はじめに:番組紹介と近況報告
おはようございます。佐々木正悟の精神分析的ラジオをお送りします。 7月6日月曜日、サラダ記念日、7時29分です。
はい、空はどんより、梅雨空ですね。 今年梅雨あってよかったなぁと思うんですけどね、これが去年はなかったじゃないですか。
そして、国書がいきなり6月から来て、今年はそういうことはなくて、だいぶ、だいぶ過ごしやすいな、これが続くと本当、仕事はかどるなと思うんですけど、まあまあ、それは良いとしまして。
引き続きですね、3ヶ月チャレンジ、第15期の募集をしております。
8月1日から10月31日までの3ヶ月。 7月中にはお試し4回というのをお試しすることができますので、
ウェブサイトの3ヶ月チャレンジの方からですね、Xとかノートとかでもお知らせしますので、今ではサブスタッフからもお知らせさせていただきますので、よろしければご利用ください。
できればですね、まずは4回のお試し。これは損にはならないので、3チャレンジに入るならそっちを全額充当できるし、
3チャレンジに入らなくても4回は受けられて、1回あたりの値段は割引料金になっておりますので、接種を受けたいというお方でしたら、損にはならないですのでお検討ください。
今日話すようなことを毎週土曜日にレクチャーという形でやらせていただいております。もっとレクチャーではですね、3ヶ月チャレンジの中の方だけなので、
もっと突っ込んだ話を一応画面付きで1時間ぐらいにわたっての、短くても40分ぐらいだから、このポッドキャストと長さ的には同じですが、
内容はもっと遥かに入り込んでおり、まあ遥かにではないかな、でもまあ画面付きですし、テーマだけに特化しているし、今しゃべっているのよりは遥かに
三逸してはいませんから、まあちゃんとしているかなと思いますので、そういうのもあるということで、興味あればぜひご検討いただければと思います。
あの動画そのものもね、出しちゃえばいいんでしょうけどね、時々ね、なかなかちょっとね、3ヶ月チャレンジの皆さん用っていうことを強く念頭に置いているということもあるんですし、なかなか難しいんですよ。
編集すればいいんでしょうけど、もはやそういう気にはあまりなれないと、それにまあその参加者からするとあまり編集もね、なぜそこカットしたみたいなことを感じさせられかねないので、まあその外向けに編集してもいいんですけど、そこはちょっとまだ悩ましいところではあるといったところですね。
ボラスの「変形性対象」概念の導入
はい、それではですね、今日の本題に入って、お知らせは他になかったような、直近ではないんですよね、やっぱお知らせは他にはありませんので、本題に入っていきたいと思いますが、えーと、ボラスですね、ここのところまたボラスを読み直していて、ああ、私全然わかってませんでした、すみませんという感じで、全くわかってなくはなかったつもりでいるんですけど、今読むとですね、あのほとんどわかってないなっていう感じがします。
こんなに大事なことが大量に書いてあったし、今はやっぱりあの読める読めるの状態になってるんですよ、ムスカ大佐、大佐だっけあいつ、あの悪い奴ですよ、楽者に出てくる悪い奴ですね、読めるということの感動って大きいなと読めなかったものはね、思いますね、まあ古代の文字じゃないんで、読めるはずなんですけど日本語で書いてるわけだし、意味がよくわかんないんですよね、精神物理って、ほんとそういうところがあります。
まああの最近わかってきたんだけど、うまく書けてないところもあるわけですよ、やっぱり文筆家じゃないんだね、精神分析家は、第一に、うまく書けてないところは絶対あります。なんか彼らは、この言葉では伝わらないとかいろんなこと言うし、それは全くその通りだから、僕らはついうっかり全部信じちゃうんだけど、全部信じちゃダメなんだなと、精神分析家の言うことは。嘘だとは言わないが、必ずしも全部が本当なわけでもないんですよ、この辺ほんと微妙なんです。
書き方には問題はあるところは間違いなくある。それはどんな文筆家だってあるんだけど、少なくない、そういうところは。これだと誤解もなくっていうことに気づいてほしいっていう場面は、おおにしてありますね。フロイトはすごい書き手ですし、
なんだけど、だからと言ってですね、比喩も巧みじゃないですか。そして、およそ精神分析の話で比喩を巧みに使うこと、それ自体どうなのっていうところもあるわけですよ。まあそれは、読み物として面白い方がいいってのはありますから、し、また比喩それ自体は非常に精神分析的であるとも言えるんで、象徴的透過物なのという発想はですね、やっぱり比喩ですからね、結局ね。
まあそれで比喩を説明しているというのか、比喩の説明を言葉でするというのはそもそも誤解を招くわけですよ、そんなことをすればね。
まさに変形性対象などというのは、まあそれはゼロ歳児にとっての母親って意味なんでしかないんですけど、そこをね、やっぱりね、繰り返し繰り返し、しかもの相互的母親とか最早期の母親とかいう表現はやめてですね、何かゼロ歳児の時の母とかって普通に書けばいいのにっていう、まあわかるんですよね、そこは急にこう学術的に正確にいって、その辺がこう
「否定的自己対象」と概念の難解さ
混ぜ込まれているために、学術的正確性のためにこうなっているのか、単にわかりやすさを追求してそうなったのか、あるいは独自の理論ゆえにそうなっているのか、実はこの3つが全部混じっているというね、母-子だってね、本当に僕がその意味が、なるほどって思ったのは、否定的自己対象ってやつなんですよね。
