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おはようございます。キク100日セラピー、第1042回、です。
8月23日、金曜日、夜20時38分です。
すみません、ここ3日ぐらい落としてしまいましたかね。
昨日は、もう早朝から病院に行かざるを得ず、これはもう確実にどうにもならないなって思ってたんですね。
で、一昨日は、これは不可抗力といいますか、何があったんだっけな。
とにかく落とすつもりは全然なかったんですけどね。
気がついたらもう朝が飛んでいたみたいな、そういう日だったんですよ。
で、今日はまだちょっと違いましてね。
今日は様々な準備をしていたら、朝が通り過ぎてしまったみたいな。
そうだ、一昨日はあれですね。早朝に草むしりをしまくって気分が悪くなったっていうか、熱中症みたいなやつね。
そういうやつでちょっと落としました。
いやーもう本当にね、ちょっと涼しくなった。このチャンスを使って何か動かないとですね、どうしようもないなというのが草ぼうぼうだったんでね。
どうしようもないなっていうのがありまして、こういう風にしていたらこうなっちゃったっていう。
本当に多分に不可抗力みたいなところがございまして、実際こうなってしまったわけで、これはしょうがないなという感じがします。
だから今撮ってるわけですね、一生懸命ね。
でもこれ時間が不十分かもしれないんで、ちょっとここからまたいろいろ考えたいんですけれども。
今日はだから、一つだけでもお知らせがございまして、
第8期の100日セラピー、3ヶ月チャレンジね、もともと。
外名前の方がまだ混乱なくていいかな。
第8期のね、来期の3ヶ月チャレンジ100日セラピー、同じ名前です。
名前変えるんで。
これのですね、前に予約ができて、この予約の段階で2万円かかるんだけど、始まるまでの4回のセッションを予約していただけます。
で、そのお金をそのまま第8期のですね、3ヶ月チャレンジ100日セラピーのお金に重当いただけると。
僕このパターンよく撮りますけどね。
2万円引きで残りの差額をお支払いいただければですね、計7万円なんだけど。
だから5万円後お支払いいただくという格好で、お受けいただける。
そういうような感じです。
このことはGoogleカレンダーの共有の方にも書いてありまして、第1回の予約だけを取っていただければですね、残りの部分というものができるようになりますと。
そういう感じですね。
そういうふうにしてお受けいただけるので。
とりあえず何が言いたいかというと、2万円で10月の27日までの間の4回のセッションをやっていただける。
参加していただけるというか使ってもらえるという、そういうサービスを始めましたという感じですね。
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初回の予約だけをGoogleカレンダーの空きの方から予約ページで引いていただければ、予約していただければできます。
これどこかに今度後でノートまたやって書いておこうかな。
ノート書いておいたような気もするんですけどね。
後ほどまたその辺細かくお出ししますんで。
これ私ずっと続けていこうと思いまして、3ヶ月チャレンジの100日セラピーの予約としても使えるし、
その前の段階で4回のインテークを含む4回みたいな、インテークっていうのは心理両方の専門用語なんで、
これは使えないんですけど、これは両方じゃないからね。
そういうようなもんだと思っていただければいいかなと思います。
本題に入りましてですね。
今日はそのいわゆる心理カウンセリングというものがやってることがようやくですね。
私もようやく本当に自分も受けてみて、本はもうそのような本しか最近読んでないぐらいな感じなんだけどまで来て、
ようやくここでやってることというものが少なくとも精神分析的なものであればってことですけどね。
分かったかなと思えてきました。
やってることの意味ですね。
まだうまく説明できませんけど、世の中では心理カウンセリングの中ですらですね、
これがちゃんと説明されていないわけがようやくこれも分かってきました。
本当にね、なんつうんだろう。
まあこういう説明をすれば全てのカウンセリングについて正しく説明してることになるわけじゃないんで、
話半分ぐらいで聞いといていただければ十分なんですけれども、
でもまあ世の中でよく言われていることの意味もなんとなくつかめてきたんで、
これでまああれですよ。
少なくとも完全に間違っているとは言えないだろうというところまで来ました。
修正浄土体験とか転移とかいろいろありますけど、
転移ですね。
転移は中核なんだなってことがようやく本当に分かってきました。
ここにおいて初めてですね、宗教的な懺悔みたいなのとか、
あとお坊さんのところには悩み相談に行くというのと、
精神分析が確かにちょっと違うと言い切れるような気がするポイントがつかめた気がします。
もともと言ってきたこととかけ離れてはいないんですけどね。
つまりあれは鏡だってことですね。
カウンセラーってのは、いや精神分析家というのは鏡なんですね。
だから透明でなきゃいけない。
鏡というものは自分がそこに登場していたのでは話にならない。
そうですよね。
