JJJの参加体験
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1181回をお送りします。
5月12日月曜日、7時39分です。
昨日ですね、5月11日母の日に、私はまあ、
親孝行ではなくてですね、J松崎ジャンボリン・ジャパンというね、まあ僕もちょっと一枚名称には勘弾ですが、JJJという、
まあ要するに巨大な飲み会というやつですね。本当になかなか盛況で巨大な飲み会になりまして、
昼の12時から夜の、私が結局いたのはですね、夜の19時半まで。
実に7時間半、私は往復すると大体3時間かかるんで、まあ11時間ぐらいですね。
1日、半日費やしまして、JJJに参加しておりまして、昨日寝たのはそういうわけでかなり遅かったので、
しかも、もうなんか20年ぶりとかに割と本格的に直気で生ビール飲んだんで、
朝大丈夫かなと思ったんですけど、意外に大丈夫で、5時半には起きられてですね、娘のお弁当やら、往復やら、
送迎やらをして、今に至ってこれを撮っているわけですが、
やっぱりあれだけの人に集まるところで、まず最近、自分からは絶対行かないカラオケボックスなんかに入って人の歌を歌っているのを眺めたりしておりますと、
いろいろ全然違うことが頭を揺ぎらないのが私なんですが、いつもとあんまり変わらないようなことを考えているんだけど、
でも良い体験ですね。たまには良いと思います。中熟期を飲むのも。
カラオケボックスっていうよりは、あれはカラオケ広場なんじゃないかと思ったんですけどね。
だって40人ぐらいが入れるカラオケボックスって、僕は入ったことがないんで、やっぱり今時はいろいろあるんだなと思いましたね。
全然私が狭いジュークボックスの中に閉じ込められて、友達がビーズとか歌っているのを見ているという時代とは、
まあそういうのは当然今もあるんだと思うんですけど、全然違うんだなと思いました。
宇宙戦艦ヤマトとかを聴いていましてね、なるほどなぁと思いました。昨日は本当にでもあれだけのですね、
規模の催しをたくさんの方にやっていただいて、すごいもうありがたい限りだなと、私はいいのは全然ダメなんで、
もうなんかこう、挨拶をしてうろちょろしているだけに終わっていたわけですけど、挨拶ぐらいはさすがにさせてもらいましたけれども、
一応中核メンバーなんで、中核メンバーとか言ってると、なんかあれみたいなんですけどね、まあやめよう。
とにかくJさんの夫妻もね、日本に来ていただいて、まあよかったよかったと言った感じで、昨日は無事終わりました、成強でね。
無意識の考察
で、その中でまたいくつか考えるところがあったんで、考えるところって言っても、
普通そういう会の時は会とか、その将来について、運営とかね、について考えるんでしょうけど、普通であれば。
私は多分頭がどうしても普通じゃないんで、無意識に近いんですよ。意識の上では運営等のこととか、その日の進行具合について考えてるつもりなんだけど、
意識の裏側では、なんか裏意識みたいなところではね、全然違うこと考えちゃうんですよね。
それも考えてる真っ最中はほとんど意識してないんですよ。だから裏なんですけど、でも今朝になってみたり、夜夢見るんですよ。
で、見た夢っていうのは、いかにもその時に裏で考えてたことと絡んでくるんですよね。
だから多分今日はそういうことについて喋ることになるだろうと。別に今何も考えてないんですよ。
むしろどっちかというと昨日のバーベキューで残った肉がもったいなかったとかを考えてるんですよ。意識の表面では。
あるいはセンター街の居酒屋というのはああいうところなんだと。久しぶりなんで結構居酒屋とか入らないじゃないですか。酒飲まないから。
しかもセンター街とか行かないんで。すごいこう、カルチャーショックまで行かないんですけど、全くああいうものを知らなかったってことはないんで。自分だって池袋で飲んでたわけですから。
でもやっぱり渋谷のセンター街とかって実は私、居酒屋に入ったことほとんどなかったかもしれないですよね。怖かったんで。
私が酒飲んでた頃は、あの辺とか結構怖かったんですよね。まあ別にそんな日本なんで、怖いってもって感じなんですけど。
だから実はほとんど全く会ったことなかったかも。渋谷ってあんま縁がなかったってこともあるんですよ。私、埼玉県の人間なんでやっぱり。
友達もみんな池袋に集合っていうのが常識、常識っていうのも言うんだけど、まあ普通に、あれこれ考えないと必ずそうなるみたいなところがあった。
あとは大学のあった場所からしてもやっぱり、創価で飲むとか上野で飲むとかは、まあ上野結構危ないだろって思われるかもしれんけど、上野は安全なところはいたって安全なんですよね。
北千住で飲むってあんまりしなかったんですけどね。まあまあ。あと越谷でよく飲みましたね。どうでもいい話ですね。
ここからでも何を展開するかというとですね、いきなりなんですけど、欲打つということを昨日はしきりと多分頭の中では考えてたんですね。
欲打つと後悔ってことを考えてたんですよ。で、欲打つと言えば欲打つポジション。まあもうこれはね、欲打つと言えば欲打つポジションなのはお前がクラインが好きだからだということになっちゃうわけですけど、
欲打つと言えば欲打つポジションなんですよ。でね、メラニ・クラインはこれを欲打つポジションと言ったし、ミニコットという人は歴史的ポジションと言ったし、ミニコットが正しいんだけど、やっぱりクラインは侮れないっていう、この感じのですね、この2人についてはいつも、ミニコットは正しいが、クラインは侮れないんですよ。
ミニコットはですね、はっきりと妄想分裂ポジションとか欲打つポジションという名前はひどい。まあひどいんですよ。だってどっちに行ってもいいことないじゃないですか。あなたは妄想分裂気味になるか欲打つになるかどっちか選びなさいみたいな、それはひどいじゃないですか。
せっかくカウンセリング受けたりね、倍塗った精神薬を飲んで、人はやっぱり健康になりたいわけじゃないですか。妄想分裂を選ぶか欲打つを選びなさいとか言われても、何の希望もないじゃないですか。だからミニコットは正しいと思うんです。やっぱり彼は医者としてですね、もっと健康に人になりたいんだから、歴史的ポジションに行くんだよっていう、彼なりにすごくあると思うんです。
