1. 佐々木正悟のライフハックからの精神分析
  2. 自己愛の人は「怒りっぽい」の..
2025-08-13 38:59

自己愛の人は「怒りっぽい」のか?【1232】

信号をもしした人も無視された人も、自分が怒られるいわれはないと感じている。
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サマリー

このエピソードでは、自己愛が文化や実存的意味とどのように関連しているのかを探ります。藤山直樹の著作を基に、自己愛が怒りやニヒリズムとどのように結びつくかについて考察されます。また、自己愛を持つ人々が文化に対して疎外感を抱き、その結果として怒りを感じやすくなるテーマが取り上げられます。さらに、文化的な疎外が自己愛にどのように影響を及ぼすのか、具体的な例を交えて解説されます。自己愛と文化の関係についても考察され、怒りっぽさの背後にある心理が探られます。文化的背景が人々の行動や感情に与える影響について議論され、自己愛を持つ人々がどのように他者との関係を築くのかが焦点となります。自己愛のある人々は、文化的な交流を恐れ、虚構の中で訓練し、他者との真の交流を避ける傾向が探求されます。

自己愛と文化の関わり
おはようございます。精神分析を理解したい3ヶ月チャレンジ、第1232回をお送りします。
8月13日、水曜日、朝の8時40分です。
40分強調する理由は全然ないんですけど、なんか口調でそうなっちゃいました。
一つのお知らせがありまして、タスク習得を完全活用術、今月23日土曜日の14時からだったと思いますね。
3時間のセミナーなんですが、こちら満員運命となりました。ありがとうございます。
あまりにも満員になったのが早かったので、かなり悩んだんですけど、かなり悩んだというのはつまり、
1週間フォローアップ期間を設ける関係上ですね、人数増やすのには限りがございまして、
20人っていうのは結構考え抜いた末の数字だったつもりなんですが、満員にならないだろうぐらいに思ってたんですよ。
そしたらなったので、しかも1週間以上間のあるタイミングでなったので増額しました。
5名増額させていただいて、しかしこれも大変ありがたいことに既に1名様お申し込みがありますので、
私が先ほど確認した限り4枠しか空きがありません。
ただもうあんまりこれどうしようかわかんないですけど、あんまりガンガン告知するのやめようと思いました。
だって今お盆期間中なんで、地方とかにいらっしゃってネット繋がってない方もいらっしゃるかもしれないじゃないですか。
昨日回し過ぎかもしれませんけど。なので告知しまくって埋まっていて、その人が帰ってきてから驚かれると申し訳ない感じがするので、
なんかこの辺で告知、別にもういったん満員になったんでね、増額分の告知はここ限りぐらいでいいかな。
来週になって空きがあればまた告知しようという感じで考えております。
本当ありがたい限りなんですが、あまりにも意外だったんで。
私、だってですね、このポッドキャストを聞かれてる方って最近お盆期間中ってことあるにせよですね、
1日の平均が20名台なんですよ。20名ってスタイフの話で。スタイフでは20名ぐらいなんですよ。
でもいいねは10をぐらいついてたりして衝撃を受けるんですけど、でもスタイフで20名なのに、
有料のセミナーで20名が埋まるって考えてみると変じゃないですか。
なので、スポティファイはもうだいぶいらっしゃると信じたいわけですけれども、
全部はかき集めればね、そこそこいらっしゃると信じたいわけですが、極端に少なくなってるわけですよ。
最初100くらいいたんですよ、スタイフでも。今20とかですか、1日での数字ね。
1週間くらい経つとちょっと変わってくるんですけどね。
スタイフの人気がないのか、この番組の人気がないのか知りませんが、非常に問題があるわけですよ。
それで何とかしろということをですね、所々で庵に言われたり、家族とかね、
最近は娘もこういうことの意味が非常によくわかってきたので、娘は厳しく申し付けてくるんですけど、
そんなこと言われても人気ないものはないんだしみたいな、そういう任天堂じゃないんだからっていう感じなんですけれども、
まあまあ、とはいえ、だからセミナーが満員になったことには一つの驚きでして、娘も驚いておりまして、
それもどうかと思うんですけど、そういうわけでですね、ありがとうございます。
で、今日は全然違う話をしかししようと思っておりますが、ここ連日2日くらいですけどね、
自己愛について、当然これは藤山直樹さんの本を読んでるからこういうことになってるわけですが、
自己愛について喋ってるわけですよ。
で、自己愛というものはですね、文化の話との兼ね合いを持ち出してきたわけですが、
つまりですね、文化というのは基本無意味なものなわけですよ。
実存的な意味の探求
