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2023-04-25 48:19

【774】100チャレ編 全てのタスクができないのでは夢も希望もない?

「私がやりたいことだから!」というその「私」とは誰でしょう?
100チャレの募集について
おはようございます。グッドモーニング・ボイスです。
なんかあれですよね。急に寒くなりましたね。
今日は4月25日の火曜日で、7時42分、100チャレ編をお届けしようと思っているんですけれども、
最近、暖かくて好調だとか言っていた日にいきなりこうですからね。
多分これが平年だったと思うんですけれども、あまりにも最近暖かかったんで、
ほぼ暑かったんで、やっぱりこういう上下動は厳しいと思います。
連日のように告知をしておりますが、
今日は100チャレ編だから、100チャレの告知はしてもあまりしょうがないんですよね。
今募集かかってないタイミングで告知をしても、100日チャレンジなんで、
今ですね、AE準備しているのが6月スタートで、
5月ちょっとですね、Jマスザキさんがかなり忙しそうなんで、
もうここはスキップするということになっておりまして、
6月に100チャレの新しいものを募集をかけようと思っております。
多分早々に満席になることは確実なので、
ウェイティングリストの方にですね、早めにご登録をいただいておいた方が、
今私どういう募集状況になっているのかというのすら、
把握できてはいないんですよ。
もうほとんどですね、100日チャレンジは、Jさんとやっている仕事はですね、
毎日のように結構頑張って追いついているというところでして、
100日チャレンジの方のコメントをつけるというのと、
認定講師の方の講座に出席するというのをやっているだけで、
もう手一杯と、私なんかはそうなんですね。
Jさんはよく回せているなと思うんですけど、
これはもう若さだなということにしておいてですね、
私はもともと若くなさそうな人間で、今本当に若くない人間なので、
ここはちょっと若さに期待しようと。
あれですよね、こういう状況ではやっぱり若い方にさらに入ってきていただいて、
サポートしていただくというのが絶対必須なんだなということを、
最近日々感じています。
100日チャレンジだけではなく、100日チャレンジも含めてですね。
もうアスクシュート協会という代表理事の大橋さんは、
私よりは若いけれども、数ヶ月若いだけなので、
あんまり若さで乗り切る世界では全くないんだなということを、
組織を作ると痛感しますね。
過去の仕事事例から感じる組織化の必要性
昔はこういうところも強引に、そうは当時は思っていなかったんですけどね、
ただ強引自慢してただけなんだなと。
タスクカフェだの、SH券だの、しかも本3冊くらい書きながらやってたんですよね。
そしてあんまり大橋さんと私だけでやるみたいな、
たまにゲストの人を呼ぶにはしても、
そのゲストの人はどっちかというとサポート要因とかではなく、
我々がサポートしなければならない要因だから、
仕事は増えていくわけじゃないですか。
そうやってやってたけれども、今思うともっと組織化して頑張るべきだったところを、
ただただ2人で水漏れがあったらそこを塞いでいくみたいな仕事の仕方を、
私なんかはそれがしかも変だとは思ってなくて、
そういうもんだと思ってたのと、
あと私は多分組織への苦手意識がめちゃくちゃありまして、
だから組織じゃないから自分はこうやってかけずり回っているのが幸せなんだって、
まあそうだったのかもしれないんで、それでいいと思うんですけどね。
告知についての考察
そう信じてやっていたんですけど、
今思うと、ていうか今そんな苦手だとか言っていながら、
組織を回す側の人間に気がついたらなってましたみたいな感じで、
僕はあんまり回す方は貢献できてる感じがしないんで、
大橋さんとJさんがすごくフル稼働していただいている感じ、
特にJさんはね、すごいなって感じで、
いつもそのすごい全貌すら僕にはわかってないというね、
そんな感じですが、
やれるところはね、やれるだけのことはやろうと思って、
100日チャレンジを今日お送りしますね。
6月の方に新しいまた100日チャレンジが、新しいバージョンが準備中ですので、
6月にスタートできるかわかりませんが、
よろしければウェイティングリストの方に必ず登録されて、
興味があったらですね、しておいたらよろしいのでは。
こんな風に思います。
ついでにここの場でお話ししちゃうんですけど、
告知ってやつですよね。
私この番組始めてから告知をするというのはもはや習慣になっていまして、
しないと気持ちが悪いんですよ。
今日なんか100日チャレンジ編だし、
昨日もグッドバイオス編だから、
しなくてもいいんじゃないかっていうのもあるんですよね、やる前は。
でもなんかやらずにいるとちょっと気持ちが悪くなって、
告知をしなければみたいな気になるんですよね。
これはうるさいと思われてるかもしれないんですけど、
私このね、告知をすると嫌われるという話はですね、
