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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
もうこれですね、撮って出しをするとほぼ夜に出すのに、しかもそれをなんつうんですかね、
おはようございますと言っちゃいましたけれども、グッドモーニングと言っちゃいましたけれども、
11月7日の今がもうすぐ夜の9時ですからね。
まあ、いろいろありまして、二度寝なども盛大にしまして、
この時間になるまでこれを撮る時間がなかったということですね。
第700回ということで、回はキリがいいですけど、別に記念する何かがあるわけでもないので、
いつも通りやります。
それで、いつも通りCMするならば、11月中の対話がですね、すでに数枠埋まりまして、
残りが多分4か3くらいになっていくと思うので、
今返答されている方はですね、お早めにお願いしたいと思います。
月末の例の真相審議の方もセットで無料でついてきますので、漏れなく。
なので、参加が無料でついてくるということですけどね。
よろしければそちらの方もご参加いただければ。
そっち単独ですと3000円といったことになっています。
働く人の真相審議第4回ですね。
そろそろその概略みたいな話から移って、
もう、なんていうのかな、今北山治さんの本を読んでるんだけど、
あの辺の話みたいなのを中心にお伝えできたらなというふうに思っております。
あの、私こういう話をシャンザンしてるんで、
何か精神分析でもやりたいのかと思われるかもしれませんが、
私ですね、これ実はリテイク何回かしてるんだけど、
その中では喋っている通りで、臨床心理というものがよほど好きなんですね。
よほど好きなんですよ、多分。
思うに、なぜ臨床心理の世界に行かずに、
結局はただ心理学の大学を出ただけで終わって、
なんだかあやふやな立場であやふやなことをやっているのかというのがだんだんわかってきて、
それは非常にこういろんなですね、人々のというのかな、
私を取り巻く環境その他諸々の流れの中で、
結末として今はそういうふうになっているんだけど、
多分好きという意味では臨床心理大好き人間なんだなというのがだんだんわかってきたんですね。
最近になって。
いろんなことを思い出しているうちに、
全てがですね、そっち方向を向いているんですよ。
私の性格も非常にありますね。
育った環境ももちろんあります。
ただ例えば父親が坊さんだったからといって、
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説教ばっかりしていたわけじゃないんですよ。
坊さんというのは今の時代はやっぱりこう、
セレモニーというものがすごくまとわりついてくるといいますか、
それがメインみたいなところがあって、
生きるってどんなことでもそうなんだなと最近思うんですけれども、
仕事として与えられてそこがビジネスになっていく部分と、
その仕事のイメージされている部分と、
その人がその仕事で主にやっていると思う部分は不一致なんだなって感じが、
父なんか見ているとします。
坊主なんてのはですね、
その3つがいかにも一致してそうに外からは見えると思うんだけど、
内側では決してそうではないんですよね。
なぜそれで指定権が立つのかと、
人がインチキだとか本質だとか言っているものと、
本人が仕事をこれで自分は仕事をしているなと思っても、
多分一致しないんですよね。
これがどうしても起こらない仕事ってないんじゃないかなと、
こんな話をだらだらとしゃべっていても、
何を言わんとしているのかがよくわからないかもしれないんですけど、
そういうことってあるよねっていう話ですね。
そして私もそうで、
私の場合そのばらけ方がひどいんだけれども、
ひどかろうとこじんまりとまとまっていくと、
結局違いはあまりないんじゃないかなって、
最近は思いますね。
私はじゃあ何がしたいのかなということを、
昨日、第6期の書き上げ塾の卒業式で、
倉園さんがなかなか盛大な話をしてくださったので、
その話についてはですね、