でも実際は病理の人が来ている世界で、やっぱり妄想分裂か欲打つを選びなさいというのは、なんとかストイックなんですけど、やっぱ正しいっちゃ正しいっていうか、正しいわけではなくても、やっぱりそこにリアル、リアリティというものを感じざるを得ないなってことは、自分のことを振り返ってもね、あるわけですよ。
後悔できるかできないかっていうのがまず一つあるわけですね。もちろんこれは幼児の話をしてます。乳幼児の話をしてます。だから赤ちゃんはとにかくおっぱいを噛まないまでもいいおっぱいはいいですよね。いいおっぱいならいい。とにかくいいおっぱいだけ出せってことですよね。いいおっぱいを出しなさいと。
赤ちゃんの視点
甘いミルクを出して、気温も24度から26度の間に常に保ち、お母さんはいつもニコニコし、私のことだけを考え、私のせいは私のせいは市場主義者みたいな。宇宙の中心は私だし、世界の中心も私だし、とにかく私に嫌な思いさせんなと。
やっぱり付き合い立ての恋人でちょっとわがままな感じの人を連想していただくといいと思う。私に嫌な思いさせんなと。他のよそを向くなと。そっち向いてるのはダメだと。常に私だけ見てろと。究極のナルシシストみたいな感じですよね。これがいいおっぱいというものなんですよ。いいおっぱいじゃないですか。これこそが。いいおっぱい以外は全部オールバッドです。悪いおっぱいなんですよ。最悪なんですよ。最悪。
だから怒るわけですね。赤ちゃんは怒る。すぐ怒るよね赤ちゃんってね。昨日も男の子が電車の中でめっちゃ怒ってましたね。死って言うわけですよ。お母さん死ってね。静かにしなさいと。これがもうダメじゃないですか。悪いおっぱいじゃないですか。お前静かにしなさいってどういうことだよと。あれ恋愛だとすぐわかるんですけどね。あれ面白いですよね。親子ってしつけに走るからね。すぐに静かにしなさいとか死とかダメでしょって言いますよね。
私非常に面白い現象だと。私はやっぱりあんまり言わなかったわけですよ。うちの妻も不思議と言わない。割と言わない人だったんですけれども。何が言いたいかというとこれが恋愛だと何を言ってることになっちゃうか。妻に女の子が怒ってね。ああって言ってるとするじゃないですか。何かに怒って。静かにしろって男が言ったら別れることになっちゃいますよね。一歩間違うと。
お前静かにしろよとかって言うわけですよ。やばいじゃないですか。でも赤ちゃんは間違いなくそれ以上に腹を立ててますから。男がねでも逆転でも同じですよね。電車の中で彼氏がわめき出したと。何か面白くないことがあったのかよっぽどわめき出したと。
で、あの連れの彼女がね静かにしてとかって言ったらめっちゃ嫌悪になりますよね。でもこれやってるわけですよね。お母さん。これがしつけだってことになってこれをしつけと言っちゃう。教育だと言ってしまう。彼氏がですよ。彼女に向かっていや俺お前を教育してるんだから。まあ僕ならわかりますね。ふざけんなって感じですよね。何があったとしてもわかりますね。
まあ僕はあんまりこらえ性そういうところがないですからね。モテなかったくせにこらえる気は全然ないというこれも大きな問題なんですが。まあでも教育ってよくそれを言うよねっていう感じがするじゃないですか。でも赤ちゃんはそれ絶え間なく言われてるわけですからね。教育教育ね。
つまり妄想分裂ポジションというのは非常にシンプルなポジションなんですよね。敬意とか無視。だからウィニコットは歴史的ポジションとか敬意敬意とかってうるさいわけですよ。敬意を言うわけですよ。でもその教育とか言っている男とするんだのはあなたでしょという。あなたその人大好きだって言ったことあるんでしょと言ってるわけですよね。敬意にうるさいわけですよ。思い出せよって言ってるわけですよ。
だから妄想分裂ポジションというのは敬意というものを無視したくなるほど感情に流される状況にあるわけです。赤ちゃんはそもそも敬意を意識できないので自分の統合とか時間的統合とかそういう概念は赤ちゃんにそんなこと言っても無駄じゃないですか。
ダメだ泣くみたいになってしまう時はもうさっきまでニコニコしてたじゃないですかあったとか言ったってそんなこと言う人いないですよねさすがにね。赤ちゃんはそんなことは知らんというか本当に知らないんでしょうがないですね。これは非常にシンプルな話なんですよ。良いおっぱいだけくれっていうのはつまり瞬間瞬間に生きてる。そういう意味では今流行りのマインドフルネスと似てるわけですよ。今ここしか知らないんですよね。今ここだけが全てなわけです。
今ここだけが全てなんだけど時間という流れの中で今ここに集中できるという人とそもそも時間の流れを意識できない人とは話が違うわけですね。いくらマインドフルネスでも赤ちゃんは絶対マインドフルネスですよね。だけれども心は時々乱れるわけですよ。なぜならば状況が変わればそのまま心はそれに反応してしまうから。
だから自分がないわけですよね。状況とセットになっちゃうわけです。状況が良い私も良い状況が悪い私も悪い。あとはそれをひたすら交差して繰り返していく。そういう意味ではクラインとミニコットの指摘した通りでこの人がですね成長したとはいえ脳が成長したとはいえ突然歴史的ポジションに入れるってすごいことなんですよ。
後悔とかできない人だったのに犬とか何年生きても後悔とかはしないじゃないですか。時間の流れなんてないから。これは記憶があるだけじゃ十分じゃなくて記憶を統合ししかもその記憶の統合しているのは自分であるというふうに気づく必要がある。これはものすごい難しいことですよね。
いつまで経ってもできませんよね。AIだってできてないじゃないですか。できてる。フリはできますけど。ここで議論がありますよね。我々のところ。お前だってフリしてるだけなんじゃないのって言われるとそれは困る。分かんないですよね。こういうのがよくチューリングテストとかコンピューターには知能があるかとかドラえもんは心があるかとかそういう議論になっていくわけですが、我々は機械にまだそれがあるとは信じてないですね。
