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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
5月29日の水曜日、朝4時33分です。
昨日はすごい雨でしたね。
ガーデンリングやってるんで、非常に恐れてたんですけれどもね。
実際、なぎ倒されちゃうことはありますから、なぎ倒されるんじゃないかと思ってたんですけど、昨日はなんとか持ちこたえました。
年々ね、うまくはなるんですよ、さすがに。
学習もするしね、倒れないようにする工夫は、
これ本当に農家さんってこういうのと戦ってこられたんだなっていう支柱ってあるじゃないですか。
組み方がですね、もう本当にまさに農家博なわけですけども、
いっぱいあるわけですね。
まあでも、いろいろありますが、そうは言ってもね、風速30何メートルとか吹いちゃうと倒れますからね。
家だって倒れることがあるのに、家は倒れないですよ、屋根とか飛ぶじゃないですか。
支柱倒れないはずがないんで、そんなの吹いちゃったら、それアウトなんだけど、まあまあ、昨日は持ちこたえましたね。
昨日はね、10メートルも吹いてませんし。
そんな中で、久しぶりに野球ネタですけど、千葉ロッテが絶好調で、18年ぶり急連勝とか言って、
昨日ちょっとインチキ臭い勝ち方でしたけどね、雨の力で勝ったぐらいな感じがしますが、
まあでも、今年は結構いいんじゃないかなと。
途中ちょっと絶望的なくらい酷い試合多かったんですけど、最近はすごい良くなりましたね。
まあほとんど興味のない人も多いと思うんですけど、でもあれなんですよね、
Spotify、Spotifyから最近ほら、StandFMに移行しようかなと思ってたんですけど、
ほぼその気はなくなったんですが、その最大の理由として、Spotifyは分析がすごいきちっとしてるんですよ。
割と当てになる数字なんですね。
私はこの種の数字にもうそれほどこだわるほどの感じじゃないとずっと思ってたんですけど、
最近やや考えを改めまして、確かに私のこの総数は全くこれで生きていくなんてナンセンスですけれども、
この内容で、この規模で聞いていただけるのであれば、やっぱりこの数字はちゃんと見ておいた方がいいなと思うようになったんですね。
多分このSpotifyのフォロワー数で言うと300弱で、でも聞いている人の数で言うと300強って感じらしいんですね、1エピソードあたり。
僕はこの数字は多分妥当だろうなと、Spotifyに関して言うと。
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これが多分ですね、スタイフさんの方に行ってしまうと、結構Spotifyとの兼ね合いで見えなくなってくると思うんですね。
考えてみるとですね、表面的に少々増えてみてもあまり意味ないなと。
やっぱり例えばね、私のこの周りの人でも10分にまとめてくれれば聞くんだけどねっていうお話いただいて、
それはよくわかるんですよ。
この私のこの話をね、1時間も聞いてられないですよね。
でも聞いてくださる人がいるわけじゃないですか。
これを10分でまとめた場合には聞いてくださる人が聞いてくれたとして、
私に何が言えるだろうと思うと何も言えないんですよ、大したことは。
本当にロッテの話で終わっちゃうんですよね。
そういう仕事の仕方もあると思うんです。
でも私の仕事の仕方はそうではないんですね。
だから仮にそんなことは起きないけど、これを5分にまとめたらフォロワーが1万になりましたとしてもですね、
多分それをやってしまっても、
サンチャレに来る人の数は例えばそうまでしても変わらないんじゃないかということが、
私は考えておいた方がいいだろうと。
でも1時間聞いてくださる人の数は、
それは多い方がありがたいっていう感じでやっていけばいいんじゃないかなと思ったわけですね。
だってあれですよ、相互に、双方のために思ってもいい。
例えば今日とかめっちゃ暑くてですね、
頭にヘッドホンしていると、
ここで1時間喋るのは結構きついんですよね。
でも喋るわけですね。
聞くほうもきついじゃないですか。
だから双方にとってこれ10分で済むならいいんじゃないかっていうことなんだけど、
そうではないものがあるんですよね、ここには。
そうではないものはやはり安易になくなってはいけないと思いますので、
10分にしてほしいという人には申し訳ないですが、
たぶんその人は10分の私の話では3回ぐらい聞いたらもう嫌になっちゃうと思うんですよね。
だからたぶんご希望のものとは違うんだと思うんですね。
そういう感じでやっていこうと思ったので、
Spotifyいいかもって思ったわけですね。
さらに割と正確な数字であるという、
前に思い出したんですけど、
倉田のけいぞうさんがGood Vibesのミッドナイトラグザーだったと思うんですけどね、
おっしゃってたのが少しわかる気がしてきたんですよ。
例えば私のこの番組でもですね、
もうまるっきり精神分析の話してるなっていう回は聞かれないんですね。
私がたぶん一番力を入れているであろう回はほぼ聞いてもらえないです。
いや違う違う。
たくさんの方に聞いていただけるけど激減する。
これが正しいからですね。激減するんですよ。
06:00
たぶん朝ですね、こうやってパッと見る直前に、
