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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
今週の土曜日にグッドバイブス勉強会というのがあって、
先週くらいかな、もうちょっと前かな、6月25日にちょっとした自分の中で発見があってですね、
グッドバイブスの中で言われていることの中では、この番組で何度かお伝えしてますけど、
私にとって受け入れるのが非常に容易かったことと、今思って難しいことがあるんですよ。
こういうのって、ある種の発想とか考え方とかには、やっぱりその発想、こういうふうに思われてないんですけど、
間違いなくですね、発想した人の性格って反映されるもので、
真理だからそうはあっちゃいけないと思われているようなんですけど、そういうものではないんですよね。
必ず反映されて、受け止める側の性格とか個性もあるんで、どうしてもこう受け入れやすいこととそうでないことってあるんですよ。
で、私にとって受け入れやすかったのは、例えばこう、自分と他人の価値の上下はない、こういうのは非常に私は受け入れやすかったんですね。
そういうものに違いないってずっと、何て言うんですかね、やっぱりこう、これやっぱりあれなんでしょうね、
家が仏教だとそうなる気がするんですよね。そういうことをかなり言いますからね、あの宗教は。
だから、そういう意味でもともと成長志向とかも非常に僕の場合薄かったんで、
よくどんどん自分が成長して価値が高くなるってことは、価値の上下って絶対あることになるじゃないですか。
自分の中でもあるけれども、他人との関係で発生しちゃいますよね。
それが頭から否定されていると、なかなかそういうふうにいかないんですよ。
そこは受け入れやすかったんですね。
で、一方で受け入れにくいのが私にとってはですね、一つ意識とですね、難しいんですけどここは、
肉体と意識みたいなものを分けるっていう、心身に言論的に聞こえるところがありますよね。
仏心に言論か、なんでもいいんですけど、二言論的ですよね。
仏教的にもあるんだけど、仏教的にはなんというか、やっぱり一切が実態がないっていうものだから、
ある種の一言論なんですよね、仏教って。
そういう感じが僕の中には強くあったんで、二つの意識と一言論の中で、
分けて考えてみるっていう考え方でいいんですけど、
それでもですね、感覚としては大変受け入れがたいというところがあったんですよね。
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で、そうするとただ、私もここが不思議なんですけど、
二言論で言うと、二言論と言うと二言論と言うと、
二言論と言うと、二言論と言うと、二言論と言うと、
そうするとただ、私もここが不思議なんですけど、
二言論ではないつもりっていうか、本当は二言論じゃないんだっていう意識でいつつ、
でも現代社会っていうのは、非常にこう、
ものというものに、ものというものに信頼を置いているところがあるんで、
ものじゃない自分でのイメージすると、すごい不安になってくるわけですね。
その不安が僕にとっては非常に耐えがたくて、なぜ耐えがたいかというと、
結局、ものである自分を守ろうって意識から離れてしまうと、
ダメになっていくみたいな、自分の身体がですね。
私はそのやっぱり、とにかくその件については言われてきてましたから、
父からも母からも、お前は体が弱いと。
ここに悪意は何もなかったんですけど、とにかく私が生まれて間もなくの頃からずっとだって言うから、
私はその頃の認識がないわけですよね。
自分が子供のゼロ歳の頃、自分の体がどうだったかって認識がないんで、
信用するしかないわけですよね、ある意味。
ずっと言われていると、そういうふうに思っているので、物心に言論的に考えるのも嫌だし、
しかも、唯物で考えると自分の体っていうのにすごいケアをしないといけないし、
ここから離れるのが難しいっていうのが、何と言われようとあるみたいなのがあるんですよ、こういうのって。
離れようとすると指先が痛み出すみたいな、そういう反応が出るんですよね。
この抵抗が6月下旬に、不意に外れちゃったんですよ。
それもまた一つの見方なんですけれども、結局ね。
こういう見方をとると、とにかく見えてくることがあって、
肉体にまつわる不安ってものを、こういう言い方あれかもしれませんが、煽ってるっていうものが見えてくるんですよね。
肉体にまつわる不安、ネットとかニュースとかをパッと見ていただいても、目につく人にはつくと思うんですよ。
