ダスク州都手帳術と天老院カフェのイベント
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
6月4日火曜日、朝7時31分です。
いよいよ7時30分アラウンドに、だんだん開始が集中してきて、
私はやっぱりこういうのに対して、やや良い感じだなと思ってしまうところがあるみたいです。
これは別に、夜の7時半だからといってどうってことはないし、
その方が良いのが取れるということも少なからずあるので、
これは本当に眼かけみたいなものなんですけれども、
同じ時間に同じことをするというのも、精神分析では全く異なる文脈で、
すごくそれを重要視するし、私のこれみたいにアラウンドじゃないですけどね、
完全にその時間通りに、だからといって常にその時間通りに来る人がすごくよく書かれているわけでも全然ないので、
彼はいつも時間ぴったりに来て、みたいなのが書いてあったときに、
その人が素晴らしいクライアントだとは少しも考えられていないというケースはとても多く見えるんですけれども、
まあでも時間ぴったりに来るかどうかっていうのが一つの指標になっていますよね、あの世界では。
これはそれとは全然関係ないので、
なんとなくやっていて、なんとなく同じ時間に収まると私が少し気分がいいといった程度ですけどね。
はい、今日はちょっとどこかで少し途切れると思うんですけれども、
天気もやたらといいですしね、爽やかだし、頑張っていこうと思います。
それでですね、
段続的にお知らせをしておりますが、
今日は、
まあ今日もかな、
6月23日ダスク州都手帳術の第2回をやりますので、よろしくお願いします。
合わせて6月29日、昨日も言いましたけど、合わせてませんが、
天老院カフェで、渋谷の天老院カフェで、
電子書籍のイベントを叶え談的に、叶え談だけではないですけど、
おそらく和田さんと岡野淳さんのお話と私の話の後に叶え談をすると思いますが、そちらもよろしければどうぞ。
今日はその話はあんまり深入りせずに本題に入りますけれども、
そもそも最近言っている話を取りまとめたような内容でしてね。
この内容を私はまだ、たぶんこの番組を通じて頭をまとめている、整理しているところで、
まだなかなか完全には理解できていない。
私、この精神分析系の話って、たぶん年をとってからようやく理解した生もありまして、
なんていうんですかね、完全に理解しているなと思う話は少ないんですよね。
視覚と幻覚の関係
ここらへんがまたすごく心もたなさを生んでおりますね。
あの、なんと言いますかね、
まあいいや、機械な対象群の話を今日もしていきたいわけですね。
で、機械な対象群の話をするというよりは、
やっぱり私の頭の中にあるのは間違いなく機械な対象ではありますけれども、
あの、漫画家の辻吉原さんの、「夜は掴むな!」の夜なんですね。
あの夜の描写ですね。
あれは、なんで私が心を惹かれているかというとですね、
ああいうことを私たちの心はできるんだなということ。
つまり、諸要素にいろんな感覚とか、
視覚、表象、イメージ、感情、情緒、思考を組み合わせて、
ありもしない現実をでっち上げるということが、いくらでもできる。
で、そもそも視覚って考えてみるとそういうものだと。
私たちはそう思ってないんですよ。
視覚という目を全く異なるもののように扱うんですね。
視覚というのは現実の模写みたいに思ってでもいるんですよ。
これは私は、誰もがそうでないことを知っているのに、
まさにマドリックスという映画は、そうではありませんよというのを、
映画としてこう裸に告げたわけでして、
しかもあれがウケたということはですね、
多くの人は、視覚というものが現実を映し出してもなんでもないんだということを、
よくよく知っているはずなんですね。
で、ということはですね、
視覚とはなんだということになってくると、視覚とは掴む夜なんですよ。
つまり視覚というのはでっち上げに近いものなんですね。
私はどちらかというと、これでその割には、
人間という種はうまくやってるなというところに感心させられるぐらいで、
視覚が客観だと考えるのは、大きな誤りだと思います。
だから視覚といわゆる幻覚は違うんだけれども、
すごくよく似た構成要素を持っていて、
どっちの区別もつかないような段階も十分あると。
だから視覚と幻覚というのは、言ってみればスペクトラムなんだろうと思うんですよね。
そのように考えるとですね、
だから誰もが幻覚を見得るよって話をしたいわけではないんですよ。
むしろ私は、既に誰もが幻覚を見ているに等しいよっていう話をどちらかというとしておりまして、
その直ち、幻覚が、まあまあ視覚を、外界を理解するのに、
良い線行ってるケースもあれば、
全く全然良い線行ってないケースもありますというのに過ぎないと思うんですね。
