新刊とイベント、3ヶ月チャレンジのお知らせ
おはようございます。ライフハック時代の精神分析、第1336回をお送りします。
はい、えーと、4月1日になりましたね。はい、10時31分です。
年度末ということもあって、新年度になって、この前後は落としている気がするんですよ、このポッドキャスト。
昨日もやれそうなもんだったんだけど、結局できなくて、まあいろいろあったわけですが、いろいろはないんですけどね。
まあ結構大変だったんですよね。昨日は大雨降っている中で、割と長距離ドライブとかもしちゃったりして、あんまり最近しないことなんですよ、長距離ドライブ自体はですね。
結構、首都高とか雨の中、夜走ってると怖いなって感じがしちゃうんで、年を取ったっていうことなんだと思うんですけど、
いらんことが頭をよぎってですね、なんかニュースとかあるじゃないですか、どうもね、やっぱりダメだなぁと思いましたね。
もっと若い頃は、もっとむちゃくちゃなことをやっていたと、まあむちゃくちゃしても僕の範囲は狭いんですけど、やっていたけど、まあ別に全然大丈夫だと思ってましたからね。
それがいけないのかもしれないですけど、まあまあ本題に入る前にちょっとお知らせをいろいろと差し挟みたいと思います。
これも昨日言おう言おうと思っていて、今日になっちゃったわけですが、一つは本が出ますんですね。黄色い本が。自分時間の使い方。
これも見本をですね、手元にフォレスト出版さんから送っていただいて、10冊ってやつね。
一時ね、経費削減のためなのか、5冊っていう会社さんが増えてきた時代があって、そこまでしなければならないのかって、むしろすごく心配になるよねっていう感じだったんですけど、
最近はまた10冊になんか戻ってきて、まあそういうところしか残っていないのか、5冊の、見本用5冊の予算を削ってみたところで、なんかプラスにならないと判断されたのかわかりませんが、
10冊いただいてるんで、まあこれをいつもの通り、いつもの通りのパターンやるといつも通りに終わっちゃうんじゃないかと思って、なんかいつもの通りじゃないことができないものかと思っておりますが、
今のところ何も考えつきません。なんかAIにいろいろ聞いても、なんかメルマガ出しましょうとか、いや今からメルマガとか出せんわって思うし、
出そうという意欲が全く湧いてこないなっていう、そういうことだからいけないのかもしれないけど、そんな何でもかんでもはできないじゃないですか、やっぱり。毎日退屈をしてるわけじゃないんで、それほど。
だからあの、こういう時はなかなかね、ジェミニといえども、まあそんなジェミニにすごいアイデアがガンガン思いついたらみんながみんな儲かるんで、結局のところそんなことは起きないわけですけど、
あの、なんか考えつかないとなぁと思って何も考えついてないです。
はい、えーっと、ということで、この本の出版記念イベントも4月の何日だったっけ、何日かにやります。こういうことを言ってればはいけないのかもしれないんですけどね。
えーっと、これはでも日程は4月の11日土曜日、オンライン、あの、ハイブリッドでやります。会場は神房町、ただし5名までしか入れない会場なんで、あの、キツキツになってしまいます。
で、あの、オンラインはもう何名でももちろんオンラインなんでね、Google Meetが許容できる範囲、何だろう、まあ確実に許容できるであろうという感じなので、まあよろしければ是非。
2000円でご参加いただけば、あ、会場2000円、オンラインは1000円でご参加いただけます。本買っていただいてなくても大丈夫なんで、ていうかこの段階で本が果たして買えるのかっていう、一応9日に出るんですけどね、あの、ことがありますので、まあ、興味ある方は是非お願いいたします。
えーっと、こんな感じで、あとは3ヶ月チャレンジですね。えー、今月から正式に募集をかけます。
えー、残り2か3、2か3枠残りということになると思いますので、えーと、こちらですね、無料で1回お試しいただけます。で、この無料が気に入ったら、えー、全部で4回、残り3回をですね、3万円プラス税でお試しいただけます。
で、これを、これが第14期の3ヶ月チャレンジの分に、もしご参加いただくなら充当できます。だから、1回受けるだけなら、ワンオンセッション1回やるだけなら、無料で済みます。えーと、全部で4回やる場合、3万円かかりますが、ここで打ち切ることもできます。