今の私にも目につくんだけど、とにかく身体にまつわる不安を喚起するようなものがすっごいあるんですよ。
ここから完全に、ここから少しずれた目線を持つとですね、ある程度肉体を突き放して見られるようになるというのかな。
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内側からやられていくみたいなものはなくなるんで、それにまつわる恐怖感っていうものからはほぼ解放されるんです。
つまりそれは煽られているところにまつわる恐怖感にがんじがらめにされちゃうみたいな感じがあるんですよ。
もう一つ、肉体にまつわる罪悪感っていうのもあって、実は我々がですね、仕事でミスをするとか、仕事じゃなくてもミスをするってことはほぼ肉体にまつわるんですね。
運転とかがいい例ですよ。運転のミスって基本身体のミスなんで、ここから何か割と重大なことが起きちゃって、それこそ罪だとなされるケースが社会的にあるわけじゃないですか。
我々がよく言われているところの罪っていうのは、外して身体のミスにまつわるんですよね。
ミスとばかりは限りませんけれども、おおむねミスなんですよ、普通に生きている人にしてみると。
ミスが罪になってしまうんですよね。自分がしかも身体そのものであるとなってくると、罪そのものであるみたいになってしまうんですよね。
これじゃまるでクリスチャンになっちゃうんじゃないですか。クリスチャンの人に怒られるかもしれませんけれども。
現在みたいな話になってくるんで、そういうことともまた違うんですが、身体であるというイコール身体であるみたいなところからずれることができると、
とっても今を生きる上で面倒くさいいろんながんじがらめなものから、あんまりそれにこだわらせられないで済むっていうところがありますので、
こういうことかなと思うんです。その10日の罪悪感というテーマはですね。
大体ですね、罪悪感といってもそんなに深刻なケースはほぼないと思うんですよ。
実はね、仕事が遅いとか、既読スルーされるとか、されることがなぜ罪なのかって話もあると思うんですが、既読スルーされるとか、
仕事が遅い多いでしょうね。あとはダラダラしちゃうとかですね。
最近も相談もいただいていて、ダラダラ問題も結構こう、いろいろあるんだなと思うんですけれどもね。
ダラダラっていう言葉からしてもそうなんですけど、早い方が正義っていうあの感じがあるんですよ。
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これも身体と非常に関係が深いんですけれども、早いほど大体良くないんですよ。
早いほど良くないっていうのが私たちの社会にはほとんどないんで、早いほど正しいっていうのが非常に強いんで、
誰も彼もが、実はこれ誰も彼もがなんですよ。気づいた人はずるいんですよ。
気づいてるだけなんですよね。いや俺早いから、正しい側にいるからっていうことにしちゃうと。
多分ですね、今私が仕事術とかそういうもの、仕事術だけじゃないんですけど、
世の中のほとんどのカリスマ的にあるいは若干相対的に優位に立って、いい目を見ているというのかな、
アドバンテージを得ている人はみんなこの早いというトリックを使ってるんですね。
早いっていうのは正義じゃないじゃないですか。
例えば高速道路で180キロで飛ばしたらもう明らかに速度超過で、それはもうはなはだしい違反ですよね。
でも早く着いた人は褒められるんですよ。この辺がですね、この世のからくりってやつで、
早いほど正義っていう漢字を上手いこと使う人っていうのがいるんですよ。
早さって相対的なものですよね。どんなに自分は仕事早いって言ったって、
高速で移動できるとかそういう話のはずがないですよね。
早いってのは遅い人と比較して早いわけであって、早いから正しいっていうのって実に癖ものなんですよ。
必ず言うんですよね。頭の回転が驚くほど早いとかって言うじゃないですか。
大体カリスマ的な人ってみんなそれなんですけど、頭の回転が驚くほど早いのは、
ある特定のテーマについて頭の回転があまり早くない人ばっかり周りにいれば、そう見えるんですよ。
正義とかになっちゃうと実は大変ですよね。本当に早く見える人も早いわけじゃないですからね。
早いから強いのかって言うとそれもまた別の問題なんですが、
喋るとかSNSとかYouTubeにおける頭の回転が驚くほど早いっていうのは、
実態は別にいらないんで、周りの人よりも早いことにしてしまえば、
そうしたら早いことになるんですよね。特に何であるとか勘であるということはなくてもですね。
だからいろんな速さの無理矢理作り出したような指標が出回るんですよ。