あの、沈黙の艦隊とかね、川口海次さんの、
サブマリン系の漫画なり映画なりをよく見るっていう人はよくご存知だと思うんですけど、
外界の要素を理解するのに音を頼りにしてるじゃないですか。
ソナーとかって言ってるじゃないですか。
つまりどんな音がどこでしてるから、前の方には岩があるとか、敵がいるとか、魚雷撃ってきたとか、
目に見えないじゃないですか。深海で戦争しているから。
どころか外の様子すらはっきりとは分からないわけですね。
モニターで映すとかもできないから。
だから音を頼りにしているわけですね。
私はあれは目の不自由な方の視覚の仕方によく似ていると、
よく似てるんではないかとよく思うんですけれども、
それはそれとして似てるかどうか分からないですけれども、
要するに目は見えないわけですよ。
潜水管理というものには多分ですね、
海中で目に相当するものがほぼないんだろうと思うんですね。
あの状態が私の視覚のイメージなんですよ。
外界というものを私たちは写しとってるとでも思ってるらしいんですけど、
それは間違いで、作り出すことによって現実の状況をあらあら見、あらあらですね、
見当をつけているという感じなんだと思うんですね。
なんでこのことを私がこだわるかというとですね、
つまり夜が怖いってことは、
普通に幼児だったらみんなあるわけじゃないですか。
これの体験の仕方なんですね、僕らにとって大事なのは。
視覚というのはそういうモザイクみたいなものなんだと思うんです。
私たちの現実認識がモザイクみたいなものだとすると、
だから本当に現実を断片的にしてしまってですね、
夜という感覚の断片みたいなものと、
親が相手をしてくれない愛情喪失みたいな時代と、
その時のすごく不安で寂しいという情緒の状態をくっつけてしまう。
くっつけてしまうと、
夜がすごく恐ろしいものに感じるということはあり得る話なんですね、きっと。
だから夜からおばけが出てくるわけですよね。
おばけというのはその人の空想なんですよ。
空想と感覚印象とその時の強い不安なり、
心もとなさとか寂しさみたいなものを融合してしまうんだと。
融合する理由は不思議ではないですよね。
だって私たちの心の中でそれは全部一つになっているわけなので、
融合してそこに何かをこしらえてしまうのは別に全然不思議なことではないんですよ。
だからこの恐ろしいという自分の気持ちにマッチした、
現実近くのようなものを空想と一緒に合わせてですね、
私に襲いかかってくるというようなある種のストーリーですよね。
そういったものを作り出すんだと思うんですよ。
そのためには夜というのは単なる一材料にしか過ぎないわけですよ。
料理作る時のソースみたいなものですよ。
料理作る時というのは断片を寄せ集めているわけじゃないですか。
固形としての肉とか、味付けとしての塩とかを、
いろんな形で組み合わせて料理というものを作り出すんだけれども、
あれと近くっていうのは大変よく似ていると思うんですね。
いろんな要素をデッチ上げて作り出すわけですよ。
デッチ上げてっていうのもおかしいか。
料理はデッチ上げてるわけじゃないんですよね。
でもとにかく、
諸要素を組み合わせると出来上がるという点では、
点を説明したいわけですね。
なぜそういうことをしたいかというと、
それによって何でもできてしまうからなんですね。
何でも作り出そうと思えば、夜がつかむんだから、
ある程度現実は夜である方がやりやすいでしょうけれども、
別にそれ昼でもできてしまうんだと思うんですよ。
昼が襲ってくるなどというのは、
この文脈で考えると少しも不自然ではもはやないと思うんですね。
そういう意味では、冷蔵庫が音を立てて自分を罵っているのであろうとも、
換気扇の向こうから宇宙人が狙撃しようとしているというストーリーであろうとも、
自由自在だという、
それは換気扇というのはその時一つの材料に過ぎなくて、
しかし私たちが換気扇をただ見ている時ですら、
やっぱり私たちにとっての換気扇というのは、
私たちの風景を構成する一つの要素でしかないわけです。
そういう意味で違いはないと思うんですね、やってること。
ただ、そうは言っても夜というのに果たしてお化けっているんだろうかと考えることによって、
この構成によって作り出したストーリーが妥当かそうでないかを検討できるかできないかの差はあるんですよ。
だから私たちも夜にお化けを見てしまうということはあるかもしれないし、
夜にもしかして足を掴まれるというような空想もしてしまうかもしれないけど、
それは空想であって現実ではないんだって考えるってことが、
この場合はとても大事なんだと思うんです。
これが全くできなくなってしまうと、精神病水準とか精神病用とかっていう話になるんでしょうね。
だからよく多責自責っていうじゃないですか。