昨日は何回再生されましたっていうの。
これが最初見る回数なんですね。
大体100なんですよ。
多い時って130ぐらいかもですね。
少ない時って70とかになるんですけど、
これが決まって精神分析っていうワードが入ってる時なんですね。
だから今回とかは68とかで、
これはもうなんかここ最近でもワーストだって思うと精神分析の理解のためにとかね、
こういうタイトルの時は大体ダメなんですよ。
でも私はこういうタイトルの時が一番自分としてはいけた感じがしてるんで、
ここにこういうことを倉野野さんがミッドナイトラクザでもおっしゃってたなというのを思い出したわけですね。
ここは多少私やっぱり怯むのはしょうがないと思うんですけど、
定期的にこの話題は回していけばいいんだと。
130と結局70を行ったり来たりするというのが今のところいいんだと思うんですよね。
この触れ幅を大きくしていければいいんじゃないかな。
あと100回のうちにこれが65から140みたいな数字に変わっていくと理想的なのかもしれない。
そのために何か考えておけばいいのかなというふうに思ったりしました。
精神分析に私が不人気であろうと何であろうとこだわってる理由は確かにいくつかありまして、
一つはですね、これがやっぱり私の中ではGood Vibesにつながっていくっていう感じを抱いているんですね。
これはすごく違う話が一緒になっていて、しかもそれはしょうがないことだと思うんですよ。
Good Vibesの一つの重要な、二つですね重要な特徴があって、
これは倉野慶三さんの発案によるものなんですね。
ということは何を意味しているかというと、日本初であるということですね。
そして、令和初であると大体言っていいと思います。
平成にもあったかもしれませんけど、令和初のものだと考えていいですね。
つまり現代的だってことです。
現代日本のものであるとここがポイントなんですよ。
よくしばしば批判されるというのかな、本で批判されるところとしては、
マインドフルネスとか善と変わらないではないかみたいなそういうのっていう。
倉野さんからするとこれは到底納得がいかないかなと思うんですけど、
そう見えてしまうもそれはそれでそういうことは起こるだろうなと僕は思うんですね。
でもそれはですね、仮に全く同じものだとしてもいいんですよ。
なぜか?
マインドフルネスはジョン・カワトジンがアメリカで発案した、しかも昭和なんですよ。
これはですね、大事なポイントなんですよ、私からすると。
私からするとではないと思ってるんですけどね。
少なくとも私はそう思ってるってことですね。
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仏教ってのは印度初で紀元前のものなんですよ。
これが同じだとしても、言ってることが同じだったらすごいことなんだけどね、
言ってることが同じだとしても伝えるべき人たちは全く違うんですよ。
だってね、仏教ではよく出てくるじゃないですか、アジャセ王子って出てくるわけ。
あれは古代インドのワガダ王国の王子様だったわけですね。
ああいう人を説得しなければならないんですよ。
一歩間違えたら殺されちゃうんですよ、ブッダなんて。
この状態の人と、しかもそれをインド語で答える、古代サンスクリット語ですけど、
そういう言葉で喋ってるわけですよ。
普通にちゃんと伝わるとは思わないじゃないですか。
だって3000年くらい前の話が、
しかも全く違う、今は使われてない言語で話されてる言葉がですね、
中国語に訳され、日本語に訳され、
もうなんか、伝言ゲームの最悪のパターンで、
もしかすると話が逆になってるかもしれないじゃないですか。
で、問い正せないんですよ。
あなたこうクーとか言ってるけど本当のところどうなんですかみたいな、
インタビューはもうできないわけじゃないですか。なくなってるからね。
これができるんですよ、グラゾノさんであればね。
で、これジョン・カバトジンでもできないんですよ。
私昔、ジョン・カバトジンのマインドフルネスは、
NHK特集で見たことが、
これは私が中学か高校1年くらいの時だったと思います。
私アトピーだったから、あれはすごいね、感銘は受けたんですよ。
彼は痛みについて喋ってましたけどね、
非常にやっぱりね、あれ、ただテキストに直しちゃダメなんですよね。
彼が言うからいいんですよ。
しかもできれば生の声で言うのがいいんですよ。
ここに日本語ってさっき言った意味があるんですね。
で、ジョン・カバトジンは言ってたわけですね。
あなたは、あなたの痛みで苦しんでると思ってると。
でもそれはあなたの頭の中にある考え方に過ぎないんだと。
あなたは一生この痛みが続くかもしれないと思ってるけれども、
それはあなたの考えに過ぎないんだ。
なかなか私ね、こういうことを聞いたことがあまりなかったような気がするんですね。
あるんですよ、仏教に。あるんだけど、
やっぱり中学高校の時、父親の話なんてほぼまともに聞かないじゃないですか。
いろいろあってね、昭和だし、聞かないわけで平成だったかな、
すでに平成でもまだ一桁ですよ。
で、ジョン・カバトジンがそうやって喋ってたわけです。
それは真空に過ぎないんだと。
繰り返しそれはですね、でもね、やっぱり伝え方が違うんですよね。
喋り方も違う。
だから入っていき方が全く違うんですよ。