例えば1日100冊本を読むとかそういう話になるわけですよね。
ページ数でもいいんですよ。1日1万ページとか。だから僕は記録をつけるって話になるんだろうなと思うんですよね。
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速さっていうのはレコードの対象になりやすいですよ。
今もオリンピックやるから都画出てきますけれども、
実は100メートルを何秒で走るとかにどういう意味があるのかって問わないじゃないですか。
早いことすなわちいいことじゃないですか。あれ昔はそうだったんでしょうけれどもね。
今は全く特別な意味はほんとはないんだけど、
私たちはそれでもやっぱり肉体が結果として速度を出せるというだけでも、
結構そこに素晴らしいってことになるんですよ。
大谷選手の打球速度とか。残念ながらまだ1位じゃないですけどね。
1位はもっと別のアメリカ人がいかにも打球速そうな人がいるんですけれども。
打球速いとか別にそれほどの意味はないじゃないですか。実際には。
でも打球速いことは意味があるというか、打球速いということでもいいんですよ。
まして投球が速いのはいいですよね。
ただ実際159だから打たれないとか、149だとみんな打たれるとかそういうことはないんですけどね。
よく言いますよね。必ずしもスピード競争やってんじゃないんだからっていうピッチャーいますけれども、
その通りだと思うんですよね。実際はそういう話ではないんで。
あくまでもあれは相対的なケースなんですけれども。
僕らはそのぐらい肉体というものの価値と、
肉体というものはどうしても実は遅いので、
肉体そのものが速いということは決してないですよね。
どんなに足が速くたって、
新幹線と競争とかする意味は全くないじゃないですか。
だから昔エイトマンって流行ったんですけど、
新幹線に速く走れるとかいうスーパーマンが、
あれはアメリカ人っぽいですけれども、
もてはやされやすいと。
それくらい僕らは多分身体の限界というものを、
超えたところを人に見せつけたいという欲求が、
実はこれはゴキブリにもあるそうなんですけれども、
そうか、この言葉を出しちゃいけないんだな。
でも今日は文脈が違うんで、よしとしましょう。
社会性があるんですよ、彼らには。
他の仲間の前では上手くやりたいという、
彼らの上手くやるというのはまさに、
素早く移動するということですからね。
だから私最近すごく思うんですよ。
速さを自慢するというとつい思い出しちゃうんですよ。
それはすごい3億年前から流行っていたやつだと思うんですよね。
そういうもんなんですよ、でも。
速いほど長生きできますよね、彼らであれば。
だって素早く逃げないと叩かれるじゃないですか。
だからそういう意味で速いというのは、
そういうぐらいの意味なんだと僕は今では思うんですけれども、
それ以上の意味は何もないと思うんですよね。
だからダラダラということが良くないというのは、
非常に原始的な発想なのだろうなとは思います。
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先日から盛んに言っているんですけれども、
思考というものは原始的に言うとものすごく肉体的なんですね。
ヤマンバの話を何度かしていますけれども、
要するにスプリッティングから始まるんだと思うんですよ、思考って。
分ける。分けなきゃ何かを考えることはできないですよね。
だから私は思考というのはやめたほうがいいんだろうなとは今では思うんです。
一番原始的な思考が出てきた時っていうのはまさに
クラインはこれを妄想ポジションと名付けて、
妄想になっちゃうんですよね。だってスプリットですから。
まず分けると。分かれていないものを分けるわけですからね。
最初から妄想じみているじゃないですか。
ATMが私を見張っていますというのはもう妄想そのものになっちゃうんですけど、
分けるところから始まるわけですよね。
分けたと。分けるだけじゃどうしようもないから、何も考えたことにならないから、
次に善悪を投入すると。子供はつまり泣くわけですよ。
この段階ではまだ子供は何の思考も持っていない。ゼロ歳児ですね。
とにかく良くないと。良くないから泣く。
でも良くないという概念すらない。
分けられる人がそこについて考えるわけですよね。
これが先日コンテインという言葉を喋りましたけれども、
お母さんなりお父さんなりがそこに出てきて、
この子はお腹が空いていると。
お腹を分けたんですよね、その子から。
そしてお腹の部分だけが悪いことにしたわけですよね。
分けた後で善悪をそこに投入すると。
