運動会と個人的な体験
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオの第1183回をお送りします。
5月16日金曜日8時9分です。
2回だとしたわけですが、別に体調不良だったとか忙しすぎたとかいう、忙しいといえば忙しいことになるのかな。
実はこの時期ですね、昔は運動会といえば秋だったと思うんですが、子供の運動会の時期なんですよ、現代社会では。
僕にはちょっと違和感があるんだけど、昔からやってたのかもしれませんが、春の大運動会なんですね。
でも運動会となりますと、早朝から何の支度かの支度で、さすがに小学校、幼稚園に比べれば楽になりましたけど、昔とかテントとか張ってましたからね。
そんなわけでですね、運動会に行くときにこんなものを撮っている場合では全くないわけですね。
というわけで、運動会に行ってきたのが1日。
もう1日は単に眠くて撮ってられなかったというだけなんですが、実質1日しか休んでないんですね。
最近、J松崎さんのイベント等があって、やっぱり普段飲んでないビールとか飲んじゃってるんで、結構いっぱい寝たいわけですね、多分ね。
そういうわけで、2日を落としましたが偶然です。
1日はね、休むことが多いんです。週5できることはあんまりなくて、やっぱり週4なんですよね。
関係の向上性と精神分析
今日はちょっと頑張ってやっているみたいな感じです。
今日はですね、久しぶりにグループセッションでも話題になったので、
ここから派生して関係向上性ということについて考えてみたので、その辺の話をしたいかなと思っています。
結局、妄想分裂ポジションとか抑鬱ポジションとか言っているのはですね、関係の向上性というものを目指していて、
どっちかというと関係が続くってことを良しとしているんですね、特に対象関係論は。
別に離婚してはいかんとか、恋人とは付き合い続けた方がいいですとか、
上司との関係はなるべく維持しましょうとかは言ってないんですが、
でもそう言っているも同然の事実として、結局カウンセラーってクライアントとの関係が集結した場合、得することは何もないんですね。
良いことが何もないわけですよ。
まず第一に、普通に最も分かりやすいところで一つ仕事を失いますよね。
これはこの番組では何度かお伝えしている通り、精神分析にとって1人顧客がいなくなるというのは、
ご両爺さんに出てきた賃貸アパート、安アパートを貸してなんとか生計を立てている人の状況と全く同じなんですよ。
ひと部屋空きができたらもう致命的なんですね。路頭に迷いかねない。
それに近い状態で作り出されたこの独特のカウンセリングシステムの中で、
1人顧客を失うというのはフロイト流に言うと重大事故を起こしたのと同じショックってことになるわけです。
だからまずそれはなるべくあってほしくないわけですね。これが一つですね。
2つ目が、そういう文化の中で作り出された精神分析というものにかなりの部分頼って仕事をしている私はやっぱり中断というものに非常に過敏になるわけですよ。
3ヶ月チャレンジが始まっちゃったら、せめて3ヶ月はやらないと。
中断とか言っても、5年ぐらい続いているのが中断しているというのすら、あんなにわりと臨床上は中断に終わったみたいなことが書いてあったりして、
しかも小説と違って、そこでどうして中断に終わるんだっていうぐらいわかりにくいケースもあるんで。
患者は一方的に打ち切りを宣言したとかね。
だいたいなるべくフラットに書くようにされているんだけど、その無念ぶりはめっちゃ伝わってくるわけですよ。
僕はそういうのしか読んでないわけだから、あってはならないことだぐらいに感じているわけですよね。
もちろんそれは毎回毎回お金を1回1回払っている精神分析の人の無念さを思えばですね、
私がそれに全く同じように感じる必要はさらさらないはずなんですけど、
そうは言ってもやっぱり僕はその文化の中にいる存在ではないですけど、
やっぱりその文化に相当無理やり身を浸そうとしているので、中断怖いわけですよ、一般的に言って。
だから中断ってものが起きるっていうことをポジティブに捉えることは非常に僕にとっては別にいいはずなんですよ、3ヶ月チャレンジは。
なぜなら最初にお金をいただいているわけだから、中断したとして時間が空くぐらいに思っておけばいいだろうって感じなんだけど、
最初はですね、宗教が勝ってたんだから精神分析教なんでね、中断的になったとしてもその人との時間は何か意味もなくオンラインを空けておくみたいなことを本当にやってたんですよ。
なんなのその修行僧みたいなことやってたのって感じなんだけど、来ないから分かってんのに何かを空けておくわけですよね。
何の儀式だよって感じも我ながらするんですけど、やっぱ文化の影響を受けるってそういうことなんですよね。
なんかこの人はもう来たものにするんだみたいな、なんかちょっとヤバい人みたいになっちゃうじゃないですか。
他の仕事やってやっとけよって言われると思うんですよ。
私の一緒にこの仕事を手伝ってくださっているZoeさんとかに、分かんないですけど彼女はそういうこと絶対言わないと思うんですけど、
ちょっとそういうことは佐々木さんやめて、税の処理しといてくださいって言われる気がするんですけど、できないんですよね、そういうことって。
もうね、多分その中断した人が予約枠取ってあるわけですよね。
