リクエストへの応答
おはようございます。 佐々木正悟のライフハックからの精神分析第1298回をお送りします。
おお、1300回が見えてきた。 12月22日月曜日8時58分です。
まあこのぐらいの時間にこれ撮ってるとめっちゃ楽ですね。 はい、えーっと今日はですね、レターをいただいたので、これがまたびっくりなんですよ。
すいません、レター読み落としている可能性が大いにあります。 これはね、僕はスタンFMのこのあまりにも地味なレター期待を感が、ちょっといくらなんでも地味すぎて、これだと気がつかないでしょうぐらいに思うんですよね。
つまり、だってですよ、気がつかないのはお前悪いって思われるでしょうけど、 けどですね、視聴者数がスタンFの中ではもう30名ぐらいなんですよ。
これ1日経ってとかじゃないですよ、1週間経って30名ぐらいですよ。 で、レター来ると普通驚かないですよ。
だってあの、なんていうのかな、例えば僕は一応Xが一番フォロワー数多くて、一番近いでも9000ぐらいになっちゃったけど、なんかアカウントバンとかされるんだよね。
9000とかになったけど9000くらいいるわけですよフォロー。 でもファンレター的DMって来ないですよ。
なんかもうスパムDMがいっぱい来るぐらいで、ファンレター的なDMはいただかないので、9000いて0なのに、なんか30いて来るとか思わないじゃないですか。
ちょっと敬語が違うのは確かなんだけど。 いや普通はまあ思わないと思うんですよね。
というわけで、あのほらDM来ないようにしている方っていらっしゃるじゃないですか。 僕すごい不思議なんですよね。
そんなにDM来るんだって思うんですよね。 僕は基本的にスパムしか来ないんで、
あのあれですね、ちょっと際どい画像を貼っておきましたみたいな、別にそんな貼っておいていただかなくたって、そんなもんいくらでも無料で今見られるんだけどって思うんですけどね。
ほとんどそれしか来ないんで。 あのいや他にもほらなんだっけ、FXで必ず儲かる方法とかそういうのはきますけどね。
DMって基本そういうところだという、ちょっとある種固定観念がありまして、それもめちゃくちゃいっぱい来るわけじゃないですよ。
僕結構手動で消したりしているんで、手動で消せる範囲内なんですよね。 なんかこう暇な時に、暇っていうかよくわかんないんだけど、
1日1個ずつぐらいしか来ないんで、別に全然手動で削除できるというね。
インフルエンサーに程遠い生活を送ってて、このぐらいが心穏やかに過ごせていいんじゃないかと思う。
インフルエンサーのすごい人に比べると年収で、僕の年収を月収が上回っていきますけど、しょうがないですよね。
もうね、パーソナリティもあると思うし、二流もあると思うんで、それらの人って結構すごい活動量とかすごいですね。
それもまた私できないんで、これを撮った後に2度寝とか平気でしちゃうんで、今日は寝ませんけど、寝ないと思うんだけどね。
もう9時ですしね。
レターを読み上げさせていただこうと思って、レターを読み上げさせていただくというよりも、レターを見ようと思っておりますのでリクエストをいただきました。
物作業の話が聞きたいと。
恋人と別れて、なるほどね。なるべく棘を残さずに心を修復したいと思っています。
本当にありがとうございます。めちゃくちゃありがとうございます。
まさかね、だって1週間で30の視聴者です。もちろんスポティファイとかは別ですよ。
アップルポッドキャストとかね、どのぐらいあるのか。僕もアップルポッドキャストとかほとんど聞かないんでわかんないんですが、そこらは別としても、ここの中では30。
まあ多い日で50とかなんですよ。もう本当にこう、これより少ない人もいるんだろうなやっぱりなっていうぐらい、
なんかこう、最も少ない部類ではないでしょうかっていう感じがします。
心の修復の重要性
それで1000回超えてるっていうのは多分もうほとんどいないんじゃないかって思うんですよね。
スタイフ自体では1000回超えてませんが、スタイフで1000を超えた時にスタイフではいくつぐらいになるんだろうという、これでスタイフって大丈夫なのかなってちょっと無駄に心配したりするんですけど、
いやとってもいいんですよ。BGMをワンタッチで入れられるのって。めちゃくちゃいいんです、これは。
あと動作すごい安定してるんですよね。私Spotifyでやってた時よりも断然こっちのほうが安定して、使ってる人の数が少ないからかもしれないけど、ちゃんとしてるよなとは思いますね。
このレター呼びながら録音する機能もちゃんと普通にわかりやすくなってますしね。