多責自責の問題
人のせいにするっていう話ね。
あれはモラルに近い道徳みたいな話で、
多責はいけませんよっていうフェースが多いんだろうと思うんですが、
多責がいけないというよりは、
このさっきの夜が掴むような文脈で言うと、
多責がいけないんではなくて、
多責は危ないんですね。
危ないというのは人に責められるからではないんですよ。
もろんそういう結末に至ってしまうという厄介さもあるけれど、
それよりはですね、夜が掴むって多責じゃないですか。
夜のせいにしてますよね。
ここに危うさがあるんですよ。
外のものと内のものを我々はもちろんミックスしてしまうんですけれども、
外のものと内のものをミックスして挙げく、
責任なり原因なりを外に置いてしまうと、
私たちは現実と空想の区別がいよいよつけにくくなってくるわけですよ。
自責にしとけばいいってわけではないんだけど、
せめてこの不快の原因は何なんだろう。
この不快の原因は、
私が昔いろんな人に嫌な目に合わせられて、
生きてるってことが不愉快だというふうに感じてしまってるからではないだろうかと思えた方が、
この不愉快の原因は全部ライブにあるんだって考えてしまうよりも、
現実と空想の区別をつけやすいんですね。
現実と空想の区別がつけにくくなってしまうと、
この施しようがなくなるところがあるんですね。
もう本当に外の力をむしろ頼るしかなくなっていくんですが、
さっきほど外の力に頼りたくないっていう心理状態を抱え込んでいるだけに、
すごくここは難しくなるじゃないですか。
これ、自責でも同じような問題は起こるんですけれどもね。
とにかく、外に原因があるっていうふうに取り違い始めるとですね、
心の中で外の感覚印象ですね、
視覚表象とか、イメージとか音とか雰囲気とか、明るさ暗さ、
そういったものをすべて一旦心に取り込んだ上に、
しかも心の中に不安、恐怖、寂しさみたいなものがあって、
それを混ぜこぜにして、近くですってやってみたときに、
夜がホラーみたいに見えてきましたといったときに、
本当に夜が恐ろしい原因を全部作り出しているんだと考えることによってですね、
出口が見えなくなってしまう。
ここ、あくまでも夜というところの属性には、
光の乏しさとか、太陽がないとか、時間帯の何時であるっていうふうに、
かっちり固めておいて、ここから攻撃はされないといった事実を十分、
一人で対応できない問題
何て言うんですかね、思考しておいてですね、検討しておいて、現実検討ですよね。
でも不快だと、不安だと言うんだったら、
この不安は心の中にある不安で、夜の側にはない、
というふうにここで切り分けることができればですね、
そんなに恐ろしい体験をせずに済むはずだと、
いった話がただしたいだけなんですね。
ただし、私たちはこれをはっきりと分けるだけの、
何て言うんですかね、エビデンスみたいなものは持ってないんですよ。
夜が攻撃していない証拠はここにありますというような証拠を提示するわけにはいかないんですね。
あなたが不快になっている原因は夜にはないんですということを、
夜がつかむんだと言っている人に納得してもらう方法はないんですよ。
その人に自ら考えてもらうより他仕方がないんですね。
この考えるっていうことをするためには、そもそも安心していいんだとか、
考えとはこのようにして、こうすれば考えることができるんだといったことを、
手伝ってもらわなければならない、そのサポートをするのが、
精神分析家でありカウンセラーであるはずなんですね。
つまり、カウンセラーがアドバイスしませんとかいう話をするってのは、
別にちっとも面白い話ではないってことなんですよ。
これはアドバイスじゃないですよね。
まず大丈夫ですと言っているのはアドバイスしているわけじゃない。
あるいは、もしかすると大丈夫ですなんて言わないのかもしれないんですよ。
大丈夫な空間をただセットするだけなのかもしれないんですよ。
そしてカウンセラーさんが、例えば精神分析家が状況を解釈するっていうのは、
考えるっていうのはこういうふうにやるんですっていうのを、
ただ示しているだけかもしれないんですよ。
それがあのあれですよ。
母子関係における最早期の母親がやっていることによく似ているっていう、
そういう話でもあるわけです。
お腹が空いてるのねとか、どうしたのというのは、
あれが考えているってことを考え方、考えるっていうのはどうやるかっていうのを、
赤ちゃんにああやって示しているって話なんですよ。
その時にお母さんは一緒にこの安心感というものもセットで用意するじゃないですか。
抱きかかえてリズムを取るとかそういうことをやることで、
不安を取り除くっていうのもやりますよね。
つまり不安と何かが起きているってことは、
必ずしもセットではないよということを伝えているわけですよ。
