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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
5月の23日、木曜日、朝7時26分ですね。
もう間もなくですね、4朝ってということになりますね。
やな朝ってとかっていう地方もあったんでしたっけ、あるいはそっちが正式なんでしたっけ。
7月26日、日曜日の13時からオンラインで、
クラソン経造さんとのグッドワイブスタスクシュートのセミナーをやります。
今回のテーマはあれですね、やりたいことがあるのに、時間はあるのにできないっていうやつですね。
時間がないからできないは普通にあるんですが、時間があるのにできない。
例えば週末、土日に時間はたっぷりあったんだけど、しかもそれをやる時間は確実にあったんだけれども、
例えば最近で言うと、私ので言うと、トマトの爬虫植えをしたいんですけど、
それができなかったみたいな。
したんですけどね、私一例としてできなかった。
する時間がなかったわけではない、そういう話。
なぜ時間があってもできないのかという話を、
グッドワイブス流にタスクシュート側から両方、両面からの説明をさせてもらって、
個別の相談にも乗らせていただくと、そういった2時間になります。
これはもう本当にしあさってなんで、アーカイブ配信もいたしますので、
ただアーカイブ配信だと個別のご相談はその場でないとできませんので、
そちらは活用したいという方は当日のリアルタイム受講していただければと思います。
それくらいしか今ないんだよな。
まあいいや、3ヶ月チャレンジは随時継続しておりますが、
これは今募集かけておりませんので、7月になったらまた第7期の募集をかけさせていただこうと思っております。
いろいろと立て付けがですね、立て付けと言えばいいんですかね、
企画内容がかなりこみってきていまして、
発展するときにはこみ入らせてくるんだなっていうのがあるんですけど、
これはしょうがない。
例えば1ヶ月お試しとかはなかったわけで、今作りましたね。
来期からはリアルオフライン面談みたいなものを組み込んでいこうかと思っております。
最初はそういうつもりもあったんですけど、
オンラインの参加者の方以外は誰もいらっしゃらないという現実が発生したので、
オフラインといっても、毎週毎週オフラインで会うというのは現実的ではないということがよくわかりましたので、
3ヶ月に1回はオフラインで会うというのもありなのではないかということですね。
そんなわけで、こういうものを含めつつ、新しくリニューアルしてどんどんやっていこうかなと思っております。
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今日は短めに切り上げようと。
短めに切り上げるというのも、昔いっぱい言っていて大変虚しくなったくらいどんどん長くなる一方だったんですけど、
短めにしようと思っておりまして、長時間について最近考え直す機会がたくさんあったので、
その話をまずしたいと思うんですけど、長時間って正しさなんですよ。
ルールと言ってもいいと思うんですけれども、
プロイトに言わせればエリプスの光栄ということになるんでしょうけど、
どういう機能として著しく目につくかというと、
罪の意識を誰にせよ持たせるために長時間というものは機能して。
そんな感じがするんですね。
私は最近鎌倉に行った時のエンマ大王像が忘れられなくてですね、
あのエンマ大王って罪の意識を持たせる機能というものを象徴しているんですよ。
まず悪いことをしたら地獄にっていうのが、罪の意識を持たせるっていうのがはっきりしてるじゃないですか。
その象徴ですよ。
で、エンマ大王自身、これはその場に書いてあったやつで、
どの宗派でも同じではないと思うんですけど、
あれ、貧図教の神ですからね。
ここ大事なんですけどね。
まあいいや。
あの、ヤマとかいうのかな。
まあとにかく、これはいずれにしても罪の意識を持たせる。
で、お父さんの顔をしていて、完全にこれはお父さんなんですよね。
お父さんの象徴。
つまり、エリプスコンプレックスの象徴ですよね。
そして、えっと、なんと彼はですね、
地獄に落ちた人の分だけ自分が苦しまなければいけないっていうことになったんですね。
ものすごい罪の意識を持たせてくるじゃないですか。
お前が悪いことをすると、俺がひどい目に遭うんだよってやつですね。