というわけで、もの作業ですね。まずこちらに書いてあるのは、なるべくトゲを残さずっていう、ここを捉えますね。
なるべく早く楽になりたいとは書かれてないので、やっぱりこの辺のところは大事だなと思うんですよね。何が求められているのかということは、
カウンセリングに関わらず、これはもちろんカウンセリングではないけれども、関わらずやっぱり求められていないことを提供するのは絶対なしとは思わないんですよね。
そういうことが必要なケースもこの世の中にはいっぱいあると思うんですけど、でも求められていないことを提供しようとしないほうがいいでしょうと思います。
だからトゲを残さないということが大事っていうことですよね。というふうに読みます。書いてあることがそうだので。
トゲを残さないというのはですね、つまり言い換えると、言い換えちゃいますけど怒りを残さないということになると思うんですよ。
で、怒りを残さないためには怒ることだと思うんですね、私は。少なくとも怒りを禁忍しないってやつですね。
抑え込んだりないものにしない。やっぱり怒るという。ただ、怒ったことによっていろいろな意味で破壊的になってしまったりするとはまずいんで、
まずいというか、ご本人にとってやっぱり損臭いじゃないですか。だから怒る、だけどそれはあくまでも心の中でっていうのが大事だと思うんですよ。
怒った上での行動っていうのは、これがいわゆるアクションですけど、今の時代難しいのはですね、アクティブであることは良いことであるというのがかなり強めに出てるんで、
怒ったところに怒った恋愛で腹が立ったから、別れで腹が立ったから、転職したらすげー上手くいきましたみたいな話が出回りがちなんですよ。
で、そういうことになるべくしない方がいいと思うんですよね。この話自体は微談になるかもしれないけど、だからしてやったぜっていうのはわかるんですけど、それはそれでいいと思うんだけど、結果が上手くいけば。
ただ必ずしもそれで結果が上手くいかないかもしれないじゃないですか。それはわかんないじゃないですか結局。やってみないとわかんないことですよね。ここにそれを持ち込んじゃわない方がいいだろうなという感じはするんですよね。
やっぱ心のことは心でっていう、体のことは体に。この感じをですね、やれると非常に私は生きやすくなるなって思うんですよ。
あの昔私結構その今でも全くないわけじゃないけど、昔あの動画を自分のね、やんないんですけど今でもプレゼンとかで動画を撮って見ろみたいなのがあったんですよ。そういう教えがあったんですよね。だからそういうのを見て客観的にダメなところを直せみたいな。見らんないですよ。
でも、それとは違う修行になっちゃうんですよね。本来それはプレゼンのあれでしょ。諸作を直すとかねチケットとかよくわかんないけど私にはよくわかんないことばっかりですけど、なんかねそういうプレゼンのクオリティーを上げようみたいな話なんだと思うんですよね。どっちかというと習知心との戦いみたいになっちゃうんですよ。
私のような人間だとね。で私はあれをやんない。一切やんなかったんです。なぜかというと習知心との戦いは絶対プレゼンのクオリティーとは関係ないと思うんで。だって習知心って自分の心の中にあるもんじゃないですか。自分が見るから恥ずかしいんだって。他人が見てもいやこいつ恥ずかしいわって思ってると思っちゃうわけなんだけど、あの私ほどは思わないんですよ。私の諸作についてなんてね。
いくら共感性周知がどうたらこうたらあの言葉も非常に違う力度の言い方に直したいけどまぁ今日はめんどくさいんでこうしちゃいますが、共感性周知がどうたらこうたらでなんか佐々木を見てるだけでこっちが体が痒くなってくるぜっていう人もいるでしょうけど、その人だって私ほどは恥ずかしがってないんですよ。ここ大事なんですよ。自分が可愛いんですよ人間は。他の人のことなんかほぼどうでもいいんで、あの例えば私がどれほど裸になって外を駆けずり回っていようとも、
なんかひそひそ噂をするだけであって私ほどは恥ずかしくないんですよ結局。だってそれは私じゃないんだもん。つまり恥ずかしいとはそういう自分を守りたいという気持ちの現れでしかなくて、他の人にとってはですね共感性というのはつまりバウンダリーの問題でしかないと思うんですよね。恥ずかしい人を見ているとこっちも恥ずかしくなるっていうのは自分を守りたくなってしまう。
もっと守るべき人間が自分を守ってないからっていう話でしかなくて、大した話じゃないですよ。はっきり言って。だからあの私を、私が恥ずかしいと思っているというのは結局のところ私の評価の問題であって決して客観的評価の話になり得ないんですよね。