間違ってるかもしれないですよ、これは。
というかそもそも絶対に正しいなんてことはないじゃないですか。
お腹は分かれてるわけじゃないんだから。
でもお腹だけを分け出す。
だいたいこれで当たるからですね。
そこに悪いということを投入すると。
それでミルクという良いものがあるわけですよ。
善悪があるわけですよね。
その善を投入してあげると、気持ちが善になります。
要するにこれをですね、繰り返されているうちに、
人間でありますから赤ちゃんもですね、
同じようなことができるようになると。
同じようなことができるようになるためには、
同じようなでは駄目というか、
最初から同じようという高度なことはできなくて、
最初は極めて原始的に全く同じことをしちゃうわけですよね。
そういう状態になってしまうと、
私はお父さんになるみたいな、
私はお母さんになるみたいな、
そういうふうに、これをだから同一死って言うんですけれども、
同一死するしかなくなるじゃないですか、最初は。
だってお母さんと自分なんて別れているっていう認識もないんで、
私はお母さんになるわけですよ。
そしてこの悪いお腹みたいなところに、
良いおっぱいなどを投入していくわけです。
これも全部言葉なしでやるわけです。
そういう感覚だけがあると。
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ここに成人になって、
この感覚のところで留まるようになるとですね、
さっき言った通りの虫を見て、
ものすごくパニックになったりもするわけですよね。
なぜなら悪を見ちゃうからですよね。
で、こういうことを全部合わせて考えてみると、
思考的な状態になるんですよね。
で、こういうことを全部合わせて考えてみると、
思考っていうのは、やっぱりとってもまず、
肉体に結びついたものであって、
そして当然のことですけれども、
記憶に結びついたものだと言えると思うんですね。
で、そうして考えてみるとですね、
これは必要な時にだけ持ち出すのが一番いいんであって、
必要もないのにこれにかかずらわるってことは、
いちいち自分を自己分裂に追い込んでは、
投影したり、投影ですよね、まさに投影したり、
同一したりを繰り返すということをやることになるから、
これをやめるってことなんですよ。
自分が肉体じゃなくなるということは。
私はそのことが6月の下旬になんか不意に入ってきて、
だから楽なんだっていうことがわかったんですよ。
これまでは未来を手放す方は順調だったんですね、おおむね。
予期ってのを一切しないっていうのは難しいかったですけど、
それでもなんとなくやっぱり習慣って大きくて、
毎日全く未来のことを考えずにいるとですね、
だんだん1時間先のことも考えられなくなっていくんですよ。
すごいいいですね、これは。
驚くほどです、自分がこういうふうになってみると。
1時間、2時間先のことも一切能力に余儀ないっていう時間が長くなってくると、
なんていうんですかね、
ごく単純に言うとですね、
自分に毒物を少しずつ入れている習慣が消えたって感じなんですよね。
あんなに大変なことをして、あんなに得るものが少ないのに、
よくああいうことをやってたよなっていう感じになってくるんだけど、
毒物を入れるっていうのは感覚的な辛さのことを指してるんだって、
現実にやってるのは思考なんで、分裂と投影なんですよね。
分裂と投影だけなんだけど、本当は。
分裂と投影だけっていうのは分けて何かに悪を見出すと。
例えばある種の行動を自分から分離して、
これをダラダラと名付けるとか、
SNSを見ちゃうという行動を分離して、
自分から分離してるわけじゃないですか。
本当は別れてないのに自分と。
それを無益な行動とかいう意味をつける。
これが分裂と投影なんですよ。
思考の原理っていうのはここから来るはずなんですよね。
それをやめるにはどうしたらいいんだろうかって、
21:02
仕事術とかライフハックで考えるわけじゃない。
この考えるっていうのが思考ですよね。
で、それを自分に持ち込まれてもいない。
つまり、やめたいんですって他の人が言ってきたんなら、
自分に持ち込まれてるから、それについて考えるってことを
コンテインするってことをしていいと思うんですけど、
誰もそういうことを言ってないのに、
勝手にそれを考え出すメリットって何にもないと思うんですよ。
それはただ自分を分裂しては投影してる。
それも全部自分にまつわることですから、
そういうことをしては自分を分裂させて、
くたびれ果てていくわけですよね。
これをさっき私は毒物でも注入されたようなって言ったんですけども、
ただ、この感じっていうのは、