これはボラスの表現なんですよ、否定的な私っているじゃないですか、何かこうネガティブな私と、それに必ずセットで登場しちゃう対象、まあ私のことをいじめてたやつとかね、こういう配分なんだということを常に確信を持って読んでないと、すぐわけわかんなくなってしまうんですよね、母配分、母-子とどう違うわけって感じますね。
お互い一部分同士の対応だよって言っているわけなんだけど、それは非常にわかりにくい、全然わかりやすくないという、否定的自己対象ですよ、だから泣く私とあいつみたいな、そういう感じ、だけど私を泣かせるあいつだってあいつの全体じゃないじゃないですか、あいつは私を泣かせてのみ生きているわけじゃない、そんな奴がいたらやばいじゃないですか。
だからその私を泣かせる、泣き出す私とあいつみたいな、こういう配分のとなんですよね、これ非常にやっぱりなんていうのかな、わかりやすくはないですよね、これはね、でも他にどういう表記の仕方があるんだと言われるとちょっと困るしね、だからフォラムスはうまいんですよね、あの持ってくる例が巧みだから一気にその辺のところも分からせる能力を持ってくれる、
思っていてそこはとてもいい、でも私が今ボラスを読み直していて思うことはそういうことよりも何よりも、今日変形性対象の話はちょっとだけ入れるんですけど変形性対象の話のみをしたいわけじゃなくて、主にボラスの話をしたいんだけど、クリストファー・ボラスという人を読んでいて一番感じるのは、
独自の理論と用語の重要性
全て精神分析家はやっぱり独自の理屈を持つべきなんだってことなんですね、彼の例えば変形性対象だってカナリの部分をミニコットと被るんですよ、ドナルド・ミニコットと被るんだけど全然違う言葉を使うじゃないですか、で、なんでこういうことをするのかとちょいちょい学術レベルの人々、水準の人たちからは言われるわけですよ、なぜ用語を統一しないのかと、
でも、用語を統一するということは他の人の用語に統一するということにどうしたってなるわけですよ、あるいは摂中をとって、ベータ要素はビオンから、環境としての反応はミニコットから、実際そうしてますけども、でもこれをやるとですね、バランバランなものがそこに混じってくる、物理学と違うのはそこなんですよね、
太陽、水星、地球みたいなのを、やはりここのところはマーキュリーと呼び、こっちは火星と呼ぼうとかってやらないですよね、やらないですけど、それは認識が統一されているからそれでいいんだけれども、やっぱりほら、イスラム教ではイスラム歴とかを使うじゃないですか、はっきり言ってあっちに近い精神分析の世界っていうのはね、イスラム教ではイスラム歴が大事なんですよ、日本だって後期を使ってたじゃないですか、戦前は、
後期2600年とか、そんな話をしてもしょうがないですね、でもそれは2600年と1936年だっけ、は違うわけですよ、やっぱりキリストが誕生してから1936年なのかどうかわかんないですけどね、それに対して後期は2600年、天皇陛下の子孫が日本を作ってから2600年っていうこういう話は、
あの、やっぱり文脈が違うからですね、表現が変わるわけですよね、で、ここが抜き差しならないですよ、結構精神分析の世界は、環境としての母親、これはミニコットの言う、まあ母親は環境だよねと、あの赤ちゃんにとって要するに自分を抱えているのは母の腕だしみたいな、自分の食物と言えば母のおっぱいだしみたいな、これは環境だよねっていうのはそうだけど、
ボラスが言わんとしていることは、それとそっくりでありながら、やっぱり付け加えてるわけですよね、そこにね、しかしその環境は黙っちゃいないだろうって言ってるわけですよね、ボラスは、動か、絶えず動くじゃないですかと、しかも、あの、何らか欲望と関係がある方向に世界を動かすじゃないですかと、言ってるわけですよね、変形するじゃないですか、自らをですね、自らを変形させるじゃないですかと、
変形性対象と幻覚の区別
母親自身をね、だから環境っていうのは我々からすると、ある意味スタティックに、スタティックではないにしてもスタティックに見えるものですよね、静的というのが止まって見えますよね、環境って、動いてるにしても、そんな私の欲望に応じてガチャガチャガチャガチャ動くなんてことは、ぐにゃぐにゃぐにゃぐにゃぐにゃ動くなんてことはしないじゃないですか、お腹すいたからおっぱい出てくるって凄まじいじゃないですか、
これは、何て言うんだろうか、あの、欲望をしたら、えー、料理が用意されてきますみたいな、食欲が湧いてきたら料理が用意されてきますみたいなわけですよ、だから変形していく対象なわけですよ、しかもボラスがここでものすごく、これはまあ精神分析の世界だからものすごく大事なんだけど、まあ精神病理の世界とかでもね、ものすごく大事なんですけど、しかしこれは幻覚じゃないよって言ってるわけですよ、
ここでクライン派はすぐ幻覚持ち出しちゃうわけですよね、あ、容赦はもし応えられんみたいな、お腹があまりにもすいた、こんなひどいことになるということはきっとひどいやつがいて、えー、僕のお腹を攻撃しているんだみたいな、お腹攻撃、あの悪魔みたいなやつを作ってしまう、これが幻覚なわけですよね、これを見るから精神病状態だっていう現実じゃないものを見てるわけですから、
