00:04
おはようございます。グッドモーニングボイスです。
3月17日、日曜日、19時58分ですね。朝でもなんでもありませんが、
明日のですね、月曜日だか、月曜日の朝からちょっと出かけなければならなくて、
どうしても朝配信というのが難しくなりましてですね、
これを撮った後、予約配信にするかそのまま配信にするか決めかねているんだけれども、
多分僕の性格からですね、そのまま配信するだろうなとは思っています。
はっきり言ってですね、別に朝じゃなくても、グッドモーニング言ってますけどね、
朝じゃなくてもいいだろうというわけで、多分今日中にやっちゃうと思っています。
予約というのがね、なんかバカみたいな感じがするんですよ。
その間わざわざ空けておくという気持ちに私はなかなか慣れなくて、まあまあいいんじゃないか。
予約をしている人がバカだと言ってるわけじゃないんですけどね。
それほどきちっと時間を守ってまでどうこうしたいという気持ちが僕の中には全くないという、単にそれだけのことですね。
今日17日の日曜日なんですけれども、
明日ちょっとね、J松崎さんと最終の打ち合わせかね、ちょっとした打ち上げかねかつ書店巡りをやるという日になりまして、
4月にいよいよ入っていきますね。
これはもう予約、予告でもなんでもないんですが、
6期の3ヶ月チャレンジを5月からやるわけですが、
ちょっとまた追加でさらに募集をかけさせていただこうかなと。
そろそろ冒険感が出てきているんですけれども、
おかげさまで一応私の中で成長でして、
なんとかじわりと増やしながら自分にできる限界のところまでやっていきたいかなと思っておりまして、
おかげさまで継続していただいておりますのでね、
なんとか自分なりにできるところの最大値というものを探っていっていこうかというふうに思っています。
タスクシュート協会をJ松崎さんと大橋裕造さんとやっていますから、
これと3ヶ月チャレンジ、そして本書いて、さらに倉園圭造さんとの仕事で、
この辺でもうさすがにこれ以上は私にはちょっと難しいんじゃないかと。
03:03
あとは何ができるかなとはいうのはあるんですけれども、
ここら辺で自分としてはよくやってるんじゃないかと少し思えるようになってきたので、
この辺を軸に最終調整をかけていきたいなと。
合わせて第5期から実験的にやった1ヶ月体験というのが意外と好評をいただいたので、
これを合わせてやっていこうと。1ヶ月だけ体験というのをやっていこうと思いました。
さらに1回セッションというのをどのくらいの枠、設けられれば設けたいんですけど、
1回だとさすがにほとんど何も伝えることができずに終わってしまうので、
このワンオンワンの1回きりというのをうまく使えないかなというのを今検討中です。
これはちょっと些細な話なのであれなんですけれども、
一応その辺のことも合わせて考えようと思っている次第です。
もう一つお知らせしておきますと、4月7日にタスクシュート手帳の会をやります。
第1回ですね。これは非常に実験的な会になりまして、
人が集まって初めて何かがやれるといったところで、
割と所属良くて、開催は来月なのに早くも4名の方にお申し込みいただいておりますので、
これは引き続きぜひ一度ご利用していただければと思います。
私自身もタスクシュートを手帳でやるとどうなるのかというのがはっきりとは分かっておりませんが、
認定トレーナーのZoeさんも使っていただいているようですし、
この開発した開発チームの認定トレーナーの方も参加していただけますので、
そちらの方から、ぜひいろいろな実験的ではありますが、
知見等々を皆さんでシェアしていただければいいんじゃないかと、
これはちょっと思い入れがあるので、よろしくお願いできればと思います。
これからきっとこの話はだんだんするようになると思ったんですけど、
先日、これはもうお知らせじゃなくてですね、
小乃木慶吾さんの日本の精神分析学会では最高度の著名度の方かと思うんですけど、
小乃木慶吾さんの映画で見る精神分析というのは、
これは非常に僕がまさに自分が求めていた本の一つだなと思ったんですね。
こんな本があったんだなと。
これ3ヶ月チャレンジご参加いただいている方からお知らせいただいてですね、
その人にもすごいお世話になってるんですけど、感動しました。本当に。
06:00
こういう本があるというだけで感動したので、しかもめちゃくちゃ本格的なんですよ。
それが驚いたんですよね。映画好きな人って本当すごいなと思いますね。
普通に映画の本としてもすごい本なんじゃないかと。
しかもこれ精神分析が理解できるという立ちすけになっていて、
ものすごい、僕みたいな人間にはですけどね、すごいおいしい本なわけですよ。
しかも10判が一応出てるんですよね。結構早い段階で10判かかってて、
1992年、結構今から見ると昔ですけど、9月30日第1冊発行で、
1992年11月10日にはもう第2冊になってるんですよね。
それで終わって。それで終わったのか分かんないな。
僕が持ってるのがそれってことですね。今ではもう絶版になっていて、
フル本でしか手に入りませんけど、本当に感激しました。
この本の話だけでもいいんだけど、この本の話は今日は部分的にさせていただくことにします。
なんかおいおいね、こういう話について大橋裕三さんとやれたら面白いのかもしれないけど、
ビジネスにはならない気がするんだよね。すごく趣味的な何かになってしまう。
でも僕、映画は全然詳しくないですからね。
きっとこの中で知ってる映画の数も、僕合わせて4つくらいしか見たことあるやつなかった。
4つか5つとかなんでね。100くらいは収録されてるのかな、映画タイトルだけでも。
