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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
3月8日、金曜日、朝7時35分です。
まあ、首都圏で雪が降ってるとか降ってないとかいう、まあ、降るとか降らないとかいう天気予報が昨日あって、なんか今年はなんつうんですかね。
毎年のことなのかも今知れませんか。
暦から少しずれてずれてくるような感じってありますよね。
なんかこう1月になってもあったかいけど3月になると寒くなるみたいなね。
でも暖冬なんでしょうし、全体的に気温は上がってるんでしょうけれども、なんかそういうこう、後ろに後ろに来ている印象を人が持ってる。
でもこれって変ですよね。全体的にずっと後ろに来続ければ、ただ季節全域がずれていくだけで、
結局元に戻っているはずですけれども、元には戻ってないわけだから、暑くなってるわけだから、
暑くなると後ろにずれている感じを抱くのかなという、これはもう何にも考えずにただふっちゃべった話ですけれども、
僕はちょっと温暖化とかはわかっていませんから、どうしてなってるのかというのをずっくりと読んだりしましたけどね。
まあまあそんな感じで、これから暑い季節がきっとやってくるんだろうなと。
ここの番組撮るのにもですね、今ストーブなんかつけてますけど、ネックに凍らせているやつ。
これは暮らしのけぞうさんの番組で知ったんですけどね。
首に巻いてやったりするんだろうと思いながら、まだまだちょっと先、でも結構いつ来るかわかんないですからね。
5月とかめっちゃ暑くなったりしますから急に変わるんだよなと思いながら、
なんとなくこの番組もいよいよ1000回が見えてきたかなと。
999回になんとかして鉄道か宇宙関係の人と喋りたいとは思ってるんですけど、
鉄道関係者も宇宙関係者も私、NASAとか知り合いが一人もいませんからね。
そんなことは誰も希望してないって思われるかもしれない。
あと宮沢賢治さんとかね、ちょっと考えたりしてるんですけど、
777は暮らすのけぞうさんと、暮らすのさんがスロット大好きというお話があったから、
昔の話ですけれども、あったから777はいいかと思って、暮らすのさんちょうど777回にお呼びしたんですけど、
あとはもう999ですよね、当面はね。
999になったらまた番組名を変更しようかぐらいに思っているんですけど、
これも何も考えておりませんので、めんどくさいっちゃめんどくさいので、
あまり意味もなく番組で名だけ変えるっていうのもどうかと思うんですが、
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そんなことを考えつつ、最近いろいろと忙しくしております。
主にJさんが帰国されてるんで、このタイミングで動かなかったらいつ動くんだ、
ぐらいな感じなんで、彼ドイツに行ってしまうと早々日本には戻ってこられなくなりますからね。
しかもなんか私全く少しも知らなかったんですけど、ドイツって今ストライキ騒動で大変みたいですね。
ヨーロッパのストライキってすごいらしくて、
日本でもね、私が子供の頃はですね、国鉄一世ストみたいな、すでに国鉄そのものがありませんが、
大変な目にあったり、僕もしたことはあるんですよ。
こういうものなんだっていう、あれ経験しといてよかったですけど、
まあこういうものなんだなっていう、なんでここから僕ストライキが、
例えば革命につながるから国が警戒するとか全然わかってなかったんですよね。
どうして、ストライキはストライキじゃんぐらいに、
まああの日本のはそんなね、すでに私が経験したのは物騒なものでは全くなかったんですけど、
なるほどこれは何かが起こり得るほどのものだみたいに思いました。
もう私の乗客の人とかでも、僕東武東上線に乗ってたんですけど、
めっちゃ怒鳴ってて凄まじかったですからね。
めっちゃ怒鳴ってましたね。
何をどう怒鳴ってたのか覚えてないんですけど、