未来についてやめることは私はできてたんですが、
過去についてやめることっていうのがなかなかできなくて、
なぜなら過去に失敗したっていうことを考えちゃうんですよ。
で、過去について失敗したことを悔やむということは、
悔やむって名前の構造で出てくる言葉なんですけど、
悔やむということは、そうじゃない世界に入ることができたはずだって考え方なんですね。
非常に心体的ですよね。
私というものをその時の世界背景みたいなところから抜き出すわけじゃないですか。
分離なんですよ。スプリットしてるわけです。
で、その時の世界に悪というのを全面的に投影しちゃうわけですよね。
そのまま行くと私は悪の世界に入ると。
悪の世界としてもあれですよ。不良になるとかそういう話ではなくて、
そのまま時間を無駄にする世界に入ると。
あるいはもうちょっと深刻な話をするならば、
誰々さんと結婚しちゃう、そういう悪の世界に入ると。
だからそこから自分だけをひょいっと抜き出して、
残りはどうなるんだよって話なんですけど、ひょいっと抜き出して、
その時にシュレーディンガーの猫みたいな話を、
どっかから読みかじったような話を付け加えるわけですよ。
付け加えても付け加えなくてもいいんですけどね。
少しでも科学的にしたいわけですよ。タイムスリップ的な話に。
三部圭さんが得意とする漫画の話なんですけどね。
で、違う良い世界に自分を置くわけじゃないですか。
この善悪を投影して自分をスプリットするっていうのは、
あらゆる思考に必ず見られる現象で、
その時必ず僕らは気せずして自分というものを、
あるいは自他というものを分けるんですよ。
そして善悪をそこにガンガンと投影して、
悪から自分を少なくとも距離を大きい分離するということが
できるということをやるわけですね。
これが多分悔やむということなんです。
でも実際できないじゃないですか。
これができるのは思考だけですよね。
24:00
シュレディンガの猫はともかくとしてですね、
あれは非常に難しい話なんで本当は。
漁師の話みたいな話なんですけれども、
非常に難しい話なんで。
漁師は絶対目に見えない世界で、猫は目に見えるんだけども、
それをくっつけるためにはどうしたらいいかという
思考実験なんですが、むしろ逆なんだと思うんですよ、僕はあれは。
人は思考というものが現実に反映されていると信じたいから、
ああいうことを考え始めるんですよね。
実際にどうなっているかというよりは、
実際にやりたいことは単純なんですよ。
悔やみたくないわけじゃないですか。
後悔したくないと。
だから違う世界に入ることができたんだと思いたいと。
そんなことをする必要はないんですよ。
悔やみたくなければ。
難しいですけれども、
過去のことを思い出さなければいいはずなんですよ、単純に。
もうちょっと言うと、
過去と現在を分離してスプリットして、
悪いという投影をそこにしなければ、
その悪いところに住まずに済むんですよね。
これが一番唯一多分現実的な解決策であって、
ここに漁師のもつれみたいなものを考え始めたとしても、
どこまでいっても思考実験が続くにとどまる。
思考は実験だろうとなんだろうと、
思考なんで、
必ずスプリットと投影をそこに含むので、
過去についてやろうと、
未来についてやろうと、
現在においてやろうと、
同じなんですね。
同じ結果しか生まない。
必ずそこで起こることは、
自分が分裂して、
その分自分の力がなくなると。
グッドワイブス流に言うと弱くなるんですけど、
私流に言えば、
当然弱くなるんですけれども、
疲労するんですよね。
疲弊してしまうと。
なぜなら分裂しているからなんですよ。
疲労して先送りするって、
僕だったら言いたいわけですよね。
現在何か自分に直面している問題があると、
それを先送りするしかなくなるんですよ。
自分が何かしていないので。
施行した分、
何か悪いものと関わらなければならなくなりますから。
施行しなければ、
悪いというものは最初から出てこないわけですからね。
で、
施行しないでどうやって解決するんだって話になるから、
クラザノケイドさんが、
意識っていうものが、
意識っていう話にしているわけですけれども、
意識なんだけれどもですね、
実は単純というか、
実は簡単というのは無理があるんですが、
自分の身体が分裂していない状態で、
しかも自分の意識の元にある場合、
27:00
これは道具って言い方をするんですけど、
元にある場合、
現実に選択できる幅が異常に広がるんですね。
一つには、なぜならば、
疲れることがないから。
さっき言った通り、
疲労は施行の結果なので、
施行しなければ疲れることはないので、
