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2023-10-31 45:30

ノンジャンルでいきたい【GMV 867】

かたがない人生しか送れそうもない。

サマリー

テーマを固める必要はありませんし、一定不変にする理由もありません。何にでも話題を取り上げても構いません。YouTubeを通じたコンテンツ制作やリクルートスーツの着用について考えます。エッグハルトトールの喋り方やスタイルについて考察し、彼が聴衆に与える影響について語られています。話し方の型やテーマとの関連性にも言及されています。灰色の男たちが時間をどんどん盗んでいくという話になっており、エンデの時代からそうです。私が生まれたのはちょうど今から50年前の1973年です。

テーマの必要性のなさ
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
10月30日、月曜日、朝8時6分です。
これは、明日の火曜日に配信するかなと。
これがたぶん一つのプランニングするには一つの理想なんでしょうけど、
これまだ僕の感覚の中ではちょっと厳しさがあるので、
月曜の朝は大体厳しいんですけど、
これが続くかどうかはやってみないとわからないなーみたいなところがありますが、
とりあえずちょっとこれでしばらくいけたらいいかなと思ってます。
もうなんか、しゃべるたびにプランを変更してるんですけど、
僕これでもですね、実は非常にタスクシュート的ってわけじゃないかもしれないけど、
自分の中では普通に自分流儀としてうまくいくパターンですよね。
毎日のように計画を変更してるんだけど、
なんとなく落ち着くところに落ち着いている。
これは本当僕のやってるやり方の中でもですね。
のほかでこの話、これなんかですね、どこからも指示されないんじゃないかっていう、
大体こういうふうに考えちゃうんですけどね。
要は毎朝ミッションが変更するミッションを持つみたいな感じなんですよ。
これも、こういう型を作りたくはないんですね。
最近僕、だんだんだんだん仕事をしてきて分かってきたんですけど、
抜き場メソッドがないんですよ。
なんかこう、頻繁に変更をかけていくっていう感じなんですね。
それもほとんど毎日のようになんですよ。
この型の無さっていうのが自分流儀だなっていうのを最近すごい思うようになってきまして、
今日その話をちょっとしたいと思っているんだけれども、
これからブログとか書くかも分からないし、
このホットキャストは続けていくと思うんですけれども、
テーマがないっていうのが僕の一つのテーマ性だなっていう感じをするんです。
なんかテーマはないんだけど型よりはあるんですよ。
例えばこの番組でも最初の頃は、
イヴホワイトとイヴブラックの話を盛んにしてたんですよね。
あれ、いっぱいデタラメが含まれてるんだけど、
あの話の中で私が最終的に掴んだのが結構大事なポイントを掴めた気がするんです。
やっぱりいっぱい喋るって大事だなって思うんですよね。
聞いてる人はデタラメ聞かされてて困るかも分からないんだけど、
喋ってると分かることっていっぱいあるんですよ。きっと。
今になってしてみると、あの人は多分ヒステリーなんですよ。
だからあれが怪異性って言われてるのはなるほどなんですよ。
あれはヒステリーだと捉えると、
なぜあの話がオカルトみたいになって聞こえるかってのがすっごいよく分かるんですよ。
ヒステリーって考えてみるとオカルトだなって思うんですよね。
ヒステリーというものは、お父さんとの病なんですね。
あれ僕、お母さんとの病みたいに思ったのも、
あとあのトラウマの原因とされてるおばあちゃんの、
あれはちょっとかわいそうな話だったら確かに思うんですけど、
おばあちゃんの死体と無理やりキスさせられてお別れ挨拶させられたというのが、
映画なんかでもものすごくそこのシーンがトラウマティックに描かれてるんですけど、
私はあれはなんかちょっと微妙だなって思うんですよね。
引き金の一つにあったかも分かんないんですけど、
ヒステリーで捉えるとやっぱあの人の問題はお父さんだと思うんですね。
お父さんだっていうのは非常にいろんな意味があって、
実のお父さんは全然問題ない人なんですよ。
思うんですね。読んでる限りは。
でも反発はあるんですよね。やっぱりね。
で、そのお父さんという一つの課題があって、
女の子ですし、昔のアメリカですからね。
昔のアメリカって結構保守的な世界なんですね。保守的な世界は。
あれ田舎の話ですし。
で、イブホワイトとイブブラックという分裂していく。
分裂ってのは結局記憶が飛ぶってことですよね。
それはほら別人のようになったりするじゃないですか。
極端に言うとお酒いっぱい飲むと。
こうやって乖離って起きるんだけど、
ここにアルコールというはっきりした理由がある限りは別に問題はないわけですよ。
何の理由もないのに乖離が起こるから。理由はあるんですけど本当は。
理由もないのに乖離が。別に酒も飲んでないのにいきなり別人のようになったら、
あの人ちょっとどうかなって感じがしちゃいます。
これはオカルトっぽく見えるんですよね。旗から。
話題ホワイトとブラックっていうね。
あれは全然おかしな話じゃなくて、