わかるんですけど、よくわからないところもあるんですよね。
つまり、いやCMって嫌われるもんだったろうかと思うんですよね。
みんな民放でNHKで絶対的にNHKって感じではないわけじゃないですか。
これN党という党もありますが、
あんなNHKだったら嫌われないってことは全然ないような気がするんですよ。
僕なんかにはどうしてあそこまでって思うほどなんですけれども、
もう嫌ってる方はえらく嫌ってますよね。
CMをしなければ嫌われないっていうのは、
あれを見ると全然さっぱり理解できるなって思うんですよね。
私の会社の同僚にCMだけを録画するっていう女の子がいて、
これも変わってるなとは思ったんですけれども、
そういう人がいるわけですよね。
だからCMが、もちろん嫌ってる人はいるんですよ。
昔、星真一っていうショートショートを書く人が
コマーシャル景色っていうショートショートの作品を書いていたことがあるぐらい、
あれはもう1980年代だったと思うんですけどね。
コマーシャル景色ってやっぱり考えちゃうよねって思うほど、
嫌いだって人は嫌いなんだと思うんですよ。
だから誰にも嫌われたくないっていうと、
コマーシャル告知しないっていうような方向になっちゃうのかもしれないですけど、
そういう方は結構よくいらっしゃるんですよね。
だけれども、NHKって誰にでも好かれてるかっていうと、
これはコマーシャルの問題とはまた別なのかもしれないけど、
でも結局コマーシャルせずにコンテンツ出しまくれば、
NHKをめぐる論争
人には好感が持たれるって話は、
結局私NHKになっていきますって話に近いじゃないですか。
どっかでお金をもらってるわけですからね、どっかで。
でないとすると国からもらってるとか、
パトロンが寄付してくれてるとかなんでしょうけど、
だったら嫌われないのかっていうと、そうじゃないように思うんですよね。
決してそうじゃないような気がするんですよ。
昔貴族をパトロンにしてくっていた芸術家ってたくさんいましたけど、
みんなかなり言われてますよね、言われている人には。
なぜなのかはわからないけど、いろんな意味で言われますよね。
一番エグい話は、これはもう余計な話で7分経ってるからやらなくてもいいぐらいですけど、
最近フルトベングラーって指揮者がいるんですよ。
ウィンフィルの主席指揮者だったのかな。
私、彼の実に独特で、正直これを言うのがある意味難しいんですけど、
まあ好きで、結構そこそこ聞いてたんです。
特に彼の指揮の、モーツァルトのオペラですね。
あれは好きででしてね。
すっごい変わっているとは思うんですよ、演出といい。
変わってはいないんだけど、ちょっと偏ってはいると思うんですよね。
でも悪いとは絶対思えなくてですね。
ただ彼はですね、評判悪いんですよ。
ものすごく評判が一部で悪い。
なぜかというと、ヒットラーの大工っていう有名な大工の指揮が、
こないだNHK特集でやってて、久しぶりに見てですね、
ああそうだよな、この時代大変だったよなと思うんですよね。
彼のお金の出どころはある意味国だったようなもんだったわけで、
国じゃないという面もありますけどね、もちろんね。
そういう難しい話がありまして、
もう彼がですね、僕はあれは結局ハメられたと思うんですけれども、
ヒットラーのゲッペルス宣伝書っていう人に、
最後に拍手を大工の後に求められて、
拍手したところを写真に撮られて、
すごい大変なエピソードがあるんですよね。
でも彼はウィンヒルの中で、
要するにユダヤ人の音楽家を、
なんとかして食えるようにして閉じ合った大変なことなんで、
死なないようにっていうのとほぼ同義なんで、
そういう努力をしてたんだけど、
でもその時の大工の出来がやたら良かったとかいうことが、
非常にこう問題になったりするわけですよね。
みんな聴きに来てるわけですよね、また。
ヒットラーっていうのはね、
ワーグナー好きだったから、
そういうようなこともありまして、
彼はワーグナーのオペラを口笛で全曲を吹けたっていう、
逸話があったりしますね。
本当か嘘か分かりませんけどね。
聴いてる方も大変だと思うんですよね。
ワーグナーの曲って長いですからね。
最近野球が長いって話ありますけど、
それより長かったりしますから。
まあいいんですけれども、
そういうことがありまして、
告知ってしない方が効果戻れるのかっていうのを、
私は常々疑問に思っています。
コンテンツだけだと綺麗に見えるっていうのは、
妙に怪しい感じがすることがあるんですよ。
今言ったような事情がありまして。
そんなわけで、
これは告知が常に付きまとうということになっているわけですね。
必ず冒頭に僕は入れるような感じがします。
最後だったら多分入れ忘れるでしょうね。
で、100日チャレンジ編なので、
100日チャレンジの話をするんですけど、
というかタスクシュートの話をするんですよね。
これもまた余談みたいなところから入っちゃうんですけど、
今日余談ばっかりですか。
前日認定トレーナーの方がですね、
私はプランニングをするのが好きなんだ。
だからタスクシュートについてよく分かっていなかったんだけど、