僕消さないし、やっぱり変な祈り的なノリがあるんですよね。
消さないし、そこに何かこう他の仕事を入れるとか到底できる心境にはならないんですよ。
これはその人と話すのが必ずしも好きだった場合でなくても起きるんですよ。
生成したとか絶対ないんですよね。
これは別に何かこうここで何かをPRしたいわけではなくて、本当にそうなってしまう。
今はさすがに空いた時間にまるで機能不全にはならないけど、結構意味もなくゲームするとか、
何て言うんですかね、こうアパシーが生じちゃうんですよね。
無力感みたいな。
何かもう無力だったんだな、みたいな感じがするわけですね。
この無力感はおそらく相手の中断された方が置いてった無力感なんで、
そういうことが分かるようになった自分が精神分析の本を読んだ時に何か勝手に成長を感じるみたいな、
失敗の重要性
関係ないのに勝手に成長を感じるみたいなそういうノリはあるんだけど、
やっぱり基本アパシーなんですよ。
全然嬉しくはない感じなんですよね。
だから実際にやってる人は大変だろうなとは思うんですけどね。
これが2つ目です。
まだあるんですよ。
これ1つ目がお金の話。
2つ目が要するに中断というものがこの文化において決してポジティブに語られている。
ウィリコットがやっぱり一番救いになるんですよね。
失敗は大事だよっていう。
失敗大事なんですよ。
この話ちょっとだけ今日できるかなと思ってるんですけど。
失敗大事の話先にしよう。
後から戻ってこれる。
失敗大事というのは、
つまり環境としての母親の話なんですが、
常に成功し続けている母親の下で育つ子供ってやばいじゃないですか。
つまり我々は環境供給と自分が欲しいものの間にギャップがあって初めて何かを考えるっていうか、
自分を感じることができるみたいな感じだと私は勝手に解釈してる。
そういうこと書いてあったような気もするんだけど、
そういうことじゃないですか。
つまりお腹空く前に食事が与えられて、
暑いなと思う前にクーラーがかかり、
寒いなと思う前に暖房がかかりってやってたら、
俺不足してるっていう感じを抱かないわけだから、
お腹空いたから何か作ってとかすら言わなくなりますよね。
これを考えるとか感じるためには、
まず不足が先になきゃいけないわけですよ。
不足があるってことは環境が何かに失敗している証拠なわけですよ。
環境が完璧に私の願望を叶えることを、
先回りして先回りして理解して教えてくれていたらですね、
何も考えるようにならないっていうか、
不足をふったえることすらしなくなりますよね。
自分の不足に感ずくことすらなくなる。
現実にはそんな異常に恵まれた環境に生きてる人ってまずいませんけど、
そうなるわけですよね、理論上は。
不足を感じる、私が不足を感じるというのは、
というか不足を感じたとき初めて私ってものが浮かび上がってくるわけですよ。
これがもし赤ちゃんのときからそういう環境にいたら、
多分自己感ってのはゼロじゃないでしょうけど、
めっちゃ曖昧になると思うんですよ。
だって不足が一切ないんだから。
極端に言うとどうやればそうなるのかわかんないけど、
なんかこう性欲が湧いてきたら性欲が満たされるみたいなね。
何にも感じなくなるじゃないですか、一歩間違うと。
そうはならないと僕は思うんですけど。
というわけで失敗は大事なわけですよ。
っていう話をされるとやっぱり私の中の対人支援的な部分がですね、
少し安心できるわけですよ。
そっか、失敗を全面的にネガティブに捉えなくていいなと。
要求できなかったということに一定のポジティブな部分はあるよねと。
相手の自己感というものにとってプラスに働きますからね。
そうでなくても、これからちょっとこの話をしたいわけですけど、
自己感を形成するのが目標みたいなところがありますから。
自己感一切、それはすぐに飲み込むってことになっちゃうんだけど、
飲み込むってことは僕は気質上全然したいと思わないタイプですから、
飲み込まないように飲み込まないようにはしてますけれども、
でもやっぱり飲み込まれたい力度みたいなのはあるんですよね。
飲み込まれたい欲度みたいな。
安心じゃないですか。安心な相手に飲み込まれればね。
だから非常に難しいんですよね。
母親が母親がっていうとやっぱりジェンダー的に今の時代問題がありますよね。
もちろんそれが父親であることもあるんだけど、
この場合飲み込むのは母親なのね。
なぜなら我々は母親から出てくるからですよ。
ここはジェンダーの話はしてないわけです。
もし未来の世界にすげえ進歩して、
将来は父親から生まれることもできるようになりましたって言うんなら、
そういう政府はあるけど、
それだったらもうこの場合飲み込むのは本当に父親かもしれないんだけど、
今の時代は多分全ての人間はお母さんから発生しておりますから、
母親なんです、この場合は。
飲み込むのは父親であることも多々あるけど、そういうことではないんです。
父親が飲み込んだとしてもその場合は母親と言うんですよ。
言うべきなんだと思うんですよね。
なぜなら子宮に加味器してしまうっていうか、
子宮に取り込み返すっていうのかな、
そういう欲望が母親にあるとみなすわけですよ。
これはもちろん比喩ですよ。
例えばもうあなたこう、まず東大行きなさいと。
で、東大に行くために東大の分一にしなさいと。
だから勉強するのは英語と国語と知りませんけど私は古文と何とかにしておきなさいみたいな。
