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2021-08-23 32:40

【GMV 442】モチベーションを喪失する

現実が見えなくなる
00:04
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
このタイミングが難しいんですよ。
今ちょうど8時30分なんですけど、これを取り出したタイミングが…
9時にはもう切り上げたい、全てをですね。
どう考えてもすでに無理感があるわけですよね。
だけど、9時には娘を起こしたいというか、起こさないとならんということがあって
これをですね、途中で切って、しかも昼にまた再開して
アップできれば一番いいんですけど、無理なんですよね、どうしてもやっぱり。
何度か試みたんですけど、全然違っちゃって。
とてもじゃないけど、繋がらないんですよ。
もう全く違う話、それだったらしようみたいになるんだけど
それを始めちゃうとまた、その時やらなきゃならないことというか
多分それはやらないんですよね、やっぱりね。
誰も起きていない時間、この時間に誰も起きていないというのもあれかという話もありますが
でも、夏休みですからね。
とにかく誰も起きていない時間だから、喋れることも多かったと。
今までは特にですね。
昨日、掛け上げ塾の第4期の2回目がありましたと。
これはやっぱりですね。
ぜひまた多くの人に、今回実に多いんですけど。
第5期、多くの方に来ていただければと。
これを聞いている方でもですね。
多分、本も出さない、本を書く気もないという人は
聞いてても意味を感じないと思うんですが
私は究極的にはあれをですね。
一冊掛け上げると、結構グッドバイブス実践できるなって思うんですよ。
そういう意味でもお勧めしたいかなと。
そういう意味では高すぎるという考え方もあるでしょうし
そういう意味では本を書くのは大変すぎるということもあると思うんですけどね。
私も本を書くのは原則的には成形ですし、成形立てるということはありますし
読者さんのためですが、やっぱり一冊書くとですね。
だいぶ、この番組で言うところの考えられるようになるんですね。
例えば今回、繊細さん向けの本を書いて
繊細さん向けという読者さんに向けて書いて
もちろんバイネームに近い形でですね。
しばしばバイネームで。
ずっと一人だったとは言いませんが、バイネームで意識して書いたんですよ。
その人に向けて。
繊細さんなんですよ。その人は間違いなく。
私もそういうタイプでしたけど、あれを読んでというか書いて読んで
何度も読み直しますよね。構成に至るまでに。
03:03
ほぼこの問題は解決したなというのがあります。
グッドバイロス的にということもあるし、精神分析的にということもありますし、
その他的にもあります。
とにかくこれでもあの繊細さん的な心理で悩むことは多分今後はない。
こういう紅葉が本を書くということには起こるので、
やっぱりそこをしたいという人はですね。
したいというかこの悩みに。
その悩みは必ずしも倉園さんにセッションを受けるほどではなく感じるとか。
セッションを受けてだいぶ良くなったけれども解決しきらないとか
そういうことってあるんですが。
そういうものへの対処として精神分析というものもありますが、
日本にははっきり言ってないも等しいわけですね。
しかもお金も時間もなかなかかかる。
だからといって悩まないというのもわけにもいかず。
だからといってどうにもしきれるという気もしない。
私の中でもそういうのが1、2個まだあるんですよ。
本を書くというのはそれの代わりにはならないんですけれども
匹敵する行為だなと思います。
ちゃんと書けばですけど、最後までそのモードで書き切るのは大変ですけどね。
どうしてもやっぱり6ヶ月から1年、たぶん最初にやられる方は1年ぐらいはかかっちゃう可能性があります。
そうすると良くないと言うとそれって精神分析と時間がかかっている時間はほとんど同じじゃないかという気がするんですが