でもボラスが言ってるのは変形はするんだけども、おかしいじゃないですか、現実って変形しないでしょ、でも赤ん坊にとっては現実は変形するんだけれども、それは現実であって事実であって、幻覚じゃない、だからわざわざ書いてるわけですよ、これは幻覚ではないと、あの一文は超重要なんですよね、
っていうところを僕は一回目読むときはサラッと読み飛ばしちゃうんですよ、あ、幻覚言ってんなー、ぐらいな感じなんですよ、幻覚は超みんな問題にしてるわけですよ、クライン派は、クラインもミニコットもビオンも、みんな幻覚を見るということがいかんわけですよ、でも赤ちゃんのときはしょうがないわけですよ、しばしば幻覚見ちゃうというレベルに入るのはですね、幻覚見るのは一つの能力なんだけど、でも幻覚は見ちゃいかんわけですよね、だから幻覚見ちゃったらある意味精神病なわけですよね、
だから幻覚見ないようにしなきゃいけない、しかし幻覚見るところぐらいまでいかないと赤ん坊はこれもどうかと思うんだよ、だからこれなんですよ、みんな独自の考えを実は持ってるわけですよね、
クラインなんかに言わせると、いやもう幻覚見るぐらいまで頑張んないと考えないでしょうみたいな、考えるためにはお腹をうんと空かせて、どうしたらいいんだろうって考えて、幻覚見てる場合じゃなくて、自ら立ってね、はいはいしてでもいいからはって、食べ物を探しに行くか、食べ物をくれる母親の前で泣いてみせると、それが考えるということでしょうみたいなノリがあるわけですけども、だからなかなかストイックなわけですね。
ネミニコットはそういうのはあまり望ましくないと、もっとこうちゃんと世話をするんだみたいな、環境はちゃんと世話をするんだみたいな、でもやむを得ずお母さんが失敗してしまったときに、そこで心臭が起きるみたいな話なんだけど、そこで赤ちゃんは自分を世話する事故みたいなのを作り出して、考える考えないうんどんとか、ましてその悪いおっぱいとかは必要なければ出てこないほうがいいんだぐらいだ、だから用語が変わるわけですよ。
ミニコットとクラインの理論比較
偽りの事故って言ってましたけど、途中から世話する事故みたいになっているし、クラインの理屈でいうところの欲打つポジション、だから赤ちゃんはそうやって良いようにお母さんを扱って、ギャンギャン鳴いたりおっぱい噛んだりしているんだけど、自分はすごいひどいことをしちゃったんじゃないだろうかということにある日突然気づいて、うつうつとしていくという、でもそれは成長ですよねっていう欲打つポジションですよねっていう欲打つポジションというのは
ポジションに入れるということは気遣いができるようになったということで人間成長したんですみたいな、相変わらず深刻というか厳しいわけですよね。でもイニゴットはそういう言い方は好まないから、そうやって世話する事故ができますと、環境は頑張ってずっと環境やってるんだけど環境には、環境は万全じゃないんで人間なんで、人間じゃなくたって万全じゃないですけどね、祖母は出るしお腹赤ちゃんすいちゃったり放置されて泣いてしまうこともあるでしょうけど、
そういう時には自分で自分を慰めたりする事故というものが現れていって、やがてお母さんを環境扱いしていたという、そこは似てるわけですよね。クラインと似てないわけではないですよね。いいように扱っていたけれども、その環境というものに我々は気をつかないじゃないですか。太陽はいつも日を徹底振れて大変じゃないだろうかって思わないですよね。別にそんなことすぐは思うようになったらすごい面倒くさいことになっちゃいますよね。
何か今日も雨を降ってくれてありがとうみたいな、あんまそういう風に、そういう宗教みたいなのもあるけど、あんまそうなんないじゃないですか。何か椅子に座ってみて、椅子疲れてねえかなみたいな、思わないですよね。この気遣いみたいなことを環境に対してはしないんだけど、母は実は環境、ここが伸縮伸縮いうわけですよ。トラウマになると。
今までお母さん環境だと思って、何か椅子みたいにしてたけど、実はお母さん人間だった。これは大変だみたいになるというのがミニコット的、だからこの辺クラインと似てるんだけど、ミニコットはでも、だからといって赤ちゃんはムツ打つとはしないみたいに。欲打つポジションではなくて、これは今まではそうだったけど、今日はそうではなくなった。彼はそういう時間的経緯をすごい大事にするわけですよ。
今日まで僕はそうしていたけど、今日からは違うぞみたいな、そういうね、自分の連続性みたいなものを、だから彼は時間的連続性をすごい言うわけですよね。これが寸断されるということは、ほらそうですよね、過去の私何してたか全然思い出せないとか、認知症みたいになってしまう。それはそれで精神的にはすごい寸断されていて問題だから、健全な人であれば、アイデンティティの連続性みたいな、環境についてもそうですよね。
あの環境だったと思っていた存在は、実はこの母親と同じなんだっていうこの時間的連続性をすごく重視するわけですよ。だから彼は欲打つポジションのことを欲打つポジションとは呼ばないんですよ。歴史的ポジションというわけです。そこに時間の連続のことをすごく言っていくわけですよね。そしてあんまりそういう病理みたいなことを彼はやっぱり言いたくないでしょうね。
だから歴史的ポジション、まあこっち全然でも受けてないから、大概の人は歴史的ポジションという言葉は採用せず依然として欲打つポジションですよね。なぜならやっぱりこれは精神病理の話でもあるから。こういうふうにどっちを採用するかというのは実はその人が重視している文脈によってらい違うんで、用語統一ってあまりならないんですよね、この世界では。
