1. グッドモーニングボイス
  2. 【GMV 561】ネクストアクショ..
先送りの話の続き
00:05
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
グッドバイブスファクトリーというオンラインコミュニティを、
倉園さんと私とで運営しているんですが、
こちらはFacebookグループなんですね。
これを言わなきゃと思ったんですけど、
外からこの活動について、見られるとか読まれるということは一切ないです。
し、ご自分の方から、入っているということは、
シークレットだから入っているということは入っている人にしか分かりませんが、
入っている人には分かりますけれども、お互いにですね。
入っていたとしても、それなりの人数いらっしゃるんですよ。
100とかじゃないんですけどね。
つまり、入っていたとしても、何にもご質問するわけではなく、
オンラインで月1回にセミナーをやっているんですけど、
グループセッションで質問をひたすら受けて、私たちが答えるという、
そういうセミナーをやっているんですが、
これも参加は自由なので、全然参加されないという方も結構いらっしゃるんですね。
つまりトータルで見ると、ほぼ何も表面的には現れていらっしゃらないけど、
割と長くいらっしゃるという方もいて、
要するにずっと読むだけでも別にかまわないんですね。
参加を何か促されるとか、中でしなきゃいけない活動があるとかは一切ないんですよ。
それだったら何のためにって気もするけど、
何なら一切読まなくても別に何も問題はないんですよ。
こういうことを言っているのは、外にこれが知れるのが嫌だとか、
コミュニティに入ってさせられるのが嫌だとかいうのは、
あるいは思想強制じゃないですけど、
最近朝山さんのやつをずっと見ていたからこういう言葉が出てきたのかな、
何か強制、教育されるみたいなのも基本ないんで、
何かそういうのが嫌だというのは、
閉じたコミュニティに入るときにはついてくると思うんですよね。
ただ閉じてないと外に分かっちゃうから、
閉じてないわけにもいかないじゃないですか。
だから閉じるしかないんですけど、
基本閉じたコミュニティにするしかないと思うんですが、
閉じたコミュニティで心配するようなものは一切ないです。
これは諸月無料なんで、
つまりこういうことなんですよ。
入っているということだけは分かるんだけど、
入っていて別にお金を払うわけでもなく、
03:01
極論読むわけでもなくても大丈夫ですから、
ちょっととりあえず見てみたいという方がいらっしゃったら、
ぜひちょっと見てみてほしいということですね。
朝に、毎朝、倉園さんが今日のウッドワイプスと、
倉園さん的には寝る前なのかもしれないですが、
毎日こう何かウッドワイプス的なお話が
結構長文で書き込まれることもあります。
短い日でも私から見ると結構長い。
私は週に1回にウッドワイプスな心理学という、
これもタイトルを心理縛りにすると厳しくなるなと思っているので、
心理学が多くなるけれども、
ウッドワイプスなカウンセリング、
これもそうでないケースもなくはないですからね。
要は用語集みたいなものを僕は考えていたんですけど、
こういう概念はこういうものでして、
それはウッドワイプス的に見るとこういう部分が
ウッドワイプス的に見えますみたいな、
そういうふうにしようと思って始めたものです。
これも別に強制的に読まされるわけでも、
これについて何か問われるとかいうことも一切ないので、
極論読まなくてもいいので、
読んでくれると嬉しいですけどね。
そういうのがあるので、
よろしかったらということです。
あとそうだ、
クラズノさんに私の方から質問を投げかけているのを
TV、要するに動画形式で配信するのを週に1回やって、
はい、そんな感じなんですが、
グッドモーニングワイプスの昨日か一昨日かに出した
先送り、昨日かなの話が少し反応をいただいたので、
もうちょっとこれを言おうと思っているんですが、
あれ以上言うことは僕の中ではないんですけどね。
よりシンプルに言えばいいのかなと思いまして、
これについて、
僕の中ではないんですけどね。