そういうものなんじゃないかなと思います。
でも代わりに少なくとも書き上げ塾を2期やっても精神分析よりずっと安く済みますからね。
やっぱりそれぐらいのものなんですよ、この種のことというのは。
自分の死壁を直すとか、それは死壁ですからね。大変なんですよね、結構。
それで日々困っているとは言い切れない場合、それに真剣に立ち向かう気にはならないと思うんですけれども、私もそうだったんで。
今でもありますよね、やっぱり。
しばしばぶっちゃけ相談とかで、僕が個人的に勝手に倉山さんに相談させていただいていたりもするんですよ。
そういうものというのは繰り返し繰り返し形を変えて相談せざるを得ないんですね。
このこと自体が一つの反復ですよね。フロイトが反復と言ったらやっぱり反復って起こるんですよね。
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全く同じことが起きないという話とはまた別に、自分の中でそういう蓄積されていくというんですかね。
結局そこには幼い頃に何度か出会ってしまった恐れや不安を自分が対処しているつもりで怪しげな対処をするものだから、何度も何度もそういうのが檻みたいに溜まっていって問題を引き起こすみたいな、そんな感じのことなんですね。
無くなると別にスッキリするんですけど、例えば今だったら今じゃもうどうしようもないですけど、私も潜在さん的なのとほぼ欠別できたので、今だったら会社に勤められるなという気がします。
48になって会社に勤められるものないんですけどね。多分今だったら必要とあらばできる。
この感覚が大事で、いやできないかもしれないじゃんと言われればそうなんですが、この感覚が大事でこうなるとどうなるかというと、これじゃダメだとは思うんだけど、
例えば現在のこの物書きやってることができなくなったり売れなくなったりしても会社に勤められるようなと思える。
それはリアルにできるのかというとまたそれは別なんですが、このできる感じとできない感じは別れるんですよね。
いやとても自分は会社勤めは無理ですっていうこの無理ですの時には無理なので、無理だということになるとやっぱり物書きであるということにもっとしがみついてなければならない感じが出てきますよね。
それと不安ですよね。意味付けもありますしイリュージョンもあると。全然この方向性は良くないんですよ。
できてもできなくてもできると思っていられると、このできると思っていられるには自分の中でリアリティが必要なんで、
心的現実が必要なんで、これがあれば変な話になるんだけれども、ビジネス書というものがこの世から消えても何とかなるような気がすると。
そうすると書いてられるんですよ。不思議なことにですね。多分そこでものすごい下手が打てないみたいな恐怖感がなくなるからだと思いますね。
そんな感じの諸々ありますのでご機嫌よろしければご検討ください。
昨日そういうことを思ったということです。
今日は対象という言葉について考えておきたいんですけれども。
散々口にしてますね。このポッドキャストでも。そしてまだ完全には私理解できてる気がしない。
これは一つにはやっぱり精神分析家って各部人によって違うんですよ。
なんで対象の話なんかを始めるんだと思われるでしょうけれども、これは詰まるところ現実を見に行きましょうねって話につながるからなんですよ。
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対象というのは究極的には内部にある。内部にあるって言ってはいけないんだけど、
自分から出られないということを意味するんですね。対象しか世界に無ければ。
そもそも何かを好き嫌いで見てしまうということは自分から出られないじゃないですか。
自分が好きか自分がそれを嫌いかっていうふうに世界を見ているわけですよね。
食べ物一つとってもですね、トマトを見て私トマト嫌いとか私トマト好きっていうふうに見ている瞬間に、
もうそれはトマトの好きな部分や嫌いな部分以外のところはほぼ度外視しているわけですよ。