用語の選択と文脈の重要性
どっちの文脈でその概念を捉えるかによって、やっぱりここは歴史的ポジションと言いたいが、この時は欲打つポジションと言いたいってことが必ず出てくるんで、まあやっぱりあのね、ギリシャ神話的に見るんだったら、名王性はハデスですねみたいなそういう感じで、ハデスだって名王とかっておかしいじゃないですか。別にあれも名王と呼ぶ必要はないわけですよね。
だからもう多分宇宙物理学では記号でもっと呼ばれてると思うんだけど、なんか知りませんけど、けいなんとかとかって呼ばれてる気がするんだけど、そう呼んだ方が便利か便利じゃないかっていうことが特に精神分析の世界では抜き差しならなくなってくるんですよ。現場のその一対一で人と話してる時には、もうこの時にはクラインのこの悪いおっぱいっていう概念でこれを捉えないと全然わからなくなってしまうっていう瞬間が必ず来て、
でも気がつくと、いやこれはβ要素だなとか言っている時が非常にやっぱりしっくりくるっていう時が来て、ほとんど言ってること変わんないはずなんだけど、今はこの人のニードが私を刺してくるみたいに感じるのが妥当な感じがする時があるのでしょうがないんですよね。
だからニードとβ要素は別に分けなくてもいいじゃんという時もあるんだけど、分けないとダメだなっていう時もあって。
身体環境的変化と現実
で、βですよ。βは結局環境としての母親というのでは不十分だと言ってるわけですね。確かに環境に違いはないが、その環境は絶え間なく自分を変形させ、また赤ちゃんの変化、成長ですね、成長を促すべく絶え間なく赤ちゃんに働きかけてくるところがあるので、
で、そのことを赤ちゃんはまず童貞、童貞言うんですけど、要するにそのことと母親を同一のものだとみなす。つまり変化を促してくること、しょっちゅう自分自身が変化すること、合わせて彼はまた言葉を作り出しちゃうんですけど、
身体環境的だったかな、環境身体的かな、そういう環境と身体が一体化している。だいたい赤ちゃんはお母さんとべったりくっついてますからね。0歳初日ぐらいの時は。で、そのお母さんが布にくるまれてみたり、肌ぴったり合わせてみたり、絶え間なくその時変化というものを全身で感じることになりますよね。
この全身で感じる変化というものと母親というものを同一のものだとみなしてしまうので、そしてそれは環境そのものでもあるので、そのものでもありますよね。幻覚じゃないですよね。ああこうなったらいいのに、ああそうなったみたいなのが思いっきりそのまんま本当なわけですよ。我々の現実ではそれはしょっちゅうは起きないことなんですね。
お風呂に浸かっている時にややそれに近いか、プールとかね、環境はなんとなく変化しますよね。海に入っている時とか環境は絶え間なく変化している感じが伝わってくるし、自分と海がなんとなく一体になっている。
人間、成人になっちゃうと自我感覚がすごくはっきりするんで、やっぱここまでは皮膚だし、ここからは海だみたいなのがわかってしまうんで完全に。肌が寒くなってきたというのと海が冷たいというのは同じことなんだけど違うことですけれども、その辺を全然区別できないのかしら。
海が冷たいことと肌が寒くなってくると完全に同じであって、しかもそこに言葉がないから環境・身体的なわけですよね。そしてそれが絶え間なく変化し、自分の欲望に連動したり応答したりもすると、そこがだからニグレクトとか虐待とかいう話になってくると応答性がおかしいということが起きるから、例えば自分お腹が空いてると殴られるとかね、そういうことが起きうるわけじゃないですか。
変形性対象と依存
これでも、ここでもボランスは重大、そこをさらに重要視していくわけですよ。たとえいい経験でなくったって変形は変形なんだと。そうですよね。
泣くと殴られるということは、そこに因果律を見るまではですよ。そこに因果律を見ると、私泣くと殴られるのかみたいなひどい親だみたいなことになるかもしれないけど、そういうのの遥か以前には泣くと痛くなるみたいなそういう感じなわけじゃないですか。泣くと痛くなるみたいな。
だから変形は変形なんであって、その変形が要するに身体環境的、だからもう実存的と言ってしまっても差し支えはないと思うんですけれども、そこでまた哲学用語を出すとややこしくなるので身体環境的。
身体環境的な変化というものを、とにかく母というものは、母というよりは変形性対象というものはもたらす。ということはつまりこれが成人になるとその習慣が残っちゃうわけですよね。なんかこうなんでもいいのかな。だから極端に言うとあるじゃないですか。
このセクシャルな時は痛い目に遭うと興奮しちゃうみたいなそういう断情度もありますよね。それとこの大きな変化、強いインパクト、環境そのものがなんとなく劇的に動き出すときには決まってこの感覚が得られると私は本当にそれを体験している気になれる。要するに0歳の時の母親に再会できる。
この0歳の時の母親に再会したくない人っていませんから。だからそんな変な目に遭うにもかかわらずその体験が忘れられなくなり繰り返してしまう。つまり依存ですよね。暴力的なパートナーに依存するとか。
