1. グッドモーニングボイス
  2. 【GMV 548】成功と失敗を分け..
2022-02-03 29:10

【GMV 548】成功と失敗を分けたい気持ちがある

客観的には決まらない
00:05
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
2月3日ですから、昨日も受験で、今日も場合によっては、いずれにしても結果が出る云々で、そわそわする一日ということになりますね。
成功とか失敗という表現があるじゃないですか。
これ、私は表現のような感じがするんですけれども、
失敗という表現を取った時って、つまり、グッドバイブスでいうとどっちもイリュージョンになるかなって思うんだけれども、
僕らが失敗したと表現を取る時というのは、何を意味するんだろうと。
最近ちょっと失敗がテーマにあちこちになっていて、それぞれのタスクシュート、文脈における失敗とか、
ライフハック文脈における失敗とか、それこそ受験文脈における失敗とか、さまざまあると思うんですね。
人生文脈における失敗とかですね。
本当は失敗というのは、その人の価値観があるから、その人その人の価値観があるから、客観的には決まらない言葉なんですけれどもね。
なぜかこの言葉、多分罪と罰と似てますよね。
インパクトが強すぎて客観的に決まるような気がしちゃうんですよね。
何をもって失敗成功とするのかって言うじゃないですか。
でも言ってる人って嫌がられてると思うんですよ。
失敗と成功は自明だと皆さん思っているんでね。
ところがその自明だの中身が一致してないと思うんですよ。
一致してないにもかかわらず、一致してると思うところに水を指すべきじゃないっていうのがあるんですよね。
あるような気がします。
受験は一見大変分かりやすくできているわけです。
受かれば成功だし、そして受かった学校の偏差値が高ければ高いほど成功だし、そうでなければ失敗なんだけど、
これがですね、的畑海人さんが心はどこに消えたでも書かれてましたけども、
下手な学校に受かってしまうと後々すっごい後悔することになるわけですよ。
私は割とその気持ちはよくわかる気がするんですね。
私は受験であまりにも成功してしまったので、かなりその後厳しいことになったんですね。
ここら辺の文脈を聞いて、それは人生的には失敗だねって思う人もいると思うんですよ。
この辺のところを早く決めたいっていう心理があるんですよね。
私は入った学校が、学業レベルで言うと極度に私より高すぎたんですよ。
そういう意味では失敗なんだけど、終わった後で考えてみて、
03:03
あの中学・高校は失敗だったかというと何とも言えないんですよね。
すごい面白かったですしね。
それを旗で決めることが大事なんですよね。
それを旗で決めるのは無理なんだけれども、経験しないとできませんからね。
でも決めたいという気持ちってあるみたいなんですよ。
それが難しくはないんだけれども、
グッドバイ・ウィズで言う話の最後まで決まらないというのは、
最後まで決まらないし、最後になっても決まらないかなと思うんだけれども、
最後まで決まらないというのは一つの方言なんですけれども、
最後になれば決まるくらいに思っておかないと、
やっぱりこれは決めたいという気持ちがどこかで強く働いているという意味なのかなと、
そういうふうに最近少し思うところがあるんです。
いきなりタスクシュートの話になっちゃうんですけど、
タスクシュートやっていてですね、一番私がいい使い方だなと思うのは最近そうなんだけれども、
いや、これは私にとって一番という意味ですよ。
私にとって一番いい使い方は、
直前まで何もやることを決めないんだけど、
決めてやったらいきなりそれを記録するというのがいいんですよ。
いい気がするんですね。
つまり、記録をするためだけにタスクシュートを使うと、
やっぱりこれが一番いいなと個人的に思っています。
そうするとライフログと同じなんじゃないかと、
思われるでしょうけど、状況によってはその通りですね。
状況によっては同じになります。
ただですね、これも早く決めたいという気持ちもわからないんじゃないんですけど、
絶対同じにならない場面に遭遇するんですよ。
あるタイミングになると突然シミュレーションを今しなければならないという瞬間が、
少なくともしたいという瞬間が来るんですね。
例えば今まさにそういう時間帯に近いんですけど、
もうちょっと経つとね、11時に家を出るか12時に家を出るかを決めなきゃならなくなる。
これは本当にタスクシュート独断上で、
あ、なんか受験のためにあるみたいだって思うときが、
昨日も一昨日もありました。