これは動物学的な話、生物学的に言うとってことかな。
実存的な意味を持ってないんですよ。
ということは逆に言うとですね、文化に入らなければいけないんだ、自己愛なんだって言ってことは、
実存的であるということは自己愛的であるってことになってしまうわけですよ。
自分自身が生きていると信じられるのは自分自身だけだみたいな。
他の人間は私の作り出した妄想かもしれない、お前だってそうだみたいなこと言われても結構困るじゃないですか。
あとはもう全てが無価値化されていくわけですよ。
究極のニヒリズムみたいな。究極のニヒリズムはこの先かな。
これは一応独我を信じてますからね、独我の価値。独我ってのは、独のある我じゃないですよ。
一人の我ってやつですね。
価値は信じてますからね。
究極のニヒリズムっていうのはもっと先にあるような気が私はするんですけど、
いずれにしてもですね、一人きりの我というものしかいないんだっていう、
だってそれしか実感としてわかないからねって言ってるのを、
自己愛っていうのはなんとなくわかる感じがするじゃないですか。
ここにはすごく実存的なものがありますよね。
だから、例えばさっき文化に意味がないって言ったのはですね、
小屋の狼っていうヘルマンヘッセが、
ヘルマンヘッセっていう相当ロマンティックな雪景色の中で、
貴族に拾われてるうちにそこの美しい女の子と恋に落ちるみたいな、
そういう小説を書いている。
それこそ相当意味のないことを書いているって思われそうなニーチェとかにはね、
人なんですけれども、その人がですね、
このことを書いてるんですよね、やっぱりね。
狼から見るとモーツァルトがいかにくだらないかみたいなことを書くんだけど、
これってつまり実存的な話をしてますよね。
なんていうのかな、生きていく上で何の意味もないものに
かかずらわってられないんだよ、こっちはみたいなノリなんですよね。
だから、実存的な雰囲気っていうのは全然実存作家じゃない人なんですけど、
例えばアーネスト・ヘミングウェイとかね、
ああいう人が書いたものが、なんかちょっと実存的な雰囲気を帯びるわけですよ。
戦争とかね、行っちゃうんで。
なんかあれじゃないですか、武器をさらわとかそういう感じだったじゃないですか。
感じっていうのもないんだけど、
生身のっていうのか、剥き出しのっていうのか、文化的じゃないわけですよね。
文化的っていうのは、貴族趣味的なわけですよ。
詩とか読んだり、音楽とか聞いたり、要するに意気なことをやってる感じがするわけですね。
そっちのほうがナルシシスティックな感じするんですけど、感じもするんですけど、
なんかこうですね、実存的っていうと、
もうこうなったら、強制収容所とか入れられたらね、
恋人の食い物を奪って、恋人は飢え死にするのもしょうがないみたいな、
そういう話あるんですけど、同性愛的なんですよ。異性いないんで、強制収容所には。
こういう話って、ひたすら深刻で大変な苦しみみたいな話で、
ドステフスキー的な世界なんだけど、実存作家じゃないですか。
あの人もね。つまり、実存ってそういうところがすごくあるわけですよね。
どうしようもない現実みたいなものというものと関わり合っている。
その分深刻になりますよね。
そして、そうじゃない余裕がある時の遊びみたいなもの、遊びですよね。
文化みたいなものに価値は全くないんだっていうような、そういう感じ。
で、なんで思春期の人がそういうことを言いたがるのかっていうことを、
例えばね、私なんかが言いたがっていた口で、
友達にも言いたがってたやつがいっぱいいたわけですよ。
平成の終わりには時代遅れ感がありますよね。
これって昭和の、なんていうのかな、
逆転移とラポールの重要性
暗黙闘争とかやってるときに、東大生とかが一生懸命論じていたようなことをやってたわけですよ。
あんまり時代がちょっと進んだぐらいでは、人のやること変わんないわけですよね。
なんでなのかってことですね。
なぜそういう発想を取りたがるのかっていうことですよ。
つまり、本質的に意味がないとかって言いたがるわけですよ。
例えば勉強とかもね。
本質的にこんなことはくだらないとかね。
漢字の書き順なんかどうでもいいじゃんみたいな、
そういうノリと関係がないわけじゃないわけですよね。
本当に大事なことっていうのは、
今自分が生きているっていうこの感覚だけだみたいな、
そういうような世界ですよね。
なんかこう、むき出しな感じなんですよ。
意味づけを拒否するっていうのかな。
意味づけを拒否するわけですよね。
家族と一緒になるとか、
お父さんを大切にしましょうみたいなものをですね、
のきなみ潰していきたくなるみたいな、
そういう漢字と関係があると思うんですよね。
という事故はいっていうのが何なのか。
というとですね、それはやっぱり、
偉く苦労してきたっていう背景があると思うんですよね、やっぱりね。
