1. グッドモーニングボイス
  2. 他人には従えない【GMV 866】
2023-10-30 41:12

他人には従えない【GMV 866】

他人にも、他人のコピーのような自分にも、従いようがない。

サマリー

11月19日の日曜日には、タスクシュートに関連したセミナーが行われます。タイトルは「時間を好きなだけ自由に使うための2時間セミナー」となっており、倉園圭三さんも登場予定です。このエピソードでは、ダラダラ癖という概念について詳しく解説しています。内なる説教者が自分自身を正す存在として現れ、自己批判やダメ人間としての立場を指摘しています。内なる指導者とは、基本的に詐欺のような存在であることに気づき、この存在が何かを知っているはずがないことを明らかにしています。だから、早く起きましょう。また、自分軸や軸が存在する考えについての意見も述べ、自分自身に従って行動することの意味について考えます。

00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
10月29日、日曜日の20時14分です。
関西ダービーの日本シリーズがたった今やってるんですが、ちょっとですね、差が開いてきたので、ちょっといいかなと思って今収録に回っております。
これ明日多分アップするので、明日の朝でもいいんですが、明日ちょっと忙しそうなんで、このまま明日を迎えると落とすんじゃないかなみたいな、別に落としたからなんだってこともないんですけどね。
まあでも、せっかく楽しみにしていただいている方がいらっしゃるようなので、月曜からはなるべく出したいなということで、日曜日、今日も朝のうち撮ろうと思ってたんですけれども、朝寝ちゃったんで、結局この時間になってしまったという流れなんですね。
11月19日のセミナー
11月19日の日曜日、倉園圭三さんと、久しぶりなのかな、私がタスクシュートの話をして、倉園さんにその流れを受けて話していただくというセミナーは珍しい。
久しぶりだと思うので、今2時間なんですけどね。
動画視聴もご利用いただけますので、よろしければぜひお申し込みいただければと思います。
高くはないセミナーなのでですね、いろいろな話ができればいいかなと思っております。
できればですね、動画視聴じゃなくて、オンラインですけれども、同時参加していただくと、その場で質疑応答なんかもできていいんじゃないかなと思います。
10月19日、15時から2時間ですね。
それで一応タイトルも言っておいたほうがいいですよね。
タイトルとかを最近全然言ってないから言えないんじゃないかと思い始めたんで、
タイトルは何だっけな、時間を好きなだけ自由に使うための2時間セミナー。
いろいろ考えたんですけど、時間を自由に好きなだけ使うというのがですね、
今私がそれこそタスクシュートを通じてでもグッドバイブスを通じてでも、
かつてできないかったことで今できるようになった大きな変化の一つだと思います。
時間を好きなだけ自由に使って生きてるなっていう感じがもうずっとしているんですよね。
50になるまでこれができなかったのってどうなんだって思わなくはないんですけど、
これが前にできたときは一体いつだったかっていうと、
面白いことに大学の浪人時代ね。
大学入試に失敗して浪人時代、僕は結構好き勝手やってた時期があるんですよね。
あの時に遡るだけなんだい。
そうするともう30年前とかになっちゃうんですよ。
本当に。
30年前ってなんだよって感じ。
30年間どういうつもりで生きてきたんだろうと。
会社に勤めたこともないのにね。
自由に時間を使ってるという感覚がなかったんですよね。
これはもう本当にタスクシュートでだいぶ楽になったんですよ。
本当にタスクシュート以前はあれは何だったんだっていうぐらいですね。
時間が全くないっていう感覚の中で生きてましたから。
タスクシュートを使うようになって少なくとも、
なんとかなるなっていう感覚は得られるようになったんですよね。
なんとかなると。
もっと踏み込めても当時から良かったなと思うんですよ。
好きなだけ使えるっていう感じ。
この感じをですね、
最近はミハイレーヌのモモっていう有名な動画を読んでいても思うんですけれども、
これをみんな目指して時間の節約をしちゃっているんですよね。
逆なんですよ、これは。
いきなりここから始めないことには始まらないんだという、
時間の節約をして何者かになってから時間を自由に使おうでは
多分ダメなんだと思うんですよね。
そんなような話になるか分かりませんが、
そういう話もできたらいいのかなという感じを持っております。