ブラックが当時保守的な世界ではすごくやんちゃでイケイケな女の子みたいに見えるから、
ブラックだわみたいに思うかもしれないけど、あれ普通の人ですよ。
はっきり言って。ちょっとはっちゃけてるかなみたいな。
この言葉は古いですかね。
ちょっとやんちゃかなって感じがする普通の女の子なんですね。
ホワイトがおかしいんですよ。
イブ・ホワイトさんはすごく自分を抑え込もうと頑張ってる。
そこにご両親との関係とか非常に独特の性的嫌悪感っていうのがあるんだけれども、
その性的嫌悪感っていうのは結局何を意味するかっていうと、
お父さんが好きで好きでしょうがないっていうか、
ちょっとこれも違うんですけどね。
この世には理想のお父さんがいるんだと。
それが私のお父さんなんだと。
無理やり頑張って思い込もうとすると、
ああいう難しい問題が起きることもあるって感じの話だと思います。
ところがこれもフロイトの理論に一律を置くせば、
そう難しい話じゃないと思うんですけど、
アメリカ精神分析の割と独特の文脈に置かれてみたりして、
あるいはアメリカの精神障害の扱い方の、
またアメリカならではのあるんですよね。
ちょっとやっぱりヨーロッパとアメリカは違って、
アメリカならではのものがあって、
そういう文脈で見ていくと、
全然特別、すごい劇的にそれが現れてはいる感じですが、
そう特別な話じゃないんですよね。
この番組でも偏りの一つとして、
平気で嘘をつく人たちの話も何度もしましたけど、
あれも最後ちょっとオカルトっぽくなるんですよね。
自分は車に行って人を跳ねたという脅迫観念に囚われる男の話ですけどね。
冒頭は。
その人最後は最愛の息子を悪魔の生贄に差し出すことで、
ヒステリーと超常現象
自分の脅迫症を抑えるというですね。
非常に外から見ると問題がないけど、
内面でやってることは非常にインモラルってですかね。
非常に問題のあることをやっていた、
そういう感じの話になって、
あれは脅迫神経症の話ですけれども、
ここにもやっぱりこの悪魔との取引っていうオカルトが、
こうすっと現れてきますよね。
この超常現象に無意識を例えてなぞらえてしまうというのは、
僕らしょっちゅうやるんですよね。
無意識って言っておけば済む話なんだけど、
そこにこの世のならぬ力っていうものをですね、
与えてしまうんですね。
最近ちょっとまだ中身読んでないんですけど、
入手した本にニュースはいつも私の話ばかりだし、
空には無気味な青い星が浮かんでるっていう、
このタイトル読めば、
分かる人には統合主張症の話ねって思うんですけれども、
これ普通の人からすれば、
やっぱりオカルトの話になってるじゃないですか。
空には無気味な話、ニュースは私の話ばっかりって、
お前有名人なのかっていうと普通の人なわけですよ。
でも統合主張症の人にはそういうふうに聞こえるし、
そういうふうに見えるわけですね。
光栄が盛んだから。
光栄が盛んだからっていうのも、
この番組ではお分かりいただけるかと思って、
背景飛ばしてますけれども、
要するに自分に関係があるもの、
特に自分が好きだ嫌いだっていうものを、
何にでもこう見てしまうっていうことが、
光栄なんですね。
ほら、一目惚れってあるじゃないですか。
あれも考えるによってはちょっとオカルトっぽいじゃないですか。
だいたい一目惚れって言ってる時っていうのは、
母親なり妹なり、
なんかすっごい自分が好きだと思ってる人を、
他の女性の上に乗っけるわけですね。
これが光栄ですよね。
平たく言えば。
考えてみると我々は、
ある種の虫が嫌いだ、
ある種の魚が嫌いだ、
ある種の魚介類を見ると不気味だと思う。
全部光栄ですよね。
もともとそれらの造形が不気味であるとか、
美しいとか客観的に決まってるわけではないので、
光栄をしていくわけですよね。
この光栄というのはすぐオカルトを作り出しますよね。
一番有名なやつでも、
ススキノのカレーお花に幽霊を見る。
幽霊を見る。
あれは完全に光栄ですね。
しかもだいたいその幽霊というのは、
死者を踏むらう時の姿をそこに乗っけてるわけですよね。
あのエボシみたいなのとくっつけたり、
白小族ってあれは、
完全にお葬式の時の格好で、
うちの寺の宗派ではそうじゃないんだけど、
日本で一番流行っている浄土主家かな、
の小族側のまんまで、
それをただカレーお花の上に見るんですよ、我々はね。
オカルトですよね、完全にね。
だからオカルトって投影なんですけれども、
あるいは乖離だったりするわけですよね。
とにかくちょっとこうパッと見、
タスクシュートと先送り
我々の常識では説明がつかないことが起きてる時は、
その時はだいたい無意識が作動してるんですけれども、
それらを我々は超常現象だというふうに考える。
ヒステリーというのは非常に超常現象的に見えるわけですね。
意味のわからんことを口走るとか、
聞いたことのない言葉を使い始めるとか、
体が全く硬直して動かなくなるとか、
全て非常に超常現象的な話によくあるじゃないですか。
人をローのように固めるみたいな、
マジックみたいな話ですけどね。
体がピタッと動かなくなってしまうっていうようなことが起きる。
あるいはホワイトとブラックみたいに別人になってしまうとか、
全部そういう話になってるわけです。
こういうのをですね、僕は、