と私は思うんです。なんで恥ずかしさと戦っているうちは自分のプレゼンの動画なんか見るの絶対やめようと思って。基本私は反省しない人間ですからね。あの反省ってついしちゃうじゃないですか。でもその反省というのはくぐくりん自分を守りたいものなんですよ。感情が先に立つんですよね。クオリティを上げるっていうのは本当にわずかなことで済んじゃうんで、その羞恥心は基本全く不要で。
だけれども我々は自分大事なんで、やっぱり心の中での自分を守るっていうのを第一事項の最優先に持ってきちゃうんで、クオリティとかやってられないわけですよ。クオリティ上げてるつもりで自分が恥ずかしくないことをするってことになってしまって、結局その人はほぼ何もできなくなりかねない。その人って私よ。私自身ほぼ何もできなくなりかねない。でもどんなにクオリティが下がっても来てくれる人っていらっしゃるんですよ。
このレターをくださった方のように、どんなに視聴者数が減っても聞いてくれる人がゼロにはならないものなんですよ。ここ非常に大事だと思いません。
そんなに羞恥心羞恥心と言って羞恥心と戦ってるうちに何にも出さなくなったら視聴者数確実にゼロになりますからね。だって何にも出さないんだから。でも出してる限り視聴者数がゼロにならないということは聞きたい人がいるということであって、そこはクオリティが低いか高いかというのは結局のところ目が曇ってますから。
羞恥心が高いか低いかとプレゼンのクオリティが高いか低いかは必ずしも一致っていうか絶対一致なんかしないんですよ。もちろんいくらか連動はするかもしれない。恥ずかしくない方がレベル高いかもしれない。でもそんなことは結構言えないんですよね。だからやっぱり恥ずかしさにどうせ我々は目が曇るんで、あんまり自分の姿を見てそれを直そうとしない方がいいと思うんですよ。
怒りの処理と障害
それで直るのはクオリティの高さじゃなくて恥ずかしくなさになっちゃうんですよ。ほとんどの場合そうなると思う。で、やめた方がいいと思うんですよ。そんなことを。ただ職業ではどうしてもね。例えば私、昔は小学校の頃に遡るんだけど文章、自分の文章読むのは恥ずかしかったんですよ。子供の頃は。でもそんなことやってたらサッカーは無理ですよ。だから全く恥ずかしくなくなりました。文章に関しては。
そうするとようやくクオリティが見えるようになるんですよ。で、そこから先は簡単なんですよ。恥ずかしさとの戦いに比べればクオリティのレベルを変えるってのはそう難しいことではないんですね。だから私はプレゼンはプロじゃないからね。私からしてみるとプレゼンもプロやってるわけじゃないんで、ここはもう全然関係ないということにいたしましょうというか。
まあ、見たい人が見ればいいのであって、私の恥ずかしさはこの際どうでもいいなっていう感じを持ちました。で、話が盛大にそれているわけですけど、あの物作業ということにおいてですね、アクションを使ってまず怒りというものを処理しない方がいいですが、でもアクションを使ってしまったとしても否認するよりはいいんじゃないかと。これは個人的な意見なんですけれども。
一番物作業でやっぱり大事なのは感情を味わい尽くすということに尽きると思うんですね。これをもう少し違った言い方をするならば、自分を捨てないということに尽きると思うんですね。
自分の一部、例えば怒る自分は好きじゃないから怒らない自分になるとか、攻撃する自分は良くないから攻撃しない自分になるとか、攻撃はしない方が現実世界を生きていく上でここが難しいところだと思います。
攻撃はしない方がいいと思いますけれども、攻撃心はあるなら否定しない方がいいと思うんですね。だから強く攻撃したいとかリベンジしてやりたいとかは持ってその感情を実感した方がいいと思うんですね。できるレベルで。
辛くなったら、辛くなりすぎたらやめた方がいいと思います。できるレベルで。一時的にこの際に人の力を借りるっていうのは全然ありだと思います。カウンセリングであれ、友達であれですね。そういう話だったら友達でいいじゃんとかっていう話があるんだけど、そういう問題ではないんですよ。
僕が思うにこれはですね、怒りの感情を扱うにあたって安全にできる場所を確保するべきだってことなんです。友達とやって安全なら友達とやればいいんですよ。だけどそんな友達とやってるうちに友達がこの人こういう話ばっかりで鬱陶しいから距離を空けましたって破壊しちゃってるじゃないですか。ある意味では。怒りの感情が関係を破壊してしまってる。これをやるぐらいならカウンセリングをした方がいいと思うんですね。
