自己愛の理解
おはようございます。 精神分析を理解したい3ヶ月チャレンジ、第1231回をお送りします。
8月12日火曜日、8時8分です。
えーとですね、まもなく、多分もう、今日か明日、少なくとも今週中には
昨日お知らせしたタスクシュート完全管理術のセミナーがですね、満席になると思いますので
あのー、まあ、気になっている方はですね
早めにチェックしていただければと思います。で、万は一これを聞いて埋まっちゃってるということがあってですね
しかもそんなはずはなかったという方がいらっしゃったら、私までご連絡ください。
必ず何とかしますとは言えませんけれども、もしかすると何とかなるかも。
このポッドキャスト聞かれている方は、なんだかんだすごくこう、絞られてるんで、
別に絞ることを狙ってるわけではなんでもないんですけど、オープンで世界中に発信してるんだけど
必然的に絞られてしまう、必然的というか自然に絞られてしまっておりますので、
多分何とかなるんではないかというふうに思いますので、
まあ、よろしければご連絡いただければと思います。
ではですね、先日来ですね、久しぶりに、小銀色の本って伝わるかな、
藤山直樹さんの精神分析という営みだったと思うんですけど、
3作、なんかこう似たようなタイトルなんで、俗と語らいがあるのかなと。
俗精神分析という営み、あとは精神分析という語らい?あれ、ちょっとよくわかんないんですけど、
まあそういうような、ちょっとですね、3部作があるんですよ。
で、最初のやつですね、最初のやつを読み直していて、
まあ、あの、まだまだ、こう、全く新しい発見がありすぎて驚くんですけど、でも、
新しい発見がどんどんあるということは、まだ私の理解度は上がっているということでですね、
あの、割と安心感もあるんですよね。何回読み直してるんだかわかんないんだけど、
それでもまだ発見、何回読み直してるって言っても、まともに読み直してる回数は10回ぐらいだと思うんですけどね。
それでも発見があるっていうのは問題がある気もするんですけど、
とにかくあるんですよ。ある間はですね、自分は、まあ多分健全でいられるだろうぐらいには思っているんですけどね。
あの、というわけで、何の話をしてるんだっけ?
えーと、そうそうそう、それでですね、自己愛の章が出てくるんですね。
で、その自己愛は昨日の話とちょっと通じるんですけど、要するに自己愛というのは、
自己愛性パーソナリティ障害とか言ったりするんですけど、ナルシシスティックパーソナリティディソーダーでNPDと訳したりすることもありますけれども、
そういうふうに客観的な自己愛の人がいるというよりは、あの、この人と対面してると逆転移的にどうしても腹が立つとか、
どうしても軽蔑しちゃうとか、そういうことが起きた時にこの人を自己愛的だとみなすっていう感じのニュアンスの話をしているわけですね。
で、つまりそれは自己愛の人かどうか、他の人にとっては知らんってことなんですよね、ある意味ではね。
私との対照関係においてはそうなって、おそらくそういう傾向がいろんな人と深く関わるうちに出てくるから、この人は人生がうまくいかないんだろうな、みたいな、そういうニュアンスなんですよ。
それをどうするんだって話はまた別なんですけど、ただ難しい話だ、みたいなことが書いてあるんだけど、非常に私としてはですね、納得感が高い話なんですよね。
つまり、自己愛の人はいないとまでは言い切れないかもしれないけど、他の人にとってその人は別に自己愛かどうかは問題じゃないよねってことはあるわけじゃないですか。
例えばその人になって親友いたりするわけで、親友の前では全然違ったりする人って結構普通にいるんですよね。
そういう人は客観的に本性を出すと自己愛だとかいう話になるのかもしれないけど、それはそれで変でして、じゃあカウンセラーの前では本性が出るけど親友の前では出ないのかっていうと、むしろ逆なんじゃないかっていうことも考えられるわけですよ。
本性は自己愛的じゃないのに、いろんな人の前では本性が出せないからむしろ自己愛的になっちゃってるって考え方もできるじゃないですか。
こういうことを突き詰めていくとだいたい泥沼に落ちるので、そんなこと考えない方がいいと思うんですよね。
逆転移の感情
で、面白いと思ったのがですね、その3つに分けてあるわけですよ。込み出しが3つついていて、自己愛対象関係においてですね、まず行き通りが来ると。
要するに見下されている感じがしますからね、自己愛の人にはどうしても。だから見下されていて、しかも相手は傲慢な感じがするんだけれども、
根拠となるような、つまり存在であってもその人は本当にすごい人かもしれないじゃないですか。
ちっともすごくないということがどうやら明らかになってきているのにですね、えらく傲慢だと。
例えば全然お金はないんだけれども、お金なんかへでもないみたいな感じで、なんつうんですかね、アクセック働いている奴はアホだみたいなことを言われていて、