以降というわけじゃないんですけれども、
今までもずっとそうなんだけれども、
ノンテーマで喋っていくっていうのは、
当然自分らしいなというふうに思ったので、
しばらくはそういうふうにしていこうかなと。
前振りの割に長いんですけれども、
だからいきなりタスクシフトの話になってみたり、
いきなりイブホワイトとイブブラックの話になってみたり、
いきなりドコンジョーガエルの娘の話が続いてみたりするわけですけど、
つまりそれは僕の中でホットなものが、
ただここで話題として取り上げているという感じですね。
テーマというものがですね、一定不変にならないんですよね。
で、よく考えてみると、
私はここで一定不変にする理由がないんですよ。
一昔前にブログの塾みたいなやつで、
僕もやってた時代あるんですけれども、
テーマを決めようっていうのがあったわけですよ。
それはテーマを決めることによって、
読者がついてくるからって話があったんですけど、
今はもうそういう時代ではないと思うんです。
当時はそうだったかもしれないけど、
今は別にテーマ決めただけでは、
人なんか増えやしないんですよ。
で、私は別にここでフォロワー数を2倍3倍にしていくぞという意識は、
持ってないんで、
し、それはテーマを一定に固めることだけでは、
実現しないなんていうのはよく分かってきたのでですね、
これは誰がやってもって意味じゃないですからね。
テーマを固めて人を増やすことに邁進されていて、
しかもそのノウハウもだいたい分かっているという方は、
それをしていけばいいわけですよ。
僕がただテーマをここで精神分析とかにしただけでは、
絶対人は2倍3倍4倍にはなっていかないんですよね。
それはもう1000回ぐらいやって自傷済みなんで、
よく分かったんですよ。
一番引きが強いのはタスクシュートと先送りなんだけど、
そうしたからといって、
Jマスザキさんの3分の1にも決して届くことはないんですね。
で、Jマスザキさんは今120チャレンジで私と一緒に、
私が一緒にさせてもらってる感じですけど、
タスクシュートで先送りゼロっていう話をしてくださってるわけですが、
私はこの件に関してはここについてきゃいいんだなと。
ここを越えていこうとか考えたことはないんだけど、
越えられるわけではないかって。
考えるわけではないんだけど、余計なことだなって思うようになったんですよ。
そのJさんも今はブログというものにはほぼ何の期待もしてる気配はなくて、
今YouTubeの方に力を入れていこうかというような話をされていたわけですね。
YouTubeとブログの比較
で、私はYouTubeに、そもそもこれが分かんないから、私なんかには。
YouTubeにすればブログよりも人が増えるという見通しがJさんの中で立つわけじゃないですか。
でも僕はそういう見通しが全然分かんないわけですよ。
YouTubeの方が人は多そうだぐらいに。
で、現にGood Vibesで倉津野圭三さんとぶっちゃけ相談というので、
割と長らく、割とちゃんとした番組を作ってきたんだけど、
これがまた少なくとも狙ったようには伸びないわけですよ。
そうかなるほど、とにかく伸びる方法はこの世にあるのかもしれないけど、
自分でやろうとしている、自分がこれだといいと思っていることを
やっとけばいいってことには決してなんないなっていう。
テーマもジャンルも極めてはっきりしてましたし、
ここのジャンルだったら人が伸びないっていうっていうのは別にないわけですよ。
あれ自己啓発に近い内容で、伸びてる人はバンバン伸ばしてるわけですからね。
だからテーマを固めるとか、そういう話じゃないな、これはって思うんですよ。
なんとなくはわかるんだけど、なんとなくじゃダメだと思うんですよね。
やっぱりはっきりわかってないと。
で、はっきりわかることがあるかっていうと、僕にはよくわからないんですよね。
ある意味では、最近ようやくポッドキャストはいくらか聞くようになりましたけど、
動画全然僕見ません。
そもそも僕は動画って見ないんですよね。
Netflixは契約したことないし、Amazonプライムも見た作品は2作だけときているんですよ。
契約だけはしてるんだけど。
だからあれですよ、なんとかスティックっていうやつをテレビにつけたんだけど、
牛で見たのは野球だけときてますからね。
これやっぱりここを頑張るっていう考え方もあるだろうし、
そういう方もいらっしゃるんだと思うんですね。
でも私はそういうことを考えてみるとですね、
一度もしてこずに生きてきたわけですよ。
私、例えば大学卒業する頃には就職活動するじゃないですか。
僕したことがないんですよ。
葉書1枚書いたことがなくて、会社の面接も1回も受けたことがないんですよ、一生で。
こういう人間だから、生きていく算段があったというわけではないんですよ。
親のすねかじっていこうと思っていたわけですらない。
何もなかったんですよ。
何もない、ただやる気が全くしないからやらない。
でも僕は当時ニードだったわけでも引きこもりだったわけでもないんですよ、今風の言葉を使えばですね。
自己啓発と留学
引きこもってはいなかったし、一応働いてもいたんですよ。
つまり働く気がないとか、働いたら負けだと思ってたとかいうわけではないんですよ、別に。