でもそんなことを伝えても赤ちゃんにはわからないように、
そんなことを言っても切羽詰まっている人には伝わらないわけですね。
だから時間がかかるんですよ。
繰り返し繰り返しそうすることによって、
この状況は安心なんだと。
つまり安心であるように考えれば、
安心できるんだというふうに認識することで、
その人の情緒が落ち着くと同時に、
状況を検討するという、
心の余裕と心の機能がそれぞれ働き始めるというのを期待しているわけですね。
一気に喋ってみたんですけれども、
これがですね、私が夜がつかむで、
常々あのシーンを思い浮かべながらですね、
考えることができなくなってのはとてもかわいそうなことだし、
だって非常につらいじゃないですか。
絶対に襲ってこないものが恐ろしいわけですから、
そんなふうになってしまったら、
生きているだけでも大変ですよね。
夜は毎晩やってくるわけですからね。
続きなんですが、
ここからちょっとややこしいと言えばややこしいんですけれども、
もう僕、頭の中に夜がつかむを置いちゃってますんでね。
皆様もぜひ、まだ読んでないという方がいらっしゃったら、
ツゲさんの夜がつかむをお読みいただくと、話は分かりやすくなります。
電子書籍でも出てると思いますし、
すごい簡単にまだ手に入ると思うんですが、
彼一人になってるじゃないですか。
あそこに全てのポイントが僕はある気がするんですね。
一人では対応できないんですよ、この種のことは。
この種のことのみならず、僕はもう今、よく思うのがですね、
一人で対応できることなんてこの世に何もないんですよ、多分。
赤ちゃんは立つことすらできない。
我々は赤ちゃんじゃないって思うんだけれども、
立つためには他者の力が絶対に必要だったんですよ。
少なくとも言葉喋るためには絶対必要ですよね。
家庭環境の影響
僕らは言葉って模倣でしか喋ってない。
これは先日も言いましたけど、
日本人は日本語を喋れるようになりますが大抵、
それは日本語しか喋れるようになりませんよね、放っておいたんでは。
つまり、模倣しか僕らしないんですよ、基本的に。
ここがもう、私は夜がつかむの全てだと思うし、
この話を何がいいかな、確定申告にしましょうか。
確定申告にするには6月というのは全く合わない月なので、
整理しましょう。
最近掃除の話をよく、何名か何名かなんですけど、
相当長らく僕はこの片付けって、
整理収納アドバイザーという方もタスクシュート認定トレーナーさんの中に結構いらっしゃって、
整理収納とはなかなか一大テーマですよね。
簡単なんですよ、掃除をするのは。
夜がつかまないのと同じで、
掃除をしていない、散らかっている状態は私たちをいかなる意味でも迫害しないんですね。
まずここなんですね、これは先日申し上げた通りです。
掃除にしちゃったな、確定申告にしなかったわけだが、
これは確定申告の季節じゃないからなんですね。
確定申告というのはもっと暗い季節にやりますね。
2月になったら確定申告にしようと思うんですけど、
掃除と確定申告とは何なんだろうな、
何でもご自分の状況に読み換えてください。
掃除じゃないよっていう人もいっぱいいらっしゃると思うんで、
何出してもダメじゃないですか、ここ。
原稿とか言っとって、私は原稿が一番出しやすいですが、
原稿に当てはまる人だってどのぐらいいらっしゃるのかね、
あらゆる人に当てはまる事例はこの場合ないんで、
もう夜って言うんじゃ分かりにくいだろうからって話で、
これ夜と全く同じなんですよ。
夜にあの状態で彼は一人になっている。
ほとんど一人になったら何にも対応できなくなってしまうんですね。
彼実際何の対応もしてませんね。
もともと窓が開いてると言って、
同伴している女の人に狂ったように怒ってたのに、
その戸すら閉めてない。
ただゴロンと横になってきて、夜の侵略というものを怯えながら、
ただゴロンとなって、ついに夜に侵略される。
あの夜目なさというか、あの頼りなさですよ。
彼が抱えている問題っていうのは、要するにそういうことですよ。
テレビが罵るって言ったって別に、これ妄想なんだから。
テレビが私を称賛するでもいいじゃないですか。
先日もちょっとタイトルだけ紹介しましたけど、
今日もテレビは私の悪口ばかり言っているし、
空には不気味な赤い星が浮かんでいる。
っていうタイトルの東郷視聴賞者さんのコミックエッセイがありますが、
タイトルちょっと違うかもしれませんけれどもね。
だいたいこういうタイトルですよ。
Amazonで検索すればすぐヒットすると思いますが、
なぜ迫害するのかっていうと不安だからですよ。
じゃあなぜ不安なのかっていうと、あった一人だからですね。
あった一人で乳幼児が家に放置されてたら不安に決まってますよね。
ここに妄想のような、妄想用の原点みたいなものを、