でもプランニングするのが好きなんだという話をされていた方がいらっしゃって、
いやそれは全然いいんじゃないかというふうに私は思ったんですよ。
ここ難しい話なんですけどね。
私もノープランでいこうみたいな話をしているから、
言っていることが逆になっちゃうんですけど、
でもですね、好きでやっていることは好きでやっていったらいいと思うんです。
その方は特に面白いところがあって、
この順番の入れ替えとかドラッグ&ドロップで変えていくのが好きなんだ
というような話をされていて、
私はですね、それは全くそうしたらいいんじゃないかって思うんですよ。
どうしてそれをやっちゃいけないような感じになっちゃうんだろうと。
ここがノープラでいこうって言っている、
あんたが言うのは変だろうって思われるかもしれませんが、
私はですね、
ハンチュンですかね。
以前Rスタイルに暮らしたタダノリさんってことなんですね。
自分はエキストエキスパンダーみたいな、
ショートカットで文字入力するのは使わないのだと思います。
なぜならばタッチタイプする感触が好きだからっていう。
これは私は全くですね、誰からも文句の出る話じゃないと思うんですよ。
なんかそれこそ正しさなんですけど、
正しいやり方を強制されるっておかしいと思うんですよね。
しかも全然全く何の害もないと思うんですよ。
その人がタッチタイプが好きでタッチタイプしてるなどということに。
こういうことにすらエクスキューズがいるかって思うんですよね。
そんなに僕ら不自由かっていう感じがするんですよ。
それこそだから隣国の独裁国家に住んでるんじゃないんで、
お前そのテキストエキスパンダー使ってないんだから非効率材で強制収集に入れるぞとかって、
そういう話になるはずがないじゃないですか。
正気の沙汰じゃないですよね。
同じようなもんだと思うんですよね。
100日チャレンジとは
プランニングするのが好きで、プランニングしていてですね。
それがどうしていけないのかなって思うんですよね。
趣味なんで、切って集めみたいなもんなんで、
切って集めるということについてですね、
切って何か集めても財産にならないしとかっていうのは余計なお世話じゃないですか。
それと何にも変わらないような気がするんですよ。
なんかですね、そういうことが僕らの時代は変に多いなって思うんですよね。
ホットケーキにバター乗せつつが公私決勝増えるからやめろみたいに言われるような話に近くて、
なんでそこまで言えるかなって感じがします。
だから好きにそれこそしたらいいと思うんですよね。
ノープランで行こうっていうのは言うんですよ。
これも僕が言うのは僕の自由だから。
なんかここに正しさが入ってくるっていうのは奇妙なものを感じますよね。
それで大変な思いをしたり、よほど上手くいかないというならば、
これがヒントにはなると思うんですが、
それをやってるのが好きで気分がいいというのならば、
私なんかが何かを言うのに構わずその通りやって、
ご自分の好きなようにやるのがいいと思います。
この2つは私は根本的には全然矛盾しないと思うんですが、
ぜひそういうふうに考えておいてほしいということですね。
多くのタスクができないことの苦悩
ようやく本題ですね。
今の話に関連はすると思うんですけど、
タスクシュートをやっているときにですね、
どうしてもこれも一部必ず発生する苦問と疑問だと思うんですけど、
全部やれない問題って言いますか、全部やれないんです。
端的に言ってそういうことなんですよね。
朝から支度とか、
時代錯誤であれなんであれ、
夫の食事のしてはとか、子供の食事の用意とかも全部しなければいけません。
できればしかしその前に教養を深める本とかを読みたいです。
さらには、仕事に行く途中で資格試験の勉強をして、
最後は一駅早く降りて歩いて運動にもしたいです。
家族に仕事をやって、残業もいっぱいあるんです。
帰ってくると夜なんだけれども、
夜になるとまたいろいろと晩御飯の用意とか、
家事も全部めいっぱいしなければならなくて、
その上、プログラミングの勉強もしたいです。
無理ですよね、端的に言って。
でも、できてる人がいるとかいう話をされるんだけど、
そんなことはどうでもいいことだし、私はいないとつてずね思っているんですよ。
でも、いようといまいと関係ないと思うんですけどね。
これは競争の話なのかもしれないので、
そういう人がいるのに私がこういう手たらくでは置いていかれて、
自分が一橋のものになれないのはしょうがないとしても、
周りに迷惑をかけると、私はそんなことはないと思うんですよね。
朝、教養豊かな本とか読まなくても、別に周りの迷惑とは関係ないし、
資格試験も勝っても落ちても、周りの人はそんなに気にしていないと思うんですよ。
だから、こういう話って、ごく単純に言って、
周囲の目が自分に注目していると思い込みすぎているっていうのが一つなんですが、
その話をタスクシュート側からしてもしょうがないし、
そうじゃない話をするとするとですね、
人格の複雑性
でもやっぱり、ちょっとメンタルっていうのかな、
心理分析みたいな話にはなっちゃうんですけど、