覚えてないんですけど、もうすごいめいめいに怒鳴ってることが結構まとまりがなくて収集つかないなって感じの、
その中で僕はちょっとビビりながら頑張って電車に乗って、
でももうぐちゃんぐちゃんになってですね、
当時高田の婆とかに向かってたんですけど、
もうそれは高田の婆駅がこう何巡ですかね、駅の郊外に出ちゃうんですよね、全体的に。
人がぎっしりになってしまって。
いつ電車乗れるんだよっていう感じで、
ていうかなんでこんな日に自分は中学校行ってんだろうと思ってたんですけどね。
今ならばノーノート休むんですが、私は当時は結構まだ気まじめだったんで、
ノーノート並んでいて、でもやっぱり経験しといて良かったなと思います。
これはやっぱり暴動とか起きてもおかしくはないみたいには思いました。
自分の子だと休ませちゃいますけどね。
そんなことを喋ってるだけで5分経過して、
今日はしかも短くまとめようとしているんですけど、
久しぶりにですね、本当の自分というものについてちょっと喋りたいなと思いました。
これもウィニコットの用語、本当の自分が用語かっていうとね、
しかも英語でもトゥルーセリフとかだしね、
非常に一般用語的すぎて、環境としての母親なんてのはね、
まあ普通には絶対使わない言葉だと思うんだけど、
本当の自分となってくると、これはどう考えても普通の言葉だなって感じがするんですよね。
これは非常に重要な概念だと私は思うんですよ。
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で、ちょっとね、面白い話になるかどうかは分からないんですけども、
我々はですね、本当の自分だけでは生きていられるようにはできてないんですね。
本当の自分だけで生きていられるならば、
自分は分裂して絶対しないと思いますし、
長時間みたいなものも登場する余地がなくなってくるとは思うんだけど、
そうはならないですよね、さすがにね。
初めて会ったというか、必ずしもね、どう思っている。
例えばほら、今回も出版記念パーティーというところに行ってもですね、
そういうところに行けば、皆さん私たちの本を褒めてくださるわけですが、
みんながみんな本当に褒めてくれているかどうかは、
これはもう出版記念パーティーとかにしょっちゅう行く人であれば、
口をついて出るぐらいになっていても不思議はないわけですよね。
こういうところに本当の自分という概念が大事になってくるわけです。
で、出版記念パーティーに来て称賛するみたいなのは
割と本当にやってられるわけですけれども、
ああいうところに行くと疲れるっていうお話ってあるじゃないですか。
ここに偽りの事故っていう概念が登場すると私は思うんですよね。
出版記念パーティーは今の例としてはふさわしくないので、
ちょっと切り替えましてですね、
例えば夫の実家に行くのが嫌だみたいな、
これは本当に嫌なんですよね。
例えば夫の実家に行くのが嫌だみたいな、
これはもう普通にどこに行ってもしょっちゅう聞く話ですよね。
ここに偽りの事故というものが大活躍をすると何が起こるのかというのを
よく示している実例があるわけですよ。
偽りの事故を全開で行くと疲れるわけです。
まずこれはもう確実なんですね。
たぶんそれは本当の自分というものには、
フロイトの言葉を使っちゃえば、
リビドが非常に動きやすいわけだと思うんですけど、
本当の自分じゃないとなってくると、
やってられないわけですよ、一言で言うと。
このやってられなさが夫の実家に行くのが嫌だとか、
両親に会うのが嫌だっていうのを一番よく示している話だと思うんですね。
これもなぜなのかは分かりませんけど、
精神分析の実例って出すと決まってジェンダーが引っかかってくるんですよ。
これは当然なんだけれども、
私はこれをジェンダーで見るのは当然だと思います。
だから逆なんですよね。逆ってことはないか。
ジェンダーは精神分析だと私は思うし、
精神分析はジェンダーだとは思うんですよね。
あとはどっちを重点的に見て、