これ自体別に困ったことは何にも起こらないので、むしろこれができないと困るぐらいなのでいいんだけど、
たまにこの要するに対象と言うんだけど、トマトの良い部分と悪い部分に分ける。
人によっては悪い部分だからトマトというものは悪い対象として分ける。
何でこれをトマトと言わず悪い対象とかっていうかというと、
その人にとってはトマトは酸っぱいとかぐじぐじするのも嫌だというふうにトマトを見ていて、
しかもそれはその人の中にしかないから対象と言わざるを得ないんですよ。
ついでにそのトマトという部分の悪い部分、酸っぱいとかいう部分と自分が対応しちゃうんですね。
そのトマトの悪い部分とそれを嫌う自分という対象がセットで現れるわけですよ。
そしてこの悪い自分というものが出てくると嫌なので、
つまりそれはトマトを食べて嫌な思いをした生々しい記憶みたいなやつが出てくるととても不愉快なので、
そのトマトとセットのトマトを嫌いな自分ですよね。
トマトの嫌いな自分、これを多分対象と言うんですけど、
これを出さないようにしておきたいということを分裂と言ったりしているわけですね。
ついでにこの状態は妄想的でもあるわけですよ、被害妄想みたいな。
これトマトだとあんまり大したことはないですけど、
例えば給食でトマトが出ましたと、それが食べられないために
6時間目まで自分の目の前には給食の皿があって、
先生はそれを食べるまで教科書を出すなとか言っていると、
昔はそういうことがあったんですよ。
時々ぶっちゃけ相談でもそういう話をしますが、
12:01
そういうことが昔はあったんですよ、私が小学校5年くらいの時には。
4年くらいの時の先生はなかなかひどくて、やたらそれをやるんですよ。
そうするとトマトにまつわる自分の取り残されたような感じとかが
全部セットで自分の中に用意されちゃうわけですね。
用意されないかもしれないけど、トラウマになったという話をした時は
そういうのが用意されてしまう。
そういう自分が出てくるのは嫌ですよね。
だからそういう自分が出てこないように、
出てこないように自分の中でそういう部分を分離したという言い方をする。
これを抑圧と多分言っているんだと思うんですよね、精神分析では。
どっちかしら分離なんですよ。
自分のある部分を分離しておくみたいな感じで。
あるんだけど、あることもわかっているんだけど、
手を触れないで済む限り手はつけないようにしておく。
こいつが時々出てきちゃって、すげえ嫌な思いをする。
しかもそれがあんまりトマトと関係ないところでそういう事態が起こると
頭が混乱するわけですね。
なんでそれが嫌なのかがよくわかんないんだけど、
すげえ嫌だっていうような話になっていって、分裂という問題が出てくるんですけれども。
もう一つこれは妄想という問題がありますよね。
トマトが自分を迫害するみたいな。
あるいはトマトが好きなやつは自分にとって敵だみたいな、
そういう感覚が湧いてきちゃうんですよね。
こういう事態を何度か経験したりすると。
これが多分妄想分裂というんだと思うんです。
でもこれは最初は好き嫌いから始まってるんですが、
好き嫌い自体はいいんですよ。
だってそれができないと私たちは非常に困るじゃないですか。
少なくとも食べ物は忌み付けしますよね。
食べられるものという意味をつけて食べるわけですよね。
食べ物がそこにあるわけじゃないんだから、
食べ物というのはあくまでも人間が勝手に意味をつけて食べ物ですと、
意味をつけてそういう風に振る舞うわけなので、
どうしてもこれが全くないというわけにはいかないんですね。
私、時々人と水族館に行って驚くことがあるんですよ。
マグロとか魚とか、
美味そうという人が結構いるんですよね。
僕はそういう風には水族館では見えないんですよ。
どうしても美味そうという風には断じて見えないんですよね。
だから忌み付けってそういうものなんだと思うんですよね。
その人にとってはマグロとかお刺身とかすごい美味しいんでしょう。
だから非常に強く意味がつくんでしょうね、簡単に。
私はそういう忌み付けがそこではできないので、