やろうと思えば大概のことはできるということ。
もう一つは、
恐怖感がないから。
これも必然的なんですけど、
恐怖というのは、
投影の結果でありますから、
イリュージョンですからね。
投影とイリュージョンはほぼ同じことなので、
悪というものをどこかに見るから、
恐怖が発生するわけじゃないですか。
直面している問題が、
虫を外に追い出すということであったら、
虫が死の象徴みたいであれば、
それは無理ですよね。
あまりにも恐ろしくて、
でもそれは、
虫をスプリットしたわけですよ、
この世の中から。
次に、そいつに死を投影したわけですよ。
死の象徴であると。
死体に群がるとか、
それだけでも嫌じゃないですか。
これは大変恐ろしいんですよ。
だから、
そのようなものに触れるわけにはいかないわけですよ。
汚れるわけですよ。
こういう表現って、
途端にどんどん出てくるじゃないですか。
私たちは昔からずっとこれをやっているわけですよね。
これと同じだと思うんです。
仕事ができなくなるという時に、
まつわる様々なこともですね、
仕事を何かしようと、
例えばですけれども、
YouTubeを作るでもいいですよね。
別に。
YouTubeを作って、
すごい有名なYouTuberになろうとして、
なぜそんな、
非常に単純そうで、
お手本もやり方も、
どこにでもいっぱいあることすら、
私たちが手がけられなくなるかというと、
まずスプリットするんですよ。
動画を作るという行為をですね、
いきなり、
それだけを、
日常から取り出し始めるわけです。
しかもスプリットした時に必ず起こることは、
YouTubeだけスプリットする人いませんよね。
必ずYouTuberというものも取り出してきているでしょうし、
動画を作成する様々な、
様々な動画作成にまつわる、
あるいは動画にまつわることを、
全部脳内に引きずり出してきて、
そこに必ず善悪を投影せずには、
僕らはいられませんよね。
かなりの程度妄想分裂ポジションですよね。
自分というものを忘れるじゃないですか。
なぜYouTube、
YouTubeじゃなくても全然いい。
虫はなぜ悪なんですかという話ですよね。
自分が死ぬということを連想させるからですよね。
そこには自分が入っているんだけど、
すっかり忘れているんですよ。
自分がこの世にいなければ、
虫が善か悪かなんて問題にする人は誰もいないですよね。
人間がいなければ、
善でも悪でもないですよね。
でも自分が見るから、
30:01
悪なわけですよ。
もう投影が始まっているわけですよね。
それが分裂というものと、
妄想というものがセットになるということで、
自分が肉体であることが発生源なのに、
一番最初はそうだったはず。
お腹が自分が空いたということが発生源ですからね。
そのことをただ自分じゃ気づけない年の時はしょうがないけど、
気づけている時になると、
今度は忘れるという能力を使って、
分離して投影するわけですよ。
それでYouTubeもそうで、
引っ張り出してきて投影する。
当然YouTubeで自分が何でもいいんですけど、
充実したコンテンツをそこに投入して、
素晴らしい成果を出すというのが善ですよね。
善が投影された瞬間に、
当たり前なんですが、
悪というものはそこには現ざるを得ないというのかな。
現れて来ざるを得ませんよね。
なんでYouTubeするんですかという話になったら、
多分ですけれども、
何か有名になるか、訴えたいことがあるか、
お金を設けるか、その全部かですよね。
そうすると貧乏が悪であるし、
誰も身向きもしないのも悪であるし、
何の影響もインフルエンスも与えられないのも悪ということになりますよね。
善悪で分けたんだから。
そうすると悪いYouTuberというものが、
自分の脳内に喚起されるというのかな。
発生して、そっちに一歩でも近づくような真似はできないじゃないですか。
虫に近づくのと全く同じ理由でできないじゃないですか。
それは自分の身体が許さないですよね。
そこに強い恐怖を味わうという危機感があるから、
そっちに近づくわけにはいかないですよね。
でもYouTubeを一つでも作るということは、
まさにそっちに近づく可能性をぐっと強めるということになると思うんですよ。
そもそも一本目のYouTubeがヒカキンさんみたいになるなんてことは、
やり得ないとは言わないけれども、
それは非常に可能性として低いので、
一本目のYouTubeは悪の象徴ですよね。
金にはならない、手間はかかる、時間もかかる、
時間がかかるということはダラダラするってやつですよね。
例えば目も疲れるし、肩も来るかもしれないし、