倉園さんの方のポッドキャストで語られていますから、
そちらで聞いていただければと思います。
私なんかはああいう話をやっぱり伺っていてもですね、
頭がどうしても臨床心理の方に流れていく。
これはもう私がある程度、
自分の人格を離れない限りは、
必然的みたいな感じで起こっていくんですよ。
私なんかからすると、それが当然なんで、
他の人もそういうふうに聞いているとつい思っちゃうんだけど、
他の人の感想を伺っていると、
決してそうではないんですよね。
当たり前なんですけどね、これも。
決して何でもかんでも、臨床っぽいものを臨床のようにして聞くとは限らないわけじゃないですか。
私は臨床っぽくないものまで無理やり臨床にして聞いちゃうっていう、
そういう強烈なカラーバス効果みたいなものが発生してしまうんですよ。
それは避けられないんだなって、
最近自分では思うようになりました。
考えてみると、
私一番生まれて初めてやったロールプレイゲームってやつね、
ザナドゥっていう日本ファルコムから出ている
ドラゴンスレイヤーシリーズの2番目に出てきたゲームなんですね。
唐突に何の話をするのかと思われるかもしれませんが、
私あのゲーム臨床心理的にやったんですよ。
今思うとそうなんですよね。
ものすごいのめり込んだのは、
最後エンディングを見て泣いてたんですよ。
すっごく臨床的にあのゲームをやったんですよね。
後からだとわかるんですよ、そういうことが。
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やってる当時は全然わからなかったですけどね、もちろん。
でも全ての人が、子供から大人までね、
ゲームを臨床的にやるわけじゃないじゃないですか。
人によってそういうことをやる極めて既得なやつもいるというのがせいぜいですよね。
だから私は頭がそういう方向に向きがちなんだなっていうことなんですよ。
最近思い出すのがいろいろあるんですけど、
例えば中学の頃に不思議とハマった本にですね、
大観航空機撃墜事件、違うな。
大観航空機、何にしてもテロがあったんですよね。
キムヒョンヒっていう有名な、当時非常に有名になった
八谷真由美と八谷真一という二本目を名乗っていた
北朝鮮の工作員によって大観航空機が爆破されるという事件が確かあったと思うんですけど、
その本を読んでたんですよ。
その本を私は非常に臨床的に読んだんですね。
麻生田中学にいたんですけど、
もう授業についていけなかったから私ではですね、
ずっとその本を内職的に読んでて、
最後見つかって怒られて取り上げられたんで、
手元にないんですけどね。
文章かなんかで出てる本だったような記憶がありますね。
そのキムヒョンヒの事件というか告白記みたいなものをですね、
やっぱり非常に僕はそれを今思えばなんですけど印象的に読んでて、
決してそのノンフィクションのドキュメンタリーをそのまんまの形で受け止められない人間なんだなっていうのも分かるんですよね。
今ではね。
そういうもう本当に悪い意味幼い頃から、
多分あの頃13死だったと思うんですけど、
あの事件も私なんかね妙に意識に残ってるんですよね。
ソ連による旧ソ連、大観航空機撃墜事件というのもあって、
なんかねあの辺の話に僕は囚われがちだったんですよね。
共産権による独特の急に発生する事件ですね。
それは柳田君によって方が書いた撃墜みたいな本だったかな、
も読んだんですよね。
それは決して臨床的に読んだってわけじゃないんですよ。
そういう内容として読めなかったんですよね。
でも本は読んだんですね。
で、その時には柳田君にはじゃなかったかもしれないですね。
すみません。
全く内容を覚えてないんですよ。
つまり僕は本を臨床的に読まない時はあんまり覚えてないというね、
そういう脳の動きが起こっちゃうんだなっていうところがあるわけですね。
で、今日お話ししたいと思っているのが、
臨床的に読む人の癖として、
北山治っていう人なんですけど、
帰ってきた酔っ払いとかいう、
僕はあんまり知らない歌なんですけど、
戦争を知らない子供たちとか、
まあそういうフォークソングですごい有名な人で、
私は人間が2人いると思ってたんですよね。