よりシンプルに言えばいいのかなと思いまして、
これはもうグッドモーニングワイプスというよりは
タスクシュートなんだけど、
シンプルに言えばですね、
先のことに自明のことはない、
そもそも自明のことはないっていうことなんですね。
私たちは意味づけな世界に生きておりますから、
意味づけそのものが自明だと思う悪い癖というか、
ある程度しょうがないし、当然それが役に立っているんで、
例えば信号が赤になって黄色になったら
ギュッと止まるっていうケースもありますよね。
急ブレーキになっちゃうんですけど、ありますよね。
危ない時ってありますからね。
黄色になったらギュッて止まれるっていうのは
すごいことじゃないですか。
黄色に止まるべき色合い的な理由は何にもないのに、
06:01
黄色って色はこの世にないんですけど、
止まれると、それが現実の物理的な何かみたいに
反応できるということは、これは意味づけというものですよね。
生物はある程度これがありますけれども、
人間はこれを絶大に使いまくってますね。
で、絶大はおかしいけど、
意味づけが自明なんていうことは本当はありえない。
黄色だったら絶対止まるとかそういうことはありえない。
結局、意味づけを絶対視しているのは
私たちがそうしているに過ぎなくて、
こうやって誰の目にも明らかなのはまだいいんですが、
どう考えても誰の目にも明らかなわけじゃないものまで
自明で絶対視してしまう。
自明で絶対視してしまっているから
タスクシュートが回らなくなるという話なんですね。
昨日したのは。
先送りが一番よく見かける現象ですけど、
要するに自明でないものを自明だと捉えているから、
本職というと、AとB、昨日も散々言いましたが、
AとBでタスクAの方をやることに価値があるのは自明だということに、
誤解しているから、あるいは錯覚しているから、
どっちでもいいですが、そういう妄想を見ているから
タスクAを実行できないんですよって話をしたんですね。
タイミングよくというのかな。
昨日、そういう話がぶっちゃけ相談というYouTube番組の質問で出たんですね。
その方のご質問には、これはぶっちゃけ相談でも近々放映されるんですが、
試験をとにかく受けるにあたって、
クソは書いていないけど、ウッドワイブス方式では心もとないというお話だったんですね。
なぜかというと、人の依頼とかに答えていると、
1日の自分が使えるであろう過小分時間とか大橋さんが名付けているんだけど、
全部を試験勉強に充てて今までは頑張ってきたのに、
そうじゃないような感じになってしまう依頼に答えたりすると、
過小分時間のいくらかが依頼に消えていくからということですよね。
これほど鮮明に訴えてこられたのは、大変面白くてよかったんですよ。
皆さんこれに近いことを考えているというのが、私が昨日も今日も言っている話なんです。
ひとつですね、よくタスクシュートでこういう話が出るんですよ。
今のような話とよく似ているんだけど、
すっきりと自分の使える全ての時間を自分のために使いたいとか、
09:07
試験勉強も同じなんですが、あるいは英語の勉強とかも、論文を書くとかも多いですね。
論文を書くために全時間を過ぎ込みたいと、
その1分1秒を漏らさず過ぎ込みたいと。
僕ですね、この考え方はタスクシュート的では全然ないなっていつも思うんですね。
大橋哲夫さんがどう思われているかはちょっとオリジナルですね。
大橋さんがどう思われているかまでは言い切れないんですけど、
多分僕は出発点としてはそういうものでは決してなかったはずだと思うんですね。
タスクシュート前夜みたいな話が本の中にあるわけですが、
そこで出てきているのも、過書分時間の全部を何かに使いたいという理由でできたツールではないと思うんです。
というのは、それだったらタスクシュートじゃなくていいはずなんですよ。
学校の時間割になっちゃうんですよ。
あれって、過書分時間の大半を英語の勉強に当てたいんですっていう話じゃないですか。
僕もこれちょっちゅう言っているんですが、
単なる予定行動表みたいなものとタスクシュートを分けているポイントを見失ったら、
タスクシュートである意味はゼロになるんですよ。