あれ目の前で聞いているアメリカ人なら聞くだろうなって思うんですよね。
そこにカウンセリングっていうものがあるんですよね。
で、基本的にこれがクラノンさんがおっしゃってるようなこととそう違わないってのはそうなんですよ。
でも日本語の人に、その人がオリジンで開発したもので日本語で話される、
12:01
しかもその人は生きていて、我々はそれをすぐに問い正すことができる。
ジョン・カバトジンはできないですからね。
このいずれも無理。
日本語では問い正せない。
そもそも本人に会って問い正すのもほぼ無理。
だから真意がよくわかんないわけですね。
例えば日本人はthinkも思うとか考えるに略しますけど、
思うと考えるはカウンセリングの世界ではかなり違いますから。
そういう問題をどうしたって詰めていけないじゃないですか。
実際にそれをやるとなった時にですね、
例えば慢性の痛みがあるってのは辛いじゃないですか。
それは考えに過ぎませんとか言われても、
納得できるかどうかっていうのが勝負どころであって、
一つのアイディアとして捉えるんだったらですね、
大した役には立たないわけですよ。
これを私があなたの考えに過ぎませんと言っても、
多分その慢性の痛みを抱えている人には何にもならないんですね。
でもジョン・カバトジンが痛みに堪えている時に目の前で言ってくれると違うんですよ。
そういうことがあるから、
何語で喋っているか、その人に会えるのかっていうのは実際違うんですね。
私はすごいその当時慢性の痒みで悩んでたから、
これは考えに過ぎないんだって頑張ってみたんだけど、
ほぼ無駄だったわけですよ。
でもあの発想に触れたっていうのは大事な体験でしたね。
今から考えるとそういうことは言える。
でもそれで痒みが止まったり、アドビーが良くなったりはしてないんですけどね。
この辺のことがあるから、
私は日本人でこれをオリジナルでね。
オリジナルってのもまた大事なんですよ。
クラズノさんはほぼ確実に読んだことが仮にあったとしても、
マインドフルネスを翻訳したわけでは絶対ないんですね。
ここが大事なんですよ。
マインドフルネスを翻訳したんだとすれば不正確ですからね、あのお話は。
完全に正しくはないと。
だからオリジンであるっていうことと、母語であるってこと、
生きているってこと。
これはやっぱりですね、全然いいわけですよ。
こういうのを大事にしていく価値があるんではないかと私は思うんですね。
この発想が何かに似てるかどうかというのは、
つまりそれがですね、何かの翻訳かどうかって話をしているんであれば、
翻訳かどうかをまず確かめてみた方がいいと思うんですね。
翻訳だとしたら不正確ですよ。
翻訳ではないんですよね。
でもジョン・カバトジンが言わんとしていることと近いってのもまたあるんですよ。
でもそれは体験っていうことが背景にあるわけじゃないですか。
そういう体験をしました。
おそらくジョン・カバトジンも間違いなくそういう体験をしたんだと思うんですよね。
で、自分の体験をまんま伝えることはできませんから、
我々はそれを何らかの形にして伝えるしかない。
大概は言葉という形にして伝えるしかないんですね。
ここにすでに伝わらない要素が混乱に入ってくるわけです。
体験をまっしぐらに伝えられればいいんだろうけど、
そういうわけでいかないので、我々テレパシーできないやつから、
結局のところはそれを何らかの形で伝えるしかないんですよ。
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この場合に外国人に会うことができない、
外国語で話されているというのも、
不利益もあらはらしいんですね。
非常にそこが障害になってくるわけです。
仏教って本当にすごいもんですよ。
よく伝わっているよなと。
伝わっているだけいいと思うぐらいなことしかできないんですよね。
だって、某じゃない。
そもそも今その言葉を使ってもいない。
もちろんその人は亡くなりになっている。
というか、その人実在したかどうかそれはもう、
実在したんだろうなと信じるしかないぐらいな、
そういう話ですからね、あれはね。
ようやく最終のところに戻るんですけれどもね。
精神分析というのは、
要するにご指揮だったカウンセリングとして、
世界初のものなんですね。
で、この何らかの理由で、
この延長線上に僕はグッドバイブスがあるとは思っているんですね。
それは精神分析がグッドバイブスになったって話じゃないですよ。
結局のところ、心の問題を何らかの体験をした人が、
この体験を伝えると、
人の心にとっては非常に良い、
良いっていうのはいろんな意味がありますが、
とりあえず良いと言っておきますが、
良い影響になるというふうに考えた人がやることは、
基本カウンセリングという形式を取るんですね。
この形式をかなり科学的にというのか、
全然科学的じゃないじゃんと言われればその通りですが、
合理的にというのか、合理的でもないけどね、
やったのがフロイドという人なんで、
つまりその伝統はあったということなんですね。
だからこの精神分析というものを追っていけばですね、
グッドバイブスというのが何をしているのかというのが、
非常に言語的にはだいぶ分かるようになるし、
さっき最初にガーデニングの支柱の話をしたけど、
そこには大量の知恵がありますから、
工夫と知恵の集積ですからね、
精神分析の伝統というのがですね。