ただ就職活動をしようという気は完全にゼロだったし、実際しなかった。
こう考えてみるとですね、僕がジャンルを固めてアクセスを伸ばしていくというようなことが
僕が考える方針としてあってないなって思うんですね。
あってるはずがないなと。
そんな風に一つの目標に向かって進んでいくということが
したことがないということは、この50歳になるまでしたことがないんですよ、これが。
一番それに限りなく近づいたのが中学受験だったんだけど、
あれも11歳だから無理やりさせられてたようなものですし、
自分の目標を立てたわけじゃないですからね。
留学はって言われるんですけど、よく留学では僕は何の目標的なものがあったかじゃないです。
僕はただ留学は一種現実逃避みたいなところがあったのと、
もう一つは見たい夢を見るために留学したんですよ。
見たい夢を見るというのは寝てる最中ですね。
だから最高のVRで人生を楽しもうということなんですよ。
本当にこれを真剣に僕は考えていたんで。
しかもこの方法を人に話せばそれで儲けられるとも思ってたんで、
ビジネスモデルもあったわけですよ。
問題なのは見たい夢を見られるようにならなかったってことね。
これは僕の考えではですね、僕のような人間には無理なんですよ。
いろんな理由があるんだけど、いろんな理由というか、
非常に端的に言ってしまうと、
母親に恋をしているようじゃダメだってことなんですよ。
非常に難しい意味になるんですけれども、難しい意味じゃないんだよな。
これを辞儀通りに取られてもよくわからないと思うんですけれども、
そういうものなんですね、これはね。
しかもわかってきたのは、夢を自在に見ることができるようになってしまうと、
夢を自在に見ることなどもはやどうでもよくなるんですね。
これがまた非常に厄介なところなんですよ。
本当にこの辺が厄介というかね、うまくできてるなというか、
ちょっと残念な気持ちもあるんですけどね、がっかりさせられるっていうか、
あれほど望んだことっていうのが実現する頃には
もうどうでもいいものになってしまうっていうのは何なんだろうっていうですね、
子供の頃ものすごく欲しかったプラモデルがお金を貯めて
ようやく自分で買えるようになると、
なんか別のものが欲しくなっている年齢になっちゃうみたいな、
そういうニュアンスですね、これはね。
しょうがない、しょうがないんだけど、
うーんって感じなんですよね。
まあまあでも留学は非常に良かったですけど、
目標は何も達成できませんでした。
だから私はドクターはおろか、マスターすら取らず、
何をしに行ったのか分かんないような経歴のまま帰ってきてるわけですよ。
なぜならば目的は別になかったからね。
形から入るという考え方
ただそれは無理なんだなということが分かって帰ってきた。
でも金は結構大半が自前で払ったんですよね。
だからそういう人間なんですよ、自分は。
何かを確立したいっていうふうに思ったりしたいんだと思うんですね。
したいと思わなかったし、
やっぱり何か旗を立てなかったんですよ。
留学みたいにあんな大掛かりなことをするときすら、
僕はそういうものは一切ないまま、
ある意味ただフラットでかけていきましたみたいな感じになっていて、
他のポッドキャストもそうなんですよね。
何の三段もなくただフラットやったわけですね。
だから最初は非常に粗雑な機械で、
iPhoneだからそんなに粗雑じゃないんだけど、
システムは結構粗雑でですね。
家の前の風呂場の前で、
当時は風呂場の中で撮ってたわけですよ。
音の響きがここだといいかなとか、
非常に素人臭い考えで丸出しでやっていたわけですね。
そのうち、なぜここがいいのかというのが分かってきたんですよ。
奥さんがうるさがらないというね。
他でやってるとうるさがられるという。
そしてやめさせられるという。
最初は残るわですけどね。
そんなものなんですよ。
だから僕は何にもそういう、
これといったものをカチッとさせて、
形から入るっていう話があるじゃないですか。
彼が一番程遠い人間なんです。
これはもう良い悪いとかないんですよ、私は。
形から入る人が形から入りやがってとかって思ったことないですもん。
ただ、私は形は後からついてくるっていう形しか
取れた試しがないというね。
僕だから多分、男性就職活動っていうのは
当時就職する気がなかったのが最大の原因ですが、
僕がしたことがないかというと、
リクルートスーツを着たり、いろんな準備があるじゃないですか。
形から入るじゃないですか、多くの場合。
僕はあれをやる意欲っていうのが、若ない人間なんですよね。
だから、さすがにドコモサービスにいた時は
スーツ着てたんですけど、
実は初日はやっぱりスーツってものを持ってなかったから、
スーツっぽいものを着てったんですよね。
めちゃくちゃふざけたやつが来たなと思われたらしいんだけど、
その時にものすごく穴が開いてたんで、
一つね、行ってみたら分かったことなんです。
僕は知らなかったんですけどね、そういうことに興味ないから。
なんでここで僕が不意にこんなところに採用されて、
えらい最初待遇良かったんですよ、ドコモサービスでは。
しかもすごくフィットしてたんですね。
僕ができたことってタッチタイプが早く打てるってだけだったんです。