どうしても他の魚と似ている、要するに魚類として見ているわけですよね。
そっちに寄せてみて。
こういうことって人によって様々なわけです。
様々といっても食べ物と見るか魚類と見るかぐらいの勢いなんだと思うんですけども、
15:03
人によっては魚を見ると自分を攻撃してくるような気がするという話があったりするわけですね。
なんでこの忌み付けを必要に応じてやめたいかというと、
自分から出られなくなっちゃうからということなんです。
あれですよね、私がこの番組でよく言う話ですれば、
こないだ話したやつで言うとですね、
柳を見て幽霊だと思うと、
そうすると、
柳を見て幽霊だと思う度合いが強ければ強いほど、
その人は自分から出られてないわけですよ。
柳だからね。
柳は自分の外にあるわけです。
幽霊的ではない部分も柳にはいっぱいあるわけですよ。
だけれども、
その人にとっては幽霊以外の何者でもないということになってくると、
柳を無視しているわけですね。
ほぼほぼ。
そういうことが頻繁にいろんなところで起きるはずなんですよ。
忌み付けをすればですね。
前に私がこの番組で、
働かないおじさんとか仕事ができない人が嫌いみたいな話をしたとき、
この話も個人的にもいろんなところでしょっちゅう聞くんですけれども、
そういう人はいないんですよ。
これが大事なんだと思うんですね。
働かないおじさんって忌み付けですよ、完全に。
仕事できないというのも忌み付けです。
わからないじゃないですか。
その人は仕事できるのかもしれない。
やらないだけでね。
あるいは他の会社にも仕事できるのかもしれない。
あるいはその人は働いているのかもしれない。
そこが外部ですよね。
ところが私たちは忌み付けを見るんですよ。
その人は働かないおじさんになっちゃうわけですよ。
それをやればやるほど、
自分の中ではそういうおじさんは嫌いな方に分離されるんで、
その働かないおじさんを前にしたとき、
あるいはその人に何か言いたいことがあったりするとき、
働かないおじさんを嫌っている自分が出ちゃうんですね。
これが対象ですね。
だから対象というのはセットなんですよ、必ず。
ある人のある部分を取り出して、
だってその人は働かないおじさん以外の側面は絶対あるわけじゃないですか。
いいお父さんかもしれないし、
どっかの野球でコーチとかやってるかもしれないじゃないですか。
働かないおじさん以外の側面は絶対あるわけじゃないですか。
働かないおじさんというのはその人の一面ですよね。
だからその人の一面を自分の中で切り出して、
しかもそれを嫌っている自分というものをそこに相対させて、
セットなんですよ。
トマトとトマトが嫌いな自分、セットなんですよ。
しかもそれはトマトを食べ物と見ているから、
そういう切り出しができるわけですよね。
このセットが嫌だということですよね。
このセットの中にいる限り、
このセットが現実だと思っている限り、
このセットが現実だと思っている限り、
自分からは出られないんですよ。
自分自身の中にいるのと何も変わらない。
その外側にいる人とは出会えないわけですね。
18:00
で、その外側にいる人と出会いましょうと
一生懸命言っているわけですよね、精神分析では。
出会いましょうと。
ただし、傷がつかないように出会いましょうみたいなことを
ウィニコットという人はすごく強調するんですけど、
とにかくそういう意味で、
とにかく出会いましょうというわけです。
出会わない限り、
自分が完全にすごいひどい世界だというものを
気づきあげてしまって、
出られなくなったら悪夢ですよね。
完全に悪夢ですよ。
嫌な人ばっかりに囲まれている世界。
夢を見ているのと全く同じで、
しかもそこから一歩も出られませんと。
この現実はそういうものなんだ。
出られない人への対応というものが、
精神病の世界ではできなかったわけですね。
フロイトが登場するまで、本当の意味では。
だから冷たい水をぶっかけるとか、
電気ショックを与えるとか、
むちゃくちゃな方法しかなかったわけですよ。
塩水いっぱい飲ませるとかね。
