1. 佐々木正悟のライフハックからの精神分析
  2. POSTの本を読んで3チャレは心..
2025-09-01 48:02

POSTの本を読んで3チャレは心理臨床ではないと改めて思った【1240】

心の病は否認されやすい。、
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サマリー

このエピソードでは、山崎拓明の新刊『POST』を通じて心理臨床の構造を考察し、雇われコンサルとしての自己認識を深める内容が展開されています。また、心理師との違いや治療とコンサルティングの関係についても語られています。さらに、心理臨床と個人コンサルの違いについて考察し、メンタルヘルスの重要性や心理カウンセリングの役割がどのように変化するかが論じられています。特に、日本におけるメンタルケアの現状や心の健康がビジネスや日常生活に与える影響についても触れられています。治療と相談の違いに焦点を当てつつ、治療の安全保障がない場合や週1回のセッションでも効果が得られるかについても考察されています。また、心理臨床における否認やトラウマについて議論し、特に家族間の問題や心の健康の重要性が考察されています。さらに、心理カウンセリングの実態や社会の理解不足も指摘されています。

山崎拓明の新刊について
おはようございます。朝っぱらから精神分析第1240回をお送りします。
6月1日月曜日7時58分。まさに朝っぱらから精神分析感があっていいかなと。いいんだかどうだかわかりませんが、いいかなというふうに思います。
今日はですね、最近いろいろございまして、山崎拓明さん、私の一応推しの心理師さんということで、POSTの続編というのか少なくとも新刊を出されまして、一通り読むという結構めでたいことがありましたんで、個人的にね。
個人的にいいことがあったんで、その話に絡めつつ、結局3ヶ月チャレンジの話とかをしていこうかなというふうに。だいたいね、結局POSTって精神分析的サポーティブセラピーの頭文字なんですけれども、精神分析に起源を持つサポーティブセラピーなんですけどね。
その中身に今回の本は、新しい本はですね、さらに開かれたPOSTへってことなんだけど、中身の方に触れていらっしゃるんですけど、基本でも構造的な話が絶対出てくるので、この種の話はですね、なんでって思われると思うんですけどね。一般的には。
なんで構造の話がこうも出てきがちなのか、それには様々な理由と、ある種の必然性といろいろミックスされて、どうしても本一冊分みたいな内容になる上に、多分一般の人にはしかもあまり興味を引く内容じゃないんですよ。
心理師さんが構造構造言うのはいろいろわけがあるんですが、聞いてる方はですね、むしろ構造って大体において邪魔なんで、これはもう非常に暴論的になってしまうんですけど、でも一般の感覚はそうだと思うんですよね。
何らその構造によって自分が得るメリットって自覚しにくいものだし、実際に無くない方がいいと感じられるのはしっかりごもっともだと僕は思うんですよね。自分が受けてても。
なので、しかもその構造って言った時の構造が指しているイメージが多分一般の我々にはないから、僕になってないですよ、そこで働いてたわけじゃないですからね。だからないから、どうしてもイメージしてるもの自体が違うんで、こういう話をしててもしょうがないんで先へ進みますが。
なんか最近Xにバリバリつぶやいてみたりしたんですけど、あれは要するにこの前段階でして、もう本当に何かの批判なんだかあんまりいい感じのXにポストになってないなと思ったんですけど、決してないですけれども、別に何かについて何を言いたいとかは全くなくて、ただ頭の中で繰り返し繰り返し私が行ったり来たり上がったり下がったりしてることをただただXにポストしてみるとどうなるか。
あんまりいい感じになってないなっていうのと、あんまりいい反応なわけでもないなということで、ああいうことはあんまり今後やらないようにしようぐらいに思ったという程度の実にしょうもないものだったんですけど、その消化物が消化された状態が今私のしゃべってる感じの状態で少しは整理がついたんですよね。
で、つくづく思ったことが一つありまして、私のこのサンチャレは今後PRポイントとしてですね、これは雇われコンサルなんですよってことなんですね。私は。雇われコンサルなんですよ。だから、私よく正規の心理師さんとは違いますと、明らかに違うなと思ってたんだけど、どう違うのかがまだうまく説明できてなかったんですが、ポスト読んで大体のところがわかったんですよね。
そして、いろんな方とお話ししているうちにそれがはっきりしたんですけど、だから昨日のXへのポストもポストポストでこんがりがありますが、Xにはやってるツイートね、つぶやいていたわけですね。
ポストはこの場合はポストですよ。精神分析的に起源を没すサポーティブセラフィーのことね。ここではもうそこにそうしないと混ざってわけわかんなくなるということを今考えたんで、そういうふうに分けますが。
ポストの本を読んでいて、そうかなるほど私は雇われコンサルマンだと。つまり心理師には結構似てない。私は明理師に似てるんです。どっちかと言えば。内実が明理師よりは心理師さんの仕事に似ているから、ついついどこが心理師と違うのかみたいな話をしだすんですけど、これは職種が違うから全然違うんですよ。
例えば内実が似たとしても、内実似て職種違うってことは往々にしてあるじゃないですか。例えばそれこそ一般人にとっての社老師さんと弁護士さんは近づいていくことがあるし、ファイナンシャルプランナーさんと税理士さんだって、私が検討する事項とかは似てくるわけですよ。