それは採用もたれない文学賞とかに何本も応募したことがあったから、
タッチタイプ早くなってたんですけど、
タッチタイプが早ければいい仕事だったんですよ。
えらい早かったから、えらい重宝がられたんですけど、
すごい冗談みたいな服着てたんですよ。
たぶんね、下のズボンはコンっていう、コンの人しかいなかったのに、
僕白とか履いてて、それも何か意図はあったわけじゃないですよ。
それしかズボンがなかったんですよね。
上はスーツって言っても、なんかこう緑色。
なんかね、うちの母が若草いるとかが好きで、
そういう変に洒落てるじゃないですか。
しかも全然お洒落じゃないのに。
そういうものがセットでいて、
しかも本人はこれでちゃんとした格好していったつもりでいたんですよ。
めっちゃ重宝がられたんですよ。
辞めるときも送別会とか開かれました。
派遣社員の送別会って普通開かれないらしいんですよ。
僕は送別会とか行きたかったわけじゃないんで、
すごい嬉しかったっていうわけではないんですけども、
そういうようなことがあったりもしました。
何の話をしていたのかはないんですよね。
今はないんですっていう話をしている感じなんですけど、
ただ、タスクシュートみたいなことも、
今後もどうせ喋っていくだろうなと思いながら、
今このPodcastでですね、
自分が何をしているんだろうって思うわけですね。
目の前に誰も人がいなくて、
虫が止まっている窓を眺めながらですね、
一人でこうやってボソボソボソボソ喋っている。
これは一体何なんだろうなって思うんですけど、
昨日たまたまですね、
たぶん最後まで今日はこういうノリでいくでしょうね。
告知もしていなかったような気がするし、
もう忘れちゃったんですけど。
昨日たまたまですね、
J松崎さんがタスクシュートクラウドの開発者で、
J松崎株式会社の代表ですね。
考えてみると彼は偉いですよね。
何て言うのかな、偉いというのには様々な意味があるんだけど、
私30代だったら、
彼のようなことをやろうといくら頑張っても、
全くできなかっただろうなと。
今50代で全くできそうな気配がないですもんね。
何て言うんだろうな、やっぱりこう、
ある種の能力というものは、
彼がやっていることの意味が全くわからない点ではないんですよ。
例えば、ルート5の対数を取れとか、
そういうのは僕は意味が全くわからないんだけど、
J松崎さんがやっていることの意味は、
そこまで意味不明ではないんだけれども、
でも、同じことができる気は全くしないんですよね。
できるって人はできると思うんですよ。
何回かどうかって話ではないんですよ。
そういうふうに、頭と体が向かわない。
でも私はそれが、しかも問題だって思わないってのがあるんですよね。
さっきの話と似てる、白いズボンと若草色の服は変だけど、
僕が着ていったら、しかも今思い出したんだけど、
なぜかYシャツはオレンジとかだったんですよね。
何だろう、芸人みたいですよね。
でも僕はこれは、リクルート数値に近いものだって認識で言ったんですよ。
で、僕が言った辺はですね、
いいんじゃないか、それでってことなんですよ、別に。
誰かがそれで迷惑をこむのじゃないし。
確かに目立ちますけどね。
ほとんどの人は、グレーか紺のスーツを着ていて、
どこもサーフィスですからね。
でも、僕がやらなきゃいけなかったことは、
タッチタイプで入力するという作業なんですよ。
僕からすると、当時それが1日分だったんですけども、
朝9時に、舐めてるんで、9時なんですよね。
9時に行って、11時前にはもう全部終わるんですよ。
そのぐらい僕は、当時のその人たちの水準から考えると早かったんで。
で、いいと思うんですよね。
ズボンが白だろうと黒だろうと何だろうと。
それに問題があるとは絶対僕には思えないんだけど、
まぁ、わかりますよ。エディプス的な話ですよ、これは結局ね。
でも、どっちだっていい話だと思うんですよ。
僕がそこで、いくらタッチタイプが早くても、
なんかこう、ね、あの、なんだろうな。
床内でマリファナとかしてちゃダメだと思うんですけれども、
エッグハルトトールの喋り方とスタイル
人に迷惑をかけるとかかけない異線の問題ってのもあると思うんだけど、
スーツの色が緑とかはいいと思うんですよね。
だから、そういう話なんですよ、これは。
僕はそう思っちゃうんで、なかなか、
ゼイさんのようなことができる方向に、
体を向かわせるということができないんですよ。
頭でそれをどういう話であるかを、
ゼイの話とかね、はわかるんだけど、
法人科の話とかはわかるんだけど、
それを所定の形に持っていくべく体を動かすということになってくると、
相当、気が向いたときにフランクにしかできないところがあるんですね。
やろうと思えば今はだいぶできますけど、
特に20代は無理だったんですよね。
ぜっちゃり無理だったんですよ。
あまりにも無理すぎて、だから留学とかして、
見たい夢をたくさん睡眠をとった中で見るっていう人生も、
石鹸になっちゃうわけですよね。
その話をして人からお金をいただくと。
本当に真剣にそれを当時、これしか私にはないと思って、
アメリカのカンザスシティにまで行って、
5年もそこにいたわけですから、
頭おかしい一歩手前ぐらいな人間なんですよね。
そのゼイさんがしかし不思議なことに、