本当にそれは方法でも何でもなかったわけですよ。
でもなんとなく人はやっぱりわかっているわけじゃないですか。
こいつは何か夢を見ているんだ、叩き起こそうという発想だったわけですよ。
ヨーロッパではそういうのって強いのかな。
これはよくわかんないんですけどね。
懺悔というのは精神分析に近いやり方だったと思うんですけど、
とにかく夢を見ているんだから叩き起こそうという方法が、
わりとまかり通っていたわけですよ。
無知で打つとかね、あったんで。
それじゃ治らないから、絶対に。
それをやられると、
ますますその人は夢、悪夢が強まるじゃないですか。
もともとその人にとっては、
夢を見てばっかりいるのに、
そこに冷水ぶっかけられたり、
冬とかですからね、ヨーロッパの。
電気ショックとか与えられたんじゃ。
ますます世の中というのは酷い対象になり、
その分自分の酷い部分が出てくるから、
絶対外には出るもんかということになっていきますよね。
これを何とかするのが多分精神分析だったわけですね。
たぶんグッドバイブスでクラウドの慶都さんが、
現実を見ましょうって一生懸命言っているのも
それなんですよ。
外側に現実がありますという話をしているんですよ。
それが、いや外側に現実は当たり前じゃんと
人が思ってしまうので、
なかなか外側に出られないんですよね。
この話で一番我々にとっても自然に受け入れやすいのが、
あれです。
対象喪失というやつです。
だからこれについて加藤大造さんとか、
いろんな人が言っているんだと思うんですね。
つまり、いなくなっちゃいましたってやつですね。
身近な人とか、すごい可愛がってたペットとか、
いなくなっちゃいましたと。
嫌ですよね。
21:00
つまり現実のいないという部分を、
いないという、自分の家の太郎みたいなのでもいいですよ。
いなくなってしまった現実。
うちで言えば、うちのおばあちゃんとかでもいいですよね。
そういう現実がありますと。
だけれども、
その現実、
これはいなくなった現実というのをわざわざ意識しているわけですよ。
そうですよね。
普通の人にとっては関係ないことなので、
いなくなった現実を意識して、
その自分が出てくると、自分はすごい喪失感に苛まれると。
この状態、この状態を
意識して、
そういう自分を出したくないから、この自分を出さない。
この自分を出さないためには、
現実を見ない必要がありますよね。
いるという認識で生きていかなければならない。
このいる、その太郎なりおばあちゃんなりがいるという世界は、
つまり自分の中にしかないです。
内的対象です、完全に。
そうですよね。
いなくなった方がまだいることにしている。
でもそういう人はいっぱい僕はいると思うんです。
この話を、例えば、
そのおばあちゃんを夢で見ましたとか、
あるいは子どもを夢で見ましたとか、
犬を夢で見ましたとか、
なった場合、時々こういうことが起こるんですね。
もっとよくしてあげればよかったとか、
もっとちゃんと世話をしてあげればよかったとか、
もっと何度も病院に行ってあげればよかったとか思うんですね。
夢でそれを見るということはできるじゃないですか、夢の中ではね。
だから夢を見ていたほうがいいわけですよ。
目が覚めてしまうとできなくなるじゃないですか。
そうすると目は覚まさないほうがいいわけですよ。
こういう心理状態が強く働くと、
それをだから、モと言うんですけれども、
そういう心理状態が強く働くと、
できるだけ夢を見ていたいというふうに考えるって当然だと思うんですね。
その中で何とかしてあげればよかったとか、いろいろ考えるわけです。
でも私たちは現代人なので、フロイト以降に生きているので、
これは自分の心の中で起きていることだということを何となくにせよ認識できる。
ある程度気丈であれば、まあまあ強く認識できる。
しかし、もしこれが未開人だったらと考えるんですよ。
原始人みたいな人だったらと。
原始人ということは、ある意味チンパンジーみたいなものですから、
絶対自分の中に無意識があるとかは考えませんよね。