カウンセリングなり精神分析の多くは見るわけです。
だから家庭環境に問題があっているだろうなって話なんだけど、
この通りのことが起きたとは限りないですよ。
ここに心的現実って話が出てくるんだけれども、
いずれにしてもその人は大事な点はですね、
有力な助けになってくれる人の存在が、
何らかの理由で決定的に欠けているという感覚を持ってるんですよ。
おそらく。だから不安なんですよ。
というか恐ろしいんですね。
この頼りない恐ろしさっていうものがまず心の中にあって、
これと例えば夜なりが組み合わさるわけです。
夜中に布団の中で一人ぼっちでいて、
隣では窓ガラスとかを叩き割っているか、
コップかなんかを叩き割っているような、
お父さんとお母さんの猛烈な喧嘩と声とかが聞こえるわけですよ。
これが夜が掴むの多分一つの正体なんですよ。
破局的ですよね。家庭は破局的な感じがするわけですよ。
それは決まって夜に起こるわけ。
その子は助けてくれる人も慰めてくれる人も
安心させてくれる人もいないんですよ。
そこには当然恐怖と怒りがありますよね。
なぜこういう状況に自分を置き去りにしているんだというような、
そして無力感がありますよね。
この状態に対して自分は何にもできないっていうね。
だってやっと言葉を覚えたり、
やっと立ち上がって歩けるようになったような子じゃないですか。
だから何にも対応する能力がないっていうこの感覚が
その人を絶望的な気分にもパニックにもさせるんですよ。
ここで多席はっていう話ができないものだから
分析なりカウンセリングは政治的に良くないとか
社会的にもっと考えるべきだっていう話が出てくるんですけど
それは僕は他ど違いだと思うんですね。
そっちはそっちの人たちが、
というかそっちはそっちの運動であるいは対処するやり方で
対処すれば対処するしかないんですよ。
カウンセリングっていうのはこの子供の心に焦点を当ててる話なのであって
もっといい家庭環境だったらと考えるのは
この場合はあんまり意味がないんですね。
もう一つ大事なことがあって
この夫婦喧嘩が起きていたとは限らないってことなんですよ。
この子が夢を見たのかもしれない。
ただこの種の夢を見るってことは
何の原因もその家庭環境になかったと考えるのは不自然ですよね。
ただそれは夢だった可能性は否定できない。
だからサイキックリアリティって言うんですよ。
でも僕は夢なのかどうかっていうよりは
現実そのもののように感じたって言えば
そういうものとして受け止める。
でも実際には隣で夫婦がスヤスヤ寝てただけかもしれないし
もしかして夜の営みをしてたのかもしれないですよ。
これもまたトラウマの原因になりうる話だっていう話がありますからね。
ここはもう突っ込むと込み入ってわけわかんなくなるんでやめますが
大事なのはその家庭に問題があったかどうかを
今さら調べる手立てがないわけです。
だからそこに意識を全集中するっていうのは
全集中言っちゃいましたけれども
社会学の側の考え方であって
トラウマの持続
これはその子が困ってるっていう話をしているわけじゃないんですよ。
もうその子は大人になっちゃったんですよそのまま。
そしてその子は大人になると
同伴している女の人をやたらと叩いたり殴ったり
DVみたいなことをすると。
DVなのかもしれないね。
なんで窓を開けているんだ。
夜が入ってくるだろうって言って怒るわけですよ。
これはニューヨーク時代に
パニックをそのまま大きくなって再現しているに過ぎない。
だから問題は問題行動なんだけれども
彼は虐待しているつもりはないってことなんですよ。
つもりがなくても虐待だろうって言うならそうなんだけど
ここでこの問題も2つに切り分けなければいけないんですね。
この人の心の中で起きていることに
もう焦点を少なくとも当てないとダメなわけですよ。
そういうふうに考えることによって
なぜ杉さんがあそこにああいうかなりエロ黒なシーンを
大人にボンと持ってきたのかっていうのの理由が分かる感じがするわけですよね。
彼はようやく安心させてくれる母親を見つけつつあるわけですよ。
なんだけどそれを自分で壊してしまうというあれは悲惨なシーンなんですね。
で、あんまりいじめるものだからといって
夜から救い出してくれそうな母親役の人も
他の男と不倫している。不倫なのかな。
女性の責任悩み
あれは結婚してなさそうだから不倫とは言わないね。
ふたまたなのかもしれない。
これは許せないわけですよ。
これを対象としての母親っていう言い方をしてトラウマになるわけですよ。
アジャセコンプレックスですよね。
だけれどもあの女の人の言い分がおそらく正当ですよね。
社会的に見ればどう考えてもあれじゃああいうことが起きてもしようがない。
しようがないんだけれども
あの男の人の立場からするとあれはひどい裏切りになるわけですよ。