一つにはですね、自分というのは、この番組ではもう何度も言っているんですが、
自分というのはかっことした一つの人格だっていうのは絶対おかしいんです。
でもこれもですね、そう思うのが趣味なんですっていう場合は、
そう思うって全然いいと思うんですよ。
そう思うことが、自分の辛さを生んでるんだとする場ですね、
そこには明らかな錯覚があるから、
その考えに囚われたり縛られたりすることはないですっていう、
そういうニュアンスで撮ってほしいですね。
少なく見積もったって10人はいますから、人格なんていうものはですね。
でもはっきり言って2人はいるって言っておけばもういいかなと思います。
1人だって思うのは無理があるんですよ。
だからというか、まず1人じゃないことは、
明々白々だと僕なんかは思ってしまうんですよね。
人間ってやつは人格を夢見る生き物なんでね。
朝起きた時は何度も言いますが、もっと寝てたい。
あと1分時でいいから寝てたいって、よっぽど疲れてる時そう思いますよね。
夜寝る時はしかし、あと10分は起きてせめてSNSは見たいって、
SNSを見るために10分起きるっていうのをやりたい私と、
1分でいいからとにかく寝たいって思ってる私とはまるで逆じゃないですか。
でもこの転換はたった6、7時間の間に起きちゃうわけじゃないですか。
この2人がいる、しかも夢見ている自分もその間に登場しますよね。
この夢見てる自分ってのも明らかに普段の自分とは違うと思うんですよ。
でも夢見てることを疑えないってことは、自分だってことを疑ってないってことなんで、
やっぱりそれはもう自分なんですよね。
つまり自分は180度逆を向く自分が出てくるわけですよ。
ということは、これだけのことをやれば私は満足する。
これだけのことをやれば私は満足するといった時のその私というのは、
常時登場はしてくれないってことです。
こいつだけが私だと思いたいといくら思っても、
そういうことをやったら壊れてしまうわけですよ。
だって、9時ちょうどの私はご飯3杯は食べたいって思ってるとするじゃないですか。
でも食事中に9時30分になった段階ですでに、
1杯半食べたところでお腹がはち切れそうだっていうことになるわけじゃないですか。
でも9時の私に固定してしまったら3杯食べちゃうんですよ。
そういう病気あるんですよ。
そしてお腹が必ず壊れますよね。
つまりそういうことであったらダメなんですよ。
成功の秘訣についての議論
固定したたった一つの人格に全欲求と全責任を負わせるというのは、
人間の生き方としては必ずうまくいかなくなるわけです。
でも、何て言うんですかね。
でもじゃなくて、だからですね。
だから、いつかやりたいこととかであってもですね、
70のタスクであっても何でも同じなわけです。
これを全部やれば私は満足し、いい人生を送ることができ、幸せになれるという判断は、
最初から幻想的なものなので、
これを達成できないというのは夢も希望もないと私はよく言われるんだけど、
逆で、これを達成できるようでは夢も希望もないんですよ。
でも藤井聡太さんとか大谷翔平さんとかって言われるかもしれないですけど、
彼らは絶対そうやってないはずなんですよ。
人格の組み合わせと幸せ
そんな方法でたった一つの人格の、つまりそれと夢が直結してるってわけなんでしょうけれども、
10歳の時とか5歳の時とか一歩回せよと。
だって藤井聡太さんなんてもう7歳の時にはプロレベルだと思うので、将棋はね。
一見したところそういう人を見ると、一貫したたった一つの人格が、
鋼鉄のような人格って私はよく思うんですけどね。
鋼鉄のように堅い人格が今に至るまで一瞬たりとも変更せず生きてきたっていうことになるのかもしれませんが、
私はそれは絶対おかしいと思うし、そんな人はいないと思います。
人のできている物質からしてもそれは得体が知れないほど無理があると思うんですよね。
毎瞬毎瞬変化してるし、変化しやすいんで、人を形成してる物質というもの自体が。
仮に人が物質で形成されているとしても、この考えにだって限界があると思うんだけど、
でも、だとしても不安定なんですよ。
鋼鉄のようなものでは鋼鉄はダメだな、酸化しやすいから。
ダイヤモンドのようなものではないんですね。
死んじゃいますからね、そんなんでできてたらすぐ。
そういうものが死んでるに等しいところがある。
2個とか人格があるだけでも生まない、1個ってことは絶対になくて、
だから私がこれらのことをすればとか、私が3年間こうあり続ければ幸せになれるっていうのは信じずみがないんですね。
そういうことはあり得ないので、タスク種と考え方では組み合わせって発想になっているわけですよ。
食事をした後歯を磨きたくなるでしょうっていう話なんですよね、これは。
そして、この人格の、人格のですよ、タスクのじゃないんです。
タスクの組み合わせに満足がいくということは、つまり人格の組み合わせに満足がいくって話をしているわけですよ。
人格A、B、C、DからZまで26くらいあったとして、この26の組み合わせと順番を現在の状況にマッチしたものにすれば、