だからそれは非常にこの種の活動を理解するのには、
多分相当有効なはずなんですよ。
私が考えているのは要はそういうことなわけですね。
別にフロイドとグッドバイブスで言えば、
これはもう大して似てないですよ、はっきり言って。
似てるところももちろんあるんだけども、大して似てないですよ。
それだったらマインドフルネスのほうが似てるという意味では似てるでしょうね。
マインドフルネスはやっぱりジョン・カバドジンは、
精神分析があれほど流行っていたアメリカで、
精神分析を決してやらなかったというのは、
十分わけがあると僕は思いますね。
ただそれは何と言うのかな、
おおむね精神分析って技法の問題に集中しているんですね。
グッドバイブスとかマインドフルネスは基本考え方に集中しているんですよ。
それはなぜかというと創始者だからなんですよ、どっちも。
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フロイドは創始者だから考え方も技法も両方なんだけど、
以降精神分析はフロイドイズムではないんですね。
ここがこれの欠点でも長所でも大筋長所なんでしょうけどあるわけですね。
フロイドは誰でもできるようにこれをしたかったわけですね。
そこにすごい全力を尽くした感がある。
だからあれはフロイドカウンセリングとは決して呼ばれてないんですよ。
それは彼の一種の勝利ですよね。
あの努力を払っただけのことはあったわけですよね。
精神分析という言葉なくしてフロイドって言葉はほとんど意味をなさないようになっているわけですよ。
ほんで大体これで終わってもいいんですけど、
これで終わると18分くらいだからもっとリスナーはつくんでしょうね。
でも私はあっさりこの先に行ってしまうので、
いつも通りの展開を迎えるわけですが、
先日その先日本当につい最近ですけど、
岡野純さんのスライドを頂きましてお話したわけですよ。
タスクシュードとグッドバイブスのね。
そこでアイデンティティって言葉を僕は久しぶりに、結構久しぶりになんですけど、
僕の中では使ったつもりなんですが、
これはですね、なぜこの話に今飛んだかというと、
実は僕はこれをフロイドのアイデンティティっていう意味で捉えていたからなんですね。
まあそれこそマインドフルにしてもいいんですけど、
特に仏教がそうですね。
グッドバイブスよりもこの点では仏教っていうのはラディカルな、
それは多分だからさっき言った通り殺されるかもしれない世界に生きてるからなんだけど、
自分が何者であるっていうのを捨てろっていうのはすっごくあるわけですよ、仏教には。
無理なことを要求しているわけですね。
あれ今の時代だったらだいぶ楽になる、だいぶ楽じゃないですか。
だってあのカースト制度がリアルにある時代ですから捨てられないんですよ。
お前は奴隷だって言われたら奴隷なのであって、アイデンティティがね。
捨てられない。
でも仏陀はまあこれはないものだ。
この辺すっごいある意味強引で無理があるけど、
マインドフルネスもそうだけど、グッドバイブスと近くないですか。
だからグッドバイブスははるかにこれよりマイルドだと思うんですよ。
ここが大事なんですよ。
同じ時代じゃないってこと。
同じことを言っても意味が変わるんですよ。
身分制度なんてありませんよって、
今の倉園さんが言ったらそうだよねってことになるじゃないですか。
でもこれをマガダ王国で言ったらやばいわけですよ。
あるんですよ。身分制度という。
人が作ったものですからって倉園さんがおっしゃるのは、
今だったらみんな受け入れるじゃないですか。
人が作ったもの。その通り。
紀元前のマガダ王国ではそんなことは認められないですからね。
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人が作ったものじゃないですから。あれは神が作ったものですからね。
みんながそう信じている世界ではそうなってますからね。
だからバラモン、シャトリア、ヴァイシャ、スードラってのがあるわけですよ。
その下に不可食センミンという世界があるんですけども、
ひどいものじゃないですか。もうむちゃくちゃなんですよね。
だから同じ言葉の意味が変わるんですよ。
全く違いますよね。
それを言うだけでももう大問題になってくる。
だからブッダは言うだけでももうすぐ逮捕とかされるわけですよ。
そういう世界に生きてますからね。
だから逮捕はされてないんだけども彼は。
でも非常に危険な目にはしょっちゅう会ってるわけです。
それは当然そうなわけですね。
世が世なら、殺されてもあんまり文句は言えない。
文句は言うかもしれないけど、ダメなわけですよ。
で、ないっていうのはつまりアイデンティティってものを、
私がなんでアイデンティティって話を久しぶりにしたというかというと、
これは思い込みだからなんです。
でも現代だってそりゃカスト制度はないですけれども、
例えばあの日申し上げたのは、
他のジューンさんは会社員だから土日に漫画は書きにくいんだって話をしたわけです。
これは思い込みなんですよ、確か。
主観って言えば主観なんだけど、アイデンティティなんですね。
でもアイデンティティってのは100%思い込みではないですよね。
他のさんは間違いなく会社員ですよね。
ここのところに僕はすごくウィニコット的なものを見るんですね。