北山治という同性同盟の有名な精神分析の人と、
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フォークソングライターの人と2人いると思ってたんだけど、
実は同一の人だったと。
これ自体が僕の中で、
すごく精神分析的な部分があるなと思うんですけど、
なぜこういうことに僕がやたら惹かれるかというとですね、
一つはやっぱり、
非適応的なんですよ、私は。
明らかにそうじゃないですか。
いくら氷河期世代とはいえですね、
全く就職活動をせずに大学を卒業しちゃうという、
倉園恵三さんみたいな方と比べた場合は、
どっちが適応的、非適応的ってのは分かりにくいなと思うんだけど、
例えば大橋さんみたいな人と比較すればね、
大橋哲夫さんみたいな方と比べれば、
明らかに私は社会適応能力が低いわけですよ。
学歴的に言えば、そんなに遜色、
まあ絶対彼の方が上だけど、遜色ないにもかかわらず、
私は就職活動そのものをしてもいないんですよ。
だから正社員になれるというタイプの人間ではないと思うんですよね。
周りの人全員してるのにですよ。
友達なんて、あの頃僕はそこそこ友達いて、
20人くらいいたの。
友達の一人残らず就職活動していた時代に、
何にもしなかったっていうのが私なんですよね。
大学に至っては意図的に浪人してるんですよ。
本当、なんで意図的かというと、
実は一校も現役自体は受けてないんですね。
ちょっと親に言えないんですよ、いまだにちょっとね。
申し訳ないんですけど、
さすがにいい気分しないだろうなと。
どうせ今更知らなくていいことだと思うしね。
受けてないんですよ、受けたふりしてね。
そのお金全部何かに使い込んでるんですよ。
私はものすごいに適応的じゃないんですよ、実はね。
どこかでそうなったんですね。
すごく反抗的かというと、決してそうではなかったんだけど、
時代は良かったと思いますよね。
1970年代生まれで本当に良かったと思います。
60年代生まれだったら私、
何してたかわかったもんじゃないなっていうのが
ちょっとあるんですよね。
70年代生まれだと、世の中がやっぱり
村上春樹的というか、
コミットしたくないっていう人はいっぱいいたんでね。
そこに潜り込んでコミットしたくないよっていう顔をしてれば、
恩犬にコミットしない人で済ませられたんですよね。
これはですね、私ね、しかも、
何ら反省したいとは思わないんですよ、当時についても。
ああいうことをやって申し訳なかったという気持ちが
1ミリも空いてないんですよね。
だからつまり、
非適応であることが自分の性格の中核にあっちゃって、
それが何かこうね、
無駄だったとか、残念だったとか、
反省するという文脈に乗ってこないんですよね。
これは人生に無駄がないとか、そういう文脈にも乗ってこないんですよね。
あれはあれで意味があったとか、そういうことを言うのは簡単なんだけど、
そうも思わないんですよね。
つまり、何にもしなかったんだけど、
あれは自分自身の生来の本性の現れだから、
どうしようもなかったって感じしかしないんですよ。
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よしよしとか、恵まれてるとかそうでないとかいう話に乗せにくいんですよね。
そういう人間ってこの世の中にはいるじゃないですか。
いるよね。
そういう人間って、
この世の中にいるじゃないですか。
いるよねと。
それは自分だったんだよなという感じなんですね。
他の感覚が湧かないんですよ。
だから、あれも役に立ったとか、
後から考えれば有益だったとかいうのは言えるんだけど、
そう言われると居心地が悪くなってくるんですよね。
役に立つか立たないかは関係ないなって感じがしちゃうんですよ。
で、もう一つが、
無益だったとか無意だったと言われても、
それもしっくりこないんですよ。
なんか、そのようなことはどうでもいいようなことに聞こえるんですよね。
それぐらい僕は、
僕の中には社会適応できない部分っていうのが強烈にあってですね、
ゆえにっていうわけじゃないんだけれども、
タスクシュートできませんとか、