とにかく悪の象徴なわけですよね。
それを一本目で作るって、一本目はそうなるんですけれども、
作るっていうのはすごく耐えられないと思うんですよ。
しかもそれに対して良くないねのマーク、
親指下にあるやつがいっぱいつく可能性も否定はできないですよね。
大した人が見てないのに、
それがいっぱいつく可能性だけが否定できないっていうのもおかしな話なんですけれども、
33:02
十分あり得るということになると思うんですよ。
この様々な思考の産物がですね、
これは思考そのものなんですけどね、実は。
思考そのものじゃないですか。
お腹が空いたっていうのは思考そのものなんですよ。
だから自分の身体状態っていうのは実は思考そのものなんですよ。
このことはすごく私の中では大事な発見だったと思うんですけど、
肉体という感覚は思考そのものなんですね。
これも分かりにくいかなと思うんで、また回を分けて説明しますけど、
例えば車で運転している人って車に自分を投影しますよね。
これはある程度それをしないとダメだと思うんです。
引くのが怖いとか、ぶつかるのが怖いとか、こうするのが嫌だっていうのは
全部自分の身体感が車まで拡張されて初めてそう思えるのであって、
あれ車と自分が完全に分離していたら、
そういう最新の注意みたいなのはあまり払わないんですよ。
まして速度がグッと出ている時にそこまでできるっていうのは
ある程度身体との一体感があって、それは投影じゃないですか。
だってついさっきまで自分車だなんて全然感じていなかった人が
いきなりそう感じるんで、全く同じことを身体そのものにもしているはずなんです。
自分の体が自分だっていうのは実は投影なんですよね。
だから思考なんですよ、これは。
現実から自分の身体だけをスプリットして、
この身体というものは善であると。
だから病気というものは悪であるということになるわけですよね。
これ明らかに思考ですよね。
思考できなければこういう感覚は発生するはずがないんで、
この後自分の脳が思考していると思うのは
イリュージョンそのものですよね。
実際はそうじゃないはずです。
自分の身体感覚がここにあるという、
これ自体がもうすでに思考なんだと思うんですよ。
そうすると、さっきのYouTubeもそうなんですけれども、
YouTubeのことをYouTuberになるとか、
YouTuberになるとかは特にそうですけれども、
YouTubeを作るということを考えた段階で思考なので、
この段階でも疲れちゃうはずなんですよ、本当はね。
もう考えただけで疲労の始まりが来ているわけです。
よっぽどそういうときっていうのは、
そこから先の奇妙な思考を避けるようにしないとですね、
それによって莫大な急収入が得られるとか、
すごく確実に結果が出るというのでもないと、
先送りしやすいのはごく自然な成り行きだと思うんです。
思考から始めちゃってますからね。
だから思考から始めないようにしたほうがいいわけです。
それは誰もそういう言い方をしないので、
すっかりそれじゃないやり方っていうのはあり得ないと思われてるんですけど、
36:03
その第一歩としてノープランだと思うんですよ。
プランは思考そのものなんで、どうしようもないんですよね、
プランから始めてしまったら。
ノープランで始めるだけでは、
思考止まるとは言い切れないんですけど、
少なくともノープランのほうが、
思考的にものをスタートさせないという意味では、
すごく現実的なんですよ。
目についたところから動かしていくっていう、
ただそれだけを繰り返すという。
過去の記憶も引っ張り出してきてないし、
未来のプランもどこにもないじゃないですか。
これが一番多分ですね、
疲労感たっぷりの中で先送りするという、
妄想状態に入らない、
おそらく唯一の方法に近いんじゃないかなと。
CMになっちゃいましたけど、
4期の書き上げ塾が始まるんで、
今月から。
これはノープランで書くんです。
今までノープランで書くというのが、
僕はノープランで書いてるから、
人にこれをどうやって伝えればいいんだろうと、
何て言うんですかね、
ノープランで書いてるから、
それでそれしかないとは思ってなかった。
それでもいけるって言いたかったんですけど、
それじゃないといけないだろうなって今は思います。
もちろんプラン作りながら書いてるよって人も
いらっしゃるのがわかります。
ただそれは、
さっき一番最初の方に言った通り、
頭の回転がすごい速いことを証明するとか、
何かですね、
何かすごいことができるっていう自信がないと
難しいと思うんです。
プランを作ってから書くとか、
難しいと思うんです。