多分大橋さんなら半分以上見たことあったりするんじゃないかと思って、
そういうのをパッと考えたんだけど、まあそれはとりあえず一旦は置いときまして、
まずそういう、この本のね、非常に一つ紹介してさせてもらおうと思いました。
次回以降にするつもりだったんですけどね。
羊たちの沈黙が入ってるんですよ。
羊たちの沈黙はスプリッティングの、これは非常にお好みさんらしいなと。
このお好みさんらしく精神分析を語ってるってことがわかるようになってきたのも、
私なりには一応こう勉強した甲斐があったって感じなんですけど、
お好みさんじゃなければあの作品に違う話を持ってくるんじゃないかなと、
いろんな、そう精神分析的に切ればですね、いろんな切り口が考えられるんで、
スプリッティングを持ってくるってところが、なんかお好みさんらしいなって感じがしたんですね。
スプリッティングってのも、またいろいろな解釈があるんですけど、
お好みさんのこの場合のスプリッティングが完全にこう、全額分けるよって話なの。
まあ確かにそこはある、あると思うんですよね。
良いおっぱい悪いおっぱい言ってましたけど、要するに良いものと悪いものっていうのは、
あるものの中に、もともとないですよね。
良い悪いっていうのは、人の勝手な言い分ですよね。
例えば会社においては、会社の良い部分としては給料をくれると、
悪い部分としては早く起きなければいけないところっていう風になった場合、
その良い悪い言ってるのは、その人のあくまでも言い分ですよね。
09:01
だから良いとか悪いっていうのは、都合の良し悪しの話をしているわけですよ。
で、このスプリッティングっていうのは、さらにちょっと言っちゃってて、
そこを2つに分けてしまう。
良い面と悪い面って、同じもののはずじゃないですか。
良いものと悪いものが合体して会社ができてるわけじゃないですよね。
給料をくれるという良い面と、早起きを強いる悪い面っていうのがあるかもしれないけれども、
それだって非常に主観的な言い分なんだけど、
さらにそれを2つに分けてしまって、だから分裂って言い方をするんだけど、
良い会社と悪い会社に分けちゃうわけですよ。
つまり、物事を統合して体験することができないという話なんですね。
それだと、その人はちょっと一般人としてどうなのって思われるかもしれませんけれども、
我々は結構そうなんですよ。恋愛とかするとよくわかるわけですね。
なんかもう彼女が別人になってしまったみたいな言い方を平気でするじゃないですか。
別人になったってことは、その彼女の良い部分と、それも自分にとって都合の良い部分で、
優しい彼女みたいな良い部分と、すごい急に怒り出すという悪い部分とに完全に分けてしまっていて、
その中に2つの人格でもあるかのような言い方をするわけじゃないですか。
でも我々って恋愛中って本当にそういう体験の仕方をしますよね。
他人に対して良い人と悪い人が同居しているみたいな感じ方を表現をとっても、
自分として不自然ではないぐらい1人の人間を2つに分けて割と平気でいるんですよ。
この場合じゃあ2つに分かれているのは本当は何かって言ったら、自分の心の方ですよね。
つまり一見したところ2つの良いと悪いというものを体験してしまうということは、
自分の心が2つに分かれてしまって、こう考えた方が納得いく話のはずなんですね。
ところが我々は自分の心は一貫しているんだって思いたがるものだから、
他人を分けてしまうわけですよ。
他人をこそ分裂させてしまうという、これが分裂ポジションと言ったりスプリッティングと言ったりする、
ちょっとこの辺の言い方は雑だけれども、この話ってのはですね、
我々正気と一応自認している人間の間でも広くやっている、ある意味狂気の一部だと私は思うんですよ。
自分の心は分裂していたら問題だし、他人は分裂してませんからね。
他人は1個の人間なわけですから、あるいは会社は1個の会社なわけですから、
自分が通っている会社であればですね。
でもやっぱりね、今思い出したんですけど漫画道、藤子藤英さんが書いている漫画道でも、
人ってやっぱりそうなんですよね。
ある日、まがみちお君っていう主人公、あれは藤子藤英さんなんですけども、会社に行っているわけですよ、その会社に。
で、いつもひがみ君って人がいじめてくるんだけども、ある日急にひがみ君がすごくにこにこしていて、
なんか朝からご機嫌なわけですね。で、優しくしてくれるわけですよ。
どうしたんだろうと思ってみるとですね、その日は給料日なんですね。
だから会社中の人たちがまが君にいつもよりも親切なんですよ。
12:03
これはもう完全に分裂的ですよね。すべての人がそうなっている。
つまりいい会社を経験している時に人はですね、やっぱりいい赤ちゃんになっていくわけですね。
完全にこれは母子の一体の世界に生きているわけですね。
いい会社と悪い会社があるわけですよ。残念ながらね。
だから我々は少しやっぱりそういうふうに物事を体験してしまうんですよね。
少し証拠を書いている形で会社って1個しかないはずなのに、
やっぱり会社が2つあるかのように我々も自分自身の状態というもの。
その会社の会社の状態にほんと合わせてないんだけど、
給料日の会社と残業させる会社っていうふうに異なるものとして経験している。
これは会社自体は全く変化していない。
まあ多少は日が経ってボロっちくなったりするかもしれないけど、
基本的に会社っていうのは違うものじゃないのに、
我々が2つの心のどっちになっているかというふうに分裂しているわけですね。
こういうふうに私たちはいい部分、
つまり自分の心のこの状態になると自分気分いいなっていうそういう状態。
給料日とか彼女を優しくしてくれるとか、
なんでもいいんですよ。おいしいケーキが食べられたと。
