2022-03-01 43:33

【GMV560】より良い成果を求める限り先送りはなくならない

やるべきことも、やるべきでないことも同じ
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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
いやー、3月になりましたね。
とうとう3月って感じなんですが、おかげさまでと言いますか、画前なんかこう調子が良くなってるんですよ。
調子ってのは実に適当なもんだなという感じもしますが、多分やっぱ気温大きいんだなと自分は思います。
なんならベトナムとかに引っ越しちゃえばいいんじゃないかと思うくらい、ベトナムは極端にしても沖縄とかに移住すりゃいいんじゃないかと思うほど調子が変わる感じがしますね。
もうずっと言ってますが、3月に入ったことですし、グッドバイブスご機嫌な子育てライフが3月13日14時から、ご機嫌に子育てできるはずがないという方もこちらとしては全然大歓迎です。
子育ても他の全てのことに同じことが言えますが、各人各用で同じ子育てはこの世にないわけですよね。
逆に言うと経験が全てではないと言えると思うんです。経験は大きいですけどね。
私も経験してみて、なるほどなと思うことばかりでしたが、とはいえ、いわゆるNイコール1ですから、一人育てたことがあるというだけで、しかも私は男親として育てたというだけで。
たぶん当日開催はされると思うので、いろいろあると思うんですけれども、
例えば、過去はすでにないということが、それは頭では簡単にわかることですし、
仏教なんかでも同じようなことを盛んに言っているんですけど、記憶がなければ苦しみはないみたいな言い方が江戸時代からすでにあるんですけど、
そうは言っても、過去にこだわるというか、とらわれるというか、しがみつくというか、あるわけですよね。
私なんかは記録を膨大にとっていて、十何年間の記録が一応残っているという、1分単位を空けずにということは、
つまり、10年前の何月何日の8時10分には何をしていたと答えることはできなくはないんですよ。
これは記録であって、記憶ではないんですね。
私は、ダスク管理というか仕事術、ライフハックでもいいし、ライフログでもいいんですが、
ということで、盛んにこの記録の重要性を解いてきている方ですけれども、
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一方で、過去はないことは確実だし、同じことが二度と起きないことも全く同じという意味であれば確実だし、
例えば、次に子育てをしても、それは違うわけですよ。
前回の経験がまるで生きないわけではないですけど、経験が邪魔をすることも多々あるはずなんですね。
多分、やらないと思うんだけど。
つまり、単純にPDCAということが通じる世界って、ごく稀だと思うんですね。
よほど人為的にコントロールを効かせていないと、そうはいかないと。
サイバー攻撃なのか何なのかは知りませんが、今トヨタの工場が昨日から全稼働をストップしたみたいな話がちょっとあったじゃないですか。
詳しくは知りませんけど。
トヨタだったと思うんですよね。
いわゆる看板方式みたいなのとか、PDCAみたいなのとか、
常に前の事態を良くするという、でも起こったことがないような事態も起きるわけですよね。
サイバー攻撃とか、全稼働停止っていうのは、
かつてトヨタで何かそういう知見があって、この場合こうすればいいというのはなかったと思うんですよ。
今回できるかもしれませんけれども、
多分同じような攻撃ではすばないと思うんですね、この種のものっていうのは。
つまり、PDCAでずっと何もかもが良くなっていく世界っていうのは、
この世にはないはずなんですよね。
それはとても奇妙な世界です。
私たちはそういうふうに経験というものがあり、記録というものを取り、
記憶をはっきりさせて、自解を良くすると言っても、
それは何か前提を持っちゃってるわけですよ。
ここは全体に変わらないだろうという勝手な前提。
例えば明日も工場は稼働するという前提でPDCAって成り立ってるわけじゃないですか。
それでいいわけですけどね。
明日家が潰れて無くなりますとか言ったら、
PDCAって何についても検討できないですよね。
ここら辺に私は子育てを楽にする大きなポイントがあると思うんですね。
子育てというのの一つの重要な、あれが仕事術になかなか出てこないのは、
一つには子供の変化というのは早すぎて、
全然PDCAにならないという現実があるし、
そもそも子供を改善しちゃいけないと思うんですね。
子供を改善するっていう発想っていうのは、
僕からするとすごい異様なものに感じられるんですよ。
私がネットワイプスで、
全ては価値マックスっていうのは簡単に受け入れられる理由の一つはですね、
そして改善というのを最初から私は少なくとも13年前から頭から振り払ってるというか、