信じてる人もいるかもしれない。私は人と機械は違うのかっていうと多分違うんじゃないかなと今の段階ではまだ思ってますね。
一つには彼らには歴史がある必要がないから。突然AIっていうのはできてくるけれども、何かから生まれる必要って本当はないじゃないですか。つまり再現性がありすぎるというのかな。我々は再現性がないからかけがえがないと思ってるわけですよ。死んだらもはや取り返しはつかないんだと思ってるわけですよ。
欲打つポジションの理解
で、お母さんを殺してしまうっていうシンデレラの親殺しね。つまり歴史的ポジションの入り口にはこれがあるわけだとクラインは言ったわけですね。相変わらず彼女はストイックな人なんで、おっぱい噛んだらお母さんが怒ったと。この関係は終わったと。つまり失恋で絶望している感じなんですよ。
彼氏を怒らせてしまったら絶望的だと。この瞬間に後悔というものと私の責任、罪悪感というものがすべて始まるんだけど、ヨクスポジションの人のヨクスポジションに入りたての赤ちゃんのことを思っていただける分かるんだけど、全然それが安定しないわけですよね。だから絶望になってしまうわけ。
歴史的ポジションの入り口付近、あるいは突入したんだけども、すぐにPS的になってしまうわけですよ。お母さんが怒った、まずいどうしようみたいな。もう完全にPSポジションですよね。つまり私が怒らせたっていうことに対する気づきはあったんだけども、でもどうしようってすぐになってしまうわけですよ。
歴史性というものにまだ慣れてないので、私がお母さんを怒らせた、どうしようまではいけたんですよ、ついに。なんだけど、そのままパニックに陥っちゃうわけですね。すぐ元に戻っちゃうわけですよ。いいお母さんがいいのに、また悪いお母さんになったみたいな。混乱してるじゃないですか。PSとDが両方同時に来ているような混乱してるじゃないですか。
冷静だったら、恋人を怒らせた、あの時は申し訳なかった、まだ関係を続けましょうねっていう感じに持ってきるんだけど、ここで恋人が怒った、もうダメだみたいになってしまうっていうのは、突然また赤ちゃんの時のPSに戻っちゃってるわけですよね。
だから、私が怒らせたっていうところまでは行き着けるんだけど、だからもう全てはおしまいだになってしまう。この強烈な罪悪感と、ものすごい後悔の強さみたいなものがですね、統合しきれないわけですね。私が怒らせたんだから、私が責任持って修復させればいいんだ、にならないんですよ。
突然無力感が戻ってきて、せっかく私が怒らせたまで来たのに、私がだから関係を修復しようにならないんです。そのまま恐怖に陥ってしまって、妄想ボンネスポジションに戻ってしまうわけですよ。
これがつまり、欲打つポジションを確立できないという言い方をするわけですね。で、この辺のところに欲打つ的になりがちな方が、非常に後悔に苛まれやすいという心的な状態っていうのが、つまり欲打つポジションを知ってはいるんですよね、その人は。自分というものがあるわけですよ。
時の流れもわかってるわけですよ。赤ちゃんのようにガブって噛んじゃった、相手が怒った、だから僕も怒るみたいな、そこまで単純ではないわけです。そこまで今ここだけに生きてるわけじゃない。さっき噛んだのがいけなかった、私が噛んだのがいけなかったというこういう時間的な連続性というものを意識はできてるんだけど、その瞬間にああもうダメだみたいになっちゃうわけですよ。
これはでも僕らはしゅっちゅうなるじゃないですか。下手をすると。会社とかに行って迷惑をかけた、もうダメだ、居場所がなくなったみたいになるっていう方もいらっしゃるわけじゃないですか。これは欲打つポジションを知らないわけではないんだけど、まさにだから私はさっきですね、ウィニコットが正しいと思うんだけど、クライムはなどれない。つまりウィニコットが言う通り、それは歴史的経緯というものを知ってる人だからこそ言えることなんですよ。
大悪化。私の未来、私の居場所がなくなる。私が何かをしたから、ここまで、今日までは居られたこの場所に今後居られなくなる。すべて私の時間的連続について語れる。それぐらい記憶の統合というものが成熟している。が、突然、欲打つにドーンと突き落とされるという、クライムが言った通りの現象になりやすいんですよね。
ここで、いやいや、ウィニコット流に言うと、歴史的経緯があるんだから、歴史的経緯に沿って自らの力と責任で状況を修復していけばいいんですよと、ウィニコット流には健全な考え方ができるんだけど、実際にパニックに陥って、もうなんか部長超怒ってるから、私明日から会社休みますみたいになると、突然妄想分裂気味になっていくわけですよ。
まだ部長がどう思ってるかとか、全然確認してないじゃんとか、全部吸っ飛ばして、自分の投影がすべてになってしまって、もうなんか昔、近所の悪ガキに追いかけられたときの、すごい嫌な思い出と部長が被って、妄想的ですよね。
妄想というのはこの場合、空想ではないんで、いわゆるデリュージョンではなくて、パラノイックってことですよね。ものすごく被害的に。いわゆる被害妄想の妄想なんですよ。日本語の妄想って困るんですよね。妄想をたくましくするみたいな。
近所の女の子を見たら、その子とデートに行く妄想するの、妄想も妄想なんだけど、近所中の人たちが自分の悪口を言ってるという、もっと遥かに深刻な病的な妄想。こっちはパラノイアなんであって、デリュージョンとかファンタジーとは違うわけですよ。
日本語ではファンタジーみたいなものも、デリュージョンみたいなものも、イリュージョンみたいなものも、パラノイアも、全部妄想と訳すんで、この再自身による妄想、これが一番やっぱり大変ですよね。方向失調症に繋がるような妄想ですよね。
だから私は会社に迷惑をかけたから、もう来んなとみんな、上司も部下も同僚もみんながそういう目で見ているっていうこの妄想は、これはいわゆる迫害妄想の妄想、被害妄想の妄想で、これが妄想分裂ポジションの妄想ですね。
しかも分裂気味ですよね。私というものがもはや消滅しかけて、状況が悪くなれば悪い私、それはもう会社から退場しなければいけない悪い私ということになって、どこにも私の一貫性というものがないわけです。