プラゾンさんグッドバイブスだし、もともとそういう発想の人だと思うんで、
自分自身を会社員以外の何者でもないなんて思い込んだことはないと思うんですよ。
どっちがいいのかって話をしてしまうと、
例えばマインフルネスとか仏教的に言うと、
それは何者かではあると思わない方がいいんですが、
でも現代社会で生きていくにはアイデンティティって大事じゃないですか。
今はだいぶ和らぎましたけれども、昭和は結構すごかったんですよね。
アイデンティティってすごい大事だったわけですよ。
ここのところで、僕はウィニコット、つまりこれが精神分析なんですけど、
ウィニコットの考え方っていうのは非常に良い線行ってるようなと思うんですね。
つまりウィニコットは主観でもあり客観でもありって平気で言うわけですよ。
つまり相互に矛盾している事実がそこにオーバーラップしてるんだよって、
このオーバーラップって僕はすごく感心してるんですね。
どうしても物学みたいな話って主観か客観かって言いながらなんですよ。
そんなこと言っちゃったら大概主観なんですよ。
でもオーバーラップっていうことをウィニコットは言うわけですよ。
24:00
つまり、例えば母親と子供の間に、息子って言っちゃったね。
母親と子供の間に娘さんもいますからね。
どちらのものでもないがお互いのものである空間があるみたいな言い方をするわけですよ。
でもそうですよね。
お母さんと例えば2歳児が遊んでたらその空間はお母さんと息子が共有してますよね。
もうここは息子って言っちゃいますね。今自分を思い浮かべたから。
共有してますよね。
でも共有なんてしてないですよ。
その空間はどちらのものでもないですよ。
でも私の心の中では私のものですよ。私と母親。
母親の中では母親と私のものですよ。
そして母子が一体になっているような状態では、
例えば私は母の子宮の中にいたこともありますから、
一体になっているような状態ではどちらかだけのものとも言えますよ。
こういうことって起きてるじゃないですか。時空間においては。
そういうことを言ってるんですね。
私はこれがアイデンティティーってものにも思いっきり当てはまるなと思うんですよ。
他の人さんは会社員なんですよ。
それは客観的な事実だ。
でもそれは思い込みでもあるわけですね。
自分は会社員である。
で、例えば自分は会社員であるって言っても、
それだけだと時世すらないから、永遠にそうではないみたいな。
永遠にそうではないですよね。会社員として永遠に生きているわけではないですよね。
そもそも生まれながらにして会社員である。これは相当変ですよね。
明らかに赤ちゃんなんだけど、生まれてからすぐスーツ着てネクタイ締めてましたみたいな。
そんなことはないわけですよ。
つまり思い込みなんですよ。
それは主観的に自分を規定しているだけの話なんですね。
でもこれが客観的な意味も持ってるし、
土日には漫画は描けないなっていうその人の無意識、全意識、意識。
暴力を挙げてその人を会社員らしく動かす力を持つんですよ。
でもそれは、それこそ倉園さんなんかに言わせれば、
その場でしてることもできるはずだって言うかもしれないですよ。
ブッダが絶対そう言う。
でもそれはできるんですよ。事実としてですね。だって思い込みに過ぎない。
でもできないんですよ。それは客観的事実でもあるから。
こういうことをウィニコットは言ったわけですよね。
オーバーラップしてるんです。
だから彼は遊びって言ったわけですよ。
遊びってことはつまり、ママゴトってことですよね。
ママゴトってのはつまり、それは辞めようと思えばいつでも辞められます。
子供はパッと辞めるじゃないですか。
ついさっきまですっげーお母さん役やってた女の子が、パッと辞めますよね。
一瞬で辞めますよ。
でも会社員だって同じですよね。
パッと辞めようと思えばパッと辞められます。
別にそれを絶対的に阻止する力はもうない。
だからさっきも散々言ってますけど、ウッダの時代は無理なんですよ。
27:02
お前はクシャトリアだと言われたら、いい方かもしれないけど、軍人と貴族と王族ね。
クシャトリアは辞められないんですよ。
辞めますって言ったら多分殺されちゃったりするんですよ。
例えば王子さんはね。
ここらへんが、あの時代はそういうものにものすごく依存していた時代だから。
主観的な思い込みですっていう方がどうかしてるわけですよ。
絶対に客観的にそう、事実なわけですね。
生まれながらにしてクシャトリアだし、王様ってそうですよね。
死ぬまでクシャトリアなんですよ。
ここのところが同じことを喋ってるようですごい違うんですよ。
で、私とか倉園さんとかは、フリーランスでもありますから今は特に。
私なんかもそうだけど、自分何者だとも思ってないわけですね。
だから簡単なんですよ。
何かをやったり辞めたりするの。
ファンの人たちがいらっしゃるからこれやってますけど、
私は別にポッドキャスターとかではないので、明日にも辞められます。別に。
193回で終了にしました。
現に倉園さんは、ミッドナイトラクザは今停止されてるじゃないですか。
別にミッドナイトラクザの人じゃないからなんですよ。
会社員はこれほど簡単には会社員を辞めるのは難しいですよね。多分。
でもやっぱり辞めようと思えば辞められるし、
自分を会社員だと思わないことなんて、それよりもまして簡単なんですよ。
だってそれは単に心の中でそう思ってるだけな。究極的に。