例えば両親が長く今後生きた場合、借りた住宅ローンのお金の一部を整善どういうふうにできないかみたいな話は、ファイナンシャルプランナーさんの方から来て、税理士さんの方に相談するみたいなことが起こるんですよ、現実にね。それじゃない方がいいぞって言われるかもしれないけど、そういうことよりもどういうことよりも入り口としてね。
長について最初から詳しいんだったら、誰に相談するかも分かりきってるっていうこともあるかもしれないけど、ないわけですよ、分からん場合は。で、分からなくていいと思うんですよ、私は。そのためにいる人がいるんだから。なんかね、分かっておいた方がいいって考え方が、この種の話を著しく変にしてしまうと思うんですね。
例えば、だから私が心理士さんと職種、職業内容が違くても、職種は全然違うんですよ。なんで私は雇われ人間だと言い切れるかというと、3ヶ月分先に金をもらうからなんですよ。
肥料って行為は、都度都度お金を払うんですよ。そこ大事かって言われるかもしれないけど、そこは非常に大事だと思うんですよね。これが心理士さんが構造構造と繰り返し言う部分なんですよ。構造なんですね、これはね。構造上、だから最近思うんですよね。
これはそんなことを言われる筋合いはないと思うし、私ごときが言うことではないかもしれないですけど、大体私、以前心理カウンセリング受けに行ったとき、これって要するにポストにポストって言われてるものになるのか、それとも精神分析的な心理療法というふうに考えるべきなのか、それともそうじゃない心理カウンセリングなのかって聞いたら、
そういうところが脅迫的なんですよって言われて、まあそうだよねって思ったと同時に、でも私がそういうふうに言う脅迫的なのは、だと言うならば、心理臨床の世界って実に格外的じゃないかって言えばよかったんだけど、山崎孝明さんなら絶対それを言えばいいんだよってことになるんだけど、私はそれを言わない人間なんですよね。
言わないところが私の、つまり精神的なややこしさなんですけど、やっぱり言わないんですよね、私はね。言えばいいんですけど、例えば的外れでもそういうことは言うべきだと思うんだけど、ここから思っておきながら言わないってのがね、私の病理とまでは言わないけれども、それこそ心の構造だなというふうには思うんですよね。
で、私ケアされたいというよりは治療されたいんですよ、どっちかと言えば。治せって思うんですよ。治せるんだったら治してくれって思うんですよ。私の性格を治せみたいな話に近いですよ、これはね。そこが困りどころだって言うんなら、抵抗はしますよ、性格なんだから。だけど治してくれる、治せるって言うんなら治してよっていうふうに、僕ならもうズバッと思いますね。そういうタイプの私はクライアントだったと思います。まあその割に抵抗強い。この種の人間は抵抗強いんですけどね。
まあそれはAEといたしまして、つまり、私は税理士的構造、税理士さんはもっと長期スパンで雇われますけれども、私はもう税理士的な構造を持ってるんですよね。
治療の構造とは
精神分析ってそうなんだけど、にもかかわらず都度都度お金払うっていうところを徹底してるじゃないですか。だからあれは治療でもやっぱあるんだなと思う。治療ってのは治ればいいわけだから、一日一回お金を一応払うわけですよ。
たとえそれが藤山直樹さんが書いていらっしゃったように、これは一回一回のものではなく、長い時間をかけてその一回一回の時間を超えていくっていう時間のスパンを検討しているものだから、キャンセルしたとしてもお金を払うんですという。
それが客観的に見ておかしいとか言われるって話を臨床例で書かれていたわけだけれども、客観的に見てどうであろうとも、藤山さんは2人しかいないのに客観ってなんだっていうふうに、そこで考えるって話、それが逆転につながっていくみたいな話をしているわけですけれども。
そういう回を超えていくんだとしても、一回一回福沢諭吉さんを置いていくわけですよね。これが治療でもあるっていう部分の私は決定だと思うんですよね。
だいたいだって最近の歯医者さんなんてサブスクじゃないですかって言ったら、いけないのかもしれませんけど知りませんけどね私はね。でもどう考えてもこれサブスクだろって感じがするんですよ。
事実上歯の治療なんて私してないわけですし、絶対したくないわ。今後もずっと歯は衛生師さんだけにお世話になりたいわけですが、衛生師さんに綺麗にしてもらう。これを3ヶ月に一遍。しかも予約は必ずその都度させられる。なぜならば来なくなるからでしょあれ。
私はもちろん治療抵抗って言ってもいいと思うんですけど要するに痛いのは嫌なだけですけどね。そこに行くのは嫌じゃないんですよ。行くのはいいんですよ。痛いのは嫌なんですよ。痛くはないんで言うはいいんですけど。
とにかくあれはサブスクになってるじゃないですか。都度都度お金を払うように見えますが、どう考えても3ヶ月に一遍まとまったお金を渡してるように思えるわけですよね。
金額は安いですよ。保険効いてますから。でもあれ保険効いてないんだと考えると完璧にサブスクだよね。ドロップボックスよりは高いですよね。
そういう風に考えていくとですよ。私のは明らかにサブスクなわけですよ。3ヶ月分まとめてお金をいただく。それもそれなりの金額をですね。でも一回一回払うよりは明らかに安くなるんですよ。
