせられていて、夫はそのことに気づいてもいないみたいな話あるじゃないですか。
イリュージョンになっている。
私が何かを依頼されているというもはや現実すらなくて、
よく話ありますよね、
透明人間にさせられているとか、そういう話がある。
イリュージョンになっちゃっていると。
その仕事が。依存労働みたいな言葉もあるんですけど、
そういう労働をしても誰もそのことを認識すらしない、
みたいな話ありますよね。そんなことはないと僕は思うんだけど、そういうふうに思えてしまうと。
自分だけが犠牲になっていると思えてしまうときは、その労働の認識されているレベルっていうのかな、
そういうものが下がってきている感じがするんだと思うんですよ。
他人イコール現実じゃないんですね。
自分もイコール現実じゃないんですよね。自分がもうイリュージョンみたいに感じられてくる。
そういうふうになってくると、
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やってられないですよね、多分。
とてもじゃないけどやってられないっていうのはここから来るんじゃないかと思うんですね。
自分はもう現実ではない感じがするみたいな。そこまでいかないと思うんですけどね。
そこまで行くと結構精神障害なんで、その手前だと思うんですが、でもグラデーションよりかなりイリュージョンよりに来ている
ことになっているんじゃないかと。
で他人が抱いているイリュージョン、このご質問に戻ると他人イコール現実になって、現実に教えてもらったり他人に教えてもらったりするということは、
他人とイコール、現実がイコールになった上に他人がイリュージョン抱いていると自分もそのイリュージョンを共有することになるみたいな、
そういうご質問だったと趣旨として思うんですが、他人のイリュージョンは絶対に共有できないと僕はよく思っております。
ちょっとね、これも違う考え方の人たちもいるし、グッドバイブス的にどう、多分グッドバイブス的にこういう込みって話はあんまり
意味がないかなって思うんですけど、僕の考えでは他人のイリュージョンはさっぱりわからないと思ってます。
だから他人のイリュージョンを共有するなんてことはあり得ないと思うんですね。
たとえ依頼を、ただですね、さっき話したみたいに他人の依頼がほぼイリュージョンみたいなものだったってことはあり得るとは思うんですよ。
例えば会社で決まり事になっているし面倒なことを言いたくないからこの仕事を頼むけど、この仕事は誰もそれほど重要だと思ってないみたいなことは起こり得ると思うんですね。
つまりそこに何ていうのかな、依頼としての現実感はあんまりないというようなことっていうのはあり得ると思うんですけど、
そういうことは会社での一つの問題になってくると思うんですけれども、そうではなくて他人が依頼ているイリュージョンというものを共有することって困難ないしほぼ不可能かなと。
私が、だってこれを伝えるのに私は今大変な苦労をしている気がするんですよね。
私の頭の中身を喋ってるって言いましたけど、私の頭の中身なんて人に共有されないものじゃないですか。
人が見ている空の色ってどんな色なんだろうって時々僕は思うんですけど、考えるだけでも不毛な感じがするわけですよ。
伝えようがない、これが伝えられるぐらいなら画家にでもなりますよね。
文章を書いていても思うんですよ。人のイリュージョンを抱くことになるなんてことはないんじゃないかと思うんですね。
人のイリュージョンほど理解しがたいものはない気がするんです。
コロナのこの騒動もそうですけど、人が恐れているあるいは恐れていない、全然共有されないじゃないですか。
その温度差すら共有されないですよね。同じように恐れてるんだけど、相手の方がもっと強く恐れているという場合、
だいたい理解しがたいものに、最近マスクをするしないで飛行機に乗っていて、それを着陸させたとか騒ぎになってますけど、
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まさに他人のイリュージョンの共有しがたさがよく現れていると思うんですよ。
私はその人は現実なんか見てないと思うんですよ。みんなイリュージョン見てると思うんですが、