ところが、ウィニコットも言いましたけれども、
人は現実社会で生きていくには、これが現実原則なんですよね、フロイトが言った。
ウィニコット流に言うと、遊べなければいけないって言葉に変換されるんですけどね。
現実原則と遊べなきゃいけないっていうのはずいぶん違いますが、
現実原則というのは、つまり人工的な世界で生きていく生き物であるってことです。
ママゴトってまさにそうじゃないですか。
おもちゃの茶碗とか、自然に生えてきませんよね。
ジャングルの蜜りに行ったらおもちゃの茶碗の木がありましたとか、
そういう童話みたいな世界はないわけですよ。
あれはプラスチックで誰かが作ったわけで、
これはしかもお茶碗だよねっていう規定がいるわけですよ。
猫とかには興味が、猫は興味が多少持つかもしれないけど、
基本的にどうでもいい話なわけですね。
つまりそれってどういうことかというと、
相互のコンセンサスの世界で人間は生きていますよってことですよね。
その訓練みたいなものですよね、おママゴトなんてものは。
だからこれができるようにならなければいけないって話をウィニコットはしてるし、
フロイトもしてるわけですよ。
それは大事なことだけれども、すぐにやめようと思えばやめられると、
彼らもまた言ってるわけですね。
それはだって感主感制の世界でしかないですからね。
神様が別にそう決めたわけじゃないとか、自然がそうなってるわけじゃないんで、
生まれながらのお母さんとかはいないわけですよ。
生まれながらの会社員もいないし、生まれながらのお父さんもいないんですよ。
30:01
だから役割でそれをやってるというのは、
あくまでも人工的な意味しか持ってないわけで、
役割を果たすというのは大事なんだけれども、
やめたければやめればいいわけですよね。
この役割を担うというのは、でも全くやめてしまうと、
この人はほぼ精神病状態で生きる。
ここが難しいところなんですよ。
もちろんこれは分析的な世界の話ですよ。
精神分析的に言うとそうなんですよ。
役割を全く担いませんという人は、
それは快楽原則だけで生きます。
快楽原則というのはフロイトの言葉ですからね。
すごい快楽みたいな話では全くないですから。
快楽原則というのは苦しい世界なんですよ。
赤ちゃん泣いてばっかりいるじゃないですか。
彼は精神病水準で生きているわけです。
特にメラニー・クラインを一派とするクライン派ではそう考えるわけですね。
赤ちゃんというのは泣いてばっかりいます。
精神病水準で生きている。
フロイト流に言うと快楽原則で生きている。
ミニコットで言うとそうだな。
遊ぶのが下手だってことになるでしょうね。
この言い方が一番穏やかな気がしますけれどもね。
いずれにしても同じなんですよ。
つまり大人の人間社会の現実というのが分かってないんですよ。
でも赤ちゃんは現実が分かってないわけじゃないんですよね。
あれ、美術伝統式っていうのは人間がそう考えるからなんですよ。
別にだってトイレじゃないところでうんちしたっていいわけでしょう。
ホラーとかトイレでしないでしょう。
現実に生きてますよね。
自然の世界。
そして生物の全域で言えば圧倒的に多数はそっちですよね。
ホノムシンパンジーぐらい賢くなったってトイレでなんかしませんよ。
それで生きていけるじゃないですか。
人間だけがトイレじゃないところにすると、あいつは現実が分かってないってことになるじゃないですか。
それは現実原則で生きるのが人間の生き方だからだけど、
現実原則で生きるわけですよね。
手掴みでご飯食べませんよね。
そこら辺の小動物殺して食ってたら、ほぼ犯罪とみなされますよ。
でもそれが動物の生き方ですよ。
そして動物は非現実に生きてるわけじゃないですよね。
動物は空想世界に生きてるわけじゃないから。
精神病水準というのは動物水準という意味でもおそらく大体、
多少違うけれども、大体それに近いと思うんです。
それは非現実と言ってるわけではないですね。
むしろ人間がやってることの方が非現実なんだけど、
人間はそうやって言ってみれば、
お互いの空想を擦り合わせるようにして生きているっていうことなんですよ。
だから他のジュンさんが私は会社員ですっていうのは、
これは動物の世界では通らない話なんですよ。
人間の世界ではこれができなきゃむしろ通らないってことなんですね。
でも必要とあれば夫になります。
場合によってはお父さんやりますみたいな、これは全部遊びなんですね。
33:02
でもこの遊びは自分だけで勝手に決めることはできないですよね。
意味が全くなくなっちゃう。
お父さんだというのは、客観的事実のようでもあるわけですよ。
で、これが苦手だっていう人もいらっしゃるわけですね。
精神病水準じゃないんだけどこれが苦手です。
つまりあんまりうまく遊べませんという人もいらっしゃるわけですよ。
これが多分ですね、私が会社に行ったりつらくなるとか、
ウィニコットがここで引きこもりって出したのはすごい鋭いなって感じがしますね。
ウィニコットの時代にそんなに今みたいに社会的引きこもりの人が多かったわけじゃないと思うんですけど、
ウィニコットは引きこもりっていうのはすごいよく分かってたと思うんです。
いつもっていうか最も強調してましたよね、そこをね。
一人でいられる能力。
それは一人っきりで部屋でこもってるってことじゃないんですよ。