ただ、最近私よくしょっちゅう言ってる通りカウンセリングは今、僕が思うに結構ですね、なんていうのかなリテラシーを要求されると思ってます。こういう話はある意味黙って聞いてくれればいい。できればうまく合図書を打ってくれればいいんだけど。
多分なんかこう一歩間違うと、認知行動までいかないと思うんですけど認知療法っぽく持って行っちゃう人はいるかもしれない。だけどねここで余計な警戒心を僕は出したくないんですよね。正規の人に対する営業妨害をするのは僕がやっちゃいけないことの筆頭に近いと思うんで。
受けに行くのは、受けるというのは、例えば怒りやら悲しみやらその他諸々を安全に扱うためにカウンセリングっていうのは健闘に値すると思うんですけど、その認識を改めるっていう方向ではないような気が私はします。これは原因がはっきりしているし、怒っていいシチュエーションだと思うんですよね。別に。
怒ってはいけないっていう話じゃないと思うんですよ。物作業に怒りって付きものであって、私は怒りを一番最初にどうするべきかっていうことになると思うんだけども、怒りがいけないわけでは全然ないはずで、問題になってくるのは怒りのせいで体を壊すとか、怒りのせいで関係がおかしくなるっていうことが避けられればいいわけですよ。一番。
怒ることそれ自体が問題なのではなくてですね、ここがその話をしているだけではその伝わりにくいところかなとは思うんですけれども、トゲっていうことになってくるとやっぱり怒りというものが残らなければ一番いいのではないだろうかっていうふうに思います。
物作業って時間がかかるんですね。これも人によるし、さまざまな時間のかけ方があります。松木国寛さんが物作業の時にやっぱりお葬式っていうのを出して、2回、3回とか7回とか7回くらいが常識的ですけど、それだって7年ですからね。
失恋と死別は別ですけれども、ただ急がないっていうのは大事だなっていうのはこのことを一つとってもわかると思うんですよね。早く処理しようとするとどうしても否認が入ってくると思うんですよ。この気持ちをないことにしてしまう。
辛い気持ちだから、お気持ちが辛いお気持ちだと早くなくしたいのはもちろんなんですよ。でもやっぱり心に留めておくっていうのは大衆的にはなんですけど、心にとっては非常に大事なことで、心のことを体に回さないっていうのは本当に大事だなと。
物作業の重要性
体の方は気をつけた方がいいと思うんですよ。体に回っちゃう部分って絶対あるんで。だからこういう時は体の健康というものにはそこそこ留意する。めちゃめちゃ留意する必要ないと思うんですよね。失恋したから毎日血圧上がってますとかそういうことをする必要はないと思うんだけど、いくらか気をつけるっていうのは大事だと思うんですよね。
で、次にもし出たらなんですけど、怒りはこの辺にしておいて、もし出たらなんですけど空虚感みたいなもの。もしかすると先にこっちがあるっていう場合もあると思うんですけど、この順番決まってないんで、先に怒り、次に空虚とかそういうプロセスが書いてあることがあったりするんですけど、僕はそれはないなって思うんですよね。
どっちが先に出るとかはわかんないなって思うんですよ。人によってやっぱ違うと思うし、自分自身が同じ喪失体験においても、失恋とか私別とかその他において、自分の健康とか自分の社会的立場とかね、そういったものについて失った時のその出方ってやっぱり順番もその都度違いますし、ただ怒りの次に問題になってくるのは空虚感だろうと思うんですね。
この空虚っていうのも非常に行動を促しがちです。だから行動に出ちゃうのもしゃあないと思うんですよ。ただし、これは心が本来処理するべきものが心で処理しきれないから、心で何とかこうしたいところなんだが、心では何ともできないから行動に現れてるんだなっていう自覚さえあれば、この自覚の有無は非常にこの種の問題の分岐点だと私は思います。
やっぱり空虚だから、それを埋めるために我々は行動しがちです。お金を使うとか、ものを食べるとか、新しい恋愛を始めるとか、新しい仕事を始めるとか、人によってはこれで会社作るとかいうことをやりますから。
カウンセリングも私はある種行動化の一種だと思っておりますけれども、やっぱり人の中でよりマシっていうのがあるじゃないですか。明らかにひたすらアルコールに依存して、ひたすらギャンブルに依存して、金使いまくりますっていうのはヤバそうじゃないですか。
つまり何をもって目安にするかというと、空虚であれ怒りであれ、そのことによって何を壊しかねないのかということを考えさえすれば何が犠牲になっているのかと。
