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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
10月の6日、金曜日、朝8時28分です。またに戻りました。
今日は金曜ということもあるんですけどね。これで学校がおしまい。
ということで、少し精神的に、僕の方に余裕がある、精神的に余裕があるというよりは、
精神的には別に切羽詰まってるわけじゃないんで、いつも僕の方にちょっと時間的な余裕ができたと。
といったことですね。
気候が良くなったせいか、調子は、調子というか、いろいろやる気には満ちちゃってるわけですけど、
やる気に満ちたから何かができるってわけじゃないんですけど、
まあまあ、何か言われれば対応できるな、みたいなところはあるんですが、
ちょっと乾き始めたのはですね、急に、誰だってそうなんですけどね、実は。
湿気が急激に変わるとちょっと肌の調子はね、やっぱりさすがに少しは荒れますね。
荒れるってわけじゃないんだけど、やっぱりでも乾いちゃうんで、粉吹いたりしますね。
今は前よりはずっと良くなってるっていうか、実質治ってるんで気にはならないんですけど、
それほどこういうところからこじれたりすることがあるんだろうなとは思いますね。
今までだって90%くらいの質だったのが、なんか今日あたり多分3割ぐらいは減ってる感じで、
これからグーッと下がってきますよね。
ほぼこの辺の話もどうでもいいっちゃどうでもよくて。
今ですね、100日チャレンジ、J松崎さんとやってるJ松崎株式会社主導の100日チャレンジですね。
第6期募集中ですので、すでに投稿とかはいただけるので、よろしければご参加いただければと思います。
今日その話、100チャレじゃないんだけど、タスクシュート系で今日は行こうと思ってるんですけど、
そういえば話が全然あっちゃこっちゃいってますが、これももう900回に近づいていて、よく続いてるなと思いますね。
999の時には何か天文系とか鉄道系の方を何かお呼びしたいとか思ってるんですけど、
マイファクト、心理学系で、ちょっと多いんですよね、天文系とか鉄道系とか。
鉄道系のお友達は私、中学時代に山ほどいたんですけどね。
俗に言う鉄というやつなんだけど、山ほどいたんですけど、彼ら今どうしてるんですかね。
鉄と銀河鉄路が関係ないっちゃ関係ないんですけど、松本レイシーさんが好きっていう人でもいいかなと思うんですけどね。
777の時には倉田健三さんをゲストにお招きしたので、これ何のサプライズもないだろうって言われるかもしれませんが、
倉田さんは777っていう数字がお好きだったからちょうどぴったりっていう感じで、999もいっぱいいるんじゃないかなとは思うんですけれども、
1000回とかにはあんまり僕は興味がないんで、999とかがいいかなっていう感じで思っておりますが、
551とかもね、大阪の人とかを呼べたらよかったのかもしれないんですけど、
僕551とかはちょっと大人になってから知ったもんなんで、意識が薄いっていうか、
551回とか全然キリ良くないじゃんって思っちゃうんで、全然意識できなかったんですけど、
そういう意味ではいっぱいあるんですよね。850回もやってくればいっぱいありますよね。
いろんな番号がね。
それを999までにはちょっと考えておこうと思っているという。
だから999くらいまでは続くだろうと思っちゃってるわけですよね。
わかんないですけどね、そんなことも。
今日はいろんなことが実はここのところまた僕の頭の中っていうのかな、
僕の場合は頭の中だろうな、集まってきていて混乱しておるわけですけど、
どんなことをしゃべればいいんだっていう感じで混乱しているんですけどね。
タスクシュートにとりあえずまとめておくんですが、
実はこれタスクシュート全然なくても同じことは言えるんですよ。
今日言いたいことはですね、自己鍛錬とか自分磨きとかトレーニングとか何でもいいんですけど、
ある動機づけにおいてそれをやるのはちょっとやめてみるのもいいんじゃないかっていう話です。
これですね、別に僕は自己鍛錬が良くないとか言いたいわけじゃないんで、
やめましょうねって言ってるわけじゃないんだけど、
時間が足りないとか、実はもう一つモチベーションが湧かないというなら、
やめてしまっても何一つ問題はないはず、むしろ事態は好転するかもしれません。
だからちょっとやめることも検討してみましょう。
オプションに入れましょうって感じなんですよ。
もともと僕はすごくこのことは引っかかりがあって、
いつものパターンですけど、
Good Vibesの話をKurazono Kedoさんに聞いて以来、
もう全くその通りだと思うように。
つまり、もともとすごくそれってなくていいんじゃないかな、
自分はしてないなみたいな。
でも自分がしてないから人にやめろっていうのはナンセンスだと思うんで、
なんかやっぱり人推しがいるんですよね、そういう時にはね。
周りの人みんなやってるとなると余計そうですよ。