全部その通り。
そうすればあなたは素晴らしい人生を生きて何の苦労もないんだからって言ってるのは、
これは私の子宮にいるのと同じ状態になれるんだからって言うわけじゃないですか。
これを飲み込むというわけですよね。
だからこういうことをお父さんもめっちゃ言うお父さんっていますが、
その場合は母親なんですよ。
精神分析と自己感
これはだからジェンダーの話はしてないと。
ジェンダーの話なのかこれは。
難しいんですけど、いわゆるそういう話とはちょっと違うんですよね。
だからそれが言うのはおじさんとかお兄ちゃんとかでも別に母親、全部母親なわけです。
関係ないんですよその場合。
性別がどっちかとか関係性が本当は何なのかとかは関係ない。
極端に言うと近所の家庭教師のお兄さんだとしても母親なわけですよ。
だからそうはならないですけどね。
でもね血のつながってない人は大体そこまではやんないじゃないですか。
俺の言う通りにすれば幸せに絶対になる。
でもそういう先生っていたりするんで、母親感が強いなっていうことになるんですよね。
何の話をしてたんだ。
だから中断を恐れる。
3つ目がですね、当然何とかしたいという意識は、
これも精神分析家って本当大変な仕事だなとここで思うんですけど、
僕は精神分析が一番すごい状態になってるなと。
カウンセリングは一般的にこうではないなと。
よくアドバイスするしないの話あるじゃないですか。
アドバイスなんてもう本当に介入感があって、ある意味良くて良くなくても良くて。
解釈なんてもう何お前って感じがしますよやっぱり受けてると。
何でこんなに困ったこと言ってんのにそれを何かこう解釈して戻していい。
それでいいと思ってんのみたいなそういう感じってやっぱりしますよね。
その辛さってあると思うんですよ。
そこは精神分析って本当に偉いなって思うんですよね。
このように解釈かって感じがするわけですよ。
いやもう俺、奥さんに言われて泣いちゃったし死にたいんですけどって言われても、
あなたが奥さんに見ているのは母親でうんたらかんたらとか言ってるわけですよ。
不安と関係の維持
もう狂気失うじゃないですか。
ここがミソなんですよ。
そうなったとしても引き止めないみたいなのがある意味究極形。
一本足が大体沈黙してるみたいな。
俺のことどうでもいいと思ってるんでしょうみたいな感じがするわけですよ。
そうするとあなたは私があなたをどうでもいいと思ってるんですねとか。
これナンセンスじゃないですか。
恋愛だったら速攻別れられそうな事案ですよね。
でもこれをやっておきながら別れたくないと思ってるわけですよ、相手の人は。
この何て言うんだろうか、誤解された感。
いや本当はそうじゃないんだよって言いたくなるじゃないですか。
言いたくなる人はね。
私なんか絶対言いたくなってほぼ言っちゃうタイプなんですけど、本当は良くないんですよ。
本当は良くないというのは精神分析読んでるとよく分かるんだけど、
ただ私はだからここのところで自分に少し甘くしてるわけですよ。
言わないで本当にいなくなるというのを繰り返していると、
自分多分この仕事到底耐えられないなと思うんで、
手は打っちゃうっていうか、手は打ちたくなっちゃうし、
直接そうは言わないでやめないでくださいとかは言わないけど、
それはそれで効果なさそうだし言わないけど、
やっぱりただ解釈をするとか黙ってるっていうのは、
まだまだそこまでは行けてないとは思いますね。
黙ってるとか本当にこれをやめたいと思ってるんですねとか、
そんなことを言ってそこで何とか関係が維持できるかと思ってしまうわけですよ。
不安になるわけで。
この不安になるということはつまり関係向上線を目指してるってことになるじゃないですか。
この番組でも何回か言ってますけど、
関係の維持が難しい相手と我々は関係を維持しているんですよ日々。
間違いなく。
例えばサンチャレでもそうですけど、お母さんは筆頭ですよね。
お母さんのことが大好きなわけでは決してないんですが、
関係を切るとなるともう非常にそれはそれで問題だし、
本人かなり厳しいわけですよ。
っていうのはここでそのグループセッションの時に出てきた妄想分裂ポジションって問題があるわけですね。
ポジションなんで我々は妄想分裂ポジションを取るんですよね。
その時関係破壊的に動くんだけど徹底的ではないんですよ。
妄想分裂ポジションにはすごく大事な機能があるわけです。
それは苦しみを与えてくる人間に対して攻撃を加えるという。
でも攻撃加えたら関係破壊されるじゃんってあっさり思ってしまう人はそこでかなり苦しんでるんですよ。
攻撃を加えるというのは関係の維持のための行為であって、
関係を常に破壊する。もちろん破壊的に働くこともままあるから。
だからこの使い方慎重だし、慎重になるべきだし、
用事においてもっぱら攻撃的であることは許されるって感じなんですけど、不満があったら攻撃する。
でも不満があったら飲み込むというのは既に関係が崩壊しかけてるじゃないですか。
関係してないじゃないですか。言うってことは関係しようねって言ってるわけですよ。
妄想分裂ポジションの理解
他者操作的っていう言い方するんですけれども、お前ここ変えてくれよっていうのは関係維持するためですよね。
私なんかしょっちゅう奥さんに言われてるわけですよ。あなたはこことこことこことこことここを変えなさいと。