タスクシュートである意味はゼロになるなって思うんですね。
そんなものは昔からあったじゃないですか。
よくあるやつですよ。
大広間のど真ん中に張り紙してある7時起床とか、
あれのだいたい4時起床とかに書いてあるじゃないですか。
5時朝食、6時何とかみたいな。
すごく単純な表ですよね。
あれでいいじゃないですか。
あれとタスクシュートってどこが違うんだっていう話をするべきですよね。
タスクシュートをわざわざ使うんですから。
工程表があり、その通りに動くのがベストであるということであるならば、
タスクシュートはいらないんですよ。
前にあったあの紙貼っておけばいいわけですよ。
その通りにやればベストだという話ですよね。
それとこれとは変わらないとこが多いんですね。
細かくタスクシュートの方ができるっていう話をするならばそうかもしれないけど、
別にGoogleカレンダーだっていいじゃないですか。
細かくすればいいんですよ。
11時55分なんとかとか、
11時12時7分なんとかとか、
事前に決めといてその通りに動けばいいわけですよ。
タスクシュートとそれとは全然話が違うし、
僕はそれでは絶対うまくいかないと思うんですね。
なぜかというと、そこには何時に起きるのが一番いいかは
自明であるという態度がはっきり見えますよね。
4時に起きるのがベストです。
それは自明で明らかで正しくて良いことなんですって書いてあるわけじゃないですか。
言ってみれば。
私はそれを人は信じていないから、
4時には起きれなくなるんだっていう話をきのうしたと思うんですよ。
12:01
これが何で難しいのかなっていう話なんですね。
これが難しいとすれば、4時に起きるのが自明ですということを
証明しなきゃダメだと思うんですね。
これ何度も同じ話しかしてない気がするし、
全然難しい話だとは思わないので、
何時に何をするって言ってもいいんですよ。
5時に起きるんでも、6時に起きるんでも、
10時に起きるんでも、12時に起きるんでもいいんですよ。
ただ、それが未来のことであると。
何時起床って書いてあると。
その時間にそれができなきゃ嫌だと。
その時間にそれができなきゃ嫌なんだけどできませんという話をするってことは、
その時間に何かをするって書いてあるその時間は自明に正しいっていう話になってますよね。
絶対に正しいということになってますよね。
そうでないならば、そんな話にはならないと思うんですね。
タスクシュートってのはそういうことを言ってないですからね。
約束時間にどこどこに行くってのは例外的ですからね。
12時に会うとか、あれはみんな書くじゃないですか。
カレンダーに。
書かない人もいるかもしれないけど、そうしようとはしますよね。
全くそれを頭から破るっていう人って相当独特だと思うんですよ。
だからあれはみんな書くんですよね。
タスクシュートもその中に組み込むっていう言い方しますが、
12時に人と会うって時だけ開始時刻が予定として書かれるんですよ。
それはいいと思うんですね。
あれは例外的なものなんです。
だから何時に何をするという話は言えなくて、
ということはですね、
この何時にが最初から決まってなかったとしても、
これを次にするのがいいとか、
これを何時間するのがいいということは絶対自明ではないと僕は思うんですね。
でもこれが自明ですっていうのが訴えられている話なんですよ。
先送りするのはダメですっていうのは絶対にダメなんですよ。
ダメですっていうのは絶対にダメなのにやっちゃうんですと、
そこまでこだわるということは、
つまり次に英語の勉強するって書いたこれは絶対にそうした方がいいんですって言ってるんですよ。
僕は絶対にっていうのは絶対言えないんですって言ってるんですよ。
そういう議論なんですよね。
だから絶対にそれがいいんですとおっしゃるのであれば、
何で絶対にいいのかを自分にも他人にも十分理解できるように説明できないとおかしいと僕は思うんですね。
それの説明はできませんけど自明ですっていうのは多分自明ではないんですよね。
私はこう思ってるんです。
誰も自明でないのは知ってる。
4時に起きるのが一番いいわけでも早起きするわけでも