全然もう僕の中には入ってきてないのは、
改善できる対象というのは、
僕にとってごくつまらないものだけなんだということを
12年前にわかったからです。
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うちの子が生まれた瞬間に、
これは改善対象に全くならないっていうのを知ったんですね。
いかなる理由でも改善したいと思う点はないんですよ。
なかったんですね。
風邪をひけばその風邪を治すというのはあるんだけど、
それは改善でもなんでもないんですよ。
改善ポイントがないということはつまりマックスだということですよ。
パーフェクトだということでもあります。
だったら自分もそうのはずなんですよね、本当は。
いやいや、改善するポイントはあるでしょうと言われるかもしれないです。
頭を良くするとかね。
でもそれは改善でもなんでもないんですよ。
頭を良くするというのは僕には無理だと思うけど、
計算をできるようにするとかできますけど、
私はもうほぼそれもしませんでしたけどね。
でもそれはいいんですよ。
冬になったら冬服を着せるようなものであって、
そういうのを改善とは言わないんですね。
冬服をその子に着せたらその子がより改善されるわけではないですよね。
計算というものを問われるときに計算をさせるようにするというのは、
服を変えさせるのとほとんど全く変わらなくて、
そういうのを改善とは言わない。
だから改善ポイントが全くない存在というのが目の前にある。
その場合、そこに当然改善ポイントがないんだから、
より良くすることはできない。
その存在というのは非常に不思議なことで、
毎秒毎秒完璧なんですよ。
こういうふうに言うと非常に親箱っぽく感じられるかもしれないんですけど、
そういうことじゃないと思うんですね、私は。
改善ポイントって多分この世のものにはないんだろうなって思うんです。
農作物を作るみたいなことでない限り、
植物を改善しようってあまり見ては思わないと思うんですよね。
この桜はちょっとこの辺の枝振りが、
これもあるんですよね、そういうことも。
だけれども普通に考えると花見に行ってる人っていうのは、
そういうことは考えてないと思うんですよ。
しようとしてないですもんね。
今年の花見の記録をとっておいて、来年より良くする。
そういうことをやってる人たちも絶対いるとは思うんですけど、
でもそれは人が見た時に満開の時どう見えるかって話をしてるんであって、
桜自体の欠点を改善してるって話とは違うじゃないですか。
そういう意味で改善しようという意識がなくなればですね、
子育てというのは多分今言われてるよりは確実に無理のないものになるはず。
だからだいぶご機嫌にやれると思うんですね。
不機嫌になる時にはいつも同じことが起きてると思うんです。
で、今日したいのはそういう話でもあるんですけど、
最近ちょっと凝ってるのは、うまく言えてる感じじゃないんですけどね、
二重生活と言ってるやつなんですよ。
つい先日もですね、私二重生活についてはやっぱり自分の中での確信と、
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人に言う時の確信に結構なズレがあるのが二重生活で、
これには個人的な事情もちょっとあるんですが、
要は二重生活というのは俗に言うマルチタスクです。
私マルチタスクっていうのもちょっと不思議なというか、
ちょっと言葉としてどうかなと思うのは、
例えば食事中にテレビ見るみたいな話が出たんですけど、
これマルチタスクなのかなとつい思っちゃうんですよね。
で、二重生活って僕の言ってるのはですね、
どっちかというとその二重っていう感じが気になってるんですよ。
端的に言ってしまうと、やめましょうねってことなんです。
というか、やめようねってことでもなくて、
二重生活は危機の表れですと言いたいです。
これはちょっと大げさに今度なっちゃうんですが、
でも僕の中ではこれが一番しっくりきているんですね。
先日言った千と千尋も、
あれはまさに危機と二重生活がテーマだと
私の中ではなってるわけなんですが、
さっき改善というのを挙げたのも、
子育てに改善を持ち込んじゃうと、
二重になっちゃうと思うんですよ、その子に対する観点が。
より良い子の子っていうのが出てくるわけじゃないですか。
これは危機の表れだと僕は思うんですね。
そこに危機があるからそういうことを言うわけですよね。
このままじゃこの子の将来が危ういからもっと勉強させようとか、
もっと算数のできる子にしようというのはまさに二重じゃないですか。
これは必ずクライシスとセットでやってきている。
実はこれを言うといかにも行儀欲しくなるから嫌なんだけど、
テレビ見ながらご飯食べるというのも一つの危機の表れなんだと。
ただし薄い危機ですし、すぐ回避されるはずですよ、そのレベルであれば。
もっと深刻な危機がつまりミドルクライシスみたいなものになっているはずなんだけど、
何にしてもこれを起こったときには本当はそれこそ改善ポイントじゃないんですけど、