こういうふうな条件で進行していくと何時には出なきゃならない。
こういうふうな条件で進行していくと、
何時には出なきゃならない。
こういうふうな条件で進行していくと何時には出なきゃならない。
で、その場合に、例えば朝食の時間をこの辺に持ってきて、
どのくらいの朝食を食べられるかみたいなのは、
タスクシュートだとパッと出るんですよ。
これをライフログのツールじゃ全然出せません。
だからこういう時にはすごい重宝する。
突然ライフログがカーナビのシミュレーションみたいに切り替わるんですね。
このタスクシュートっていうのは、
いろんな側面を状況状況によって変えていくんですよ。
06:02
カメレオンみたいにね。
変えていく。これができるのが大きいんですよ。
明日1日を見たいっていうのもできるし、
この2時間だけを見たいっていうのもできるし、
当分見ずに済んでライフログを撮っておけばいいっていう風にもできるんですよ。
で、それをするべきだと僕は思うんですね。
これをどれかに決めちゃわないことが大事かなと思うんですよ。
3、4ヶ月を全部シミュレーションするとか、
あるいは全部ライフログとして使うとか、
そういう風にしない方がいいと思うんですよね。
なぜなら私たちってそういう風に要請された条件に応じて、
自分のやることを変えるから、
それこそフットワイブスっていう受動的なんでこの辺は、
非常に受け身的で、なぜならこういう条件になったから、
こういうシミュレーションをしたいっていうのが出てくるわけですよ。
合格通知がこことここの出る時間が違うっていうのも所要のものなので、
そういうものがあるから、
それに合わせてシミュレーションを変えていかなきゃならないんですよ。
これを何ヶ月の先に分かるかというと、
学校が決めるまでは分からないわけですよね、こういうことは。
ちなみに学校が決めたとしても、
繰上げ合格という問題があるので、
繰上げ合格を事前に組み込むことなんて、
無論到底できないじゃないですか。
順次、今すごい多いんですよ。
なぜ多いかというと、やっぱり子どもの奪い合い競争みたいなのもありますから、
なるべく早く決めさせたいけれども、
そうは言っても蹴られる学校はいっぱいあると。
かなりの名門でも名門同士の争いがあるから、
やっぱり学校側が蹴られてしまうと。
昔だったら蹴られることは考えられないような学校でも蹴られるわけですね。
蹴られるということは当然、人を確保しないと、
学校としては経営に関わってくるから、
次から次へと繰り上げていかなければならないので、
最初の合格者の数はえらい少なくて、
どんどん繰り上がっていくという形が結構あるんですね。
なんかこう、ドラフト会議を見ている感じなんですよね、あれはね。
ある意味では。
だから、そういうのを事前に組み込めとか、
全てを計画しておくとか、
最悪の事態に予測するとか、無理なわけですね、土台。
何をもって最悪とするかは、この場合全然決まらないし、
全てが相手次第で決まっている。
でも、人生って全ては基本的にこういうふうにできていますよね。
ドラフト会議だってそうですけれども、
相思相愛とかって言いますが、
そうそう簡単には、
球団も12個もあるし、順位も何個もあるわけで、
あれほどの能力があってもですね、
結局こういう非常に大事な場面で、
受け身的になっていくんですよね。
つまり、能動的にライフスタイルを決めるほど、
ベターンなライフが送れるというのは、
いろんな結構目に見える大事な事項ですら、
無視していかないと成り立たない考え方だと思うんですよ。
09:00
そういうふうに考えてみると、
基本としてはですね、僕が思うにタスクシュートは、
直前まで何をするかなどというものは、
決めずに置くのがいいと思うんですね。
で、この失敗という話、
例えばタスクシュートでも失敗というのは、
私は文脈次第で変わってくると思うんですけども、
例えば、書いてあることができなかったと、
これは人によっては失敗なんでしょうけれども、
分からないわけですよね。
それこそ最後まで決まらない。
少なくとも1日が終わると、
少なくとも1日が終わるまでは決まらないと思うし、
私が思うに人生が終わるまでは絶対決まらないと思うんですよ。
書いてあることをやれなかったというのが、
悪いことかいいことかは分からない。
で、決めたいという気持ちというのは、
出てくるのかもしれません。
ならば書かないことだと、
私はそういうふうに言いたくなるんですね。
これが極端だと言うんですけど、
そうは思えないんですよね。
でもね、書いたことにいたずらに左右されるぐらいなら、
書かないほうがいいと思うんですよ。