いや、これはほんとね、それはもう地獄のせめくれみたいな。
どんだけ地獄なんだよって思うんですけれども、
まさにこれは罪の意識を持たせるための機能を象徴しているわけですね。
こんなに罪の意識をある種の人に持たせるものもないじゃないですか。
良心的な人も良心的でない人も一様に罪の意識を持つことになるわけですね。
良心的であんまりない人は、とにかく地獄に行くのが怖いから罪の意識を持つと。
すごく良心的であんまり悪いことをしない人は、
でも私の代わりに閻魔様が苦しむのかっていうことで罪の意識を持つと。
とにかく罪の意識なんです。
人間の倫理にとっていかに罪の意識というものが重要視されてきたかっていうのが、
あのような像は象徴していますよね。
いわゆるキリスト教にもそういう側面が多分にありますよね。
あなたの身代わりの食材っていう。
身代わりの食材って、そのこだわだけでも全然あがないきれないだろって感じがしますよね。
この罪の意識というものは、しかし大変奇妙なもので、
多分私が思うになんですけど、チンパンジーは持ってない。
チンパンジーが持ってないというのは何が言いたいかというと、
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この世に数兆という生き物で罪の意識を持つのは人間ぐらいだってことですよね。
他の動物はほぼ持たない。
つまり罪の意識なしではやっていけないと信じているのは多分人間ぐらいなものなんですよ。
ただ罪の概念も意識も何もなくても、
そのような感情がボノボチンパンジーぐらいになってくるとあるんじゃないかって感じはします。
ただ、後悔とかはしないと思いますよ。記憶力がそこまで持たないですからね。
後悔しようとしてももう次の瞬間には忘れていると思うので、
ここに今ここってもののヒントがあるんだと思うんですけれども。
つまり他の動物って罪の意識一切持たないからって世界破壊したりしないじゃないですか。
そういう能力ないからとも言えるんですけれども。
そんなに残虐なことともしないじゃないですか。
記憶力が持たないですからね。
つまりそういうことなんですよね。
罪の意識がないと世の中が立ち行かないと思っているのは、
社会というものを作った人間の特徴なわけです。
で、この罪の意識を持たせるという機能を持っているのがまず確実に超自我だと思うんですね。
裁くって言葉はそれを意味してますよね。
罪を特定するっていう裁判所ってそういうところですよね、結局はね。
許すってケースもありますけれども、結局は罪を特定しているわけですね。
だから裁くっていうのを社会機構として持つってことは、
まさにそういう機能を象徴させるような何かが心の中にある。
心の中にあるんですよ。
で、先日から言っていたあれですね。
なんだ、夜がつかむですよ。
結局、罪というのはどこにあるんだっていうことなんですね。
よく言うじゃないですか、本当には正しさなんかないんだとか、
客観的に正しいかどうかなんて誰にも分からないという正しさが世の中にはあるんですよ。
つまり、安易に人のことをバッシングする奴は罪だって言ってるわけですよね、ある意味でもね。
こういう感情がなかなか私たちはですね、
また私はこの何が客観的に正しいかどうか分からないというのは、
決してそれほどこなれた話ではなくて、結構ですね、
倉庫的長寿がとは言わないにしても、
まあそうだな、従来以前の長寿がって感じがしますね。
長寿がっていうのはやっぱり、もっと進歩してくるとですね、
はるかに倫理的に難しい話に挑むようになっていって、
なんかその途中で止まっちゃうんですよね。めんどくさくなるって。
だいたいめんどくさいじゃないですか、倫理とかやだら深く学んでいくなんてめんどくさいので。
何が正しいかなどというのは言えないぐらいで、
普通はとどまるものなんですよ。その辺まで獲得しておけば、
少なくとも社会では立ち行きますからね、それで。
つまり社会ではだいたい通じる話にそこまで行けばなるんですよ。
これだってあれですからね、条件次第では、
それを口にできるか果たしてっていうケースがたくさんあります。
もう目の前でね、いかつい、四角い、厳しそうな人がですね、
ものすごいどなってきてるのに何が正しいかなんて分からないんですよって、
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果たして言い返せるかという、