いうことが必ずしもいいわけじゃないことも知ってる。
だから早起きできない。
それでいいじゃないですかって話なんですね。
15:00
ここから先はタスクシュートの議論じゃないんですよ。
早起きがいいか悪いかの議論なんですよこれは。
早起き論になるんです。
英語の勉強も同じですよね。
英語の勉強は絶対にするべきなんでしょうかっていう議論なんですよ。
それ誰としますかってことじゃないですか。
例えば早起きを掲げてる人もいらっしゃるじゃないですか。
早起きビジネスショーの自己啓発系みたいな。
その人と議論したら絶対早起きがいいですって教えてくれますよね。
100%そうですと。
だからそっちに持っていくべき話なんですよ。
あるいはこれは絶対じゃないけど英語屋さんみたいな。
あるいは英語教育屋さんみたいな方もいらっしゃるじゃないですか。
英語勉強するべきでしょうか。
するべきだって教えてくれるんじゃないですかね。
私は知らないけど。
これタスクシュートの議論じゃないですよね。
つまり何かをやることは絶対にいいことなのかどうなのかという話になっているんだから
そっちを問題にするべきなんですよ。
タスクシュートだったらできるんじゃないでしょうかっていうのは
この場合は議論になってないと思うんですね。
タスクシュートが教えてくれるのはそういうことじゃないし
自分がやったことというものの記録がリアルタイムに残るって話でしかないので
やっていることの記録がリアルタイムに残るということがですね
なんでそれをやるべきかどうかの証明に役立つのか
役立たないんですよね。
僕は役立つとは思わないんですね。
ここまでで原則論は終わりだと。
あと残っているのはそれをやるのが自明であるかどうかを
本当に分かるのかあるいは分からないのかと
僕はいつも分かるはずがないと
そして明らかにこのことが分かっていないから
僕らは先送りというものを繰り返しもするし
例えばですけれどもご質問いただいた
全ての時間を試験勉強に充てたい
試験勉強に充てるということが
自明に良いことなのかどうかという議論なんですよ。
そこだったらグッドバイブス的ですね。
タスクシュート的ではないけれど
グッドバイブス的にも同じだけど
それが自明に良いことのはずがないという結論になるんだけど
これに対してなぜですかというのは
タスクシュートに問うてもしょうがないと思うんですね。
なんで人の依頼を断ってでも
睡眠時間をギリギリにカツカツに削り
あとは食事とお風呂以外の時間を
全部試験勉強に充てる
そのようにストイックに生きる
それが立派だと
それはダメなんですかという
タスクシュートに持ち込むというのは
僕は全然ナンセンスじゃないかなと思うんですよね。
それは結局価値観みたいな話になるじゃないですか。
18:05
人の依頼であろうとも断ると
例えば奥さんが腎痛で苦しんでいますと
いや今は試験勉強の方が大事だと
病院に連れてってくれという
ノイジーな依頼に答えてる暇はないというのも
この話極論ですよね。
ポイントはですね
極論じゃないものと比較したときに
どっちと判断することが
どうして誰かにできるのかということですよ。
あるいはどうしてタスクシュートにならできるのか
できるわけがないと僕は思うんですね。
今のだったらね
僕は絶対に奥さんの依頼に答える方がいい
絶対に自明だと思うんだけど
これですら絶対でも自明でもないんですよ。
断って勉強する方がいいという人いますよね。
その人はダメだとか悪いとか
国連で非難するべきだとか
いうことにはならないんですよ。
はっきり言って。
どうかと思う人もいっぱいいると思うし
僕もどうかと思う側だけれども
これは結局側の問題ですよね。
全部が全部のタスクは
全てそういう構造の中にあるはずです。
朝食を摂るべきなのか
そんなことは分からないですよ。
昼食を摂るべきなのか
人にもよるじゃないですか。
今いろいろと
口頭質制限しないと
命に関わるという人だっているんだから
つまり自明じゃないんですよね。
自明じゃないものをリストに載っけておいて
これは自明なんですって言い張ったって
無駄だってことです。
これを自明だと
無理やり言おうとするから