ここで何でもいいんですけれども、
本当に何でもいいんですよ。
プレゼンの準備って書いておきながら、
それをしなかったと。
それがどうして失敗と言えるのかと。
しないほうがいいプレゼンができることもあるかもしれませんし、
そもそもですね、
例えばじゃあして、
プレゼンはオミクロン株のせいでなくなりました。
この場合失敗なのかというと、
難しくなってくるじゃないですか。
この場合成功なのかというと、
これはやっているような人は、
時間をもったいないというのをすごく気にするので、
ではオミクロン株があったから、
中止になったプレゼンのための準備をした時間は無駄だったということになりますよね。
何らかの意味で。
少なくともプレゼンが行われたという状態に比べると、
この分の価値は下がりますよね。
この種の評価を何のために下すのかということなんですよ。
どう考えてもこの種の評価をわざわざ下すとすると、
自分をがっかりさせるためということになっちゃうと思うんですよね。
それはいらないような気がするんですよ。
もちろんですね、
ここのところ受験でこの論争に私もついつい感情的に巻き込まれちゃうんだけど、
もちろん悪いふうに思っているほうが、
自分に緊張感が与えられるという、
これは倉園さんが繰り返し抑止しているというのかな、
ブレーキかけているような発想なんだけど、
これは本当に根強いんだなというのを場面場面では感じますね。
自分が緊張しない、油断するということをものすごく警戒している精神であって、
わさにうちの奥様なんですが、
ちょっとでも気持ちよく受験をすると失敗するって思っちゃうんですね。
私は周りを見ていて全く逆だと思うんですけれども、
本当に最高学府に行くような連中がゴロゴロいた時代もあったんですよ、私は。
12:02
そういうコースにもいたから。
そこら辺の子どもたちというのは、
常に自分を謙虚に見て油断しているような状態で、
ほど遠い感じがするんですよ、全く逆っていう。
野球選手とかでもそうじゃないですか、そういうものだと思うんですよ。
競争で基本的に勝てる人たち、勝ちまくってきている人たちの精神状態というのは、
ある意味強き一点張りに近くて、だってそりゃそうですよね。
他の普通の人たちと比べると自分は圧倒的に火が出ているんですよ。
そういう状態の人たちの精神状態というのは、
あまりに近くて、だってそりゃそうですよね。
他の普通の人たちと比べると自分は圧倒的に火が出ているんですよ。
圧倒的に火が出ている人の集団の中でも圧倒的に火が出ている人ばかりなのに、
そんなに謙虚で弱気なのが本心だというのがむしろ不自然だと思うんですよ。
まして10歳、11歳ではね。
そういうふうになるので、忌ましめまくるという心理というのは、
決して最高級の、僕にするとゲームだけど、
ゲームプレイヤーとして最高級の人たちが自らを忌ましめまくっているという例は、
あんまり見たことがないなと思うんだけど、
一般的には忌ましめるというのが評判が高いなと。
多分、人が優越感に浸っているのを見るのが自分の自尊心を傷つけるせいなんだとは、
この見方をとっちゃうと精神分析的だし、感じ悪いんでしょうけれども、
やっぱりこっちの方が僕には自分のナルシズムが傷つけられるから、
人には忌ましめてほしいんじゃないかなと。
この見方意地悪いかもしれませんけどね。
まあまあ、そういう感じで、
まず思うのは、忌ましめるのはやめといた方がいいと思うんだけれども、
せめて事前に書いたことの通りにできない方といって、
自分をがっかりさせる目的で何か書かない方がいいと思うんですよ。
それをやるのは本当に簡単ですよね。
ハードル超難しそうなことを書いておいて、できないでしょう。
だからすぐにがっかりするじゃないですか。
それをやるのにどこに客観性を求めようというのかと。
全く逆の方面もありまして、書いてないことをやっちゃうわけですよ。
書いてあることをやれないのと書いてないことをやっちゃうのは全く同時に起こりますよね。
これも失敗にみなされがちなんですけれども、
これは全く問題ないと思います。
これも失敗しているかどうかはやっぱり結構決まらなくてですね。
私、先日だいぶ前ですけれども、
リンを粉々に割ったんですよ。不可抗力ですけどね。
あの時は失敗ですよね。
ところがですね、あの事件があった日あたりからこっち、
15:06
非常に減っているんですよね、妻とのいざかりが。
で、なぜなのかはよくわからない面もあるんですよ。
ただ、あれが失敗だったかどうかということは今となってみるとかなりわからないなと。
その評価だけを取るならば、むしろ成功だったんじゃないかと。