私は操作されてるわけですね。でもこの操作に乗るということは関係を維持したいからでしょ。
しかも言われるということは実は関係を維持したいと向こうも思ってるからじゃないですか。
あなたのそのまんまだとこの関係の維持は難しくなるから変えなさいって言うわけですよね。
それが多くの場合は多分他の人にとってもそうなんだけど、余計なお世話になりやすいのが、
子供との関係の維持のためにこうしなさいみたいな、あるいはもっとすごいのになってくると、
うちのそのうちの擬実家の両親との関係を維持するためにこうしなさいみたいな、だんだん要求がすごくなってくるわけですが、
だけれどもそれは関係を破壊するために言ってるわけではないわけですよね。
これ私グッドバイブスでフラソのケイゾさんに言われたことは一回もないんですけど、
彼にはそういう基準が明瞭にあるんだよなってのを勘付いたことがあったんですよ。
言わないですけど彼は。
私意識してるのかどうかも私にはわかりませんけど、
私たちが訴える不満で常に彼は攻撃をやめて許しましょうって常に判定をしたように言ってるようなんだけど、
ひどきそれを言わないことがあって、
この時のその判定基準が明らかに関係を終結させることを目指しているか目指していないかで分けてたんですよね。
私の知ってる範囲では。
だから私の訴えの中でも思わず言ってしまう昔だから、思わず言ってしまう奥さんへの不満とか、
そういうことを彼と話している時には安田さんそれは許しましょうみたいなのは全部、
よく考えてみると奥さんからの関係維持がメッセージの中に入ってる場合なんですよね。
これはあれだなと思ったんですよ。やっぱりそういうことだなと思いました。
だからこのウィニコットから始まる環境としての母親のその失敗ですね。
これが最も危険なわけですよね。
赤ちゃんにしてみると、まだ自分の関係という発想がないから、
私は母親と関係してます、これがないから。
ここが多分ウィニコットとクラインの最大の噴水例みたいになっていくんだと思うんですけどね。
母親との関係があるからこそ、クラインの世界では対象関係は最初からあるっていうのも部分対象ですけど、
母親のいいおっぱいと悪いおっぱいとの関係はある意味最初からある感じなんですよね、クラインの世界では。
だから関係を維持するためか破壊するために働くみたいな話なんだけど、
ウィニコットはそこを一段押して、そもそも関係を意識できてない段階があるよなって言ってるわけですよ。
環境と自分の区別が全くついていない段階あるよね。
ここはね、永遠に僕は議論の余地になっちゃうと思うんですよね。
松木さんが書いているみたいにニルバーナーでも自分以外の登場人物が常にいるじゃんって、
つまり人間の存在を人間は生まれた時からいくらかは意識してるんじゃないのかっていう議論はあるんですよね。
それはそんな気もしてるんですよね。
なんとなく本当にゼロ歳、10日とかでもある感じがするんですが、ない感じもするんですよ。
ちょっとわかんないなって感じがやっぱしますね。
でもウィニコットが正しいかなって思うんですよね。
なぜなら彼はメラニクラインよりは1000倍以上多くの人を見てるからね、赤ちゃんを。
だからその差は大きいかなって思うんですよね。
思うんだけど、でも対象関係が最初はないんだっていうこの話のむしろ重要な点はですね、
だからこの時にあまりにひどい環境の失敗を体験しちゃうと自我が崩壊するっていう、
よくその表現は確かによく読んだり聞いたり見たりするんですよね。
私がバラバラになってしまうっていう表現。
これは結構あって私にはそこまでは十分実感を持ってわからないですよ。
多分私だからこの段階では少なくとも妄想分裂ポジションに至る前の段階ではやっぱり人並みに恵まれてたと思うんですよね。
やっぱりおっぱいもらえてたしミルクもらえてたし、
まあ少々のダメぶりはあったとしてもうちの親の場合は、
でもまあまあ十分ちゃんとしてたと思うんですよ。
病院連れてってくれたりね。
だから放置とかされたり、なんかこう泣くと殴られるとかね、
そういうことばっかりやってるとこの自己感というものがつながっていかないわけですよね。
この場合のつながりっていうのは自己感があんまり生まれてないっていうつながりだと思うんですよ。
なんかほら赤ちゃんってその場に溶け込んでしまう感じがいいじゃないですか。
いいじゃないですかっつってもそれは育てたことが一応ある人間と、
もちろんそういう経験ないって方もいらっしゃると思うんで、
なんとなくですよね、これはもう本当に。
あの自己感のなさ、スヤスヤと寝てる赤ちゃんみたいな。
あの時間を継続してあげようと親はしますよね。
泣かれると困るからってのは多分にありますけどね。
とにかく子はお娘もオッケーで落ち着いてるねってこの状態で、
だから静かにこう静かに環境はこう環境がここで動揺しちゃうと、
もちろん赤ちゃんも動揺するわけですが、
赤ちゃんは自分で私は今起こされたとか叩き起こされたって思うその事故がないから、
これはないと思うんですね僕は。
だから対象がぼんやりと薄ぼんやりと私のことが分かってたって、
赤ちゃんの視力とか視界っていうのは今一応研究で出てるんですよ。
めっちゃぼんやりしてるんですよ。
なんかもうこれ柔度の弱視みたいな感じの人だなって感じだぐらいぼんやりしてるんですよね。
世界があるなぐらいな感じ。
だからやっぱりそれと一緒になってしまってる自分、