私のはワンオンワンのセッションで赤い方も安い方もいらっしゃいますけれども頻度が違いますからね。でも一回あたり安い方で3000円から4000円、高い方でも6000円から7000円の間で推移しているわけですが、これは安い方だとは思います。
例えばあの試圧とか言ったら1回6000円というのは結構抑えめにされている。保険効くなら3割なら2000円なんでこれは全然いけるんですけどね。で絶対私は今心理印象もなんかある種グレーだと思うんですけれども精神科と連携することによって保険効かせてるんではなかろうかと私は思うようになりました。
だってそうする方がはるかに現実的な感じがしますからね。いずれにしてもだから自分の懐が痛まない感じがするっていうものとの兼ね合いになってるわけですよ。だからそれは治療なんですよね。毎回毎回払う保険も効くっていうことになればこれは治療じゃないですか。
私の保険は効かないし一発していただく。で一定期間の雇われ人間になるという。私はキャンセル分もいただきたいとかって思いませんけれども、でも行ってしまえば本当にですよ。3ヶ月分いただいて1回も来ないって方がいらっしゃればまだいらっしゃらないけどこれはもうキャンセル云々じゃなくなっちゃいますよね。
一応私雇われましたからっていうことになってそこで契約が成立してお金の従事があってその後私は行ってみれば実稼働するわけです。何のために個人がコンサルを雇う必要があるのかと。それは私は今は仕事というものが実に作装してきたのでもはやメンタル抜きで仕事するのは無理だと思うんですよね。
メンタルの重要性と人間関係
このメンタルというやつはですね。例えば家族の中の人間関係であったり実家との人間関係であったりそれこそAIとの関係があったり入ってきたり今していてですね。そしてもちろん組織であれば上司なり同僚なり部下なりとの人間関係があり。
さらには不倫とか浮気とか同じことですからね。そういう人間関係もあったりなかったりするわけですよね。あるいはローンが私みたいにあるとかその金額が莫大だとかそういうのは全部税理士とか心理士とかに全部任せればいいんじゃないかっていうふうに思われるかもしれませんけれども。
それは治療だっていう認識を特に我が国ではですね。個人コンサルというものが欧米に比べてもまだまだしっくりこないような状況でいきなり治療に入らないんじゃないですか。入れないじゃないですか。気持ちの上での話。心理士さんたちはそこを一生懸命Xとかで言っているんですけれども。
それを治療とのボーダーラインに入ってくれば意識に入ってくるでしょうけどそもそも多分意識に入らないと思うんですよね。だから私はやっぱりあくまでも先送りが続くとか部屋がちっとも片付かないとか、ある種の仕事をしようとすると両親のことがはなはな引っかかるとかそういったレベルからいきなり治療に入らないので。
だけれどもそういうのはサブスクにしておいてもいいぐらい品質する問題になってくるので、家の中が家庭内不穏な空気が流れてるっていうのはいきなり1日だけってことないじゃないですか。それだったら無視することもできますよね。
毎日毎日一定程度不穏ですって言うからこそ不穏さが気にかかってくるわけですよね。あるいは定期的に不穏になるというのが本人にとってはかなり耐えがたいという場合ですよね。
ここでそれは心理カウンセリングの出番ですっていうことになるのかもしれないんだけれども、ならないケースの方が多いと思うんですよ。感覚的にも。
このことと仕事とその他のことが連携して動いているという感じがご本人の中でしていて、しかもそれが心理臨床の範疇だとは感じられないっていうケースの場合、これがビジネス系の個人コンサルに該当してるわけですよ。
内実はすごく少なくともポストのような本を読んじゃうと、内実はいたって心理臨床に確かに時々急接近している部分はあります。でもそれはしゃーないんですよ。そういう問題ではないってことですよ。
なぜなら一度一度直しにかかってるわけではないんで、少なくとも私のやってることとしてはですね、やっぱり心理カウンセリングを受ける相談を含めてコンサルされてるわけですよ。雇われてるわけですよ。
だから税理士さんに近いと思うんですよ。あるいは庭師みたいなものにしちゃう。それは金持ちが得るものじゃないのかっていう話なんですよね。ここで私はこれからの時代は少なくとも日本ぐらい文明的で先進的になっちゃった場合にはですね、そこで心はすげー気持ちをするんですよ。
やっぱり人間っていうのはどっちかっていうともう少し野性的に生きてる時の方が真理の心を砕かずに済むって部分があって、やっぱり心を砕かなきゃならない。だから心理臨床、心理臨床言ってるんだけど、心を砕く上で苦しみ始めて病気になったら臨床って感じになるんですよ。
だから臨床の世界で言われてることがですね、これが一体、いわゆるメンタルの整えなのか、それとも本当に治療なのかっていうところで、まだ割れてる感じがするんですよね。臨床側が割れてる感じがするんですよね。そこが僕はさっき言ったように剥害的になってる感じが少しするわけですよ。
山崎隆さんぐらいにものすごく応用になってですね、いやもうポストは超公設的ですっていう感じで、さらに開かれるんですみたいな感じで、あの人の場合、これはここで暴露話しちゃダメなんであれなんですけど、私みたいな活動は全然ありだぐらいなスタンスですから、ここまではいいだろう。
つまり心理臨床とかでは全然なくたって、そういうことは全然やっていいんだ的な、これやっていいんだっていうよりは、そういうところにしか人来ない人がいるからっていう話なんだけど、私はこれは私に有利な話だからってこともなくはないんですけど、でも、