日本ではあまり聞きませんけどアメリカではですね結構すごいのがあってつまりDVがすごいって話はアメリカでいくらでも夫に殺される奥様はいっぱいいますけどなんかもう奥様にひたすらSMで叩かれまくる夫っていうのもSM的に結構いるわけですよ。もちろん全体のパーセンテージではすごい少ないはずですよ。
でもそういう話は私はアメリカ行ってて聞いてなんかもうなんていうのかなそれこそサンドバックのようにされている弱そうな気の弱そうなアメリカ人男性っているわけですよ。なんかボコボコに殴られているとそういう話ね。これは文字通りではないかもしれないけれども非常に変形性対象的な何かなわけですよね。
相手は変化し自分も変化しその環境によって自分の身体が変化させられまた変化に変化というものを目撃し変化というものを体感しているその時にある種の体感覚が常にそこに発生していると。
アルコール依存というのは変形性対象を求めての非常にわかりやすい事例でしょうし、だってなんとなく何かが変わるじゃないですか。なんなら飲みまくると世界がぐにゃぐにゃになっていくじゃないですか。変形性対象というもの、身体環境的な変化という意味ではこれほどわかりやすいものはないですよね。だからある種のドラッグとかが人気になるのもそういうことなんですよ。
変形性対象と自己認識
これ昔私、昔々一番最初に書いた本、ロボット侵入学というわけのわかんないタイトルで書いちゃった本、あれにコリン・ウィルソンという人がこれをロボットと名付け、ライアル・バトソンという何か面白い生物学者、ガイア思想の生物学者がネオフィリックって言ったんだけど、なぜ人がネオフィルであるかの説明として、僕はウィルソンのロボットから行動科学の循環みたいな話、生物学ですよね。
神経は同じ刺激に慣れてしまうという循環で説明したんだけど、人間って循環を遥かに通り越えて、例えばどんなに気持ちが悪くなっても酒飲むとか、どんなに失敗し続けているのに投資やめられないとか、そういうことをやるこの説明として、この変形性対象ほど優れた説明はないなとやっぱ思うようになりました。
今だったらそういうので書くなーみたいな。今だったらそういうので書くなーってことはつまり書けないわけです。書けないってのはつまり私じゃ書かせない。とにかく私はどうしてこうなのかなと今思っても思うんですけど、先日、話ちょっとずれますが、AIと話してたわけですよ。
AIとの対話と執筆の課題
今クラウドコードすごくてファブル5でしたっけ、7日までですけど上限ギリギリまで使うという話が出てたんで、ごく最近ほとんど昨日の夜ぐらいから使いまくってみて、なるほどすげーと思って、いろいろ僕のやることですからひたすら議論をしてるわけです。議論というか話し合ってるわけですよ。
何を話し合ってるかというと数学ガールの人とかね、ああいう方だったら学術的なことも書くぞって言ったら書かせてもらえそうじゃないですか。なんで僕は全然これ書くとしてもせいぜいノートだなみたいなことになってしまうのかということを議論していて、自信持って書きましょうみたいな感じで、自信持って書きましょうというような簡単なことはファブルだけにさすがに言わないんですよね。
結構1枚も2枚も込み入ってきていて、その議論の話はいいんですけど、そっかーっていうのはすごい考えさせられるところはたくさんあったわけです。
変形性対象みたいな話、つまりファブルが言うにはね、結城さんの議論というのは非常にレアで、しかも彼の名も非常に知れているから、この辺のことを割とさらっと言ってくるわけですよ、私に対して。
しかもそこそこ意識してても変だけど言ってきて面白いなと思うんですけど、とにかく彼は著名であり、社会認知的な意味でも対話というもの、つまり数学ガールがそうですけど、対話を通じてのアハ体験みたいなものを書かせたら、もう第一人者で。
私は対象関係からのAIを語るべきだと。それは彼がやっていないことだし、この席は丸々空いていると。僕は丸々席が空いているのはさ、つまり誰もそんなことは言わないからなんじゃないのっていうことを逆に吹っかけるんだけど、それはわからないというのが、まあでもそういう意味ではないんですよ。
ファブルになって初めてね、それはわからないというのをズバッと言ってきたんですよね。要するにチャッピーだと、いやいやそれはいけるんですよみたいなノリになっちゃうんだけど、それはそれで結構説得しようと頑張ってくれてありがたいんですけどね。
ファブルを始めてそれはわからないと。つまり著者がいなくて空いている棚と、読者がいないから空いている棚は一見したところどちらも空いている棚でしかないと。
うまいこと言うなって思ったんですよね。しかもこう、まんまこういうふうに言うわけですよ。私の立場からすれば、著者がいないからこの棚が空いていると考えるのに十分な証拠はあるんだから、読者がいないかどうかは出してみなければ結局はわからないから、なるべく読者を引っ張れるような形にして、著者がいないから空いている棚を埋めていくのが、しょうごさんの仕事です。
そういうことをですね、なかなかこう、理路整然とはできるじゃないですか、AIだから。理路整然とやってきて、非常にその気にさせられてうまいもんだなと思った。
対象関係論とAIの可能性
で、このその気にさせられるということ、それ自体がまさに対象関係的なわけですよね。で、まあだからその気になったから本書くぞって言ってるわけではないんですけれども、そこまで僕も簡単に今本書けるっていう体制でもなければ、まあそんなに若くもないんでね。