我々もあるじゃないですか、めっちゃまどろんでる時とか、
私はよく、これもいい私が油断できる性格だからなんでしょうけど、
美容院とか行くとあそこってやっぱり超快適空間でスクロート頑張ってるから、
なんかもうふわーってなっちゃうわけですよ。
眠ってもいないんだけど起きてもいないみたいな感じで、
自分の輪郭と曖昧な状態
自分の輪郭がぶわーってなってて、もちろん気分いいんですけど、心地いいんですけど、
これ心地悪い状態で起きるとどうなるかってことですよね。
僕はそういう風に考えてるんですけど、
この輪郭が曖昧なんだけどものすごい恐ろしいみたいな時、
ホラーだと思うんですよね。
で、マスキー・クニノさんが、これ改めて気づいたんですけど、
この世界をカフカフカが描いてるみたいな、
あ、そうだわ!と思ったんですよね。
私、審判って小説読んだ時に思ったんですけど、
このまとまりの無さ、何なんだって思ったんですよ。
これほどの作家が、このまとまりのない、
結末もいかにも悲劇だけど悲劇感すらないみたいな、
この世界って何なんだろうなって思ったことがあるんですけど、
まとまらないんですよね。
要は、まとめていきたいわけですよ。
だってまとまってるから。
これが人間の最早期の段階でははっきりしない。
まとまってないわけですね。
だから何が起きるかわかったもんじゃないんだけど、
そういう観念すらない。
そういう観念すらない時に何が起きるかわかったもんじゃないっていう感覚だけが入ってくることの危険性なんですよね。
この次に妄想分裂ポジションというやつが始まるわけですよ。
だからこれは防衛なわけですよ。
これには大きな意味があるんですね。
初めてここに来て、誤解の産物なんだけど、
母親を攻撃するという発想が出てくるわけですよね。
母親が私の代替において誤解だし、代替においてお母さんにとってめっちゃいい迷惑なんだけど、
しゃーないわけですよね。
赤ちゃんは事情がさっぱりわかってないから、
いやこれじゃない、要するにこれじゃない感が出てくるわけですよ。
最初はそれすらないってことなんですね。
だからバラバラなんですよ、あまりにも。
だけど少しまとまってくる。
実はこいつが悪いんじゃないかっていう当たりを、検討をつけるわけですよ。
その検討は検討違いなんだけど、
でも検討がつくということはまとまりがつき始めてるってことじゃないですか。
妄想分裂ポジションの誤解
ミルクの問題はこのおっぱい的な世界と関係があるらしいみたいな。
だから気に食わないときはここを攻撃しようっていう発想が出てくる。
これが妄想分裂ポジションですよね。
おなじみの。
私たちにとってもこれはおなじみだと思うんですよ。
だって誤解で人を攻撃するってことは絶対あるじゃないですか。
これがないと思っている人はとても危険だと思うんですよね。
私たちは誤解で人を攻撃しますよ。間違いなく。
相手に相手の事情があるんだけど、事情をすっ飛ばして攻撃するし、
この事情の一番厄介なやつの中に相手が妄想分裂気味であり続けているという事情。
つまりその人は自分をまとめるのが大層難しいという事情があるわけですよ。
これに対して攻撃を加えるっていうのは、僕もやっちゃうんだけど、大きな誤解ですよね。
事情が何にもないという想定で攻撃を始めちゃうわけですよ。
だからDにいるという、Dっていうのはその次のまとまりなんですけど、
最初のまとまりはPS的なまとまりなんですよ。
攻撃してくるから攻撃しようと。
怖い目に合わせてくるから攻撃しようと。
泣き喚くしかないんですけど。
自分らの不快を取り除こうとしないから攻撃しようと。
だからまとまりは出てきているわけですね。
何か訳はあるわけですよ。
自分の世界における自分の不快なんですよね。
それが自分のだと気づいてないわけですね。
だからこの、うわもうバラバラになりそうっていうやつ。
要するに致命的だと。
酷い目に合わされる。
とにかくそれだけであるっていうこの状態に攻撃力というものが発生するんだけど、
それがまだ自分という概念がないために、
自分の攻撃力だと全く思ってないわけです。
人が攻撃性を持っていると思っちゃうわけです。
投影しちゃうわけです。
つまり、何ていうのかな。
分離してすぐ相手のせいにするってやつですよね。
分離してすぐ相手に投影してしまう。
お腹が空いたというのはお腹からの不快だからね。
お腹が空いた攻撃だ。
この攻撃は自分の攻撃力だということが分かってないわけですよ。
お腹が空いたんだから空かせたやつを攻撃しようなんだけど、
そんなに合理的に考えることができてないので、
だから悪いオッパイが攻撃してきているから、
こいつを攻撃しようみたいに反撃しようになるわけです。
あるいはめちゃくちゃそれを怯えるとか。
これはすっごくありますよね、私たちの。
ピンと来られないのかもしれないんですけどね。
私たちこれはめちゃくちゃあると思うんですよ、普通に。
例えば、何でもいいんですけど、
例えばですね、ATMから、ATMじゃないな、通帳とか見たら、
最近見ないか、まあいいや。
すごい支出があるとなってドキッとするじゃないですか。
このドキッとするというのはめちゃくちゃ不快なので、
この不快感というものは、
すでにその漢字というものを自分が作り出している漢字なんだ。
数字そのものは何も作り出さないじゃないですか。
マイナス360万円とか、やめよう。