どうアプローチすることがこの場合望ましいのかを、
ケースバイケースで考えていくと臨床ではそうなっていくと思うんですよ。
ジェンダー心理学みたいなのも当然アメリカにはあったし、
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そういうカウンセリングもあって当然だと思うんですよね。
こなれた人は両方同時に考えると思うんですよ。
精神力度で考えつつジェンダーを考えたり、
ジェンダーで考えつつ精神力度も考えたり。
それに決まってると思うんですよね。
最近ちょっと難しめの本でちょいちょい読んでる本があるんですけど、
精神分析と愛着理論みたいなのがあるんですよ。
これもそういう重層的なものを、あとはどう見るかですよね。
ウィニコットはこう言ったが、ジョン・ボールビーはこう言ってるけど、
ここのところどうなのみたいなのをかなり細かく細かく追ってる本で、
大変刺激的なんですが、大変学術的で部分的に退屈で、
読んでて疲れるのでそれこそちょいちょい読んでるわけなんですけどね。
どこもかしこも楽しいだけにはいかない本なんですよ。
ただ急に面白くなってくるっていう感じの本なんですけどね。
絶対こういうのはありますよね。
ボールビー的に見るのが、つまり愛着理論的に見る。
昔これはアメリカの本当にビデオで見て、
適面な結果をビデオで見せてるなみたいに、
全部が全部はならないだろうけど、
幼児とストレンジャーっていう有名な実験があるんですよね。
最初お母さんと一緒に部屋に入ってくる。
次になんかちょっとね、いかにもアメリカのなんだけど、
見知らぬヤバそうな感じの悪いおっさんがその部屋に入ってくる。
幼児はこの時は全然あんまり気にもしない。
で、その幼児がですね、
だんだんお母さんとただ一緒にいると退屈になってくるんで、
その部屋で勝手に動きもはまって、
という感じで行くんですけれども、
その時お母さんも一生懸命振り返ってるわけですよね。
で、お母さんがいるなと思ってニコニコしているときは大丈夫なんだけど、
不意にお母さんいなくなるんですよね。
幼児はもうお母さんの方を振り返らずにいるもんだと思って、
そこら中歩き回っていると、
お母さん不意にその間姿を消すと。
で、この時幼児はどうするかっていう、
全く気に留めないこと、めちゃめちゃ泣き出すことにて、
で、お母さんが戻ってくると泣き止むっていうのが健全とされるわけですよ。
お母さんが戻ってきても、え?とも思わない。
これなんかあるよねっていう風に普通は考える。
で、逆にお母さんが戻ってきても泣き止まない。
これはこれでちょっと問題だよねみたいなそういう話。
それが将来大きくなった時、
どれぐらいそのお母さんが、
その子の人生に影響を及ぼしているかを追跡調査すると。
アメリカこういうのすっさまじいですからね。
なんかもう3000件の調査をしたみたいに平気でやりますからね。
なんかやんなよみたいな感じもしなくはないんですよね。
アジア人的にはね。
いつもそうなります。
入学生と話していて、
アジア人とアメリカ人、ヨーロッパ人の意見が大きくこの辺で分かれるんですけど、
いやもう土中石調査素晴らしいよね。
1万件でデータベース取るべきだよねみたいになるのが、
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欧米系なんですよ。
で、アジア人はいやなんかこうそこまで徹底調査するのって、
感覚的に合わないねみたいなのをするのが大体アジア人なんですよね。
あの、若くはないんですよ。
面白い調査だなと思うんだけど、
もう大変危険なものを感じるわけですよね。
やっぱりこうね、
アメリカ人とかヨーロッパ人とか、
やっぱりこうね、
その時泣き止まなかった子には、
やっぱりやばいからこういう薬を断続的に飲ませておこうよみたいに、
割と平気で展開するところが、
あの、かの国の非常に面白いところでもあり、
興味深いところでもあり、