エッグハルトドールっていう人の本をやだら感銘を受けて、
いつも読んだりビデオを見たりしているわけですよ。
僕はこれ多分、いろんな自己啓発の話を追っていくと、
思うところがあるんですけれども、
ちょっと聞いた感じは、
これがそれこそグッドワイブスであろうが、
ラゾノケイドさんのお話であろうと、
エッグハルトドールであろうと、
ジョン・カバトジン、マインドフルネスのね、
あれは広めた人であって、
ちょっと疑わしいというか、
そこは考えどころだと思うんですけど、
アドラーとかね、
アドラーじゃない気もするんだけど、
アドラードされている、
今日本で流行っているアドラーシンリだろうと、
メニューが似てくるはずなんですよ、絶対に。
力点が違う。
この力点、どこを強調するかが結構鍵になる。
例えばその人が言うことが5つあるとして、
最初にどれ言うかっていうのが、
その人の発想でいくかいかないかの、
大きな分岐点になって私は思うんですよ。
極端な話、
エッグハルトドールとジョン・カバトジンが
全く同じことを言っても、
言う順番と使う言葉が少し違う。
これがこの世界では大事なんだろうな、
っていう感じを抱くんですよね。
宗教ってそういうところ多分にありますからね。
同じ仏教じゃんみたいな話、
いっぱいあるんだけど、
中間がいろいろに分かれるのは、
力点とその人の置かれている時代状況みたいなものの中で、
すっごい極端な話をすると、
鎌倉仏教っていっぱいあるわけですけれども、
孟子が攻めてきた時の話をしているのか、
頼朝が天下統一の時の話をしているのかで、
その宗教ごとの流行りスタイルってやっぱり変わってくるんですよね。
力点っていうのが違うことになる。
やっぱり国に疫病が流行ってるっていう問題に対応したい宗教、
仏教でするとしてもですね、
国に病気が流行ってます。
だから仏教頑張りましょうっていう場合と、
これから孟子が攻めてきます。
だから仏教頑張りましょうっていう場合とでは、
強調点が変わるんですね。
強調するポイントが違うんですよ。
そういうことを大事にするかどうか、
というのが割と自己啓発では大事かなっていうところがあるんですよね。
愛と一つ意識でしょう。ではない。
そうなんですけれども、
そういう言葉は出てくるんですけど、
誰が喋ってもある程度はですね、
それを真剣にやろうとしている人であればということですね。
で、エッグハルトトールの、
久しぶりに、私が滅多に見ないと言っていたそのYouTubeを、
久しぶりに見てですね、
ああ、なんかこれでいいんじゃないかなと。
これでいいっていうのは、
エッグハルトトールでいいって話じゃなくて、
これは事前に蔵園さんから軽く全知識を受けていたんで、
そうなんだなって思ったんですけれども、
とりあえず見てみようと思って見ていたのが、
なんとも不思議な喋り方をするんですよね。
なんて言うんですかね。
完全にではないんだけど、
パッと聞いただけだと、
そこら辺のおっちゃんが、
なんかこう良さそうな話をしているって感じになっちゃうんですよ。
なんか言い淀むし、噛むし、
ここという、つまりかなりスピリチュアルっぽいことに言及する前は、
言い淀みが入るんですよ。
ズバッといかないんですよ。
これはスタイルなんですよ、割と。
例えばローマ法王とかでも、
やっぱりすごい政治家の演説者みたいな人もいたりしてたわけですよ、歴代の中に。
神は!みたいな、そういう法王のイメージってあるじゃないですか。
なんかもっと物静かな感じがするじゃないですか。
でもそうじゃない人もいっぱいいるわけですよ、やっぱり。
それはよくわかるんですね。
家が寺だったとすると、
坊さんっていろんな坊さんがいて、いろんな説法のスタイルってのがあるんで、
本当に様々なんですよ。
それこそ弁士みたいな雰囲気の人もいる。
あれ元弁士だったのかもしれないんですけどね。
戦前の人もいますからね、坊さんには。
エカルトトールも聞いていて思ったのが、
確立したスタイルってものが、はっきり感じられない喋り方だなって思ったんですよね。
いい淀むんですよ。
いい淀むし、決して歯切れが良くないんですね。
なんかフニャフニャとしちゃう時すらあるんですが、
でも普通の喋り方では実はないんですよね、やっぱり。
普通のこと喋ってないし。
普通の喋り方ではないんですよね。
やっぱり非常に聞かせるものがある。
絶対あれを目の前で聞いていたら、相当の話でも持っていかれるっていうのが引き込まれていくだろうなって。
相当の話ってのは本当にもう、上場現象を回しぐらって話も結構出てくるんだけど、
こういうふうに、実はそこら辺のおじさんが喋ってるのではないんですよね。
そこら辺のおじさんが喋ってるような感じに聞こえかねないんだけど、
話の内容とこの雰囲気と全体的に聞いていると、やっぱりものすごい確信に満ちてるんですよ。
これはもう事実そのものを喋ってるんだっていう、
うちの裏の庭にセミの抜け殻があったぐらいの勢いで重力に逆らって空を歩いていく人間を見ました。
みたいな感じで。もうちょっと違うんですけどね。
こういう感じではないんだけど、こういうふうに喋るんですよね。
でもなんかこの人が喋ってると本当に、庭でセミの抜け殻を見たレベルの驚きでしかないような言い方になっちゃうというね。