だからすごくコミュニケーションに手間取ると言いますか、努力を要する。
同じものを見てるんだったら、もっと話早いと思うんですね。 ただそれはあんまり発展性のない世の中のような気もします。
蜂とかってそうじゃないですか。同じものを見てるように見えるんですよね。彼らの脳は単純なので。
イリュージョンを見るほどリッチじゃないから、一斉に敵に襲いかかっていくし、そこに疑問を抱いている気配ないじゃないですか。
この敵を倒したところで自分が死んだらどうなるんだろうとか、絶対考えそうにないですよね。
まったく同じように一視見慣れになったらああいうことを言うんだと思うんですけど、あれはやっぱりイリュージョンなんですけど、あれもある意味。
あれはやっぱり現実というイリュージョン度がすごい低い現実を共有できた時に起こる現象かなと思うんですね。
ああいう現象って怖いですよね結構ね。 あれに比べると人間というのはやっぱり非常に一人一人バラバラで温度差も酷くあって、
つまり一人一人が別々のイリュージョンを見ているように僕の目には見えるんですね。
だから他人のイリュージョンを抱くことにはならないと、自分はすごく強く思いますね。
同じイリュージョンを抱かないと、そう質問されてるんですね。自分もその人と同じイリュージョン、他人がイリュージョンを抱いているとすると、自分もその人と同じイリュージョンを抱かなければならなくなる。
そうはならないと僕は思うんですよ。 それは現実的な感じがしないですね。
他人のイリュージョンを抱かなければならなくなったとしても、そんなことができることはないから、結局そういうことじゃない方向から問題は解決されていくし、コミュニケーションが成立していくんじゃないかなと。
現実とか他人に教えてもらうって話は特に僕は他人にだと思っています。
やっぱり他人というのは僕らは現実もそうだけどイリュージョン度があるにせよ、たぶんそこには現実も含まれてるんですよ。
そう信じてますね。そう信じてるから、さっきも言った通り、生理的欲求、社会的時間は守るわけじゃないですか。
俺、完全にイリュージョンならトイレにも行けないと思うんですよ。やっぱりどっかちゃんと現実に対応できてるんだと思うんですよね。
それはでも現実に100%適応できてるとか、完全に現実がわかってるとかいう話ではなくて、わかってないんだけどある程度はわかっているから、ある程度現実に即して行動できてるんだと思うんです。
他人が教えてくれるというのは、他人がしてくれる依頼にはそれも100%理にかなってはいないかもしれないですけど、自分で考えるよりはマシだというような話ですね。
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先日このまさにグッドバイブスな人生相談の中で、私もすっかり忘れてたことなんですけど、留学先でみんなに私はいろんな雑用を頼まれることがありまして、その雑用で一番多かったのがWindowsの再インストールってやつだったんですよね、OSのインストール。
すごく100回ぐらいはやった気がするんですよ。全然留学と関係ないんですけど、タイ人のとか台湾人のとか日本人のもですけど、ベトナム人のとかいろんな人のインストールを、しかもそれらは全部台語とか台湾語とかだから、いちいちそれを英語で翻訳してもらうのはすっごいめんどくさいと言えばめんどくさいんですよね。
なぜ今思えばあれを私に頼むんだろうと思うと、やっぱり他人はよく知ってるってことなんですよね。僕は別にOSのインストールが得意なわけじゃないんですよ。
例えばさっきタスクシュートの話しましたけど、タスクシュートを作ってる大橋裕夫さんのような人に比べると、僕がOSのインストールなんかするよりも遥かにそれに適した人はいるんだけど、たまたまその留学先の大学の学生の中ではいなかったんですよね。
また結局引き受けちゃう人間というのもいなかったんだと思うんですよね。
当時Windows 98 SEとかMEとか出てたんですけど、何しろあれだったわけじゃないですか。インストールしてもすぐ不具合にまみれるケースが多くて、昨日インストールしたのにまたなんかやらされるみたいな感じになるわけですよ。