いずれは私はですね、公的でこのまま頑張っていれば全然普通に、公認心理師さんとか臨床心理師さんが気にされてるのは結局はブランディングの問題だと思うんですよ。それはある意味マーケティングの問題でもあるんですけれども、つまり野良がやってるとブランディングに傷つくっておっしゃってるんだと思うんですよね。客取られる心配してるわけじゃないと思うんですよ。
だけどこれは構造が保証するものであって、内実が保証するものとはちょっと違うんじゃないかって僕は思うんですよね。やっぱり公認というものが、公認会計師って言葉がありますが、公認ってものが抑えてるのは、つどつど金が取れる強さなんですよ。私はこれはですね、むしろ私のような非正規とか自己啓発系とか仕事術とかの人たち、野良カウンセラーさんでもいいんですけど、が常に念頭に置いておくべきことで、
メンタルサポートの新しい形
つどつど我々は金取れませんよって言いたいわけですね。つどつど金取れるのはよっぽどのインフルエンサーに限ります。つどつど金取れるっていうのは公認の強みなんですよ。公認やってる方々というのは、だから医者ってすごいんです。
医者には新しく通うような、見たこともないような、この間看病しましたみたいなところには、みんなつどつど金払うのは当たり前だって思うじゃないですか。そんなことは普通はありえないですよね。私たち税理士さんとか弁護士さんとかに普通、つどつどお金払って相談するって、そういう人生相談なんだか、何かの相談ごとなんだかみたいな使い方って、あんまり向こうがいい顔しないじゃないですか。
だからそういうのは公的になるんですけど。つまり、つどつど金取ってたら、もうすぐに冷やばっちゃいますよね。やっぱりまとめてお金を出せるっていう機関が保障してくれてる部分があるからこそ、例えば病院に公認診実さんいられるとか、学校に公認診実さんいられる、この形すごい多い。だからスクールカウンセラーってすごく多く、やっぱりホストの中でも登場するんですけど、それは学校が雇ってくれるからであって、
私のような人間を学校が雇ってくれるはずがないじゃないですか。問題になりますよね。この問題になるってところに構造ってものがあるわけですよ。問題になるというのは、つまり集団、多くの人がその人を雇っとくのはOKです。で、この場合人じゃないんですよ。
この何とか資産を雇っとくのはOKだっていう納得を、別に来日を知らずともできるところが強みなんですよ。で、これは最終的に保障されてるんですよ。国が保障してるからそういうふうに。国が保障してるってことは、国民は納得できるっていう話だから。だって税金がそこに動いてるわけですからね。
実際には税金でここに死にそうな雇われてるっていう感じにはなりにくいんですけれども、なりにくかどうがなりやすかどうがそういうことになっているから、我々は納得していることになってるわけですよ。それが民主主義ってことですよね、要するにね。
で、ことになってくると、そこに私が佐々木翔吾がスクールカウンセラーとして一律だからいいでしょうみたいな。他の人が黙ってないですよね。いいって人いるかもしれないけど、良くねえっていう人が出ますよね。で、そんなのいちいち佐々木が信用に値するのかどうか、スクールカウンセラーとしてやれるのかどうかを、すべての人が納得するかどうかについて来日を理解しておきましょう。
そんな面倒なことをほとんどの人はしたくないから、公認という名前がついてるか、正規のルートなのかどうかってことを、いわば来利補償みたいにするわけじゃないですか。この説明くだくだしてますけど、いらんのですよ、こんな説明は。世の中みんなこういうふうに動いてますよね。
だから、税理士であれ、公認会計師であれ、それこそ、歯医者さんであれ、お医者さんであれ、みんなこうですよね。そのようなものとして納得されております。だから、つどつどお金を払うという形式が割と即座に成立するわけですよ。
それはもうね、超有名な人ならつどつどだって大金取れるんだけれども、普通の人はつどつどは全然取れないわけですよ。つどつど取れるってことになると、友達とかになっちゃう。そうすると友達が100人いるなら別ですけれども、大概、友達に金払いませんから。だから結局、つどつどお金を取るという商売はとても難しいわけです。
なので、私もそんなつどつどを取るっていう形にはしてないわけですよ。そういうすぐ日上がるようなことはとてもやってられないので、まとめて一括していただくという形を取るわけです。
これがつまり、税理士さんとかに雇われるという、個人コンサル的に雇われる人の、弁護士さんなんかが一番いい例だと思うんですけど、やり方なんですよ。
だから、公認の人たちというのは、どこかの機関が雇ってくれたり、あるいは、つどつどお金を取るということの、今はそうまだなってないかもしれないけど、ブランディングというものがあるから。
ブランディングというのは、つまり国がブランドなので、日本国のブランドなので、だから日本国が公認してるなら大丈夫でしょうっていう、そういう観点に立ってるわけだから、つどつど取るっていう開業の仕方が、特別有名な人でなくてもできるっていう風になっている構造なわけですよ。
ポストは、その構造の中で行われていること、最もありふれたやり方として行われていること、つまりそれはグッドイナフなんですよ。ある意味、真面目にやってるなら何でもいいよねみたいな、これは大変語弊のある言い方ですが、そういうことなんですよ。