必ず混沌としてくるんですよ。
自明じゃないのを
みんなが知っている。
もちろん本人も知っているわけだから
それをやらないという選択肢は
大いにあり得るわけですよね。
やらないという選択肢を取ったということは
現実にやらなかったということですよね。
ここを尊重しましょうっていうのは
タスク主導的になってくるんですけどね。
ここを尊重しないと
タスク主導的になってくるんですけどね。
ここを尊重しましょうというのは
僕はむしろ自明じゃないかなって思うんですよね。
なんでここになるといきなり
それは妥協だとか敗北だとかいう話になっちゃうのかと
あるいは失敗だとかですね。
この失敗なんですけども
短期的にあるいは直後に
かなりそれにおけるダメージがでかいと感じて
明らかにこの現実選択はダメだったと感じたとしても
それが悪いかいいかは自明じゃないと思うんですね。
試験に落ちましたと
依頼を受けたせいなのか何なのかは知りませんが
とにかく受からなかったと。
昨日も議論になった話題になったんですけど
非常に面白かったのは
そのようにして過処分時間のすべてを
徹底的に投入し切れば
仮に落ちたとしても自分としては納得できる
この話確かによく聞きます。
21:02
よくあるのが
あれだけ練習して
すべての時間を練習に過ぎ込んだんだから
これで金が取れなくても
それなら納得できる。
これ受けがいいんですよね。
つまりこれは
過処分時間の全部を投入すれば
受かるかどうかは自明ではない
という話をしてますよね。
この未来における何かが
結果として自明ではないのは
知っているにも関わらず
何かを今ここでする方が
ベターであることは自明である
という話に
どうしてできるのかが
おかしいと思うんですよね。
僕らは結局
未来のことは分からないということを
はっきりと知っているんですよ。
何をどうやろうと
どれほど時間を投入しようと
努力しようと
結果がきちんと出ないことはあり得る
という話を
はっきり書いているんですね。
これほど何をするのが自明である
という考え方の方でも
やっぱり試験なんだから
受かるか落ちるかは分からない。
その通りじゃないですか。
つまり未来のことなんだから
どうなるかは結局分からない。
どれほどどういう計画を立てて
どれほどどういう手を打ったって
そうなるかどうかは
100%ではないわけですよね。
あるにも関わらず
次にすることが
勉強の方が
ギャングルよりいいのは
自明であるという考え。
どうしてそういう話に
いきなりなっちゃうのか
ということです。
自明の数はないですよね。
本人が認めているじゃないですか。
どうやったって未来がこうなるという
100%の保証は作り出せない。
つまり未来を確定させることは
できませんという話ですよね。
ということは
次にやることの
その結果がどうなるかは
誰にも絶対分からない
正しいと僕は思うんですよ。
だからこそ僕らは
次にやることは
100%絶対正しいという確証を
持ってないから
それをできないことは
多分にあるわけですよ。
それでいいじゃないですか。
当然そうに決まってますよ。
むしろこれが全く逆になった
つまりこれが全く逆になる方が
いいっていう話を
されてるんですよね。
先送りをしたくないって話は
何度も出てきます。
僕ははっきり言って
毎週のように
毎週最低1つは
絶対1つ以上だけど
1つは受け取ります。
本当に1つは受け取ります。
でもですね
書いてある通りに
たとえどんなことがあろうとも
実行できるというのが
ストイックでいいように
聞こえるかもしれないですが
本当にそんなことになったら
絶対大変だと思いますけどね
私は。
朝6時英語の勉強って
書いてしまったが
最後ですね。
24:00
もうなんかドラえもんの
道具みたいなもんですよね。
手が勝手に動き出して
勝手に目が開かれて
どうするんですかね。
その時にたとえば
陣痛とかが起きちゃったら
英語の勉強を始めちゃうんですよ。
どんなに苦しくてどんなに辛くても
目の前で火事が起こってても
そういうことじゃないですか。
書いた通りに実行できる
という判断をそこに
差し挟んじゃいけないってことは