会社にいてもなんかこう違うことやっちゃうんですよ、聞いても。
いや、当然じゃないかって感じがどっかでしてるんですよね。
そこが僕はすごくタスクシュートをやるにあたって、
すごくタスクシュートをやる人間としてはですね、
独特のポジションだなって思うし、
だけれどもやっぱり大橋哲夫さんのように、
制作者という人を除けばですね、
私はタスクシュートにはまってると言うと、
多分トップクラスにいると思うので、
つまりあのツールと社会適応は整合しなくていいんだっていう風に思えるんですよ。
非常に社会に適応してやるべきことをきちっとやるためにあれを使うというのはもちろんだし、
7つの習慣を実践するために使うとか、
いわゆる自己啓発的な発想というかね、
目標のためにあれを使うというのもありだと思うんだけど、
同時に私のように何もなくてもタスクシュートだけは使うっていうのもありなんですよ。
あのツールはそこが面白いと私は思うところがあるわけです。
で、そこがまた北山雄三さんのような独特の精神分析家なんだけど、
精神分析家っていうのはそもそも今やアウトローみたいな風に扱われているところもあるわけですからね、
ある種の世界では。
そうすると非常にやっぱり変なシンパシーみたいなのは感じるんですよね。
ずっと音楽でやってきて、レコード大賞まで取ってるのにどういうことかは私にはわかんないですけどね、
50にもなっていきなり全然違う方向に向かっていっちゃうわけですよ、精神分析というね。
だから私みたいな全くそれを知らない人間は北山雄三っていう同性同盟の人が2人いるんだって思っちゃうほど、
社会適応がある意味良くないところがあるわけですよね。
すごいわかる気がするんですよね。
フラフラフラフラしてる人、危ないなって感じがするんですよ。
一歩間違うとこういう人はそれまでどんなことをやっていても不意に蒸発したり不意にいなくなったりやりかねないと。
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やらずに済ませる方法はどこにあるんだろうと思ったときに、北山さんのような本って私にはものすごくいい感じなんですよね。
やらずに済ませることを、つまりそれってどうしても自分の内面にあると思うんですよね。
外面にあるように思っちゃうんですよ、よく言われてると。
社会のそういう歪みがあるからこういうことになるんだと。
それはそれで本当なんですよ。
北山さんもそう書くしね。
要求水準が高すぎると。
人間ってのは生き物、動物なんだから。
人間のフリをして生きて、この人らしい書き方ですよね。
つまり劇的ってわけですよ。
人間のフリをしている。
人間の仮面をつけた動物なのに、そうやっていつまでもいつまでも仮面つけてるくらい嫌になっちゃって、どっか消えていなくなっちゃったり、
それまでせっかくうまくいっていた音楽の世界を飛び出していきなりわけわかんないことを始めたりするのは、
全部そういう無理に無理を重ねたせいなのかっていうのもわかるんだけど、
でも結局それは内面を裏切れないっていう話でもあるじゃないですか。
だからこの二つがどっちかだけになることはないんですよね。
世の中を動物である人間に合わせて作るっていうのは難しいと思うんですよね。
今の段階では全然。
これを彼はですね、うさぎと亀に例えたりしているわけです。
鶴の恩返しもその通りですよね。
鶴が人間に化けてやってくるわけじゃないですか。
そこに無理があるわけですよ。
だから結局自分の羽引っこ抜いたりしてボロボロになり、最後は鶴であることがバレて、
そうなるともう人間の不利か失敗したから去っていかなければならないと。
こういう不適応が人を苦しめているんだというふうに解釈するわけですよね。
この解釈癖っていうのが臨床心理的なんだと私は思うんですよ。
結局どうすればよかったんだろう、とつい考えちゃう。
グッドファイブス流にはどうすればよかったんだろうとか、つい考えてしまう。
それをグッドファイブスが発生するはずが遥か以前の物語なんだから、
それについてそう考えることはあんまり意味ないかもしれないんだけど、
でもやめられない。