11月19日、時間を好きなだけ自由に使うための日誌完成。
これは私ですね、タイトルなんでキャッチに達成しようという意識は当然働いているんですけれども、
十分実現可能だと思います。
例えば会社員の方だとしてできないってことはないんですよ、原理的に考えて。
できるはずの話なので、
これはぜひですね、このタイトルに非常に疑わしいと思うのであれば、
むしろ聞いていただければいいかなというふうに思います。
ダラダラすることの意味
今日は時間の話ではなくてですね、それに近い話でもあるんだけれども、
このところまたちょいちょいですね、
似たような、ついさっきもだ。
ついさっきも大橋哲夫さんと一緒にフォローアップ会というのかなで話題になったんですけどね。
私はダラダラする癖があるんです、みたいなことをおっしゃる人がいらっしゃいまして、
ダラダラでもサボり癖とかでもなんでもいいんですけれども、そういうやつですね。
いろんな長字がとかね、いろんな言い回しを使ってきてお伝えしてるんですけど、
要するにまずお伝えしたいのはですね、ダラダラするってことはできませんってことなんですね。
まずここから行こうかなと、さっきしゃべったようなことなんだけれども、
改めてですね、このPodcastでもこの話をどう伝えたものかという、
お伝えしているんで、あとはもう納得いただくより他どうにもならないんですけれども、
しゃべっている私としては。
つまりダラダラってのは批判だってことなんですよ。
そうですよね、このダラダラいい意味で使われてはいないはずですね。
こういうときに辞書を引いたり、本格的なんかは辞書を引いてみるとかって書くんだけど、
辞書は引いてませんけれども、まず間違いなくこのダラダラしてしまうというのは批判なんですよ。
批判だというのはどういうことかというと、我々は自己批判とかって言うんだけど、
そんなことはですね、私が思うに人は決して本当の意味ではやらないと思うんですね。
つまり、自己批判というものをしているときに、僕らが何をやってしまうかというと、分裂をそこに持ち込んでるんですね。
自分二人になっちゃってるんですよ。
批判している私と批判されている私に分かれてしまってるんですね。
つまりダラダラっていうのは本当は他人に向けて言うことなんですよ。
自分に向けて言うことじゃないんですね。
私たちはサボるとか、怠けるとかって言うんだけど、これ全部ですね、最初は他人から聞く言葉なんですね。
赤ちゃんとか幼児とかは、幼稚園児もおそらくね、自分が何をしていいよ、
非常に大事だと僕は思うんですけれども、いつもこの話してもですね、
なんかフォローのためにしているぐらいに、
自己批判精神の強い方っていうのは本当に骨の髄までってところがありまして、身についてしまってるんだけど、
幼児とかは、つまり我々は生まれたときからしばらくの間は、
これからちょっとあれやって怠けちゃったなとかって思わないわけですよ。絶対に。
つまり我々はどんな行動をとっていようとも、怠けるとかサボるという行動はとれないんですね。
例えばダラダラしているっていうのはサボるでもいいんですけれども、怠けるでも。
ズル休みと書いて、ズル休みって言葉あるじゃないですか。
もちろんこれも批判ですよね。よく似たタイプの批判だと思うんですけど、
あいつズル休みしてるよって言ったとき、その人何をその人に向かって言ってるかというと、
あるいは思い描いてるかっていうと、楽してるって思ってるはずなんですよね。
あいつはズル休みをしてサボって楽をしているんだと。
じゃあ我々がズル休みをするなりサボるなりっていう、私サボり癖あるんですって言ったときに、
あるいはタスクシュートなんかでダラダラしちゃってって言ったときの、
ダラダラしてるときは楽してるって思ってるかって思ってないんですよ。
多分ダラダラしてるなって思ってるときって辛いんですよね。
つまりこれは他人に向かって、ダラダラしてるとかズルしてるぞあいつはって言ってるときに、
イメージしていることを自分はしてないんです。
これ決してできないんですね。
この言葉を使って指している、この言葉でイメージしている行動をとっているときは、
客観的な行動としては、客観的な行動と主観的な行動の間に矛盾があるんですよ。
これからダラダラするぞって思ってないってことなんですよ、僕らは。
ダラダラって絶対できないんですね、そういう意味では。
結局のところはその人は、非生産的なことに時間を無駄にして苦しい思いをするってことしかできないんですよ。
それでダラダラとは違うんですよ。