夢を見たらどう思うか、そいつが生き返ってきたって考えますよね。
そうしても不思議はないですよね。
今の話は愛する対象を失ったケースですけど、
原始人みたいな人ですから、当然殺した対象である可能性もありますよね。
夢の中でそいつが襲ってくると、
24:02
わかんなくなっちゃいますよね、現実なのか夢なのか。
柳が幽霊に見えるって話は、笑い話に感じられるかもしれませんが、
自分が殺した部族の敵みたいなのが襲ってきたという夢を見た。
夢なのか現実なのか多分わかんないと思うんですよ。
だから私たちは物作業というものをするんでしょうね。
だってこの夢は幻だから、実際にはないから自分の心が作り出してるんですって言い出したのは、
はっきり言って19世紀の最後ぐらいですからね。
多分それ以前に人間はわかってたと思いますけれども、
1万年前とかだと多分わかってなかったと思うんですよ。
だから襲いかかってくる夢を見ると呪われているとか考えたと思うんですね。
で、実際にそういうのがファミニズムって言うんでしょうけれども、あるんですよ。
そういう古代の人の何とかとかには、
怒らないでくれみたいなことがちゃんとノリトみたいなのに書いてあるんですよ。
殺しちゃったけど別に悪気はなかったみたいなね。
そういうことが書いてあったりするんですよ。
あれはそういうことだと思うんですよね。
わかんなくなってしまうわけじゃないですか。
だから夢は呪いみたいなものだと考えると、呪わないでくれっていうことをお願いするわけですよ。
で、お願いするということはそのお願いが通じるとでも思っているってことになりますよね。
で、私たちの時代は僕はそんなことはしてないと思うんですね。
お好み圭吾さんが面白いことを書いてたんですけど、
そういう風に戦士とかいるわけじゃないですか。
そういう部族とかだったら。
そういう戦士とかはですね、戦争に行って帰ってすぐには来れないみたいなんですよ。
奥さんとか子供にはすぐには会えないみたいな。
これ完全に物作業ですよ。
それが終わるまで帰ってくんなと。
結構厳しいですよね。
つまりその人は明らかに勲章をもらうべき人なんだけれども、
実際には追放されたり隔離されたりするわけですね。
でも多分それはそういうことをしておかないと、
その人が平気で帰ってきたりすると、
そういう問題を引き起こすから帰ってこないようにしたんですよね。
今は効かないじゃないですか。
トルマン大統領が日本に爆弾いっぱい落としたから、
しばらくその人は隔離されるという話は聞いたことがないんですよね。
それは私たちはもう自分の中で起きていることと、
現実に起きていることは分けられるはずだという、
強い意識があるんだと思うんですけれども、
実際にはそんなに簡単には分けられないということが
しばしば実際に起こるわけですよね。
だから何かが亡くなったとか、何かが死んだとか、
何かが亡くなったとか、何かが存在するとか、
あの人はもうちょっと軽いところで、
あの人はまだ怒っているとか、あの人は怒っていないとか、
きっちり分けられないもんだから、私たちはすぐですね、
例えばクレームメールとかを見ると、
勝手に相手が怒っている姿とか、
その人を知りもしなくても想像して、
27:02
いや怒っているに違いない、こういうのをもらうと
すごく気分が落ち込むというふうに普通になって、
怒っていないんですよね。
別に怒っていないとは言っていないんだけれども、
あなたその人を見ていないでしょうというのはあるんですよ。
こういうのをちゃんと分けていかないと、
まずいことが起こるわけですよね。
少しずつ少しずつ起こりやすいんだと思うんですよ、
私たちの時代というのは。
物作業とかもしたとしても短く済ませるし、
その他もだいたいそうですよね。
内的現実なのが対象なのか、現実の人がそうしているのかを
どんどんことを進めていく傾向が結構強い。
私たちは対象がやっていると勝手にイリュージョンを作っているのに、
それを事実化のようにどんどんどんどん言っていって、
しかもそれは事実なんだという自信だけが何かやけに強い。
