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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
もはや、グッドモーニングボイスというタイトルに問題があるのではないかという、
これも取ったデシになるはずなんですけど、11月9日水曜日の夜8時半ですね。
今日はしょうがないっちゃしょうがないんですよね。
なぜならば、朝撮る予定だったんだけど、すっかり忘れてたんですが、
今日コロナワクチン第4回打ちに行きまして、
打ったらもうなんかこう、副反応は弱かったんですけど、
頭がぼんやりしてしまって、なんかこう、もはやですね、
全然収録をしようという意識は、全くどこかへ行ってしまうという、
不思議ですよね。熱が出たとか、風邪の症状が出たとか、
そういうのはないのにもかかわらず、これをする意欲は全くなくなったと、
するのはとても不自然だという感じになるんですよ。
で、こうなるかどうかは、事前にはわからないし、
やろうと思ってできないわけではないんだけど、
やろうという気が全く起こらなくなったんですね。
だから、今日は少しだけその話をしようと思ってるんですが、
要するに私たちはやっぱり、別にこれは倉園さんだけが言ってるわけじゃないんですが、
私の一番身近でこれを強調する人が倉園さんだということでね、
そもそも格言だから、昔から言われてることなんだけど、
一寸先は闇ってやつですね。
で、これ、みんなですね、これをやっぱり問題なのはですね、
知らない人はいないと思うんですよ。
何度もこの番組でも強調するように。
一寸先は闇という言葉を初めて聞きましたっていう人は、
これ聞いてる人の中には僕は一人もいないと思うんですよね。
それはつまり、それだけ何度も何度も何度も僕らに、
警告が発されてきた、その警告だってことなんですよ。
で、僕らそれを無視するのがもう板についちゃって、
もう板についちゃったというか、
一寸先は闇だけどプロジェクト管理するのは大事だという時に言ったりするんですよ。
そして、しかもそれを言ってる時に、
それが一体何を意味してるのかについてあまり考えないことにしちゃってるんですよね。
一寸先は闇だけどプロジェクト管理は大事ってのは
どういう意味なのかということについて、
僕らは深く考えないんですね。
言葉ではこういうことを簡単に言うことができるから。
遅くなりましたけど、お知らせです。
11月の23日の祝日ですね。
何の日だか今ちょっと覚えてないので口にしません。
23日水曜日は祝日で、
橘武さんとクロストークをします。
03:01
ミドルエイジになって始めるフリーランスみたいなお話で、
自分の感覚の中で私がミドルエイジだというのは、
なんとなくよく認識できてないんですよ。
ただこれを強く意識するようになったのが、
中年の危機っていうやつを迎えて、ミドルクライシスですね。
これを迎えたからで、
以来この年になってフリーランスするとなると、
どんなことが気にかかるかなというのを中心に
お話ししようと思ってます、私はね。
橘さんがどういうお話をするかは、
なんとなく伺ってはいるんだけど、
やっぱり僕がここでしゃべると誤解を招きそうなので、
それについてはすっ飛ばし、
私がする話は要するにですね、
いろんなことが気になると思うんですよね。
抱えてるものも若い頃よりは増えるし、
先行きについてはなぜか若い頃よりは分かってる気になってるし、
この辺の話をさっきしていて、これからもしたいんですけど、
そんなことはないよってことなんですよ。