心的な両方で、でも一番何て言うんだろう、自分がやってることにある種の自信が持てなくなっているっていうか、オフピラにするのがはばかられるみたいなところの真理は、実は不要なんですよっていうところから始まってるわけですね。
それを正規外にも適用できるのかって話に、将来はなってくるんじゃないかなと、あるいは山崎さんはそういうことまでは意識されなくても別に困るわけじゃないからですね。正義に限っておけばそれでいいだろうって話になるわけですけれども、私はそうじゃないか。
さらに外にいる人間ですから、このポストというようなことに近い何かっていうのが、その心理カウンセリング外にも汎用できるだろうかって考え、私はできると思ってるからやってるわけですけれども、精神分析に起源を持つとまでは言い切らないわけですけどね。精神分析に起源を持ちたいぐらいな感じですけどね。持ちたい個人のメンタルサポートをしますみたいな。
個人のビジネスメンタルサポートをしますですね。でもこの場合のビジネスにはもう家事とか普通生活というもの一般を全部含みます。別にそこからお給料もらいますとかそういうことは関係ないですっていう形にしてます。そうすると、来日は確かに心理臨床に接近していく部分はどうしても出るんですよ。
でもこれはですね、私はブランドに気につくみたいな話には到底なり得ないと思う。私と日本国を比較するってナンセンスな感じがするし、もう一つはそれが治療じゃないっていうのは治療じゃないんで、やっぱり雇われ人間が雇われていて、都度都度相談に乗れますという、特別な枠組みはいりませんってことですよね。
治療と相談の違い
特別な枠組みがいるのはやっぱり都度都度お金を払うことと深く関係があると思うんですよ。だから時間外とか、時間外っていうためには時間ないとはいつなのかっていう枠組みはしっかりしてないと無理ですよね。何よりも最終的には、ある意味ではクライアントさんとカウンセラーさんの方をある枠が保証して、安全を保証していると。
明らかに私はその枠を持ってないっていうか、誰も助けてはくれないよね、いざとなったらっていう部分があるわけですね。だから治療じゃないんですよ。治療は、いざとなったらどこかが最終的に追いますみたいなことが言える期間があって初めて日本ではなされるという、それはつまり安全保障みたいなものですよね。
ちょっと安全保障というと防衛みたいになっちゃいますけど、そういうことじゃないけど、安全を保障しますみたいな。品質と安全を保障しますから、それの保障は私にはないっていうことになるわけですよね。この差がはっきりしているから治療じゃないんですよ。治療じゃないんだけれども、その治療側の知見をすごく利用させてもらっているので、そこのところで内実が似てしまうと思う。
ポストの本に書いてあったことは結局のところそれは聞くのか聞かないのか、つまり保障はわかった、枠もわかった、質もわかった、姿勢が倫理的なのもわかった、で結局聞くのみたいな話、そこがポストという本に出てくる話だと思うんですよね。
僕はだからあのシリーズ、最初に出たポストと次に出た今出てきてポストの本と、もう一つ週1回は絶対ここに含まれるはずだっては思うんです。あれは結局週4回でやっていた精神分析というもの、週5回でやっていた精神分析という発想、メソッドですよね、の効果が週1でも本当に同じ効果があると言えるのっていう問い合わせだから、
ポストの私は考え方の延長というかほとんど一番重要な争点にその話が入ってきていると思うんですよ。極端に言うと週4を週1にしていいのかって話ですよね。そこがポストの名前の僕は由来になっていると思うんです。
なぜ精神分析に、精神分析的という、要するに的というのはそのものではないってことですけれども、的をくっつけたかというと1回にしているからじゃない、1回か1回以下、各週とかで1回あたりの時間も短くなったりしているからじゃないですか。
短くしても同じ効果あるわけっていう問い合わせじゃないですか。それだけじゃないんですけど、それだけではないにしてもこの部分ははっきり目に見えてクリアになっちゃう部分ですよね。だって4が1ってめっちゃ見るじゃんっていう。しかも55分とか50分だったところが30分とか20分とかになって、しかも各週になっていて、それで同じ名前を勘することができるわけっていう、そういう問いから来てると思うんです。
だから週1回とポストのシリーズはセットだって私は思うんですけど、それはどうでもいいことかもしれないですけどね。週1回のほうが私は一番、なんつったってあれには、藤山直樹さんが書かれてるんでね、反対してるわけじゃないんですけど、やっぱり畳に反対してる人のように見えますよね、ある意味ではね。
だからそこのところを見ていくと、週1回でもいいんだろうかっていうことを、僕が考える必要は全くないことなんですが、そのことを考えながら読むことになって、私は勝手に誰にもそんなことを言われてるわけでもないくせに、3カ月チャレンジに週3というのを投入してみて、使う人がいらっしゃっていて、これはやってよかったんじゃなかろうかと。
お互いに大変なことは起こりますけどね、でもやってよかったなというふうに言っていただいているから、私もやってよかったんだって思えるようになっていてですね。
だからこのポストの本の変な影響が、こういう世紀内のところに勝手にインフルにされてるわけですよ。インスパイアドなわけですよね。これについて、だからそっち側に何か何がしかの責任がありますとかは一切ないですし、そんな話してもしょうがないですけれども、そんな話する気も一切おきませんけれども、影響ってのはそういうふうにして出るもんなんですっていうことぐらいはここで喋っておいてもいいかなと。