二重生活と危機に向き合わないといけないって本当は思うんですね。
つまりご飯を見ながらテレビを見出したときには
どっちを本当はやりたいのかを考えなきゃいけないって僕は思うんですよ。
それがタスクシュートの一つの大きな特徴なんだと思うんですね。
先日、掛け上げ塾の中でこの話題が出たんだけど、
そのとき私は自分に対して言っているスタンスと人に対して言っているスタンスがずれたんですね。
すごくそのことをはっきり意識したんですよ。
さすがに蔵園さんは統一されていて、シングルで行こうねっていう話にまとめられていて、
私もそういうふうに言うべきだったなと思ったんだけれども、
個人的な事情っていうのはつまりですね、ここで結構突っ込まれたことがあるんですよね。
何度もセミナー中にマルチタスクをもっと認めるべきだっていうので、
結構厳しく問い詰められたことがあって、結構泣きそうになったという。
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泣いてはいないし、泣いちゃえばよかったかなと今思うと思わなくもないんですが、
その時はあんまり精神分析的な方面の方も、僕の中ではよく理解を深めてなかったし、
ウッドバイブスよりは本当に前で、震災よりもなお前だから蔵園さんに会う前ぐらいの話なんですよね。
まだ僕もホヤホヤな感じだったんで、フリーランス。一生懸命だったわけですよ。
ちょっと突っ込まれると結構来るわけですね。
逆にあの当時は本当にマウント合戦みたいな雰囲気の中で頑張ってたから、
これは僕の中の話なんだけど、相手が本当にどう思ってたか全然分かんないんですけどね。
好意的な人ばかりだとは限らなかったわけですよ。
そういう時に僕は常に言いまかす方法というのを考えてしまってたから、
言いまかされそうになると泣きそうになっちゃうわけですよね。
泣きそうになるってすごい大事なポイントなんですが、
何で泣きそうになるかというと、これが恥ずかしいと思うからなんですよ。
恥ずかしいと思うって面白い現象で、これは母親機能って僕は思うんですけれども、
父親かな、ちょっと難しいところですね。ケースバイケースですが、
恥ずかしいと思うということは、負けて恥ずかしいと思うということは、
そこに評価者がいるって思ってるわけじゃないですか。
ところが、例えばセミナーで僕が言いまかされたとしますよね。
その時もそうだったと思うんですけれども、
その時じゃないかな、もっと別のパーティーみたいなところで、
やっぱり同じような話で、同じようにこれはマルチタスクだけが問題じゃなくて、
ありとあらゆるタスクシュートとはいかにダメなものかみたいなことを、
コンコンとやられたことがあったんですよ。
別にその時は何言ってるのかよく分からない、
ちょっと酔っ払っておいたから、何言ってるのかよく分からないようなやり取りだったんだけど、
泣きそうにはなってないんだけど、聞いてて言いまかせそうにはないな感が、
当時もまだ言いまかす対策でいたんで、言いまかせそうにはないなという感じで、
非常に苦々しい気持ちになってたんですが、
その時に恥ずかしいというのが出てきたんですよね。
こうやって自分がこういう、自分のやってることで言いまかされるというのは、
みんなから見て大変見苦しくて、頼りにならない奴だと思われるような、
そういう羞恥心を強く、何にしても罪悪感が強かったんですよ。
許されないことだって感じを持ったんですね。
その時に後々になって大丈夫でしたかとか言って、
ああいうのっておかしいんですよねみたいなことをみんなが言ってきてくれて、
その時も恥ずかしくなったんですよ。
恥ずかしくなったんですよ。ここが面白くてですね。
恥ずかしいというのは人に低く評価されるってことじゃないですか。
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ところが客観視している人たちの中には、僕を支持してくれる人が、
図式的に言うとそうなりますよね。
今の話は支持してくれている人が寄ってきてくれたって話なんですよ。
これ時々見る現象ですよね。
私は子供の時に東部東上線に乗っていたんですけど、
車掌をやたらと見つめるおじさんがいたんですね。
そういう光景ってたまにあるじゃないですか。
私は子供の頃だったんで、その場に凍りついちゃってビビっちゃってたんですけど、
そのおじさん、みんなに怒っているのはそのおじさんなんですけど、
ほぼ周りの人はみんな車掌の見方をしていくっていう現象が起きて、
私はあれを見てですね、怒っている人っていうものは非常にしばしば見栄え良くないんだなと思ったんですよ。
何にも関わらず怒られた時に恥ずかしいと思うこの現象って何なんだろうって思ったんですね。
恥ずかしいと思うということは、いわば自分がダメな方に回っている感じなんだけど、
その場の関係性で言うと、怒っている人はしばしばダメな側に回っているんですよ。