お母さんはどっか他の男のところに行ったりパチンコをしていてはいけないわけですよ。
でもお母さんだってパチンコがしたいことはあるわけですよ。
あの人言ってたじゃないですか。
あの女性は言ってるんだけれども
私にじゃあ自由はない。
そうすると男の人は激行するんですよ。
何が自由だと言ってぶん殴りまくる。
これはつまり乳児時代であった自分の世話をするのが母親であって
でも母親に言わせれば私には自由はないのかという問いはあるわけですよね。
だからあの人はものすごく僕はですね
切実な夜はつかむだなって思うわけですよ。
で私たちの確定申告なり掃除は決してここまで切実ではない。
でも私たちには私たちなりのサイキックリアリティがありまして
散らかってる部屋を見るとね
それに迫害されている気がしてくるわけです。
気持ちのミックスという意味で言えば
まずなんだろうな散らかってる部屋
なんかゴミがちゃんと出されてないとか
そういった感覚表彰ですよね。
現実の一段辺です。一段辺ですよね。
現実はゴミだけでできてるわけじゃないからね。
部屋のある空間のある部分
本がちゃんと元に戻ってないとか
お菓子の紙袋がそのままになってるとか
いうのはすべて一段辺です。感覚表彰ですよ。
まずそれが心の中に取り込まれる。
これは心の中に取り込んだ段階で
現実そのものではないですからね。
あくまでもビジュアルですから。
ビジュアルを相当脳は加工しますからね。
そういう加工がされている段辺が入ってくる。
それに対してだらしないな、ちゃんと片付けておけよっていう
長寿がの声が段辺的にこれも入ってくる。
誰の声だか知りませんが
自然でしょうね。
その他にも自分の体が疲れているという
身体からの信号が入ってくる。
こういうものがミックスされていくわけですよ。
今何時ですか。もう夜になりました。
夜という現実の表彰が入ってくるわけですね。
これは時計の角度感を知れないし
光が乏しい空間の
感覚印象感を知れませんね。
あと雨が降っているとか湿度が高いとか
例えばまだ消化されていない
お菓子が胸焼けしている。
これは胸から来る。胸から本当は来ないけど脳から来てるんだけど
信号ですよね。快感といってもいいのかもしれないですね。
それから最近は自分は
仕事がうまくいかなかったとかいう
記憶。これは記憶ね。
これらが混ざるわけですよ。
この混ぜた上に
現実と空想の区別をつけなかったら
ここに当然空想が入ってきますよね。さまざまな空想が入ってくる。
外してその空想はよくは解釈されませんよね。
今の条件。全部加味した。
嫌な空想が
空想そのものの嫌な意味をつけるわけですよ。
空想に良い意味は良い悪いはあんまないんですよね。
わけだって
妖怪ウォッチがそうですけど
別に愉快に表現しても構わないわけじゃないですか。
自分の空想も。ただしこういう場合は多分
嫌なものとして解釈する。
そうして混ぜて適宜
現実の近くを作ってみると
あだかも散らかった部屋にいるから
私はこんなに気分が
やる気が出ないんだ。
起きる気がしないんだっていうような
現実というものを近くとして作り出してしまうんですよ。
これは僕は夜がつかむほど大変ではないけれども
類似した事態が進行していると思うんですね。
だから僕はいつも思うんですよ。
現実と
心理状態は分けて考えないと。
心理状態は心理状態。
現実は現実なんですよ。
現実の状態を作り出しているかのように
捉えてしまうと、ここを分離しないでおくと
すごくこの事態を考えるのの邪魔になるんですよ。
そもそも考えるっていうことをするためには
考えるだけの効果があるって思えない。
つまり考えれば事態をある程度は
打開できると思えなかったら
人は考える気力すら失うじゃないですか。
あの夜はつかむの人が全然考えてませんよね。
少しそれでも考える方がみたいなものも
あの辺はつげさんは素晴らしいんですけれども
とうとう一人になってしまったっていうシーンがあるんですよ。
そりゃそうですよね。
あれほどひどい扱いをしていれば女の人出て行ってしまいます。
よく一緒に今までいたよねっていう感じがする。
でもとうとう一人になってしまった。これは欲打つ不安ですよね。
欲打つポジションですよ。考え始めたんですね彼は。
一人になってしまった。
もっと優しくしておけばよかったかなって言うんですよ。
これがまさに欲打つポジションの入り口ですよね。
欲打つ的になってるじゃないですか。
罪の意識に苛まれてますよね。
あれが彼には欠かせない。どうしても必要なんですよね。
あの道を通る必要があるわけです。
自分がダダをこねて泣き叫んだら
お母さんがいなくなってしまったわけですよ。
だからお母さんにああいうことをしてしまうのは
これが自責ですよね。
だから他責から自責へと移りつつある瞬間なんですよ。