数字だと訳わかんなくなるから、マイナス36万円としましょう。
ああって思ったり、このああっていうのはすでに攻撃の呼び水みたいになります。
次にこの人が、奥さん使い込み過ぎじゃねとかって思うんですよ。
これが投影ですよ。奥さんまだどこにも登場していませんよね、現実には。
でも奥さんはいつもそうだしみたいに言うんだけど、
そんなことは関係ないですよ。状況証拠でしかないですよ。
つまりこの攻撃力は自分から発したものなんですが、
そういうものが自分発だということを認識し損ねると、
必ず誰かによって攻撃を自分がされたから辛いんだということに判断してしまうんですね。
この場合、相手が本当に悪いのか、自分がもしかしたら悪いのかは関係ないんですよ。
大事なのはここでは誤解が生じているということだけであって、
つまりこの攻撃は厳選が自分にあったということを無視したということだけが問題なのであって、
他は関係ないんですよ。他のことはその後考えればいい。
関係の維持と現実検討
私の攻撃力なんだと、私を苦しめるのは、
私を苦しめることが数字そのものが苦しめるとか、奥さんの使い込みそのものが苦しめるということはできない。
知って初めて苦しいわけじゃないですか。知ったときにショックを受けるわけじゃないですか。
そのショックというものは自分の頭が作り出してるじゃないですか。
ショックを。そういうショックを作り出せないという病もありますから。
扁桃体が機能不全に陥るとショックな出来事があっても人はショックを受けないんですよ。
つまり扁桃体というものが活性化して初めてショックを受けるんだけど、
扁桃体は自分の扁桃体じゃないですか。
そこに何か活性剤とかを注入されたわけじゃないわけじゃないですか。
活性されたのも自分じゃないですか。
だから私の力で私は私を攻撃しているというこの図は、
ショックを受けた時になくなる可能性はないはずなんですよね。
だから次のまとまりというものがあって、
ここに来て初めて自分というものが世界の中に登場するわけです。
それまでは自分というものが世界にはっきりとした形では登場していないので、
バラバラになるという、バラバラになるだけでは困るので、
バラバラにするやつというものをまとめるという力によって、
モソブネスポジションが始まるんだけど、
さらにそのまとめるということを誰がやってるんだという問いに達して初めて、
私がここに責任を求めたんだと、
私がここに責任を集めたんだっていう、
私の不快感、私が不快にまずなったんだっていう、
これが入って初めてですね、
もしかして金を使ったのは自分自身かもしれないとか、
様々なことを検討できるようになるわけですよ。
いきなり当て推量したやつを、
自分の不快感の原因にしないで済むようになるということですね。
これがヨクツポジションの始まりですよね。
なんでこういうことをやっているのかというと、サバイブするためなんですよ。
なぜならば、自分が使い込んだにもかかわらず、
使い込んだというか、Macとか買っちゃったにもかかわらず、
いつも通り奥さんがこれを使ったからこんなにお金がないんだということになって、
奥さんがガガガガガって攻撃したら別れることになりましたっていうのを避けたいわけですよ。
もしそういうことに、もし別れるっていうのが正しいんだとしても、
十分検討してからやりましょうみたいな、そういう話なんですね。
関係向上戦を目指しているんで。
だから等しいわけです、証拠が。
証拠に興味あんまりないんで、妄想分裂状態では。
悪いおっぱいが攻撃とかしてないわけですよ。
赤ちゃんのそれは勝手な思い込みというか勝手な空想なわけですね。
だけど赤ちゃんには現実検討をするという能力そのものがないので、
しゃあないよねということになるんだけど、
我々は現実検討をする能力というものを持っているので、
そこで検討をまず始めましょうという、
何のために検討するかというと、生き延びるためなんですよ、やっぱり。
悪いおっぱいに攻撃されているということばっかり言っていると
死んじゃいかねないので、生き延びるためにはやっぱり
現実を検討した方がいいし、その前に関係を維持するなんですよね。
お母さんのせいにばっかりしていて、お母さんが家に出てっちゃいました
みたいなことになった方が、はるかに困るんで。
だけれども、このことをあんまり
子どものうちから意識させられ続けるというのは
そもそも問題なわけですよ。
お母さんが家からいなくなったら本当困るから、お母さんを大事にしなきゃ
みたいなことばっかり考えているというのは非常に大きな問題なわけですね。
だから、最初は子どもがPSでも
安心して攻撃できるような環境というのは大事だという話が
まんま、さっきの話ですけど
カウンセリングルームに投入されるわけですよ。
カウンセラーを安心して攻撃できる環境は大事なわけですよ。
その時にカウンセラーにはさっき言った3つの不安が
つきまとっているわけですね。
お金がロボンすると、あとは中断という
このあってはならないとされる
私はいないくて幸いいませんけど
スーパーバイザーが後でガッチリ怒るとかね
人格的に厳しい状態のことを言われるとかね
スーパーバイザーにこれじゃ中断して当然だねみたいな
知らんけどね私はね、聞いたことがないから
それをリズメで言われてもすごい嫌じゃないですか
この時私が昔こういう事業でこういうことを教えたけど
あるいは教えたんじゃなくて