そんなはずもないよという話なんですね。
一寸先は分からないものなんですよ。
だいぶ私50を前にして、
まさかグッドバイブスみたいな方向に
全力で舵を切っちゃってるけれども、
そんなことしていいのかと誰かにともなく言われる、
今はもう言われなくなっちゃいましたけれども、
言われていた時期もあったわけですよね。
いろんなところから。
身近なところでは父親からとかね。
父親はそういうことについてあまり言及しない人間なんですけれども、
それでもずいぶん書くものを変えたねっていう感じの話は
ちょっとしたんですよね。
そしてパタッとその後本を出さなくなり、
今度は母が心配してくれたりとかね。
いろいろあるわけですよ。
そのいろいろある中で、
ミドルエイジのフリーランスというのはね、
私はやっぱりここも逆だと思うんですよね。
これ本当は逆じゃないんだけど、
会社員だろうと組織人だろうと公務員だろうと、
一寸先が闇であることは何ら変わらないんですよ。
本当は。
公務員だから一寸先も10年先も分かってますっていうのは、
分かっているように見えやすい部分が多いのは確かですよ。
フリーランスに比べれば。
でも例えばさっき震度5強の地震があったけど、
あれ分かるかって話。
そして仮に分かったとしても、
守備力防げるのかと。
地震そのものは防げないと思うんですよね。
そこにいないってことしかできないと思うんですよ。
こう考えてみると結構大変だと思うんだけど、
日本列島のようなところで、
次にどこに地震が来るか直下的なところは避けるにしても、
家担いで逃げるわけにはいけませんからね。
結局そういうことが分かっていれば、
分かっているのをネタにお金を稼ぐとかはなしで、
分かっていればサバイブはしやすくなるかもしれないけど、
06:01
本当にしやすくなるかなと最近ちょっと思うんですよね。
そういうこと、つまり一寸先は闇なんだけれども、
長期計画は大切だみたいな話ね。
考えてみたときにですね、
もちろんそれは私は言葉の上滑ってる言葉ってやつだと思うんだけれども、
この一寸先は闇だから、例えば逆に言うとですね、
こういう指摘を受けるんですよね。
だったらタスクシュートとかってする意味ないじゃないですかと、
これはですね、百日チャレンジの方でも指摘を受けたことがあるんですよ。
もうちょっと遠曲にマイルドにでしたけどね。
でも私は、例えば家計簿の方を見るとよく分かると思うんですけど、
一寸先は闇であることに違いはないんですよね。
だからお金を使う計画というのも、
私は立てない方がいいぐらいなんじゃないかと思うんですけど、
だから家計簿を付けるのって無駄じゃないですかっていうのは、
やっぱり二通りの意味があると思うんです。
一つは、確かに無駄なんですよ。
ここが僕は結構ベースとして大事かなと思います。
つまりこれによってですね、家計簿を付けるなりタスクシュートをするなり、
長期計画を立てるということによって、
自分の得るべきゴールが確かに得られるようになるとか、
確実に近道が行けるようになるとか、
あるいは少なくとも自分の一番ひどい問題はこれによってカバーできるだろうと考えるのは、
やめた方がいいと思うんですよね。
そういうことは起こらないと思うんですよ。
このことは何度もいろんな言い方で私は言っているし、
倉園さんのお話とかを聞くと、もっと遥かにそれに近いことが言われているし、
最近ですね、私、遠畑さんが紹介してくれたんで、
もう名前も忘れてたんですけど、
高校時代の倫理に出てきた名前だなと思って、
エフィクテトスっていう人がいるんですね。
イギリシャ人なのかな?