いちいち物語を読んでも、
正直なところはこのゲームは正直に言うと、
そう考えることはあんまり意味ないかもしれないんだけど、でもやめられないっていうね、いちいち物語を読んでも、それを解釈していきたくなって仕方がないというところが、私にも多分にあるわけですね。
今、日本の昔話って読んでるんだけど、全部に解釈をつけてっちゃうんですよ。これは病気だなって思うんですよ、自分でも。
キッチョムさんとかね、ああいう話、あるいは狐の嫁入りみたいな話、蛇女房みたいな話、全部にこういう解釈がつけられる。つけられるんですよ、つけようと思えば。
つけようと思わなくたっていいわけだから、そこを無理やりつけようと思っちゃうところがですね、やっぱりそういうシンパシーなんですよね。
そしてしかも、この種の話ってアセスメントできないじゃないですか。その解釈正しいのか間違ってるのかをどうやって評価するのって言われてもどうにもならないですよね。
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この解釈を読むことで、非適応的な人にこの比喩を語ってみるとうまくいきましたっていう治療法が仮にあったとして、めちゃくちゃ怪しいですよね、ある意味では。
あなたはゆずる的にって言われて納得する人っているわけですよ、きっと。いたとして、それでじゃあこのカウンセリングはうまくいきました。
これを世のカウンセリングとして、正当なカウンセリングとして、アセスメントとかエビデンスとかありますかって言われたとき、非常に難しい立場に立たされるだろうと。
それに比べればですね、抗生鎮薬を2週間立て続けに飲んだら鬱から回復していきましたという、それを数値的に評価するっていう方がはるかに、先日、戸畑海斗さんがそれを非常に政治的に役に立つんだっていう言い方をしてたんですけども、その通りだと思うんですよね。
さっきの鶴の恩返しの話ではダメなわけですよ、政治的には。ところが、これ戸畑さんだから知ってることなんだなと思ったんだけど、ところが、鶴の恩返しの方が日本の政治家に受けたという時代があったわけですね。
ここが河合俳夫さんのすごかったところだし、河合俳夫さんの方法論が一世を風靡した時代の出来事だったんですね。私これは知らなかったんですよ。
青内慶雄さんという昔総理大臣やってた人が河合俳夫を大好きだったんだそうです。なるほど文化長長官になるわけだなと。
それで、今ちょっと呼ばれたんで、あと5分以内にはこの話を切り上げようと思っているんですけど、そういう感じで河合俳夫さんが政治家に好かれていたみたいなところがあって、
ということで政治的な流れとして、本来逆になりそうなところが臨床心理の方、つまり、もやっとする方ですよ。
言ってみれば大変自己啓発的な方が日本の主流に一旦なりかけて、それに対して今逆流が起こっているというか、もうとっくに起こったんでしょうね。
公認心理師という新しいのができたり、いろいろしているという流れがあって、多分こっちはアセスメントしやすいという話なんだろうと、
これは素人的にいろんな話を聞いているうちに感じたことで、それはどうでもある意味私にとっては良くて、
なぜなら多分この鶴野恩返し的な話ってなくなっていかないでしょうからね。
私は表向きやっていることはすごくアセスメントしやすいわけですよ。
やろうと思えばね、スクシュートみたいなもので記録をとって、自分の生活がどのように質的にレベルがアップしていったかを数値的に測るといったことは、
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ほら、一口に言えたじゃないですか。
サラッとやろうと思えば、サラッとは僕にはできないけど、ゴリゴリやっていくことは十分可能なんですよ。
でもこれにはどうしても私は、鶴野さんが強調されていた時があったんだけど、私も全くそれに同意するんですけど、
これをやるということはね、自分の生活の質に上下がつくんですよ。
私はこれがですね、なかなか直感的にも言語説明的にも嫌だったんですよ。
なぜこれにみんなが耐えられるのかが私には分からないんですよ。