で、第14期やっていただくとなると、5、6、7月ですけど、この月全部で、えーと、全体で8万2千5百円、7万5千円プラス税がかかってきますので、えー、プラス4回分は、あのー、おまけで作って感じになります。だから、差額を支払いただくだけで、いけるという感じですね。
まあ、この、要するにお試しお試しお試しなわけですね。お試ししていただかないと、多分、結局、このポッドキャストで山のように説明させてはいただいてますが、なんだかわかんないと思うんですよ。やってみないことにはですね。
そして、お一人お一人の、まあ、この話はポッドキャストでも何回もしますし、これからもしますが、お一人お一人のセッションは、まるで中身が全く様相が違って、あるべき姿とかは一切ないんですよ。あるべき姿があるんだと僕も思ってたんだけど、そんなものは全くの間違いで、あるべき姿なんか何にもないんですよ。軽いとか重いとかも一切関係ないんですね。
治療ならあるのかもしれない。でも、治療とよく似たものになったとしてもですね、軽いとか軽いとか重いって本当に対象関係論の中で言えるんだろうかって本当思うんですけどね。我々はみんな全員、非言語水準で世界を生きてますし、言語水準も同時に使っているに過ぎなくて、あの、非言語水準のみでやろうとしていて大変苦労されているって方はいらっしゃいますが、そういう方は3ヶ月チャレンジというものに参加しようとしていないんですね。
という風な象徴的な考え方を取れないと思うんですよね。やっぱりね、取れないというか取らないんじゃないかって思うんですよ。これは象徴っていう、なんて3ヶ月って象徴じゃないですか。何かを意味してるじゃないですか。それは3ヶ月というのはもちろん厳密な期間だって考える方もいらっしゃるかもしれないけど、そんなはずはなくて、3ヶ月は一つの象徴ですよね。
2ヶ月と3ヶ月はどう違うのかっていうのは、なんとなく言葉からの主観的な何かじゃないですか。ちょっとよくわからん感じになってますけど、3ヶ月チャレンジで自分の生きづらさをなんとかするっていうのはもう完全に象徴なんですよ。これ言葉以外でどうやったら表現。まあ、ものすごい絵が達者な方は絵とかで表現されるかもしれないけど、僕は断然無理だと思うんですよね。
僕なんかそんなの絵に描くイメージすら全くわからないんで、3ヶ月で自分の主に仕事、ないし家庭、あるいはもっとレジャーとか趣味の領域にまたがるのかもしれませんが、それこそ夜の営みみたいなものも入ってくるんだと思うんですけど、あらゆる人間の営みにおいて生きにくいというかやりにくいと。
で、自分はそうじて暴爆とした苦痛を感じつつやっているんだっていうのを、もう少しマシな状態にできないかという3ヶ月を佐々木翔吾という人間、ビジネス書作家でありタスクシュート協会の理事とかやってる人間が精神ムズイのことばっかり喋るようになったのに期待して3ヶ月やってみたら何かマシになるんじゃないだろうかって、これ言葉じゃないものでどうやって理解するのかと。
だからやっぱりもっと違うアプローチになっていくと思うんですよね。非言語水準で徹底するっていう話になってきた場合。
でもやっぱりそこに言語が介在はするんですけども、いずれにしてもこの3ヶ月チャレンジにご参加いただくということは、言語水準の象徴機能を使っているんですよ、やっぱり。
私はそれしか表現できないんですから、音楽でこれ表現しろとか言われても困るし、ダンスで表現しろとか言われても無理だし、イメージがわからないですもん。
そういうのが今めちゃくちゃ思い出したんだけど、私小学校時代、ダンス表現ってあるじゃないですか。小学校4年だったと思うんですよ。地獄でしたからね。
本当に私こういうのこんなにできないんだということを、2年の時、小学校2年の時、4年の時、違うな2年だな。なんであんなものを2年でやったんだろうな。3年でもやりましたけどね。
いやもう本当にひどいものでしたよね。あれほど私が人に怒られるということも、恥をかかされるっていうのはまさにああいうことだと思うんだけど。
なんかねあれはね、大変厳しいものがありましたけど、とにかく身体表現を使って自分の表現したいものを表現しましょうというのは、おこぼれで3段階中に暮れるんですよね先生は。私のような人間には結局どんなに怒っても。
でもどう考えても3段階中1位でしたね私はね。何もできなかったに等しいですよね。
やたらとファッションな女の子とかいて、私あの時に少し勉強が自分ができるということだけでも人の怒りを買う可能性はあるんだ。小学校2年だな。今思い出した。一番仲のいい子がいましたからね、クラスにね。