ちょっとよくわからないんですけどね。
ヒエラポリス生まれと書いてありますね。
でもローマに売られたんですね。
ネロの時代、皇帝ネロの時代の人で奴隷なんですよ。
倉園さんがこれは認知療法のベースにある考えだっていうことを指摘されていて、
興味を持って今読んでるんですけど。
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なるほど、そうなんですよね、確かに。
ただ認知療法という、認知療法ですけどよりは、
僕はやっぱりですね、グッドワイブスの形を思い出したんですね。
つまりこのエフィクテトスという人の本の中に語録と容録ってあるんだけど、
容録がつまりレクチャーなんですよ。
哲学ってこの人が言うやつは要するに基本的な考え方なんですね。
フロイトの論文みたいなもんですよ。
倉園さんも本出されているじゃないですか。
その本に相当する側ですよ。
じゃあ語録ってのは何なのかっていうと、
語録っていうのは要するに臨床例なんですよね。
こういうふうにこの時代の哲学とかいうものは語られているケースがあるんだなというのに、
非常にちょっと感銘を受けたというか、感心させられたんですね。
みんなこれやってるんですよ、カウンセラーは。
認知療法とかいうカウンセリングが手法があれば、精神分析という手法があり、
手法についての説明がされているんですね。
例えば自我と無意識にありますみたいなやつね。
欲圧ということを人はしますっていうような考え方を述べておいて、
これが実際に日常生活で問題が起きている人の臨床にどう役立つかを臨床例を見て、
理解を深めてくださいというノリで書いてあるわけですね。
ここでつまづくはずなんですよ。
倉澤さんは必ずしも臨床例をガーッと書くということはまだされてないんだけれども、
多分レクチャーを読んで、なるほどすっきりしたわって思った人が、
いざ自分がそれをやろうとして、
しかも例えば臨床を読んだりすると、
倉澤さんは書いてないからグッドバイブス臨床ってないんだけど、
ケーススタディみたいなものを読むと、
ちょっとですね、多分反転ですかね。
あれ、なんか、この理屈はこういうふうに扱われるんだっていうことに驚かされる可能性が高いと思うんですね。
理論通りに臨床が進むっていうケースは、
やってる人にはそうなのかもしれないけど、
人から見るとそうじゃないんですよ。
この辺の乖離っていうのはフロイトはひどいとされているんですね。
全然言った通りになってないじゃないかっていう感じが、
理解すればするほど直面する問題なんですよ。
で、どうしてかというか、
どうしてもこうしてもないんですけどね。
レクチャーってまず、地で考えられたものじゃないですか。
言葉でね。
だから全知全能なんですよ。
レクチャーの部分だけであれば。
必ず上手くいくようになっているわけです。
それはだってその人が考えた理屈は、
その人は上手くいくと思って一応開示されているわけだから、
当然上手くいくことになっているし、
上手くいかない理由はないわけですよね。
上手くいかなさそうなこういう問題はどうなんですかっていうふうに自問して、
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上手く考えれば上手くいくんですっていう理屈なわけだから、
理屈の部分で書いてあることはですね、
淀みなくというのかな。
きちんとしているわけですね。
しかもこれ自体よりももっと重大な問題として、
読み手はさらにそれを拍車をかけるんですよ。
それに拍車をかける。
ここが大事なんですよ。
キリスト教の聖書だろうと、
エピクテトスのテキストだろうと、
クラゾーのサンブットバイブスだろうと、
これは避けられないんですよ。
読み手はですね、わからんところはスルーするんですよ。
自分がわかって、
しかもその理屈が上手くいくという前提で
読み始める瞬間というものが必ず来て、
相手の言う話をその通りだなと思ったところあたりから
そういうことが起こるんだけど、
その後はですね、
自分に割と都合が悪くなって、
その後はですね、
自分に割と都合よくそれを解釈するんですね。
もともときちんとテキスト化されているものを
さらに自分の都合に合わせて解釈するから、
綺麗にいくに決まっているんですよ。
これがどういう状態になるとつまずくんだろうということを
想定するのはそもそも無理なんですね。
読んでいるときは。
実際やろうとしてみないと、
なんでどういうところで自分がつまずくのか。
例えばこう、
これは非常に単純化していった場合ですけど、