例えばカウンセリングだってお金と時間はコストとして使うわけですから。これが現実検討って話になると思うんですよ。いくらかおかしくなるかもしれないけど現実検討も。
今の時期だったらこの辺のお金とこの時間は許容の範囲内だなと。例えばものすごくドライでつまんないこと言うようですけど、恋愛中だってデートにお金と時間使うわけじゃないですか。
その部分がカウンセリングに回るということで、もしそっちの方が少ないんだったら全然アリだと思います。
そりゃあつまんない言い方ですけど、ただその場合も選ぶ必要はあると思うんですよね。
ちなみに認識を改めるとかそういうものの見方を変えるとかね。失恋してるんだから、死別だってそうですし、何なら健康を失うみたいなのも同じですけど、悲しかったり腹が立ったり空虚だったり虚しくなったりやけになったりすることは当然だと思うんですよね。
いくらかそうならない方が何かおかしいんではなかろうかと私は思うんですよ。そこのところに認識を変えさえすればいいってもんではないと思う。もちろん認識を変えるという、例えばね、ああいう人なんだから別れた方が良かったとか言うのは非常によくある認識の変化なんだけど、それはそれなりに心のダメージを軽くするという意味で意味は高いと思うんですね。
そういう認識の変え方はありだと思うんですよ。別の人と付き合うために今別れていた方が正解だったとかも全然ありだと思う考え方としては。ただこれをやるという、つまりどういう物事の変更にせよコストってありまして認識の変化それ自体は私は当然いいと思うんですね。認知行動だからとか認知療法だからとかABCだからとかそういうことではなくてそういうことも含めてですね。
認識の変化が良くないって話はないと思うんです。ただし認識を変化させるということはコストを取り得るんだということは我々は留意しておいていいと思うんですね。
例えば失恋をしたから失恋をした時の認識の仕方として今ここで別れて正解だったというふうに認識を変えると実際こういうふうに認識が変わることはあり得るのでそうなるとグッと心は確かに楽になります。
代わりにその人と付き合ったという事実の価値が下がるんですよね。これはつまりやんわり脱価値化してるわけですよ。脱価値化したからこそ楽になるんだし楽になるために脱価値化してるという面もあるんですが、だけれども脱価値化はなされたわけですよ。
本当に素晴らしい人間だったというふうに捉えるとその分辛くなるじゃないですか。けれども本当に素敵な人と付き合えたという認識は残るじゃないですか。つまり価値としては落とし目ずに済むという面もあるじゃないですか。ただしこの方が厳しい。
認識の変化の意義
どうしてもやっぱりそういう話になっていくんですけど、私別ってまさにそうだと思うんですよね。やっぱり相手がすごい良い人だったと思えば思うほど、ある意味お亡くなりになった人に対する悲しみって深まりますよね。どうしたってそうなりますよね。
だけれどもそれは良いことでもありますよね。だからどんな方向に向かったとしてもコストは一定程度必要なんですよ。どのコストを自分が払えるかと、まあこれはだからつまんない話なんですよ。だけれども今つらいということであればどのコストを選択したらいいかっていうのについて真剣に検討する価値は当然あると思うんですよね。価値というか意義が。意義ですね。意義があると思うんですよ。
なのでまあつまんないこともたくさん申し上げたし、たったこれだけのところからそこまで類推を広げていくのもあれなんですけれども、でもまあせっかく滅多にないリクエストをいただいておりますし、いろいろと今、今ですよこれ。
このね、事前にレター読んでおいて事前に考えていることを喋るっていうのを私は基本的に絶対避けたいと思っているわけですね。ここでなんかよくわからん出現をしたくないという人々の気持ちはよくわかるんですよ。こういうのに下手に話をして、ろくでもないことを言って怒りを買うじゃないかっていうのもわかるんですよ。
わかるんだけれども、つまり相談とはそういうことだと思うんですよね。その時にプロンプト、即興で出てくるところ。即興ってのが即興ってとなんかゲーやってるみたいなんだけど、そうではないんだよね。即応なんですよね。
間を空けずとか短い時間に気の利いたことを言えってことではないんだけども、リアルタイムというのはものすごくこういう話では重要だって私は思います。なぜならば私たちは心の苦しみとかさっきのトゲみたいなのもリアルタイムだけが苦しみなんですよ。