鏡なのに鏡と肖像画って全然違うじゃないですか。
鏡というのは私が前に立ったら私が見えるわけですよ。
肖像画、例えば類14世の肖像画の前に私が立っても私は見えてこないわけです。
類14世が見えちゃうわけです。
これが自己開示を精神分析家がしてはいけないと言われている最大の理由だと思いますね。
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鏡なんですね。
だから私がやっているこの3ヶ月チャレンジにせよ100日セラピーにせよ、
これはカウンセリー、少なくとも精神分析ではないと言い切れる気がしてきました。
そういう側面が全くないわけじゃないんだけれども、
精神分析というものが非常に優れたものになるためには綺麗な鏡である必要があるんですよ。
まあでも大抵の場合、人間なんで鏡じゃないんでそこまではできない。
だいたい水面ぐらいになったら素晴らしいんじゃないでしょうか。
これがアルミニウム、アルミ白ぐらいな感じになってしまったら、
それはカウンセイラーとしてはわかんないですけど、
少なくとも精神分析としてはそこにあるのがアルミ白ですみたいな。
アルミ白って自分の顔映ったりするじゃないですか。
でもほとんどわかんないですよね。
それでは無十分かなっていう感じがするようになりました。
これは例え話ですからね、あくまでもね。
しかもこの話、カウンセリングと精神分析を分けてますからね。
カウンセリング一般というのはこういうものではないかもしれない。
ただカウンセリング一般はともかくとして、精神分析は多分こういうことなんだろうという感じがします。
ここまでようやく理解できるようになってもなお、ここから説明するのは容易じゃない。
そもそもこの説明何のためにするんだって感じがしますけど、
そんなのは良くないって言われる人はいるかもしれませんけど、
これは僕は、これはこれで一つの技術ではない気がしますね。
何だろうこれは、人間が編み出した一つのすごい体験ができるカラクリみたいな感じ?
カウンセリングの位置形態に違いはないんだけど、
これこそがカウンセリングであるとはもはや言えないような気もしますね。
とにかく自分の情緒を映す鏡なんですよ。
精神分析家というのは。
その鏡を使いに行くためのルームが精神分析の分析室と呼ばれている。
これ分析かもしれないけどそれは。
やっぱ分析って言葉はどこかおかしいような気はしてきましたね。
だってあれですよね、自分の顔を鏡で見るのが分析ですかね。
私にはとてもそうは思えないんで、やることはまさにそれなんですよ。
鏡になるというのはどういうことかというと、
自分の分析を受けたときの状況における自分自身の情緒状態というか、
情緒そのものを映し出すということが目指されているというか、
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うまくいけばそうなるはずであるみたいな。
そうすることによって自分の情緒の行動だったら振る舞いを記録できるけど、
情緒って記録の仕様がないじゃないですか。
特に真剣にその情緒に入り込んでいるときには記録できないから、
自分だけじゃできないっていうのはそういう意味だったんだなっていうのが分かったんですよ。
だって映画見ててものすごい泣けてきたみたいなときに、
私は映画を見てすごく泣けてきたっていうふうに書くとダメじゃないですか。
しかも多分書く気にならないじゃないですか。
ここを書いてしまうとそこには嘘臭さが出てるんですよ。
しかもこれは映画だからまだいいんですよ。
目の前の人間と喧嘩をしていますときに、
私はこの女にすごい腹が立って喧嘩越しになっているって一時全部書いてられないじゃないですか。
しかもそれを一番分かっているのは喧嘩している党の相手なんですよ。
女性、私で言えばね。
ここをやってくれるのが分析家なんですよ。
だから記録はしないんだけども、
記録をする側の立場でありながら、
同時にその情緒を映し出す相手としても存在してくれるという存在。
多分そういうことなんだ。
だから、これがね、最近読んだ松木さんが編集なのかな。
松木さんが少なくとも強偏者である欲打つの精神分析的アプローチ。
ちなみにこれ高いんですよね。
新刊が全然売ってなくてフルフォンになっちゃうんですけど、
フルフォンが定刊よりもはるかに高いという。
ようやくね、7千数百円まで下がったのを見計らって買ったんですけどね。
7千数百円って本、普通の本印刷で7千円って普通ないじゃないですか。
びっくりさせられるんですけどね。
ただでさえお金がないのに、この本を買うのに7千円払っていいのか俺と思ったんだけど、
読んでよかったです。
この欲打つの精神分析的アプローチに出てくるの粒さに読んでて、よくわかりました。
ちょっとこの臨床例が私自身の心情と似てる人だったんで、
余計わかりやすかったんですけど。
例えば先生は、最初この患者さん遠慮がち。ものすごい遠慮がちなクライアントさんで、
この遠慮がちっていうのが要するに虚勢不安なんだけど、
とにかくその遠慮がちすぎて、
なんつうんだろうな。
ここであれなんですよ。
うまく使えてない気がするみたいな心理になっちゃうんですね。
そういうことはありえないんですよ。今言ったように。
わかります?