あと途中で先生が変わったんですよね。あの途中で変わった先生は3級でお休みされたんですけど、その先生と私は上手く合うと思ってたんですけど、結構先生には厳しくされた記憶もあって、その後来た男の先生とは全く上手く合わんと思ったんですよね。
思ったんですけれども、すごく内向的にも程があるぐらい先生が内向的で、非常にどうアプローチすればいいのかが全く理解できないような。今思ってあの先生名前も思い出せないんで、途中からいらっしゃったからってことはあるんですけど、最初の先生は名前覚えてますからフルネームで。
私だいたいフルネームで覚えてるんですよ。そんなことはいいんですけどね。だいたいフルネームで覚えてるんですよ、先生の名前ってのは。小中高大と合わせてフルネームで覚えてるんですけどね。
でもまあ、だからといってなんだってことは一切なくて、ただ嫌な思い出が今蘇ってきたぞっていう、だからダンスとかで表現できるはずないんで、サンチャレは言葉でしか表現できない。
これにやっぱり乗ってくださる方は相当言葉の水準でのやり取りというものに一定の自信を持ってらっしゃる方しかいないと私は思うんですよ、なんだかんだ言っても。
ので、そうなってくると言葉の水準でやり取りできる人が非言語水準に難しさを抱えている。ほぼ間違いなくそうだと思うんですよね。私自身もそうだし。ここに重い軽いはなかろうって感じがするんですよね。
だからそういうわけで、治療にはならないんですけれども、治療的なプロセスというものは出てくる。そういうものに今なってると思ってます。
今日はその話を軽く本題でも触れるということで、お知らせはこのぐらいにして、今日はちょっと短めに切り上げたいんですよね。大谷同士が投げるんで。短めって言っても普通の水準からすると長いんじゃないかと思うんですけど、まあまあまだいけるな、まだいける。
本題に入るとしてですね。ボラスっていう人は面白い考え方をするんだなっていうか、面白い書き方をするんだなっていうか、そういうことをちょっと今日、対象の影はいかなくて読んでるんですけれども、ちょいちょいちょっとサボってたんですけどね。
なんかこう、面白くなくなってきたなっていうのがちょっとあったりしたんですが、その中で規範表っていうのが出てくるんですよね。この規範表が、私タスクシュート使っててこれすごい規範表臭さがあるというか、私タスクシュートどっぷりですから、これでも相当どっぷりですから。今、秒単位での記録とかやってますから。
見積もりを秒にするんですよ。58秒とかね。0分58秒ですよ。こういうことをやってるというのが既に十分何かっぽいよなっていう規範表じゃないにしても。規範表ってのはライハックの人は気をつける必要があると思うけど、イコール規範表ではないというケースがほとんどだと思うんですね。
規範表っていうのは、要は主観を遠ざけるってあの表現がぴったりくるんですよね。これ何を言いたいのだろうって思ってたんですよ。主観を排除するという表裏、でもそれだったらなんか怒りを感じられない悲しみを感じられないって今まで散々言われてきたことであって、主観を排除するとか主観を遠ざけるっていうのはむしろ後退してる感じすらするなって感じがしたんですけども。
この続きにですね、まだ生まれないものみたいな表現が続いていて、要するに主観を確立、主観というものを遠ざけて生きているということはまるで生まれていないような生き方だっていう言い方をしてるんですね。死んだようだとは書いてないんですよ。生まれていないようだって書いてるんですね。
生きるってことはつまり主観だろうと。クオリアっていうのはちょっと違うんだと思うんですけど、でもやっぱりそういうことなんだろうと思うんですよね。内側から感じる質感みたいなものって結局は表現しきれないし、結局は外からじゃわからないじゃないですか。その人が何と感じているのか、どんな感じを持っているのか、今これ喋ってて私がどういう感じを持っているのか、結局それを客観的に伝えることはできないですよね。
他の人がどれほど私はこういう気持ちでいるんだって言っても、それが別に外れてるというわけじゃないんだけど、100%当たることはないですよね。私になってみないとわからないですよね。主観っていうのはそういうことであって、私であるとはどういうことかっていう感じですよね。これは伝えようがない部分があると思うんです。