ヤングケアラーみたいな話と接近してくると思うんですよ。
文化的なものが家族の間でなかったしっていうような、
お父さんはいつもどなりどなって包丁振り回してたしみたいな、
そういう話になってくると、
どうしようもない感じってあるじゃないですか。
なんかおやすの時間ですよみたいな、
そういう時間はないわけで、文化的な時間がないわけで、
勢い、そういう世界で育ってきた人からすると、
なんかこう、それこそこの番組ではですね、
ヤングケアラーといえば結衣ちゃんって決まってるんですけど、
私だけ年を取ってるみたいな、
っていう本の中で、漫画なんですけどね。
大学生がみんないい気にサークル活動とかで、
キャッキャしてるわけですよ。
そうするとものすごく軽蔑的な気分が湧いてくるわけですね。
なんていい気なもんなんだってことなんですよね。
いい気なもんだっていう感情がですね、
逆転してるんですよ、しかし。
いい気なもんなのは結衣ちゃんなんですよ。
ここがね、わかりにくいんですよ、結衣ちゃんのような人からすると。
そしてあやって描かれてみるとですね、
ああやって描いてる世界が神的世界なんじゃないですか。
でも結衣ちゃんのような人が、
例えばセラピーとか受けに来てですね、
セラピストの前でこの種のことを最初から言わないですよね。
だから自己愛の人は急に来ないんだっていうふうに、
藤山直樹が書いてるのは、とても妥当だと思うんですよ。
自己愛の人というものは、逆転移の中で姿を現してくるんだ。
つまり、ある程度これをラポールって私は言うんだろうと思ってるんですけどね。
転移と逆転移が成立するっていうのは、
ラポールだってことだと思うんですよ、ある意味では。
あんまり精神分析でラポールラポール言わない、
特に対象関係論じゃあまり見ない言葉なんですけど、
でも私はラポールってそういうことじゃないかなと思うんですよね。
だって気を許さないと、こんなのほほんとした大学生がみたいな、
あれは気を許している雰囲気を漫画の中で描いてるわけですよ。
だから漫画って私は転移と逆転移だなってよく思うんですけど、
特に反自伝的な漫画ってものを読むとですね、
その感じが伝わってくるなと思うんですよね。
このバカ大学生みたいな、そういう軽蔑と怒りですよね。
まさに藤山直樹が、一意気道義に軽蔑って書いていた通りなんですよ。
つまり他者の文化というものは、そういう対象になりやすいわけですね。
こんなふうに大神に対してやっぱり私は思いますよ。
さっきした話については、大神とかは自分のことを知っていないんですよ。
何か大人の人のことを知って、
大神とかは自分のことを知っていない。
ですから、自分が、大神を見ると、
だから自分の大人ってあることを知っていない人が大神が、
そこが大神ですと、そこが大神であれば人間なんですよ。
だから大神、自分が、人間っていうのはあんまり出て来ない。
とりあえずその狼的な人っていうことですよね つまりヘルマンヘッセはロマン派だったからもうそういう恋人にね手紙を書いてモーツァルト
自己愛と文化の関係
音楽とプーシキンの詩をみたいなプーシキンの詩じゃないな えっとなんだろうなどの詩がいいんだろうこういう時シェリーとかの詩がいいんですかね
そういうものを送ったりするはする世界に来てたわけですよ ライナーマリアリルケっていう人がいるんですけどリルケはなんか知らないけど
バラの棘に手刺さって死んじゃったすごい美しい少年だったわけですよ 本当かって話なんだけどなんかよくわかんないですよね
バラの棘で人が死ぬだろうかって思うんだけど そういうとても繊細であの時代そういうのが流行ってるんですよね
どういう時代だったのかよくわかんないですけど あの女の人に恋心を抱いてそのまま余りの苦しみに死んじゃったりするわけですよね
そういう世界でえっとそれが実に馬鹿げているって感じを持つわけですよ ある意味だから実存主義ってヤンキー的だなって思うんですよ
でこの番組で昔も言いましたけどヤンキー的って要するに老けてるってことなんですよ あの
ユイちゃんが私だけ年を取ってるみたいっていうのはよくわかるんです ヤンキーって老けてる発想なんですよ
あれ若々しくないですよ全然 タバコ吸って酒飲んでやってることが完全におっさんですよね
若いうちからおっさんやるわけですよ なぜかっていうと彼らの人生実存的だから
余裕がないから余裕がない人がやるんですよ やっぱりねサークル活動とか文化的な活動であってなんかテニスしてね恋愛してね
そのなんかこうちょっとだけお酒を飲んでみたいな結構飲むんだけど 全部文化的なんですよすごく
ああいうのを見てチッとか言ってるのは実におじさん的なんですよ くだらねーみたいなね
くだらないわけですよなぜくだらないか文化だからなんですね 文化と遊びですからね
遊びはくだらないんですよ あのヤンキーの人たち遊んでる場合じゃないんですよ