そういう時には自分がいい部分、心のいい部分を持っていて、
それが悪い部分ということが自分の心の中の悪い部分というところと
自分を一体化させるとですね、気分が非常に悪くなると。
グッドバイブスでクラザノケゾさんが、
クラザノケゾさんだけのこれは話ではなく、
ほとんどあらゆる1つのカウンセリングの考え方として、
これができるということは自分が本当は目指した、
好きにこれを選ぶことが本当はできていいはずです。
っていうのが1つ考え方としてはあるわけですよね。
必ずしもその悪い部分というものと自分が完全に一体化してしまって、
多少はしょうがないと思いますけれども、
完全に一体化してしまうのは避けてもいいんじゃないか。
だけど我々は意外とこれが避けられなかったりするわけです。
で、もう1つこの大事なポイントはですね、
良い部分と悪い部分を持っていて、しかも良い部分、
まあこれはでもすでにこの会社でも、
お母さん相手でも恋人相手でもやってることなんだけど、
良い部分を投影するんですよ。
だからこそつまり給料日だということになって、
会社は良くはなってないわけですよね。
ただの給料日がやってきてるわけです。
それは良いと判断するのは自分の心の中の嬉しい部分が活性化して、
その心を会社に投影するわけじゃないですか。
良いっていうその気持ち、すごくご機嫌になりましたという自分の気持ちを、
会社だと会社に向かって投げるわけですよね。
投げるって言えばいいのか難しいんですけど、会社にその良さを見るわけです。
自分の心の良さは自分の中では持ってはいるんだけど見えないから、
15:03
見えるものとして会社に当てるわけです。
これっておかしなことじゃないですよね。
例えば脳の状態がご機嫌な脳の状態になりました。
そうすると自覚するものが明るく見えたり、自覚するものが素晴らしく見えたりする。
そういうふうに脳が自分のものの見え方を微調整してかかるというのは、
決しておかしな話ではないわけですね。
これが投影というものなんですよ。
だからクリスマスの日は、クリスマスの日に恋人とデートするみたいに、
僕がなかなかうまくいかなかった話ですけど、
できると街中がキラキラするとか歌で歌ってるじゃないですか。
これは完全に投影ですよね。
心の中の自分にとって素晴らしいと思っている世界を、
そのまま世界だと信じるようになって、
自覚の内容まで変わっていく。
だからヒガミ君とかも給料日ではご機嫌なわけですよ。
結局そういうことになる。
世界が素晴らしいものだと思ってるから。
ということはですね、
当然悪い心の部分で世界を見ると、
世界は最悪の場所になるわけですね。
この落差が極端だと、
結構色々と精神的にややこしい問題になるわけです。
さらにですね、この投影というのは、
あるものに対して良い心を投影し、
自分の心の良い状態をあるものには投影して、
別のものには悪いものを投影するってことを、
僕ら実はしょっちゅうやるわけです。
これをやるから恋愛ってできるわけですよ。
つまり恋愛中というのは、
例えば自分の彼女というものは素晴らしい人だということを、
自分の心の素晴らしいと思っている部分を、
全部彼女に見るわけだから、
今のさっきのクリスマスの日には、
世界がキラキラしているっていうのを、
ある人に集中させるわけです。
これで恋愛というものが成立するんですね。
この人は世界で最も素晴らしい人だみたいに見えるわけです。
で、例えば、
でもその人とあんたがクセだからまだ付き合っちゃダメとか、
親が言ったりするとするじゃないですか、お母さん。
もうお母さんむっちゃ悪い人に見えるわけですよ。
この彼女がよく見えた、
その反動的にですね、
最も悪い部分、心の中で最も悪いとしている、
対比になってくるって、
心の中の最もろくでもないと思っているもの、
全部この邪魔をする人にぶつけていく。
だから最悪の人と最高の人というコントラストがですね、
こういう時に発生しやすくなりますよね。
この種の邪魔っていくらでも入りますから。
で、岡崎慶吾さんが映画で見る精神分析で、
羊たちの沈黙にこれを当ててるんですね。
しかもすごくトリッキーな当て方をしているという分析をしているわけですよ。
皆さん見ていると前提で話しちゃいますけれども、
レクター博士って出てきますよね。
人を送った角で、たぶん終身牢獄にいなきゃいけない、
異常犯罪者ってやつですね。
18:01
で、その人になぜかアドバイスをもらいに行くんだけど、
あの映画を見ているとですね、
だんだんだんだんレクター博士は素晴らしい人に見えてくるんですよ。
いろいろとそういうからくりになってるんですね。
つまりあの映画は狙って、
我々の投影の部分というものを機能させることによってですね、
レクター博士が素晴らしく見えるように見えるように工夫して作っているわけです。
これ非常に不気味な話ですよね。
我々は職人の異常犯罪者が素晴らしい人に見えるように、
映画で非常にうまいことを誘導されていくわけですね。
でも映画っていうのはこういうことをしょっちゅうやってる気がします。
我々は抜群にそれが上手にできているためにですね、
アンソニー・ホップキンスっていう人でしたっけ、
その役者さんがそうしてそういうふうに演じるし、
監督はもちろんそういうふうにやってるし、
原作がそもそもそういうふうにできてますからね、
トマサハリスの原作が、
羊たちの沈黙で脅迫犯罪して牢獄に閉じ込められている男が、
この人自由にしてあげたらいいのにと思いかねないところまで、
自分がその人に殴られて肉にされて食われるってことを感じてたらですね、
どうしてあの人が終身牢獄にならないのかっていうのに、
それなりに果てんが行くはずなんだけど、