そうするとどうして私が恥ずかしがるんだろうっていうのは、
そのパーティーの時は非常によく考えたんですね。
今ならばこれは、それこそ父親機能で説明できると思うんだけれども、
当時はというか、その場にいるとダメだっていうあれがあってですね、
その場にいるとですね、いろんなことを考える能力を失うんですよね。
ただただ苦しむみたいになっちゃって、
ただその時に非常に思い、これはすごい不思議な現象だなと思った記憶があるんです。
今の話が一応ですね、全部関係があるんですよ、今日の話には。
子供を改善したいポイントが発生する時って、
羞恥心が多いと思うんですね。
この子がこうなったままではダメだと、恥ずかしい子になってしまうみたいな、
これ今あまり言わないんですけどね、私が子供の頃はすっげえ言ったんですよ、親とかが。
平気でこういうことをですね。
ここにクライシスと二重生活ってのは、如実に出てくる感じがするんです、私は。
危機があるわけですよ。算数の点が恥ずかしいとか、マルチタスクで問い詰められて恥ずかしいとかですね。
危機が発生する。危機が発生するとその現実が嫌になるじゃないですか。
早くこの現実から逃れようとしますよね。
この現実から脱走とするということは、つまり現実逃避ですよね。
現実逃避を夢見るのは二重生活が始まるんですよ。
心理的なものですね。
この今ここにある現実を受け入れられないという時に、僕らは必ずこれをやるはずなんです。
二つ目の現実を作り出し、作り出してるんですよ、心の中に。
そっちに逃れようとする。
先日にご紹介した砂の女とかは典型的にこのパターンでしたよね。
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学校教師という生活はもう自分にとっては意味のないものだと。
こういう時には不思議なことが起きて、なんかもう本当にそこに生きていないような感じになったままその生活を続けていき、
本当は自分は明晩探しに行くのがこっちが本当の生活だというふうに思うんですよね。
ここまで来るともう完全にクライシスなんですが、
二重生活が完全に心の中で成立してしまって、しかも今やってるほうが嘘だということになってるんですよ。
見もかかわらず今やってるんですよね、それを。
何らかの理由がありまして、千と千尋なんですよ。
言われてましたよね、千尋という名前を忘れちゃダメだと。
千尋と呼ばれている世界が本当の世界なんだって一生懸命覚えておかないと、
忘れてしまってすっかり線になって、その生活がしかもそこそこ板についてくると戻れなくなるじゃないですか。
あれ忘れるということは多分ですが、命に関わる問題なんですよ。
死んじゃうんですよね。千尋はもう戻ってこないわけですよ。
そういうふうになるという、なりかねないというのが中年の危機なんだと思うんですけど、
昔なんですけどね、でも今もきっと調査すると出てくると思うんですが、
東京では実は蒸発しているお父さんが運満人といるんですみたいなのが、
新聞の一面にボーンと出たとき、すっごい話題になったことがあるんですよ。
でも、不意に仕事が嫌になって消えていくみたいな小説って、
当時私は小学生だったんですけど、なんかそういうのをむさぼり読んでいた時代がありまして、
今どういうタイトルだったかすら思い出せないんですけど、
DHロレンスもそういうの書いてるんですよね、アーロンの杖っていうので。
やっぱり不意に蒸発しちゃうんですよ。
あれちょっと単なる蒸発小説ともまた違うんですけど、単なる蒸発小説みたいなのもありますよ。
泳げたい焼き君みたいな話になっていきやすいんですけどね。
二重生活なわけですよね。
で、これがですね、いかにもこの話と麻雀が合ってない感じがすると思うんだけれども、
私はその仕事中にYouTubeを見るというのはこれだと思っておるんですよ。
何回もこの前回タスク管理トレーニングセンターというところのタスクシュートオンライン、
タスクシュートオンラインというオンラインセミナーやってるんですね、定期的に月に1回。
よかったら来ていただけるといいと思うんですが、
ここで私が自分のタスクシュートを全部晒しますというのをやった時にも、
必ずこの問題がクローズアップしてくるわけです。
11時になったら原稿書き始めましたっていうと、
なぜそこで逃避しないんだというか、そこで逃避したくなったらどうするんだっていう話が出てくるんですね。
で、そこで逃避したくなるとはどういうことなのかっていうことをスルーされてる気が私はするんですね。
そこで逃避したくなるのは当然でしょうという感じのニュアンスになるケースすらあるんですよ。
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当然ならばどうしてその原稿を書くことになったのでしょうね。
それは非常に僕は大事なポイントだと思うんですよね。
当然学校生活なんてつまらないのなら、なぜその人は学校教師をしてるんでしょうね。