これは同時に会社の一貫性というものも全く見なくなっている。会社はそんなことで人をクビにしないですよね。わざわざ取ったんだから。やっぱりここにあるのは歴史的経緯なんですよ。わざわざ取るために人事とかいろんなところが一生懸命頑張って人をやって泣いて泣いて取れるってことにすごくみんな喜ぶじゃないですか。
それは簡単に取れないという経緯があるわけですよ。簡単に取れない人を簡単にクビにはできないんですよ。いろんな事情があっていろんな人間関係がそこに投入されてきているという経緯がある。この歴史的経緯を思い出せというのがミニコットの言い分だし、入口付近で欲打つになると言ってるのがメラニ・クラインの言い分だと僕は思うんですよね。
だからいつもこの2人のことはこの話を考えた時には考えさせられるわけですよ。とにかく欲打つ的になった人は後悔する。それは自分がここまで頑張って築いてきた信頼とか人の信用とかを一切失った。
失ったというのは対象喪失ってことになるんですけれども、別に部長を失ったとかじゃないですよ。部長は生きている。部長がいるっていうことも知っている。つまり心の中の上司は存在する。なんだけれども昔のような関係は消失してしまった。だから対象、厳密に言うとやっぱり対象喪失というよりは対象関係論なんで対象関係喪失って感じがしますよ。
そこに自分がいることがもうできなくなる。それはあんなことをしてしまったっていう。ここで時間が止まるわけですね。歴史的経緯がここで途切れるわけですよ。続けようと思ったら私の力で何とか修復しようってなるんだけど、これがないわけです。これを考えることが非常に難しくなる心理ってのがあるわけです。そうすると後悔しかできないですよ。
後悔できればまだ良くてっていうこともあるんですけど、後悔すらできない心理ってのがこの先にあるわけですよ。ことが深刻になる。後悔というのはまだ時間的統合性を保っているじゃないですか。そして後悔というのはどこかそれを取り戻せるんだっていうニュアンスがあるじゃないですか。ニュアンスすらないのに後悔ってしないじゃないですか。
対喪失の影響
あの時ああしていればって考えるってことはいやまだ遅くないかもしれないっていう可能性に意識を向ける可能性が出てきますよ。これすら全くできなくなるという先進状態ってあるわけですよ。ひたすら絶望と無力感が残る。それすらも欲打つポジションなんだけどもはや自分というものがまるで機能しないわけですよ。対象関係が一切機能しなくなる対象関係ってのがあるわけですよ。
これが後悔なわけですよ。これどうにもならないことについて後悔しているとき、そしてどうにもならないときについて後悔しかしなくなったときにこの後悔すらできない心理ってものが生まれるんですよね。
私は思いますね。私だってそうきっとなると思うんですよ。妻子とかを今の段階で、まあ必ずしも私別とは限りませんよね。それこそあの他のなんかこう他の男が登場してそっちに家族ごと行きますよ。
あんたは家に残りなさいみたいなことをいきなり宣言されて実現してしまったら何がいけなかったんだろうって考えるじゃないですか。そして時間が止まっちゃいますよね。そこで時間を止めないでウィニコット流に頑張って裁判を起こすみたいな。裁判ってなんかこの場合何が取り戻せるんだそれって感じがするじゃないですか。
なんか裁判によって医者料とかが取り戻せるのかもしれないけど話が全然違いますよね。しかもこの種の医者料そんなに大金じゃないんで。生きていけんのかそれでって感じがしますよ。つまりこういうふうな目に合うと言ったりするんですけれども、
取り返しをつけようがないっていうあの時こうしてればよかったんじゃないんだろうかみたいなそういうことを考えたところで意味はないんだけどそれしか考えることがなくなってしまうみたいな。それが後悔であり欲打つポジションなんですよ。だから欲打つポジションっていうのは確かに歴史性というものがあの時こうしてればというのは歴史なんだけど歴史性ってものがあるんだけどそこに万能感というものが完全に入ってきているという意味で万能感ですよね。
あの時こうしていればって万能感じゃないですか。できないことをやろうとしてますよね。あの時こうするとかできないわけですよ。我々はタイムマシンに乗ることができない。過去を脳内で簡単に空想して出し入れするのは万能空想なわけですよね。これやってるってことは妄想分裂、妄想分裂気味じゃないですか。
妄想分裂気味ってことは欲打つポジションにいられないってことですよね。欲打つポジションに入れるんだけどすぐ出ちゃうみたいな。これが後悔する人の心理状態といったことが言えると思うんですね。そしてそれが絶望的であればあるほど後悔すらできなくなっていくと。そういうことが自分というものの力がすでに及んでないですよね。
あの時こうしていればってのは自分には絶対できないことじゃないですか。自分の力が全く及ばないと。これがですね、不意になくなったみたいな。不意にですよ。だから自分が知らない時にとかいうのも絶望的。そもそも喪失というものは絶望的なんですけれども。
この人がお亡くなりになるみたいな話というのの問題点はやっぱり自分ではどうにもこうにも全くできない。完全に自分の力を離れてしまう。だから本当はその人が責任を感じる必要はないんだけれども。でもこの人としてみれば、自分の力の源泉はそもそもそこから来ているという。
だからあの時々この番組でも話しますけど、母親の喪失というのが重大で、やっぱり母親対象というものは、マザーカミングと言っていた私のアメリカでショックを受けたね、あれは多分ドゴ市長だと思うんですけど、マザーカミング。
お母さんを待っているのと。お母さんはおそらくいないわけですけど、いらっしゃらないわけですけど、お母さんを待っているのという、これはお母さんが来るまでは私というものは機能しないんだという表明なんです。だからその人が無能だとかいうこととは関係ないわけですよ。全然。
その人が有能であろうと有力であろうと、お母さんが来て初めて機能するわけですね。赤ちゃんってまさにそうじゃないですか。ユニコットが言う通り、一人でいる赤ん坊ってのはいなくて、お母さんの抜きでは自分というものがないわけです。