最初見たときはレクター博士はそういうふうに見えるわけですよ。
すごいヤバそうな人に見えていたのが、
徐々に徐々にだんだん素晴らしい人に見えていくようになってるわけですね。
さっき言った通り、
この良いものを投影するということは、
当然悪いものを投影するっていうからくりがあるので、
最初レクター博士には我々は悪いものを投影していたはずなんですね。
心の中で一番ヤバい、
なんかこうね、コブラと自分の嫌いな虫の合体したようなものを、
エイリアンみたいなやつで、
そういうのをレクター博士に投影していたはずのに、
だんだんだんだんレクター博士が知的で素晴らしい人に見えるようになっているわけですよ。
その代わりに悪役がどこかにいるわけですね。
それが非常に悪い存在に見えるようになっている。
一つがバッファロービルってやつですね。
あの川這ぎですね。
女性の川を剥ぐ。
ヤバい感じがするじゃないですか。
女性の川を剥いで、
その川を服にしたいというですね、
とてつもないやつがいるわけです。
完全にそこにエイリアンみたいなのを僕らは投影するわけですよ。
一番自分がまずい、ヤバいと思っている心の部分を、
そのバッファロービルに投影すると。
バッファロービルに投影すればするほど、
それを捕まえるのに協力している風のレクター博士が、
素晴らしい人に見えるように工夫されているわけですよ。
このスプリッティングを小野木さんは説明していると。
しかもついでに、
そのレクター博士をですね、
終身閉じ込めているチルトン博士っていう、
要するに牢屋の管理人がいるんですけど、
この人が非常に小さな権力を駆使してですね、
21:03
人に嫌がらせするのが生き甲斐みたいな人なんですよ。
要するに最も感じの悪い、
顧薬人タイプって言われるような人を字で言っている感じなんですね。
この人がレクターの邪魔をすると。
そして自分の出世の道具にしようとしているので、
このチルトン博士にもですね、
やっぱり自分の悪い投影っていうのをしていくんですね。
だからだんだんだんだんチルトン博士がですね、
悪人に思えてくるんですよ。
ここはもう非常に、
もともとトマサリスの原作がそうなってんだけど、
非常にこう、
創作的なものを読者にも視聴者にも強いてますよね。
だってレクター博士で野暮らしにしたら大変なことになるわけじゃないですか。
我々の常識的な感触っていうのは、
チルトン博士みたいな、
そういう牢獄を司っている人こそいい人だっていう、
要するに私たちを守ってくれる、
正義の守護者ぐらいに思ってるわけじゃないですか。
そしてそこに閉じ込められている人たちはみんな、
どう考えてもヤバそうな人で一生そこにいてほしいって、
みんな思ってるわけじゃないですか。
ここを逆転させていくわけですね。
羊たちの沈黙では。
つまり我々は投影先というものが逆転していくと、
自分の常識感覚というのが簡単に狂っていくっていうのを、
体験させてもらえる映画なわけですね。
だからこのスプリッティングというのが、
狂気の要するに精神病部分って美音が呼んだ話なんですけれども、
我々の非精神病部分、つまり正常な状態では、
このスプリッティングとか投影というものが、
控えめになっているはずなんですよ。
膨大にスプリッティングして膨大に投影しまくるということは、
常識的な判断とか普段している判断が、
平気で逆転して狂っていく。
そういう意味で狂っていくわけですね。
だから、それがいとも簡単に起きるわけですよ。
だんだんだんだんこのチルトンうぜえみたいになっていって、
レクター博士が無事に逃げられればいいのにとか思ってしまうわけですよ。
でもそれってどういうことかというと、
つまりカニバリズ、人肉を食べた異常犯罪者が、
野放しにしてあげればいいのにって思っているってことなんですよ。
そしてその管理している人が、
例えばレクター博士に食べられちゃえばいいのにと、
そういうふうに全ての視聴者が思うかどうかわかりませんけれども、
そういうふうには思わない人も結構いるとは思うんですけどね。
そういうふうに思いかねないような作りになっているってことですね。
つまり、常識と正気が大きく狂っていくように、
見ている人全ての常識と正気が、
狂って揺さぶられるような仕組みが、
非常にうまく働くように作っているわけですね。
だから名作なんでしょうね、そういう意味ではね。
これがね、やっぱり我々のいかに善悪の判断というものが、
後衛に左右されること。
いいおっぱいと悪いおっぱいなんていうのは、
善悪とは何の関係もないわけですよ。
24:00
だからこれは善悪以前の判断力っていうふうに見なされるわけですね。
非常にプリミティブなものだと。
そうですよね。赤ちゃんの判断ですからね。
良いおっぱいというのは、つまりよく出るおっぱい。
僕にとって良いおっぱい。
つまり僕がお腹いっぱいになれるおっぱい。
いつでもあるおっぱい。
全部自分の都合じゃないですか。
完全に自分の都合なわけですよ。
自分の都合が良いおっぱいっていう話しかしてないわけですよね。
でもこれが原始的な判断力ですよね。
それは正義かどうかとか、良いおっぱいは正義なのかとか、
そういう話は誰もしていないわけですよ。
僕らは正義と悪っていうのはもう少し違う、
一段とレベルが上がった判断力に基づいていると思い込んでるわけですよ。
自分の都合だけでは関係ないと。
例えばね、自分が大好きな人でも犯罪を犯したらその人は悪い人であって、
僕はこの人大好きだけれども詐欺働いたからこの人は悪人なんだっていう、
こういうふうに自分都合ではないところで、
善悪を判断している気になってるんだけど、
そんなことは非常に怪しくていい加減にひっくり返るものだっていうのが、