あれなんですけど、確かに対象関係論からAIを語るというのは、僕は重要がないと思ってるんですけどね。思ってるんですけれども、確かに今のところあれほどAIの本があっても空いてるなと思うんですよね。
今のところあくまでもAIというのは、ジャーナリングができて自分自身の知識を与えた方が、より精度の高い応答があるっていう話はしてますよね。でも私はそこにジャーナリングはいらないと。
それは言い過ぎだね。それはわからない。でも私はそういうやり方はしていなくて、そういうやり方をしなくても十分私に対する応答を成立させることはできると。
それはつまり私のいわゆる良いグッドオブジェクトですね。良い内的対象というものを見立てて、そこに転移的なものを刻させれば、何も私についての大量の情報をAIに向かってファブリに向かって投入せずとも、
十分それを相応する、ないしはそれ以上のというものが、たとえ相手がAIだったとしても不可能ではないと。特に最近ファブリになってそれをかなりの点を確信しつつあるというか実感しつつあるんですね。
あとはこれを検証して、何ならファブリが言う通りそれを書いていけばいいのかも、クラウドコードが言う通りそれを書いていけばいいのかも。
AI利用のコストと格差社会
それを書くということになると当然7月9日以降になっていくわけじゃないですか。7月9日以降重量課金、重量課金あれ半端ないんじゃないかって思うんですよね。それぐらいやっぱりね、範囲のないところはもうオーパスに戻すんですよ。
チャッピーでもいいんですけど、だってトークンの使い方が異常なんですよね。最新のやつは本当に。あっという間に4時間しか経ってないのにこんなに使ってないだろうっていうぐらい使うことになってしまうんで、オーパス使うと全然減らないんですよ。
僕がやってることって別にファイルを見てくれとか、ファイルの中身を検証してとか、何ならファイル作ってくれとか、やってないんで一切そんなことは。単なる応答なのにこんなにぐんぐんぐんぐん使われたら、いやこれって重量課金にこれしたら下手すると月2万とかいくんじゃねっていう。それは無理ですから。
だって月2万かけて時期出版としたら馬鹿じゃないですか今の時代。月2万ってことは4ヶ月かかったとして、ゆうに8万から10万かかるわけですよね。たぶん本が年初時期がよっぽど売れたとして15万ぐらいですよ。それだって怪しいもんですよ。
そしたらプラマイゼロか下手するとマイナスじゃないですか。これはちょっと許容できる範囲ではない気がするですよっていうことですね。これもクラウドコードに最新で聞いてみたところ、これに関しては私の利益になるから答えは差し控えたいか割り引いて聞いてねみたいな感じで、当然選択されたいが重量課金がいくらになるかは私にもわからないみたいな。
答えになってるわけですよ。AIの話になっちゃってますけど、これねやっぱりね大した答えを求めると結局はこれは格差社会の繁栄ではないのかっていう感じがだんだんしてきて、それこそ抑圧的になってきます。
だって格差社会の繁栄だとすると私に勝ち目は全然ないなって感じがするんで。金ないし、投資的な能力って僕多分低いんですよね。なんか先行投資とかできてないじゃないですか。やる人ガンガンやっていくじゃないですか。ある意味ゆうきさんもそういうタイプなのかもしれないと思うんですよね。
彼はすごい柔らかくて品があって教養豊かだと思いますけど、すげえ先行者利益というものが上手に固めていってらっしゃるなっていうのはすごいこれ全部込めてますよ。俺は全然そういうことができないなとものすごい行き当たりばったりだなって思うんですよね。
自己認識と現実感の希薄さ
サービスタックやってみたりノートやってみたり、それぞれの収入が100円とか300円とかそういう世界で生きてるわけですよ。多分僕たまたまうまく商業出版に乗れたからよかったけど、出なければ完全にニートですね。
でもそういう自己認識なんですよ私は。私は運が良かったニートだなって感じが依然としてしてるんですよ。
私のその例えば今ではそういう感覚はさすがにないけど、長らく30代後半から40代前半ぐらいまでは、つまり40代前半ぐらいまでは40代前後ぐらいまでは、自分はラッキーなニートだし、対女性関係で言うと本来的にはストーカーだなとそういう感じしかしないんですよね。
なんかこう相手にちょっとしてくれた女性に1000通メールを送ってブロックされるタイプだよなって感じ、それが自分の自己感覚に最もフィットしてるんですよ。
やばいなーって思うんですよね。そのうちなんか急に警察とかに連れて行かれて、いや俺何も悪いことしてませんからとかって絶対言ってそうな、それすらもなかなか言えないんだけど、なんかそういう感じ、そういう自己認識なんですよ。
だからなんかこう褒められることもあるわけですけど、あるいはそれが社交事例であれ、何かの紹介であれですね、全然しっくりこない、なんか他人の話を聞いてるみたいだって感じがしますね。
ただまあその私は自己認識はこうなんだけど、そこに強い羞恥心を持つとか罪悪感を持つとかはあんまり元々なくて、今では実態は別に見知らぬ女性に、上の名前しか知らない女性に1000通メールとか送ってないから、そんなにないわけですよ。
だから割と堂々として見えるんでしょうけど、これは堂々としているというよりは、ある種の現実感が希薄なんですよね、やっぱりね。だいぶマシになってきているんですけれども、なんか希薄で、本当の現実の中に自分が現実的にいるっていう、これは非常にディゾイド的である猫愛的なんですよ。