二重になるということはですね、今諸世に近い現実が受け入れがたいもんだって言ってるわけですよ。
たとえそれが一時的な逃避であろうと、ご飯を食べてる最中にウクライナ情勢をチェックするためにテレビを見るんであろうと同じことで、
今諸世でなぜかではなく、自然の成り行きとして今ここで生活このように、この人たちと生活するならご飯を食べることになっている時に食べたくないって言うんですよ。
それはもうもちろん極めて軽い現象ですよ。一時的な現象です。すぐ戻ってこれます。
千と千尋とは違ってすぐ戻ってこれますが。
でも一時的にせよ逃避したいということですよね。現実を拒否したいということですよね。拒否したいにもかかわらずその現実の中に痛くもあるから二重になっていくわけですよね。
なぜなんですかね。なぜなのかというのがすごく僕は大事だと思うんですよね。
その時に当然こっちをやるべきだという自明の答えはないはずなんですよ。
ここもまたほぼほぼ認めてもらったことのない重大なポイントだと私は思うんです。
何をしている?原稿を書くときに反座を見ちゃうと。
私これ冗談で言ってるわけじゃなくて本当にしょっちゅうやってたんですけどね。
原稿を書くのが当然でしょっていうのはダメなんですよ。
よくカウンセリングで二者関係の中で正解はないっていうのがあるんですね。
これグッドバイブスで言う正しさを手放すというのと告示していると思うんですけど
二者関係なんだから基準はそこにないはずなんですよ。
カウンセラーが正しいということは決して言えないんですね。
学校行くことができませんって子どもが言っていて
行くべきだとか行く方に改善するとか行く方に直すっていうことをしちゃダメなんですよ。
そこには子どもとカウンセラーしかいないから私行きたくない。
あなた行くべきです。ずーっとこれをやることになるわけですね。
要するにどっちが悪い論争になっちゃうんですよ。
これやっててもことは解決しないということはどういうことかというと
二者がそこにいるだけではどっちが正しいか判定はできないはずだってことなんです。
原稿を書くのが正しくてファン座を見るのは罪悪であるってことは
言うためには第三者がいるはずなんですよ。
で、第二者すらいないと僕は思うんですね。そこには。
24:00
自分が仕事をしようとしているときに
この仕事Aをするのが正しくてYouTubeを見るこっちは間違ってるというためには
第三者が必要なはずなんだけどそこには一者しかいないと思うんですよね。
カウンセリングのところですらないんですよ。
二者すらいないんですよ。一者しかいないんです。
一者しかいないのにどうしてこっちをするべきだって言えるんだろうってのがあるはずなんですよね。
第三者がどこにもいないのにYouTubeを見るのはダメですと言うんであれば
そこにその頭の中に第三者がシャシャリ出てきているわけですよ。
そいつは二重生活を作り出しているはずなんです。
だって自分しかいないのに第三者がそこにいることになっているっておかしいじゃないですか。
僕これをいろんな言い回しを使っているんだけどなかなかまだ受け入れられないんですよね。
冗談のように捉えられているらしいんですよ。
でもプロジェクトAとBとかの比較のほうがいいのかもしれないけれども
それじゃ面白くもなんともないし本当にどっちが正解だかわからなくなるので
原稿を書くのが正解だと皆さん思うわけですよね。
仕事をするのが正解だと。なぜですかってことなんですよ。
これが自明だっていうのは絶対おかしいと思うんですよね。
自明のはずはないと思うんです。
自明のはずがないというのはそれを原稿を書くのが正解ですと言い切れる人はいないと僕は思うから。
なのに原稿を書くために先送りをしないために
私はどうしたらいいのかとか記録を残してそれを読み返すだとか
それによって起きたことを反省するだとか
全部最初から基準がはっきりしちゃってるじゃないですか。
全部おかしいと思うんですよね僕は。
どうしてかということには一度も答えてもらったことがないのに
そっちをしちゃダメなんですと。
これからパチンコをしに行くとかカジノをしに行くとかではなんでダメなのか
その答えがないんですよ。
お金を儲けられるから原稿を書くのは良くてギャンブルだとお金を儲けられませんというのは
私は二つの意味で嘘があると思うんですね。
一つはお金を儲けることが善なのですかってその人に聞くと
多分そういう答えが明瞭に出てこない。
つまりお金を儲けることが善とは限らない。
もう一つはギャンブルの方が儲かったらどうするんだよって話が残ってくるわけですよ。
ギャンブルの方が儲かる可能性は原稿と比較した場合十分ありますからね。
圧倒的に儲かる可能性すらありますからね。
だから二つともダメだと思うんですよね。
お金が儲かるからという理由とかギャンブルはお金を失うというのは
二つともダメだと思います。
これはもう判断を見るでもYouTubeを見るでも漫画を読むでも同じですよ。
なぜこっちではいけないのかの答えが全く出てきていないのに
27:00