なんか自分だけ正しいって主張するのは人間、かなりの勇気がいるんでね。
しかも別に良いことなんて悪いことはないんで、
ただ無理してそれをやる、無理してでもやるべきだっていうのに対しては、
相当な違和感の引っかかりもあったわけですね。
無理が良くないというのではなくて、
そもそものその動機がどうなんだろうっていう方が、
やっぱり引っかかりとして大きかったわけですよ。
タスクシュートの原点
前に私、脱出ゲームっていう風に、
これは要するに命名しただけなんですけれども、
タスクシュートというものを、
現状変化のために使うというのが一つの使い方としてある。
これはまあまああるでしょう。
ただ、もともとこれ大事な点なんですよ。
どう使ったってもちろんいいんですよ。
もうどう使ってもいいんだけど、
でももともとタスクシュートを大橋哲夫さんがその原点、
どういうつもりで作ったかというと、
脱出ゲームをしてないってことは忘れちゃいけないって僕は思うんですよね。
もうこれは2000年より前の話だから、
僕らは知る余地もないし、
本当にそんなことがあったのか、
交渉しに行きましょうって言っても、
誰も交渉しにはいかないと思うんですけど、
時代交渉みたいなね。
でも大橋さんが言ってるんだから、
信じるほうが自然じゃないですか。
僕は信じてるんだけど、
それは足りないことですよ、ある意味。
彼がタスクシュートを大橋哲夫さんが最初に作った、
きっかけとなったのは、
現状どうであるかを言ってみれば、
確認するためだったというか、
取り尽くし間がないとやりにくいから、
大きめのまとまった仕事を渡されたんですよね。
それをどのくらいのペースで自分は、
どんなふうにやっていけるんだろうかというのを、
Excelに記録していった。
だってこのExcelに記録するっていうのは、
今でも私としてきっちり残ってるわけだから、
この話は信じるにあぶさかではないんですよ。
いや、でっち上げでデタラメでそんな話は作りまんじだろって、
言うこともできますよ。
誰かが見たわけじゃないからね、もはや。
でも多分本当だろうと思われるわけですね。
考えてみるとこれは与えられた業務を、
ちゃんとやろうとして、
タスクシュートというものの原型が作り出されたわけですよ。
ここから脱出しようとしたわけじゃないってところは、
抑えておいていいポイントだと思うんですよね。
僕これは昔から思ってたことなんですよ。
小肌かには言わないようにはしてましたけど、
当時の潮流ってものもありましたからね。
逆算というものが最大規模で、
言ってみれば逆算以外はないぐらいの勢いだったわけですから、
最終目標を立てて、
ここへの道しるべを見出して、
ここからのやるべきことを洗い出す、
逆算方式でゴールに近づいていかなければ、
自分がゴールに向かってるかどうかだってわからないじゃないかという、
最もな言説が、最もらしく聞こえると僕は思うだけなんだが、
最もな言説があったわけですよ。
しかもそれは強かったわけ。今よりもだいぶ。
これはせいぜい10年ぐらい前の話ですね。
タスクシュートもその頃はもう2になっていて、
タスクシュートクラウドとかいうのも始めていて、
この逆算の波というものと無縁ではいられないわけですよ。
逆算と長期予測の欠如
僕は無縁でいたんだけど、大筋無縁ではいられなかったわけですね。
そうした場合に、この話しかしもともと逆算から来てないだろうと、
この業務をすべて終わらせるために、
どういう風に量をこなしていったらいいかを知るために、
大橋さんは別にExcelに記録をつけたわけではないんですよ。
彼のその後もですね、
私がそもそも夜になってこの見積もり通りに行くと、
どういうシミュレーションになるのかを算出する機能をつけていっていたのは私であって、
大橋さんはもともとそんなものをつけてなかったし、
つける気もなかったわけですね、たぶん。
つまり彼は逆算という思考でExcelに記録を始めていないんですよ。
その後逆算をすることもあったと思いますけれども、ちょいちょいね。
でも逆算というものをあの設計の真ん中に置いてなかったのは確かなんですよね。
タスクシュートの設計思想の中に逆算はないんですよ、最初は少なくとも。
しかも長期予測というものも全然そこにはもともとはなかったわけですよ。
便利だから1週間どういう風にこうやるとなるんだろうみたいなののシミュレーションをする機能はその後追加されていったけど、
せいぜい1週間なんですよ。
100日分の逆算とか5カ年計画の逆算とか、いわゆる逆算のタイムスパンはそこにはないわけですね。
GTDの考え方もないわけです。
GTDの考え方っていうのかな、洗い出していくっていうタスクを洗い出してそこに全部投入していくっていう発想もないわけです。
もともとタスクシュートの中にマスタータスクリストという概念はないわけですよ。
洗い出されたすべてのタスクがそこにあるっていう考え方はないわけです。
ポータルで僕が言いたいのは実に単純なんですよ。