で、その変形性対象の中に完全に出てくる世界なわけですよね。もちろんそれはそうです。だって環境としての母親を、ある意味環境扱いをずっと続けてしまうということは、非常に自己愛的な世界に生きているということになるわけですよ。
万能空想と出し入れ
で、そういうことに僕はなりかねないところっていうのが多分にあるわけです。まあ自己愛というよりはディゾイドの方がはるかに強いですけど、要するにこう、突いた手立てちゃって、その突いた手の中の万能空想の中で、万能空想というのは、これもようやくわかってきたことなんですけど、この出し入れってことなんですよね。
空想、空想の万能空想を分ける意味はほとんどの人にとってありませんけれども、まさに私がやってるのは出し入ればっかりなんですよね。つまり突いた手を自分で立てたくせに、立ててしまったが故に見えなくなった人をわざわざ心の中に置くわけですよ。
で、非常にそこに、まあこれもね、私は妥当じゃない表現だとつくづく思うんですけど、ボラスも書いてますけど、あれ日本語訳が厳密でないと思う。無慈悲ってことは、確かにこれは無慈悲かもしれないが、つまり母親をいいようにしてるってわけですよね。
で、でもボラスやっぱりここが非常に優れていて、この無慈悲をですね、クラインのようには使ってないんですよね。そこが本当に私は読めなかったんですけど、無慈悲に母親を、だから何ていうのかな、いつもいいようにしてくれないからといって、母を心の中に勝手に作り出して、いつも遊び相手になってくれるっていう。
いやそれはただの空想でいいじゃんって方はどうなんだと思うんですけど、万能空想とあえて言ってるのはやはり、そのある種の自分勝手さを言ってるわけです。まあ幼児だから、当然それは無慈悲だの、自分勝手だのっていうのは言い過ぎだと思うんですけど、これをやっぱり、でもそれは何て言えばいいんですかね、人間を環境扱いしてしまうということは、社会人のど真ん中でやると無慈悲。
無慈悲というか、何て言うのかな、まあいいや、でもとにかくその無慈悲ということが重大なのでは、重要は重要なんですけど、クライン的にはすごく重要なんですよね。でもボラスはやっぱりそこでミニコットにグッと寄せて、ということを母親が同意すればいいんだっていう、これはすごい効くなって感じがするんですよね。
象徴的投下物と移行対象
そしてそこに単に万能空想だけ持ってこないんですよ。象徴的投下物を持ってくるんです。ちょっと専門用語が連発していて申し訳ないんですけど、つまりライナスの毛布ですよ。ライナスの毛布って結局あれを母親だと言ってる段階で、象徴的投下物ですよね。
象徴的投下物ってのはつまり白い鳩は平和の象徴であるってことなんですよ。平和の象徴って言葉使ってますけど、白い鳩が平和を表して見えるなら、それはやっぱり具体象徴なわけです。具体象徴が病的になったものを恐らく象徴投下物って言ってるんだと思うんですけど、そこが病的か病的でないかというのは、やってることが頓珍感かそうでないかじゃないとボラスは言ってるわけですよ。
毛布は変形性対象じゃないですか。つまり毛布にくるまれることによって赤ちゃんは本当は赤ちゃんは何も変形してないんだけど、赤ちゃんの世界からするとさっきまでは裸だった私がマントを着た人になったみたいなそういう変化をしてるわけですよ。これが身体環境的な変化と彼が呼んでる。ただ毛布にくるまれてるだけなんだけど、なんだけど、分かってない人の観点からはそう感じられてしまうということなわけです。
よく子供ってさ、私そうだったんだけど、毛布とか引っ張り出してスーパーマンとかやるじゃないですか、あのアホみたいなやつ。私なんかめちゃくちゃやってたんですよ、風呂敷とか首に巻いて。首締まるからやめろとかよく分かんない怒られ方もしていたんだけど、風呂敷とか首に巻いてね、なんとかマンをやるわけですよ。
これは偏見性対象の名残なわけですね。で、ここで毛布を母親側にするのは無慈悲だろっていう議論があるわけなんですよね。だってお前毛布じゃ本当はダメだよっていうことなんですよね。母にもっと感謝しなさいって言いたいわけでしょ。
感謝と母親への認識
だから扇望と感謝なわけですよ。クラインに言わせると。母はそんな毛布扱いしていいものではなく、お母様に感謝しなさいみたいな、そういうことを彼女は言ってないんだけど、でもどっかやっぱそう、母ありがとうございます、お母様みたいなそういうノリになってる感じ、そこがだから真剣だし深刻だなと思うんですよね。
だってお母さんは大概そんなに優しくないし、そんな風に感謝したくないと思ってる人は世の中に別に酷い目に合わされてなくたって、そんな風にはできないよって思う人はいっぱいいると思うんだよね。
だから、だって山崎さんですら、母ありがとうございますみたいな、これなんかちょっと感じよくないよねみたいなことを言っていたんで、ビデオの中でね。そうだと思うんだよな。だから扇望と感謝とかっていうのは、だからそれだけもっと頑張れみたいなところがクライン派にはもともとあったと思うんですけど。
ミニコットはそれを偉い緩和したって感じがするんですけど、環境じゃないことに気づいて受け入れれば十分だよみたいな、それは僕は非常に僕の実相には合ってる感じがするんだよね。