ダラダラとかズル休みってのは、他人が言う場合はそいつは楽してるって言っているわけですよ、批判している。
ダラダラするっていうのも、本来つぎ込むべきエネルギーをつぎ込まずに済ませているって言ってるんですよ。
ダラダラの批判と分裂無くみ
ところが、当のダラダラしていると自分を責めている人はですね、全然そういう風になってないんですよ。
エネルギー使わずに気楽に温泉にでも、温泉につかりに行くときってダラダラするって言わないじゃないですか、あんまり。
なんかですね、そこには分裂があるんですよ。温泉行くとき人は分裂してないですから。
統一してますから。自分温泉行くぞって思って行きますよね。
俺これからサボりに行くぞとか、俺これからそういうこと言う人はいますよ、口でね。
それはでも他人に対する一種のポーズで、私ちょっとこれから怠けに行くんですよみたいなことを言うのは、あれは一種のポーズで、
人は褒めないでしょうけど、私はこういうことをやって楽をしに行くんですからね。
こういうときは人はですね、内心では自分を全く批判していないので、分裂無くみではないんですね。
そうは言っても少し防御的な構えは感じるんだけど、でもだいぶ楽なんですよ。
そうじゃなくて、よくタスク管理なんかでですね、人が反省するダラダラしてしまったとか言うのは、全然全く少しもダラダラしてない。
だからあれをやるとすごく疲れるんですよ。非常におかしな話なんですね。
で、なんで疲れるかというと、これはもう非常に分かりやすくて、これが実はちっとも分かりやすくないんだけど、
分裂無くみってのはどういうことかというとですね、自分で自分を批判する、というか自分を批判する他人を、
この話はしょっちゅうしてますけど、自分を批判する他人を自分の心の中に連れてきちゃってるわけですね。
引っ張り込んじゃってるわけですよ、心の中に。
だいぶ昔に、現実にそういうことを言う人はいるけど、倉園圭三さんがですね、
内なる指導者って言葉を使われたことがあるんですけど、あれなんですよね。
内なる指導者というよりは、内なる叱責者みたいな人で、ダラダラ私しちゃうんですって言っているんだけど、
それは他人の言葉なんですね。他人の声だったりすらしか出ないんですよ。
自分の口うるさかった母親とか父親とかなんなら、あるいは覚えているかわかんないですけど幼稚園の先生とかね、ありうるんですよ。
そういう人を引っ張り込んでしまって、私はダラダラする癖があってとかって言うんだけど、
これはですね、よく言われますよ。
私も特に昔タスクカフェを大橋圭三さんとやってた時になって、このダラダラ癖って直せませんかねみたいな。
これでも完全に他人の言葉ですよね。
厳しめのお母さんなりがね。このダラダラ癖を直してやってくださいっていうのを自分で自分に向けてるだけなんですね。
だから他人の言葉だってことなんですね。
ダラダラ癖って直せませんかね。この直すってのは多分直線の直だと思うんですけど、
まあ多分直したいとかっていうのは一本間違うと治癒の治なんです。治療の治なんです。
ダラダラ癖と内なる説教者
もうダラダラ癖って病気なんですね。だから治療の対象になってしまうわけですよ。
こういう時って絶対に言うじゃないですか。
昔昭和の時代ですね。市内でも持っていていかついおじさんが根性を叩き直してやるとか言ってたんですよ。本当に。
私も中学時代とかで本当にそのまんま捨ててこみたいなの入って、男子校だったってこともあるんだけどね。市内とか持ってるんですよ。
市内で叩かれたことはないですけどね。本当にそういう人がいて、今もいるのかわかんないですけど、
なんかドラマの中の人みたいだなっていう。当然のように髪はもう白髪で坊主に近いんですよ。なんかツンツンに立ってる。
で、顔も体も四角いんですよ。そして市内持ってガニ股で歩いてる。本当に文字通りそんな感じなんですよ。
よく言ってたんですよ。少年を叩き直してやる。これを言ってるんですよ。
ダラダラ癖を、こいつのダラダラ癖を直して叩き直してくださいと。
これを自分で自分に言ってるんですよね。
自分がそういう昭和のおっさんみたいなのが心の中に取り込まれて、
そのおっさんが自分自身というダメ人間を引っ張ってきて、タスクシュートのトレーナーなりコーチングの人みたいなところに連れてって、
こいつ本当にダメなダラダラ癖の直んないやつなんで叩き直してやってくれませんか。
心理カウンセリングでみたいな話なんですよ。
だからこれ自分で自分に言ってるんだけれども、他人が自分に言ってるのと完全に同じなんですね。
この構造をぜひ理解する必要がある。