ちょっと不安にさせられるところでもあるわけですよね。
やっぱね、アジア人の人たちは、
心理学科であろうとなかろうとそういうのに対して、
なんか抵抗を示しますね。
そうは言っても様々じゃんみたいなことを割と、
そこをアメリカの人たちは感心してくれるんだけれども、
我々にとってはもう、
みんなが自然にそう感じちゃうっていうところもあるんですよね。
弱みでもあるし強みでもあるみたいな、
そういう感じが留学でディスカッションする度に思いました。
あんま関係ないんですよ、何人かっていうのは。
国はね、タイでもベトナムでも、
中国でも台湾でも韓国でも、
日本でもみんな一様にこの反応を、
なんとなくその発想は、
人を不安にさせるところがあるみたいになるんだけど、
割とイケイケドンドンなんですよね。
もっと徹底調査しようみたいに、
他の国ではなるんですよね。
面白いなっていうのはありました。
で、この話って、
ボス愛着理論の超有名なやつの、
いろんなバリエーションがあるんだけれども、
ヤバそうな人がめちゃくちゃヤバそうだったり、
あるいはニコニコしているけど、
油断のならない女の人だとどうなるかとか、
そもそも人がいないとどうかとかね、
そこにあるのはおもちゃだった場合がどうかとか、
いろんなバリエーションがまあまあ、
実に豊かにありました。
で、それをいちいち全部読んでは、
レポート欠かされるという、
それも英語だからすげえ辛かったんですけど、
それはいいとして、
これをユニコット的に言うと、
やっぱり環境としての母親で見るでしょうね、
当然ね。
結局そこに、
お母さんいなくなってもいると思い込んでいる幼児ってのは、
まさに環境としての母親に守られているというか、
一体化しているというか、
いるわけですよ。
いないんだけどね。
実体としての母親はいないんですよ。
でも環境としての母親はいると。
で、ふっと振り返ったら、
いなかったって言った瞬間に、
環境としての母親はなくなるわけですよ。
対象としての母親。
で、環境としての母親は、
なくなるわけですよ。
対象としての母親。
それすらそこにはいないんだけど、
対象としての母親がいないってことに気づくみたいな、
そういう不在の罪みたいな話が出てくるわけですよね。
当然それはトラウマの契機になるみたいな言い方。
現実に遭遇しちゃうわけですね。
で、私たちだってですよ。
結局、
本当の自分というものを、
15:00
こういう時に、
幼児の場合はギャン泣きするとかでね、
本当の自分があるわけですよ。
でも、
幼児にギャン泣きするとかでね、
本当の自分が現れるわけだけど、
幼児に。
我々はギャン泣きできませんよね。
だから、偽りの自分というもので、
対応しようとそこで頑張るわけですよね。
それはもうトラウマがある意味、
既にあるという感じもしなくはないわけですよ。
つまり、
なんで偽りの自分が出てくるのかというと、
あのね、
言ってみれば心にもないことってやつを
言わないわけにはいかないからですよね。
いや、もう本当に、
あの、
うちの夫は家事もよくやってくれてとか、
なんとかかんとか言わないわけにはいかないわけですよね。
いや、もう本当に
ミンチ肉にしてやろうと思ってるんですとかって
言わないじゃないですか。
本当のところ。
ギャン泣きをするってそういうことですよ。
あの、もう本当にこの夫ろくでもないから、
柴木倒してやろうかとずっと思ってるんですよって
お母さんの前では普通は言わないじゃないですか。
だから、
本当の自分は別に愚痴をこぼしたり悪愚痴を言う
自分って意味がないんですよ。
だから、
そういう意味ではないですよ。
そういう意味ではなくて、
そこでそもそも取り繕うよねってことですよね。
だから、
偽りの自分っていう言い方をするんだけど、
それは必要なものなんですよ。
社会で生きていく上では。
というか、
出てきちゃうものだと思うんですよ。
そしてこの出てくる時には、
でも、
トラウマと関係があるわけですね。
やっぱり、
お母さんいなくなることもあったから、