アクセックが働かされているカウンセラーさんは腹が立つじゃないですか。そういうふうに、非常に今の全然無意識でもなんでもないんで逆転っていうには
妥当じゃないんですけど、こういうのなんて言ったかな、感情的応答とかいう表現があるんですけど、まあそんな話はいいとして、腹が立つと。
要するにですね、こういうのがまず一つあるよねというのがあって、その症例が出てくるわけですね。
で、あんまり変わらないじゃんって思うのが2つ目で、軽蔑したくなると。あんま変わらないじゃんって思うんだけど、腹が立つというのと軽蔑するというのはちょっとやっぱ違いますよね。
だから要するに同じような感じなんですけれども、この人はいい気なもんだなぁみたいに思ってしまうと。そういう逆転意があるということですね。
これはですね、私はでも自分も全くそうなるというわけではない気もするんですよ。
自分もそうなるかもしれない可能性は大いにあると思うんだけど、これは藤山直樹さんの性格もきっとあるに違いないって感じがなんか伝わってくるんですよね。
なんか伝わってくるんですよ、とにかく。そういうのがないはずはないっていうふうに書いてるし、ないはずはないと私も思うんだけれども、
でも藤山さんほど私はこういう感情、ではない感情がきっと湧く気がするっていうのがあるんですよね。
だから対象関係における感情的応答でもなんでもいいんですけど、そういうものっていうのは自分だったら大体このタイプにはどういう感情を抱く。
つまりこういう感情を抱くってどういうことなんだろうって考えていくより他ないと思うんですよね。
なんかこう網羅的リストみたいな、軽蔑、憤り1、憤り2、軽蔑、この場合は自己愛みたいな、そういう感じにはなり得ない感じがするんですよ。
結局そういう感じになるのかもしれないけど、必ずしも自分もそうだとは限らないよねって感じがやっぱ感情なんで、感情ってパーソナルなものなんで。
仮に同じような名称が付けられたとしても、そこの温度差みたいなものって大きいと思うんですよね、結構ね。
だから私は別に自分が生きどりを持たない人間だとか言いたいわけじゃなくて、結構腹を立てたりしがちなんですけど、でもなんかちょっと違うような気がするなっていうのはちょっとあるんですよ。
でも非常にまたその軽蔑の章例みたいなのができて、大事なのは、なんていうのかな、その軽蔑心が強く現れたときに何かこう感づくものがあるみたいな。
そのうっすらとしているっていう段階では別に、それ以外にもいろんなことを考えてるわけじゃないですか、話聞いてるし、いろんなことが巨大すると思うんですよね。
だから自己愛が形作られている部分に、感づいていくフェーズから、気づくフェーズから、さらにその先に自己愛みたいなところまでいくフェーズに、なんか変化が訪れるわけですよね。
その逆転移的な感情の中での色合いが少しずつ少しずつ変わっていく感じがあって、そこが描かれているわけです。
で、この2つはそうは言ってもですね、ひどくわかりやすいわけですよ。
で、僕はでも、その2つは前々から読んでいたときから、まあまあそういう話ねみたいな対照関係で、やっぱりこう、二者関係の中の感覚みたいになるというところにポイントがあるよなっていう話として、昨日したような話なんですけれども、
3つ目は全然違っていて、非常に興味深いんですよね。文化から締め出されているって話を展開されてるんですよ。
まあ、本買って読んでいただくとわかりますけれども、とにかくこの文化から締め出されているという点は素晴らしいなって思うんですよ。
つまり、どうして腹が立つのか、どうして軽蔑したくなるのかというのは、逆転移なんで、結局のところ、ある意味ではクライアントさんですよね、この場合、クライアントさんの気持ちが入ってきているとも言えるわけですよ。
だから、自分が軽蔑されている、自分が腹を立てられているっていうのの逆転移だって考えることも当然できるわけじゃないですか。
そこには要するに、どっちがどっちに腹を立てているかっていうことよりも、その2人がそこに、まあ3人でもいいんですけど、そこに関わっている人間が腹立ちしやすくなる、軽蔑をお互いにしやすくなるっていう雰囲気がそこに展開してしまってるっていう意味だと思うんですよね。
それは生きづらいですよね。そういう展開をさせがちなパーソナリティを持っていらっしゃったら、その人は生きにくいですよ。でも、これもまた、その人の条件によって変わっていくわけですよ。とはいえ、根拠があればってことになるわけですよね。
例えば、大金持ちだったら、存在だとかそんなに感じないのかもしれない。だって大金持ちなんだから、この人はある意味頑張ってるわけだから、尊敬に値するじゃんっていう人もいるかもしれないじゃないですか。
文化的影響の考察
でもですね、カウンセラーの方が実際は金を稼いでいた場合はそういうことはあり得ることなんで、あるいはカウンセラーが持参家だっていう場合はまた違うじゃないですか。