でもそういうことを言うと結局全てのものはそういうことになってしまうんだけど、独我論っぽくなっちゃうんだけど。いずれにしてもこの主観っていうのが生きているって感じ。だから私本当に全身麻酔受けてわかったんだけど、死ぬってのはやっぱり怖いことだが主観がなくなるってことかなって思ったんですよね。
あの間だってつまり2時半から3時の30分が消失してたんで、なんか寝てたとかじゃないんですよね。消失してたんで、2時半、次は3時っていうこういう感じだったんですよね。で、その間内視鏡検査は終わってたんで、すごい体験。私からするともう死とはこれだっていう感じ。わからないですけど、そういう感じしかしなかったですね。
で、この主観というものを遠ざける、なくすことは不可能なんで遠ざけるのが、要するにだからタスクシュートで何時から何時まで何をしていた。こういう事実に沿う記憶、私いつも記録と記憶の話を聞いていて、記憶はあやふやだから記録をしましょうっていう話を聞くたびにタスクシュート協会の中にいて、いやーって思うんですよ。記録は記憶の代わりには絶対ならないと思うんですよ。
記録は客観でしかないと思うんです。沖縄に行った写真を撮ることと沖縄に行くことは何の関係もないと思うんですよね。どんなに写真を3Dにして、それを動かして、4Dにして、それの体感を得たとしても、いったこととは何の関係もないと思うんですよね。
主観というものは客観によって形作られるものだとは私は到底思わないんですよ。全然思わない。だから記録を残すということは、記憶しているということとは全く別のこと。それによって記憶が蘇ってくるっていうのがいくらかあるけど、それは主観というのとは違うって私は思いますね。
生きてる感じがしてないというか、何かが決定的に欠けているっていう感じは補いようがないと思うんです。私が言いたいのは技術の限界みたいな話じゃなくて、そういう話になっちゃったんだけど、そういう話では全くなく、
モラスは何を言わんとしているのかという、わざわざ規範表とか主観を遠ざけるとか言って、いまだ生まれ得ぬものみたいな表現を使って何を言わんとしているかというと、あの人はあれで美音に抗議してるんですよ。ここが分かりにくいんですよね。いかにもモラスらしいなと思うんですよ。
これ何、臨床の話をしたいわけでもなく、新しい、そういう話もしてるんだけど、論理を展開したわけじゃなくて、美音に文句つけてるんだという、非常に面倒くさい人だなっていうか、ある意味詩人って言うんですかね。
要するに美音はアルファ機能っていうものを考案した、すごい偉いと。で、なんでこれ私もそう言われてみるとあんまり考えなかったんだけど、それはクライアントの金合わせだろうとも思うんだし、美音は数学者みたいな人ですから、公式には余計な項目を増やしたくないっていうのは絶対あるんじゃないか。
要するにケチなんじゃない、ケチっていうのは、あるじゃないですか数学には、手数が少ない解法の方がベターであるみたいな、力の出し惜しみ感みたいなもの、より少ない努力で解ける方が偉いんだみたいなのが数学には間違いなくあると思うんですけど、美音にはそういう感じが少しあると思うんですね。
抽象度が高いっていうのはそういうことだと思うんですけど、アルファ機能というものがなぜ損なわれるのかっていうのを説明が、ややもすると扇望に集中してるんですよね。でもそれはクライアントに対する遠慮のような気もするんだけど、美音はそこにケチをつけてるんですよ。
扇望だけじゃないだろうって言ってるんですよ。だからそうただ書けばいいんだけど、そのために疑犯病とは、みたいなことを言って、まだ生まれ得ぬものみたいな、要するにまだ生まれないまま成人になってる人はアルファ機能が弱いって言ってるんです。
アルファ機能が弱くなる原因は何かって必ず臨床の世界では考え始めるんですけど、アルファ機能というのは要するに主観の土台になるような素材を自分の中で生産していくことですから、だから雨が降ったときに幼児がまだ雨とも言えない。
でも雨が降るとはどういうことなのか知っていて、松木さんの私はこれ非常にいい話だなと思うんですけど、窓の外を見てああああって言って感動していると。これが雨という体験を言葉には直せない、アルファ機能をでも自分の内部に宿している幼児の表現なんだという話なんですね。
感動してると言ってるわけですね。雨が降ってるよと言いたいと。親にね。
例えば、例えばですよ。かわいいなって僕なら思うんですね。だから絶対にこれに対して雨だねって言う。これは雨だと教えてるとかそういう啓蒙的な意味がゼロだとは言わないけど、雨だねとか言ってなんかこう腕を持ってあげたりするわけですよ。私だったら。