つまりそういうことですよね。
この話も必ず
今のは当然そうでしたが
それは極端だって言われると思うんですよ。
ということは
人はどっかで自分で判断してる
ってことになりますよね。
どうしてそれが
いけないんだろうってことなんですよ。
なぜここの目の前で火事が起きてる時
そりゃしょうがない英語の勉強
してる場合じゃないよねって
当たり前の判断ができるのに
自動的に
自分でしちゃダメなんですかね。
自分でするしかないと思うんですよね。
その自分の判断が
常に間違い含みに
決まってるっていうだけのことですよ。
本当に。
その時に英語の勉強するのがいいのか
YouTubeを見てリラックスするのがいいのか
どっちがいいんでしょうか。
いうタスクシュートは
一言も言葉を発しませんよ。
当然じゃないですか。
そして反自動的に
英語の勉強を始めることは
できないです。
これも当然ですよ。
それができたらやばいんですよ。
だから判断して
YouTubeを見ることもありますし
判断して英語の勉強をすることも
あるでしょう。
それでいいし
それしかありえないと思うんですよね。
で、どっちを選んだかは
そこに書いてありますよ
っていうのがタスクシュートなんです。
どっちを選んだかは
そこに書いてありますと。
なんでなのかは分かんないですよ。
ドファミクス的に言うと
トータルで最終的に
私たちは悪くはならない。
ただ悪くならない
悪い結果を持ちたくなければ
恐れや不安を手放しましょう
っていう話なんですよ。
恐れや不安を持ったままやると
どうなるかっていうのは
究極的には私には分からないです。
ただ恐れや不安をずっと
持ったままいると
行動を取り続けるというのも
一つのいい例が今
ウクライナ付近で示されている
っていう感じはしますよね。
恐れや不安をずっと抱き続けると
かなり刻意抱き続けて行動を
しかもその人が行動の自由は
極めて大だという場合
私はやっぱりどうしても
ローマ帝国の
あれですね
ネロを思い出すんですよね。
あの皇帝の振る舞いというのが
あの人は完全に妄想
迫害妄想みたいな世界に生きていて
しかも権力だけは絶大だから
母親とかは次々に殺して
行っちゃうんだけど
あれ少なくとも好きでやってる感じは
好きでやってるように描いてる人って
非常に少ないんですよ。
いないわけじゃないんですけどね。
27:01
でも時代が進むにつれて
彼はもうやむを得ず殺していく。
最後は殺されちゃうと。
そういう感じなんですけれども
それが悪いのかいいのかっていうのは
僕はでもなお自鳴ではないような
気がするんです。
自鳴ってのはよっぽどだと
本当に思います。
それがあらゆる人にとって
どころかあらゆる動物にとって
あらゆる存在にとって
それだけは絶対悪である
って言えるようなことって
あるのかなって思いますね。
例えばですけど
話がまた盛大に逸れてるんですけど
自鳴っていう話になってくるとですね
なんかやっぱり
やばいものを感じるんですよね。
真珠岩攻撃ってあったじゃないですか
1941年の12月に
あの時当然
自鳴ですよ
アメリカ人だけにしてみれば
ジャップが悪い
自鳴じゃないですか
でも自鳴じゃなかったんですよね
あの時
合衆国会員の議会で
反対票があるんですよ
対日戦線布告について
ジャネット・ランキンっていう人だけだったんですけど
反対票を投じたんですよ
これが
当時もうめちゃくちゃ
批判の的でした
当然ですよね
だって
これから
日本を攻めますって話をしてるじゃない
もう攻められましたって話を聞いた
後ですからね
後戦争をするのは
いいのか悪いのかっていう
表決を取ったわけですよ
普通に考えれば
対日戦線は
全界一致っぽいじゃないですか
でも反対票は
全界があるんですよ
一票
そういうことっていうのは
私はでも
基本いいことだろうと思うんですよね
あの
全界一致って
何て言うんですかね
その時はさぞ自鳴なんでしょうね
どう考えても
自鳴だと思うんだけれども
やっぱり自鳴じゃないっていう感覚が
どっかに発生するんですよね
もちろん彼女は
攻め立てられたんですよ
って話になるんだけれども
どうであれ彼女は
賛成はしなかったんですよね