だから私は対象関係っていうの、逆転意義っていうのは非常に相対的なものを含むから大事だと思うんですよね。
逆転意義っていうわけじゃないんですよ。相手が存在だとしても、例えば大人だっていうことになってくると、子供は逆転意義として軽蔑はしないと思うんですよね。
いいおっさんなのに自慢ばっかりしてみたいに思うかもしれないけど、それはだいたい思春期ぐらいになっての話であって、3歳児とかだったら不運並行って一生懸命聞くかもしれないじゃないですか。
だから逆転意義の兆し方っていうのはやっぱり人それぞれだと思うんですよ。対している人間がどういう人であるかによって大きく変わると思うんですよね。
その人に恋愛感情を抱いている女性だったらまた全然違って聞こえる可能性はありますよね。その後の展開が平行しそうですけど、少なくとも恋してるときは全然オッケーな感じがするじゃないですか。
いくら存在だって、この人は今はこうだけど、この今はこうだけどが怖いんだけど、今はこうだけどこれから大成功するに違いないみたいに思ってるかもしれないじゃないですか。
だからカウンセラーさんは逆転意義として、この存在さにもう腹が立って仕方がないってなるかもしれないけど、みんながみんなそうなるとは限らないわけだけれども、でも兆し方に一定のパターンはありそうな話だよなっていうのは納得できるわけですね。
この軽蔑とか憤りというものが展開しやすい状態、人間関係の持つ一つの本質的な要素としてですね、3つ目が挙げられていて、これが文化から締め出されているって話なんですよね。つまり遊べてないって話なんですよ。
要するに、これは藤山さんの本の中での論なんですけど、文化から締め出されているということは、人の生き方としては不満足な生き方なんだっていう話なんですね。だから不平不満を述べたくなるのは当然なんだと。
文化といえばカルチャーじゃないですか。何言ってんだって感じなんですけど、カルチャーセンターとかってあるじゃないですか。カルチャーセンターに割とすんなり溶け込める人と全く入っていく気がしない人っていそうな感じがするじゃないですか。
何カルチャーセンターって本当にみたいな感じで、この感じとナルシシズムってのが似てるって話だと思うんですよ。何でもいいんですよ、ほら、例えば将棋会館みたいな、街の将棋さしに行く場所みたいなのあるじゃないですか。一つの文化ですよね、それはね。
でもこの文化のあるところに入っていくというのはですね、ある種抵抗があると思うんですよ。そこにはいろんな人間関係があったり、だからそんなところ行くのめんどくさっていう人って絶対今時多そうじゃないですか。このめんどくさいっていう言い方の中にナルシシスティックなものってありそうじゃないですか。
ひどく自己愛がありそうな感じがする。だってああいうところ行くと傷つくしみたいな、そうは言わないと思うんですけど、そういうふうに内心で恐れている可能性ってありますよね。つまり文化の中に入っていくってことは、傷つきを得得る可能性があると。コミュニティってそういう話よくあると思うんですよ。だから優しいコミュニティとかっていう言い方が割と流行るんですよね。
あるいはニューカマー、新参の人にとても、新参の人に対して、私なんか絶対言われると思うんですよ、オンラインコミュニティ講師みたいな人っているんですよ。だからつまり文化に人を溶け込ませる講師みたいな人っている。これはつまり何を意味しているかというと、人との、人の交わりの中に入るのは簡単なことではないっていう含みがありますよね、ここにはね。
だからそうなんですよ。私なんかだから絶対3ヶ月チャレンジのグループセッションとか聞かれると、佐々木さんは新しい人に優しくないですねとかって言われると思うんですけど、これには訳があるんですよ、ある程度。
だから、この最初の人にはすごく配慮しなければいけないよねって言ってる人が、それこそコミュニティ講師みたいな人って絶対そういうこと言うだろうなって感じがするんですけど、これは偏見かもしれませんけどね。
でも、これを言うってことはその人のパーソナリティーをよく表しているんですよ。あなた苦労しましたねって感じがするわけですよ。私にはわかるんですかって言いそうじゃないですか。本当に新人の時こんなに嫌な思いをしてみたいな、あるあるですよねみたいな感じで訴えそうじゃないですか。
ということは、それも演技かもしれないけどね。ということは、その人は私は何かあるなって思うんですよね。パーソナリティに得意なものがあって、決してそれは講師の客観的な目線ということになるでしょうけれども、実はそうではないはずだって私はつい思っちゃうわけですね。
コミュニティ参加の難しさ
話し手1のことにかったということですね。
話し手2のことにかったということですね。
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