で、ここなんですよ。こういう体験が一切ないというケースがありうる。それは親が飲んだくれてるとかそういう話でなくてもですよ。つまり病院に言わせるとアルファ機能というものが育たないのは幼児の煽望と憎しみなんだと。
まあそれは一案と一因としてあるでしょう。ただなんでそれしか言ってないんだとボラスは抗議してるわけですよ。それはそれしか言ってないんじゃなくて他は自ずと明らかであろうっていう数学的な言い方。なんかこうしたがって当然以下は証明されるみたいなそういう話なんじゃないのっていう感じもしなくはないんですけど。
ボラスは要するに親が例えば両方が狂気のように喧嘩してるとか両方が子供の育て方となるとおかしくなるとかそういうことがあるだろうと。そういうものがいちいちアルファ機能の育つのに障害になってしまう。
だからアルファ機能を育てようということの代わりに規範というものを使って例えばタスク主導というかライフワークの世界には7つの習慣というものの中にミッションステートメントというのがあるんですよね。このミッションステートメントに照らし合わせて例えば私は人に親切にする人間ですっていうミッションを立てると。
そうするとある行動を取った時に例えば微妙な問題ってあるじゃないですか。お金貸してって言われたと。私は人に親切にする人間ですっていうステートメントに対してお金貸してと言われたときしかし下手に貸して人間関係を壊さないようにするべきなのかいや親切なんだから貸すべきなのかってこういう葛藤が生まれた時にですね。
規範病っていう話をしている時にしているこのボラスに言わせるとそこからのどんどんどんどん追加しちゃうっていうのは主観というものに何か明石性があるんじゃないかって言ってるわけですよね。結局それって自分の主観で決めなきゃならないはずなのにお金の金額がいくら以上だったら貸すとかいくら以下だったら貸すとかね。
そういう風に規範を増やしていくことってできるわけじゃないですか。それはつまり自分の心の中の直感的なそういう結局のところいい感じ悪い感じみたいなそういうものが欠けているからそういう風になっていくんではないかっていうそういう話をしてるわけ。
でそのいい感じなんとかな感じっていうのの土台になるのはアルファ要素なんでこのアルファ要素がちゃんと生産できないからそういうことが起きているんではないかと。ところでアルファ要素がちゃんと生産できないのはどうしてかっていうとにビオンを読んでみるといちいちこう扇望扇望憎しみ憎しみみたいなことを言ってるけれどもそれだけじゃないでしょうということをボラスは言いたいわけですよここで。
そういう風に読めるんですよね。私は当惑するとかって書いてあるんですよ。ビオンはなぜ入用時期にアルファ機能が育つ時期を絞ったんだみたいな。絞ったのかなって考えちゃうんですけどもっといろんなタイミングで損なわれるだろうっていうことをもっと強調するべきなんではないかって言われるとそうかもしれないっていう感じはちょっと持つんですよ。
結局後から損なわれる可能性とか等々についてもっと検討しないのかみたいな話なんで。してないって言えないような気もするんですけどね。わからないですけどね。私はビオンを多分ボラスほど読んでないので。
で、こういう風に考えてみたときにですね。結局、何というかその中間における主観、心の中核における主観みたいなものがなんとなく形作るのは難しい。
だから例えば家電のマニュアルみたいなものを一生懸命PDF化するとかそういうことに情熱的になっていってしまうっていう。なぜこれがいいとか。
ボラスの「規範表」と主観性の重要性
これはもちろんそういう風に基本的になっていくことばかりではないとは思うんですけど。
一番大事なのがですね。私はここがやっぱりボラスのすごいところだなって思うんですけど。
しょってるからできることではあるんだけど。ミラーリングっていう表現を取るんですね。これは脳科学で出てくる概念でもあるんだけど。
照らし返すとはよく精神分析でも言いますよね。要するに鏡を見た時自分が映ってる。これがまあ鏡像ってやつですけど。
これ私なんだなと。人からもこう見えるんだなと。これ主観が入ってるじゃないですか。他人の。
でそれに対して苦しむ人もいらっしゃるじゃないですか。私はこんな風に見えてしまうのか残念だと。
がこのものの見方にはものすごい独特の偏りがあって鏡なんだから客観を映し出してるって私たちは思うところに苦しみがあるわけですよ。