与えられた状況を否定せずに脱出志向
オアシスターは少なくとも与えられた状況を否定してないっていうのが大事だと思うんですよね。
与えられた状況に対してネガティブな思いを、思いは抱いているかわからないですが、
ここから脱出したいという意思を持ってタスクシュートをやっていただければ全くないんですよ。
だから脱出ゲームをするのは構わないんですが、別にツールですからねタスクシュートは。
タスクシュートを持って脱出ゲームをするというのは良いですけれども、脱出ゲームをするためのツールだったわけじゃないんだから、
それはよく言って工夫した使い方であって、もともとあった使い方ではありませんよっていうのは言っていいと思うんですよね。
ちょっと慎重なものになっちゃってますが、でもそうだと思うんですよ。
脱出ゲームと私が言ってるのはですね、別に脱出して良い悪いっていう話は関係ないんですよね、この場合、私にとっては。
ある環境の中において脱出したいということはあるでしょう、そりゃ。
Good Vibesが何を言うとか、私が何を言うとか、J松崎さんが最近では何を言うとかは関係ないと思うんですよ。
その人その人が置かれた環境においてそれをどう捉えるかはその人が決めることだし、
土台ですね、そこに誰かがやっていけるかどうかすらわからないその環境の中で、結局最終的には自分で決めるより他はないわけですよ。
だからそれはそういうことなんですね。
ただ、Good Vibesに言うならば、この環境が過酷に見えるのが事実なのか、何て言うんですかね、
心が作り出している風景なのかはきちんと見定めようという努力は必要だろうっていう、
これは私は最もだと思うんですよね。
それはいらないからとにかく脱出しましょうっていうのは少々むしろ乱暴だと思うし。
で、タスクシュート流に言うならばですね、記録をつけてみてですね、
実は対して自分がそこにいて不都合はないはずなのに、
いや現状は不都合だということはもう確定済みなんだから、
この記録も不都合だという言い方をしていると、
それも変なことに聞こえるかもしれませんが、
これは実によくあるやり方なんですよ。
現状が不都合なのはもう規定路線なんだから、事実なんだから、
現状が不都合に今日たまたま見えない記録だったとしても、
ここに不都合さを見出さねばならないっていう風に考えちゃうらしいんですね。
やっぱりね、それが見たいものを見るんですよ、そこに人は。
認識上のバイアスなんだけど、ここにかかってるんですよ。
でもここ、バイアスっていうのはさっきの、
心が作り出している像かどうかを見定めようっていうところも
慎重に喋ったわけですから、
バイアスだっていうのもやっぱり慎重に喋んなきゃならないんですよ、
事情としてはね。
だって、いやアルガママの環境がこんなに過酷なのが
あんたにはわかってないんだよって言われれば、
私にはわかってないですから、その環境にいませんからね、僕はね。
だからやっぱりそこをバイアスだっていうのは乱暴であるならばですね、
せめて、今日その日たまたま一切不都合がなかったという状況であったとしてもですね、
たまたまじゃないかもしれないし、
昨日おとといあたりからその環境は
状況として良くなるように改善されつつあるのかもしれないと考えてもいいと思います。
僕はこれを考えるのはですね、全然不都合はないはずだと思うんですね。
というのも環境は不変ではないので、ですよね。
今回コロナ騒動がまた大きな転換点を迎えましたけれども、
語類になったりしてですね、環境って随時更新されるじゃないか。
私の周りの環境だけは一定不変ですっていうのは、
多分事実ではないと思うんですね。
環境は他と切り離されていない以上、
他から完全に無縁でいられる環境とかはないわけで、
自分自身というものも環境に影響を与えますからね必ず。
環境が一方的に自分に影響を与えてくるわけではないので、
自分が変われば環境変わるし、世の中変われば環境変わるんですよ。
一見関係ないようなところからであったとしても。
だから少なくともタスクシュートで記録が残ったのならばですね、
どうして現状というものがなんつうんですかね。
そもそも現状というのは不都合なんだろうかというのは、
毎日確認する一つの事項だと思うんですね。
間違っても現状は不都合であることは確定したことだから、
この状況の中の不都合さを見出して、
脱出するべく最善の手をタスクに盛り込もうなどとしない方がいいと思うんですよ。
そのやり方でタスクを常に作り出していると、
脱出しなくていいところから脱出するためのアクションというものを
いっぱい取らなきゃならないことになるわけです。
でも現状を世の中はですね、私が思うに逆算をすると
必ずこのパターンにはまるんじゃないかとも思ってるんですよ。
で、もう一つの方が今日のメイントピックなんですけど、
現状からの脱出と自己訓練
現状が脱出しなければならないと言ったことにとりあえずなった場合ですね、
僕らは現状から脱出するための自己訓練というのを始め出すんですね。
少なからぬペースでそれが起こるんですよ。