本当の自分としては
トラウマと関係があったけれども、
でもやっぱり
お母さんいなくなることはあるわけで、
あるいは、
ストレンジャーな人と
一緒にいなくならないこともあるわけで、
だからそういう時に
トラウマのきっかけを得るというのかな。
で、そのトラウマのきっかけを得た時に、
やっぱり、
ただひたすら泣いていても
現実には対応できないので、
現実に対応するべくですね、
本当のところ不本意でもあるんだけれども、
なんかそういうものが
必要になるから、
私は自分を少し分裂させて、
つまり分けてですね、
対応用の私を作り出すっていう。
で、
ここで、
我々はですね、
我々の時代なのかもしれませんが、
妙にこの
偽りの自分製造に対して
こう、
称賛しすぎるところがあるわけですよ。
いや、偽りの自分素晴らしいから
どんどん作りましょうみたいになりかねないんですよ。
それは話が逆だよね。
偽りの自分製造だから
やむを得ずっていうところがあるのであってですね、
偽りの自分は素晴らしいわけじゃないんだけど、
なんかこう、
偽りの自分こそが人生だみたいに
言われたりなったりしちゃっているケース
というのがありまして、
つまりこれが
なんとかスキルとかそういう、
あるいはリスキルとかも
多分そうなんじゃないかと思うんだけど、
あるいはこう、
エレベーターの前でする会話とか
18:00
そういう話になってしまうわけですよ。
つまりこの偽りの自分万歳になるっていうのは
難しいわけですよ。
偽りの自分は万歳じゃないわけですよね。
偽りの自分をいっぱい作れている彼は
素晴らしい人だみたいになりかねないところが
我々の生きづらさと
多分つながってるんですよね。
という、
まあ面白い話にはならないかもしれない
と言ったのは、
これ自体はそんなに面白い話ではない
と思ってるんだけど、
最近ですね、
ずっと依頼を受けていたりして、
これについて考えなければいけない。
つまり私たちは
どうして
単に疲れるだけでなく
消耗というものをするのか。
これはやっぱりですね、
本当の自分になるタイミングが
減ってきたり、
自分で好んで減らしてしまったり
そういうことをするからなんじゃないかと。
特にですね、
自分の時間が欲しいって言ってるケースは
本当の自分に戻りたいっていうのと
僕は置き換えられると思うんですよね。
ついでに言っておきますと、
グッドバイブスで言う
最近蔵園さんが
ハートっていう表現を
使い始められたんですが、
これを使ってるときが
本当の自分ですね。
蔵園さんもよくおっしゃってるけれども、
これをあるふりをして、
ありもしないのにあるふりをして、
仕事に勤しんだり、
つまり仕事を
私バリバリやってますけど
っていう顔をしておきながら
心の中空っぽっていう状態。
これは偽りの自分なんだけど、
これも結構良しとされてる状態で
やってるじゃないですか。
これどう考えても
良いことではないんですけれども、
あるいはそこをスキルで乗り切るとか、
タイマーをかけてダッシュで乗り切るとか、
全て同じことを意味しているんですよ。
本当の自分抜きでいるっていうのは
息を止めて走ってるようなものなので、
辛いんですよね。
ここでも、
息を止めて8時間できる、
超人的だ、あなたへ素晴らしい
っていう話になると
転倒していくんですけれども、
こういう話が
出てくるんですよね。
我々の世界からですね。
偽り雷産的なところは
どうしても抜けないんですよ。
それが上手くできるのが大人でしょう
みたいな、
何か少し違った話になっていく。
私はそれが上手くできるのが大人だとは
どうしても思えないんですけれどもね。
大人も子供も同じで
僕は思うに
環境としての母親抜きには
つまり
お母さんがいると思って
遊んでる子供の心理状態で
いないことに気づいてしまったら
やっぱり心は動揺するんですよね。
その時に
動揺を隠すことができますよ。
これが偽りの自分ですよね。
動揺を隠すことは大人にはできる。
でもそれはあくまでも