この話がここから先はもうまさにサンチャレ話になっていくわけですけどね。
ポストの中にトラウマの章が一つだけ入ってたんですね。私は少なくとも3つはあるって絶対思うんだけど、一つだけ章の名前としてあったのはありました。
やっぱりこのトラウマっていうもの、これは結局、詳しくは本を読んでくださいとは絶対言いたくないんですけど、トラウマの精神分析的アプローチっていう松浮邦さんの本がありまして、その中にトラウマとあれは違うな、欲望痴の本だった気がするな。
欲望痴とトラウマを分けるのはベテランでもとても難しいんだよっていうか、私そんなことできないんじゃないかって最近思い始めているんですけれども、欲望痴はすべからくものすごくミクロなトラウマだとしてもですね、そんなふうには言えないと思うんですけど、あるいは事実はなくて心的現実だとしてもですね、絡まない欲望痴がそもそもあるかっていう感じがしておりますが、
でも、松浮さんに反論したって、僕が反論したって何もならない感じもするんで、そういうことを心に置きつつ考えているわけですが、つまりトラウマっていうのは、不老人が自己性っていったものとものすごく関係があるんだろうなっていうことがですね、今回のPOSTの本を読んでいて痛感したんですよ。
同じことはないですよ、もちろんね。絶対同じようなことは起きないんだけど、やっぱりこういう感覚になるよねっていうのはPOSTの本を読んでいるとめちゃくちゃ出てくるわけですよ。ある意味全ページに渡って出てくるわけですよ。全ページに渡って出てきちゃうところが、やっぱりこの私の仕事が形式はともかく形式が税理士に見えても、仕事の中身はちょっと税理士さんには似てないわけですね。中身はやっぱり心理臨床会議に今一番近いところが見えるんだなと思うんですよね。
専門家への信頼
ただ私はこの話そうそう、心理臨床にこの話を広めたいわけじゃなくて、だってこれらの人たちはみんな知ってる話なわけだから、私はこの話やっぱり正義外のところに広めたいんだなと構造を求めってことですよね。ある意味、都度都度お金もらうのはダメですよっていう感じがダメだとは言いません。
都度都度お金をもらっても上手くいくぐらいでかいインフルエンスを持っている人はいますからね。それらの人はいいとして、だってどうやったってビジネスでやっていけますから。そうじゃない人はビジネスをやっぱり個人コンサルのように、雇われコンサルのように捉えていくとうまくいくのではなかろうかというふうに思うわけですね。
その時には治療行為っていうふうに思うのはナンセンスだと思うんですよ。治療はお医者さんに任せればいいんですよ。この場合は公認心理師さんなりに任せればいいんですよ。治療になるんだ。でも相談は別だって言うんですよ。相談をコンサルは引き受けるべきなんですよ。相談をしているうちに調子良くなってきました。それはいいじゃないですか。それを治療とは言わない。治療という必要がないって思うんですよね。
やっぱりその治療は1回1回お金を払うんですよね。その治療された分に応じてですね。でもコンサルは別なんですよ。雇われておくんです。健康な状態の時であったとしても。あるいは健康な状態というものがそもそもよくわからんというような人の場合には特に。
今メンタルは本当にそういう風になりやすくなっているんで。一体自分は健康なのかどうなのか。ポストに出てくるわけですよ。別にそれほど表立っての問題はないように。そんなことは全然ないんですけど。
でもこれはここに特に精神分析的だったり精神力動的だったりするケースにおいては否認っていうのが否定の非に認める。だから認めないわけ。つまり自分が病気だって認めてないわけですよ。ここにも私はメンタル医療のややこしさがあると難しさがあると思うんですよね。自分が病気だと認めてないのに病院行かないでしょってことなんですよね。
で、それを含めて来なさいっていうのかもしんないけれども、行かないよって思うんですよ。私は。私だって。会社さんだってそうじゃないですか。私の友達に2人いるんですよね。夜うべここと虫歯のくせに認めもしない奴がいたんですよ。大学時代に。みんなにアホだって言われるんだけどしゃーないですよね。行くのやらんから。
だから相談したり説得したりする人って必要なんだと思うんですよね。医者に来いとかお医者さんが言ったってお医者さんが来てはくれないんだから。本当にこの件は思うわけですよ。ものすごく。
うちの家族です。お前家族っていうのは1人を隠したいからだろうって最初は僕もそのつもりだったんだけどちゃうんですよ。うちの家族が病んでるってのか思うんですよ。で、カウンセラーの人がカウンセラーに来なさいって言うのかもしんないけど。お前やってみろよって思うんですよね。やっぱりね。思っちゃうんですよ。当事者はね。
本当にできるかっていう。あれを直すなんてことは。できるなら今すぐやってほしいですよね。1回あたり5万ずつぐらいは払ってあそんなに払えないか。1回あたり3万ずつぐらいなら払う価値あんなんて思うんですよね。問題なのは誰も行こうとしないってことですよ。私はもう自分が3回チャレンジでうちの家族を引き受けるなんて絶対ありえないことだから。
もうありとあらゆる手を尽くしていくように。それも全員が一貫していくように。全員行かなくてもいいけど行く姿勢を生かせる姿勢をうちの家族全体で持てというふうに。もうここ5年は言ってきてるけど上がり様に無視されてますからね。
