ただ、藤山さんはさすがにこの辺のことを一番おっしゃってる人の一人だと思うし、
松木さんよりもこの辺のことは一番言ってるなって感じがするんですけど、
とにかく精神分析というのは設定なのである。設定というのは文化なのであって、
合理的根拠に基づいているわけじゃないんだと。ただしそういうことは、例えば医療の世界でもたくさんあるんだと。
精神科医はこれは非常にその通りだと。先日私もね、先日来私も精神科の病棟にひどくお世話になっていて、
さがんにそこで接触をしているわけですけど、確かにね、担当の先生は白衣を着ていらっしゃる。
で、白衣を着るべき根拠のある理由は何もないと。あのね、血とか汚物とかを自分がそれから守らなければならない、
そういう立場にないのに、そうしなければいけないわけでも決してないのに、無根拠に白衣をみんな着ていると。
で、藤山さんは精神科医でもあるんだけど、自分は着たことが一回もないと。
なるほどなぁと思ったわけですよね。文化なんですよね、それは一つのね。
で、あの、さらにその続きが面白くてですね、私はそういう医療の世界全然詳しくありませんけれども、
あの、盲腸かな?盲腸の手術をするとき、毛を剃るんだと。
で、その毛を剃ることは、感染の、最初はね、感染のリスクを抑えるためだとされてたけど、
それは全然感染のリスクを抑えないし、むしろ感染のリスクを上げるのに、
でも誰も何もそのことに疑問を抱かずに、当然のように沿ってたと。
で、つい最近までそうしてたと。で、そこに科学的根拠は何もないと。
文化的なものだったんだっていうですね、つまり心理臨床の世界、まあそれについて何かを言うことはないにしても、
精神分析の世界というのは文化なんだと。要するにそれは俳句575であるようなもので、
別に577だってそっちの方がいいかもしれないけど、結局575なんだと。
なんでなのかということよりも、そうしてきたからそうしてるんですよと。
カウチになぜ寝るのかは、えーと、催眠療法の名残だとフロイトも書いてますしね、確かにね。
で、えーと、そもそもフロイトは週に6回最初やってたんだけど、
それは週1より週6がいいとかではなくて、週6でやることになってるからっていうか、
あの、もっと違うんですよね。本当の理由をもっともっと切実で、
えーと、当時はブルジョア以外は、相当なお金持ち以外は、そもそも医療を受けられなかったんですね。
医者にかかれなかったわけですよね。しかも医療にかかれない、
あの、ブルジョアじゃなきゃ医療にかかれない世界で、
カウンセリングなんかやってられるはずないわけですよね、普通の市民が。
つまりあれは普通の市民向けのものではなかったわけですよね。
ブルジョアというごく限られた階級の、しかもそれらの人たちはだいたい教養もあって、
えーと、知識も豊かで頭もいいわけですよね。しかもごく限られている患者を奪い合ってるわけじゃないですか。
結果が出ませんでしたわ。許されないわけですよね。絶対に。
すぐ、たぶん、食うに困る日があっという間にやってくるわけですよね。
フロイトだからその辺はすごくリアリスティックに書いていて、
あの、一人患者を減るということや、一人でも善意で無料で見ちゃうということは、
もう当時のですけどね、交通事故を起こすのに匹敵する事態なんだと。
多分当時交通事故起こしたら、それだけで人生が立ち行かなくなる恐れが多分あったんだと思うんですよ。
でも起きてたでしょうけどね、頻繁に。
で、どう考えてもそれはかなりまずい事態なわけですよね。
つまり患者を一人失うということはそういうことなわけですよね。
そういう中でフロイトはめちゃくちゃ切実に、当時はヒステリーなんですけれど、
ヒステリーに対して一定の成果を出さなきゃいけないと。
他の誰よりもフロイトのところに行くべきだという評判を打ち立てて、
それを失わないようにしないと、やっぱりたちばち労働に迷う。
しかも自分だけ労働に迷うんじゃなくて、一家プラス多分そこで働いている、フロイト家で働いている。
私、先日読んだんだけど、フロイト家の料理人みたいな。
ああいう料理人は、つい最近ちょっとあれなんですよね。
娘の学校は中学受験があるもんだから受験休みというのがあって、
その間にバフェットに行って、大したことのない贅沢と言いますか、中途半端な贅沢をするときはうちらよくするんですけど、
そういうバフェットに行って、ああいう若い料理人がいたわけですよね、家にね。