話聞き終わって、この部屋から退場する時にまでそれを信じていられるかどうかは別ですが、
聞いてる時は信じてしまうものがあるだろうなっていう、これ信じるのが良い悪いではないですよ。
ただ、ああいうことをそれこそ隣のおじさんが言った場合には、多分我々はおじさん頭が少しあれだなみたいに思うに違いないところ。
彼だとそうは絶対に思うことができないぐらいな感じがあるんですよ。
でも、あれで人来るかっていうと、人呼べる話し方かっていうとそんなことはない感じなんですね。
世の中でよく言われている、これは非常に世俗的な話になりますけど、人を呼ぶ喋り方の教室みたいなのがあるじゃないですか。
聴衆への影響
僕はああいうのは全然信じられないんですけれども、これはやっぱりですね、父親が坊主だと信じられなくなります。
うまいから坊主っていうのは、ああいう喋り方しませんから、マーケティング的な喋り方しませんけど、やっぱり専任レベルの聴取を完全に聞き込ませるぐらいの能力は普通に育てているんで、
それが絶対にああいう、それが良い悪いではやっぱりこれもないんだけれども、社内プレゼンの達人みたいな喋り方とは全く違うんですよ。
だからそれは一つの型としてあると思うんですけどね、社内プレゼンの達人みたいな型があると思うんだけれども、型は相当いっぱいあるんですよ。
一つでは絶対ないんですね。100人いたら100個ぐらいあってもいいはずなぐらいあるんですよ。
だからその種のものは僕は信じるには無理のある環境で育っているので、
だってやっぱり上手いとされている人とは違う喋り方だけど間違いなく上手かったんで、気がつくとみんな聴いているみたいなのはスッとできるんですよ。
これと言った何かがあるって話ではないんだけど、スッとできちゃうんですよ。
それのなんか究極版みたいなのがエッカルトトールがやってたんですよね。
だから多分あれ1万人とかでも聞いちゃうんだろうな。
しかもあんな普通の多分アメリカ人もいっぱいあの中にいて、まず絶対に普通の状況であれば信じないような話のオンパレードを全部聞き込んでしまうっていうものがあるだろうなって思ったんですよ。
これは話し家の話をしてるわけじゃないんで、話し家になるっていう宣言をしてるわけではないんですけど、
要は考えてみるとニューエイジでもニューアースでも何でもいいんですけれども、
そのテーマが重要って話とは僕には違うなって感じがしたんですね。
なんつーのかね、タスクシュートで行くとかヘッドマイクスで行くとかではないなって感じなんですよ。
私はですね、それが合ってる合ってないっていうのもあるなということですね。
だから自分はこうそれは不安になるときはあるんですよね。
肩書きもなければ肩もないっていうね。
でももうやめようっていう、最近この話多いな。
もうやめようっていう感じなんですよ。
自分はこういうものでこういうテーマでブログ書いてますとか言えると楽だって感じがしちゃうんだけど、
楽だっていう感じってのもやっぱりちょっと前のGood Vibesで倉園さんがよくおっしゃってた恐れと不安なんですね。
不安なんですね。
だから不安から解放されるんですよ、肩を持つと。
私は〇〇という佐々木翔吾というもので何とかというジャンルでブログを毎日書いていて、
気がつけば毎日アクセスがおかげさまで1万人もなりましたっていうと、
すげー安心できる感じがするんですよ。
だからこれを求めてしまう。
これが私は肩書きがなくて、名前は佐々木翔吾って言います。
昔タスクシュートとかやっててGood Vibesに惹かれて今何やってるんだとか説明できません。
めちゃくちゃ不安な人間に聞こえるんですが、どう考えてもそれでいいとしか思えないんですよね。
だって普通の生き方すればそうなるはずですから。
分かるんですよね、やっぱりね。
それはなんとなくは何者かになる。
でも何者かになる人だけが生きていける世界ってのは成り立たないから。
それは明らかに変だから。
昔娘と一緒に、あのあれですよね。
あの人は有名な人。
有名な人、博瀬太郎さんのコンサートを聞きに行って、
博瀬さんに手を振っている私たちと博瀬さんが前にいて、
奥さんがしみじみ言ったんですけど、
やっぱりあなたはここで手を振ってるだけじゃダメよねみたいな。
やっぱりこの一体みんなみたいな、みんなの側に、
私たちはみんなの側だけど、
あなたは時々は前にいないとねみたいなことを僕は言われて、
すごいしみじみだったんですけど、
僕はやっぱりそうは思わないんですよね。
あの感覚はよくわかるんですよ。
ああなってみればね。
だって長所がそう安いとは言えない金額を払っていて、
ほぼ全てが彼のマネジメントの世界に入っていくわけじゃないですか。
非常に聴いていて非常にリラックスできる、
ベースにはクラシックがあるんだかないんだかわからないような、
クラシックではないヴァイオリニストがヴァイオリンを弾いて、
あれだけの人が聴きに行っているという、
もう休憩時間の女性のトイレは大変だと。
うちの子もね、ほんのちょっと前の時間にパッと出て、
さっと列に並ばせてトイレを済ませると。
そういうことをしなければならないほどの人が聴きに来てくれるっていうのが一体みんななんだけど、
でも安田太郎さんだけじゃ死んじゃいますもんね。
どんなにヴァイオリンをうまく弾けたって。