でも斜めすかし脅し。やれる手段は全部取ってるけど無駄だったなっていう感じが。私はそのことを心理カウンセリングのところで相談したら、そもそもなんで佐々木さんはそうまでして実家の面倒を見たいんですかという質問はありなのかって思ったんですよ。すげえ直面化だっていうふうに思ったんですよ。割とサラッと言うねって感じがしたんですよ。
で、改めてそれにちょっと乗ってみて少し事態がマシになった感じもしたんだけど結局何も解決にもならなかったわけですね。後から感じると。でも別に私はそれは力量の問題だとか思わないですよ。どっちみち同じようなもんだなんでね。それはうちが悪いんですよ。間違いなく私の考えでは。うちが悪いと思うけど。
でも本当にそんなに素人は無理だから専門家に任せない。是非任せたいです。すごい任せたいです。もう打ち込みですね。問題は誰もその気になって、だから否認されてるわけですよね。どう考えてもそれはおかしいでしょうっていうのも一向に病気だった。ようやく最近父は過労死と認めてくれるようになりましたけど。
そこに至るまでもう既に云々年かかってますから。お前何一緒に生活しているわけって言いたくなるほどおかしいわけです。どう考えても。でもうちの母なんかに言わせると依然としてあれは車酔いがひどかったから。車酔いかよみたいな。幻聴が聞こえるのは車酔いですかっていう。なぜ車酔いにしておきたいんだお前はっていうね。
でももうマイルドではないコグニションになってしまいましたから。年長になってますから。もう今更母にこれを理解させることは絶対無理でしょう。80ですしね。絶対とは言わないけどまあ無理だよな。おかしいと思ってほしいんですけどね。
心理臨床における否認
なぜ自分は1階に降りられないのか。なぜ自分がキッチンを使うことはできないのか。なぜ自分の食べ物はすべて半分壊れかけの冷蔵庫を使って冷やそうとしているのか。どこをどう取ったって変なんだけれども。車酔いになっちゃうんですよね。これがね。否認って恐ろすっていうか大変ですね。つまり認めないわけですよ。
抑圧。抑圧には思えないんですけれども私には否認っていう方がやっぱり防衛的に否認する。だから認めないわけですね。病気ではないと思いたい。自分の娘だしね。娘の方はあんなに母親を打滑のごとく罵ってるのに母親ってやっぱり親心なんだなーって思うんですけどそこのところは大変同情。僕は同情しやすいタイプなんでね。
すごく同情しちゃうんですけどうちの母親に。だからもうでもうちのねあの私の兄弟に向かってね。いや母親はねあのアホですがあんたのことを思ってるんだよって言ったらぶっ飛ばされるんで本当に殴られるんでね。だからもうちょっとそんなことは言えないし。
まあそのカウンセリングの人にもね直面化やっぱりそのレベルでは避けなきゃいけませんねみたいな。そりゃそうだよね。わかるよそりゃ。専門家でない私にも直面化は避けなければいけないっていうのは。でもさ直面化させないとするとしょうもない雑談を3時間も4時間もしてあげて帰ってきて全然何も変化は起きないわけですよ。
そういう話ならあそこのコンフレックはおいしいよとかそういう話に終始するならば普通に話せるんですよ。
こんな話をずっとしていて、リスパダールと酒でリスパダールを飲み干し、そして酒で睡眠薬を飲みっていうのを一向に直面化させないで、栃木へとってどうするんだよっていうことを心理臨床の専門家さんなら本当になんとかできますかねっていうことなんですよね。
行かなきゃどうにもなんないんですけどね。来ては絶対来ないもんねあそこの家に。
本当にシャレにならんと思うんですけれどもね。私もマスクをしていて、ちょっと風邪気味でさとか言って、怒られますからね。マスクしてるだけでも怒られるんで。
なんでマスクしてるのお前来るんだみたいなそういういやだってあのマスク自身が風邪でねみたいなね全然こう直面化には程遠いわけですよ。
めっちゃマスクのこと言われたりコロナだって言うてるのにっていうコロナの時代にはですねコロナが流行ってるって言うんだけど伝わってたらああそうみたいな感じでめちゃくちゃ不機嫌になられているんだけどああそうって言ってくれてるってことは会話は当分成り立つんですよ。
全然違う反応になっちゃいますから。いやそれが辛いとか痛いじゃないんですよ。ただこれを何とかできるって言うならばそのそうしてくれよっていうそれを信じないって言うよりも信じる信じないよりも何とかできるっていうことであるならば何とかしろよっていう単純にそれだけのことだとも思わなくはないわけです。
ただ私は確かに心の底では何とかできるとは思えないなもはやっていうだって一応月に1回精神科のお医者さんに行っていますしそのお医者さんに私お話も伺ってますし言ってることとか方向性とかは終始納得がいきますけどただ手が打ててないだけなんで手を打つのは家族の仕事だっていうことなんでしょうし。
いわゆる精神保険福祉さんもそういうふうにおっしゃいますしその方はすごい仕事できる方なんですけどでもうちに来てくれるわけじゃないですかね当然なんですけれどもねこうして全てが当然のようにして時間ばっかり経過しているわけですよ。
トラウマの認識
で、ちょっとね言い方を変えればって言うんですけど言い方なんてもう一番通りぐらい変えてみてますよっていう感じなんですけれどもね。
で、まあうちの話をずっと続けているというわけがありましてつまりですねあの否認されていらっしゃるでトラウマなんて特にそういうふうになっている。