大変なことですよね。
そのためには、よくわからない成果が出たのか出ないのかわかりませんというのは、絶対に耐えられないわけですよね。
そんなもんだから、ブロイヤー先生ですよね。
フロイトと一緒に一番最初にやったと。
この先生、なぜ自分の精神分析があれほど精神分析的なものに遭遇しておきながら、あのまま流しちゃったのか。
ちょっといろいろトラブルが大変だったのはよくわかるんですけども、もったいないことしてるなって感じなんですけど、
それにしても毎日毎日応信してますからね。
頭おかしいんじゃないかぐらいのことやってますよね。
でもそれはたくさんお金をくれるからなんですよね、結局ね。
結果出さないとどうしようもないと。
もちろん知的好奇心みたいなのもあったに違いはないんだけど、そんなに悠長なこと言ってられないわけですよね、きっと。
これを踏まえて考えると、というふうに藤山さんは書いてるわけですよ。
収録というのは他の方法と比較していいからそうしてるわけではなくて、
収録行くしかなかったみたいな。
そしてそうやって始まった精神分析は、
遠ざの間ずっとみんながそうやってきてしまったので、
俳句と同じなわけだと。
要は精神分析的であるということは、
結局のところ収録がいいのかどうなのかは、
週1にしてみればどっちがいいのかを比較してみましょうということになるんだけど、
そもそもそれはどっちがいいっていうのは、
どっちの方が精神分析として効果が上がるかっていう比較になっちゃうじゃないですか。
だけどすべて他の精神分析が週6でやってきたのに、
いきなり1にしてみて、こっちの方が精神分析的に効果が上がりますというのは、
どういう結果が出ても測定して言うのは実に難しいですよね。
これが簡単だというふうに考えるっていうことは、
575と577にしてみて、こっちの方が577の方が俳句的じゃんって。
しかしその他の俳句が全部575でできてるのに、
なんでこっちの方が俳句的だということが言えるのかと。
そしてだいたいそうは感じられませんよね、我々には。
577にしてみるとなんか変だなって感じがする。
それはなんで変かっていうと、俳句的に変だからなんですよね。
でもそれって理屈にかなわないじゃないですか。
だって575と577があって、俳句はすべて575だったのにそれまで。
577の方が俳句的ではないとか言うのは、言いがかりも派手しい。そうに決まってますよね。
それはちょうどソフトボールは野球と比べると野球的でないって言ってるのと同じです。
そんなの当たり前ですよね。
だってソフトボールと野球を比べて、ソフトボールは野球的でないっていうのは、それは当然そうじゃないですか。
これが原理的に、要するに何の根拠もなく、カブチに寝そべって自由連想で週6日でってやっちゃってるから。
フロイトがただそうやっちゃった結果だから。
何かがいいと思って比較して合理的に決めてそうしたわけじゃないから。
だから少なくともそれ以外の方法は精神分析的ではなくなるわけですよ、自動的に。
良かろうと良くなかろうと。
そっちの方が精神分析的ですって平気で言うから、わけわかんないことになっちゃうわけですよね。
という話をしているわけです。
私はこれを読んで、諦めようとまず。
そもそも精神分析、これも藤山さんがよく書かれてます。
最初なんでそんなこと書いてるんだろうなって思ってたんですよ、僕も読んだ時は。
精神分析は心理療法なんだろうか果たしてみたいな。
え、心理療法じゃないの?
だって心理療法の方に精神分析の言葉とかやたら入ってきていて、
なんか精神理非動的な心理療法って当たり前じゃんみたいな顔してるから、
なんか心理療法、精神分析は心理療法なのかみたいな、なんじゃそりゃっていう感じがするんだけど。
精神分析は心理療法ではないわけですよね、結局。
心理療法は心理療法であって、だから正規の心理療法師っていうのは
有資格心理師ってXで長く論文みたいなのを書いてる方いらっしゃいますけど、
公認心理師か臨床心理師なんですよ。
そこに精神分析科とかは含まれて、精神分析科ってどこにも心理師って言葉、
心がないじゃないですか、心入ってない。
で、心理はもろんないじゃないですか。
で、科ですから、精神分析師って誰も言いませんからね。
すごく変な言葉ですよね、それはね。
だから精神分析科ですか。
精神分析的心理療法師っていうのはいるんですよね。
いるのかな?