自分がそれをしたいと思った時にそれをすることはできない。
そしてにもかかわらず原稿を書くこともできない。
この状態にはまるのは僕は自明じゃないものを勝手に自明だと仮定したせいだと思うんです。
自明じゃないというのはどういうことかというと
原稿を書くことの価値とギャンブルすることの価値は等価だって認めないとダメだと思うんですよ。
これが等価だと認められていない間は永久的にこの問題はなくならない気がします。
等価であるということは後から振り返って改善するという言葉は成立しないということです。
改善できるということは等価じゃないということになりますからね。
等価であるということを認めないとどっちかが善であるということにしてしまったらですね
私たちは常に何をするにあたっても善行と悪行のどちらかを選ぶということで
しばしば悪行を選ぶ羽目になるはずですよ。
だって書いてある通りにできたって人は僕は一人も知らないんで
それが全て書いてあることが善行でありそれ以外のことをやるのが悪行であるということは
私たちはしょっちゅう悪に手を染めなきゃならないんですよ。
ギャンブルをやってみたりハンザーを見てみたりyoutubeを見てみたり
悪事ばっかりしてる人になっちゃうんですよ。ほとんど犯罪者ですよね。
だから自分が犯罪者になっちゃうんですよ。
それぐらいのそれだったらですね私はタスクシュートなんてやるべきじゃないと思うんですよね。
タスクに書いたために自分犯罪者になるんでしょう。
タスクに書きたりしなければ自分犯罪者にならずに済むんですよ。
だったらタスク書かないほうが絶対いいですよ。
これはなんか冗談みたいに聞こえるかもしれませんけれども
もしもやる価値がないことを悪事じゃなくて無価値に切り替えた場合
私たちはタスクシュートを書いたせいで無価値なことをする人になってしまうんですよ。
絶対これはいい結果を生んでないですよね。
自己肯定感とか自己評価とかって言いますけれども
私はそういうものを信じないけれど
そういうことを信じているなら余計そうですよね。
無価値なことばっかりやる人がそこに誕生するんですよ。
それは自分だってことになるわけじゃないですか。
そうすると多分ですね。
価値のあることはできなくなると思いますね。
そういうふうに自分に出るを張ってしまうと。
犯罪者っていうのが重ければ軽犯罪ですよ。
軽犯罪者なんですよ。そういうものを作ってしまったらね。
軽犯罪者が構成するように過去の記録を見ては反省して
真人間になる。昔そういう言い方をしたんですよね。
今もするのかな。真人間になるわけですよ。
私この観点では真人間になれないっていう本。
反省させると犯罪者になります。
こういうことが書いてあるんだと思うんです。
30:00
倉殿さんがよくお話になる話も
ほとんど同じ文脈の場合はほとんど同じになります。
反省させると犯罪者になりますで書いていることも全く同じで
要するに自分を悪人だとか犯罪者だとレッテルを一度張ってしまったら
心を入れ替えますとか書いたぐらいでは入れ替わらぬわけですよね。
小さいですよ。私たちがやっていることはこれより。
だけれども、例えば反省させると犯罪者になりますで出てくるテーマだって
学生時代の万引きとかなんですよ。
それはYouTubeを見るよりはもちろん悪いと言われるでしょうけれども
はっきり言って大した話はないわけですよ。
こういう高利点の方には申し訳ないかもしれないですけど
社会全体の知名度で見れば決して高い方じゃないわけですよね。
だけれどもあそこで反省させて
みんながお前のことを見ているんだぞっていう話をし始めると
本当に犯罪者のようになっていってしまうという
一つのちょっと軽苦みたいなものですよね。
クンマみたいなところがあるんですよあそこの話には。
ちょっと怖いところがあると。
彼は、聴者の人はそういう要するに刑務に携わっていた人なんで
そういうのを山のように見てきたというわけですよね。
犯罪者の集団ですよね。
そこに書かせると。
彼らは本音を全く言わなくなるんだという話をしているわけです。
つまり偽りの事故ばっかりになっちゃうわけですよね。
偽りの事故というのは
私嘘ついてますって言ってるんじゃないんですよ。
シチュエーションがそういうシチュエーションだと
こういう私を用意しておきますってだけなんですね。
カウンセラーでよくあるんですよ。
とかしか言わない人っているんですね。
要するにカウンセラーの言うことには
全部最もその通りでそうしますって言って
そうはできないわけですよね。
偽りの事故というのはそういうもんです。
嘘ついてるつもりはないんですよ。
お酒やめます、タバコもやめます、ギャンブルもやめます
って言うんだけど
その時にはそう思ってるんですよ。
なぜなら容易くやめられるような気がしますから。
カウンセリングの場だからね。
でも外に出て嫌なことが起こり
お酒があるということになると
そうはいかないわけですよね。
本当の自分が出てきてしまう。
本当の自分が悪だということになったら