もうそういうことなんですよ。
だから正しさというのは一つの武器なんだけれども、
武器にしてるんだけれども、
あるいは正しいというものの相対性ってものを武器にするんだけど、
それには限度がありますよね。
もうちょい先にやっぱり行かなきゃならないケースっていうのは、
いっぱいあるわけです。
その中でも、ここには大きな分岐点があるなというのは、
やっぱり昨日から一昨日、その前も喋っていたような気がする、
夜は害罪するのかってことなんですね。
これは当然、罪は害罪するのかって話になっていきます。
正しいか、何が正しいかなんて誰にも言えないって言った瞬間に、
次にその人がどこに罪を見るかっていうのは、
僕は非常に重要な着眼点だと思うんですね。
この話、それ自体は非常に長自画的なものであって、
やっぱり何かに対する罪の意識というものが、
置かれなければならないという不安が感じられるわけです。
これは不安なんですよ。
長自画というものが機能したときには、
決まって不安という背景があると思います。
感情的な背景ですね。
つまり悪いことをしたやつをのさわらせたり、
このまま悪いことを言っているやつを、
少なくとも自分を攻撃させ続けては危険だっていうときに、
これが発動する。
あるいは自分が壮的に調子に乗っていて、
いわばこのまま自分を暴走させては後々面倒くさいことになるというときに、
つまり不安になったときに、
信頼の長自画というものが介入してくると思うんですね。
そのときにどこに罪を置き始めるか。
その言い分というよりは、
その言い分によってどこに罪を置き始めるかというのが、
注目点だと私は思うんですね。
外に置いたということになってくると、
心の中で起きていることなのに外に置いたということになってくると、
これは夜がつかむ世界に入り込み始めているわけですよ。
罪があるということになっているわけですね。
ないおっぱいがあるわけですよ。
このときにはないものというものによって苦しめられているはずなんですよ、その人。
長自画が機能する時点で大体そうなんです。
目の前のおじさんがボコボコに自分を殴り出したという場合の別です。
これはないものと言っている余裕はあまりないからね。
でもそういうケースって非常に少ないし、
そうじゃないケースはいっぱいあるわけですよ、いっぱい。
本当にいっぱいある。
家の中でのちょっとしたいざこざを含めれば無数と言っていいぐらいあるわけですね。
それはすべて外から、外には何もないんだけど、
自分はないってことに対する苦しみを持ち始めているわけです。
そのときに悪いおっぱいがある、つまり罪があることになっているわけです。
この罪はどこにあるのかという話が始まっているわけですね。
正しさなんてないのに、この人は正義感を振りかざしていて悪いっていうことになってくると、
二重にその人は矛盾したことを言っている。
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正しさがないのに悪いと童貞し始めていて、
しかもその悪さは外にあるっていうふうに考えている。
もしその人が正しさを振りかざして、自分を縛り上げて矛盾したことを始めたなら、
それはちょっと手を打つべきなんだけれども、
多分そういうことではない。
外にあるものは何かがあるというよりは何かがないってことなんですよ。
例えばその人は若干都市間の区別がつかない。
そういう人が目の前に現れた。
若干都市間の区別がつかなくてガーガー鳴り出した人が目の前に現れたからといって、
本当はそれによって困ることはないはずなんですね。
少なくとも厳密に見ていくと、それによって困ることって音がうるさいとか、
それに類するレベルだと思う。
でもそれを遥かに超えてきて、心が苦しみ出すということになってくると、
やっぱり心内の長寿がというものが動き出して、
その長寿が起動しようと頑張り出しているわけですね。
どこかに罪を特定しなければならないと。
この目の前の人間に罪を特定できないとなってくると、
自分の心の中の苦しみだけが残るので、結局自分が悪いってことになるじゃないですか。
例えば自分が十分強くないのが悪いとか、
自分がこういう時に主張できないのが悪いとか、
なんであれ自分が悪くなってくるわけですよ。
この自分が悪くなっていくというのが、
つまり自分の長寿がによって自分が罰されるという自罰なんですね。
ここから非常に欲打つ的な状態に、