羊たちの沈黙で明らかにされるわけですね。
我々の善悪の判断基準というのは、
実は良いおっぱい、悪いおっぱいのレベルに相当左右される。
だからレクター博士って良い人であってほしいなと思ったら、
だんだん自分の中ではレクター博士良い人になっちゃってて、
この人はもう刑務所にいなくていいんじゃないかみたいな感じになって、
割にチルトンがこいつに食われちゃった方が、
世の中良くなるんじゃないかぐらいに思ってしまうわけですよ。
これが実際にそれが起こると大変なことになるじゃないですか。
大変なことになるとされているじゃないですか。
少なくともその逆だからこそレクター博士は終身刑になってるわけですよね。
こういうことが我々の間では割と簡単ですよっていう話でもあるわけですね。
だからスプリッティングと。
お好み刑護さんはこのスプリッティングで、
良いおっぱい悪いおっぱいレベルで成人が善悪を判断することは結構よくあるんだみたいなのを、
例えば分裂というテーマで本を書いていてもよく書かれていたのでですね、
非常に羊たちの沈黙はうってつけの題材だったんだろうなと、
そういう感じがしました。
で、最近ですね、私はこの投影というものをつくづく感じたわけですよ。
やっぱりそれは母親なんですよね。
これは僕にとって真発見でもなんでもなかったんだけど、
やっぱり非常に斬新な発見で、
一段と僕は対象関係論、精神分析というものに、
本当にその通りだなみたいな感触を味わったんですよ。
27:00
僕つい、今日だね。
この番組は明日になるかもしれませんけど、
今日それを味わったんですよ。
母から電話がかかってきてですね、
母も結構年いってるんでってことも、
というか年いってるんでこういうことになるんだけれども、
めちゃくちゃ投影してくるのね。
ものすごい僕に悪を投影してくるわけですよ。
罪悪。
つまり母にとって面白くないことが起きたわけですね。
もうちょっと詳しく言うと、
単にiPhoneの電源が入らないんですけど、
iPhoneの電源が入らない罪悪というものは、
非常に老人にとって操作性が悪いっていうのは、
やっぱりイライラするじゃないですか。
そして自分が年だからうまくいかないっていうのが、
やっぱり屈辱的に感じるらしいんですね。
だからそこの本人が持ってしまう生きどおりみたいなものを、
すべて僕に投げるわけですよ。
で、私はこの種のことが起きても、
もともとこの種のことが起きても、
別に気にすることはないわけじゃないですか。
私が悪いわけではないんでね。
ところがこれが他の人だった場合は、
全然なんてことはないんだけれども、
母との違うってことがですね、
よくわかったんですよ。
で、僕はこのことをあまり人に相談したいとか思わなかったのも、
よくわかったんですね。
これは二者関係の話なんですね。
世間一般で起きるこの罪悪感の投影、
投影同一化なんだけれども結局、
要するに私たちがこう、
チルトンにお前はろくでもなしだっていう風に、
チルトンに向かって投影していくとですね、
チルトンはろくでもなくなっていくんですよ。
これを投影同一化っていうんです。
最も基本的な形ですね、これが。
だから人前で話をするときっていうのはですね、
つくづくこのことをお互いにやっちゃうんで、
よくよく覚えておくといいと思うんですよ。
やっぱりいかに徴収がいい人勝手の真剣にですね、
投影していくとできるんで、こんなことは簡単に。
だって我々のこの投影ってすっごくいい加減じゃないですか。
さっきも言ったように、レクターはアンソニーホッキンスの演じてるレクターですけどね。
知的で、この人は親切で、
何か間違いで牢屋に入ってるんだって思うと思えば、
できるようになってるわけですよ、そんなことは。
判断力というのはすごく雑なんですね、そういう意味では。
だから我々はですね、徴収来て、
そもそも自分の話聞いてくれるために来てくれる徴収なんだから、
そこを疑ってかかる必要は全然ないわけですね。
徴収に向かって全体的に全ての人がいい人だと、
信じるように信じるように持っていけばですね、
話をするというのはほとんど必ずうまくいくんですね。
何でかっていうと、徴収はいい人になってからなんですよ。
この投影ドイツ化っていうのは、ある程度は全く避けられないものなんですよ。
だからこそ赤ちゃんがですね、幼児が母親に向かって、
お母さんはいい人だって投影してると、
30:00
大体お母さんいい人になっちゃうんですよ。
この件を逆に考えてはいけないんですね。
幼児が母親の起源を取ってるとか顔色を伺ってるっていうのは、
時々僕もこの話をするんですけど、二次的なものですよ。
一時的には赤ちゃんというのは投影まっしぐらなんで、
だってそうですよね。
赤ちゃんというのは思い込みの世界に生きてるわけですから、
お母さんはいい人に決まってるわけですよ。
だからお母さんはいい人だと信じてる限りはめちゃくちゃニコニコしていると、
大体のお母さんはニコニコしちゃうじゃないですか。
非常に単純といえば単純な世界なわけで、
この力度に徹底的に逆らえるっていう人はまずいないんですね。
まずまずフラットでいけるっていう人もまずいないんですよ。
つまりここに力というものがかかってくるから力度って言うんですよ。
エネルギーがそこに発生していると、なんていうのかな、
強制されているぐらいですね。
だからこの投影を徹底すれば長州の一人や二人に、
ちょっと天の弱な人がいて、僕の投影を跳ねつけるような、
まあこういうこと考えないほうがいいんだけど、
跳ねつけることができたとしても大半の人は無理だから、
やっぱり場の雰囲気はどんどん良くなってしまうんですね。
この投影ドイツカーはリフレクションが起こるんですね。