あのもっとね市内とか振り回したりかつあげとかに忙しいわけですよ 具体的じゃないですか行動がめちゃくちゃ具体的です
自然を稼がなければいけないんですよ ちゃんとお小遣いくれたり勉強の面倒とか見てくれる人がいないもんだから
やるべきことがあるわけですよ彼らに上下関係 そこは切実なんですよ
なんかちゃんとやっておかなかったりお金持ってこなかったりするとボコボコに殴られると そういう世界なんで非常に困った世界なんで非常にこうリアリリアルな世界なんである意味では
つまり物理的むき出しで具体的な世界に生きている そういう世界に生きないわけにいかないと
あの先にあるのが昔モンゴルに今でも絶対あると思うんですけど NHKで特集して
特集ってね一時的に終わるのが良くないと思うんですけど マンホールで生活している子どもたちですよね
絶対ところには取りしきってる人っていうのがいるんですよ だって取りしきらないとみんな死んじゃうじゃないですか
そんなこうマンホールでなんか生活できっこないわけだから 共産主義国なのにねもともと
マンホールで生活するということになってくると やっぱりそこのどうやってそこで得たものを分配して
少なくともわずかであっても食いぶち稼ぐかみたいなことを真剣に考えて しかもそれによってコントロールできる人が必要なんですよね
やはりすっごいマンホールの子どもたちの上で見て驚いたんですけど それを取りしきるのはなんかボスみたいな女の子がいるんですよ
女の子ですよ なんかもうすごい指示とか出して そして逆らってボコボコにするわけですよ
そういうルールにしておかないとやってられないわけですよね そういうところでサークル活動をやってる場合とかないわけですよ
つまり遊んでるわけにはいかない だからあの老けてしまうわけですね だってやってることが完全にそれは人狂の世界に近いじゃないですか
つまりおじいさんの世界じゃないですか つまり老けちゃうわけですね どうしても早く早く成熟しなきゃ成熟しなきゃっていう圧がかかってるんで
怒りの表現と疎外感
異様に早熟になってしまうわけですね だから人に指示を出したり あれはなんかどっかの中堅のサラリーマンのマネジメントの人みたいですよね
でそういうマネジメントの人ってやっぱり遊んでる場合じゃないから どうしても発想がですね
中年化していくのが早いわけですよ
以上のような話の中で私が非常に大事だと思うのは とはいえワンホール生活ですら文化ってものが必ず発生する
映画とかドラマではそういうのを描くわけですけれども つまり文化というものなしに人は生きられない 完全に生身では生きられないわけですよ
小屋の狼は間違ってるわけ セックスするとなったらもうひたすら女の子をいきなり襲うとか そしてごちそうとなったら鍋とか関係なしにいきなり口を突っ込んでむしゃむしゃ食べるとか
動物は常識的にそうしますよね 人間だけですよね なんかこういただきますまず言うとかよくわからん
何をとち狂ったほどやってんだっていう その間に誰かに食われたらどうすんだよってこともなるんだけど
つまりそういうどうすんだよの世界では生きられないわけですよ マナーみたいなものが出てきちゃうわけですよ
このマナーみたいなものが出てくるのはどうしてかっていうのを 精神分析が一生懸命解いてるわけですね
マナーがないとダメでしょって言うんであれば どうしてダメなんですかっていう問いを立てるわけですね
でどうしてダメなのかというと文化がいるからなんだよ なんで文化なんかいるんだっていう
荒野の狼的な問い合わせに対してはですね 人間は直接近くの世界に生きてないからなんだよね
たぶんそれは情報処理の情報がつまり近くの情報ってことですけど 膨大じゃないですか
ものすごいカラフルだし人の目に似ている目は なぜかこれに匹敵する目を持ってるのがイカらしいんですけれども
なんでイカなんやねんって感じなんですけれども とにかくイカはこういう人間の目に相当する精細な処理能力を持ってるらしいんですけど
残念ながらイカにあるのはすごい素晴らしい目玉だけで脳は全然ないんで このような風景が見えるわけじゃん
見る潜在的な目を持ってるんだけれども見るための情報処理はできない そういう非常になんかよくわからない生き物ですけどね
それは人間が見るからよくわからないってことになるんですけど これはちょっと前に読んだ本なんで今ではこういう学説は覆ってるかもしれないんで
この番組はいつも言ってる通り頭から信じちゃダメですからね もし何かトリビアをやりたければ自分でどっかで調べてください
全然学術的じゃないキャストなの
で イカはいいとしてですね
文化的なものというものの必要になるのは多分直接近くできないせいというのと ある意味ではそれこそサピエンス全史に書いてあったような話になっちゃうんですけれども
一人の人間ができることがあまりにも絶大だから危なっかしくてしょうがないという 例えば村人全員酒で酔っ払わせて