クラノンさんが攻撃を手放しましょうと。
なるほど、その通りだと思って、
そもそも自分、僕みたいな人間はね、
人を攻撃するとやられるから、
怖いし苦手だからな、
攻撃を手放そうと思うじゃないですか。
そしてこういうふうに考えれば手放せるっていう話を聞くと、
もともと手放したいわけだから、
非常にスムーズにいくわけですよね。
そうだ、攻撃はもう二度としないで
生きていけそうな気がするんだけど、
本読み終わって5秒ぐらいすると
人を攻撃してたりするわけですよ。
これはつまり、
なんて言うんですかね、
もともとテキストはうまくいくという
ロジックにのっとって組み立てられてるんだけど、
さらに読み手はそのロジックの中で、
自分にとって都合の悪い部分は、
それこそ抑圧なんだけど、
抑止して読み、
自分にとって都合のいい部分を強調して読むから、
よりスムーズに流れるようになっているんですね。
これが精神分析でよく言う
自己愛的な万能感なんだけれども、
頭で考えるというのは、
こういうことを生み出すんですね。
しょうがないんです。
長期計画というものは、
ここの話に戻るんですよ。
ダスクシュートでやろうと、
何でやろうと、
ここから逃れようがないんですよ。
必ず自分にとって最もスムーズに流れるという、
よっぽど、
この問題に邪魔になるようなことを考えようとすると、
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ある意味、キリがないじゃないですか。
コロナは流行るし、
ワクチンを打つと頭ぼーっとするし、
地震は来るし、
家族の邪魔は入るし、
家族も病気になるかもだし、
お金なくなるかもだし、
一つ一つ全部の可能性を出していったら、
長期計画にならないんですよ。
だから何をするかというと、
何をするかも何もないんですけれども、
それらは起こらないという前提で、
組むはずなんですね。
だからさっきの綺麗なテキストと同じ問題が起こるわけです。
臨床例がないわけだ。
だって未来のことなのに、
臨床例があるはずがないんですよね。
臨床例がないということは、
それが一体どういう問題にぶち当たり、
そこをどういうふうに切り抜けていくのかについての
やり取りというものがないわけですね。
私はこのエクテトスの語録は、
つまり臨床例が書いてあるんだけども、
そこはやっぱり甘いなって感じはするんですね。
この辺が精神分析がやった一番大きな、
やや革命的なところで、
臨床の状態に直面すると、
全然理屈通りにいかないんだけれども、
この理屈通りにいかなくする力というものを
患者さんは持ち込んでくるし、
それによってカウンセラーの方も傷ついてしまって、
患者さんと全く同じ状態になってしまって、
というところを臨床から示すということができた。
というのが大きいんですよね。
散々この辺で言っているところの東英・ドイツ化という言葉で
示されているんだけど、
もうちょっといい言葉があるといいんですけどね。
とにかくそういうことが必ずと言っていいぐらい
起こっちゃうんですよ。
刻何年もやっていれば、
要するに、
その通りに言っていないということを
突きつけられるというか、
その通りにいかないということそれ自体が
直接の課題になるようにっていうのかな。
例えばエピクテトスも言うんですけど、
人を攻撃しないとか、
人を攻めないということを繰り返し書くわけです。
ストア派ですから、
これがストイックという言葉の元になっているらしいんですけど、
すごく違う印象があって、
ストイックってそういうことじゃない感じがするんだけど、
そうじゃないんですよ。
元の意味からするとストイックというのは
ストア派の哲学なんですね。
ストア派の哲学というのは結局、
なんていうのかな、
イリュージョンなんですよ。
問題にしているのは。
心の像って書くんですけどね。
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何かについての心の像っていうものによって
私たちは苦しむものなんですよね。
心の像っていうものによって私たちは苦しむものなんだから、
苦しみというものが外から持ち込まれることは決してないという話なんです。
これもやはりどこかで聞いたような話だろうと思います。
だから人を攻めるというのは全く意味がなく、
次に自分を攻めるというのもほとんど意味がなく、
自分も他人も攻めないようになる、
それまで何度も訓練しろっていう風に言うのがストア派なんですね、これは。