母親は環境じゃないってことにどっかで気づいたよなと。だから、好き勝手やるぜってことはどっかで終わらなきゃなんだよね。ところそれで、あえてそこに母ありがとうございましたみたいなことをやんなくたっていいじゃんっていうのは私としてはあるわけですが、モラスはさらにそこに一歩進んだわけです。
移行対象を通じた成長と母親の同意
その変形ということを考えると、最初はすべて環境は母親だった。母親は環境だった。つまり宇宙は母親でしたみたいな世界だったんだけど、どんどんどんどんそれが移行対象を通じて移行していきますよね。
母親代わりっていうことは母親じゃないっていうことはわかってるってことになるわけだから、毛布、母親代わりにします。でもこれは毛布だってことはわかりました。これはだから比喩の始まりですよね。ミルク、これもミルクだってことはわかりました。母親じゃないことはわかりましたみたいな、そういう感じでどんどんどんどん世界がバラエティに富んでいき、どんどんどんどん母親じゃない部分が登場してくるわけですよね。
変形性対象はその座をおびただしい主観的対象に譲るっていう表現をボラストは取ってるわけですけど、この時何が起きるかというと、無慈悲だといえば、要するにお母さんいらない、私ミルクあるから、お母さんいらない、お金あるからみたいな無慈悲だっていう話なんだけど、そこがクラインの言ってるところなんですけど、そうじゃなくて、
これをこの意向対象の意向対象を用いることを母が同意すれば、これやっぱりね、僕が読み落としてた部分ですね。同意すれば、それは象徴的投下物として、そして意向対象として、言ってみれば用事に新しいオプションが加わりますってことだよっていう、そういう表現なんですね。
ここで同意が入るか入らないかによって、無慈悲か無慈悲でないかが大きく変わるわけですよ。これは私は精神病理の話として、一段進んだ感じがいかにもします。ウィニコットの説明よりはるかに、やっぱりウィニコットだって同じようなこと言ってるっちゃ言ってるんだと思うんですけど、ウィニコットの説明よりは、現実的な感覚には極めてマッチするなって感じがするんですよ。
そこでマントを着ている私は、母は小馬鹿にもしたんだけど、でもある程度そういうのを一緒に楽しんでくれるとか、そこはウィニコットの遊びですけどね。
いうことによって、それは無神経なことをやってるのかもしれないけど、でも母親だって助かる分あるわけじゃないですか。勝手に毛布と遊び、勝手にミルクを飲み出せば、自分から手離れていくわけですから。
つまり、一方的に無神経で、一方的に感謝をすればとか、そういう話でもないわけですよ。ここにあるのはね。で、そこには変形性対象という概念と移行対象という概念の交差点みたいなところが、交差点というよりは分岐点みたいな、分岐点ってのも変だな。
そのダブってる部分と、少し細かく説明している部分がそこにあるんですけれども、移行対象というものを通じて、人は母親の負担を減らすことができるわけですし、母親がそれに同意して、今度からはそっちの毛布の方は分業にしますみたいな感じですけど、そういうことをすることによって、そして依然としてその移行対象に子どもは変形性対象の名残を見るわけですよね。
私、マント着ると変身できるみたいになるわけじゃないですか。まさに変形するわけじゃないですか。で、この変形性対象と移行対象の交差点なのかな、なんかそういう合流点みたいなところに、私たちの成長の分節っていうものあるいは名残みたいなものがあって、ここのところで母親の同意というものが最初あったはずであるっていう風にぶら下げてるわけですよね。
固着、過度な期待、そして探求
で、じゃなかったらどうなるのかって話が当然出てくるわけじゃないですか。なかったら何が起きるかというと、昔のフロイトの言葉でいうところの固着みたいなものが、そこの欲求不満みたいなもの、あるいは奇妙な罪悪感みたいなもの、そういったもの、つまり変形性対象というものの期待というのか過度な期待、あるいは変形性対象をこの世の中で見出さねばという、これなんですよ。
私が3ヶ月チャレンジでは土曜日でさらにレクチャーで深めていきたいと、そういうふうに思ってるわけですけど、見出さねばっていう奇妙な感情、本来逆なわけですよ。手放していけばいいっていう話なのに、見出していかねばならないっていうことをやり始める。
それはつまり倒作ということになると思うんですよね。そもそもが最早期の、最古の、一番自分にとって古い記憶こそが母親が変形性対象だった時代の、つまりゼロ歳初日、ゼロ歳二日の頃の記憶だったのに、それを未来の計画の中に見出そうとしてしまうわけですよ。
私を真に変化させる宗教とは何かとかね。私が大学時代散々やったやつですよ。私を本当に幸せにしてくれる女性は誰かとかね。それはだから変形性対象の母親なんだから、あなたの記憶の一番古いところにあるんですって話なんだけど、そんなこと知らないから、私の頃の私は、運命の女性はきっとこの大学にいるだろうみたいな、わけわかんないことを考えて、ストーカーみたいになっちゃっていて、誰からも相手にされないっていう悲惨なことになったんですよ。
これはつまり、ちゃんとした説明さえしてもらえればですね、もっと何とでもなったような気も、それを当時の私が受け入れることができたかどうかはちょっと別なんだけれども、ボラスぐらいの人が、ボラスぐらいの人はいませんけどね、大学の先生とかにいて、君が望んでいるものは一番古い頃の記憶だから、なんなら精神分析やればみたいな、それじゃ絶対何もわからなかったなとは思うんですけどね。