相当無理があると思う
彼女はどっかで取り囲まれたり
いろいろしてるんですけど
でも殺されはしなかったんですよね
その辺がアメリカなのかな
と思うんですけれども
新聞でもやたら批判されたんですが
でも反対票を投じたっていうことは
すごいことだっていう新聞の論調も
いくつかはあったんですよ
当時から
やっぱりそういうのっていうのは
自鳴だと思うんですよね
そういう話を別にしたいわけではないんですね
僕がしたかったのは
つまりそこで先送りするのは
自鳴に悪いことなのかどうかって
こういう観点ぐらいまで持っていけば
僕は全然自鳴じゃないって感じが
する気がするんですよね
規模的にも
30:01
事の重大性的に考えても
全然自鳴じゃないでしょうと思います
それを次にやることが何であろうと思うんですね
であれなんですよね
先送りが嫌なんですって話なんですよね
まず第一に
いいじゃないかっていう話です
第二に
結局それは
未来がどうなるかは分かりませんので
やるべきだと思っていることを
やったとしても
結果がきちんと出るかどうかは
分かんないわけです
本人もどの程度にやりたがっているのかすら
実は分かんないわけですよ
これらのことをなおその状態のまま
この所要のものは多分僕は動かせないと思うんで
なおやろうというならば
それだけの
実行する根拠を
自分に示してあげないと
ダメだと思います
ここの自分の中に
他人が絶対含まれる
絶対含めますよっていうのが
ウッドワイブスだし
これは僕は薄々そうだろうなと
ずっと思ってきてました
タスクシュートをやっていると
長らくやっていると
そういうのが少しずつ見えてくるんですよ
タスクシュートをやっている人が
これやって意味あるなと思ってやっている人は
絶対ですね僕が思うに
暇な人ではないと思うんですね
暇な人ではないというのは
どういうことかというと
人間はほぼ半日以上かけて
睡眠時間を除けば
7割から9割までが
他人のために時間を何らかの形で
使っているはずです
自分の肉体というのを
どう捉えるかというのもありますが
でも自分の肉体が
自分一人だけで生活しているというのなら
別として仕事をしています
まして家族もいますとなってくると
自分の肉体というもののケアは
かなりの部分
他人のためというのも含むんですよね
私子供を持つようになって
よく分かりましたこれは
子供がいないときに比べると
自分の体のケアというものの持つ意味が
子供のためというのを
多分に含んでくるんですよ
こういうのは
より含まないようにするほうが
純粋だというのが
つまり家処分所得のすべてを
という理屈なんだけど
これ含まないようにはできないし
これ含まないようにするということは
つまり縁を切るということなんですよ
単に別居するということではないですよ
別居したって親子の縁は親子ですから
縁を切らないと
このいわゆる家処分所得のすべてを
という話を
つまり自分だけのために
純度高くしたほうがいい
という話にはならないと
僕は思います
ちょっとしたことでも
いろいろと問題が起こってくるので
例えば非常に分かりやすいところで言うと
今高校で私がコロナにかかると
33:02
娘は学校休まなきゃ
なんだとなりますよね
これがケアということの意味も
自分と言ったときの
自分の範疇が広がっていくんですよ
でもこれ
もしここで私が10秒にかかって
オミクロンとかじゃないですよ
もっと10秒にかかって
枕回りなくなりましたとなると
家族は家族で困る上に
今度私の原稿を出そうと思っている
出版社さんとかも困るんですよね
こういうことはどうしたって
起きちゃうわけじゃないですか
縁を切っていく以外なくて
で、箇所分所得の全てを
試験勉強に充てるというのは
どういう意味なんだろう
って思うんですよね
だって試験勉強っていうのは
社会的なもんですから
純度高く自分自身のためだけに
何かを突き込むって言ってるけれども
その結果は自分自身のためだけ
ではないじゃないですか
ながこうですね
その試験というものが
資格というものになってくると
余計そうだと思うんですよね
論文だって同じですよね
例えば腹筋を鍛える
ということであればですね