動揺しているのであって
動揺を隠しているだけなわけじゃないですか。
いろんな方法論が
ここにあるわけですよ。
例えば本当の自分がプレゼンをして
恥をかいたらつらいと。
だから
1から10までしゃべることを
21:01
タスクにピックアップしておいて
チェックリストの通りにして
まず何々をする
次にこのスライドをめくるみたいにして
偽りの自分が
表面上は
非常にスマートに
社内プレゼンを
ほどこおりなく済ませたり
通過することができるんだけど
本当の自分はそこにはいないと。
倉園さんのGood53に言うと
ハートはそこにはないってことですよね。
これをやると
疲れるんですよ。
後で必ず
これを消耗と言ってるんだと。
だからその後で何が必要になるかというと
本当の自分に戻った時間というのが
必要になるはずなんですよね。
その時には
ソリキアとかを心置きなくするのか
スーパーマリオオデッセイを
心置きなくするのか
何でも同じなんですよ。
瞑想するのでも
呼吸をするのでも
眠るのでもね。
本当の自分はつまり
油断していられるっていうことなんですよ。
そういうことも
現代社会では非常に
いろんな意味で
悪く受け止められているんですよね。
つまり本当の自分に戻ることが
悪いことのように
考えられているところがあるわけです。
だから
何が起こるかというと
家に戻っても
本当の自分に戻りにくくなる
という人が現れてしまうんですね。
実際そういう人は
僕は多数派ではないと思うんですよ。
これが多数派になったら
本当の自分に戻りにくくなるんですよ。
でも少なくなく
そういう人が登場して
例えば最近で言うと
リベンジ夜更かしとか
よくわからない言葉が
作り出されるわけですね。
リベンジ夜更かしというのは
夜寝る直前まで
本当の自分に戻ることはできません
という話なんです。
あれはおかしいんですよ。
何がおかしいって
本当の自分には
寝れば戻れるわけです。
寝てる現象なんですね。
なのに
その寝る時間を消して
本当の自分に戻る
起きてる
でもここにその人の
心理的な苦しさがあるわけです。
起きてる時間は
全部偽りの自分です
なんていうのは
耐えられないんですよ私たちは。
だからこそ起きてる時間の
一部を強引に作り出して
そこに本当の自分に戻れる
だけれども
私の本当の時間をください
みたいな
あれには非常に切実なものを感じて
私は大変こう
もちろんなんとかならないのだろうか
と思うわけですね。
本当の自分に戻ったときは
基本まず
油断はしている
リラックスもしている
シングルタスクになっている
これは非常に大事ですよね。
本当はここが難しいんですけれども
短時間でみんな済ませようとするのは
いかに偽りの事故でいる時間を
24:01
認識できればならない
という恐れを抱いているか
って話なんだけど
短時間で済ませるどころか
この時間はこれも倉園さんがよく
グッドワイプスで書かれることなんだけど
時間の経過を忘れなきゃいけないんですよ
本当は。
寝てる時ってそうですよね
時間の経過が明らかにおかしくなって
真夜中なのに昼だったりしてね
おかしくなってなければいけないぐらいなんですね
だから時間というものを
認識できていないときほど
本当の自分に戻れている
時間の経過なんて忘れている
というか知らない
だから私たちは
時刻というものを
時間の流れを意識しているときは
少なくともいくらかは
偽りの自分になっちゃっているという
たぶん証拠なんだと思うんですよね
時間の経過というのは社会的なものなので
言うまでもないんですが
偽りの自分というのは
取り繕ったり上辺だけの自分だから
社会の何かの要求に
心の底からは答えられないにも関わらず
合わせなければいけない
と思われる必要になる
自分なわけです
これはつまり
だって社会に行って
会社に行ってですね
そこからやる社内プレゼンが
スーパーマリオオデッセイのように
感じられるんであれば
偽りの自分なんて一切いらなくなるわけじゃないですか
これは一つの理想です