次から次へとナイフで差し殺すってことがやるとするとですね 別に少女でも大人全員に勝つことができるっていうような世界が発生するわけですよ
その一番いい例が火なんですけど火で燃やしてしまえばそういうことができちゃうわけですよ 恐ろしいじゃないですかっていうかつまり秩序もへったくれもあったもんじゃないわけです
だから私たちはこの法の支配みたいなある意味こう なんて言うんですかねつまり文化なんですよね
文章というもの法というようなも概念というようなもので取り仕切るってことにしてるわけですね そうしないと多分滅んじゃうんですよ
こういう生き物 あとは直接近くが非常に苦手だ全然できないわけじゃないんですけど目をつぶって鼻先に自分の指を
スッとねスッと近づけると何かが近づいてきたのがパッと感じられる これ v 1点ですけどビジュアルワンですね
ビジュアルワンの世界これが直接近くに近い世界だと思うんですよ 残念ながらでもこれでわかることってすごく雑であの
だって何かが近づいてきたってことだけしかわかんないわけですよ あっと目を開ければですね
なんかもう1670何万色の世界が回ってるのに 目をつぶったらもう色もなければ形もない世界になっちゃうんですね
直接近くっていうのは性格なんでしょうけど夢とかが違って性格なんだけど実に大雑把なんですよ しょうがないですよねそれはね
情報処理じゃないでも情報処理の世界に入ってくると一番金裸しいのに至ると幻覚みたいな 話になってきてありもしないものを見ると
あのもう全く不正確な世界になってしまう これはもうトレードオフなんだと思うんですよね
世界を直接には理解できないあくまでも常に間接的にやると だから文化の世界になっちゃうわけですよ
でこの間接的にやる文化の世界というものは当然リアルに生きている生き物にしてみると ですね
どう考えても下げ隅の対象になるわけですよね つまり人間の生き方にはナルシシスティックなところが必ず入ってきて
なんかもう素晴らしく綺麗なお花とかってなんか妙にナルシシスティックなところがあるじゃないですか だからなんか女の子がそういうこと言ってると昔ね
男の子がケッとか言ったりするわけですよ昔ね 今は男子が花の写真とかガンガン撮ってインスタに上げるみたいな世界に変わったんで
だから文化って変わるんで そういう意味ではあの
なんていうかリアルではないってことなんですよねこれはね リアルでないところが下げ隅の対象になるんだけどこの下げ隅れている
つまりまず下げ隅の人がいるわけですよ ユイちゃんのようにまず下げ隅の人だから逆転位としての怒りになるわけです
自己愛の人がそこに登場すると自己愛の人ってのは切実なんで 何が切実なのかというと文化に入れなさというところで切実なんですよ
野球観戦に行ってみんなが盛り上がっている中で一人盛り上がれてない人がそこにいるわけですよ そこにいる人は
このある意味人から隔てられているわけです この野球観戦というのは野球観戦だけじゃないです
人間の世の中というのは全部文化だから 野球観戦に盛り上がれないだけならいいんだけど
これがその人の根本的な生き方の理由になっているとすると つまり文化に入れないというのがその人の性質であるとすると
つまりそれが自己愛ということなんだと藤山直樹は書いているわけですが そのようなものであるとするとその人は実に生きにくいわけです
藤山狼だからあっち行ってもこっち行っても文化にぶつかって なんかよくわかんないんだけどそこで人々は人生というものを楽しく生きていると
つまり自分は生きてないわけですね 死んだ世界に取り残されてしまっていると ここに詐欺すみと怒りのこいつら何をやってるんだ ふだらねえってことを詐欺すむわけです
そうするとその詐欺すみが相手に伝わってしまうので つまりそこで東洋ドイツ化というものが起き
そこで真っ真に両方のルームじゃないんだけど逆転が起きるわけですね 相手がその詐欺すみに気づいてお前ふざけんなって感じになってしまっていよいよ生きにくいわけですよ
文化とマナーの重要性
ただでさえ隔てられていて 疎外されている これをちょっとコミュニズム的な言葉を使うと疎外になると思うんですけどね
疎外されていると 疎外されているにもかかわらず
てか疎外されているからこそ怒りを伝えると そうすると疎外するんじゃねえって怒り立つよこれはね
そうすると相手になんで俺が怒られなきゃなんないんだっていう 普通の人というか多くの人は文化の中で生きてる人は文化の中で俺は生きているぞという意識を別に持ってないので
疎外されるという人がどんだけ怒ってるかなということに気づかないわけですよね だから不当な怒りをただ抜けられたっていう気が
むしろこの人なんかわけわからんマナー違反のことをやってるくせに しかも怒ってくるみたいに見えるわけですよ