明日100点で今日が80点ならばですね、もう絶対80点が人生の中のどっかに来ちゃうんですよね。
しかも1本落ちたら0点の日が来るんですよ。
なぜ僕はこれに人が割とね、こういう言い回しに容易く同意できるのか。
しかも私より頭の回る人がですね、いっぱいいるんですよ、そんな人は。
汗だに行った時は私が勉強についていけなかったようにですね。
そういう人からして、これに納得できるっていうのは私にはどうも理解に苦しむんですよね。
これが嫌じゃないっていうのは分からないんですよ。
倉野さんはさらにこれを人との評価という部分に説明として加えられていて、
それも非常に嫌じゃないですか。
優勢になっちゃうから。
だけど私はこれを他人に適応せずとも、自分の人生だけに適応したとしてもですね、
到底耐えられないなって感じがするんですよね。
100点の日なんてだいたい来ないと思うんですよ、これをやり始めたら。
そして、100点の日が来ないのがいいとしてもですね、
未来がどんどん良くなるとしてもですね、
今日が満点じゃないというのが私には耐えられないんですよね。
受け入れられないんですよ、そういう発想は。
どうしても今日が満点じゃないという発想のどこかに、
人が見てそういうであろうっていうのがあるはずだと思うんですよ。
自分しか生きてないのに100点も0点もないと思うんですよね。
やっぱりこれは社会の中で生きているからこそ、
他人から見て客観的な価値が高くないっていう意味だと思わざるを得なくてですね、
それでいいのかなって思うんですよね、本当に。
人が自分の人生の価値を数値的に評価するなどということが
許せるというのが僕にはちょっと理解できないんですよね。
グッドバイブスに言うと何でも許すのかもしれないけど、
私にはこれは許せないんですよ、はっきり言って。
全く認められないんですね。
どれほど立派な人に言われたとしても、
私はそれを許容する気には1ミリもならないし、
全くそれを情報する気にも受け入れる気にも寛容になる気にもなれないんですよね。
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そういうところも諸々ありまして、
今日はこれでお話をおしまいにしますけれども、
非常に臨床的にもやっとする話の方が本質的に好きだと。
そこにはやっぱり私は容易くは社会適応的にはなれないというところがありまして、
まして今のアセスメント重視的な世界には話はわかりますよ。
それが大事なのもわかるし、
いろいろ政治的に大事だって話を問わずにされれば、
なるほどそうだなとは思えるんだけど、
そして私は認知コード療法の話も好きなんですけれども、
でもですね、
なんていうのかな、
適応できない部分というものが自分の本性に近いという点では、
適応なんでね、これは結局ね。
つまり自分の動物的な部分ですよ。
だって自分は動物ですからね。
人間のフリはしますけれども、
ものには言ってみれば限度があるでしょうっていうことですね。
だからタスクシュートも使ってフリはする。
仮面もつけるけれども、
仮面は仮面ですからね。
仮面が自分の素顔ですっていうのはおかしいんじゃないかと。
そういうことですよね、この話は。
うさぎの仮面の話が面白いのは、
後日もう一回やると思うんですけれども、
うさぎって寝るじゃないですか。
あそこポイントなんですよ。
タスクシュートでもね、いつも思うんですよ。
タスクシュートは最後に睡眠とともに終わるんですよ。
こうして仮面に抜かれて朝は仮面から始まるんですよ。
ここがあの話のポイントだっていう北山さんの話に
私は非常に感銘を受けたんですね。
昔全く同じことを僕は考えて本にまで書いたんですよ。
開閉すしごと術っていう。
この通りのことは書いてないですよ。
そんなこと書けないですからね、商用本で。
いわくつきで、いろんな意味でいわくつきの本で、
あの本の印税をいただいてないんですけれどもね。
この話を下手にするとなんか名誉毀損になるって言うんですけど、
多分この会社もうないんじゃないかと思うんで、
まあいいんじゃないかなと思っておりますけれどもね。
まあいろんなことが人生生きているとあるっていうことですね。