これはかなり複雑な話を今かいつまんで喋ってますからね。
26でも5個でも10個でもいいんですが、とにかく一つ一つの人格がやりたいことを一つ一つやっていってあげれば、
その組み合わせで穏やかで幸せで満足がいくということになるでしょう。
で、この人格チームみたいなもの、この先にあるのはですね、プロジェクトって話になってくるわけじゃないですか。
人格チームと大きめの仕事
それはいいんだけど、毎日歯を磨いたり、季節なタイミングで歯を磨いたりお風呂に入ったりして幸せなのはいいんだけど、
それで例えば本が書き上がりますかとか、音楽の作品が出来上がるんですかとか、
タスクシュート協会作れるんですかとか、締め切り守れるんですかといった話になった時に、
人格チームがみんな健康であった方が、みんなが疲弊しているよりは先へ進みますよという話をここに解けるわけですね。
だから、締め切りに絶対間に合うという保証を逆算によってするよりは、
これって結局人格が1個だと仮定しているのを計算になりやすいのでね、
人格の組み合わせ、佐々木翔吾、A、B、C、D、プラスの牙なんとかみたいなものを足していって、
みんなで力を合わせて長期に渡るというか、大きめの仕事は成し遂げていきましょうと。
それぞれの人格が満足できる状態というのを維持するためにも、
それぞれの人格の最適な順番の登場の登場順と組み合わせ、
順列組み合わせみたいなやつですよ、を最適化していくと、
大きな仕事も滞りなく進められるようになりますということを言っているわけですね。
そのためにタスクシュートは非常にマッチしたツールだし、
他に適切なやつがないという話を私たちはしている、そういうことなんですね。
これもあれですからね、これを僕が言ってはいけないのかもしれないけど、
僕は言っちゃうんだけど、これも仮定ですからね。
私はこれを頭から信じているわけでは決してないですから、
ただ一個の人格を仮定して、そいつが夢と希望を叶えるという考えよりは、
遥かにこっちにシフトした方がリアリティがあるし、楽になれる。
多分僕は、少なくとも普通に上手く言っている人は、
一個の人格というよりはこっちの方に近いと思います。
実態が多分近いので、これを納得できないほど、
一つの人格にすべてを完成された何かを投入、
完成された一人格を作り上げなければいけないと信じるようにさせられたということはですね、
これは僕は、赤ちゃんがそんなことを頭から信じるわけが絶対ないと思うんで、
赤ちゃんは一つの人格を持っていませんから、そういうことを信じる基盤がないんでね。
これを信じてしまったというのは、むしろ僕は、多分ですか、気迫なんだろうなと思うんですよね。
すっごくいつも意識の状態が拡散されていて、
集中しにくい環境にあって、
簡単に言うと周囲にダメ出しをする人がやけに多くて、
やけにダメ出しをされているし、一つにまとめなきゃという、
つまり最初に赤ちゃんが考えること、感じること、
自我を一つにまとめなければって考えるのは、最初に赤ちゃんが考えることなんですね。
一つの人格と多様性
これが私はよく巷で言われている自己肯定観というものの基盤になってくると思うんですけれども、
これが何らかの形で、完全に未完成。
これは言い方がおかしいね。
どこをとっても未完成ということはないにしてもですね、
すごくこれが確立したという感じを持つことが、
なかなか難しい環境にあった方からすると、
一つにしなければという意識が依然として強く抱かれているという気がするんですよね。
だから、かえってですね、この一つという、
一つだなと思っている人からするとむしろ不自然な、
一つへのこだわりみたいなものが、
たった一つの人格というものへのこだわりというものが、
強く出ちゃうんだろうなという感じを、
私はね、これはあくまでも漠然とした印象なんで、
もうちょっと真剣に考えていかなければならないところなんですけれども、
そういうものを感じます。
でもそういうのはありえないことですから、
いつまで経ってもできるものではないし、
そのようにですね、
一つの人格に全部の満足を投入していく。
特に多くの場合、社会的な満足ですよね。
結局教養とか、何度も言いますけれども、
プログラミングとか全部そうです。
外からこれは価値があるよって言われているものは、
人格の目的
全部この人格に達成させてあげたいっていうそういう発想。
ここに夢と希望を持ってしまうと、
まず絶対にそうはならないっていうのが一つと、
達成を仮にしたとしても、
多分幸福感を持つことはないと思うんですよね、あんまり。
なぜならばその人格は何度も言うけれども、
常時登場することは決してないんですよ。
こっちが実は願望のポイントになってるんですね。
一見したところ、この全部ここにあるタスクを実行すると、
しかも完璧に実行する、
それがいいんだって感じを抱かれてるんでしょうけれども、
実際は逆なんですよ。
それを達成するということは、
常時この望みを持ち続けるという意味なんですね。
高いモチベーションとかって言うじゃないですか。
つまり朝から晩までこれをやりたい、これをやりたいと、