だから例えば赤信号ビューンって言っちゃって なんか赤信号とかで止まれとか意味わかんないしって言ってる人がいるとするじゃないですか
この人がつまり文化を詐欺すんでるわけですよ 信号って文化なんで
赤信号ビューンって言っちゃって 当然だろうみたいな車止まってるわけじゃないんだし そもそも俺止まる気ないし
当たり前なんですよこれは だってそんな赤信号で止まるというリアルじゃないじゃないですか
それは所詮記号とやり取りと取り決めの世界でしかないわけだから 知ったこっちゃないわけですよ
それでビューンって行くわけじゃないですか そうすると周りにいつもなんじゃお前ってことになるじゃないですか
で、なんじゃお前ってことになると いやいや俺はもう最初から怒ってるんですよ
怒ってるから信号無視してるんで あっちに行ってもこっちに行ってもそういうふうにやってるから怒ってるわけですよ
怒っていやいや俺はそんなお前らのことなんか知ったことじゃないしっていう 極自然な態度をその人なりに取ってるんだけど
周りの人はふざけんなって思うから腹が立つわけですよね こうして生きにくくなっていくということが起きてるわけですよ
で、これは文化を尊重できないというケースにおいては しゃあないんですよ
我々だってこういう信号機のような ほぼ世界普遍の文化ぐらいならば尊重できますけれども
全然尊重できない文化っていうのも 世の中にはあるわけじゃないですか
例えばタイの人っていうのはですね メンスするときに音を立てないんですよ
日本の人っていうのは美味しさを表すために メンスするときにあえて音を立てた方がいいと思ってるわけですよ
どっちかしか成り立たないですよね、はっきり 文化ってそういうことが起きちゃうものなので
どっちでもいいことなんだよ、もともと だから尊重できない
号に入りてはって言いますけれども 今の場合号ってものがすごく不明瞭になってきてますから
例えばそのタイの人と 現実にあったことですけどね 我々日本人みたいな人がですね
アメリカだったらどっちに従うべきなんだっていう話が 昔の号に行った場合には
号から滅多に人が出ないっていう そういう想定があったから
そういう文化においては地元のやり方に従いなさいねって それは知恵として正しいと思うんですけど
地元ではないところに2人とも行っちゃってますってことが 今のグローバル社会では山のように起きるわけじゃないですか
ごく普通なわけじゃないですか だからタイの人は絶対音立てないし 我々は音立てまくってるしみたいな
しょうがないんですよね 号はアメリカだって言うならアメリカは自由の国だから
それでいいんですってことになるんでしょうけども 何かおかしなことになってなくはないですよね
でもこれは文化ってそういうもんであって 文化ってのは常に尊重できるとは限らないわけですよね
だからだってあるわけじゃないですか アフリカとかには非常に男尊女気的な文化があるというものがあるわけですよ
そこにアメリカ人の人行っても多分尊重できないじゃないですか むしろいや男女平等にしろみたいなことを平気で言うじゃないですか
で それってつまり文化的衝突って世の中では言われるものなんですけれども 大体ここには下げ隅ってありますよね 尊重できません
尊重できなくて当たり前なんですよね 文化なんだから 文化というものはつまり取り決めであり虚構なんだから尊重できなくて当たり前なんですよ
野球が大好きな人でラグビーに全然興味ない人は ラグビーには熱狂できないわけですよ
で 熱狂できないという時に粗大感を感じてしまうわけですよ こうして権威と逆転が起きて生きにくさってものがそこに現れる
こうやって考えていくと なんだかこう ありとあらゆることに興味を持てばいいのかって感じがしてくるんですよ
それは無理ですよね 特に今みたいに多様になってくると 多分私なんかもそうなんだけど 今娘が喜んで聞いている非常に不思議な音楽
人工的な音楽っていうのか機械的な音楽っていうのかを さらに超高速にしたような音楽を聴いても全然わかんないですもん はっきり言って
で なんとたく自分が昔よく聴いていた 徳永秀明とか聴いてると 演歌っぽく聞こえてきますよね はっきり言って
あ 演歌ってこういうふうに若い人から聞こえるんだろうなっていう これもまたある種 下げすみみたいな世界に近いですよね
理解できない文化は外して下げすまるようなものですよね で つまりそれはどういうことか 人というのはそもそもナルシスティックな生き物なんだってことだと思うんですよね
ナルシシスティックというのはうのぼれが強いというような意味では ここでは全くないと思うんです 本当に
文化の影響
いくらかうのぼれはあるでしょうけど そこにも特別なうのぼれが強い発想ではないですよね
だって 若い人 演歌好きじゃなかったじゃないですか あえて好きって人はいますよ 確かに