私がいい人だと長州の人はみんないい人だと思うと、
長州の人はみんな気分が良くなるので、
当然話している私は話が上手で優れた人間だと思い込んでくれるんですね。
そうすると私はその力を、その投影を思いっきり受けるんで、
だって長州いっぱいいますから思いっきり受けるんで、
上手く話ができるんです。
こういうからくりになっているんで、
上手い話をしようと思う必要は実は全然ない。
この投影ドイツカーというものが、
一般人二者関係の中で一番起こりやすいのはやっぱり母親ですから、
自分の母親というのは特別なんですよね。
非常に特別なんだということを、
今日非常に特別悪い事例で思い知ったわけですね。
母の投影がどんなに馬鹿げたものであっても、
非常に逆らっていくのが難しいということを痛感したわけです。
あ、これなんだっていう感じがしたわけですよ。
母がもう徹底的に僕が、
お前がああいうiPhoneを買って私を馬鹿にしようと、
ほとんど暴論なんですけどね、
黙論でるからこういう目に私はあっているんだという、
非常にロジックが狂っているから、
これでわかりやすく話しているぐらいですからね。
それくらい訳わからないことを一生懸命言ってきているんだけど、
だんだんこっちは叩き壊してやってもいいぐらいだという気持ちにさせられていくんですよね。
なんかね、心をつかまれてぐいぐいねじ曲げられている感じがするんですよ。
すごいなと思いました。
で、これは私、この体験をしてみてわかるんだけれども、
あ、これは確かに幼児の頃の体験だと。
33:01
おそらく2から4歳に割と私はこれを母にされたことがあるんだというのを思い出したんですね。
あ、なるほどなと思ったんですよ。
なるほど、私はこの感性、この感覚、この自分と母との関係性というものを主に女性ね、
奥さんとかに投影すると相手が恐ろしくなるのは当然だなと。
相手の機嫌を伺いたくなるのは当然だなと思ったんですね。
これは母と私の関係を、結局のところ母じゃないんでね、投影は所詮投影なんで、
母との関係そのものに比べると、
そうですね、これが原液だとするとカルピス5倍に薄めたぐらい投影ってのはやっぱりマイルドなんですけれども、
それでもやっぱり非常に警戒心が強くなったり不審の念が走ったりするのはこのせいなんですね。
逆にこれで私は確信できたんですよ。
この確信はクラゾンさんも時々おっしゃいますけどね、Good Vibesのクラゾン圭三さんも、
真理ってわけじゃないんで。
これこそ宇宙の法則ですってわけじゃないんで、私が勝手に確信できたに過ぎないんで、
こういう話に興味があってかつ使えると思ったら使っていただければいいんだけど、
これは全然、母との関係はまたちょっと特別だけれども、
それ以外のところでは取るに足らないものとしてスルーして大丈夫だっていう確信を、
これを確信させてもらったんで、今日は母にある意味感謝なんですよ。
ちょっとねじ曲がった言い方になっちゃいますけどね。
つまり一般の人間関係には、僕は男性との関係にすらですね、
男性との関係はちょっとやっぱり母よりは父の投影の方が強いんで、
こういうことは起こりにくいですけれども、やっちゃうときはやっちゃうわけですよね。
怖いっていう、子供が親を怖がってるように怖がってるに過ぎないわけですよ。
でも母子関係ではない人間関係では、この話はですね、
所詮私が勝手に幻覚を見させられているに過ぎないのであって、
別にいくら幻覚を見たからといって、実害は全くないんですね。
私はこのことを今日確信できたんですね。
多分そうだろう、もうほぼ確実にそうだろうとはずっと思ってたんだけど、
今日それを実例として自分の中で、やっぱり今でもこのカラクリを完全に把握しているつもりになってる、
今でも母との関係では再現させられてしまう。
やっぱりこう、応援同意つくのは、確実に起きる、起こせる。
母にはね、母は私を悪人にしようと思えばできちゃう。
これはやっぱりすごい、全然他とは違う話なんだなと。
で、これは解消しようと思えばできるんですね。
今日はちょっとそれを確信したかったから、解消するのをしばらく放置しておいたんですけれども、
36:06
留保しておいたっていうのかな。解消しようと思えばできるんですよ。
母と私の関係を逆転させてしまえばいい。
私が母になり、向こうが幼児だと考えれば済む話なんですね。
応援同意つかというのは結局のところ同時に起きるものなので、
相手が私に投影したものに私が同意つかし、リフレクションと言いましたよね。
私もそれを受けて、相手に対してこういうことをされれば当然面白くないから、
母は本当にひどいやつだと思って、こうやって喧嘩が絶えなくなっていくわけですね。
だからこれを逆転させればいいわけです。
私が母親になってしまえばいい。
そうするとどういうことが起きるか。
相手は泣いている赤子になる。
現実にそうなるんですよ。
まるで泣いている赤ちゃんって感じが、本当に実感としてくる。
これはまさに私が泣いて母を困らせていたときの感触そのものなんですね。
うちの母にとっても。
これがちょうどひっくり返る。
もうこれはカウンセリングでも精神分析でもないんですよ。
本当に母親と私の関係だから、本当のその関係そのものなんて奇遇じゃないので、
具体的な実例としてこれを体感するってことが起こると、
記憶が生の記憶がその場に再現されたような感じ。
私はちょうどその年頃に青森に住んでいたので、母とね。
青森にいた頃の感触っていうのが蘇ってくるんですね。
すごいなと思います。
記憶ですからね。
記憶が近くとほとんど同一レベルに入っていくっていうこれは体験なんだろうと思ったんですね。
久しぶりにこれはまるまる精神分析だなとも思います。
話してる内容がね。