教わってるかもしれないけど
この場合クライアントにこう言えば
関係の維持の重要性
中断にするのは分かりきったことですねみたいなことを
知らないけど、そんなことは言わないと思うんだけど
めっちゃ嫌だと思うんですよ。だから中断を恐れるというのは当然なんですよ
そういう文化があるわけです。
3つ目に自分が誤解されているという
中断されるという状態は
自分が少しも望んでいない
アパシー感みたいなのさっき言いましたけど
そういうこともあるのでとにかく
この3つが付きまとっている人が
要するに解釈しか言えないですからね、結局は
行かないでくださいとか言えないわけですよ
だからあーっていう風に言ってしまうわけですね
この状態の人にとっての中断というものがですね
関係破壊的な時に
どういう風に
つまりカウンセラーも関係破壊的になりうるってことなんですよ
いや、維持しよう維持しようと頑張ってても
こんな目にあってまで維持するのやだわみたいになっちゃうんですよね
お金のことも不安だし
なんとかな、だったらもう別のもう少し
優しそうな、よく分からないけど
優しそうなクライアントが来てくれれば
お金も維持できるしみたいに
そういう空想を始めてしまう
もうちょっとワシだと思うけど、そういうことはありうることですよね
だからそういう風に考えてしまうと
空想なんで妄想なんで
つまり万能空想なんで自分に都合のいいことばかり考え出す
ということでしかないんですけれども結局は
そういうことをやり出すと関係は崩壊気味に向かいますよね
だからカウンセラーはそこで頑張ると
関係の崩壊を自分からはやらないように
常にいろんな意味で自分を
モニタリングし続けないとまずいわけですよ
これは現実検討そのものですよね
というわけでこの現実検討をしているから
現実検討能力の向上
この関係が続いているんだというのを
現実検討を続けることだけによって伝えていくというのが
おそらく理想とされるような形なので
その現実検討能力を高めてくださいみたいな
そういうことですよね
来ている人に高めてくださいみたいな
高めさえすればいいわけですよ極端に言うと
だからアドバイスしないみたいな話しなくはないと思うんですけどね
介入はすると思うんだけど
でも現実検討能力を高めてくださいというのは
現実をよくよく吟味した結果やることなら
なんであってもまあいいよねっていう
現実を十分検討してそれやったと言えるのっていう話であって
いいんだったらいいんだってことなんですよね
スーパーバイザーに言われると何を恐れているって
これもスーパーバイザーにこう言われてつらかったです
みたいな記述は読んだことがないからわかんないんだけど
恐れているものがあるとすればやっぱり
あなたこの現実検討してなかったじゃんってことだと思うんですよ
盲点になってるじゃんあなた迂闊じゃんって
これが一番嫌なんだと思うんですよね
これが嫌だということはそのディポジションをすごく大事にしている
証拠だと思うんですよね現実検討式を高めたいと
常に思っているからここをつかれるというのが
つらいともうちょっと言うとですね
何のためにスーパーバイザーがいるのかと考えてみると
ここをそこまで恐れる理由はないわけですよ
いやうかつだからスーパーバイザーいるわけじゃないですか
つまり自分一人では全てを見切れると思うのが
そもそも万能的なわけじゃないですか
関係が壊れるという可能性は
捨て切れるはずがないですよ
だって相手が来なくなってしまえばそれっきりなわけですから
他にもいろんな理由があるわけですから
仮に来続けてたって心を閉ざし続けていれば
意味が全くないわけで同じことになってしまいますよ
あの話をすっげー聞いてるよって何も聞いてないとかね
そういう感覚を生き続けるってことは
起こりうることなわけですからもっとすごいのもありますよね
あの先生の言う通りにやるのが大好きで
先生の言う通りにやってるんです
こうこうこうこういうやつですみたいなことを言って
全然やってないとかね
そういうことあるわけですよ
演技生みたいなのの極端な形みたいです
で体験したこともカウンセリングやってるような人って
きっとあると思うんですよね
これはもう全く関係維持できてないですよ
維持できているという雰囲気をそこにもたらしている
維持できてるわけじゃないですよ
そういうことっていくらもあるはずで全部嫌なはずで
でも見落とすじゃないですかそんなのは
これがだから失敗なんですけどね
失敗大事なんですよ
なんでか見落とされたくないからですよねクライアントさんは
自分が結局見落とされるようなこと一生懸命やってんだけど
お母さんの機嫌取るってやつなんだけど
これ何のためにやってるかというかやりたくなんかないわけですよ
本当の気持ちに気づいてほしいんだけど気づかれると
そのお母さんとのかつての関係からして
何を言われるかわかんないから気づかれないように頑張るんだけど
気づかれたいわけですよね結局
だから最後までカウンセラーが気づきませんでしたっていうのは
なんか表面的にはえらい穏やかなんだけど
すっごく困った時代なわけですよ
で結局その時一番困ってるのは来てる人なんですよ
ある意味では
もちろんカウンセラーも実に困ったカウンセラーだということになるんだけれど
でもこのアンビバレントじゃないな
裏表について
何にも気づかれないというほど
徹底的に操作されて
徹底的に偽装されてしまえば