例えばなぜ筋トレするかみたいなことになった時に、
筋トレをして自分を鍛えて、この厳しい状況に少々のことではやられないように、
体を鍛えた上で脱出するための方策をバンバン打っていくための施策をね、
バンバン打っていくための、例えば健康維持するとかそういうことになるんです。
これは多分やっててすごい疲れるだろうし、
しかもそういう時間も全然取れないだろうと思うわけですよね。
というのも、状況は自分とマッチしていないから、
そこから脱出できるぐらい強くなる自分を作り出すという考え方でも、
一見こうするとモチベーションが高くなりそうですけど、
やってみると全然そうはならない気がするんですよ。
実際には筋トレをしたからといって、その状況から脱出するのに役に立つかどうかわからないし、
これ全部そうなんですよね。
何の勉強をしたから現状脱出するのに役に立つといったのはわからないはずなんですよね。
いらないことかもしれないし、実際やろうとしてみるといらないんじゃないかなって必ず思うんですよ。
Evernoteにいっぱい記録を残すことが現状の脱出の役に立つからやろうみたいに思ったとして、
実際にEvernoteにWebのロッテ買ったみたいなのをクリップしてみると、
これ現状脱出の役に立つかというと立たないじゃないですか。
そういうことがいっぱいあると思うんですよ。
だから何か自分の利益になることをやって、現状の解放とか改革を考えるっていうのは、
実はすっごい多くの人がなぜか無意識に近いところでやりだすんですけれども、
これをやめられれば自由時間はいっぱいできると思うんですよね。
今度、一本間違うとですね、私がパッと見た場合なんですけれども、
タスクシュートを人様が見せていただいたとき、
この人脱出ゲームのための自己訓練長いなっていう、
一本間違うと1日3、4時間はそれに費やされてるなっていうケースは少なくないんですよ。
しかもそれを増やそうとされているので、すごい大変だと思うんですよね。
その分何を削るかってことになると、現状に関わることをなるべく削りたいわけですよ。
これが同時進行するはずなんですね。当然ですよね。
だって自分が置かれている状況から脱出したいのに、
例えば自分の置かれている会社なりのためになるべく仕事したくないじゃないですか。
あるいは自分が生活している家庭のためになるべくそこでの時間を減らしたいですよね。
そうするとますます現状は過酷なものになっていくわけですよ。
だって仕事しない会社にいて関わりたくない家庭にいるんだから、
そしてそこにコミットする量も減らす方面で頑張られているわけですから。
代わりに筋トレやるんで、この生活スタイルが私はすごくネガティブスパイラルだなって感じがするんですよ。
まずそうやっていて会社の居心地が良くなるはずも、家の居心地が良くなるはずもないですよね。
日々悪くなっていく。
だから早く脱出しなければいけないから、自分を追い込むわけじゃないですか。
そうして追い込んだところでオレーニングするんですよ。
脱出のための辛さ
僕はこれが、例えばこのような話をされている人がまだまだ自分は足りないところがいっぱいあるから、
これを言っても多くの人が受け入れてくれるためにここを否定する珍しい発想はgood vibesとか少ないんで、
多くの人は自分はまだまだ足りないところがあるからってごく普通に考えてしまうんですよね。
で、藤井壮太さんが今度竜王戦やるけどああなるためにも自己訓練が欠かせないっていう感じなんだけど、
この脱出ゲームっていう状況下における自己訓練と、
藤井さんとか大谷さんとか有名だから相方が出てくるんでしょうけど、
ああいう方の自己訓練ってのは全然違うと思うんですよね。
筋トレをするってことに、例えばしていると仮にしてですけど、
大谷さん自主が筋トレをするとか走り込みするっていう場合には何にも彼は疑問に持たずに済むじゃないですか。
しかもそこから脱出する気もさらさらないじゃないですか。
だから自分がいる場所にいくらでもコミットできるし、第一にここでもすごく精神的に違うんですよ。
自分のいるところにいくらでもコミットできるし、
コミットすればするほど環境からのリードバックも良くなる上に、
そのいわゆる自分のトレーニングなるものに使っている時間もですね、
全部がそこに還元されるようにできてるんですよね。
あの場合にやる筋トレと、早くこの会社から脱出するためになぜ筋トレするのか知りませんが、
やる筋トレとでは過酷度が違うと思うんですよ。
上げているバーベルの重さはきっと大谷さんの方が重いと思うんだけど、
そういう気持ちで私がですね、早く家から脱出する、
早く仕事を何か違う仕事を得るために自分を鍛えるって言った時にやる勉強なりトレーニングはすごく辛いと思うんですよね。
辛さは全然違うと思うんですよ。
だからこれは三重に辛いんですよ。
脱出しなければいけない環境にいる辛さがあり、
脱出しなければいけない環境のために何かをさせられる辛さがあり、
これが仕事とか家事とかになるんですけど。