もちろんもくろめないですよ。
もくろめないけれども、あんなのは自分でも絶対やりたくないですから。
ただ、失敗だったかと言われると難しいなって思うんですよね。
何を目指しているのか、
あれはどうなってほしいのか。
あれのあった以降のほうが私は生活を楽にできているのは間違いないんですよ。
もちろん今しめてはいませんしね。
今しめてあれが起こさずに済むくらいならずっと今しめまくりますね。
というか、今しめてはいるんですよ。
あの人のことは。
引き起こしちゃうのは今しめてないせいでは全然ないんですよ。
めったに割りませんし、私はものなんて。
あれほど見事に割ったという経験は人生で初めてに近いかもしれないというレベルなんですよ。
49年で初めてとかいうことは頻繁にはやらないですよね。
うっかり物を忘れるとかそういうこととは違うんで。
でも今思うとあれが失敗だったかどうかは少なくとも決められないというか決まらないなと思うんですね。
正直に感情をするならば。
この正直に感情をするって大事なんだけど。
さっきの受験の話に戻っちゃうんですけど、
私自身の感情を持っていないといけないんですよ。
じゃあというので、他の人の評価を考えてみて、
一番あれを喜んだのは間違いなく自分の感情を持っていないといけないと思うんですよ。
自分自身の感情を持っていないといけないと思うんですよ。
自分自身の感情を持っていないといけないと思うんですよ。
じゃあというので、他の人の評価を考えてみて、
一番あれを喜んだのは間違いなくうちの母なんだけど、
うちの母は後悔してるんですよ。
特に妹に関する件では後悔してるんだけど、
将後もうあそこに入れたのはまずいことしたなって思ってるわけですよ。
明らかに。
あそこじゃなければ生き生きとしてもう少しマシな人生を…
果たしてそうなるかどうかも疑わしいわけというか、
当然そういうふうにはならないんですけどね。
パラレルワールドの話は以前したことがありますが、
今回はパラレルワールドの世界なんだけど、
絶対無意味なことを頭の中で考えてるだけなんで、
やめたほうがいいと思うんですけれども、
18:00
とはいえ、世界遺伝ってやつですよね。
あれ100%おかしいと思うんですよ。
だけどとはいえですね、
そういうことをやっちゃうのが人間の頭なんだけど、
うちの母がやってしまうんだけれども、
つまりですね、後悔するってことは失敗したってことじゃないですか。
あの大成功だと思ったのは大失敗だったということには
なり得ると思うんですよね。
で、どっちでもないと私は思うんだけれども、
どっちかにしたいという人間の心理が働くせいで、
多分母の頭の中で失敗になってしまったんですね。
それはですね、結局怒ってしまうことだから、
しゃあないと思うんですよ。
その人に向かって失敗したわけじゃないって
一生懸命言い募っても、もはや無駄だと思うんですよね。
母にとっての成功というもののイメージから
遠くかけ離れてしまったために、
そのイメージを持つのをやめろと言っても、
持ったのはもう30後半の頃でしょう。
今はもう70過ぎてるわけで、無理ですよ。
そのようなことを今更言ったところで、
聞いちゃくんないしね、そんな話は。
つまり成功は失敗になったわけです。
私の中では成功は失敗だか成功だか
わからんものになりましたけれども、
だからうちのお母さんは今言うわけですよ。
孫に相当する、私の娘の受験でも
ほどほどにしとけと。
つまりこういうふうになるんですよ、人ってのはね。
これを考えるにもつけて、
タスクシュートの成功失敗を直後に評価するのは
なかなか難しいんじゃないかなと思うんですよね。
というか到底無理だろうなと思います。
それが客観的に決まると思うところに
穴がある気がするんですよ。
みんな主観的につけてると思ってると思いますが、
地図っていう皮膚が時々、
タスクシュートに出てるんですね。
カーナビと。
カーナビとよく似てるんで、
カーナビは例えとしては使いやすいんですね。
ただ、地図がないっていう話を無視してるんですよ。
あれは未来のことについての言及が含まれているんで、
未来は一寸先は闇ですよ。
闇は地図ない。
地図がないから闇なので、
地図のないところの目的地を設定して
そのシミュレーションをしてるとしても、
やっぱりそれは闇なんですよ。
それに対して評価をする、
あるいはシミュレートを取るというのは、
できそうに見えるシーンもあるんですよね。
だから私も出発時刻について今日はやるんですけれども、
実際にはできちゃいないんですよ。
確定事項だと思うことが大きな脅し穴ですよね。
だって今、深度8とか南海トラフとか来たらどうするのかな?