しかも箇所分時間の全てを
腹筋に鍛えるということであれば
これはもう100%に近いぐらい
自分の肉体に向かって
純度高い感じするんですけど
これほど何か不毛なものも
ないような気がするんですね
だから結局この辺のことっていうのは
きちっといこうと思えば思うほど
何かおかしな話になってきて
曖昧であればあるほど
実はいいような気がするんですよ
だから人の依頼を入れるというのは
つまり時間の使い方が曖昧になるんですよね
結局それがですね
超短期的には分かりませんよ
超短期的には試験勉強の時間が減って
あるいは論文書く時間が減って
超短期的には
いい結果にならないのかもしれませんが
そのいい結果にならないというのが
本当に悪いことなのかな
本当に悪いことなのかどうかな
ここでもまだ分からないんですよ
未来のことが結局自明でない以上は
分かるはずがないんですよね
もう少し長い目で見たら
それはむしろいいことだった
そういうことは世の中にいっぱいありますからね
本当に私は例えば現役で
私は早稲田忠孝なんですよね
現役で当然早稲田大学に行くことを
なぜか当然これも自明ってやつなんですよ
自明でそれがいいことだと思われてたんですけど
結局あの時浪人して
違う大学に行っているんだけれども
そのほうがよっぽど良かったような
これも分かんないんですよ
分かんないけれども自明のように
壮大にいっているという未来を考えるよりは
私ははるかに今のほうがいいような
気がしてるんですよね
それは分からないことですけど
分からないのに落ちた直後とか
入れなかった直後は
みんな自明にそれはダメだと
いうふうに言うじゃないですか
ほとんど犯罪者みたいに
言う人もいるわけですよ
36:00
自分の仲親とかね
そういうことってあるわけですよね
だから多分僕が思うに
ここで次にやるべきことを
先送りしてYouTubeを見ました
それの何がいけないのかなと
それをそうしてしまうのが
OKなのであれば
何のためにタスクシュートを
やっているのかと言われたらですね
自分がどう判断したかを
知るためなんですよ
ここでYouTube
あ、YouTubeをここで
選択したんだなと
知るためなんですよね
YouTubeを選択したのは
分かってるじゃないかと
分かってないと僕は思うんですよね
分かってないからそういう質問が
頻繁に出るわけじゃないですか
俺はYouTubeなんて選択してないんだと
英語の勉強を選択したんだと
だけれどもYouTube見ちゃってたんだ
そういう言い方をみんなしてるんですよ
本当のところ
絶対にこっちをやるのが良く
絶対にこっちがやるのが正しくて
って言ってるんですよ
なのにもかかわらず
英語の勉強できなかったんです
っていう話をされてるんですよ
そんなことはあり得ないです
いわゆる自意識の
合理的な判断の上では
そうじゃなかったかもしれないけど
自分というのは多分
家族関係者その他を含んだ
諸々の判断は
こっちじゃなかったんですよ
YouTubeを見る方だったと
ここを尊重しましょう
という話なんですね
これは自分では分からないことを
含むはずなんですよね
その結果はきっと
そこに過剰な恐れや不安と
イリュージョンがなければ
悪いことにはならないはずです
だけれどもそれが信用できない
ということでありましたら
そこで真剣に考える必要があるわけです
本当にYouTubeじゃ
ダメなのかということですよね
そこを人に聞いても
多分他人には分からないですよ
なぜならば
その人を取り囲む
あらゆる人間関係とか
それこそ言ってしまうと
世界との関係が
自分というものに含まれていて
多分その判断に作用してるんですよ
その判断に作用しているものを
他人には分からないんです
だから他人は平気で
自分の勉強をするべきだった
と言うんですよ
そしてそれに歩調を合わせたいばっかりに
自分は人に言えないようなことは
一切しない時間割を
作りたいんですって話になっちゃうんですよ
それじゃもうまるで
自分は生きていないのと同じですよね
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