この構造を理解しないと、ということはダラダラ癖などというものは永遠に直らない。
なぜならば、これ直す人が結局、他人なんだけれども、他人のコピーであるものが自分の心の中に取り込まれているだけなんですよ。
一人で二役やって、いっつもダラダラ癖がお前はひどいぞ、ごめん私ダラダラ癖直す。
これをずっと自分の中でやってるだけなんで直んないんですよ、これをいくらやっても。
だから非常に、構造上無法な構造になっているわけですね。
このダラダラ癖を直すぞって言っている存在が消えるのが僕は良い。
自分に統合されるって意味なんだけど、基本的にいなくなるのが一番いいと思うんですけど、いなくはならないと思うんで。
どうすればいいかというとですね、このダラダラ癖を叩き直してやるって言っているやつに、こういう自分の心の中で絶大な権力を与えておいちゃダメなんですね。
こいつを自分の手下にしてしまうっていうぐらいの位置に、一旦関係を逆転させると良いと思うんですよ。
そうすれば、まずダラダラ癖っていうのは消えます。
なぜかというと、ちょっとずるい言い方に聞こえるかもしれませんけど、これが現実なんだけど。
ダラダラ癖があるって言っているのは、その市内に持っている心の中の内なる説教者ですから。
つまりその存在がですね、ダラダラ癖とは何かをそもそも定義付けているので、その存在がいなくなればダラダラ癖ってのはなくなるんですよ。
行動は一切変化を変更する必要はなく、ダラダラ癖というものだけを消すことができちゃうんですね。
なぜならば、ダラダラ癖というダラダラしてしまうってことが、この世の中から消えるから、少なくともその人の中からは消せますから。
だからこの内なる指導者がいけないわけですよ。いけないっていうか、定義してるんですよ、ダラダラってものをね。
そして失責もその人がしてるんですよ。反省もその人によって自分自身がさせられてるんですよ。
でも反省させてるのも自分なんですよ。
非常に自分で自分の人形劇やってるようなものなんで、いつまで経っても終わりがないんですね、こういうことをやってると。
ダラダラ癖っていうものを定義してる人が自分の中にいるわけで、その人が勝手にダラダラしているって言って、自分は勝手にそれによって反省させられておりますんで、
ダメ人間との関係性
これをやめればいいわけです。これをやめるのは非常に簡単なはずなんですね。
一人二役をやめればいいわけですから。
定義っていうやつなんですけど、定義って言葉じゃなくて、違う言葉があるといいのかもしれないんですけど、とりあえず定義ってことにしておきますが、
ダラダラ癖っていうのをこのうちなる説教人でも生活指導の先生でもなんでもいいんですけど、こういう存在をのさわらせておいてはいけない最大の理由はですね、
この人は何かを保証してくれないから。
一番僕らがこの中でおかしいのはですね、自分を責めることも自分を苛むことも全部ダメなんだけれども、
一番僕この中でおかしいと思うのは、このうちなる指導者は指導する資格があるとでも思ってるっていうか、僕らがそれを信じるのが一番おかしいんですよね。
このうちなる指導者というか、ダラダラ癖言って怒って根性叩き直せとか言ってる人を手放しましょうと言ってもなかなか通じないのはですね、
このうちなる指導者がいなくなると本当に自分はダメ人間になっちゃうんじゃないかっていう風に恐れてるからなんだけど、この構造が既に非常におかしいですよね。
なぜならば、ダメ人間になってしまうぞって言ってるのもこのうちなる指導者なんで、ここがおかしいわけですよ。
いなくなるとダメ人間になるんじゃなくて、いるからダメ人間というものにさせられてしまってるんですよ。
そのうちなる指導者の定義のために自分はダメ人間という位置づけを永遠に、つまりうちなる指導者が偉い間は自分は永遠にダメ人間なわけですよ。
この構造を理解しないことにはどうしようもないんですね。自分がダメ人間なのはどうしてかっていうと、指導者の言う通りにできないからだっていうことに一応なってるんだけど心の中では。
実はその指導者がダメ人間だと定義したから自分はダメ人間なんですよ。あとはドットでもなっちゃうんですね。
実際私はこうこうこうこうっていろんなことをおっしゃるんだけど、それは全部うちなる指導者が決めてるから当たり前なわけですよ。
話を単純にするために、昔やって計算ドリルとかあったじゃないですか。40枚ぐらいひたすら計算問題が並んでて、40個かける40日でやろうみたいなやつね。
あれで例えば夏休み中に40終わらなかったからダメ人間ですって言ったりするわけですよ。あるいは思ったりする。