プランを作ってから書くということになってくると。
そういうことができるためには、
独特のスキルに関する自負がありますよ。
私はそういうものはほぼないんで、
自分がライティングにまつわるスキルで、
他を圧倒しているとか、
周囲の人たちよりも一段と優れているっていう自負は
別にないんで、
それじゃ書けないんですよ。
そうじゃなくて、
スプリットしないっていうことなんですよね。
分離しないってこと。
自分が物書きになるとか、
これ分離なんですよ。
書くという行為、他の時間から、
よく言うじゃないですか、書く時間を確保するって、
書く書くかぶりですけれども、
確保するっていうのはスプリットじゃないですか。
時間を切り出してるじゃないですか。
こういうことをしないことなんですよ。
確保するだけでは済まないでしょう。
時間を確保してしまったら、
その時間を善だっていうことにするじゃないですか。
投影ですよね。
弓づけでもあります。
書く時間が善であるってことになったら、
ここに娘が入ってこようものなら、
悪人にしちゃうでしょう。
39:01
必ずスプリット・善・悪の投影、
つまり分裂と妄想はセットになるじゃないですか。
こうして私たちは一気に自分を苦境に落とし入れるんですよ。
だって、あれですよ。
娘が虫に近づくんですよ、脳内で。
そうは僕には見えるところまで行きませんけど、
人によって絶対そういうところまで行きますよね。
絶対にこれをやるっていうのは、
これを可能にするためには、
自分が特別な人間だってみなす必要が絶対にあるはずなんですよ。
自分が特別な人間だということはですね、
今のような時代であれば、
特別に頭の回転が速いとか、何でもいいんですけど、
肉体的に特別に物書きとして適性があるとか、
そういう逆の言い方をする人もいますよね。
私は物書きしかできないんです、みたいな。
あの言い方は反対側から見たら特別性っていうやつなんですよ。
やっぱりスプリットなんですよね。
他の人というところから自分を分離して、
それに対して意味付けをするんですよ。
私は特別物書きとしてこの世に送り出されてきた人間だ、
ポカルトじゃないですか、完全に。
すっごい辛いですよね、それを始めてしまったら。
物書きできなくなったらどうするんだよって話になるじゃないですか。
それが例えば神様に決められたプランみたいになったらしょうがないんですけど、
ここでもプランなんですけど、
そういうことなければですね、
別に何やったって生きていけるわけじゃないんですよ。
そのほうが楽に決まっていると思うんですよ。
だから自分が思考を始めて、
肉体であるというところからスタートしようとすると、
それだけでは進まなくなってしまうので、
必ずそこに善悪が発生してしまって、
常に悪に脅かされる恐れというものを抱いていなきゃなんなくなるので、
この言い方をすると何かですね、物語チックになって
自分と関係なく思われるかもしれませんが、
私の見たところ、
まさにですね、今今何か仕事をする代わりに
何か読むものないだろうかとか、
Twitterないだろうかとか、
YouTube見ている暇はないだろうかってやっているこれがですね、
それなんですよ。
スプリットと妄想と意味付けなんですよ。
これをやめるっていうこと、
それはすっごい簡単なことなんです。
本当はね、ものすごい習慣化して、
しかもこれが良いことだと思われているからみんなやっているんだけど、
良いことのはずはきっとないんで、
そうですね、何ていうか、
例えば、家では仕事が進まないとか、
家では思考は別にそもそも進める必要がないと思うんだけど、
家ではアイデアが平めかないとか、
だから散歩をするとか、
喫茶に行くとか、いいんですけど、
別に行為それ自体が経済も良くなるかもしれないしですね、
悪いことは何もないんだけど、
これの背景には、
妄想分裂が間違いなくあるってことなんです。
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それがなきゃいいんですよ、別に。
ただそれがなくなると、
家だろうと、外だろうと、散歩中だろうと、
喫茶だろうと、どこでも同じになってしまうから、
多分行かなくなっちゃうんですよね。
経済的には良くないかもしれないですね。
なので、
そういうことなんですよ。
だから、そういうふうに、
散歩していないから、
今日は平めかなかったみたいに思ったら、
すでに思考がスタートしていて、
妄想に入っているっていうふうに思っていただくとですね、
これを思い出していただくと、
私が思うには、
少なくとも先送りという問題では悩まなくなるんじゃないかと思うんですね。