鏡なんだから、うまく使えてるとかうまく使えていないということ自体がありえないんですよ。
鏡に映るのは自分の姿じゃないですか。
だけれども、これは姿を映してるんじゃなくて情緒を映してるから、
うまく使えていない気がするっていう情緒ってあり得るじゃないですか。
もっとこの先生に私は自分の言いたいことを言わなきゃいけないのに言えないと。
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なぜならば、それは自分の父親なり長寿がなりを投影しているからなんだけど、
ここに鏡ってことが出てくるわけですよ。
恐ろしいからこの先生、いずれこうなっていくわけですよ。
カウンセラーの先生に怒られる気がするから開示できない。
私は自分の秘密をさらけ出してこの先生に不快な思いをさせるんではないだろうかっていう、
これが自分の情緒が映ってるってことなんですよ。
それ故にこそ、カウンセリングの精神分析家の人はですね、
思想的に中立、価値判断は控える、自己開示はしない。
つまりその人がどんな人なのか全く分からないわけだから、
怒り出すんじゃないかって思う理由がないわけですよ。
これがコアモテで、いやもうそんな話は聞きたくないとかっていうような人だったら怒り出すっていう推測をするのも最もですよ。
でもそういう風である雰囲気がまるで自分の方では予測がついていないのに、
この先生が怒り出すんじゃないかって思うってことは、
自分の恐れやすい心というものをその先生に映し出してるわけじゃないですか。
こういうことを繰り返し繰り返ししていくことで、
その流れの中で人間関係というものが、相手のことが分からない人間関係というものがそこで成立することによって、
自分の行動、情緒的な動きというものをあらゆる角度からあらゆるフェーズにおいて見えていけばいくほど、
自分の情緒というものがよりよく理解できて、
つまり自分の心というものが見えてくることによって、
心というものが少々偏ったところが正常になっていくっていうか、
この場合の正常って何なんだって話なんだけど、
例えば心のある部分が全く使われていなかったのが使われるようになるとか、
そういったこと、心に血が通い出すみたいなね。
そういうことが起きます。起きたらいいよねっていう感じなんですけどね。
とにかく自分が例えばある傾いた姿勢で寝ているから寝違えるんだったら、
その姿勢を見ることによって寝違いがしなくなるようなことって期待できるじゃないですか。
そういう意味で鏡なんですよ。
自分の心の使い方があまりに偏っているがゆえに、
心の苦しみというものが出てくるんだったらば、
そういう使い方を修正すればいいと。
だけどどういう使い方をしているのか、私たちは自分じゃ分からないわけですよ。
いろんな場面があるから、いろんな条件があるし、
いつもいつも同じようなわけじゃないから、人によって変わるからですね。
じゃあ人によって変わるっていう部分でも一番変わらない部分、
あらゆる人にこういう傾向が自分出ちゃうよなと、
あらゆる人に対して自分は言いたいことが言えず遠慮がちなところがあるよねと。
でも例えば自分の子供にだったらそれでも言えるでしょ。
でも多くの人には言えないっていうその真理が一番出やすいのは、
どういうことによって確認することができるかというと、
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知らない人に対してですよね。
だからカウンセラーというのは知らない人でありたいわけ。
でも家族のようでもありたいわけですよ。
そうすることによってあらゆる鏡っていうのは踊り出せば踊りが映り、
怒った顔をすれば怒った顔が映り、
泣いてれば泣いてる自分の顔が映る。
鏡というものは一番臨機応変ですよ。
そういう臨機応変さを情緒的に持っている存在というのが精神分析家というものなんですよ。