それはどうしてかっていうと、うちなる指導者の昭和の生活指導の先生みたいな人が40ページやらないとダメ人間だって定義するんですよ。
自分の心の中で。だからダメ人間だってことになるんですよ。では40ページやりましたって言うとダメ人間じゃなくなるのかってそんなことはないんですよ。
これはその存在によって定義されるんです。その存在がいる限りは自分はずっとダメ人間でいなきゃならないから。ここがおかしいんだけど、そうなっているんで。
例えば40台全部やりました。全部やったからもう自分はダメ人間じゃないよねって思うとしてもですね、いやこの40台の中で大半が間違ってると。
全問正解しないとダメ人間だってことになるんですよ。どこまで行ってもダメ人間であることからは逃れられない。
これは非常にずるいやり方なんですよ。自分はすっかりこれに騙されてるんですよね。面白いことに。
頭が悪いとかいいとかいう話では多分全然ないんですよ。これは子供の時からそういうふうに思い込まされてきたというか、自分の心の中で思い込んできた結果なので。
よくこのですね、この今日のフォローアップ会ではこの生活指導の先生はコブさんという名前で登場してたんですけど、何さんと言っても長寺賀と言ってもコブさんと言っても何でもいいんですけれども、
要するにこのうちなる存在はですね、うちなる説教者みたいな存在は何ていうのかな、単純に言うと何も知らない。
だって自分なんですからね。何も知らないというのはどういうことかというと、何があればダメ人間ではなく、何があるとダメ人間で、
どうしてダメ人間であってはまずくて、どうしてそのうちなる存在の言う通りにすると良くなるのかの結末については一切知らないんですよ。
知っている理由がないんですね。
だからドリル40やって40×40全部やったんだけど、自分は一発の人間になれたわけでも人生QOLがすごい高い気もしませんって当たり前なわけですよ。
なぜならばそんなことは誰も言ってないからなんですね。
これはこのうちなる先生はどういうところからどういう結末に持っていけばいいのかとか、そういうビジョンは一切持ってるわけではないんですね。
持ってるのはただ、私の言う通りにやらないものはダメ人間であるってことしか言ってないんですよ。
だから私が言う通りにできないダラダラしている奴は必ず将来ダメになるぞっていうその強心に訴えるっていうことがほぼ全部、
というかほぼではなくて全部の戦略なんですね。
うちなる指導者の戦略
これが手の内なんですよ。
これさえ言っとけば、このカラクリの中にいる人はですね、永遠にやり続けてしまうんで、非常に簡単な方法なんですね。
で、このうちなる先生を擁護する方は必ず言うことがあって、でもこの先生の言う通りにやってうまくいったことも結構あるんですって言うんですよ。
それは当然なんですね、これもね。
だってこれは社会で言ってることをそのまんまコピーしてるんで、
例えば40×40の夏休みの宿題を早くやって先生に褒められましたっていうことが起きても全然不思議なことじゃないんですよ。
だってそれは先に出された課題に乗ってて、その後でそのうちなる先生がやってきてビシビシしごいてるだけだから、
その通りにやって誰かに褒められたってことが起こるっていうのは何ら不思議なことではないですよね。
ただ非常に多くの場合、何かの組織に属していたり誰かのそのルールにのっとってるっていうことが大半で、
このうちなる先生の言う通りにやって100億円儲けましたって話はあんまり聞いたことが最近にそろそろ出てくるかなって感じなんだけど、
昔あんまり聞いたことがなかったですね、そういう話は。
なぜならこのうちなる先生は金の儲け方とかを知ってるわけでは全くないですから。
この先生はいつも枠組みというか、やっぱり計算ドリルみたいなものばっかりなんですよね、知ってるのは。
用意される穴なんですよ、そこにあるの。
この穴を埋めるっていうことによってその先生が褒めるっていう形をとっているのであって、
一番重要なのはその穴を埋められない奴は身の破滅を招くっていう、そういう恐怖感に訴えているだけであって、
その穴を用意してしまうとですね、面白いことに、面白いくらい、
その人をどこまでも引っ張っていくことができるようなからくりがここに成立してしまうようなんですね。
これはある意味すっごい不思議な現象だとは思うんですよね。
だってこの方法だったら何だってできちゃうじゃないですか。
漢字の穴を1万マスぐらい作っておいて埋められない奴はダメ人間だって言っておけばすぐ話になるじゃないですか。
漢字の功用とか漢字をすべて覚えている人がどんなに素晴らしいことかっていう話だったらいくらでもできますよね。