そして脱出するためにする自己訓練の辛さがあるんですよ。
全部の時間が、24時間のうちの23時間30分ぐらいは辛いんですよ。
これなら、現実逃避のために漫画なり、ネットフリックスなりに突っ走ろうというのも当然じゃないですか。
だからその30分がそれに投入され、一気にその時間がどこまでも増えかねないわけですよ。
だって全部塗り替えたって後悔ないじゃないですか。
脱出したい環境の時間なんて全部漫画に塗り替えたって後悔はないし、
あるがままに生きることの辛さ
そのための自己訓練だって、それがこうそうするかどうか信用ならないからできればサボりたいじゃないですか。
この気持ち強いと思うんですよ。
しかも家なり会社なりのための時間もゼロにできればゼロに。
だから24時間ともファン座とかになっちゃっても別におかしくないですけど、
これ自体がものすごい厳しいと思うんですよね。
どんなに快楽のためのものだと思っていたとしても、そんな一日中見てられないですよ、あんなもんは。
だからもう一日中見てられるものがないですけどね。
僕いくら野球が好きでも一日中見てたら苦行になっちゃうと思うんですよね。
というわけなので、このスパイラルから脱出するっていうのを僕はタスクシュート的に提案したいわけですよ。
どうしたらいいのっていう話なんですけど、これは実はすごく簡単なんですが、
これが多分なかなか難しく見えるわけですよね。
ここに大きな言ってみればやっぱり心の作り出した風景があるんですよね。
心象風景ってやつですね。
それが邪魔をするんですよ。
非常に単純なんですよ。
2つしかないと思うんですね。
あるがままを見るっていうことと、あるがままの自分にOKを出すってこれしかないんですよね。
今の逆をやるためにはそうなるんですよ。
今のままではいけないという動機から始まって、今のままの自分では無理だから脱出するための自分に変貌を遂げようとして、
ネガティブスパイラルが始まっているわけだから、現状をそのままに納得して現状の自分にOKを出すってことしかないと。
これをやると、佐々木の感言に騙されて地獄の底に引きずりこまれるっていう恐怖が、これが心象風景なんだと僕は思うんですが、
それは事実なんだってここで議論が起こるんですよね。
いつもそうです。ここで議論が起こる。
タスクシュートユーザーの人が僕は基本的にはお相手する方ですから、お客様ですから、ここを何とかしなきゃいけない。
相手の人は脱出したいと言ってるのに脱出やめましょうっていうのはサービス提供者としてはダメなんですよね。
一方でそのままのパターンのどこにもネガティブスパイラルから脱出するための方法が見出せないんで、
自己鍛錬、タスクたくさん、脱出ゲームっていうこの3点セットははなはな不利に働くんですよ。
3つ同時にやめるしかないと思うんだけれども、3つ同時にやるしかないと思っていらっしゃるわけだから、
ここに大きなそごの1つがあるわけですね。
これをずっと言っててもしょうがないので、
だからこれワンオンワンになっていくんですけど、
その人その人がどういう世界から脱出しようとして、どういう風景をご覧になっているのかっていうのをまず見定めないと、
話を進めるのはすごい難しいところがありますから、というか響かないですからね、ある意味ね。
だからワンオンワンになりやすいんだけど、ワンオンワンは正直お安くできないんですよね。限度があるんで。
だからここに1つのこのサービスの一番チャレンジングな部分が、とりあえずここに現れているっていうところなわけですね。
今3ヶ月チャレンジで僕はここをなんとか格闘しているわけだけど、やっぱりそこまで安くはできませんもんね。
自然に生きることの重要性
しかも3ヶ月っていう設期限をいただいている。
3日でこれをやれって言われても、3日でやれる時もあるんだけど、さすがに戻っちゃうんですよね。
この風景は心が作り出していて、心は常時この風景を生産しようとするものだから、
止めてくれれば話簡単なんですけれども、そんなことができるんだったら精神分析とかカウンセリングとか一切いらなくなりますからね。
妄想を止めるっていうことが、妄想って言ってしまっては申し訳ないんだけど、この妄想は僕もよく見ますからね。
違う妄想だけど、やっぱり見ますから。
人間は象徴機能で生きているので、妄想を副作用として、副反応というのかな、副作用的に妄想を引っかぶっちゃうのはしょうがないんですよ。
夜になれば人間は夢を見るようにできていると言って、たぶん間違いないと思うんですよね。
自覚がないとしてもですよ。
夢っていうのは、生物が生きていくためにはいらないっていう風に生物学者はよく言いますけれども、その通りだと思うんですよ。
でもモグラだって夢見るんですよ。
だからやっぱり象徴機能というものを使って生きていく生き物に、この妄想という副作用は必須のものと考えざるを得ないと思うんですね。
例えば違うのかもしれない。例えばね、夢なんか見ないのかもしれない。
村上春樹さんは小説を書くことで夢を見なくなったって言うんですけど、かわいかよさんもそれは当然ですよって言ってましたけど、そういうもんなのかもしれませんね。