一度やりたいと願ったこれらのことを
常にやりたがる自分でいたいっていう意味なんだと思うんですね、あれは。
サボりたい自分とかが出てきちゃダメだってことだと思うんですよ。
つまり、常時起動している人格はこれに限るみたいな感じ。
途中で漫画を読む自分みたいなのが出てくるのは許せないとか、
そういった感じの方が強いんですよ。
結果としていつか、いつかっていうか最初から望まれていることは、
タスクを全部やることじゃなくて、
この人格以外を出さないっていうことが目的になってる感じがするんですね。
この人格以外の私になっちゃダメみたいな。
そういう一つの人格に全てを成し遂げる一人格を完成させたいっていう感じを抱く。
人格と現実
これが多分目的になってるんだと思う。
逆なんですよね、コウホーがね。
そのようなものがないから、完成することもないので、
いっぱいいる自分を一つ一つ満足させてあげましょうということなんですよ。
組み合わせの順ですね。
これが私はでも頭から信じてるわけではないというか、
実際にはそうは思ってないです。
1個の人格は全然ないし、26個の人格も大変疑わしいものです。
もっともっとずっと多い、つまりどういうことかというと、
同じ人格は二度と登場しないです。
同じ組み合わせで満足する日も多分永遠にやってこないでしょう。
なぜならば、世の中は常時更新ですからね。
昔に戻ることはないわけだから、
ある組み合わせというものも存在しないし、そのパターンというものもありません。
毎日毎日本当は組み合わせは変わっているのが実情だし、
そもそも人格という概念が相当微妙で疑わしいものだと思うんですよ。
その時に何かをやりたいと思った私と、
例えば物を描きたいと思った私みたいなのと、
同じ私は登場しないんですよ。二度と。
私の実感としてはですね、
そういうものが再度登場するということに頼っているうちは、
物を描くのを進めたりはできないと思うし、
食事だって本当はままならなくなるのではないかなというふうに思いますね。
毎日食べるものは結局違うし、
同じメニューだっていうことはあるにしても結局そんなことはないんですよね。
本当に違うし、同じ自分を呼び出すっていうのがすでに真実味がないんですよ。
食べ方を知っているとか、
箸の持ち方を知っているという意味での記憶は、
記憶のセットみたいなものはあるんだけれども、
それを同じようにやっているなというのは、
もう少し20代後半の頃は信じていられたんですけど、
30代後半になってからすごいその発想って人工的なものだなって思うんですよ。
今なんか私はお風呂に入るのですらですね、
なんて言えばいいのかわからないんですけれども、
昨日と同じように入るっていう発想では入れない気がしますね。
創作と主観
全く新しいことをやるぐらいの感覚がどっかにないと。
つまり、お風呂は昨日のお風呂でしょうけれども、
それだって水変えていたりしますけどね。
時間帯も違いますし、温度も違いますからね。
何よりもでも違うのは私なんですよね。
私が同じじゃないなっていう。
昔どうしてあんなに全く同じような感じのする私ってのに、
こんなに信頼を受けていたのか不思議です。
今はもっともっとアメーバみたいに、
ふにゃふにゃっとしたもので、
昨日と今日では色が違うとかね、
形状が違うという方が信じられるんですよ、自分としては。
で、そうであるからやっていられるというか、やっていけるっていう感じがあります。
全く昨日と同じものを再現するなどということをやろうとしたら、
すぐ混乱しちゃうんじゃないかなっていうふうに思うんですよね。
何と言えばいいのかな。
全く同じように昨日と同じようにものを食べるって実はできないじゃないですか。
お腹の具合とかね。
こういうことに微妙な変化が大きく感じられるようになる。
年齢性なのかもしれないですけど。
味とかね。
なんかね、同じとは思えないんですよ。全然。
だから、ましてものを描くなどとなってきますと、
本当に同じものなんて描かないわけですからね。
絶対描かないんで。
私は今は、昔は全然推奨しなかったやり方なんですけど、
真っ白いところに描いていくんですね、本当に。
必ずそうするんですよ。
何かが描いてあるところの続きを描くというのは、
もちろん本のようなものは続きを描くんだけど、
続きを描くぞっていう意識で描くだけであって、
前の文も読むときもありますけどね、
全く同じようなことをしているという気は全然しないです。
これは本を描いているときはいつもそうでしたね。
確かにタスクには本を描くって書いてあるし、
私も概念的に言えばね、
本を描く私を呼び出してくるみたいな言い方をしてましたけど、
嘘っぽいかったなーって思います。
当時も嘘っぽいなと思ってはいたんだけれども、
見た目っていうのかな、
外から見ればそう見えるだろうなっていうぐらいの感じで、
私の主観が全部じゃないですかね。
ただ、今はやっぱり自分の主観がすごく圧倒してきてるんですよね。
外からどう見えるかなんて、あまりにも差別な話で、
書くときというのは、
野球選手の無我夢中なプレー
これはね、すごく誤解を招きそうで嫌なんですよね。