自分というのはお母さんとセットなわけです。このお母さんが対喪失されてしまった場合、自分というものが喪失されてしまうので、後悔すらできない事態というものがそこにやってくるわけですよ。
で、ここを生き抜けというか、頑張ってワークスルーしましょうという、そのストリークが特にユニコットにもありますよね。メラニクラインにはもちろんあるんですが、この関係性が壊れたとしても対象が生き残るとか、私は生き残るとか。
結局そういうことですよね。私はいろいろと失って、会社での信頼とかも失ったけどなお、例えば転職するなりして、私は生き残るっていうことができたときに欲打つポジションのワークスルーというのができるんだと。
過去は書き換えられないし、罪悪感もあるんだけれども、でも罪悪感があるというのは良いことなんだと。つまりそれは私があるというのは良いことなんだというふうに、私が存在することの意味というのを肯定し直すみたいな感じなんです。
パニックに陥ってしまうということは、私を投げ捨てるってことになるわけじゃないですか。状況が悪くなったから私も悪くなった、さようならってことになるってことは、つまり私を投げ捨てるってことになるわけですよ。
自己の一貫性の考察
再び妄想分裂ポジション、つまり妄想分裂ポジションっていうのは、私というものが私である理由がほとんどないわけですよね。
妄想分裂というのは、良いおっぱいの時は良い私、悪いおっぱいの時は悪い私、良い環境の時は良い私、悪い環境の時は悪い私なんだから、環境の通りに自分が動いていってしまうので、環境だけで良いことになってしまうわけですよ。
私というものがあえてそこにある必要がなくなるんですよね。
そうじゃなくて、私というものは一貫してあるんだという主張、少なくともある程度の期間は一貫性を保っていられるんだという主張。
僕が思うに一日保っていればまあいいんじゃないのって思うんですけれども、とにかく一日ぐらいは一貫していられるんだという、そういう私がいるってことの意味。
だから絶望しきっていたんでは自分で自分がいる意味があると感じられないじゃないですか。
辛いだけだってことになってしまう。
だから喪失というものの上で、喪失はもう取り戻せませんから、喪失というものの上で、でも私が生きていることには意味がありますっていう感じを保ってられるようにワークスルーしましょうと。
ストイックじゃないですか。
ここで感謝というのが出てくるわけですよね。
これもストイックです。
お母さんは失われたが、そのお母さんが自分を生んでくれたから自分は今ここにいて、例えば私は母親の喪失を悲しむことができる。
それには意味があるんだって感じるっていうのはかなりの成熟性を要求されますよね。
子供にはかなり難しいですよね。
だからこそ子供というのは、母親の不在という時になった時にですね、非常に妄想的になっていく。悪害妄想的になっていく。
死んじゃダメじゃんって思うわけですよね。
だってまだ私全然大人になってないのに、先に死なれたら困るでしょ。悪害的ですよね。
赤親が好きで死んだわけじゃないから、好きでいなくなったわけじゃないから、この亡くなったというのがやっぱりそこに非常に複雑な問題を感じさせるわけですよ。
いろんな課題があるわけじゃないですか。亡くなるということは、いなくなるということには。
その人の事情があったことは間違いないんだけれども、子供にしてみればその人の事情より自分の事情が優先されるべきでしょ。
まだ子供なんだから。
だからどうしてもここのところで感謝をしましょうと言われても、私もあれをだから読んだ時、無理な要求だと思うんだけれども、
でも他にできることがないよねってことなんですよね。
だって悲しめるということは生きているということなんだから、不在が悲しい、不在が苦しいっていうのは全部生きている場合の話だから、
だから生きていることがいいと思うんだったらば、生きることになったきっかけに感謝しましょうっていうのは理にかなってるわけですよ。理にはかなってるわけですよ。
で、ここで理不尽な話が必要になるんじゃないかと、でも私はずっと思ったんですよ。
感謝するのがベストだが、感謝できないだろうという話がいくらもあるでしょうという話ですよ。
だから、例えばですね、これがもう少しマイルドな話で彼女ができましたと。
僕のような人間は3桁以上に反られた後でできるからすごい万々歳じゃないですか。
で、いやその彼女がいなくなりました。なんならもう他の男のところに行っちゃいました。
感謝しろっていう話ですよ。できないじゃないですか。
なんで感謝しろっていうことになるのかというと、例えばウィニコット流に言うとですね、なんでそこまで悲しいのか。
素晴らしい彼女が付き合ってくれたからでしょうってこういうことなんですよ。
所有できたものしか失うことはできないでしょう。
つまりそれほど悲しいということは、それほど幸せだったということじゃないですか。だから彼女に感謝しなさい。
っていう話なんですよ。納得いかないですよね。しかし、納得するしかない話なんですよ。
もちろんこれが恋愛関係ならばもう1回頑張って取り戻しに行くっていう、これもまたできますよね。
つまりいわゆるデスパイヤーだけ、絶望だけに行く必要はなくて、だからこれが歴史的経緯が続けられるかどうか。
というふうに思えるというのはやっぱり彼女が素晴らしいからでしょうって話になっていって、だから感謝しなさいねってことになるわけですけれども。
その時に自分が結局ここのところって自分の力が信じられるかどうかみたいな話なんですよ。
しかしですね、ここで自分の力を過剰に信じる奴って一歩間違うとかなりヤバい人になっちゃうんじゃないですか。
僕はなりかけた、しょっちゅうなりかけてるんですけど、あれですからね。僕が大学時代とか本当危険なところがありましたから。
ある種の女性が職権買ってきてくれたとかになるともうあっさり恋愛に落ちていきますから僕は。
だからもう一歩間違うと本当に危ない人だったわけですよ。
機会があったら謝りたいと思ってるんですけど、別にその機会を作ってまで謝ろうと。