精神分析的心理療法はあるんですよ。
あることになってる。
でも大変それは微妙な言葉なんですよね、実際にはきっと。
知らんけど。
私は知らんですからね。
私正規の心理師でもなければ精神分析科でもないですからね。
受けたこともないし、精神分析は。
心理療法は受けたことはあるんですけど、
受けたと言ってもね、みたいなノリでしかないですからね。
で、諦めたわけですよ、私は。
どう考えてもこれは諦めるしかないなと。
ただ、3年間その3ヶ月チャレンジやってみて、
確実に言えるようになった大きな、
これははっきりとした巨大な変化なんですけど、
もはやカウンセラーと名乗りたいとか、
心理臨床なのだろうかみたいなことについては
悩まなくなりました、全く。
心理臨床でありたいとも、
カウンセリングがしたいとも、
かけらほども思ってない自分がいます。
それは間違いないです。
藤原さんが精神分析は心理療法なんだろうかって
書く気持ちがすごくよくわかるようになりました。
良いとは言えないなっていう影響を受けてる。
だからなるべく影響を大量に受けてるんだけど、
この影響を廃することができるかという、
でもこの影響を廃しつつ、
精神分析的ってあることが果たして自分にできるのかという、
一生のあれだなという、
何にもなりませんでしたまるっていうのも、
私、凡庸だなと思うんですよね、人間として。
人間として凡庸すぎて、
なんていうのかな、
これといった成果が出せないんですよね、結局ね。
何者かになりたいっていう言葉があるじゃないですか。
私も10歳ぐらいの時はなくはなかったんだけど、
何者かになるとかって、
すごい無茶苦茶な話だと思うんですよ。
何者かな、杉の木ってあるじゃないですか。
そこら中にあるじゃないですか。
非常に問題になってるじゃないですか。
どの杉の木も杉の木らしいじゃないですか。
この何者かである杉の木ってあると思うんですよ。
なんか樹齢500年とかね。
おかしいじゃないですか、明らかに。
そいつだけが。
何かがおかしい杉の木にならないと、
何者かになれないじゃないですか。
凡庸な杉の木だと。
私、いかにも人間的に凡庸だなって思うんで、
そんな何者かになるっていう、
いびつなものになれないんですよね。
あまりにも大谷翔平さんとかは、
めちゃくちゃいびつだと思うんですよ。
素晴らしいものは全てめちゃくちゃいびつじゃないと、
始まらないと思うんですよね。
それになりたいかって言われると、
私はもう全く絶対ごめんこう思うと思うんですね。
絶対嫌だって今思うんです。
何者かとかになっちゃうのは。
要はそれは人間少しやめますってことですからね、結局ね。
80億いる人間の平均的な人間は、
多分79億ぐらい。
もっとだと思うんですけどね。
どっちかと言えば、私はそっちでありたいと思いますね。
技術はあるにせよ、
何か何者か、人間ってのは不思議な生き物だなとは思いますけどね。
ちょっと霊長類にするところはありますよね。
なんかボスの中でもトップのボスって、
明らかにチンバンジーやめてるじゃないですか、どっか。
やめといたほうが。
ほら、アリさんがそうですよね。
ジョーアリだけ変じゃないですか。
何か異常な姿しててね。
一生もう特殊ですしね。
やたらとドラマチックになっちゃってますよね。
あーはなりたくないと思ってしまうわけですよ。
そうすると私ができることというのは、
凡庸なものだから、
この凡庸さの中でできることを考えていかなければならなくて、
いや別にそういうならないわけじゃないんですけれども、
それでもできるんだろうかという問いになっている部分はあるわけです。
精神分析的なものを内在化させて、
ビジネスコンサルをやるというですね。
やろうとしていることはいたって平凡なんですけどね。
ものすごくレアに見えちゃうというのが、
私のパーソナリティにおける一つの特質なんだと思うんですよね。
なるべくこれを、
だってこれはどう考えても誰でも考えつくような話ですからね。
フロイドの収録と似てるんですよ。
なんとなくそうしたらそうなっちゃったって話でしかなくて、
いやいやもう精神分析とビジネスコンサルしかないっしょみたいな、
そういうことではなかったはずなんですよね。
問題が解決しないから、