むしろ大勢がいる空間の中、例えば大広間みたいなところで食事をしてますと。
茶飲食堂とかそうじゃないですか。
一人っきりになったかのようにご飯を食べるのに夢中になれる。
これが大事っていうことをウィニコットは言ってるんですよ。
これができない人は社会的に引きこもっちゃうんですよ。
大広間のような空間で緊張しられるから。
一人になれないから。
つまりそれが遊べないから。
ここは食事をするところ。
これは人が勝手に決めてるんだけど客観的事実でもありますよね。
茶飲食堂は食事を社員がするところ。
だから食事に没頭していても大丈夫。
信じられるってことが大事なんですよ。
信じられないと後ろから嫌な同僚にどつかれるかもしれない。
ここは同僚がどつくところじゃないんですよ。
だからいやだってどつくことあるじゃないですかとか言っちゃダメなんですよ。
それはままごとでお水はお味噌汁ですって決めたのに、
いやだってそれ水じゃんっていうのと同じようにダメなんですよ。
人間社会ではルール違反ですね。
だからそういうことを言うってことは結局、
いやあれ信号が赤色してるだけで別に渡ったっていいでしょっていうようなものなんですよ。
ダメ。絶対にそれを阻む理由はないんだけど、
例えば大地震の時に信号がちゃんと機能してない時は別にいいんですよ。
でもこの文明ではまるで神様が決めたかのように生まれるのが正しいんですよ。
ですよね。だからトイレでするわけでしょ。
道でしないですよね。
それは役割っていうものなんですよ。
これを役割って僕は言うんだろうなと思うんですね。
で、ミニコットはそれは遊びと言ったわけです。
遊びだからチェンジしていいわけですね。
だからここが大事なんですよね。
岡野さんが会社員だから土日は休むんです、会社員ですからねって言って漫画書かないってのは正しいんですよ。
36:00
うまく遊べてるってことになるわけです。
同時に、わからないですけどね、私なり、倉園圭三さんみたいな方がグッドバイをして、
いや、土日になったら急に漫画家になって漫画を書けばいいんだよ。
これも正しいんですよ。
遊べてるってことなんですね。
非常にここがややこしい。
だから私はアイデンティティってことを避けてたんだけど、
アイデンティティってのは遊びだと思う。
ただし、アイデンティティという遊びはなかなか深刻なんですよ。
ママごとやるときに小さな女の子が、私お母さんだからっていうのがアイデンティティなんですよ。
どこまでそれを信じ切れるかっていうことがその遊びの質を規定しますよね。
決めてくる。
でも、お母さんじゃないことは確かですよね。
場合によっては、いや、私がお父さんやるよでもいいわけですよ。
それはそれで遊べてる。
だからこういうのが遊べてないってことですよ。
私は土日になぜ漫画が書けないんだ。
時間いっぱいあって、本当は自分は漫画を書きたいんじゃないのか。
なのに漫画が書けない。
自分が許せない。
これが遊べてないってことですね。
書けても書けなくてもいいんですよ。
会社員であっても漫画家であってもいいんですよ。
どっちでなくてもいいんですよ。
ただ、遊ぶときには真剣にやれて、やめなきゃなんなくなったらパッとやめられるというのが、
ここまでは無理かもしれないですけど、それが理想的なんですね。
どっちにもなれないっていう状態。
役割って言われても入り込めないし、
つまり会社員ですって言っても会社員にはなりきれない。
でも、だからつまり、だって私会社員でない部分もあるもんみたいなね。
そこで頑張っちゃいたくなる。
にもかかわらず、じゃあ違うものになりましょうって言ってもなれない。
で、何者でもない状態もつらい。
この状態は厳しいですよね。
人間社会としてやっていくには厳しいですね。
なんかそれは受け入れがたい何かがあるんでしょう。
だから社員食堂でも周りのなんかこうよくわからないんだけど気になって疲れると。
別にいじめられてるとかではないと。
別に買ってきたラーメンを隠されるということもしてないし、
買ってきたラーメンになんかいっぱいタバスコ入れられるということもない。
だけど油断ができない気がするとかね。
だってここで何かが起きても不思議はないと。
なんか一方違うと地震が起きるかもしれないみたいな。
地震起きない空間ですとは誰も言ってませんよ確かに。
でも起きないことになってるんですよ食べてる間はとりあえず。
これが大事なんですよね。
ママごとやってる最中はママごとやってることになってるんですよ。
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とりあえず。
それが大事じゃないですか。
子供が健全に遊んでいられるということは心の底から。
演出者来るかもしれないからとかって女の子が思うとやっぱダメなんですよ。
親がそう思うのはいいかもしれん。
でも子供はそういうことを思うことはないんですよね。
そういうふうにして遊ぶわけですよね。
そこに茶碗がなければそれっぽい石みたいなものを使ってそれにすればいいんですよ。
それが使用するってことなんですよ。
ユーズなんです。ユーズは作手じゃないんですよ。
人に対してこれをウィニコットの用語では用いるんですけど、
でも我々やるじゃないですか。
彼は部長だから。
それは遊びですよ。
部長で私は課長だから。
ここには上下関係がある。
設定されたものなんですよ。
ある特定の空間で。