かつて私は何か、例えば私がここで盛んしゃべってる昔、女性に全く相手にされませんでしたみたいな、あの話しても全然辛くないんですよ。なぜならばもはやリアリティがない。リアリティがないというのはつまりリアルタイムではないからなんです。
思い出した記憶によって辛くなるというのは、記憶がリアルタイム性を帯びてきているから辛くなるのであって、私にとってあれは過去のことなので、過去のことについて10回するのはもはや半ば他人ごとなんですね。だから辛くないんですよ。
でもそれでは応答にはなってないんですよね。話を聞いて上がってやっぱり即時に応答しなければならないということになってくると、私の気持ちにリアルタイム性を帯びる必要があるじゃないですか。
失恋というのはどういうことで、心の棘というのはどういうことでっていうのを一つ一つについてやっぱり感じて自分なりにね、同じものではないので、その人にとっての心の棘と私にとっての心の棘というのは気持ちの棘でもいいんですけど、棘というのは異なる意味を持つと思うんですよ。
でもここで棘っていうものをこの時間帯に同じ現在時刻に共有することによって何かが応答されるというふうに思うんですよね。これをさっき読んでおいて、さっき用意したものを今ここで、さっきのものをここで展開するっていうやり方にしてしまうと、
教授性っていうのかな、シンクロニシティっていうのとは違う気がするんだけど、教授感というものが損なわれてしまう気がして、応答にならないような感じがするんですよね。だから準備しないっていうのは、むやみに準備しなくてももっと楽にやれますっていう話もしたいわけなんだけど、一番言いたいことはですね。
準備をしてしまうことによって払うコストがありますという話をしたいわけです。なんかこう、最近ちょっとまた話が盛大にそれているんで恐縮なんですが、最近になってAIで30秒でスライドを100枚作成するのが流行ってるじゃないですか。
これは皆さん準備というものにものすごくコストを払っていらっしゃる証拠だと思うんですよね。スライド使わないんだったら、あの技術別にそんなに目を見張る技術ではなくなるわけですよ。私ほとんどスライド使わないので、使っても3枚とかなので。
つまり、AIというものが我々の仕事を圧迫したり接近したりするというふうに感じるのは、どのぐらい自分らが事前準備みたいなものにコストをかけているのかということによくよく思いを致す必要が本当にあると思うんですよね。
あれを見てすごい楽になると思っている人は、無用な苦しみを自分に敷いているだけなんじゃないかと考えてもいいわけだと思うんですね。スライドを事前に用意しておかないとクオリティが下がって人が来なくなるっていうのもやってみないとわからないですからね。
人が来る来ないっていうのも、いくらでそのセミナーをやっているのかみたいな話とも関係があるはずなので、また人が来ればいいのかって話とも関係があるはずなので、そういう話をいろいろ追加していくと事前に用意しておくっていうのはそもそもいいことなのかと。
手放しでいいことみたいになっちゃってますけれども、私は全然そういうふうには感じられないんですよ。
喪失感の探求
AIに文章を書いてもらうっていうのも同じで、とりあえず本一冊書いてもらって、それを直すだけで済みますみたいな話を聞いていると、それはすごい楽なことのように聞こえるんですけれども、私は白紙に一から書いていきますから、文章って。
白紙には書けませんっていう方がいらっしゃるんだけど、それは気のせいだと僕は思うんですよね。事前に字が入っている方が僕はよっぽど書きにくいなと思うので、先に一万字書いてもらうことの何がプラスなのかがわからないっていう感じがするんですよ。
で、一万字書くっていうことが一秒でできることと、一秒でできたものはそのまま納品はできないじゃないですか。結局直すわけですよね。この直すのにかかっている時間と私が一から書く時間でよいどんで出来上がった時の時刻ってそんなに違うのかなと。
それは一日が違うかもしれませんよ。でも一日間しか違わないんだったら、一秒でってのは何なんだろうなって感じもするじゃないですか。話が盛大に逸れているので元に戻しますね。
最後にどうしても残る感情があるはずなんですよね。物作業においては。これが悲しみっていうものだと思うんです。
で、この悲しみという感情をどうするのかって話になるかもしれないんですけど、僕はこれどうするこうするものではないと思うんですね。悲しみは棘じゃないですもんね。
で、我々はその喪失が悲しいのは当然なんですが、この喪失っていうのは結局話が一番最初に戻っていると思うんです。