どうしようもないんだけれども、
そういう起きたという話になればですね、
起きたことが現実なんですから、
起きてない現実が地図でしたっていうのは、
もうデタラメですよね。
21:00
建物が建っていないところに建っていることにしておいて、
いやいや、建っているはずだったんだよって言っても、
ダメなわけですよね。
建っていないのも現実なんで、
両方は取れないわけです。
だから本当のところいかなるシミュレーションもできないんですけれども、
しょうがないというレベルがあるわけですね。
ただ、日常からこれをやっておく必要はないと思うし、
実際できないことをやっているわけですし、
で、できてもいないんですよ。
できているような気がしている。
できているような気がしているだけのものを使って、
わざわざ自分をがっかりさせることはないんですよね。
もしこれでがっかりするとしたら、
そのがっかりもバーチャルだし、
いましめもバーチャルだし、
警戒心もバーチャルです。
のはずですよ。
事実に立脚しているわけではないのですから。
だからこの辺のことをですね、
意識をあまりタスクシュート中心に持っていかれないようにするためには、
むやみに書いておかないことだと思うこと、
書いてしまったとしてもその通りにやろうなんて思わないことと、
その通りにやったかやらなかったかを評価の基準に持ち込まないという必要があると思うんですよ。
だから書かれた通りにできなかったか、書いてないことをやってしまったかについて、
いちいち何かを考えないと。
ただやったことの記録は、
なるべく正確に残していくという形を維持してさえいればですね、
書いてあることは全部終わるんですよ。
これはちょっと今飛躍させましたけれども、
書いてあることが終わらないのが当然という話には私は乗れないんですね。
タスク管理においては、書いてあることはすべてやれるというふうに思います。
そこに成功と失敗を持ち込まないことが大切。
ましてがっかりとか論外で、がっかりと失敗を持ち込まないことが大切。
ましてがっかりとか論外で、がっかりするいかなる理由も今言った通りないんですね。
イメージとしては、
国の未知の宇宙に、実際そうなんで未来ってのは、
未知の宇宙に向かっていますと。
どこへ行くのかも、どこにいるのかもよくわかんない。
ただ来たところの記録だけは残っていきます。
これは未知なんで、私がこれから何をするのかは本当のところはわからない。
わからないんですけれども、やってみるといくらかわかってくるわけです。
これをデジタル記録上にすぐさに残していくことで、
もし同じようなシーンに見えるシーンが出てきたときには、
前と違ったことができるかもしれない。
それをいささか補助輪付きでやりやすくするのがタスクシュートだろうと。
24:05
この時間軸で見た場合。
こればっかりやっていると、特に書かれたことばっかり見ていると、
その評価がリアルに見えてきて、
自分がいる空間の方を定欲無視するようになります。
よく考えてみると、例えばですが、受験の製品にも
長らく私は実母の評価というものを組み込むことを忘れていたんですよ。
考えてみればあれは実母の思考によって、意向によって始まったことだったはずなのに、
気がつくと私は自分が入った中学について成功だったか失敗だったかを
自分自身の体験だけを検討に入れていたんですね。
でも、いくら私があれが成功だったと言ったとしても、
母にとってそうでないならば、トータルプロジェクトとしては成功ではないわけですよ。
社長がNOと言っているプロジェクトみたいなものです。
この辺は難しいです、確かに。
私はいろんなものを含み込まなければいけないはずだと思うようになったんですね。
この一見を通じて。