やっぱりどうしたってこの関係っていうのは、
いろんなところでこういうことがある。
それこそ日本シリーズでもやってるし、いろんなところであるから、
ついつい僕たちはテーマと何者かという方向に向かいたくなって、
それこそ先日から言ってるエンデのモモの中でも、
いいか何者かになるってことがこの人生の目的なんだって言って、
ノンジャンルでいきたい
灰色の男たちが時間をどんどん盗んでいくという話になってて、
エンデの時代からそうなんですよ。
ちなみにエンデがモモを書いた発表した年は、
私が生まれたちょうど今から50年前、1973年なんですね。
昭和で言うと48年なんですね。
日本が高度経済成長の最後の局面を迎えていた頃だったと。
オイルショックがありましたね。
こういう話なんだと思うんですよね。
ルテガじゃないですけど、大衆の時代ってやつですよね。
でも人は大衆であっちゃいけないとなぜか思っている大衆の時代。
私はやっぱりでも、
それで死んじゃうっていうんではダメでしょうけど、
それで死んじゃうんじゃ、大衆が死んじゃうんで大変なことになるじゃないですか。
で、やっぱり一体みんなみたいな、
この感覚から抜け出たいなっていうのはあると思うんですよ。
だからみんなから抜け出て、ある存在みたいになる。
それが博世太郎さんのような極めて特殊な世界っていうわけにはいかないでしょうけど、
あの辺の世界ってやっぱりいいっていうかすごいんですよね。
ジャンルごと自分で確立しているんで。
でも私はどっちももうごめんだなって感じがするんですね。
ジャンルの一番前に立つのもごめんだし、
ジャンルを確立するのもごめんだって感じがするんですよ。
だから動いているっていうのを受け入れちゃダメなんだろうなって感じがするんですよね。
みんなの中にいるっていう。
別にいいわけですよね、シリーズを眺めている側で、
博世太郎を見ている側で。
ただそれだけじゃ生きていけないという構造があるよっていう話でしかないような気がします。
これはもうチャレンジみたいになって、
私チャレンジしたいわけでもないんだけれども、
こうやっていこうと。
何にも持たないで極力いこうと。
ただ結局それまでの生き方とそう違わないんだけど、
組織というものにある程度属していればですね、
この場合私の場合はJさんの組織の一部っていうところがあるんで、
そこで求められることはやるんだけれども、
あとはノンジャンルでいこうと。
ジャンルにこだわらない生き方
幸いJさんはうるさいこと言わないってこともあるし、
タスク集というものの中でノンジャンルを生かしていくっていう方向は、
別に難しくはないなと。
七つの習慣とかGTTとか何でもいいんだけど、
コモドロテクニックとかでもいいんですけど、
要するにそういうジャンルを一切持たなければいいなと。
これは同時にそういうジャンルを全部OKにしてしまってもいいわけですよね。
推奨とか促進とかはしないにしてもですね、
しないんで私は。
そもそも詳しくはないんで。
ノンジャンルでやっていけばいいんだと思うんですよ。
ノンジャンルなんだから人なんて生きているその時にはですね。
だからノンジャンルでいけばいいんじゃないかなっていう風に思ったんですよね。
これは今の時代はなおまだそういう時代ではないので苦労があります。
PTXであれですよ。
告知をしてもカテゴリーとサブカテゴリーを5つ選んでくださいっていうのが出てくるんですよ。
5つ適当に選ぶんですけど。
そうだよね。
これが基本現代の流れと形なんですよ。
僕いつも不思議だなーって思うことが1つあるんですよ。
ファン座にジャンルがあるんですね。
カテゴリーとレーベルとありますよね。
男性はわかると。
最近そこにタグまで付いたんです。
いやーこれにタグ付けるかと。
でもねやっぱりどう考えてもおかしいんですよ。
このタグで私がこのジャンルが好きだっていうのは確かにあるんですよね。
このジャンルでこの女優でこのタグで別の作品だったら絶対いけそうなもんですよね。
ダメなんですよね。
だから私は真剣に。
僕はこれはそれなりに真剣に選ぶんで。
真剣に選んだところではジャンル分けというのは成立していない。
まあわからないですけどね。
これは成立するんだって人もこのタグだったら俺は何本でもいけるよって人もいるのかもしれないんだけど。
僕はそういう言動は信用できないですね。
正直。
もうちょっと人間はわからないですけどね。
むしろあんなものはこだわらないのかもしれない。
でも僕はああいうものにむしろこだわっちゃうんで。
こだわりが強くなってくると、
ジャンル分けっていうのは何かを意味していない気が僕はやっぱりしますね。
他人がつけたせいもなくはないんだけど、
自分が仮につけたとしても違うんですよね。
一つ一つは確かに違うんですよ。
アホみたいな話をしてますけれども。
だから自分はやっぱり結局のところ型は結構なんだと思うんですけど、
絶対そこにはエディプスの世界があると思うのと、
型に沿う手張りみたいな話ね。
一切自分はいいんだと思うようにしました。
無縁でいこうと。
そういう人間だって絶対いるはずだと思うんですよね。
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