なんで自責がほうが他責よりいいのかというのはここにあるんです。
すべてが他責だとすると
その人はものすごく孤独なんですよ。
だってすべてが他責だということは
外部が自分を責めるわけですよ。
夜が責める。テレビが責める。洗濯機が責めてくる。
自責と他責
そして他人はみんな自分を責めてくる。
完璧に孤独ですよね。
孤立無縁ってのはこういう状態を言うじゃないですか。
誰も自分のことを助けてはくれないわけですよ。
これが自責なら事態はずっとマシですよね。
あの女の人にひどいことをしたから
行ってしまったということは
彼は最初から一人だったわけではないわけですよね。
運脈を追っていくことができれば
もしかすると助けてくれる可能性のある人がどこかにいるかもしれないし
あのシーン、なかなか泣かせるシーンがありまして
ドアを開けておくわけですよ。
なぜ夜が入ってくる、ドアを閉めろ窓を閉めろ
暑い夏でもって言って騒いでいた
男がドアを開けておくのか。
こうしておけば戻ってくるかもしれない。母親がですよ。
これは間違いない。
昔私、このホットキャストで言いましたよね。
どこかの施設でアメリカですけどね。
マザーカミングっていうやつです。
お母さんが帰ってくるのを待っているのと
あれと全く同じですよね。
これは自責なんですよ。
他責であれば、こうは考えられない。
お母さんは自分を迫害するために
他の男とイチャイチャしている。
これ迫害ですよね。
こういうことだけしか考えられない場合には
その人は行き着けないわけですよ。
自責ということは自分が悪かった。
これは自分が悪くなければ
お母さんはやってきてくれるから
ヘルプされる存在なんです。
原理、あの女の人は一緒にいたわけですからね。
あんなに酷い目にあいながらもね。
つまりこれが自責をするということができるレベルまで
上がってくることの意味なんですね。
自責というのはモラルの話をしているわけではないんですよ。
結局はこういうのをモラルっていうのかもしれませんけれども。
そしてここまで考えることができたから
夜にウカウカと扉を開けてくるおいだから
ついに一人ぼっちになってしまった彼のところに
夜が襲いかかってくるんですよ。
極めて合理的に実はあの話は展開されているのであって
単に狂った話ではないんですね。
狂ってるっていうのは
多分ああいう状態のことを指すんでしょうけれども。
で、私たちも
つまりですね、孤立無縁であったらダメだってことなんですね。
裸的というのは
全部自力でやらなければいけないってことなんですよ。
だって他は攻めてくるわけですから。
責任がすべて他にあるということは
自分じゃ何もできないというのと全く変わらないわけです。
だから彼はまさにお酒飲んでゴロンとして
自分が侵入するままになってしまう。
あの状態に心理状態が落ち込むということは
自責と無力感
完全な無力感というものにも
苛まれているわけです。
だから私はですね、この精神病水準に
大鬱と統合失調とがあるっていうのは
なるほどなって思うわけですね。
どちらにしてもものすごく
一人で孤立無縁だという状態で
全くどうにも出す術がないです
っていうことの絶望感があれば
現れないんですね。
だから掃除においても基本は変わらないと思うんですね。
ここまで絶望することはありませんが
結局のところは自分ではどうにもできない
っていう状態に入らないためにも
やっぱり空間なり
整理されてない空間なり
それこそ別に原稿でもいいんですよ。真っ白な原稿なりは
絶対自分を責めてこない。
そしてここが僕がよく言うやつですが
やってもやらなくても変わらない。
やってもやらなくても変わらないはずなんですよ。
やれば綺麗になって自分の状態は良くなり
やらなければ自分は責め立てられている
っていうのは完全に原因が全部揃いある
っていう意味になってしまうじゃないですか。
原稿と書く前と確定申告やろうとやる前と
変わらないんですよ。何にも変わらないんですよ。
こうやってですね
自分の内と外を完全に分ける必要があるわけです。
夜は絶対自分をつかまない。
これは我々はみんな分かってるわけです。
確かに夜は昼よりも
不安で深いかもしれないけれども、でもやっぱり夜は
決定的には自分を責めてこないわけです。
つまりだから原稿が真っ白でも
びっしり文章で埋め尽くされていても何も変わらないんですよ。
ここまでこないと僕らは
完全には切り分けられない気が私はするんですよね。
こうして切り分ける。
つまり外には責任はない。原因もない。
自分が苦しいのだとすると
多分自分に責任はある。
責任があるっていうのはよく自分は
悪いって人は捉えてしまうんですけど
そうじゃない。自分に責任があれば
人は助けてくれうるという展開が
期待できるんですよ。
あれほどひどい事態を引き起こした責任が