我々は何にも持たずに生まれてくるんだけれども、何にも持たずに生まれてくることができる。つまり何にも持たなくても人は生きていくことができるわけですよ。
具体的には無理ですよ。いやいやそうは言ってもあなたたちには毛布があったでしょうって話になってしまうんでね。でも何にも持たずに生まれてくることは確かですよね。
これが仮に原始時代であったって石器時代であったって何にも持たずに生まれてくるし、令和の現代に生まれても何にも持たずに生まれてくることは確かなわけですよ。
だからウィニコットに言わせると一人で生まれてくる赤ん坊などいないってことになるしそれは当たり前なんですけれども、これは人間に限りませんからね。
どんなに原始的な生物でもそこで生きていけるような空間でなければ生まれてこないっていうのが原理原則なんですよね。
だってやっぱり魚は海中に生まれるじゃないですか。海の中に生まれるじゃないですか。魚のジャングルの中に生まれることはないわけじゃないですか、基本的に。
だから必要なものが揃っているところに我々は生まれてくるんだけど、そこに裸一つで生まれてくるわけですよね。
で、このタイミングで喪失っていうのは基本ありえないわけですよね。何にもないんだけど全部あるっていう状態なんで。
ここから我々はいろいろと自分に必要なものを持って、そして話していくという作業。どちらかというと何でもある世の中からまず少しずつ話していくっていう作業というか運命というか人生というか。
一番赤んちゃんにとってやっぱり悲しいのは卒入なんですよ。おっぱいを手放さなければならない。
悲哀と物作業
でも我々は、昨日お母さんのおっぱい飲んでたよっていう人まだいないじゃないか。私も50ですけれども、ちょっとそれは不可能じゃないですか。かなり問題のあることになってしまうじゃないですか。
つまり卒入という悲しみはこれは絶対悲しみもあったと思うんですよね。怒りもあり、心の棘もあり、棘はあったと思うんですよ僕は。
そういう表現はできなかったと思うけど、心の怒りもあり、攻撃性も発揮し、だって私母を攻撃したいと思ったことは何十度と、いや何十度ではすみませんね。何万回とおそらくありましたからね。
で、空虚感。だって赤ちゃんからおっぱいを取り上げられたら空虚じゃないですか。でもその極めて未熟な心でそのことを持ちこたえたはずなんですよね。
なぜならば母親との関係を結局は破壊しなかったのみならず、父親との関係、家族との関係、その他も破壊しなかったから、それによって母乳瓶という味気ない、昭和ですからね。
味気ない、なんかこう吸ってもあんま出てこない、しかも入ってるものは母乳じゃなくて牛乳ときている、そういうものに切り替えさせられるという時代があったんですよ。
しかもそれすら取り上げられるわけね。そっち覚えてますもん。私4つになるまでそれ飲んでたんで、昭和いい加減にしなさいとか言って、母はそういう時容赦ないんで、なんか全部瓶捨てやがるんですよ。覚えてますからね私はね。
で、コップで牛乳飲むってね、大変なんですよ子供にとっては。まずあの匂いがダメ。あれ不思議なんですよね。
なんで母乳瓶ならあの匂いが大丈夫なのに、牛乳のコップで飲む匂いはダメなのか。昔あの小学校時代盛んにアホな子供たちが男子だったんで、小学生男子なんで、あの牛乳と一緒に飲むと牛乳が飲めなくなるもの、筆頭が水とご飯なんですよね。
あとオレンジ。やってみるとわかります。何を言ってるのか。水とご飯とオレンジなんですよ。吐きたくなるっていうやつね。あれを乗り越えないと、母乳瓶を手放す。僕牛乳好きだったんでしょうね、結局ね。
これは結局母乳が好きだったってことなんだけど、つまりこういうことがあると思うんですよ。対象喪失と物作業には。長い年月が必要だし、怒りというものをまず何とかしなければいけない。そして怒りを何とかしたからといって、直ちに気が楽になるわけではないんですが、でも最終的に悲しみというものは残る。
どうしてかっていうと、我々は何にも持たずに全てがある世界にやってきて、全てがあるんだからこれでいいやと思うんだけど、それが確実に少しずつ取り上げられていくということが起きて、その中で既に体験していることを何度も体験するということになると思うんですよね。万能感あるじゃないですか。赤ちゃんにしてみれば。魚でもいいんですけど。
だって自分が来た世界は自分のためにあつらえられているような世界じゃないですか。でも実はサメがいましたとかね。恨みはあるんですよ。残念ながら。恋愛ってまさに万能感というものが手に入ると思うんですよね。もう一回こう全てがあつらえられているような世界が実現する。