初心を忘れるな的な話とか、
一期一会みたいな感覚を僕が持っているとも言えないんですよ。
書くのって本当に毎日が真新しいとかってそう思ってるわけではないんですよ。
やるいなーみたいな感じのこともあるんですけど、あんまりないな。
なんて言えばいいんですかね。
昔一郎さんがルーチンっていう話をよくされてましたよね。
彼はそうなのかもしれません。
でも本当にそうなのかなっていうのは思うんですよね。
毎日毎日野球やってるわけで、
本当に野球選手って異常なレベルで、
これ前も話したことが1回ぐらいあるかもしれませんけど、
私野球見るのがあまりにも好きで、
現役の早稲田大学を受けなければならなかったんですけど、
当時事情からして、それがもう嫌で、
ほぼ毎日野球見に行ってたんですよね、高校3年の頃。
東京ドームとかにパリーグの試合を見ると、
空いていて、練習から見てたというなめた態度なんですけど、
それがすごい楽しくて、本当なめたことをやってたなと思うんですけど、
ユニフォーム着てない人っているわけですよ。
スタッフみたいな感じで、ジャージみたいなの着てたり、
もうちょっと砕けた格好してるケースも結構あるんですけど、
そういう人ですらほとんどボールも見ないで、
普通じゃありえないぐらいの大きな卓球でも後ろ向きで取っちゃうんですよね。
本当に極原子みたいな人たちなんだなと。
でもこの人は二軍の選手ですらないわけですよ。
スタッフみたいな人なんですよ、本当に。
だから毎日毎日全く同じことを仕事でやっていくということは、
全く同じじゃないんですけどさっき言った通り、
こういうレベルになっちゃうんだなっていうのを見ていたわけですね、私。
その時も思うんですけれども、
これでもきっと打席とかに入るとすっごい打ちたいだろうなって思うんですよ。
僕は野球をやってたんで、どんなに疲れててもですね、
本当にアホみたいな話なんですけど、
真田市とかにも草へきゅうでやってたんで、
マウンド上は40度とか超えちゃうんですよね。
それでもあんな草へきゅうで、
相手チームの子だと相手に有利なように審判するような、
あんな野球でも打ちたくてしょうがないんですよ。
頭もうろうとしてても打ちたいんですよ。
だからプロ野球の選手なんていうのは客が1万人台で見てるわけじゃないですか。
すっげえ真剣にやるんだろうなと、
こんな毎日毎日後ろ向きでボールを取れるような人たちが、
二軍の選手ですらないところでも、
すっごい夢中になってやってる面があるんだろうなと思うんですよ。
あの感じがちょっとあって、
もの書く時っていうのはですね、
昨日のルーチって感じは一切しないんですよね。
そういう感覚では書ける感じがしないんですが、
でもこれはね、この話をあんまりシリアスに受け止めてほしくないんですよ。
なんかね、ララララッと書いてるようにもう見えるはずなんですよ。
野球の選手でもなんか手抜いて走ってんなみたいな風な時もあるんですよ。
結構テレビにも映らないような試合の時は。
私昔ロッテオリオンズのファンだった頃、川崎球場に、
これも舐めてるんですけどね、
川崎球場どこまで行っちゃってるわけですよ、家埼玉の。
川崎球場に行ってるともう、
観客席でキャッチボールとかをしてしまってるくらい、
客も舐めてるんで、
もうほんとダラダラッとした世界、
あの時代の僕プール野球非常に好きなんですけどね、
見てたわけですね。
真剣にやってるとは言い難いんですよ。
でも真剣にやってるんですよね。
あれで超一流とかにはなれないと思います。
そういうんではなかったから。
でもやっぱり、結構無我夢中でやってもいるんですよね。
絶対フライとか落としませんしね。
タスクシュートと満足感
そうは言っても、同じ選手が2回立て続けに
サードフライを落としたというシーンを見て、
これでも取れるのになって思ったことはありますけどね。
まあそういうことはあるにせよ。
そういう、なんつうんですかね。
昨日の私ではやれないんですよ、ああいうことは。
きっとね、やっぱりその時にしか出てこない。
そういうことが言いたいんですよ。
タスクシュートでも同じなんです、最終的には。
なぜなら、最終的に一つの人格が全てのタスクをやる。
これはもう無理なんですね。
やってて楽しい間はこうやっていっていただければいいと思うんですよ。
最初に言った通り。
でも、これ絶対全部できない。
そして絶対全部できないというのは絶望でしかないと思った時には
思い出してほしいんですよ。
全タスクにそれぞれの人格が対応すると考える必要がある。
だから、どのような組み合わせが最適解なのかわからないんだから
全部やらなければ夢も希望もないという発想自体が
おそらく完全に間違ってるんですよね。
この組み合わせ次第でははるかに少なくて
はるかに満足の良い結果が得られると。
これは一般的にタスクシュートで公式に言ってることです。
僕はこれ実際はそうではそうでもなくて
結局のところはそれは作った区分線だから
同じ組み合わせは二度と出てこないし
一つの人格も二度と登場しないので
その時その時しかないんですよ。