そういう遊びをしている。
だから私は彼を部長として使用するんですよ。
そういう言い方はウィニコット流にはできる。
大概の場合に上司が部下を使用するってことしか考えないんだけど、
それだと作手に近づいちゃうんですよね。
利用じゃないんですね。
使用なんですよ。
使用ってのはつまりユニフォームを例えば野球では分けるとか、
それが使用ですよ。
この棒器ではバットとして使うと。
これを使用と言うんですね。
使用というのはつまりごっこ遊びをするための小道具として
周りをそれらしくやると。
その場合お互いの同意がいりますよね。
間違いなく。
だからそこに入ったら同意してるってことなんですよ。
これができなくなるっていう難しさが。
でも多少はありますよ。
だってそりゃ所詮は演劇ですからね。
あいつは上司だと思ってハラスメンとしていいと思っている。
人間として許せないみたいな。
何か現実と空想が入り乱れ始めるんですね。
そして家に帰ってもそのことが頭から離れられないとかね。
でもあまりにもそれがひどいから裁判を起こすみたいなことがあるんで。
だからここにウィリゴットが言う通り矛盾があるわけですよ。
いやそれってごっこ遊びだったはずだよねっていう。
裁判を起こすってなんか深刻になりすぎてないみたいな。
実際に深刻になりすぎちゃうことは起こりますから。
だからやっぱり遊びでは済まされないってところは出てくるわけですね。
オーバーラップしてるわけです。
オーバーラップとしか言いようがないんですねこれはね。
人がそれで死ぬこともあるじゃんっていうような話になってくると深刻すぎるんだけど、
でも絶対ないかっていうとそうではないし、
でも原則ないことになってるわけじゃないですか。
だって、
例えばですけれどもよく私この例え出しますけれども、
北京オリンピックでラッキューとかすると、
みんなもう本当に現実の悪だみたいなこと言い出すじゃないですか。
でもあれは間違いなく遊びじゃないですか。野球なんだから。
で、これはオーバーラップしてますよね。
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別にプロの選手がプライを落としてもいいわけですよ。
誰かが言ったみたいですよね。
昔のこの番組を聞いてる人ならまだわかりますよね。
ミスターに、長嶋に、
お前な野球はエラーがあるから面白いんだぞとコーチが言った。
言うぐらいエラーしないってことは大事かもしれないけど、
でもやっぱりエラーがあるから面白いんですよ。
ラッキーは絶対面白くないですよ、ああいうものっていうのはね。
だから結局そこはオーバーラップしているわけですよね。
絶対エラーしちゃダメなんだけど、
エラーがないとつまんないんですよ。
そういうの遊びって言うんですよね。
ここがわからないっていう、なんつーのかな、
それはもちろん全然精神病ではないんだけど、
やっぱり神経症水準なわけじゃないですか。
絶対にミスがあってはならないっていうのは恐怖神経症ですよね。
人間はやらかすから面白いんですよ。
それは全部遊びだから、やらかすって絶対遊びですよね。
やらかすというのはガスコンロの火を止め忘れるんだろうと、
鍵をかけようと、鍵なんてまさにそうじゃないですか。
鍵っていうのは完全に人間が作った世界の掟じゃないですか。
だからかけ忘れても、私もそうなかなか思えないんだけど、
いいんだし、なんなら空き室に入られなくていいんですよ。
僕はそうは思えてないですけど。
ここに僕の神経症があるわけですよ。
これが遊びだということがわからなくなってしまうんですね。
わからなくなってしまうそういう心理的な、
枠みたいなものにはめられてしまうと言ったら多分いいんでしょうかね。
そういうことなんです。
別に手で掴んでご飯食べてもいいんだけど、
お行儀が悪いと言われるわけです。
お行儀っていうのは完全にマナーである。
マナーというのは遊びなんですよ。
これがわからないっていう心理的な課題が、
でもここまでカチカチに作っちゃうと出てくる。
それは結局アイデンティティってことなんじゃないかなと私は思うんですね。
なくてもいいんですよ。
でもあると非常に便利なんですよね、人間は。
だから私は会社員ですというアイデンティティを、
割と強く確立する。
若い方は特に今何者かになりたいとおっしゃる。
野球選手なのかわからないですけど、
最近で言うとVTuberなのかもしれませんけど、
とにかく何者かになりたいと。
これは遊びの極地なんですよ。
だってね、将棋の名人とか、今八巻じゃないですか、
あれ完全に全部遊んでるわけですよ。
ゲームだからね、将棋なんでね。
で、八巻、何者かじゃないですか。
ああなりたいというのはまさに人間社会では当然のことですよね。
ある意味あれを多くの人が目指すからこそ面白い。
でも何者でなくても別に全然困らないはずなんです。
何者かであるというのが非常に便利で非常に面白くて、
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非常に人生で花が華やうけれども、
別にそれ自体には本当のところの、つまりリアルでの価値というもの、
ほぼ何もない。
だけれどもそれに何の考慮もしませんというのは、
人間社会では遊べないということになってしまうので、
それはそういう生き方は多分相当無理があるという矛盾なんですね。