しかし私たちは
たぶんみんながみんな
常にその状態でいるなどというのは
全く現実的でないので
偽りの自分は何らかの形で
生きていく上では
欠かせることができない
でもだからといって
偽りの自分で
10時間も15時間も過ごしちゃだめなわけですよ
そんなことをやっていると
リベンジを不可視でもするより
ほかなくなってしまうわけです
だからいかにこの時間を減らすかに
かかっていると僕は思うんですね
そのためには
人と一緒にいちゃまずいんです
というのが2つ目の問題
今日はこの問題には立ち入らないんですけど
一人でいないと
この時間が確保できません
つまり一人でいなければ
環境としての母親は成立しないんです
というのがまさにウィニコットが言う
一人でいる能力の欠如なんですよ
この一人でいる能力というのは
他の言葉のほうが
僕はいいと思うんだけど
常に誤解されますよね
孤独に耐えられるとか
一人きりでもいて
大丈夫なものになれるって
そうではない
一人でいられる能力とは
2人以上3人以上
環境としての母親が成立するような
心理状態に入れるということなんですね
具体的に言うと
家族で乱乱をしていて
みんながみんなじゃないでしょうけれども
みんなでナイター中継でも見ていたとき
そこに家族がいるってことを
なかば忘れて
ナイターにどっぷりのめり込める
というのが
一人でいられる能力です
これを一人きりにならないとできない人は
引きこもりという風に
ウィニコットは呼んだんですね
これは非常に大事なこと
27:01
他の人と一緒にいても
本当の自分でいられる
これができないから
できなくなってくると
本当の自分でいるためには
気のおけない家族と一緒にいるとか
それすらも無理になってくると
一人きりでいるとかいう話になってきて
リベンジオフカシになるんです
このリベンジオフカシは
絶対に一人きりでいられる時刻っていうものを
その人の心理的にって意味ですよ
その人が一人暮らしをしていても
その人は内的対象の話になってくるんだけど
一緒にいちゃう人が出てくるわけですよ
例えば上司に怒られたから
ずっと上司のことが
頭から離れないという人は
一人暮らしの家に戻っているにも関わらず
上司と一緒にいちゃうわけですよ
一人になる能力を発揮できなくなるんですね
だからこの本当の自分と
偽りの自分というのは
一人になる能力
それは他の人と一緒にいてもという意味の
一人になる能力を発揮できるかどうかって
話とも関係があって
一人になる能力を発揮できるかどうかって
話とも関係があって
一人になる能力があるんですね
他の人と一緒にいるけれども
というか他の人と一緒にいたって
ハートを使う
ハートを使うというのかな
ハートがそこにあるというのは
当然可能なわけですよ
普通に好きな恋人と一緒にいれば
こうならなかったらおかしいですよね
大好きな恋人と一緒にいるのに
偽りの自分全開ですというのは
多分僕は
それは専門のカウンセリングを受けに
行く必要を感じます
これは冗談で言ったわけじゃないんですよ
ただ専門のカウンセリングを受けに
行くというのは
一言ここで言えば
そうしようという気になるもんじゃないんで
だから僕は最近ですね
よく考えているのは
脱線してるな
のの医者ってのは
ここに必要なものなんだろうなって
思っているんですよね
のの医者不要論みたいなのも
近代国家だからわからないではないんだけれども
あれですよ
ブラックジャックが下下手術をしちゃいけない
というのは正しいんですよ
と書きますし
私は結局のところ
ブラックジャックみたいな
あれをはるかに
あれほどの能力はない
心理的なのの医者が
そこら中にいるのは
深い理由があると
今では思うようになっているわけです
だってねやっぱり
隣のおじさんがどれほど
気持ちのいい人で
腕が器用で
何でもやってくれる
そういう近所のおじさんみたいなのが
何でもやってもらったり
能下化してほしいとは
誰も思わないじゃないですか
これが近代国家なんですよね