その人はいかに知覚というものが主観的に歪むのかということに十分気づいてないですよね。そういう意味では非常に濃くない言い方かもしれないけどここにはナルシシズムが働いていて。
このナルシシズムっていうのが文字通りナルキストスがですね。水面に映った自分の姿に惚れ込んで死んじゃうってあれなんですよね。
あれはアホかって思われるそうなんだしそう思われちゃうんですよねある意味。でもあれはナルキストスが胸像を他人だと思い込んでるからあれが起きるのであってそんなことはありえないだろうっていうことになっちゃうかもしれないけど。
まあでもありえるんだよなそれはある種のやっぱり病理にあるんで。
胸像を見ても自分だと気づかない病理ってあるんですよね。で胸像を見て自分だと気づくのにはかなりの知力がいるんですよ。何歳児だったらそれがわかるのか問題っていうのもありますし犬はもう絶対無理なんですよね。
めちゃくちゃ吠える犬とかいるわけですよ。完全に自分じゃない犬に向かっちゃってるわけですよね。でゴリラがギリギリわかるぐらいの話だったからだからやっぱり相当の知力がいるんですよ。
つまり自分というふうに認識されるのはこの身体で区切られているっていうふうに認識するのにはかなりの知性を使っているということであってこれを逆転させて考えると私たちが頭がぼんやりしたりはっきりしたりしないときには自分ってものがこの本体像で他人はこれを客観的に見ているんだなどというところまで行き着けなくなってしまうときがあるはずなんですよね。
常識として知ってはいるからそういうふうに思わないでしょうけどもそういうふうになる瞬間ってのはきっと多々あると思う。これが私の性格とか私の人に愛されやすさとか私の人となりに対する他人の評価とかそういったものになってくるともっともっと像がぼやけてくるのでその鏡はしかも映らないんですよ。
ガラスのあれには。で、何に映るか。それを親の反応に見るわけです。これを親による照らし返しって言ってるわけですよ。で、そいつはアルファ機能だろうっていうのがボラスの言い分なわけですよ。
だからそのまあ松木さんがねあのアルファ機能アルファ母親のアルファ機能としておっぱいあげるときにお母さんがかなちゃんおいしいおっぱいをたくさんあげましょうねっていうこう言われているうちにだんだん空腹が満たされていくっていうそういう体験を繰り返すっていうのがアルファ機能を赤ちゃんに内在化させるんだって話なんだけどそれの中にも含まれてますけども。
そこをすごくこうボラスはその中でもというふうに扱われるかなちゃんは自分はそういうふうにこの話よくありますよね。自己啓発的な世界でそう扱われるに値するよっていう感じを持つわけですよね。
で、ここで例のあの治療同盟みたいな話を出してくると、でもそれはいい子であるときはそうかもしれないが、例えばかなちゃんがギャーギャー鳴くときにはそのかなちゃんは排除されるっていうようになってくるとなんか共存が安定しないですよね。
いい子である面だけを親に見せるみたいな。要するに鏡の前に立つときはいつもバッチリ化粧とメイクを決めてバッチリの服を着てからでないと鏡の前に立てない人みたいなことが正確的に起きるみたいなことが起こるわけですよ。
いろんな意味でそのあるがままの自分を親に映し出させるというのはどういうふうに見えるものなのかというのはアルファ機能が育つことと深く関わっているということをきっとボラスは言いたいんだと思うんですね。
そうするといいところも良くないところも自分の中でね鏡で見たときに結局私も昔思ったんですよ。つくづく最近思うんですよ。鏡見て嫌な気分にならないのはどうしてなんだろうと。
だって前よりは明らかに年取ってビジュアル的には劣化してるわけですよ。20何の頃に比べるといくら私でも。なんだけど20何の頃に比べてみて自分が嫌だなって感じを持ってないんですよね。そうすると視覚自体が大きく変わってくるんですよ。
そういうことは起きるんですね。だから鏡見た瞬間に自分がすごい残念だと思うということはやはりその人は自分の知覚を写真のようなものだと信じ込みすぎてしまっているわけですよね。さっきの話に照らし合わせて考えてみると。
そこには必ず強い情動的なバイアスがかかっていて、こういう顔であってはいけないという意識がその人の知覚に強烈に作用しているので、あくまでも言うならばですけど、他の人が見てるよりもはるかに見にくい像を見てるわけです。そんなことは山ほど指摘されている話ではあります。