で そういう人はある種のリスペクトを得るんでしょうけども でも外して いやー なんかね あの 麦峠峠と
違う違う そうじゃない 津軽海峡 冬池市でもいいんですけど 私 津軽海峡もすぐ近くに住んでたんで
あれがね 青函連絡船のことだよ 繰り返し 繰り返し流れてるんですよね ずーっと流れてるんですよ 船の中で
だったんですよね 当時 今は知らんですけど ああいうものっていうものに対して なんかやっぱりこう
リスペクトしないですよね するべきなのかもしれないけども べきって言ってる段階でしない
何かが内在されてるわけですよ それは多分私は 人間というものの生き方は そこにそもそもナルシシズムっていうものを内在するものであると
つまり 文化というものに通じてしか 生きるってことが普通にですね つまり哺乳類なんで 哺乳類ってキリンが保育園を持ってるようにですね
みんなと生きる生き物なんですよ これがまず前提にあるんです 爬虫類だったら そんな群れを必ずでも
いずにバナナワニ園っていう バナナとワニばっかりの ある種の園があるわけですけど
ワニってね すごい身を寄せ合うんですよ はっきり言って積み重なってるんですよね あの積み重なりは何なんだろう
ピクリとも動かないですよね しかも昼間とかはね ただただ日陰でみんな積み重なって
だからやっぱり生き物っていうのは 群れで生きるものなんだと思うんですよね そういう極めて具体的単純な
あの群れ方だとしても やっぱり群れるもの 群れというもの あいつら群れやがってみたいなこと言って文句言ってる人いるじゃないですか
つまりそれは非常に文化から阻害されている感じに 起こってるんだと思うんですけど この文化から阻害される感じに起こるのは
人は群れるために文化を要求するからで 一つには人というのはやっぱりつまり 群れねばならない
もう一つは その群れ方は間接的な交流を 通さなければならないということだと思うんですね
直接交流というものがないから 直接交流というのは いわゆる裸の付き合いみたいになるんだけど
ダメでしょ 人間の場合は 今のように文明化してくれば来るほどダメになっていきますよね
どんどんどんどんそうなっていくものなので で どうしてもその群れるっていう時 交流するっていう場合に
インターコースなものになっていくんですよ 間接的なセックスみたいになっていくんですよ
この場合 何を媒介にするかっていうと 言葉しかないわけですよね 多くの場合
言葉じゃない場合は コミックマーケットとかはそうですけど ああいう作品を媒介にするってこともできます
まさにあれは文化になってるじゃないですか どうしても文化になってしまうわけですよ
ああいうものっていうのは 昔からもよく言われてたんですけど 昔マスメディアとコミゲってめちゃくちゃ仲が悪かったんですよ
めっちゃ叩いてたんですよ 何でここまで叩くんだろうぐらい叩いてたんですよね お互い仲が悪くって
マスメディアの言い分っていうのを読んでると やっぱり文化とは無駄だっていう 一言で言うとそういうことなんだなってことなんですよね
クソを書いてないですよ もちろん だってマスメディアって文化の世界だから
でも明らかにあそこに書いてることを 突き詰めて言うと文化は無駄だってことなんですよ
そんなことをしていて何になるんだってことなんですよ
でもそんなこと言ったら 漫画を読んで何になるんだってことになっちゃうし
小説を読んでも何になるんだってことになっちゃうし つまり何になるんだかわけわからんことばっかり
世界ヨーロッパの方で最初に現れた新聞って どういうものだったかというと
ごく当然のことなんですけど 今で言うところの 週刊実話とかああいったようなものなんですよ
ゴシップをひたすら書くと もうちょっとあれで 街で作ったおじさんの作り話みたいなものを掲載するのが新聞
いかにもじゃないですか つまりそれはなんとんだろうな
空想の世界ですよね
これこそが人間がずっとやってきたことなんだろうなと思うんですよ
これが爆発的に人気が出るということは つまり人というものはメディアを通して交流したい生き物なんですよね
それはどういう意味かというと交流したい生き物なんですよ
そういう意味ではキリンとかとなら変わらないんですよね
猿もそうじゃないですか みんな群れてますよね
時々アウトサイダーな猿って出るんだけど あれも完全にアウトサイダーな生き方ってできないんですよね
幸島の猿というのを読んでいただくと 非常に面白いのがアウトサイダーな猿なんですけれども
でもアウトサイダーな猿はですね 完全に幸島から離れることはしないんですよ
アウトサイダーの文化ってやっぱりあるわけですね
周辺に行くわけであって 決して完全に離れて離島に行ってはしまわないんですよ
無人じゃなくて無縁の島にはいかないわけです
猿がいる島の周辺で暮らすんですね