仮に自分にあるんだとしても
これは直面化って言うんですけれども
現実に直面するって話なんだけれども
自分に責任があるならば
何とかできる可能性は十分あるわけです。
ここでどうしても不安という話と
無力感ってものが問題になってくるじゃないですか。
自分に責任があるって言われるだけでも
もう耐えられないっていう人はすっごく無力じゃないですか。
責任というのはレスポンシビリティなんで
応答能力なんで。自分が応答できるということは
やり方を変えられるっていう話ですよね。
無力だったら無理ですよね。
自分に責任があるっていうのは
自分を罰しなければいけないっていう意味では
全くないはずなんですよ。
やり方変えればいいはずなんですね。
そうすればあの女の人は戻ってくるかもしれないじゃないですか。
夜がそれほど恐ろしいならば
なんで夜が恐ろしいのかを考える責任ってあるじゃないですか。
こういう風に行くしかないですよね。
こういう風に行こうと思えるかどうかが
自分の責任は他者を宛てにすること
ああいう状態になる前に私たちが
手を打ちたいところなんですね。
そのときに実は自分は
他者を宛てにしているんだっていうのを
思い出すはずなんですよ。
自分に責任があるってことは自分は他者を宛てにしているってこと
これはセットなんですよ。
他者を全く宛てにできない世界に生きているときには
もう全責任は
他者になることになるわけですよね。
全然宛てにならないということは
他人は何を自分にしてきても構わないって意味になってしまうので
自分をいくら攻めてきても仕方がないんですよ。
夜が攻めてこようと
テレビが文句を言ってこようと仕方がないんですよ。
他責なんで。全責任は他者にあるんだから
自分ではどうにもできないじゃないですか。
自分がどうにかできるときというのは
何らかの形で協調関係が結べるはず
なのであってでなければおかしいですよね。
自分のやり方次第で相手が変わるのでなかったら
自分に責任は何もないことになるじゃないですか。
本当に。
責任があるってのは他者を宛てにできるっていう話なんだと思うんですよ。
それを思い出すためにも
他者側に、外側に責任は一切ないっていう
ところまで持っていく必要が
上々的にですね。
そうしないと無力感と責と
孤立無縁であることの深刻さ
孤立無縁っていう事態を引き起こして
何もできなくなってしまうわけですよ。
この夜って話が
そうであるようにですね。
何とも対処しやすい問題ほど
その事態に対応できない時の
その人の心理状態は当然
悪化してるわけじゃないですか。
夜が怖い、夜が掴むってのはもうどうにもこうにもならないじゃないですか。
極めてオカルトらしく
そして普通の人は難なく
そこを飛び越えてクリアしている、そういうラインですよね。
考えてみるとそういう事ってとても多いですよね。
メールへの対処とか。
確定申告だってある意味そうです。
やろうと思えば非常に簡単にやれるはしごとなんですよ、あれは。
そういうものができなくなる時ほど
我々はオカルティックになっちゃってるわけですよ。
その程度のことすらも
どうにもならない時は、その程度のことが
襲いかかってくるので、対応のしようがないですね。
まさに夜がそうじゃないですか。
夜が攻撃してくるなんてことには対応のしようがないですよ。
あまりにも何にもしてこないものが
そういう超自然的な力を持ってくるってことは
対応のしようがないですよね。
片付けもまさに僕はそうだと思うんですね。
なんてことはないことが恐ろしいんですよ。
それは自分の孤立無縁度ってものによって
つまり自分がどれほど孤立無縁だと思ってるかによって
他者をどれほど当てにできないと思ってるかによって
その深刻さというか深刻レベルが
大きく上昇してしまうんですね。
本当に
やることが実際に難しいことが難しいって言うんだったら
そこに置かるとか一切いらないじゃないですか。
例えば
家にものすごく大きな荷物が届いて
一人では到底持ち上げられないものが
入り口を塞いでいて大変だ。
これはどう考えたって大変じゃないですか。
その時にその荷物を持って動かさなければ
絶対ダメだという状態が待っているならばですね。
夜が掴むのとは全く違うわけですよ。
現実がそもそも大変なんですよ。
何らそこに特殊な事態が発生する必要はないんですね。
そして人の重力を借りたって大変じゃないですか。
これほどのことが
実は全く起きていないのに大変だ。
例えば朝起きられない。
そういった事態の時ほど
私たちに起こっている事態っていうのは
非常に超自然的なものがあって
どう言ってもうまくいかないような感じがあって
その最大の理由は孤立無縁にあるんだろうと。
孤立無縁というよりは
孤立無縁だという思い込みにあるんだろうと
いう話ですね。