問題解決問題解決って一生懸命探してたら、
対象関係語にしか残ってなかったっていうのが適切であって、
そこにかわいはよさんとか読んだし、
ユングも一応読みましたけど、ユングの本ですね。
ユングが書いた本ですよ。
これじゃ無理だよなっていうのが僕のですね、
僕はやっぱ凡庸なんで、
あんな特殊なことやってられないなっていうのが、
一番普通のことをある意味やってるのが精神分析なんですよね。
だって認知療法ってすごい独特ですよ。
認知変えようとしてますから結局物の考え方を。
ある程度はやりますよ。
でも認知変えようなんてなるべくしたくないわけですよ、当然。
だってアドバイスっていうのは、
クソバイスって言葉があるようにですね、
受け入れられないんですよ、基本的には。
受け入れられないからどうするかって、
人の認知変えようってしちゃうわけですよね。
だいたいそれがおかしいだろって思うわけですよ。
でもだからといって、
やっぱりこう夢分析とかを始めるとなると、
やばいじゃないですか、夢分析とかって。
元を正して考えてみたいわけですよ。
タスクシュートのタスクがとか、
タスクリストのタスクでもいいですね。
トゥードゥリストのトゥードゥのこれをやる前に、
そもそも朝起きる気しねーんだよって言ってる人に、
では夢の分析しましょうっておかしいでしょ。
で、あなたの認知を変えましょうもん、
ダメでしょ、行き過ぎてるじゃないですか。
どうしてそこまで行かなきゃいけないのっていう問いが、
その前に当然発生される、問われるわけじゃないですか。
この問いに答えられるのかって言うと、
僕はユング答えられてないと思ってるわけですよ。
思うわけですよ。
いや全然答えられてないしって思うわけですね。
なのにこれをやろうということになったときに、
いや苦しくてしょうがないんだと。
自分はなんかおかしいんじゃないかと思ってるんだ。
これなら話はわかるんだけど、
酒袋を何とかしたいんだって。
それじゃあ夢分析はいけないですよ。
認知を歪め、あなたの認知歪んでますとか、
とんでもないことじゃないですか。
そう今は言わないって言うんですけど、
どっか言わなきゃならないと思うんですよ。
認知変えようって言うんだったら、
あんたの認知は間違ってるってどっかで言ってるわけじゃないですか。
自分の認知はしかも正しいって言ってるわけじゃないですか。
行動両方同じで、
行動を変えなくてもいいですってぐらい言ってくれないと。
あなた行動を変えなさいっていうのは、
最近話題になっているこの総選挙ですけど、
大変な思いをされてる方がいらっしゃると思うんですが、
総選挙してるわけですが、
この総選挙でみんな、
イケイケな人はいいんですけど、
いやいや怖いっしょって思ってる人も結構いらっしゃると思うんですよね。
リベラルな人は今相当だと思うんですよね。
結局のところ、
それは何が嫌かって、
私が嫌だって言ってるわけではないんですけど、
私はちょっと歳をとったんで、
そういうことって起きちゃうよなみたいな気持ちもなくはないんですよ結構ね。
でもみんなが嫌だって言ってる、
リベラルの人が嫌だって言ってるのは当然、
行動を変えろって言われるのが嫌なわけじゃないですか。
行動を変えろって言われるのは、
嫌なもんなはずなんですよね。
ましてそれがカウンセリングの場で言われるとなってくると、
結局のところ認知と行動を変えましょうって言うわけですからね。
それは薬を飲まなきゃなんなくなるもんね。
まぁそれは薬を飲まなきゃなんなくなる前に、
認知と行動を変えといた方が無難だよって。
でもそれはある意味脅迫に近いんじゃないかって思わなくはない。
思わなくは思わないですけど、そこまでは私は、
切実に何か困ってるわけじゃないんで。
例えばマスターベーションの回数を減らしましょうみたいなね。
余計なお世話だって感じがするじゃないですか。
ハンザーを見に行く回数を減らしましょうとかね。
知ったことじゃないですよね。
私だからいつもX見ていて、
よくみんなこういうものをあっさり受け入れるよなって思うのが、
スマホの時間制限とスマホを使わなくするアプリ。
そもそもその存在がどうかと思うんだけど、
いうのがあるわけですよね。
クレジットカード凍らせるみたいな話ですよ。
わかりますよそりゃ。