我々はそうはいかない。夢を起きながら見ておいて、それをつぶすに小説にし、夜は夢のない世界に生きるっていうことができるのは極めて特殊なんで、だから彼はノーベル賞候補になるわけです。
今年取れなかったですけどね。
まあいいや、それは話を膨らませるとどこまでも行きそうなんで、元に戻しますが。
だから、あるがままってやつに話が行くしかないんですよ。
私はタスクシュートユーザーの人、今の話タスクシュートと何の関係もないところでも展開できるんですけど、だって自己鍛錬でしょ、脱出ゲームでしょ、逆算のタスクでしょ。
この3つってタスクシュートのないところでも今蔓延しているというか、大いに流星はまだ、以前ほどじゃないんだけど勢力は残っているじゃないですか。
だからこのスパイラルは今のところ日々回そうとされていてアクセントされている方がいっぱいいらっしゃるだろうなと私は思うんですよ。
タスクシュートと何の関係もなくですね。
で、自然ってことが1つあるんですよ。
あるがままってのは自然じゃないですか。
自分はですね、自然主義者とかって言われるじゃないですけど明治時代の文学者じゃないんで、
基本タスクシュートは自然に使うと一番上手くいくだろうっていう感覚なんですね。
もうこれはセンスみたいなものでしかないんで、教養はできないんですけれども、でもやっぱりそういう感覚はあるんですよね。
自然にいきましょう。
自然は鍛錬ってしないんですよね。
そうですよね。
僕時々言うんですけど、猿はボスになるために闇夜の訓練とかしてないんですよ。
無理走る、速く走るための遠駆けとかやってる猿って多分いないと思うんですよね。
だからその末端の猿はいつまでも末端、じゃあ末端なんですけれども。
つまりどういうことかというと自然はそういうことをしないってことなんですよ。
よっぽど頭が回る動物だとしても自然はそういうことはしないんですよね。
野球界の考え方の変化
だってチンパンジーがバーベルあげとかしないと思うんですよ、私はやっぱり。
力強い方が群れで生きていくのに有利っぽいんですけど、やってるのは見たことがないんですよね。
それに相当するオスモさんがやる鉄砲とか至高踏むとかやらないんですよね、やっぱりね。
人間だけなんですよ、そんなことをやってるのは。
ここにあるがままであってはいけないと考えることのできる人間の辛さがあると思うんですよね。
これが生きづらさになっていくんだろうと。
だってあるがままじゃない生き方、どう考えても生きづらいですからね。
あるがままじゃないわけですから。
自然に生きろってことですからね、それは。
自然に生きるっていうのがあるがままじゃないですか。
生まれた形というものを使って、生まれ持ったものを使って、生まれ持ったものでなるべくやっていく。
人間なんで服も着るし、非常に人工的な様々な、私のこの収録だってiPhone使ってますから、
あるがままだけではやってられないんだけれど、なるべくですよ。
特にこの自己改造みたいなのをしないってことですよね。
最近ですね、やっぱり野球の話になって、申し訳ないですけどね、野球詳しくない人ね。
千葉ロッテは過強を迎えていて、奇跡的に勝って貯金を一つ作った、一つ勝ち越したってことなんですけどね。
ずっとここのところ苦しくて、もう本当に負けてばっかりいるって感じで、
何しろ自由に勝ち越してたのが今1位ですからね。
本当に負けてばっかりいるんだけど、
C監督が今年、彼の初案でここまで来てるとしか言いようがないんですけど、
去年5位とかだったからね。今3位ですからね、それでもね。
2位も見えてるし、一応。多分2位は無理っぽいけれど。
彼が言うんですよね。繰り返し言ってるのが、今できることをやろうって言うんですよ。
今できないことを急に手を出すのが一番最悪だっていう。
これをずっと言ってるんですよね。10月に入ってからも。9月中もずっと言ってる。
今できることに集中してやってほしい。今何が自分にできるかを考えてやってほしい。
繰り返しこれなんですよね。僕は一般的に言ってですよ。
このアルガママリーっていうのはアスリートでは通じにくいかなって。
アスリートって自己改造してるじゃないですか。肉体改造みたいな。
大谷さんもめっちゃでかくなってるじゃないですか。
でも彼らの世界でもこれを言うんですよね。アルガママに頑張るっていう。
アルガママに頑張るって不思議ですけどね。
僕らは頭で考える生き物で、どうしても自分にできないこともできるイメージを持ち出すんですよね。
苦境にあると特にそういう風になっていく。
吉井監督はそういう点で批判もされてるんですけど、結構一生懸命我慢してるんですよ。
例えばこの後に及んでもちょっとでも怪我とか腕に調子がっていう人はつかまないんですよ。
休ませるんですよ。これには本当に戸惨否あるんだけれども、
この後に及んでもギリギリまで休ませるってことをやるんですよ。
つまり葉っぱをかけないんですよ。
割と最近こういう考え方が市民権を得てきたっていうのかな。