この機会作ってまで謝ろうとする人ってやっぱりなかなかちょっと怖いじゃないですか。
で、私は身に覚えがある方なんで。
良かった、なんていうのかな、とことん行って発狂せずに済んで良かったみたいに思わなくはないんですけどね。
今は一応正気な顔をして喋っておりますから。
でも半分気が狂いかけてたなぁと、あの時は。
しかもなんか年間位で気が狂いかけてたなぁと思わなくもないんですけれども。
まあまあ。
そうそう。つまり何が良いか。
そうまでして自分の力を信じるというある別種の万能空想があるんですが、ケースによってはそれってうまくいけるじゃないですか。
だから一期一会って本当に大事なんですよ。
一期一会ってのはこういう場合すごい大事なんですよ。
その現在に全力を尽くしなさいと。
一歩間違うと、いや、私はそういう経験ないですけどね。
自分が恋愛していたあの女の子を略奪されましたが、私は取り返すことができる万能な力を持った男ですって思うっていうのはかなり危険じゃないですか。
それも凶悪にって言うならまだわかるんですよ。
凶悪にって言うなら1年かけてでもとか100年かけてでもとか非常に危険な雰囲気になってきますよね。
つまり非現実的ですよね。
つまり理不尽ですよね。
理不尽に失われたものは理不尽に取り戻す力を自分に信用するっていうこの過剰な自己信頼みたいな。
つまりナルシシズムですよね。
万能空想まっしぐらですよね。
しかしですね私はそういう気持ちになりかけてたからよくわかるんですよ。
つまりこれが私はものすごく突然なんですが先日そういう空想をしたからまさに空想なんですけどしたから恋愛じゃないですよ。
あの空想したからこの話をしているわけですけど一気にここでユングに飛ぶんですよ。
クラインだとカズチャとかミニコットだと大将を殺したね。
いや大将僕は君を破壊したよ。
でもあのあなたは生き延びたんだねみたいなそういうわけわからん話になっていく。
でもそれはすごい正しいですよね。
会社でよくやるじゃないですか。
うわもうなんか絶望的な会社に損失を与えてしまった。
辞経を出しますみたいなそういう話になるけどなんかよくやってるじゃないですか。
昭和のドラマですけどね。
君の今回のなんとかはちょっともう言い訳できない。
しかし君はこの会社に残る覚悟あるかみたいなやってるじゃないですか。
あれですね。
あれはなんか臭い芝居みたいになっちゃってますけどでもリアルにやるとなるとやっぱりああいうのって結構大事だと思うんですよ。
感謝するでしょそういう時会社とかに。
まあこれね下手をすると政治利用みたいになっていくなってよく思うんですけどね。
明らかにありますよねこの種の政治利用ってね。
もうこれ野党だったらないってことはないですからね。
あの真逆になっても左右真逆になっても全く同じことやりますからね。
なんかこう人民のために自らが犠牲になる覚悟あるかみたいなことやるじゃないですか。
全く変わらないですよ。
でも何て言うんだろうな。
その理不尽さっていうものを乗り越えるためにはやっぱりある種の理不尽な力の発揮みたいになっていくわけですよ。
そうすると俗に言うところの今の話って個人を超えるみたいな話になるじゃないですか。
そうすると母親を失いました。
母親大使を取り戻せません。
なぜならタイムマシンには乗れないからです。
これは理にかなってますよね。
だからあなたがそういう悲しみという深い気持ちを持つことができるようになったのは生きてるからだから、
生誕に最も関わってくれた今は亡きお母さんに感謝しましょうっていうこの話は野の医者は笑うでも結局のところはみんなやってるのはこれに近いなと思わなくはないんですけどね。
一線越えてないだろうと思うんですよ。
でもここで一線越えていくわけですよ。
だから僕はユングという精神力堂の世界では、だからあそこのセリフはあのなんだっけ。
世代を超える感謝の探求
東方カイトさんあの人ユング派のはずだったと僕は思う。
ユング派の精神力堂だったと思うんですけど。
ああいう方がですね。
いや自分は正規だから一線越えてませんっていうのは皮肉な言い方だなって思うんですよね。
またよし博士でしたっけ。
一線を越えてしまっている。
いやでも一線を越えたのはユングじゃないだろうかと。
でそのユングの末裔ですよね東方カイトさんは。
あのかわいはやおさんもそうですけど。
そのかわいはやおさんの再来みたいな感じがこの再来ということを僕は最近よく意識するようになってるわけですけど。
再来ってタイムマシンじゃないですか。
つまり何が言いたいかというと。
クラインの場合感謝。
ストイックに感謝。
で私は人間というのは人間の生き方としてそれが実に真っ当だとは思うんですけれども。
でもさっきも言ったように。
彼女がまあ取られちゃいましたぐらいの時でも結構人間理不尽になって。
理不尽万能空想でなんか事態を打開しようとしちゃうわけですよ。
その時自分に対する過信があるわけじゃないですか。
この過信をもう一段膨らませてみましょうというわけですよ。
それは世代を超えるということになっていくと思うんですよね。
母親というのはつまり自分より1世代上ですが。
よく私3ヶ月チャレンジで話をしていると思うんですよ。
知らず知らずのうちにやっちゃいけないのかもしれないんだけど。
その人の分析を超えてその人のご両親の分析みたいになっていくわけですよ。
でもこれはね僕精神分析では絶対やると思うんですよね。
例えばこれだってもそうですよ。
お父さん横暴で酒ばっかり飲んで本当大変だったと。
最初はそういうお父さんに対する心的現実を分析しますよね。
その時お父さんが酒ばっかり飲んでいてあなたはどういうふうに思ったんだろうねみたいなそういうことをやっていくわけじゃないですか。
ちょっと今の作りすぎましたけどどういうふうに感じたんでしょうみたいなことをやっていくわけじゃないですか。
でも時々出てきますよやっぱり結構退化の方のでもお父さんも寂しかったのかもしれませんね。
これはお父さんの分析になってるわけじゃないですか。
お父さんも寂しかったのかもしれませんねというのは
お父さんもマザーカミング。
母はお母さんを待ってるのをやってるのかもしれない。