大概の人は一文字も埋めていられないわけだから、みんな自分はダメ人間だと簡単に思ってくれるじゃないですか。
この構造ってすっごい僕は不思議なんですよね。
なんでこんなに人類っていうのは頭が回るのにこんなたわいもない詐欺みたいな方法にみんなで一斉に引っかかるっていうパターンに。
僕は昔から不思議だったんですよ。
まるまる検定っていうものに多くの人が声を出して言ってくれるという、
内なる指導者の詐欺
くれるっていうかそれは検定の運営者から見ればっていう意味ですけれども、
どうしてこういう構造が成立しちゃうのかが不思議で不思議でしょうがないわけですよね。
例えばあれだったら何だってできますよね本当に。
例えば佐々木証拠検定とかでもいいような気がしてきちゃうわけですよ。
今はダメかもしれないけど昔だったら成立するんじゃないかと。
そんなもの知るわけないこといっぱいあるわけじゃないですか。
父親の名前をかけとかね。
いくらでもできるじゃないですか。
なんか7歳6ヶ月にドブの沼に自転車ごとはまり込んだんだけど、
その時足を怪我したのは右足だったか左足だったか。
そういう検定とかでも、
なんか真剣にお金払ってテスト受けてくれる人が出るんじゃないかっていうぐらい、
この話は不思議なんですよ。
どうして漢字の検定を取るといいのかとか、
どうしてドイツ語検定の一級を取るといいのかとかっていうのが不満にされてしまう。
現に僕、今非常に娘の教育方針を、
中学でも高校でもうちの奥さんでもそうなんだけれども、
英検二級まで取るみたいな話があるんです。
この時代に英検二級か。
本当にそれいるんか。
多分本当にはいらないだろうなって僕は思ってるんですけれども、
ほぼ誰もこれといった疑問を持たなくなっていきますもんね。
テストをやってテストの点が下がれば下がるほどそうなんですよ。
これを上げるってことがもう史上名台になっていくんですよ。
なぜという問いが立てることが非国民みたいになっちゃって、
これ全部みんなの心の中にうちなる説教者がガンガン恐怖に訴えるというのかな。
こう言っちゃ何なんですけど、やっぱりどっかの国みたいなんだなって感じがするんですよ。
恐怖に訴えて人を動かしたりすれば何でもできちゃうなこういう人だったら。
ここにお金が絡められますよね。
新しい教材なり新しい塾なり。
私がそれこそ平成の何年とか2年とかそのぐらいの時代でしたけど、
全く同じだったと思うんですよね。
こんなアホ臭いことよくみんなやってられるな今にこの後に及んでっていう。
だって私が子供の頃はまだまだそれこそこれからは国際化社会でとか適当なこと言ってれば通ったわけですよ。
英語も喋れないともう全然生きていけないぞぐらいな。
僕英語なんか全然喋れないですけどねまともには。
全く生きていくのに不自由はないわけですよ。
考えてみると実におかしな話でそれを言ってたのはうちの母なんですけどうちの母なんて和英辞典が弾けませんからね。
和英辞典ですよ。英語じゃないですよ。英語はもちろん弾けないんだけど和英も弾けないんですよ。
でももうすぐ80までもうピンピンで生きてるじゃないですか。
あれ喋ってる自分が何にも疑問に思わないってどういうことなんだろうってちょっと思うんですけど。
国際社会とか全然関係ないじゃないですか。
うちの母は若い頃はそれでも心どころ当時の流行によってシンガポールだとかフランスだとか言ってたんですけどもちろんジャパニーズガイド丸々にただ乗っ取って行ってるわけですよ。
自分一人ではトイレにも行かれないからそういう時は僕とかが一応通訳してトイレどこですかとかって聞くわけですけど。
まあ母と一緒に行ったりした場合はですねそういうことやってたんですけど実に不思議ですよね。
国際社会とかっていうことをどういう調子で言ってるつもりなのかもちょっとピンとこないんだけども面白い話なんですよこれは。
つまりうちなるやっぱり先生が母の中に息子の英語の点がこんなんじゃダメだみたいな。
その英語のテストはテストそのものが読めないんだけど母には。
でもやっぱりそういう風な恐怖心というのかな恐怖心に訴えられて僕をなんか高めの塾とかにぶち込むわけですね。
で僕はさっぱりそこに行ってでも何やってるのかさっぱりわかんないという状態がずっと続いてるという非常に不毛なことが普通に進行してるわけ。
だって運満円とかかけてるわけじゃないですかそういうところに僕も僕ですけどねそういうの知ってて全然全く勉強しませんでした。
ただとっても僕はこの現象人間がこういうことをみんなこぞってガンガンガンガンやってるっていうね。