だからちょっとした特殊な訓練がいるわけですよね。
例えば精神分析家というのはよく出てくるんだけど、
腹を立てるとか軽蔑的な気持ちが出るっていうことはよく書いてあるんですよね。
これはいわゆる何と言えばいいのかな、
自己啓発的な存在とは違うってことなんですよ。
普通の人であるってことなんですよ。
腹を立つわけです。軽蔑もしてくる。
でも一方で分析家であることはやめないってことなんですね。
例えば攻撃されれば腹が立つということがないと、
一般的な人としての鏡という機能を果たすことができないわけです。
攻撃的なことを散々言われていれば腹が立つし落ち込みもする。
でも落ち込んで死んじゃったりはしない。
分析家であり続けるためには鏡であり続けるということができないければまずいわけですよきっと。
鏡としての機能というのはフィードバックによって果たすわけですけど、
このフィードバックに相当するのが解釈なんですね。
解釈というのはあなたは今こういう気持ちでいますねってことですよね。
すごく不安になったことを言ったらあなたは今不安になってますね。
これ鏡じゃないですか。
例えば普通の人間関係であれば、
例えばカウンセラーに対して先生、
ちょっとここのカウンセリングって高いんじゃないでしょうかって言われると、
いやそんなに高いですかねとか、そんなに高くはないですよとか、
これが相場じゃないでしょうかみたいなのが普通の会話ですよね。
でも先進分析的に解釈を返すってことになると、
例えばですけどもあなたは今お金の支払いについて不安に思いましたね。
これは普通の会話じゃないですよ。
これが鏡的な会話の仕方ってことになるんだと思うんですよね。
これだったらどんな人にもできる解釈ですけど、
もう一歩踏み込んであなたはこれからの未来においてここに通い続けることによって
あんまり良くならないっていう不安が出ているようですみたいなことを言うわけですよ。
これこうなってくると結構カウンセリング的ですよね。
でもやってることは依然として自分の情緒というものがリフレクトされるんですよ。
しかし一方でそうやりながら人間関係が深まっていくっていう面もあるわけですよ。
これを繰り返すことで。
だからそっけないと感じるときはそっけないわけですよ、先生は。
本当は先生はそっけなくないんだけど、
もっと暖かくしてほしいのにって思っていても自分がなかなか自己開示できないと距離が縮まっていきませんよね。
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そしてあなたは今私を恐れているようですというふうに返されるんだけど、
その人がカウンセラーを恐れていた場合、
あなたは私を恐れているようだねっていうのがもっと怖く聞こえてくる。
その人の心理状態によってこの聞こえ方が変わってくる。
そうすることが、そういうような一連の流れが人間関係というものを一方では成立させながら、
一方ではあくまでもその人自身が開示されず、つまり精神分析か自身の開示は行われずに、
クライアントの気持ちというかクライアントの情緒の動きだけがどんどんリフレクトされていくっていう事態を進行させるんだろうなと。
こういうからくりなんだっていうのを読みながら理解していくと、
必ずしも超自我とか必ずしもエディフスコンプレックスっていう図式とはまた別に臨床の場面で起こっている、
何ていうのかな、記述されている事態が分かってくる気がするんですよ。
で、こうなってきて初めてですね、いろんな抑鬱の人が見られているにも関わらず、
出てくるのは全然抑鬱と関係ないことであったり、出てきそうもないことが出てきてみたり、
それボーダーの話なんじゃないのみたいな話が出てきても別におかしくはないってことだし、
ひどくこれが長くなってるっていうのが何となく見えてくるんですよ。
ようやくここに1年が経過してきたっていうことが何か違和感なく読めるようになってきつつあるんですね、私も。