それがストイックだということになるんですよ、結局。
外に何も期待しないっていう話になっていくんで。
それはまあ、それとしてですね。
こういう理屈が頭の中に叩き込まれたとしても、
実践できないじゃないですか。
私たちはすぐ外に期待しちゃいますよね。
例えばちょっとお腹が痛くなると、
お腹が痛くなったと考えるわけですよ。
何か出来事が起こり、
お腹が痛くなったというか、
何かお腹にトラブルを抱えて、
それが痛いという心の像を作り出して、
この痛いという心の像が問題なんだから、
お腹のトラブルそのものに対して、
せめても無駄だとかは考えないわけですよね。
そういう話っていうのが、
物事をですね、
理屈通りには進ませないという、
何て言うんですかね。
物事を理屈通りに進ませないというのが、
そこで一番、
理屈を作り出した元になっているというか、
そういうことなんですよね。
理屈が後なんですよ本当はつまり。
理屈を僕らは先に読むから、
その理屈によって、
この理屈に従って進んでいけば進めると思うんですけれども、
それしか順序としてないですからね。
誰かがテキストを書いた場合は。
だけど実際にはその理屈は、
何らかの問題にトラブルにぶち当たった
奴隷なりがですね、
どうしてこの問題に自分は当たるんだろうと
後で考えつくものじゃないですか。
だからなんですよ多分。
だから、
順番が逆になるんですよ。
もともとフロイドが思った通りに行かなくて当然なんですよね。
思った通りに行っていなかったことについて、
書いていて、
こうすればうまくいくんじゃないかとか、
こう考えればうまくいくんじゃないかというテキストを
提示するわけだから。
私たちのタスク集とも同じで、
そもそも最初は、
ヨハシさんなり誰かなりが、
時間というものがうまく使えないなというところから始まって、
21:01
こうしてみたらうまくいくんじゃないだろうかという理屈を
考案してそれを提示するわけですが、
考案して提示したときは一応うまくいくことになっているので、
それを読むんですよね。
読んだ人はこうすればうまくいくだろうと思って、
当然そういうふうにはそもそもできない。
で、話が混乱してくるような感じがするんですよ。
でもこれはもともとの順番からすれば、
当たり前の話なんですね。
で、
東映ドイツカみたいなことも起こるんだけれども、
例えば、
この辺が頭がボーッとしているんですよね。
これが多分、僕の今日のこれを
録音させる意欲を
くじいているわけだけれども、
そこを無理やり録音しているんですけどね。
この録音する意欲をくじくというのも、
事前には予測できないわけですよ。
いや、コロナを打つんだから予測できるだろうと思われるかもしれないけど、
コロナを打って、コロナのワクチン打って
起こる現象は
副反応が起きるであって、
この意欲だけをすっぽりくじくようなことが起きる
というほど細かく予測はできないわけです。
だから、このような予測を
僕はして生きていないんですよ。
タスクシュートを使おうと長期計画立てようと
このような予測ができるようになるわけではないので、
このような予測をせずに
この収録はしているんですよ。
これはタスク完了した瞬間に
なくなる問題のはずがないんですね。
予測できないままなんですから。
予測を支援するツールではないですからね。
このワクチンの接種だって4回目で
4回とも全然違うし、
特にこの4回目は違う感じがするんですよね。
どういうわけか分からないけど。
出る人もいれば出ない人もいるし、
私全然出てないんで今回。
むしろタイムが少し下がったんですよね。
食欲はあるんですよ。
1回目はなくなりましたけどね。
こういうことが予測できるかというと
できないじゃないですか。
そしてワクチンはもうしばらく何度か打つんですよ。
5回も6回も。
打つ日に関しては一切仕事をしないといったことは
ないんですよ。
この収録をするのは賢明じゃないかもしれないし、
賢明かもしれませんが、とりあえずこれはこのまま出します。
なぜ出すかというと、
これは予測できないんだよということを言うためなんですよ。
だったら出さないほうがよかったんじゃないかという
意見の人もいるでしょうけど、そうじゃない人もいるわけじゃないですか。
どっちが正解かというのは、
ここに我々はこだわりすぎるんですよね。
24:00
どっちが正解かと、
いろいろありますよね。
結局出ないんですよ、それは。
だってこれをやらなかったらどうなるかというのをやってしまったら、
もう結論を出せませんから。
ABテストっていうやつがありますけれども、