まず間違いなくこれはそういうもんだろうと思いますね。
で、結局話そのものはね。
iPhoneの電源を再起動させる方法を伝えればそれでこと足りるんでね。
留保したい悪かったなと思うんですけれども。
パッと機嫌が変わるんですよ。
まっさに幼児なんですね。
そうするとしかし面白いことにやっぱりその力度がガッと僕に働いて、
僕の感情も一瞬で逆転してしまう。
一気に気分が良くなるんですよ。
その前そもそも気分少しも悪くなかったんで、
それができる母が凄まじいと思うんだけれども、
ロジックが知りめずれずですからね。
だから繋いで電源を入れて、あーってなってあーってこっちもなるわけですよ。
これもすごいなと思います。
まさに精神力度ってのはこういうことだなと思います。
で、あ、なるほどこれだもんチルトンが悪人だと思っちゃうわっていうのをですね、
お好みさんの映画で見る精神分析を読み直して、
他の映画批評も、映画批評としてそもそもこの本は面白いんですよ。
僕みたいに映画ほとんど見ない人間にとっては、
39:02
いやー面白い映画っていっぱいあるんだなという面白さもあるんですけれども、
プラスいちいちそこに、これは東映であるとかね、
これはエディフスコンプレックスで、
このお父さんをやってる役がどうのこうのとかね、
非常にこう、どこを読んでも僕にとってはめちゃくちゃ面白いという本で、
この本の話をGood Morning Voiceでは、
これから多分ホットに相当やっていくことになると思うので、
こういう話はつまらんという人は、
しばらくは聞いていただいても残念ながらこういう話が多くなるとは思いますけれども、
その辺はちょっとご理解くださいって感じですね。
とにかく今日の話で私が言いたいのは、
東映ドイツカっていうもの、非常にやっぱりいい概念だなって思うんですよ。
本当に。
私たちはですね、誰それといて、
誰それといてでなくても電話するなりして、
あるいは夢を見るなりして、
どっかに行くなりして気分が悪くなったら、
東映ドイツカを真っ先に疑うっていうのは価値あることだと思います。
私がそういう気持ちにさせられているのではないかと。
それは私という人間に何か、
いやこいつはろくでもないっていう、
その時はろくでもない人というものを見たい人がそこら辺にいるはずなんですね。
私が例えばつい先日、J.松崎さんのパーティーに行って、
そこそこ気持ちよくしゃべる。
これどうしてかというと、この人は気持ちよくしゃべる人だっていう風に、
私にみんなが投影するからなんですよ。
非常に簡単なカラクリなんです、これ。
私が何にもしなくていいんですよ。
むしろ何にもしないほどいいんですね。
何にもしなければ何にもしないほど、
投影されて投影されて投影されるんで、
投影された通りの人物を、
僕が演じてしまう、演じる、になってしまうんですね。
同一化なんで。
だから事前に準備すればするほどギクシャクしやすいはずなんです。
投影は止まらない。
投影せずにいる人っていませんしね。
まして人前でしゃべるような人に向かって、
僕ら投影せざるを得ないじゃないですか。
僕ら岸田首相という人を全然知らないでしょ、実は。
天皇陛下だって個人的には何も知らないじゃないですか。
僕らが勝手に投影する存在として、
僕ら彼らを見るしかないわけですよね。
岸田首相のことよく知ってる気になってますよね。
好きであろうと嫌いであろうと。
で、そういうものとしてしか僕ら決して見ませんよね、彼らのこと。
だから彼らは我々が投影した通りの人間になってしまう。
多くの場合そうなります。
これはもう避けようがないんですね。
我々は投影せずにはいられない生き物なんですよ。
全て、世界、世界というものは全て我々が
投影した映像そのものを見ているに過ぎないわけです。
だから奥さんの機嫌が悪かったら、
私が奥さんの機嫌を悪くしている。
これはもう多分ほとんど確実なことなんですよね。
42:00
無意識ですよ、もちろんね。
これを意識的にいちいちやってたら疲れてしょうがない。
100%無意識にやってますが、ほぼ確実なんですよ。
非常に最近面白いなぁと本当思うんですね。
うちの娘がパッと起きてくると奥さんの機嫌がガラッと良くなる。
すごいな、うちの子はと思うんですよね。
これを逆に考えちゃいけない。
逆に考えるのが自然だから半々ぐらいでいいんだけど、
つまり娘を見ると好きだから奥さんの機嫌が良くなるんだろう。
これはこれで間違っちゃいないんだけど、むしろそうじゃなくて、
うちの子から見るとうちの奥さんはあんなにいい人なんですよっていう方が
はるかに正しいと思うんですよね。
リフレクションが起こるわけです。
うちのママ大好きだから、素晴らしい人だからって見てると
素晴らしい人になっちゃうんですよ。
そうしたら素晴らしい人だから娘の機嫌が良くなるでしょう。
リフレクションなんですね、これはね。
このリフレクションが卓球の世界選手のように
コンコンコンコンって起こってるから
あっという間にその現実が実現してしまうので、
僕らはこのカラクリの尻尾を掴む暇があんまりない
スローモーションで見ることがほとんどできない。
これはこういうカラクリなんですよってことを
繰り返し繰り返し説明されているうちに
そういうカラクリなのかなと思って見てみると
そういうカラクリなんだなということに気づくっていうケースがほとんどです。
実際私だって人前で喋るという時にですね
これほど投影同一化が起きているんだということを
自覚するに至るようになったのは
やっぱりもう50になる頃になって初めてなんですよ。
これを知るようになってから人前で喋るというのが
多分私はそれなりにできるようになって