しかも大語出し書いてあるのはね、それも大人から英語で説明されるんだけど、僕の英語の能力もひどくて、大人の話す英語はたいなまりで厳しくて、お互いの意思疎通もさっぱり進まないんですよね。
今思い出したんですけど、大Dっていう言葉を何度も聞いてて、なんでここでCが出てくるんだっていうか、ずっとそういうことを考えてたんですけど、ドライブなんですよね。Cドライブ、Dドライブっていう話をして、その話だけで1時間近くすごいやりとりをした記憶がある。
ただ留学して間もなくだったんで、僕も大人のドライブは絶対落ちるし、RYはすごく縮まるんだというのは後ほどわかっていくんだけど、当時はもう全然わかんなくて、第二しか全く聞こえなかったという時期にすでにOSのサインインストールをやらされているということがあったんです。
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大人というのはなんでなのかわかんないところもありますが、よくわかってるんでしょうね。結局こいつはやれそうだとか、こいつはこういうことができそうだとかいう話がですね。
他人に教えてもらうというのも、当時も知っていればよかったなと、知らなくても知ってても同じなのかもしれませんが、知ってたらよかったなと思うのはですね、そうやって大人と仲良くなったのは非常に僕の留学で良かったことなんですよ。一番良かったことのうちの一つかもしれない。当時はそうは絶対思ってませんでしたけれども、やっぱりそうなんですよね。
そういうことは多分にいろいろとメリットがあったわけです。いろんなメリットが本当にあるんで、一つだけ挙げたりすると良くないんですけど、そのある大人の女の子と付き合ったんですよ。そういうことは僕の留学で全然こうなんていうのかな、色を変えるというのかな、何にもそういうのがなかったらすっごい辛かったろうなと思うんですよね。
それは辛いんですけどね、結構留学って。それにしても非常に違ったんですよね。別にそういうことが起こると欠片ほども期待はしてなかったんですけど、何しろ98SEの最後のサインインストールとか、本当地獄のような感じでしたからね。全然上手くいかないし、今思っても無理なことをしていたなと。
なんていうんですかね、筐体とOSの相性的にいろんな意味で無理がすごくあったんですよね。プラグ&プレイも全然上手くいかなかったし、本当にそれを全部違う言語で理解するという、理解なんかしてないんですけど、本当に無理やりやってたんですね。そういうことをでも、やる日本人とかは他に多分いなかったのかなという気がします。
なのでそういうのっていうのはやっぱり他人が教えてくれることなんですよね。他人が教えてくれるっていうのとはちょっと違うんだけど、結局自分というのがある世界というのか空間の中でどういう存在であるのかというのを、たとえその本人が希望しないにしても、僕は別にSEのサインインストール屋さんになるとかを希望したことはないんで、ただだしねそれは全部。
無いんですけど、しかもすごい勉強宿題とかいっぱいある中でそんなことに1時間とか使っちゃってるわけですよ。すごい頭おかしくなりそうな時もあるわけですよね。でもやってたわけですよ。そういうことなんだと思うんですよね、人に教えてもらう現実に。現実なんですよねそれは。夢みたいなある意味現実ですよ。大語ばっかり飛び交ってるし、わけわかんないしね。
33:00
それで夜にタイの食事とかを招いてくれるんだけど、癖が極めて強いので慣れるのに努力を要するんですよ。本当に夢みたいな感じなんですよね。わけのわかんないところに放り込まれていて、かき混ぜられているみたいな感じなんですけど。
その中でしか出会わない自分みたいなものに出会うっていうのかな。そういう感じですよね。だから結局それは最初のような疑問に僕の場合戻ってたんですよ。目の前にある人たちは本当にいるんだろうか。本当にそういう感じするんですよ。
最初留学したときのイメージってステレオタイプにまみれていて、間違いまくってるわけですよ。周りはアメリカ人しかいないようなイメージ気になってるし、日本人はいるにしてもアメリカ人しかいないような気になってるし、英語ばっかりの中で自分がどう頑張っていくかみたいなイメージでいる。