その人すごくすごくすごく自分が弱くなっていくというか、
相対的に弱いという自分を見出さなければならなくなっていくという感じがしますね。
この相対的に自分が弱いというのは本当は全然悪い。
これもまたあれなんですよ。
何かがないんですよ実は。
例えば強さがない。
本当はないはずの問題をしているわけです。
良いおっぱいがないのは、
昨日も言いましたが悪いおっぱいがあるということとは違うんですよ。
良い会社がなかったということは、
悪い会社があったという意味ではないんですね。
だから自分に強さが足りないということが、
自分には弱さという悪いものがあるという意味では決してないんですよ。
なのに自分を罰し始めるということをやりだすというのは、
つまりここにあれなんですよね。
言ってみれば不在の対象が発生したと。
ここまでは来ちゃうんですよ多くの場合。
自分が苦しみ始める。
主張できない正しさのせいで自分が苦しみ始めるんですね。
ここで踏みとどまるというか、
この一旦苦しみを心に入れてみるんですよね。
これが対象関係論の一つの考え方なんだなと。
つまり何を置くかというと、不在の対象を置くんです。
本当は苦しみを置くというのは、
もう少し先を引かなきゃなんなくて、
苦しみを置くだけだと苦しいだけになっちゃうので、
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不在の対象を置く。
つまり苦しめてくる悪いおっぱいがあるということになったとき、
それが外にあるということはあり得ないから。
あり得ないんだけどこれがあり得る気がしてしまうというのが、
もう一つ面倒なところなんですけど、
今回は抑鬱ポジションから上の話をします。
つまり現実見当はついているということにします。
だって悪いなんでしょうね、何でもいいんですけれども、
ここはやっぱりでも難しいんですよね。
例えば世の中に逆感的な正義があると、
信じている悪い人が目の前にいるっていう、
こういう構図は本当は成り立たない。
目の前に逆感的な正義があると信じている人がいても、
それは悪い人だとは言えない。
なぜなら逆感的な正義はないって自分で主張したからね。
だから逆感的な正義があって、
逆感的な正義をもとに人を殺しかねない危険な人がいたとしても、
その人は悪い人とは言えないんですよ、
もうこの人にとっては。
逆感的な正義はないわけだから。
だからそういうものが外在はしない。
あくまでもそういうものが外在すると、
誤解している自分の心の中に悪い人が発生したんですね。
これが悪い対象。
この悪い対象というものが心の中に発生すると、
すごい辛くなってくるので、
ここの辛さというものを引き受けるというのはどういうことかというと、
外にこの苦しみを作り出すものがないっていうのと、
同時に動き出さないとダメなんですね。
つまり、何て言えばいいのかな。
自分の中には、
逆感的な正しさなんてないっていう考え方が悪いか、
それとも逆感的な正しさなんてないという考え方のせいで、
目の前の人が悪く見えるんだとすると、
全原因は心の中にあるじゃないですか。
どっちにしたとしても。
こういう主張をしてしまった以上は。
そういう全原因が自分の心の中にあるということは、
現実がそうでもしあるならばですね、
外在する悪いものはないわけですよ。
この対比っていうのは、
自分の心の中に悪いものがあるっていう仮定を持った瞬間に生まれた仮定なんですよ。
自分の心の中に悪いものがあるというか、
自分を苦しめるものがあるということは、
自分の外には苦しめるものがないんだという結論になるじゃないですか。
これは一見ですね、
哲学のようなことを喋っているから、
ややこしくなってるんですけど、
理屈は夜がつかむと全く同じなんですよ。
夜というものがあると。
夜が私を苦しめてくるという状態にある段階は、
ほぼ精神病水準ですね。
これはもう、頭がおかしいとかそういう意味じゃないですよ。
乳幼児水準だって言ってるだけです。
夜が怖い。夜が怖いって言いますからね、子供は。
でも、ある程度大きくなってくると、
心は自動的に機能するのか、いや違うな。
母親の機能というもの、あるいは親の大人の機能というものを
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子供は取り込み始め、つまり学習なんですね、これはね。
怖がってるのは自分の心であるということに気づきだす。