やっぱりそういうことなんだと思うんですよね
幸島には芋洗いの文化があるらしいんですけど 他の猿にも芋あるんだけどない猿の群れもあるんですよ
らしいんですよね これも私知らんですけどね
この辺のことも全部そうで 文化ってそういうもんなんですよ
結局我々は 猿の場合超具体的な文化ですけど
我々の場合も非常に抽象的な文化ですけれども
ここに入れるか入れないかが焦点付けられているポイントなんだろうと
そういう意味で結局 じゃあなんでナルシシズムの
つまりナルシシズムはみんな同じなんだけれども
特にナルシシズムの病理って言われている人たちの場合
その文化的な拒否感 何が理由でそこが文化は拒否されることになったのかというところに焦点付ける必要があるんですね
だからおうちがそうだったっていう話になってくるのは
いかにもなわけですよ 心理観察において
今はややスタレ気味ではありますが なんで過去をこじくり返すのとか
そういう親の話とか深掘って言ってもしょうがないじゃんっていう話になるケースはまたあるんですけれども
なんでかっていうと その時にその家の極めて特殊な文化的
結局どんな家族も文化ですから 文化が崩壊しているようでも文化ですから
その崩壊に仕掛けている あるいはあまりにも過度に文化的すぎたおうち
例えば赤ちゃんにものすごい小さい頃から 非常に高度なチークを頑固を与えてひたすらひたすら教育する
それはめちゃくちゃ文化的じゃないですか
でもあまりにも文化的すぎて息が詰まるような文化みたいなもので生きている人がいらっしゃると
そこにどういうナルシシズムがきざすのか ナルシズムはみんなきざすんですよ
ナルシシズムの理解
文化に生きてるってことはそもそもナルシシティックなことだから
先日だってですね グループセッションの中で私が空想の中で観客というものを見立てて
そこでプレゼンをするというのは非常にナルシシティックな行為だっていうので
ちょっと議論が起きてよかったんですけれども
これは意外と刺激になるらしいということが判明したので
今後この話をいろんなところでできればいいなと思ってるんですけれども
人を空想するじゃないですか 想像力の中で
例えば私もこのフォトキャスト喋っていて聞き手を空想してるわけですよね
でもこれはナルシシティックな行為ですよね 非常に文化的なやり方ですよね
明らかに文化じゃないですか
相手は座って見ているという想定をしているわけですからね
座って聞いてるのかどうかはわかんないですけど
でも椅子とかに座っている光景を思い浮かべながらプレゼンするわけじゃないですか
椅子とかに座ってるっていうのは既に非常に文化的ですよね
別に椅子に座る必然性ってないじゃないですか
いきなりパイプ椅子に乗って暴れ出してもおかしくはないわけですよ 動物だったらね
だからここには文化的交流があるんだけど
しかしそれが空想で賄われるということは
その人は交流から隔たられているわけですよ
ここでそういう空想で練習するのは全然普通にあることでいいんですけど
その空想の練習にものすごい気合を入れる
この空想の観客が全員に服従するまで俺は練習するみたいになってくると
そこにナルシシティックな何かがものすごく強くきざし始めるわけですよね
そこではリアルな交流を何かすごく恐れているものがあるわけですよ
なぜ恐れるかっていうと
例えばちょっとした自分の言いミスみたいな
あるいは言葉じりみたいなものを捉えられてみんなに嘲笑される
つまりこれは人に対する恐怖ってものはどこか反映されてますよね
そしてそこには他人に対する軽蔑ってものがどこかやっぱり
行きどりかもしれないけど反映されてますよね
つまりその人は本当の交流を避けたいとどっかで思ってますよね
だから自分が思わず普通に交流していたら当然出てくるであろう
時間の設定ミスとかあるいは言い間違いとか
それこそフィーラーみたいなここでこの番組でやたら出てくる
あのーとかえーとかそういうやつですよ
ゼロにする
それは生身の自分はそこには出さないってことになってくる
そして自分が想定した徴収がみんな満足するっていうことをもって
リアルな徴収の満足のシミュレーションに完全に置き換えてしまうということは
ある種の否認です
そこでも徴収はいなくていいことになっているんです
自分が喋ったことに対して必然的にいい応答をするっていうことだけが起きれば
つまりバーチャルでみんなが拍手喝采してくれるのが
ただリアルで起きればいいっていうぐらいリアルとの隔たりがあるわけですよね
ということをその人に生み出したような家族文化って何なんだろうってことを
考えるとするとそれは心理カウンセリングなんじゃないでしょうか
まあ突き詰めて言うと精神分析なんじゃないでしょうか
っていう話になってくるわけですね
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