これは何でなのかなと思うんですけど、
やっぱりネットは大きいと思いますね。
メディアの影響も大きいと思います。
私いつも不思議だなと思うんですけれども、
好き嫌いとかは全く別として、
総理とかそういう人って決まってこの対象に、
前も話したことがありますけど、晒されますよね。
ものすごく強いような気がします。
まるで知人であるかのように言う人がとても多いですよね。
明らかに知人ではないですよね。
リアルに見たことのある人の方がはるかに少ないと思うんだけど、
なんかもう家の中にいるかのような感覚になるんだと思うんですよ。
そうするとすっかりそれは対象と化してしまって、
憎しみの対象になることがすごく多いと思う。
そうするとその人が出てくると自分は嫌な気分になるので、
ものすごく迫害されているような感じ、
つまり迫害まではいかなくても、
ほんとこいつだけが辞めてくれれば、
俺すっごい幸せになれるのにとは言わないでしょうけれども、
多分そういう感覚に包まれるんだと思うんですね。
逆も当然ありますよね。
反対側の人たちがみんなすごく気に食わないという気持ちになると。
昔だったらこれが結構ややこしい問題を引き起こしたんでしょうけど、
今でも結構いろいろな問題を引き起こすんですけど、
一番私が今感じるのはさっきのペットとかおばあちゃんとかじゃなくて、
多分会社とかそういうものなんだと思うんです。
この話をそのうちもっと突っ込みたいなと思っているんですけれども、
人じゃない対象を失う、そういうことは多々あるんですけれども、
その時にすごく私たちは強くはないんだけど、
独特の嫌な喪失を感じているんですよね。
強くはないんだけど独特の嫌な喪失感を持ち、
30:00
それを大会の場合それは仕事ですからね、
仕事に関わることがすごく嫌になるっていうことを、
昨日なぜか掛け上げ塾の中ですごく考えたんですね。
帰り道に考えたんです。
何て言うんですかね、ニュースに会社に行きたくなくなるんですけど、
この会社に行きたくなくなる理由はいっぱいありますよね、もちろんね。
上司が嫌だとか電車が嫌だとか、
でも私はその中に全部がその理由じゃないけれども、
会社を喪失している感じっていうのがあるはずだっていうふうに思ったんです。
あんまりこれは精神分析とかではきっと言われていると思うんですけど、
あんまり言われないなと。
この2、3が書かれているのが一番近いなと思うんですけど、
会社を喪失しているという感じがきっとあるに違いない。
私、昔私立中のそこそこ有名なところに受かったんで、
すごい受かった時は高揚してたんですよ、気分が。
でもちょっと経ってすごい嫌になったんですよね、しばらく経ってから。
本当に嫌になって、だから私は大学を早稲田に受けるのだけはやめたっていう経緯があったんですけど、
その地区に行くのが嫌になったみたいな、そういうものがあったんですよ。
この喪失感っていうのが起こるんじゃないかな、人はっていう気が今してるんですよね、すごく。
人じゃないんですよ。
場所とか、建物ではないな、組織とかそういうものですね、
そういうものが好きだった。
そこは転移なんですけれども、好きだったっていう部分があって、
それが喪失してしまうんですよね、好きな部分がなくなってしまう。
そうするとそこに行っている自分というものが、ものすごく耐えがたい感じになってくる。
そういうことが起こるんで、耐えがたい感じになりながら生き続けるとまずいじゃないですか。
そこで分離するんですよ、何でもないものにしてしまう。
そうするとその負担がですね、負担以外の何ものでもなくなると思うんですね。
そういうことが仕事ではしばしば起こるんじゃないかっていうか、
みんなに起きてるんじゃないかっていうのを最近考えるんです。
その時に現実を見に行くというのがすごく大事だろうなと、
結局これは夢見ているようなものなので、そういうところを今ちょっと悩んでます。
ご視聴ありがとうございました。
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