つまり、怖がっている、あるいは心を怖がらせるものが
心の中にあるっていう概念を持つことができ始めるんですね。
ここまで来ないと思うんですよ。
もうちょっと手前で、自分の心の中には悪いものがある。
これが私を苦しめる。ここまで来られる。
ここまで来た瞬間に、外にはないってことに気づかなければおかしいんですよ。
苦しめているものが内側にあるっていう、その内側を
認識してしまった以上、外側というものがその場合に発生するんです。
この前の段階では、夜ってのは心の中にも心の外にもあるんですよ。
そして心の外とか内はないんですね。
だから精神病水準というものは何でも起こっちゃうわけです。
心の中で起きたことも、外で起きたことも同じだから。
だけれども、心の内と外というものを区別した瞬間に
この人はどっちに苦しみの源泉があるんだろうっていうことを
考えることができるようになり始めるわけです。
この人ってこの幼児ですからね。
これができ始めると、苦しみの源泉が自分の中にある以上
苦しみの源泉が自分の外にもあるっていうことにはなり得ないんですね。
そのことを認識できるようになるから、夜はつかまなくなるんですよ。
夜がつかまなくなるということを、罪の話にも適用できるってことなんです。
罪が心の中にも心の外にもあるんだったら、
これは完全に乳幼児水準に戻ってしまうんですね。
何が罪なのかわけわかんなくなっていくわけです。
とにかく悪いものがどこかにあって自分は泣くみたいな、
それしかできないわけですよ。
だけれども、心の内と外で分けるってことができた瞬間に
苦しみの源泉はどっちにあるんだろうと考えることができると。
だから苦しみというものがこの時あるはずなんですよ。
なければ源泉というものを考えることはできなくなるから。
だからこの苦しみを持つってことが自分の心の中での出来事なんだと認識できた瞬間に
外にどんな人がいようと、誰が何と言っていようと
外にはその苦しみの源泉はないってことになるんですね。
夜はつかまないということですね。
ここまで来られれば、たぶん苦しみは続くかもしれませんけれども
対応ができるようになるはずなんですよ。
だって夜が怖いと思っている人が苦しみの源泉が心の中にあるんだと思ったからといって
直ちに怖くなくなったりはしないじゃないですか。
しかし、たぶんなんですが、その人はその観念を保持できている限り
夜の墓場を歩くことができるようになります。
僕はできるようになった。
つまり、これがすっごく重要ってことですね。
多少は慣れの問題みたいなのがあるし
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多少は不安というものへの扱い方っていうのがあるんだけども
本当に歩くこともできないっていうのであれば
やっぱり内と外の区別がついてないんですね。
内と外の区別をつけるってことがこの話の第一歩になるわけです。
さらにその前にあるのが、さっきちょっと言いかけたんだけれども
その区別をつける能力は大人からもらったものなんだっていう
この感覚でもあるし、経験でもあるし、観念だ。
大人からもらったもの。
母親と言いたいんですけどね、私としては。
その母親が同時に、おそらく同時に
聴耳学機能というものをくれちゃってるので
我々は罪の意識がお問い物を持ち始め
罪がどこかにあるってことをまたやり出すわけですよ。
でもその時に同時に母親機能として
心の内と外を区別することができるっていう機能を
もらってるはずなんですよね。
聴耳学機能があるってこと。
どっちかだけもらうってことは多分ないと思うんです。
今日この話までしていると多分1時間を突破するんで
短く切り上げたい関係上しませんけどね。
ここで罪の意識でずっと言ってても
ラッチが開かない気がしてきたのでタスクシュートに
沿用しまして話を終えたいと思うんですけど
タスクシュートでよくタスクが残るとか
そうだ今回のあれがいいですね。
私の出版社さんの締め切り4月30日に
間に合わないだろうと思っても引き受けたって話。
この話をすると私が想像した以上に
聞いてる人が驚いてくださったんで
この反応を聞いてるとやっぱりないものがあるっていう問題って
どこまでもあるんだなっていう感じを抱いたんですね。
もうこれはしょうがないんですよね。
社会的監修みたいなものまで手伝うから。
大事な非常に大事なことは
締め切りに対する罪の意識というのは
私の心の中にしかないんですよ。絶対に。