現実にはタイ語ばっかりの中でタイの食事を食べながら、よくわからん生活環境の中で頑張るみたいな感じになってるわけですよね。非常にあれは不思議な感じがしました。今でも本当にあれあったことなのかなと思っちゃうぐらい。
そういうのがやっぱり他人イコール現実なんだけど、他人イコール現実じゃないんだよなということを、他人イコール現実だというふうにある程度信じて動いているみたいなところがあるんですよね。
だって信じてなければですよ。断るの簡単じゃないですか。いやいやそんなこと自分できないしって一言英語で言えばいいわけですよ。
どういうふうに僕が言って引き受けたのか断ったのか、僕の英語がそもそも通じてなかったような気がするんだけど、そんなOSのインストールをしている、そういう流れになったのか思い出せません。したということしか思い出せない。
別に誤歳児で言ったわけじゃないんで、29歳とかなわけだから覚えてるんですよ。覚えてていいはずなんですよ。どういう戦ってどうして彼らとあのよくわからんアパートみたいなところにいたのか。
だってそういうの一切わからず言ってたら危ないじゃないですか。なんかこう縛られて殺されててもアメリカなのでおかしくないわけですよね。でもなんかを信用して言ったわけですよね。
そこはやっぱりだからその他人がそういう現実だと、今私はこうやって喋ってますけど、その人たちがタイ人だという決定的な証拠なんかなかったわけですから当時は。
あのよくわからん、だって当時はタイ語、今でもわかんないですけど、全然知らないし英語もほぼ通じてなかったわけですから、もうなんか怪しいアジア人に監禁されていたっておかしくはないわけですよね。
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そういう言い方をするならば、他人イコールリアルであるというふうに考えることの根拠というか、自分の信用みたいなもの、あるいは信じるみたいなことっていうのはでかいなと思うんですよね。
もちろん騙されていた可能性はありますよ。でも金品とか取られてるわけじゃないですけどね。でも多分騙されてはいないんですよね。彼らとは友達でしたからね、その後4年ぐらい。
そういうことなんだと思うんですよね。だから他人イコール現実みたいな公式っていうのは非常にこう、ふっと繋げないんですよ。
結構イリュージョン性がそこに入ってるはずだと思うんですけれども、どこかに現実だと信じているんですよね。それに即して動いているということは。
つまりこういうことなんですよ。自分がそれに即して動いていると思っているところが現実なんですよね。
この言い方も非常に通りにくいと思うんですけど、僕よく今もそうですけど床を歩いてて思うんですよ。床の上を歩いてるって思ってるわけじゃないですか。
で本当に床の上を歩いてるんだとすると、私はそれだけ現実がわかっているってことだと思うんですよ。
もしかすると目の前の床なんかなくてどっか落っこっちゃうかもしれないじゃないですか。そういう考えがおかしいと思われるかもしれませんけれども、
これってあの昔、
ピアジェだったかな。
ガラスの上にすると赤ちゃんもそこでひるむんですよ。そこから先に行きたがらないという、生まれたての赤ちゃんでもですよ。はいはいしたてでも。
つまりそれはどういうことかというと、経験が教えてくれてるわけじゃないってことを彼らはそれで証明しようとしたんですね。
それは人間はそう知ってるんだということなんですよね。何が現実で何が現実でないか、人は生まれながらにして知ってるんだということを彼らは
ピアジェだったと思うんですけどね、証明しようとしたんですよ。そういう心理学もあるんですよ。
私もよくその実験を何度も見たんですよね。赤ちゃんがハイハイしてそこで立ち止まるんですよね。
すごいなんか象徴的だなと思うんですよね。私たちは現実ってものを完全には知らないじゃないですか。
何にせよ。 だけれどもどこか知ってるわけですよね。他人という現実も同じだと思うんです。
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