うちの子もよく、母、妻に言われてるわけですよ。
スマホばっかり見てみたいな。
でも私は、でもなぁと思って何も言わないわけですね。
もちろん時間制限なんか全然したいと思わないから、
高校になったら取っ払ってしまったわけですね。
妻がどうしてもって言うからしょうがなく中学の時はやってたんですけど、
3年間だしな、我慢しなさいねみたいなノリがあったわけですよ。
でも歩けないだろうなんも早っていう感じがしますね。
ということを別にずらずら述べる必要もなく、
行動療法というものが果たしてその人の行動を良くするという、
その良くって何を意味しているんですかというね。
クレジットカード凍らせてみたり、
スマホを一定時間動かないようにしてみたり、
時間制限かけてみたりするのは結構ですけれども、
そうしてスマホを使う時間が減った方が、
本人にとって良いことだっていうその根拠は何なんだっていう。
確かに男の人は今でもスカートは履きません。
そうなんですよ。文化とはそういうものなんですよね。
それが正しいとか間違ってるとかいうことを言わないとしても、
結局は文化は文化であって、
文化的に正しいことが多分に正しいとされてしまうわけですよね。
やっぱりお医者さんは白衣をなぜか着てるんですよ。
精神科病棟であろうとなかろうとなんであろうとですね。
別にそれ水色だって赤だって赤じゃダメかもしれないけど、
別に良いわけじゃないですかでもね。
薄い虹色とかでもね。でもみんな白ですよね。
そこには多分やっぱり科学的根拠よりは文化的根拠の方が
はるかに強くあるでしょうね。
そして私のこの3ヶ月チャレンジはなぜ3ヶ月なのかというね。
それは文化的根拠ですよね。多分に多少それはある。
要は3ヶ月というのが長く感じられてしまうわけです。
そんなのは力度の世界から見ると一瞬に近いんだけど、
そういうのは通らないわけですよ。
でも一方で力度の世界から見るとそれは一瞬なんですよ。
それで何になるのっていう問いになっちゃうわけですよ。
先日も松木邦博さんであるかのように振る舞ってくれるAI、
本当かなって思うんだけど、
2、3チャレどうもって聞いたら真っ先にそこ返してきたんですよ。
もし自分に冷ややかなことを言えと言うなら、
そういう風に松木さん言わねえなって思うんだけどね。
冷ややかなことを言えと言うならば、
3ヶ月で何ができるのかと言いたくなると。
そうだよねって感じはでもしますよね。
でも何とかしなきゃいけない。
それは今の時代の時間間隔が3ヶ月を短いとは決してみなしてくれないから。
100日チャレンジという、100日と3ヶ月は大抵変わりませんが、
100日チャレンジの100日というのは短いという意味では決してないんですよ。
長いという意味。これだけあれば成果が出せるだろうと。
そういうのは力度の人から冷ややかに見られて、
そんな短期間で成果出せるぐらいだったら、
俺らいらなくねっていうことなわけですよね。
でも彼らは絶対必要だと私は信じるようになってるわけですよ。
彼らがいなくなるということは、
これはある種のシュッとしか言えません。
このグループを名指しできる人は、歴史に長残せるなって今では思います。
発達障害とか、本当に今では政治論争にまでなってしまいましたよね。
発達障害、CPTSD、ちょっと前までパーソナリティ障害、
一時パーソナリティ特性という人たちも今でもいらっしゃると思いますね。
ウォーダライン特性という言葉も昔はありました。
私、とうとうですね、カンバーグの中古本、だって古本しかないですから、
オッド・カンバーグさんの教会霊の精神力道、
いやいや、精神力道、教会霊の精神力道的療法、
なんだかよくわかんないけど、よくそういうタイトルで本出せるよなっていうタイトルですね。
何を意味してるんだか、もう今通らないじゃないですか。
よくわかります。
でも私は、この教会霊の精神力道的療法、
なんだかよくわかんないけど、
ここにある問題こそ、やっぱり長らく、
精神分析から心理療法からカウンセリングの世界で取り扱おうとしてきては、
取り扱える人だけを奮いにかけてきたような、
それがいいってわけでは決してないですよ。
そういう人たちはある意味偶像崇拝のようになっちゃうんだけど、
それはあくまでも、