だからリストに書いてしまうからいけないのかもしれないけど
ここが非常に今回しゃべってても厄介だなと思ったところではあるんですけど
でもリストというのは私しょっちゅう言ってますが
全部消しても構わないんですよ。
なぜならそんなものないからなんですよ。
罪の意識も夜もすべて同じなんです。
別に私を害罪にして苦しめるものは一切ない。
わかりませんよ。4月30日になって何も書いてませんって言ったら
何かの刑とか受けるのかもしれないけど
多分そんなことは起こらない。
つまり私を直接的に苦しめるような何か
何かっていうか力、権力、あるいは縁馬大夫みたいなものは
害罪してないんです。
でも害罪してないってことはみんなわかってるつもりでいて
実はわかってないじゃないですか。
だから4月30日の締め切りというものが
害罪するもののようになってしまうんですよね。
リストに書くと余計そう見えるのかもしれませんけれども
24:00
これは心の中にあるんですよ。
特に多くの人がこれによって何か行動を変えられるというのでもあれば
完全に罪の意識なんですよ。
他ないはずなんですよ。
これで害罪してくるとつい思ってしまって
行動が本当はマリオのゲームがしたいのに
原稿を書くということが優先されてしまうというふうに
心がねじ曲げられるのであれば
それは自分の心の中にある罪の意識以外は考えられないですよ。
この場合さっきとった作戦と全く同じ対応策が効くはずなんですね。
あるのは心の中の罪の意識であり
従って私は心の中から苦しめられているのであり
ということは外側にその力の源は一切ないはず。
これが分かりにくいというのであれば
夜がつかむかどうかの話に戻るしかないですね。
夜はつかまないだろうと
でも夜が怖いということ
夜側から何かをされそうだと
夜側からゾンビが出てきそうだとか
一爪小僧が出てきそうだと思うのであれば
それは心の内と外というものが
一気に自由になってしまっているっていう
一つの証明になっているんですね。
そんなことは起きないはずだと思うほうに
なんていうんですかね。
要するにベッドなんですよね。
ちょっとここは倉野圭祐さんのgood vibes借りるんですけど
家計なんですよ。家計ですよね。
夜から絶対何も出てこないという
立証とかはされてないんですよ。
証明は終わったみたいな証明はない。
私は出てこないと思ってるけど。
で、出てこないと思うっていうのは家計なんですよ。
で、出てこないと思えた瞬間に
苦しみはあるんだけど残るんだけど
外からその苦しみはやってきてない
っていうことが分かるんですね。
この自分の心が苦しんでいるということと
そうして外を見ても暗い夜があるだけだっていう
この何て言うんですかね。
対象みたいな感じなんですね。
障害というのかな。
心の苦しみから外部を紹介してみると
外部には何もない空っぽだと
少なくとも自分を苦しめてくるような
何かは今目の前にはどこにもないということは
しかしここの中に苦しみはあるっていうんだったら
厳選は心の内側にあるじゃないですか。
この心の内側にある恐怖とか
罪の意識とかそういったものが
心の内側にしかないってこと。
つまりないおっぱいは心の中にしかない
っていうことですよ。
で、いいおっぱいがないっていうのが
外の現象、つまり何にもない。
いいおっぱいがないってことは他のものもないわけだから
何にもないわけです。
外には何にもない。
そして心の内側にこの苦しみの厳選がある
と私の心が考えているわけですね。
考えてるって言うのも変なんだけど
とにかく心の内側と外側というものが
27:00
この時にできて
この内側というものに罪の意識というか
恐怖の対象というものがあって
それを私が恐れているんだという
ここまで来るんですよ。
ここまで来ちゃえばですね
外部でどんな行動を取ることも
可能であるはずがないんです。
なぜならば外部には何もないからです。
残るのは心の内側の苦しみだけなんですよ。
そしてこの心の内側の苦しみというものを
取り除く方法は
長寿画と共に親が伝えてきたはずなんです。
ちなみにその長寿画というのは
親が私にインストールしたものでもあるんですよ。
これらを全部ひっくるめて考えればですね
心の中の親がOKだと言ったことは
全然怖くもなければ
苦しむ理由にもならないってことを
意味するじゃないですか。
つくづくその時考えてみてほしいんですよね。
実母。うちの実母ですけど。
あのおばあちゃん。