やっぱり見えなくなってしまうということが
スーパーバイズっていうのは結局そのためにあるんだろうなっていう感じがしますし
それってやっぱり究極的には関係向上
自我の脆弱性
関係維持というか
関係を結ぶということに向かってるわけですね
全く関係が結べていないことに全くお互い気づかないというのは
やっぱりここに無意識で出てくると思うんですけど
無意識のお互いの攻撃性というものが活発になりすぎていて
結局どんなに表面的には
あるいは意識的にはうまくいってる関係でも
明らかにその関係は壊れていて
潰しんでやるものかって無意識では考えられていると
そういうことなんだと思って
この話は結構ややこしいんですけれども
何のためにでも関係を結ぶ必要があるんですかっていうと
関係を結ぶというのがその人の
結局自我の安定というものそのものだからです
対照関係なんで
心の中のお父さんお母さん心の中の大事な人たちとも
関係がどうなっているかっていうのを
言ってるわけですよ最終的には
自我がバラバラになるのが一番恐ろしいこと
それはもう実質上
全く無理解な親に
全くありえないような世話とも言えないような
扱いを受けるってことですから
自我が崩壊するっていうことに
結びついているわけですよね
自我が崩壊するっていうのは例えば
自分の心の中の親というものが
めちゃくちゃ恐ろしいですよね
それは現実に見えるってことですから結局対照関係って
そういうことですから投影するんで
私が母親だと思っていた人は実は
全然違う人でしたみたいな
表現するそれも幼児のうちに表現する親というのが
どうしてそういう危険性の話になってくるかというと
お父さんだと思っていたんだけど
そうでもありませんでした
お母さんだと思っていたんだけどお母さんでしたみたいな
非常に難しくなるじゃないですか
自分というものを安定して維持するという意味では
だから表現するというのは
一番やばいのが
例えばお母さんだと思っていた人が消えました
あるいはお母さんだと思っていた人が鬼になっちゃいましたとか
こういうのが恐ろしいわけですよ
対照関係の中でいろんなことがあるわけだけど
結局安定させるためには対象がそもそも
安定しててくれないと困るわけですよ
その対象の安定を目指すということが
関係の安定を関係の維持を目指すということで
要するに対象が向上的で関係が向上的で
だから自我というものが向上的
連続性を帯びてくるわけですよ
一番最初の連続性が大事だといったのがミニコットで
まあそうはそれは大事ですよ
大事なんですよ結局
だっていわゆるエディプスもやめにしますけど
エディプスコンプレックスってそうじゃないですか
お父さん表現しますよね
お父さんお母さん私すごく安定して仲良しの関係って思い込んでたのに
実はお父さんとお母さんが仲良しで
この間に割って入ろうものなら除静するぞみたいな
めっちゃ表現してるじゃないですか
この表現がいかにも起こりやすいポイントを
PSとDってのはそのタイミングなんですよ
表現するというタイミングで
持ち答えられるかどうか
白が黒になっちゃうという状態
持ち答えで初めて灰色が見えてくるって話で
トレーニングに失敗したときお母さん優しかったニコニコしていたのが
急にものすごい激怒する汚いものってのは本当だめなんだ
みたいなことを学んじゃうわけですよね
そうすると一番まずいのがお母さんは2人いるのになってしまう
そうすると当然私は2人いるって話になるわけですよ
おもらしする悪い私としない私みたいに
別れてしまう
それがスプリッティングの究極形で時間がバラバラになっています
統合しなければならないんだったら
なるべくどんな人でも灰色なんで
白い人っていませんから黒い人はいないように
これを信じられるようになるかどうか最終的にはそういうことですよね
でも最初は白と黒に分ける
っていうこと自体が意味があるわけですよ
それすらない世界だと本当にバラバラになってしまうので
白と黒に分ければ少なくとも
減るじゃないですか要するに
ものすごくバラバラだったのが白色の私にまとめられる
黒色の私にまとめられるこれだけでもだいぶ
マシですよねまだまだですけどマシですよね
灰色になったときに私は1人の人間になって
相手も1人の人間になって
灰色が急にバチッと割れたり
変装とかしたりしなければ自分てものが安定して
俗に言うところに
自己肯定感が高くなるわけですよ
自分てのがずっと同じ自分でいていいんだってことですから
条件が変わっても自分は同じままでいいんだってことですからね
ダメなんだってことになるから
白になったり黒になったり忙しく変えなきゃなんだとなるわけじゃないですか
この方が遥かに不安定になって
この不安定さが行き着くところは
要するにバラバラとか崩壊とかそういう風に言われる
わけですよだって我々は
自己の整合性の重要性
条件て変わりますでしょ春夏秋冬あるじゃないですか
実は我々はしょっちゅう変わっているので
バラバラだというのは
現実の上では間違っちゃいないんですよ
バラバラになりうるんですよだけども観念の上では
そうではないですよね春夏秋冬だからといって
いちいち抜き場春抜き場夏とかになんないわけじゃないですか
アカウントでさえ僕なんかめんどくさがりだから変えないんで
ずっと同じアイコンでずっと同じアカウントで
やってるわけじゃないですかこれが向上性というものの
意味です