でもそこにどうしても実はそうではありませんでしたっていう部分があるわけですよ。なぜならば世界は自分のためにあるわけじゃないっていうことが、我々現実認識においてはそういうことになってますから。認識を改めましょうって話じゃないです。認識を改めなければならなくなっちゃうから改まっちゃうんですよね。
その時に僕らは裏切られた感じっていうのを抱くと思うんです。だからこの対象喪失というのは裏切られた感じだろうと。アジャセコンプレックスに近い話ですよね。裏切られた感じというものに怒りと絶望と空虚さと悲しみはあるじゃないですか。
で最後に実は裏切ったわけではないんだと思ったとしても悲しくならないわけじゃないじゃないですか。もし相手が裏切ったわけではないんだとしてもですね。そこまで行くのが物作業の私は最終段階なんだろうなと思うんですけど、完全に終わるっていうわけではないことのような気がするんですよね。
ただそこまで行けば少なくともカウンセラーはいらなくなるよねと。だからここでカウンセラーというものとの別れっていうのがもっと長い話だったりもっと深刻な話だったり失恋が深刻じゃないって話じゃないですよ。これは深刻かどうかは心が決めることなので出来事が決めることではないってことなんです。
もっと深刻とかもっと深刻じゃないというのはたまたまそれがその時にどういうふうに感じられるかが決めることであってことと次第によってはですね、ぬいぐるみとの別れは深刻なんですよ。ことと次第によっては。だから深刻か深刻でないかというのはもちろん一般的には出来事のインパクトっていうのがものを言うんだと思うんですけど、実際には出来事のインパクトがそれを全て決めるわけではないとは思うんです。
そういうわけで最終的には悲哀って言いますよね。悲哀っていうのに行き着いたらあとはそれと一緒に行くみたいな。なぜならば我々は何にも持たずに全てがあるところに入っていき、その全てがあるところは自分にあつらえられたものだと思い込むようにできているんだけど、実はそうではないので最終的に悲哀が残るのはこれはもうなんていうのかな。
生きているものにとっては避けがたい時代だという感じがします。もしそうでないならばある意味では生きてないってことになってしまうと思うんですよ。
ここまでこの話で展開しなければならないのかっていうとそれはちょっとわからないんですけれども、物作業というお話でしたから私の理解の及ぶ範囲ではこういう話かなというふうに思います。
最後にレターいただきまして誠にありがとうございました。
こちらは大変おつらいお話だと思いますし、悲しいお話だとも思うんですけれども、ただこれは結局今のようにですよ。
すぐに今のように考えましょうって話では全くないんだけど、今のように考えてみると決して悪い話ではないというふうにも思うんですね。
移行と失うことの必要性
認識改めましょうって話ではないです。今の段階では悪い話なのかもしれない。なんだけど悪い話ではないと思うのは私が結局我々は何かを外側からのものというものが一時的にせよ何にせよ私のためのものだというふうに信じて生きていくようにできていると思うんです。
究極ちょっと定義とはずれちゃうんですけど、これがいわゆる移行対象ってものだと思うんですよ。移行していくより他仕方がないものだと思うんですね。
私のそのおっぱいが哺乳瓶に変わり、哺乳瓶が牛乳に変わり、一時私は牛乳がアドピーがあれだっていうんで牛乳も取り上げられたことがあるんですね。
今飲んでますけど、こういうふうに移行していくしかないわけじゃないですか。何らかの形で移行させられる理由はあるわけですよね。なぜならばそれは結局のところ究極私のためのものでは、母乳って私のためのものではないんで妹のものであったりもしますからね。
そういうふうに一時私の所有物になり、それが万能的なものになっているっていうものがなくなっていくというのは辛いんだけれども、でも多分必須のことなんだろうなというふうに。それはだから何で良いことだと、悪いことではないですね。悪いことではないのかというと生きていくためのものことだからだと思います。
結局生きるということは失うということが原理的に入っているんだろうなと。特に一番我々にとって耐えがたいし許しがたいのが自分を生きる上でこれは必須だと。しかも生きる上でこれこそが万能なものだというものがわざわざ手に入るものなのにわざわざ手放さなければならない。
だから物作業って必要になってくるんじゃないかと。そういうお話だったと思ってください。とりあえずこんな非正規の野良カウンセラーの話を聞いていただきましていつもありがとうございます。またよろしくお願いします。