でそのからくりの一番収穫にあるのはうちなる指導者なわけですよ。
うちなる指導者とそれに脅しつけられて怯えきっているなんかちっちゃな子供みたいなのが無謀作法していて。
でこの穴埋めないとダメ人間になるんだと思ってみんな一生懸命なんかマス目の中にイとかロとかリリーズとかシーブとかそういうのをあるいは用金って書いてバイオリンとかそういう風に埋めて一生懸命こうやっているんだけれども。
でもこの指導者の言う通りに僕なんかもね小学校時代得意中の得意だったからある意味40ページとかもあっという間に埋めまくってたんだけど。
それによってなんか人過度のものには決してなれなかったっていうこれをね誰が責任取ってくれるのか誰も責任は取ってくれないですよね。
だから何かを知ってるわけではないんですよねこのうちなる指導者は。
この40×40のマスとかあるいは僕ひどい時にはですね人漢字について100回ずつ書くとかいうことを塾でやらされたんですよね。
挨拶挨拶挨拶挨拶とか書くわけじゃないですか。
これによってなんで僕があんなに一生懸命やらされたのに人過度のものになれなかったのかっていうのに対する答えはないわけですよ。
当然なんですよ。なぜならばそのうちなる指導者って僕だからですよね。
僕の心の中にいるうちなる指導者が何もかも知っている何でああいうドラマに出てきそうなガニマトの先生みたいな感じで登場してるのかわかんないけど
アインシュタイン級の人とかエジソン級の人とかではないわけですよね。
世の中のありとあらゆる仕組みを知り尽くしていてこのマス目さえ埋めとけばお前は将来金にも困らない。
結婚もできる。結婚できましたけど。
子宝にも恵まれて順風満帆で充実した人生がずっと送れるんだぞっていうことであるならばですね。
それはなんで私の心の中にいるのに私はそれについて全然わからないのか。
私はどういう人生設計を送れば一生食いっぱぐれないのかとか。
大学時代くらい苦労したけどあんなに苦労せずに彼女を作れたのかだって彼女を作ってる人なんてそこら中にゴロゴロいましたから当時だって。
なんで私にだけできないのかとか。
全然わかんないわけですよ私には。
私に全然わかんないのに私の内なる指導者が、私の心の中にしかいた試しのない私の内なる指導者が全部わかってるっていうのはやっぱおかしいんじゃないですか。
どこを考えてもおかしいと思うんですよね。
でもこれに僕も手もなく騙されていたわけですよ。
どうしてもこの穴埋め作業を一生懸命やらないと大変なことになるんじゃないだろうかと。
で、挙句の果てにはですね、大学とかでいっぱいマスのある原稿紙20枚分の論文とかを埋めるとこれでなんか人生安定なんじゃないか。
結局穴埋めなわけですよ。
で、みんなやるじゃないですか。
なんかこうどっかから図書館の貸出資料室とかから借りてきてですね、
自分の決意と発見
自分が行ったことも聞いたことも見たこともないような土地についての論文の文章を丸々移すと人生が安定だと。
ああ思えるのが不思議ですよね。
でも僕も思ってました。
だいぶサボりましたけど、丸写しにしただけのようなケースも多々ありましたけど、
それでもだいたいAマイナスぐらいをもらえたもんなんですけどね。
非常に今思うと不思議なんですよ。
ひたすらひたすら、それこそ小学校1年から始まって、
ついにアメリカではちょっと違う2世をアメリカ留学まで含めると、
実に何年だろう、7歳から始めて30歳ぐらいまで、
23年間穴埋め作業をしていて、これさえやっとけば平和に生きられるっていうね、
地理な宗教というのともまた違う、
実に不思議な集団妄想みたいなもの、
集団幻想っていうのはそういうことを言うのかもしれないんだけど、
そういうものを頭から信じて、
いい加減35ぐらいになって嫌になってだいぶ減らしたわけですよ。
もう英語の勉強は二度とやるのやめようって思って。
36歳ぐらいだったかな、英語と4つ、4つ心に誓ったんですね。
これはもうグッドバイブスをだいぶ前です。
これは圭蔵さんのことも存じ上げなかった時期に、
4つ諦める、4つ諦めるというか捨てる、
英語、プログラミング、デザイン、あとファイナンス、
この4つは僕には無理、っていうかいらないって思ったんですよね。
金輪際これについて一切積極的に勉強するのはやめよう。
固く決心して、以来時間がガッと増えたっていう記憶があるんですよ、本当に。
もう絶対に誰に何と言われやと手を出さないぞ。
僕はあの時、36ぐらいにこの一つの決心をしたのは何でだったかはちょっと覚えてないんだけど、