なんていうのかな。
じゃあウォーダーという人を特定でき、
ウォーダーはその、例えば成田さんなりに任せておけばいいのかっていうと、
そうはいかないんですよ、決してと私は思います。
ただこれについて確たることは言えません。
結局のところ、北山治さんの理由に言うと、
蓋を開ける。
つまり、蓋を開けなければその人はウォーダーではなく、
神経症水準だったのに蓋を開けてしまって、
しかもトジもせず、治療もせずどうすんだよっていう、
この議論は非常に大事です。
大事ですけれども、
でもですよ、
例えばその人がバーハラに会いました。
蓋は開いちゃいましたっていうことが起きたとき、
そもそもそれはウォーダー特性のある人の蓋を開けたのか、
それともない人の蓋を開けたらウォーダー特性に対抗してしまったのか、
それともっていうことが果たして言えるのかってことですよ。
だから例えばその、
蓋を開けたとか言う人だったらば、
自分の蓋は絶対開かないという保証をどこから得ているんだろうという、
僕はそういう問いを立てられると今では思うんですね。
あなただったらウォーダーに対抗しないっていう保証をどこから得ているんですかと、
素人がヘダに蓋を開けるからこの人ウォーダーになっちゃったじゃない、
責任どう取るんだよって言える人は、
じゃあ自分がウォーダーに対抗することは、
何らかの偶発的な理由で起きないということが言えるのかっていうのがある気がするんですね。
いやいや、医療に携わる人はそれやっちゃダメなんだよっていうのは分かります。
分かってやってはいけません。
でも分からずにやってはいけないというのであればですね、
分からずにやってはいけないというのであれば、
みんな分かってるんだろうなって言いたくなるわけですね、このことが。
もしその蓋が開いちゃってる人がいたら、
あなた直してくれるんですかっていうのも必要だと思うんですよ。
私はこの蓋が開いちゃった人と北山さんがおっしゃった人、
そういう人がいるとしての話よ。
いるとしてそういう人に対して、
現代は何をするんだろうなっていうのが気になるわけですね。
精神科であればお薬出すんでしょうね。
しかしウォーダーに、つまり精神病の人に薬を出すというのは分かる。
神経症の人には違う薬を出すのかもしれない。
あるいは弱めに同じ薬を。
つまり精神病の人に抗精神薬を出すとして、不安薬でもいいんだけど。
神経症の人には弱くした抗精神薬を出す。
ウォーダーの人にはどうするっていう話。
ウォーダーの人っていうのは今はいないんですからね。
いなくはないんですけれども、
でも私はウォーダーの人っていうのは古典的、
古典的というからには現代的には違うっていうわけじゃないですか。
どうするんだろう。
で、その人が薬のもの嫌だって言ったらどうなるんだろうっていう。
だってその人は精神病じゃないから多分、
それこそ措置入院なんてわけにいかないと思うんですよ。
副薬はしませんと。
副薬しないのは勝手だけど、どうなっても知らないからねと精神科では言われるでしょう。
つまり切り捨てられるでしょう、ある意味では。
それは一時放置されてるのとあんまり変わらないじゃないですか。
そうした時にその人は、
じゃあカウンセリングを受けましょうってことになるんだろうか。
で、カウンセリングを受けましょうってことになった時に、
その人は行動変容とか認知変容を良しとするだろうかと。
良しとしないんだったらつまり、
インフォームドコンセントはなしに認知や行動が切り替えられることになる。
多分これは現代では医療倫理的に認められないでしょう。
そうすると、じゃあ行動も認知も私は歪んでません。
あるいは本当にそうなんですよってことになると理想化が起きますよね。
その後脱化しかも起きますよね。
これにあらゆるカウンセリングが絶対に中断を起こさず耐えられるなどという風には思われないので、
これは別に批判してるわけじゃないですよ。
それは誰のせいでもないとした時には、
どうしてもこういう事態は発生するはずだというだけです。
発生してるはずですし、現に。
その人はカウンセリングからも少なくとも1回目は撤退することになるでしょうよね。
そうした時に、ではどうするんだろうってなった時に、
民間というところになるだろうなと。