で、専門家の人はそれはもちろんご存知なわけですねそういうことなんで。
でもポストの方に読んでるとやっぱりこうストックは受けていらっしゃる間違いなくこれが例えば偽装された作り話だとしてもショックだっていう認定認識は明らかにあってつまりそれはどういうことかっていうとそんな的事に見舞われていたとは気づきませんでしたっていうニュアンス入ってるわけですよ。
むしろ入ってることが治療と関係があると思うんですね。
だからそのトラウマの本ポストの方にあったトラウマの例では3歳だか4歳だかとにかく幼い頃にお母さんが首吊り自殺したらしいってことを知ってしまった。
それはトラウマになりますよね。
で、それまでその人が話していたお話職場でどうのとか特に自分の子供を育てるときが恐ろしいっていうその訴えはやっぱり僕は話半分とまではいかないまでも話7割だったと思うんですよ。
いや本当に辛いのはわかる。
一心不乱に警長とかもしてると思うんですよ。
共感を持ってると思うし心理的に寄り添ってると思うんですよ。
でもどっか深刻さが足りてないんですよね。
本人が偽装しちゃってるから。
っていうか本人が秘密しちゃってるから。
本人が忘れてたり考えないことにしているから。
で、適用はしてるわけですよ。
ポストっていうのは常識的にそうなると思うんですけど、現在日常生活なり仕事なりに適用しているならばそこは崩さないようにしましょうって姿勢が基本あるわけですよね。
けれどもそこを崩さないようにするってことは知らない方がいいこともあるよねってことになるじゃないですか。
正直普段は忘れておいた方がいいこともありますよね。
そんな自分が幼い頃に親が自殺したと。母親がね。
それはどうしたって、特に3、4歳ともなってしまうと、どうしたって私を育てるのが辛かったんでこの人を死に追い込んだんじゃなかろうかって思うじゃないですか。
で、そんなことを思ってたら仕事とかできないですよ。
心理カウンセリングの変化
だからその部分をもう話半分自分の中でしちゃうんだと思うんですよね。
僕だってしてましたもん、うちの母にまつわることに。
最近めったやたらに思い出すんですけど、本当にめったやたらに思い出す。
うちの母結構やってんなーみたいなね、めったやたらに思い出すわけですよ。
こんなにのことを私にやってるねっていうことを思い出すわけですよ。
そうか、だからうちの妹の母へ、うちの母への不信が強いわけねっていうのも思うわけですよ。
あれを見てきたもんね、うちの兄弟は。見ちゃうもんね、下の兄弟はね。
私はそこは偽りの事故でうまいことをごまかして、そういうことをやるから後々困ったことになるわけだけど、
偽りの事故でうまいことをごまかして表面的な敵を達成して、つまり否認してたんです。
そうするとどうしても今のような話も結構ひどいことをうちの母がしていたとしてもですね。
うちの母がひどい人ではないんだけど、うちの母がひどいことを私にしていたとしても、
いや、あれ大したことなかった気がするとかってするじゃないですか。
そうすると共感しようと思って聞かれている人だろうと提唱されていたとしても、
まあまあこの人がこう言うんならそういうもんだよなぐらいな、
もっと深刻なことがあったんじゃないかって一生懸命思うとしても無駄ですよね。
で、そのうちお互いがその話題を口にもしなくなる。忘れてるというのとは違うんですよ。
忘れてはいないんだけれども、否認はされている。
情緒的なレベルでは入ってきていない。だから伝えてもいかない。だから伝わらない。
これがそもそも多分病理なんですよ。
で、これをいきなりカウンセリングの場に持ってきゃいいんでしょう。それは確かに。
でもそういう気にはならないんですよ。本人が否認してるから。
で、私の考えでは、だから例えばさんじゃねどこがあるんですよ。
なぜならば、だから本当はそこは逆だよねって言われるかもしれないけどしょうがないと思うんですよ。
構造上そうなりやすいと思うんですよね。いずれはそうじゃなくなると思います。
ブランドは確立していくから。
で、その時には私はブランドが既存されるって問題じゃなくて、
やっぱりみんながそうしているかどうかが大きいと思うんですよ。
会社さんだってそうですよ結局。
あの私の大学の友人のめっちゃイケメンだったやつが、
めっちゃイケメンが夜な夜なでかい図体で歯が痛いとか言ってうめえと言うわけですが、
その姿がなかなか私はコントだなと思いながら見ていたわけですけれども、
笑っちゃかわいそうなんだけど、本当に痛そうだったから。
ただ会社に結局彼も行くわけじゃないですか。だからブランドの問題じゃないですよね。
ある意味みんながそうしているっていうのが大事なんですよ。
今のところまだ心理カウンセリングにおけにいくっていう姿は、
みんながそうしてはいない感じになってるんですよ。
みんながそうすれば多分仕込みは変わるでしょう。
それがそうなったらサンチュラリはどうなるんだって話もあるんだけど、
僕はそうなってもどうにもなんないなって思うんですよね。
なぜならば類似品ほとんど何もない現段階では。
私は類似のものを世の中に広めていきたいなと思う。
大きなヒントになったのが、私の仕事は心理師にはまるで似てない。
人理師さんにこそむしろ似ている。
この線で押せば、少しずつぐらいは広まるんではなかろうか。
そういうことはやっていってもこれから時間があればいいかもなと思うようになりました。
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