絶対そういうことは起こらないはずなんですよ
でも心理はそうはいかないんですよね
いくら心理を
精神分析を能下化に例えたり
これはすごい
聖地で危険なことで
技術の推移なんだから
素人手出しはダメだよみたいなこと
どれほど解かれ
どれほど本になっていても
それは起こるって私は思うんですよ
精神分析を
30:00
同じようなものだと
まず見出すことは
当分ないと思います
それは日本だからだ
っていうようなこと書いてあるんだけど
これはアメリカでも
事情は全然違うけれども
アメリカ人だからといって
能下化と精神分析を
同等視はしないだろうなって
これは問題発言かもしれないんだけれども
問題発言も含めて
グッドモーニングボイスですから
というふうに
思っています
話元に戻しますが
一人でいる能力
つまり他の人と一緒に
一緒に本当の自分で
いられるっていうことが
どんなに重要なことかと思うんですよね
私は最近
つくづくここにかかってるんじゃないかと
だって会社って
めったに一人きりになりませんから
一時ノマドがもてはやされたのは
つまりあれは喫茶で
一人になるためだった
という面があったんですよね
あれはでもやっぱり私は
オフィスで一人になる
本当の意味で
物理的な意味で一人になる
つまり引きこもるってことなんだけど
引きこもるためのノマドだったんじゃないかって
思うんですよね
それじゃダメなんですよ
やっぱりきっと
それをやんなきゃならないというのは
それができる人はまあいいんですけれども
でもやっぱり人と一緒にいる時間の方が
長いはずなんですよね
この時間にいちいち疲労はしますよ
仕事するんだから
消耗するのは
偽りの事故を
やっぱりフル活用しようとするから
消耗するわけですよ
マルチタスクも同じだし
その他何でも同じなんだと思うんですよね
つまり他人の目というものが
環境としての母親になってくれてないと
自分を見張ったり
自分を罵ったり
しかねない存在として
あるいは不意にいなくなったりね
全てダメなわけです
いなくなるのはいいように思うかもしれませんが
それは引きこもり的な発想であって
一人きりになるという意味の発想じゃないですよね
何人いようと
誰といようと
自分を見張っている人がいようと
一人きりになるという心理状態を
達成できた方が
いいに決まっているわけですよ
理想論かもしれないけれども
そっちの方がいいことは確かなと思うんですね
だからそうならないとですね
それができないと
ハートがあるっていうのとか
思いを込めるとか
一切できなくなってしまうんです
どうしてもやっぱりそこは
やっぱり
いないお母さんがいないってことが
分かっているのに
いるふりをするっていうのは
いると信じるのとは全然違いますよね
これはもう心理的に
私はみんな知ってるものだと思います
私はやっぱり一番ですね
自分の感覚で言うと
気心の知れない温泉場みたいなところにいたときに
そこにいる人たちは
みんなこうくつろいでるんだけど
入っていったばっかりの自分は
くつろげないと
でも不意に好きな野球中継でもやっていたり
あるいは好きな漫画本を読んでいたりすると
33:01
その空間の中でも
くつろげるようになるわけです
私はなるんですよ
この時私は
引きこもりから
一人きりになるわけですね
引きこもりだったんだけれども
一人きりになる能力が発揮できると
だから引きこもってるときは
他の人を警戒してるんですよ結局はね
だから一人きりになれないわけです
油断というものが
できないリラックスもできない
だからそこにハートがない
そして
そこにいることが
本当の意味ではできていない
その状態で仕事はできないんですよ
仕事してるフリーになってしまう
こういうふうに
会社で過ごしているとですね
仕事がはかどらないのに
疲労だけは蓄積して消耗していくと
これを何とかしたいよねっていう話を
考えたときに
ミニコットの環境として
の母親とか
一人きりになる能力とか
いった概念は
非常に役に立つんですけれども
というお話ですね