例えば父は何も言わないし、ほぼ無関心なんじゃないかと思うくらい、
あの人変わってるんでね、思うんだけど、
でも父だって何か思うところあるはずなんですよね。
結局、経済的には全部父が持ったわけですからね。
で、父の意向を考えてみると、どうなんだろう、あれは成功だったか失敗だったかっていうのは、
父親を含めて考えるとどうなるだろう、一気に複雑になります。
ほぼ答えは出なくなります。
なぜなら彼は情緒的にどうも思ってないように見えますからね。
で、まあそれこそ妹はどうなのかと、
私のそれについて言って妹はどうなのかと考えてみると、一層カオス。
これ、ただ家族を入れただけなんですよ。
にもかかわらず、成功失敗はもう決まらなくなる。
つまり主観なんですよ。ここ大事だと思うんですけどね。
どうなんですかね。皆さんは成功失敗を客観だと思っているわけじゃないですか、世の中的に。
成功とか失敗っていうのはあるものなんだと。
でも、自分一人ならあるとも言えなくはないですけど、
感情的に喜んだ、悲しんだ、あるいは腹が立ったというのと分けてもいいですけど、
私それ絶対に映像化しないと思うんだけど。
でも家族4人をこの評価に追加した途端に見えなくなるようなものが客観であるはずはないですね。
客観というのは太陽が東から昇りますってやつですよ。
もうちょっと言うならば、あれですよ。石を空に向かって投げても、
1万回向かって投げても、まず間違いなく下に落ちてきますっていう、
これを客観と言うんですよ。
これすら客観じゃないっていう哲学者もいますけど、
まあこの辺が客観でしょうね。
だからこの辺が客観なんですよ。
性比に関しては、家族4人の中でもコンセンサスが取れませんというその性比が、
何をどうしてそれが客観と言えるのか、言えるわけがないですよ。
27:02
私があの学校に入ったのが成功だったのか失敗だったのかは客観的には決まらないんですよ。
ただそれでも丸かばつかをつけたいという気持ちがあるからつけるっていうのは、
もうこれはつまりバーチャルなんですよ。
バーチャル以外の何者でもないじゃないですか。
昔私が子供の頃、ベストプレイプロ野球というので、
ロッテを優勝させて喜んでたわけです。
バーチャルじゃないですか。間違いなくバーチャルですよね。
まずロッテを優勝させることが、私にできるはずがないですよね。
もう一つはそれで喜んでるのはバーチャルじゃないですか。
もう一つはそれで喜んでるのはお前だけだって話じゃないですか。
それと何にも変わってないですよね、この話。
トータルで見ていけば。
それにもかかわらず、何かこれを客観だと思おうと頑張ると。
ロッテの優勝が客観であると思うように頑張ったって、
そういうことを一生懸命ベストプレイプロ野球で優勝したんだよって言って回っても、
誰も聞いちゃくれないと思うわけですよ。
ちなみに私の時代は、
時代っていうのがおかしいか。
初柴清さんとかを呼ばんにして優勝したことが一回あります。
結構難しいです。ファミコンですけどね。
完全に脱線してるんだけれども。
遊びでやる分には、別に丸は通はどうでもいいと思うんですよ。
ただ、それで抑圧的になるようなものは全くないですよね。
それを私は実人生の反省に生かそうとすら全く思いませんし、
基本的にカッコログについて、
皆さんが私がどうやってるというふうにイメージされているか分かりませんが、
ほぼ見ません。見ることはほぼないです。
全部タスク集とお任せです。
平均の時間が割り出せるとき、あるいは割り出せるのが便利なときに出すというのと、
昨日何を食べてお腹が痛くなったのかを調べるときには、
グッドバイオス的にはどうかという面もなおあるにせよ使います。
そのぐらいですね。
29:10

コメント

スクロール