ここを批判するわけですけれども、
だったら直してあげてくださいってことになっちゃう気がするんですね。
私はこの議論はフェアじゃないと思います。
こういう展開にするのはですね。
私がいいように持ってってます。
だけれども、こういう事態はあるはずです。
結局この事態は、まだ私は名前がついてない気がするんですよね。
この事態については、この事態について収集できる。
だって名前がついてないわけだから、
収集するための仕組み。
自分を理想化するしかなくなるんですけど。
次に、
父はしょっちゅう理想化されてたからね。
理想化した上でルールが決まります。
つまり父がこうやりなさいといったことはやることで、
こうやっちゃダメですということはやらない。
前に私、勝間和夫さんの、
これは別に公的に言っていいことだと思うんですけど、
公的なセミナーに出たことがある。
一緒にやったんだよ。
その時に勝間さんが仏教には三毒というのがあって、
怒りというのを手放すみたいな話をされて、
いや、仏教の全ての寺院で三毒を三毒とみなしているわけではない気がするかと思ったんだけど、
それは余計なツッコミなんで黙ってたんですけど、
それにしてもこの怒りを手放すってみんな言うよなっていう。
でも、
どんなにこれは勝間和夫さんのめちゃくちゃ推しの人でも、
でも、彼女が怒りを100%手放していると信じられる人はいないですよね。
このルールって例外を絶対に要求されるんですよ。
怒り手放しましょうと言って、そこで批判する人はごく少ないんですよ。
でも人は怒りたいんですよ。
いろんな場面で実際に。
で、怒ると怒りを手放すというルールが設定された上で、
怒ると罪悪感が募りますよね。
でも怒りを手放しましょうというルールは、
理想化した人が言うとものすごくそれは容易にできることの上に、
気持ちのいいことだと思われるものなんです。
だって怒られずに済みますからね。
うちの父が言いませんけれども、怒りを手放しましょうと言ったらすぐそうする。
子供住職さん怒ったの見たことないって平気で言うだろうなと。
私はうちの親父に毎日のように怒られてましたからね。
でもいつも穏やかでとかって平気で信者さんはおっしゃるわけですよね。
そう、そこしか見ないからね。そりゃあね。
いいんですけどね。
例えば私だって言われるんですよね。
佐々木さんが怒るなんてイメージできないと。
そんなことあるはずないんですけどね。
だから怒りなんか手放せないんですよ。
絶対にと言っても僕は過言ではないと思うんですけど、
いずれにしても例外的な措置を必ずその人がいつか口をする日がやってきます。
理想化が続いている間はそれでもいいんでしょうけど、
いずれその瞬間に脱価値化されるってことは起こります。
ルールっていうのは非現実ですからね。
ルールなんて。
だから不正的な対象とか長寿が対象っていうのは言葉だけの問題であって、
所詮は概念ですから。
メタファーに過ぎないので。
これは結局ルールブックのルールですから。
ホームベースに踏んだときにボール取りましたって。
アウトかセーフかって。
よーくルールブック見ると完全に同時の場合はどっちだっていうのが何とも言えない。
同時セーフ同時アウトって言うんですけど。
今は超高性能なビデオで判定できますから、
全て同時ということはありえない。
ただ補給って言葉は微妙で、
グラブにボールが入ったときなのか、
手に直接ボールが当たることはないけど、
グラブの衝撃が加わったときなのかと比べると、
補給って概念は非常に微妙ですけど。
つまりアウトかセーフかってことなんですよ。
いやだってあの時起こるでしょみたいなこと平気で言いますよ。
怒り手放すっていう人も。
あるいは怒りを感じてもいけないって言われても、
いや、あれは違うよって言いますよ。
いつかは必ず。
うちの父はそういうことを平気でしょっちゅうやってました。
当然ですけど。
でもうちの父より怒らない人っていうのを探すのは、
なかなか難しいっていう体験でもあります。
でも私は毎日怒られてましたけどね。
だからいいって話じゃないですよ。
全然いいことではないです。
非常にこれはこれで問題を引き起こします。
問題は引き起こすんですよ。
言われずに世の中が回るぐらいなら、
こんなに多くの人が意味もなくと、