三世代に行き渡りましてねこれで世代を超え始めました。
世代を超え始めるということをやってるということは
お父さんはお母さんを取り戻そうとしてるんじゃなかろうかみたいな話になっていくわけですよ。
後悔というものをもっと前へ前へ前へと持っていくわけですよ。
完全にある意味祖先信仰というのはオカルトに近いかもしれませんが宗教活動ですけど
祖先信仰というものは結局母親大将のさらにその母親大将といったものへ向かっていってるわけじゃないですか。
母に感謝するのみならず先祖に感謝しましょうっていうのはやや暗い世を超え始めてるじゃないですか。
つまりそこにユング的なものって出てくるじゃないですか。
ユングは集合的無意識って言ったじゃないですか。
もうお父さんとそのお母さんの関係、つまり自分にとっての祖母の関係、
私の父と私の祖母の関係がどうだったかっていうのは明らかにもう絶対わかんないことですよね。
神的現実もヘッダクリもないですよね。
さらにそのおばあさんもお母さんが大坊だったんじゃないだろうか。
わからん話になっていきますよね。
ユングの集合無意識
そういう話聞いたことがあるということがあったとしても、誰から聞いたのか本当だったのかどうか。
ここで神的現実っていう言葉が出てくるんだけど、
その神的現実がさらにいわゆる集合的な神的現実になっていくんですよ。
だからユングは集合無意識って言ったと思うんですよね。
集合無意識っていうことになってくると大雑把になるしかないですよね。
みんな人類はお母さんが好きなんだよみたいな話になるしかないじゃないですか。
集合の無意識ですよね。
みんなお母さんをやっつけたくなって、やっつけた後後悔して、みんなが親を亡き者にしたいと思い、
しかし亡くなったお母さんの霊を弔うんですよみたいな話になってくると、非常に宗教意識的になっていきますよね。
そういうことを先日ふと空想したんですよ。
クラインでは絶対言ってはいけないようなことを自分がすごく言っちゃっているという、ユング的ってことになるわけですよ、その時には。
だから欲打つポジションを乗り越えるために恋人を取り戻しますっていうのすらもやばい人のやばい空想になりかねないんだけど、
亡くなったお母さんを生き返らせます。シンデレラの世界なんですけどね。
そしてママ母がやってくる。これは死んでないってことなんですよ。生きてるから掃除しろっていう厳しいお母さんが登場してるんですよね。
でもこれを甦らせるっていうことを本当にやり始める。確かに亡くなっているのに。
この場合私は確かに亡くなっていることをお墓に行って確かめるべきだと思うんですけれども、それも嫌だと。
だってそうしたら確実になってしまうから、それも嫌だと。
そういうことになった時に、甦らせようという話になった時に、世代を越えていくしかないじゃないですか。
3世代前とか4世代前とか、そういう話になって、つまり祖先って話になってくるじゃないですか。
しかし私たちはよくそれやるじゃないですか。
祖先の霊が私を守ってくれているとか、これはつまりお母さん甦ってるってことじゃないですか。
対象としての母親が甦ってるってことになるわけですよ。
さっきも言いましたが対象関係を蘇らせるのが大事なのであって、対象そのものを蘇らせることが大事なわけじゃないので、
欲打つポジションの確立
そうして経緯というものをもっと深くというか時系列の射程を長くして、
そうすると集合無意識みたいなものが出てくるよりほか無くなるわけですよね。
人類とはそもそも、人類にとってそもそも母とはみたいな、そういう話になっていって、
お母さんが私を守ってくれているんだみたいな話になっていくわけですよ。
昔なんかの小説読んだんだよね。
私は娘に母の面影を見てから、私は自分がちゃんと正気でいられるようになったんだみたいな。
これって娘さんには全然関係ない話ですよね。
でも娘に母の面影をとか、娘に祖母の面影をとか、みんな言うじゃないですか。
私でも言ってたもん。そういう話みんなしますよね。
結構言われた方もそんなにめちゃくちゃ嫌な、めちゃくちゃ嫌な場合もあると思うんだけど、
めちゃくちゃ嫌とは限らないじゃないですか。
私なんか結構いい気分になってたりしたわけですよ。
これは面影を見るぐらいなら結構健全に機能すると思うんですよ。
娘に祖母の代わりをさせるとかになってくると、ボタンに異常に病んでくるんだけど、
つまりこれって万能空想ですよ。人類の万能空想ですよね。どう考えても。
だってそんなはずないじゃないですか。ある意味では、物理法則的に言うとそんなはずはないじゃないですか。
DNAとかなんか言ってもいいんですけどね。
つまりそういうふうにして、母親がまた娘としてやってきてくれたんだみたいな話をするということは、
これは万能空想だってことだと思うんですよ。
だってできもしないことをできるって言ってるわけですから。
出し入れ自由ってことになっちゃってる。時間が過逆性を持ってしまってるわけじゃないですか。
娘は娘であって、世代は前へしか進まないはずじゃないですか。
世代が逆戻りするっていうのは間違いなくタイムマシンであって、万能空想なんですよ。
あいつと別れる前の状態に戻ることができればっていうのを極限させてるわけですよね。
さらに射程を長くして。
そうなってくると、ユングなんですよ。
私はその空想をした時に少なくとも思ったこととして、ユングがいてよかったなって思ったんですよ。
つまり僕はその時にすごく不安になっていたわけですね。
3ヶ月チャレンジってこれでいいんだろうかと。
結局のところ力度へ力度へと向かってるわけですよね。
ユングがいてよかったななんですよ。
決してエリスがいてよかったなって思った瞬間が、
すみません申し訳ないですけど、別に僕はCBTに恨みがあるわけじゃないんで。
スキナーがいてよかったなとか思ったことがないんですよ。
3ヶ月チャレンジにおいてはね。
いや別にいいんですよ。何であってもいいんです。将来思うかもしれませんしね。
でも今のところハーパーがいてよかったとかベックがいてよかったとか全く思ってないんですよ。
いや思ったことがない。