この決意をした時に自分ってものが一つ発見できた気がしたんですよね。
その前にそういう感覚を得たのかもしれないですね。
スクシュートをやり始めたこととは大いに関係があるんだけど、
自分と他人の違い
いずれにしてもあれ以前の僕は自分というものがない感じはただあった気がします。
自分がないってやつね。
あの時を境に自分ってものが少し見えた感じがします。
内なる指導者というものは基本的には詐欺に等しい存在だっていうことに気づいて、
この存在が何かを知っているはずはない。
知ってることだったら私が知ってておかしくないはずなんで。
犯人じゃないですから、これ。
自分ですからね、間違いなく。
内にいるんで、心。
心の内にいて、しかもやだらと私のやることにああだこうだ口出してくるのに、
その存在がありとあらゆることを知ってて、
その存在が知ってることを私は全然知らないっていうのは明らかに何かが間違ってるじゃないですか。
だから早く起きる。
そうそう、同時に基本的には捨てるべきだと思ったのが捨てなかったんだけど、
朝勝とか、それにまつわるやつなんですね。
僕が当時全然捨てることに及ばなかったのとしては、運動をするってやつね。
運動は当時捨ててしまってもよかったんですよね、私が。
他の人はわかんないですけどね。
私自身は捨ててしまってもよかった。
でもこれはグッドバイブスを待たなければならなかったから、
年齢としてはさらに10年後ぐらいですよね。
10年ぐらい経って運動とお金の節約と時間の節約を手放し始めて、
一段と時間が増えて、
時間が増えたのはそれほどどうってことはないことなんだけど、
自分ってものがもう一度発見できたっていうのが大きかったですね。
これ普通に僕っぽい言葉で言うところのあれですよ。
人は人、自分は自分ってやつですよね。
つまり他の人が英語の勉強をしていい結果を残すとか、
他の人が運動をすることによって健康になるとか、
他の人が朝活動をすることによって朝気持ちよく過ごすとか、
大いに健康じゃないですか。
これは私には全然いらないっていうことは両立しますよね、普通に。
ここに何の心配もいらないはずだっていうことを確信するには、
自分ってものが一つ必要になるんですよね。
自分軸と他人に従うこと
自分軸ってよくおっしゃるんだけど、
僕はこれ軸ではないと思います。
自分だけで十分だって思うんですよね。
自分に軸はいらないと思うんですよ。
軸がいるって思うってことは、
きっとここにぶれてはいけないっていうのが一つ入ってきちゃってるんだと思うんですけど、
僕は自分というのは今この瞬間の自分なんで、
別にこれが2秒後には全然別人みたいになっちゃうっていうのは全然問題じゃないと思うんですよね。
これが問題だっていうのもやっぱり、
所詮他人の言うことなんだと思うんですよ。
だからここは非常にうまく言語で説明するのはやや困難なところなんだけれども、
人は人で自分は自分だということの意味っていうのは、
自分がぶれないとか自分の軸があるって話ではないと思うんですよね。
この辺はすごく僕の中でははっきりしているんですよ。
方針とかミッションとかは全然どんどん変わっても、
どんどんは変わらないんだけど実際には、
でもどんどん言うことが変わっても、
それで本人が構わないと思うなら構わないと思うんですよ、全然。
他人が言うところではないと思う。
これが一番最初のダラダラ癖っていうところと、
全く同じことだと思うんですよ。
うちなる指導者というものに従っているつもりでいる間は、
所詮は他人に従っているつもりでいるんですね。
しかしそれは他人に従っていることにすら実はなってないんですよ。
自分だって。結局は自分に従っちゃってるに過ぎない。
これが多分自分があるとかないとか言った話に、
多分大いにつながっているんだろうなという感じがします。
これがですね、もっと早く腹打ちすれば良かったのかもしれないけど、
これも結局同じで、いつでも一緒なんですよね。
それに孫徳は実際はないんですね。
ないんだってのは、感覚的に納得できれば、
意外性はどこにもないんですけれども、
今はだから自分と人というものは違うし、
人に従うというのは究極的にはできない相談なんだな、
ということがなんとなく理解できた。
それの多分端緒になったのが、
英語は勉強するのは今後一切しないということに決めた。
決めたというのはこういうことですよ。
その後、いつ勉強を再開しても実に何の不思議もないということなんですよ。
自分がそうしたいと思えばですね。
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