何を拠り所にすればいいんだってことになっちゃうんです。
本当の自分はダメな人で
悪い人で
弱い人でってことになったら
偽りの事故に頼んなきゃなんだけど
偽りの事故は偽りなんだから
何にもできないんですよ。
ただ誰かにお説教された時に
はい、その通りです、賛成します
っていうことしかできないんですよね。
そして本当の自分は
弱者として、弱者らしく振る舞っちゃうわけですよね。
このことを反省させると犯罪者になりますと
33:01
表現したわけです。
二重生活なんですよ、それは。
明らかに二重になっちゃってる。
偽りの事故と本当の自分と。
それとほとんど変わらない構造が
原稿を書きますって言っておきながら
YouTubeを見ます。
原稿を書くのは偽りの事故なんですよ。
この構造になったらダメだと思うんですよね。
だって偽りの事故が原稿を書くわけですよ。
本当の自分をファンザが見たいわけですよ。
絶対これだったら
仕事してもいい結果になる感じがしないし
しかも
常に嘘をつき続けるしか
仕事にならないわけですよね。
これをですね、これがやむを得ない形なんです。
こういう形が世の中の自明ってものなんです。
そういうところに私は嘘があると思うんですよね。
喜んで学校の先生やってる人は誰もいないんですみたいな
そういう世界ですよね。
そういうのってどっかおかしいと思うんですよ。
だから原稿を書くのも
先送りするのも自明じゃないですかって
おかしいと僕は思うんですよ。
要するに原稿を書くときは
こいつは本当にいけつかないやつだけど
自分より偉いことになってるから
おべっか使っておこうっていうのが
これが仕事なんですっていうようなもんであって
これをやめるためには
自分がやることは基本全部等価だということは
つまり自分がやってることは
全部本当の自分がやってるんだって
思わないといけないと思うんですね。
だからどっちをやってもいいし
やる以上は一つどっちかを選び
それを書くんですよ。
それをやるんですってことにするんですよね。
だから本当は
ご飯かテレビかどっちかにするべきなんだけど
これを言って僕は
これを言ってですね
パーティーの会場とかで
とっちめられそうになったことがあるという
そういうことをしない人ばっかりしか
いない空間なんだけど
こういうトラウマが降って上がったんですよね。
たぶん。
ほとんど自覚できないレベルで上がるんですよ。
こういうのが。
そのときにまあそれをどっちでもいいですって
言っちゃうんですよね。
これが偽りの事故です。
これは僕らの生活習慣の中には
入り込んできているんで
完全に締め出すっていうのは
なかなか難しいなって
出てくる度に思うんだけど
少なくとも
仕事を自分一人でやるときには
僕は締め出せるわけだから
つまり偽りの事故って
要するに他人向けの宣伝をする自分みたいな
ものですからね。
自分一人で仕事をやっているときは
締め出せるはずなんで
締め出す必要があると思うんですよ。
つまり仕事をやりたい人なんていないでしょ
っていう大前提を立てちゃダメだと思うし
それは仕事をやる気がする仕事が大好きです
っていう風になりましょうって話じゃないです。
この話をしたところで
偽りの自分が非大化するだけで
意味がないと思うんで
そうじゃなくて
等価だって本当に思った方がいいと思うんですね。
何をやるんだとしても
ということはつまり
何をやってもいいんだっていう風に
36:01
思えないとダメだと思うんです。
スクシュートを前にして
ここでやるべきなのは立派なことだとか
ここでやるべきなのは
生産的なことだとか
やるべきことを先にやるべきなんだとか
全部ダメだと思うんですよ。
何をやってもいいし
やりたいことをやるんだって思ってないと
必ず嘘をつくことになって
そこで二重生活が
始まっちゃう気がするんです。
で、えっと
うーん
いうことを忘れるんですよね。
こうやってこう
とうとうと喋ってると
えっと
忘れるってのは
何かがあるんだと思うんですけどね。
こう
喋らせないための何かが
発生しているという感じが
するんですが
スクシュートって
終了予定時刻があるとか
そこに書いてあることは
全部やることだとか
いう話をしておりますもんだから
何か必然性みたいなものが
そこにあって
そのタスクを実行する
ことが必然的にできるようになる
とか
習慣の力でできるようになる
みたいに思われる方も
多いと思うし
そういうことも起こるんだけれども
本当のところ
やっぱりそれじゃダメだと思うんですよね。
ダメというか
その場合危機は去ってない感じが
するんですよ。
要は
何をやってもいいということは
何をやっても
変わらないですよ
ってことなんです。
何をやったって同じですよと。
もちろん表面的には
約束を破れば
致命的な感じがするし
約束を守れば
いい感じになるような感じがするんですけど
それは分からないことなんですよ。
つまり
何かそういう
べき論に
頼ってやっていると
いずれは
結局は先送りって