フロイトがいてくれてよかったとか、クラインがいてくれてよかったとか、ミニコットとかビオンとか一時思うんだけど。
感謝してるわけですけど。
そしてユングがいてよかったって感謝したわけですよ。
ユングという方は一線を越えてると思うし、非常にいろいろ問題がある方だったと思うんですけど。
でもやっぱ、心の底からいてよかったと思ったわけですよ。
僕じゃあああいう発想は考えつかない。
使徒再生だとか、ライチの母だとか。
そういう発想は僕にはやっぱりちょっと足りないと思うんですよね。
ライチの母って明らかに万能空想じゃないですか。
地は植物を確かに出しますけど、すべてを生み出しますけれども。
そういう母は永遠じゃないですか。
つまり失うことのない対象じゃないですか。
これを対象とすることができるならば。
こういう風にしてヨクウツポジションを確立していくということはですね、実に宗教的ですよね。
でも宗教に行く前にユングがいるわけですよ。
だからここで実に宗教的っていう発してしまう前に、実にユング的っていうことができる。
これがユングがいてよかったなんですよね。
ここが実にクライン的だとは全く感じない。
大地に感謝しなさいって何かクラインが言いそうにないっていうか。
もちろんクラインが大地に感謝してないとか言うわけじゃないですよ。
でも臨床の場で彼女はそういうものに頼ろうとはしないと思うんですよね。
僕はやっぱりそっちのことをずっと考えてるんですよ。
ユングにならずに済む方法はないのかと。
あそこまで行ってしまうと、やっぱり転移性恋愛から愛人とかややのほうずになるわけですよね。
人間の限界というものを拡大してるんである意味。
拡大するということは低欲無視するということでもあるんで。
自分に都合よく解釈するということでもあるんで。
大地は母親じゃないだろうっていうことですよね。
大地は人間のためにあるわけじゃないだろうと。
人間もっと人間の世界の人間の生きてるところだけで、
つまり文明で頑張れっていう話になるとストイックになるわけですよ。
文明的になると祖先信仰みたいなものってやっぱり批判されるじゃないですか。
なんか祖先に頼ってる前に株式チャートちゃんと見ろみたいな話になるじゃないですか。
わかるとやめろってことですよね。
宗教とかに頼るのは心の弱いやつだみたいな。
でも一方で、なぜ一流のなんとか成功した人は神社に神社巡りをするのかみたいな方が
20万部とかあっさり売れたりするのも現代文明的ですよね。
非常にそうだと思うんですけど。
新しい製品とか出ると寛主さん呼んできてお祓いとかしてもらえますかね。
リコール出ませんようにみたいな。
すっげー煩悩的な祈りだと思うんですけれども。
つまりでも欲打つという話から始まりましたけど、
ここまで拡大する欲打つというのは結局後悔というものと関係があり、後悔というものはですね。
祖先へ祖先へと巡れば巡るほど、実は乗り切ることができるわけですよ。
だって祖先はもうOKじゃないですか。
死死存存まで続きますように。続いてるんだから。
その人の人生がどういう人生であったとしても、死死存存が生きてるんだったらそれでいいじゃないですか。
という気持ちになれるんだったらば、欲打つポジションが確立しているし、ワークスルーできてるんですよ。
ただ、一戦を超えてしまってるわけです。
一戦はつまり、一応僕が思う2世代ってことだと思うんですよね。せいぜい3世代。
話の筋が終えて確認ができるレベルってことだと思いますよね。
おばあちゃんはそう思ってましたか。
これだって相当怪しいもんですけども、思ってたか思ってないかは確認が取れる事項じゃないですか。
そこがたぶん一戦だと思うんですよね。
6世代前の祖先はこう思ってたんだっていうのを突然言い出すっていうのはですね、どこか一戦を超えてるわけですよ。
それはお前の勝手な言い分だろってことにあまりにもエビデンスないだろう。
ただし元々、ユングのような精神力度にエビデンスがそもそもあると言えるかっていう、彼が書いたマンダラに何のエビデンスがあるのかと。
大型カイトさんが象の花がブランブランってなってる夢みたいな。
それがペニスを象徴している夢だっていうことを自ら語った患者さんのような話をされていて、
それは集合無意識というものが個人の夢の中に現れることがあるんだっていう話として、
なんとかエビデンスを取ろうとしているある種の努力だっていうのはよくわかるんですけど、
私も港側人、沖縄の一番最初に住んでいたような人たちですって、2万年前かな。
その話を見たときに、食卓の横にお墓はあるし人骨が出てきたからね。
小乳洞の中におっぱいみたいな小乳洞と、それが要するに女神と拝みを拝む場所だったわけですよ。
タッパチンチンみたいな小乳洞っていっぱいありますけどね。
確かにそういう形であり、しかもやたらでかいわけですよね。
間違いなくそういうものは我々は崇拝の対象にしますよね。
それは生きてることは良いことだってことじゃないですか。
しかもなくならないですよね、小乳洞は。
廃墟を喪失せずに済みますよね。
お父さんとお母さんは永遠にいるんですっていうことですよね。
だから後悔しなくていいんだよってことになるわけですが、
あそこはやっぱりユング的で、ユング的と言わないと宗教的というしかなくなるわけですよ。
宗教的な視点への言及
非常に原始宗教とか言われるアミニズム的な世界って感じが、
つまり具体象徴の世界なわけだと思うんですけど。
でもそこに時間的経緯が、時間的経緯がなければ、
あれがお父さんだとかお母さんだと思うこと自体がおかしいじゃないですか。
昔からいたんだよって言ってるわけですよね。
その昔っていうものを肯定すれば、今の自分を肯定するしかないでしょうっていう、
結局はどことなくクラインに戻ってきてはいるんだと思うんだけれども、
その途中に入ってきているものが、やっぱりここまでの力を借りれば、
欲打つポジションが確立しやすくなると。
そうすれば、折り返しがつかない。絶望的だ。
私自身の存在を呪うみたいにならずに済むっていう、
臨床でどう生かすのかはまだちょっとよくわかんないところもあるんですけれども、
そういう話なんだなということを、昨日、裏意識で考えてたわけですよ。