昔は全然なかったんですよね、野球の世界っていうのは。
完全に保守ヒューマーの世界だったんで。
保守ヒューマーがそうっていうわけじゃないんだけど、スポコンの世界だったんで。
というか俺らまで投げ続けるっていうこと。これが何よりも大事だったんですよ。
もう死んでもいいからやるみたいな。
これ死ぬわけじゃないんですし、死んだら問題になるんだけど、
基本的にはそれに限りなく近いメンタリティでいく感じだったんですよ。
今もそれがなくなったわけじゃないんですけどね。
勝負ごとの、しかも肉体でやる勝負ごとの世界なんで、
そういうのは残ってはいるんだけど、だいぶそうじゃない発想って出てきているんですよね。
最前線の1戦級でそれを言うんですよね。
あるがままの否定と現状へのコミット
だからずっとここのところ、プロットではエースが佐々木朗樹っていう、
これはあんまり詳しくない人でもご存知だと思うんですけど、
全然出てこないわけですよ。
この一番めちゃくちゃ重要で、負けてばっかりいて、
おそらく一番勝てそうなピッチャーが出てこないんですよね。
羽生一っていうピッチャーもいるんですけど、彼も出てこなくなっちゃったんですよ。
だからもうなんか普段全然出てこないような人で賄っているわけですね。
少し調子を崩したり、疲れが見えてきたら即休ませちゃうみたいな、
そういう発想なんですよね。
極力あるがままでいくっていうのは、そういう現れ方をすると思うんですよ。
アスリートの世界みたいなところですら。
まして、僕らみたいな人間はですね、
スクシュートを使って、おそらくホワイトカラーで、
宅上で仕事をやっているような人っていうのは、
こっちの方がいいと思うんですよね。
僕らがやる出来もしないことっていうのは、
腕が投げるまでボール投げ続けるとかじゃないじゃないですか。
僕らがやる出来もしないことっていうのは、
多分働き続けるってことになっちゃうんですよ。
睡眠時間を削って働くとか、あるいは人の2倍の効率を上げるとか、
そういう話になってきちゃうと思うんですよ。
そうすると脱出ゲーム感が強くなってきちゃうと思うんです。
野球選手だったら脱出ゲームやってるわけじゃないんで、
どんなに一生懸命やって、体を壊しちゃうんだけど、
壊しちゃったとしてもですね、
それはコミットする方向を向けるんですよね。
頑張るってことが自動的に。
だけどもホワイトカラーの我々は、
時間短縮とかいろんなことを考えていると、
コミットしたい方向に命を燃やすみたいな、
すごく不思議な行動がそこに現れるんですよ。
これはきっとあるがままの自分ではいけないというのと同時に、
あるがままの自分でいけないということは、
あるがままの他人もダメなんですよね。
ここが多分脱出ゲームになりやすい、
最大のポイントなんだろうなと思うんですよ。
アスリートの世界はあるがままじゃダメだと言っても、
なおそれが結局勝負事だからなんだけど、構造上。
相手を否定してもそこに入っていけるんだけど、
僕らはそうはいかないんですよね。
全部が完全に白黒のつきやすい勝負事ではないので。
査定なんてそうじゃないですか。
査定って結局否定したら、
もうそこから脱出するゲームになってしまう部分が、
必ずしも立候補の意味しなくてもあると思うんですよ。
これを僕らは変に肯定的にこれまで捉えてきたと思うんですよ。
もっといい在り方があるから現状を否定されるべきだっていう。
どうしても現状否定的に入るんですよ。
ここで思い出してほしいんですよ。
大橋誠夫さんは最初にタスク集団を設計したとき、
決して現状否定から入ったわけじゃないっていうことが、
こういうふうに結びついてきてるんですよ。
僕の頭の中では。
これは僕はすごい大事にしてきたことなんです。
だいたいそうなつもりなんですよ。
ツールは原点が何を求めて作り出された、
メソッドなりツールなり何なのかっていうのは、
よく考えるようには一応しているんですね。
商売柄。
だからそれをそうじゃない使い方をするのは構わないと思うんだけど、
道具なんで。
だけどもやっぱり最初どういうつもりで設計されたのかは、
大事だろうと思うんですよね。
最初決して現状否定から入っていない道具を、
現状否定をするために最大限フル活用するという使い方には、
どこか疑問が残るんです。
今言ったような意味で、
あるがままっていう現状を、
現状はあるがままだからね。
現状を全部バサバサ切っていくと、
ものすごく自分がやること、出すことが、
要するに腕が投げても折れ続ける的な世界にはまっていっちゃうと思うんですね。
しかもそれを割と精神主体の世界でやると、
本当に精神が壊れていくんで、
腕が壊れるのは大変問題ですけど、
精神が壊れるのはやっぱりもっと問題だと思うんですよね。
ある意味取り返しがつきにくいんですよ。
一見そうじゃないんですけどね。
身体に比べると、
心が壊れても元に戻せそうなものなんだけれども、
そうはいかないんですよね。
いろんな意味で不思議と。
これにはもう一つありまして、