それ以前は非常に下手だっただろうなとは思うんです。
でも上手くなったとかいうわけじゃないんですよ。
事実上僕は喋る話し方教室とかね
そういうところに行ったことがあるわけじゃないし
話すのが上手いと別に思わないですしね。
そもそもこのカラクリからして
上手いとか下手っていう段階でナンセンスじゃないですか。
上手くも下手にでも簡単になりますよね。
聴衆がいている人が100人例えばいてですよ。
100人ともいや佐々木は最悪だよな。
話させてもどうせろくなこと喋んないよって
みんなが思ってる中で喋ったら
下手になるに決まってますよね。
公営同一化というもののカラクリを
仕組みを考えてみるとですね
上手いに下手ってのはほとんどナンセンスなんですよ。
なんとでもなるわけです。
どうにでもできちゃう。
首相だってそうですよね。
今の支持率から考えて今は難しいですよ。
上手く喋るのはほぼ無理です。
彼のパフォーマンスからすれば
最低ラインに近づくかざるを得ないじゃないですか。
あれで支持率90%みたいなね
どっかの選称国みたいですけど
90%の聴衆が目キラキラさせてみてりゃ
彼絶対上手く喋れるに決まってますよね。
そういうものでしょうこれは。
彼の能力そのものと関係があるわけなんだけれども
その中でも最高のパフォーマンスか
45:00
最低のパフォーマンスかなのかは
本人だけでは決められないことなんですね。
起源というのも同じで
パフォーマンスみたいなもんです。
本人には決めようがないものなんだと
僕はやっぱ思うんですよ。
もちろんいますよね。
ある程度いつも起源が良い人と
ある程度いつも起源が悪い人と
でも多分これは周りの人が決めてることなんですよ。
だから難しいんですよね。
周りの人は決めてるにも関わらず
無意識なんでそうは思わない。
だって我々チルトーン博士のことが
嫌いだと思うだろうなと思って
映画見てたわけじゃないじゃないですか。
エクター博士のことが好きになるだろう
これを見ればと思ってはいなかったと思うんですよ。
そして彼が脱獄しちゃった後
やばくない血行って
見たとは思うように
あれちゃんとそういう風に仕組まれていますから。
僕らの気持ちは
エクター博士に対する気持ちは
ものすごい上昇したり下降したりしているっていうのを
ある程度操作されていたわけですよね。
あれは映画だから
アソニー・ホープキンスは
良い人になったり悪い人になったりは
東映ドビスカによってはしませんけども
具体的な人間だった場合は
そういうことが当然起きるわけですよ。
だから我々は
犯罪者ってものが
どういう人かであるっていうのは
実は僕ら勝手に決めるんですけれど
決めれば決めるほど
事態が実は悪化するんじゃないかな
っていう感じもするわけですよね。
犯罪者は我々悪い人だって思ってるわけじゃないですか。
そういう東映をするわけじゃないですか。
東映をすることによって
そういう人を作り出すわけではないですか。
東映して東映ドビスカが起きないことは
まず絶対ないと
松木さんっていう精神分析の人は
書いてましたけど
私はこれは諸手を挙げて賛成なんですよ。
今では。
だから人前で喋る人
教室とかで
先生が喋ったり
なんかしているときに
事さら自分に責任感感じる必要は
全くないんじゃないかな
っていう風に私は最近は逆に思うわけですね。
責任はないし
スキルによって
手柄を立てられるわけでもやっぱりないですね。
そういう風に
これは自分のスキルをアップすれば
もっとうまく喋れるし
自分がこんななのは
まだまだ練習が足りないからだって
思うんだとすれば
それはやっぱり僕は自己愛なんだと思っちゃうんですよね。
自己愛ってのは他者がそこに
自在の状態を
自分の心が作り出してしまっているってことなんですよ。
なんかこう
なんちゅんですかね。
だからやたら練習するっていうのって
僕はすごく自己愛的なものを
感じるんですよ。
誰であろうと
自分の状態は変わらないっていうのは
あまりにも
この投影というものを
軽く考えすぎていて
あまりにも独立心というものに
期待をかけすぎている
そちらの方を
信じすぎているっていう感じがするんですよね。
そんなはずはないんですよ。
よくよく僕が思い出すのはですね
やっぱりこれも倉園さんが話してくれたことなんですけど
彼がなんかの
48:01
フェスかなんかかな
ライブをやっているときに
めちゃくちゃこう
非好意的な
聴衆の前で歌ったことがある
という話なんですね。
僕だったら歌えないだろうなって思うんですよね。
歌っただけ彼は凄まじいなって思うんですよ。
ある種のそういうときには
僕はもう
これは倉園さんがっていうよりは
そういうことをやれる人は全てって意味なんだけれども
まさに全てって意味なんですけど
猛烈なナルシシズムを
そこに持ってくるしかない。
うぬぼれって意味では全くないですよ。
うぬぼれでは多分何にもできないと思うんですよ。
うぬぼれくらいだったら
歌歌えるからそういうところにいるわけですから
誰だって持ってるでしょうし
僕だって持ってると思うんですけど
僕じゃ無理だ歌える気がしない
そんなときにはって思うのは
やっぱりある種のナルシシズムを猛烈に発揮できるようでないと
つまり
ある意味聴衆から確実できるような
何かが必要だろうと
その意味が当たり前の意味ですよね。
もちろんね。
じゃなかったら
そんなものをまともに浴びてしまったら
すぐに帰っちゃうと思うんですよね。
で、幸いにも
大抵の人は演談に立って
そんな目には合わないわけですよ。
だったら
聴いている人との
隔絶というものを取り外した方がいいと思うんですよね。
ということは
東洋同一覚が確実に起きるという話なので
演習ってほとんど
起きていないはずなんですよ。