だって組み合わせってものがないわけだから
その組み合わせを再現させましてもできませんから
できることはたった一つなんですよ。
今やってることに完全に満足する。
これ以外の完全な満足を得る方法がないんです。
これが唯一完全に僕が思う
タスクならタスクで人生なら人生にですね
完全に満足する方法なんですよ。
いつもできてるわけじゃないですよ。
でも入浴中は僕はほぼ100%できてる気がします。
あと食事中もほぼ100%できてる気がします。
あとですね、寝てる時もほぼ100%できてる気がしますね。
書く時に100%いつもできてなきゃいけないなとは思うんですけどね。
これはあれですよ、全部。
あとあれだ、トイレも100%できてます。
記念に残る瞬間
なんでトイレを記録するんですかっていうのに対する答えはこれです。
この100%私がやってて満足できるということについては記録とりますね。
記念にとってるので思ってください。
記念にっていうのもちょっとね、完全に正しくはないんですが
でもまあ、記念にとってるという。
これ100チャレ編ですしね。
記念にでは納得されないかもしれませんが
記念にとっておくというのは、これも信じていただくしかないですが
後々役に立ちます。
必ず。後々役にどう立てるかを考えてとっているようなことに比べれば
記念にとっておく方がはるかに後々役に立つものなんですよ。
これも信じていただくしかないな、今の段階ではって感じがしますね。
1タスク1タスクと名付けられているもの
名もなき舵みたいなのも同じですけどね、全くね。
名があろうとなかろうとそんなことは関係ないんですが
やってる時にはやってる人、つまりやってる時のやってる主体であるやってる私
二度と出会えないと思うべきです。
二度と出会えませんからね、はっきり言って本当の意味では。
記念にとっておくというのはそういうことです。
この自分と出会えてよかったと。そういう記念です。
記念にボール取っておくとかするじゃないですか。
初ヒットを打った時とか、初関東勝利とかね。
あれですよ、あれ。二度とできないかもしれないじゃないですか。
プロ野球の世界ってすごいですからね。
本当に肝入りで入ってきた選手が
一打席も打席に立てないまま去っていくってことがあるんですよ。
内谷裕美さんがその辺のことをものすごい書きますよね。
一軍で何本フォームラン打ったってダメだと。
一軍の公式記録に一球残すこと。
それがその選手が最初に全力で考えなきゃならないことなんだ。
できないで3点打ったらいっぱいいるんだからって
非常にシビアなこと書いてますけど、確かにそういうことなんですよ。
でも僕これは、実は何にでも当てはまることだろうなって思うんですよ、やっぱりね。
そんなに毎分毎分シビアに生きてるわけじゃないですけれども、
シリアスに生きてるわけじゃないですけれども、
つまりプロ野球の選手だというわけじゃないですからね。
でもおそらくそうなんですよ。
二度と出会えないという意味においてはそうなんですよ。
そのことを自分はタスク集と通じて実は言っていきたいですね。
だから究極的には記録を取るのがめんどくさいとかは
本当にはないことなんですよ。
これはそういう経験については我々みんな信じられるじゃないですか。
我々はそういう経験を野球の世界ではしないかもしれないけれども、
そういう瞬間はありますよね。
これは記念に撮っておこうと思う瞬間って必ずあるじゃないですか。
その時、写真撮るのめんどくさいなったって思いませんよね。
何をやっていてもそう思わないようになりましょうっていうような意味なんです。
それってむちゃくちゃ大変じゃないかって思われるかもしれませんが、
それってむちゃくちゃ幸せでもあると思うわけですね、私。
だって全ての瞬間を記念に撮っておきたくなるようであれば、
それに越したことはないじゃないですか。
全ての瞬間を記憶する人格
私がそれを実現できていると言っているわけではないですよ。
でも昔に比べるとはるかにそれに近づけていることは確かなんですよ。
サスクシュートを使うことによって、
これにはるかに以前より近づけるようになったのも間違いないんですよね。
だからこのことを自分はサスクシュートというものに関してはお伝えしていきたいと。
全ての瞬間を記念に撮りたくなるように生きることは、
多分これほど程遠いことではないんですね。
それが分かってくる。
分かってくるために少なくともたった一つの人格が、
この全部をやるということが、
その全部をやりたくなるような人格であり続けることが幸せだというのは、
私は大局にある発想だろうと思うんです。
だから私の考えでは、そうはいかないだけでなく、
そういかないことが幸せなんですよ。
毎分毎分別の人間になってしまうということ。
サスクシュートの役割
片目から見るとそれは整合性が取れなくてダメな人なのかもしれないけど、
その価値観を跳ねつけられるようになるために
サスクシュートがあるという感じで自分はやっています。
ということです。
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