例えば美容整形の世界とかでそういう話は山ほど言われていますよね。だから親がどういうふうに照らし返しているかと。例えば肯定的に照らし返しているから、だからその子肯定的になるとは限らないじゃないですか。
あるいは、あなたはとてもしっかり者ですごい、私たちはあなたが大好きっていう照らし返し方はちょっちゅうあります。すごく問題になりますよね。その子はしっかり者だということに強い価値観を、要するに存在意義みたいなものがしっかり者に代用されていくわけですよね。
ここに例のそのボラスが問題視している規範病があるわけですよ。主観的に全然照らし返されないんだけどポジティブには照らし返されるっていう経験はあり得るわけですよね。そうすると自分はとてもポジティブな存在なんだとは思うんだけど、それはあくまでも客観的な意味でそうなっていくわけですよね。
自分自身という存在ではなく一つの対象として自分を見るっていう表現は非常にいいなと思うんですけど、我々は他人というのをなかなか対象として普通見ないじゃないですか。欲望の対象として異性を見るっていうのは結構問題になるじゃないですか。
対象として見るというのはどうしたって部分的にあるいはもの化されていくっていうところがあるんだけど、ある種の人は自分をもの化するっていうことにひどく熱心だったりするわけですよね。自分の身長体重血圧心拍数その他諸々を全部スペックのように数値化していってこれをバッチリにすることが自分を幸せにすることだみたいに割と信じて疑わないっていうことが起こるわけです。
で、というふうにいろんなところで学校なり先生なり自分の親なりに照らし返されている。例えばあなたは筋骨たくましいからいい子だみたいな。わかんないですけどねそういうふうに言うかどうかは言わないと思うんだけど、ただその子を主観的な照らし返し方をしないっていうことなんですよね。
ということは親の主観というものも何かすっぽり抜けているようなまるで本当にいわゆる物理的な鏡のように悪い感じではないのかもしれないけど、例えばひどくそういう人は身悪い子であるようになるかもしれないですよね。この辺のことは規範表にちょっと書いてありました。自分は健康的で美しいから大丈夫みたいなそういうふうになるわけですよ。
胸像っていうのはいろんな意味があるじゃないですか。結局その人の心の中で自分はどう映っているのかということをしばしば我々は気にしすぎて沼にハマっていくわけですけれども、これって自分がどういうふうにそれをされてきたかに非常に左右されますよね。
この辺が投影の話にたぶん絡んでいってるとは思うんですが、そんなことを読みながら考えていくうちにですね。
つまり美音は絶対そういうことに対してもっと言いたいことがあると思いますけど、ボラスが美音に抗議しているというのは、要はこのα機能というものが単に夢の素材を生産していくというのよりも全然違う。
ボラスの表現を使うならばミラーリングっていうことのそのα機能のもちろんそれはα機能から始まる。どんなことだってそうだと思うんだけど。
つまり自分がどういう人間として他の人に扱われるのかっていうのはもう夢思考物語の世界に入っていくんだけど、その素材になる部分は主に親のミラーリングであろうと。
それはα機能を育てる、内在化するに当たった時に必ず深く関与していて、それが割とずっと引っ張っていくその人の人生の中でかなり長い間そのやり取りがいろいろ起こる。
もう後からだ。つまり後からだって修正は効くということだと思いますし、非常にしばしば精神分析がそうだとは言いませんけど、カウンセリング心理臨床ってものはそういうことを言ってるよなって感じがするんですよね。
つまり非常に一番ありきたりで、それ自体は私は採用できないなと思うけれども、そこそこ重要とされているのがクライアントさんの良いところを見つけ出すみたいなそういう話ってありますよね。
あるいはクライアントさんがあるがままであることを授業する、非常にロジャス的になっていきますけど、基本としてはそれこそそういう言い方になるんでしょう。
ただこれは実際はそういうことではないだろうなっていう感じがする。これをコンテインメントって言った方がまだ下だなって感じはするんですよ。
だからやっぱりビヨンはそのことについて無頓着だったとはとても思えないんですけれども、ただもっとその面を強調してもよかったのではないかという話ですよね。
ビヨンはやっぱり統合主張書の柔道の人とかそういう方向に意識が強く向かっていたからだと思いますけれども、思考っていう経営の方ですね。
思考の方に相当堅入れがあったのは確かにそういうふうには読めるかなとは思います。