やめられないと思うんですね。
べきだからやるんじゃないんですよ。
やり
なんつうんですかね。
それをするから
それをするんですよ。
他の理由があったらむしろ
ダメなんだと思うんですよね。
この時間にこれを済ませておけば
眠れるとか
仕事は午前中にするべきだとか
そういうべき論に頼っていると
いつまで経っても先送りって
言えないんです。
今言ったような理由が全部です。
なぜならば
例えば
結果を得る
結局先にするべきことは
先にするっていうのは
宿題みたいなやつじゃないですか。
やるべきことを先にする。やるべきことをやっていれば
何をしてもいいみたいな
条件をつけてしまうと
あることをした場合は
いい結果が得られるっていう
根拠を自分が信じたことになるんですよ。
39:00
例えば原稿をここで書けば
家族は食っていけるという
ふうに信じた。
だからギャンブルのようなことしちゃいけないんだ
っていうこの構図になっちゃうわけですよね。
この構図しか
多分僕は結局は言われてない
気がするんです。私に
投げかけられている
疑問点とか議論のポイントは
全部これです。結局。
結局はやるべきことを先にやるべき
なんですよね。なんだけどできないんですよ
ってここに戻ってきてるんですよ。
やるべきことを先にやったほうが
結果が良くなるとは限らないんですよ。
その方が
思い描いているような意味で
結果が良くなるとは限らないんですよ。
原稿を書いたってそれが本になるとは
限らないんですよ。まして
本になったからといって売れるとは限らないし
人勢が十分入ってくるとも
限らない。だから
娘の受験
私立中学の学費が出るとも
限らないんですよ。
こうすれば良くなると信じていたのに
裏切られるということになると
裏切られる可能性があるということになると
僕らはそれを信じて
行動する根拠を失うことになる
じゃないですか。
だからできなくなるんですよ。
根拠に頼っていると。
この種の根拠は絶対に崩れ
売る可能性があるんですよ。
みんな言ってるじゃないですか。今。
まさか信仰するとは思わなかったと。
21世紀にこんなことが起こるとは思わなかったと。
起こるんですよ。
思わなくったって。
つまり、本を書き上げて
私はそういう経験を2度してますから
本を完全に書き上げても
本にならないとか
そいつらが印税を払ってくださらない
ということが起こるんですよ。
そうするとどうなるかというと
私たちは根拠を信じて
行動した場合
実は心の底でその根拠は根拠になってない
かもしれないって知ってるじゃないですか。
だからできなくなるんですよ。
今、YouTube見といた方が
いいやって思うわけですよ。
だからそういうものを
当てにして行動を取ったら
ダメだと思うんですね。
べき論を当てにして。
改善というポイントがあるということは
あるタイミングに
差し掛かった時に、キロってよく言うじゃないですか。
Aを選ぶのは
いいが、Bを選ぶのは
より良くはないっていうことですよね。
そんなものはないんだと僕は思うんですね。
Aを選んだ方が
いいという
その根拠が怪しいってことです。
非常に疑わしいということです。
僕らはそのことを知ってるから
Bを選んじゃうんですよ。
そうじゃないんだと僕は思うんですよね。
より良い
選択肢とかはないんですよ。
何をやっても同じなんです。
だから
むしろ
僕の場合はですけど、ギャンブルに
行かなくて済むんですよ。
言っても、原稿書いても同じなんですよ。
ここで
原稿を書いた方が
大枠においては
自分の生活が平和で
豊かに暮らせていいんだけれども
今はちょっと
ストレスが溜まっていて
メンタルが弱っているから
42:00
ここでは
少し反座を見てリラックスした方が
いいって思うから
逃げるんですよ。
どっちを選んでも変わらないということであれば
こういう対比は
生まれるはずがないから
今の
これが受け入れがたい
耐えがたいからこっちに逃げたい
という気持ちよりは
成立しなくなるから
生まれなくなるはずなんです。
僕は生まれなく
なっているんですよ。
僕はタスクシュートをやっていれば
みんな生まれなくなるはずだって
信じているんですね。
さらにこれにGood Vibesを
付け加えるというのは
変なんで
別のコンテクストから
了解すれば
多分
ますます
この対比は成立しなくなるから
反省したり
レビューしたり
記録を取ったり読み返したり
全くしなくても
やろうと思ったことは
できるはずなんですよね。
そしてそのやろうと思ったことが
たまたま原稿を書くことでなくても
結果は悪くはならないんですよ。
結果が悪くなると
思うというのは
自分が未来が読めるというのと
変わらないんです。
でもこれは何度もやってみるといいんですよ。
タスクシュートとかでね。
未来が本当に読めるのかどうかと。
多分読めることは
永遠にないと思います。
43:33

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