私は明日は出しませんからね。
健康になってから明日出したほうがいいものを取れたんじゃないかといえば、
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないじゃないですか。
これ結局わからないですよね。
明日になったらこのエピクテトスの話はしたくなくなるかもしれませんからね。
それもわからないじゃないですか。
つくづく西洋がうまってすごいと思うんですよ。
西洋って前も言いましたけど、あの言葉以外僕ら何も知らないじゃないですか。
西洋も知らないじゃないですか。
人生万事西洋がうまってことだけを
あの人の名前知ってるぐらい、
この警告を僕らは相当ありがたがってるにもかかわらず、
相当無視しようとしてるんですよ。
何としても未来を予測してやろうという
意志満々なんですよね。
でもできないから西洋は
たったこの言葉だけで僕らの記憶に刻み込まれることになってるんですよ。
本当にいたかどうかも疑わしいよね。
いたのかもしれないけどね。
そういうこのお話があるのはつまり、
私たちはナルシシスティックに知的なとき万能なんですよ。
この通りに行くはずだと思ってしまいがちなんだけど、
これがたぶんいくつか人生をつまずかせるものの中でも
なかなか主要な罠の一つなんだなと
最近は本当に思いますね。
タスクシュートのこの未来について書かれているところほど
一番なくてもまあいいんですよ。
僕は書いておくんですけどね。
今やっていることについて一言あるのが一番重要で、
その後は勝手に残っていくわけで、
ここ1、2、3なんですよ。
先について書いてあることが一番どうでもいいというよりは
当てにならないということですね。
これをしかし僕らは当てにするのがいけないんですね。
すっごく当てにする。
これを当てにするというのがテキスト、レクチャーの部分を一番当てにして
その通りにいかないという話にこだわっちゃうところなんですね。
フロイトは言った通りに当てないとか、
ミニコットも言った通りに当てないとか、
かわいいハヨも言った通りに当てないとか、
そういうところを見つけるのはすごく簡単だってことです。
当然なんですよ。逆なんで順番が。
臨床するのが先なんで、
私たちだって本当はそうなんです。
人生するのが先なんで、
計画立てるのは実は人生をしたからできることのはずですよ。
この順番が逆転しちゃう。
逆転して不思議でもなんでもなく見えるようにだんだんなっていくんですよね。
27:00
この計画通りに生きればいいっていうね。
その生き方ができたことはないにもかかわらず、
その生き方をすれば一番いい生き方に結果としてなるはずだっていうね。
ほとんど盗作的な発想に僕らは多分陥る。
その時に僕らの味方になっている一番おかしなものが
ナルシシスティックで知的な万能感なんですよね。
全知全能な感じなんです。
十分に考えれば、十分に考えれば、検討して計画すれば、
この通りにすることは可能なはずだというそういう考え方ですね。
たまにこれを実際の場には使わないということで、
例えばグッドワイオスについて徹底的に読みまくって、
それを実人生とか実際の生活には一切活用しないということで、
この万能感を保持するという手段を用いちゃうというケースも
ないわけじゃないんだと思うんですよね。
これはカウンセリングで現に今占められている考え方なんだけど、
つまり理論だけを徹底的に習熟して、
それをカウンセリングに使わなければ、
つまりカウンセリングをしなければ、
あるいは受けなければ万能じゃないですか。
そういう考え方というのが、そういうことって起こってしまうということですね。
だから計画表をばっちり書いて、
一切その後それについて実行しようとしたりしなければ、
計画は完璧な形のまま保持できるんですよ。
なんとなくそういう喜びっていうのが、
僕らの中にはなぜかある時があるんだろうと思う。
だから実践したくなくなるんですよ。
どれほど一寸先が闇だというふうに、
僕らは知っていたとしても、
一寸先は闇だという知識は全然使わずに生きていこうとしちゃうんです。
一寸先が本当に闇だったら、
多分ですけれども、
よっぽど大雑把な計画以外は立てる意欲を失うと思うんですよね。
それがちょうど今日の私のこの収録する意欲がスポッと抜けたみたいに、
こういうふうに自然と消えてしまうはずの欲求っていうのが、
条件次第では起こり得るはずだと思う。
それが意欲のことだから、読めないわけですよ、全く読めない。
それでもできるわけですね、こうやってやってみると。