僕には時々思われるんですが、
意味もなく怒ったりはしません。
で、この怒りを手放すというルールを設定し、
本人が理想化されてしまえばですね、
この話はあれですからね。
宗教学とか心理臨床じゃないですからね。
僕が勝手に寺に何年も住まわさせられていたがゆえに、
発生している。
私は寺に住んでいたってことを、
これが自慢にでも聞こえているっていう人も多くいらっしゃるみたいですけど、
あれは嫌な体験だったっていう含みの方が強いんですよ。
もちろんいい思いもしましたよ。
でも当時はまだまだ、
今よりも遥かに左寄りでしたから世の中が。
しかも左寄りでないにしても、
非常に科学が今よりも遥かに、
今だって相当なもんですけど、
信じられてたから、
結局宗教ってのは非常にうさんくさいものなんですよね。
だから要は差別されるに近い体験ってすごい多いんで、
それで怒りを手放しましょう、
理想化されるでしょ。
当然例外が生まれますよね。
そして次に、
関係の安定化っていうのが見込まれる。
うちの宗教はすごいうるさいんで、
寺に来ましょう、毎日来ましょうって平気で言いますからね。
毎日寺に来ることがその人に何をもたらすかというと、
関係の安定をもたらしますよね。
これが精神分析なり心理臨床でも確実に行われることですよね。
週に1回しゃべりましょうっていう。
この関係の安定を儀式化することによって、
つまり儀式なんですよ。
宗教ってのは儀式に支えられていますから。
ものすごく奥の部分が。
儀式に支えられることによって、
その人の行動は自動的に変容させられますから。
だってそんな行動持ってなかったのに、
急にそういう行動に切り替わるわけだから、
行動変容自動的に起きるじゃないですか。
行動変容さえ起きれば、
その人の心理状態は必ず良くなるんだって、
一時1980年代ぐらいの行動科学では言ってましたからね。
多くの場合報酬刑がそこに全くないはずないんで、
寺に来るって報酬いっぱいありますから。
いっぱいありますよ。
なんなら子供にはお菓子とか出しますからね。
報酬というのは目に見える形であれ見えない形であれ、
やたらとあるんですよ。
だから習慣化簡単にするじゃないですか。
そうするとその人は例えば、
毎日アルコールを飲むという行動は変容しますよね。
そういうことは当然起きます。
怒りは手放すわ。
住職は侵略化されてるわ。
その人の行動は変容するわ。
で、関係性が安定するということになってくればですね、
うまくいくわけですよ。
こうしてうまくいってしまうんですよ。
この場合、これと全くそっくり似たようなことを
心理臨床の世界でやっているとするじゃないですか。
寺に一回来ますよね。
心理カウンセラーは侵略化はされないかもしれないけど、
住職並みの理想化はされるじゃないですか。
で、なるべく怒らないようにしましょう。
なるべく酒を飲まないようにしましょう。
ルールも決まりますよね。
ルールが欲しいんですよ。
私たちは。
そうすることによってそのルールさえ守っていれば、
いちいち難しいことにぶつかったり考えたりせずに、
選ばれた人間とか、
良い人間とか、
良いクオリティオブライフが高くなるとか、
少なくとも苦しみが減る。
苦しみ減りますから。絶対に。
一時的にであれば。
だからルールが欲しいんです。
ルールを害罪化したいわけですよ。
それによって罪悪化を得ちゃうんだけど、
で、罪悪化を得るじゃないですか。
そうすると、
カウンセラーに怒りをぶつけるでしょう。
うちの父しょっちを怒られてましたから。
文句言われてましたからね。
信者さんにクレームを出されると。
でも宗教はよくできてるんですよ。
ある意味では。
あまりに酷くクレームを住職に言うと、
破門されるっていうルールが決まってるんですよ。
だから、その信者さんたちは、
現実世界の何かを脱価値化していくわけですよ。
何か科学にかぶれている人とか、
スマホばっかりいじっている人は、
地獄に落ちるみたいな発想で、
何とか乗り切るわけですよね。
怒りはどっかに向かわなきゃならない。
そうしないと、自分が鬱化していくんで。
罪悪感を持ちますから。
だって怒っちゃいけないってルールに対して、
あからさまに毎日間違ったことをやりますからね。
どんな人でも普通。