あのおばあちゃんがダメだっていう。
直接聞いたっていいと思うんですよこの場合。
あんまり意味のない行為なんですけど。
直接聞いたって構わないと思う。
4月30日の締め切りはこここここうなんだけど
守んなきゃいけないと思う。
たぶんうちの母はそう
守んなきゃいけないわけではない
と思わないんですようちの母は。
そういうことは私にはよくわかるんですねすでに。
聞いたわけじゃないけどね。
このつまり長寿画がOKを出した瞬間に
罪の意識というのは消えていいはずなんです。
親がくれたもの。
そしてこの心の内と外っていう構造そのものも
おそらく親がくれたもの。
だからこの構造にのっとった罪の意識というものは
親が許諾をするんだったらOKなんです。
リストは黙って消せばいいんです。
あと残るものは何か。
原稿を書きたいかどうかだけなんですよね。
で私は原稿は書きたかったから書いた。
全部のリストは私はタスクシュートだろうと
タスクリストだろうとなんだろうと
原則はこれだけでいいと思うんですよね。
やりたいかどうか。
ただやりたい。
リストに載ったという以上やりたかったんですよ。
だからここで一問あっていいと思うんですよね。
問い合わせが。
これは今も本当はやりたいのか
今はもう本当はやりたくないのか。
結局そのように考えることっていうのは
さっきのと全く同じところに戻っていきます。
これは心の内側の問題だってことなんですよ。
やりたいかやりたくないかだってそうですよね。
外側には何にもないですよ。
私がやりたいかどうかという理由が
外側にあるはずはないですよ。
こうやって考えていけばいいんですよ。
内と外を私は区別しているんだってことを
思い出せればいいわけです。
やりたい理由が自分の心の外側にあるはずはないんですよ。
で自分の心の内側にやりたかった理由というものがあって
それを思い出したらやりたくなるんだったら
残しておいてやったらいいわけですね。
この作業は必要だろうと思うんです。
心の内というものは時制がある。
時間の流れがありますから。
30:01
時間の流れという言い方で分かりにくければ
プロセスというか経緯があるんで
なぜそれを引き受けることにしたのかという話ですね。
100%罪の意識だけだったら
親がいいって言うんだったらやらなきゃいいんですよ。
100%罪の意識だけでそれをやるって言うんだったら
他にやりたい理由があって
その理由は今でも生きているって言うんだったら
やったらいいんですよ。
これ以外何もいらないと思うんですよね。
夜はつかまないはずなんで。
これだと飛躍があるじゃないですか。
だから夜は外在するものであって
夜に対する恐怖は自分の心の中にしかないものだから。
やりたいというのも自分の心の中にしかないものだから。
で、罪の意識が怖いというのも
自分の心の中にしかないものなんですよ。
ここが多分ね、信じられてないんですね。
外にあると思うんですよ。
で、外にあるって言うんだったら
夜の時と同じように
外はあなたをどのように虐待し
ないしはあなたをどのように
接管し
せめさいなみ
エヴァ大王のように
地獄に突き落とすということがあるのかということを
問い正す必要が絶対あると思うんですよ。
ここを問い正さずに置くということは
心の内と外が一致自由にしてしまうっていう部分が
できてしまう。
この一致自由にするっていうのが
多分僕が一番問題だと思う
オカルトになってしまうんですよ。
幽霊で放題。
引いてもいない車の事故で
人を引いてしまったということも起こる。
バカンスに行ってる最中に
家の中で勝手にガスコンロに火がつき
勝手に家が火事になり
勝手にかけたはずの鍵が開き
勝手にそこに泥棒が入り
っていうことが起こる。
全部オカルトですよね。
心の中で起きてる出来事だけですよ。
空想だったらこういうことは全部できるじゃないですか。
そしてそれが現実を左右しないってことを
私たちはよく知ってるはずじゃないですか。
私は罪の意識で締切を守らないと
大変なことが起きるっていうのも
100%オカルトだと今は思うんですよ。
絶対そういうことは起きないはずなんですね。
万が一にも起きたらって言うってことは
その人は心の内と外の行き来が
万が一ならできるって信じてるんですよ。
もしかすると目の前の石に動けって念力を送ると
動き出す、飛び始めるっていう風に
どこかで思ってるってことなんですよ。
僕はその水準はリスキーだという風に
言いたいわけですよ。