あるがままを拒否するという発想って、
これはサンプルみたいなものかな。
一つのあるがままの否定というところから来る困ったことに、
私たちの世の中の発想にはとってもこういうところがあると思うんですけれども、
育児と介護ってものは、
あるがままの否定に限りなく近づきやすいんですよ。
すごく話が飛んだようなんだけれども、
今ホワイトカラーですごく重要になってきているのが一つがこれなんですね。
なぜかというと簡単なんですよね。
少子高齢化が。
少子高齢化が深刻なレベルで進行中だからなんですよ。
まもなく現状なのかな。
10人に1人は80歳以上なんですよ。
80歳以上ですよ。
70歳以上じゃないんですよ。
10人に1人ってものすごい数字じゃないですか。
3人に1人が65歳以上だから。
もう普通に見れば老人が目に入るって時代に突入しつつあるか、
すでに突入したわけですね。
この後に呼んでっていうのかな。
こうなればいわゆる精神的な仕事、
さっきの言うアスリートじゃないやつは介護になりますよ。
絶対に。
そういう方向を向かなかったら多分大変なことになるし、
そうはならないだろうから介護になると思うんですよね。
そういうふうに介護というものになってきた時、
あるがままを否定するっていうふうに入ると、
富士とか老人の介護とか、老人だけじゃないけど介護は、
介護っていったものが特殊な動機づけを必要とするじゃないですか。
あるがままを良しとするっていうんであれば、
そこにいる人は今の社会にそのままのやり方では入っていけないから、
入っていけませんよね。
赤ちゃんはインターネット使えないし、
老人も同じような理由で、違う理由だけどインターネットは使えない。
買ったりするので、何かやんなきゃいけないってことになるんだけれども、
それは良くないことだってことになると、
あるがままを否定するってことになってくると、
介護におけるあるがままの否定
何かそこに理由づけを持ってこなければならなくなるわけですよ。
あるがままは否定されてるわけですから。
だから、いろんな考え方が出てくるわけなんですよ、そこから。
よくあるパターンとしては、
十分な支援があるとか、そういうことが出てくるんですよ。
条件がそこにつけられてくる。
十分な支援は必要ですよ、当然。
だけれども、あるがままを肯定しないってところから始めてしまうと、
この仕事それ自体はすごい辛い仕事になるんですよね。
つまり、脱出するべき何かになってしまうと思うんですよ。
それで、例えば早期のうちに教育するとか、
不思議な発想から始まるんですよ。
子供の場合はそれでもまだいいかもしれないけど、
やっぱりそれはそれで、
すごく難しい問題を生むだろうと思うわけですよね。
だって、ゼロ歳児から教育するとかって、
すごく無理がある感じがするじゃないですか。
でもあれは、明らかにあるがままは否定されているっていうことだし、
やってる人はそうした方が、
はるかに答えは良くなるって思うわけじゃないですか、
思っている。
僕はそれによって何も良くならないというか、
すごく反応が半端ないだろうとしか思えないんだけど、
それが正しいかどうかは分かんないですよね。
分かっていることは、
それがただ、あるがままってものは否定されているっていうことでしかないわけです。
で、そこが脱出ゲームになる。
早く赤ちゃんという状況から脱出させなきゃいけない。
で、その赤ちゃんを抱えている自分も早く脱出しなきゃいけないと。
一つ目にここにさっき言った、
現状にコミットするべきでない現実があるって過酷さがありますよね。
次に、本来そこではしなくていいことがタスクとして発生してますよね。
早期教育ってやつね。
これは非常に簡単じゃないですかね。
自分の子は僕は育てやすかったと思いますけど、
数数えられるようになるまでだって、
長い年月がかかりますから、
ここをぐっと短縮しようとすると、
半端ない苦しみがそこにあるわけです。
で、これをやるのは、
お母さんだったりお父さんだったりするわけだけど、
当然そのための時間って半端なくいっぱい必要になるわけですよ。
32カップだってのはこういうことなんですね。
これは全く同じ事態が、
いわゆる高齢者の介護でも必ず起こる。
しかも高齢者の介護は、
この観点から見るとさらに過酷なことにですね、
いくら教育しても、
成長といわゆる成長はしないんですよ。
だから脱出という言葉の意味がですね、
はるかに重くのしかかってくるはずなんですよね。
ここを肯定的に見られないということは、
どうやったってここでいっぱいお金をもらうとか、
時間を短縮するとか、支援をいっぱいしてもらうとか、
いずれもいいことだと思うんだけれども、
スタートラインの一番最初の原点のところにある、
現状否定ってやつがある限り、
多分幸せにも楽にもやることができないと思うんですよ。
これが多分ですね、私たちのタスクシュートなりでも何でもいいんですけれども、
早期教育のあるがままの否定
要はいわゆる精神的な、ホワイトカラー的な仕事をやっているときに、
意外と怒っている辛さだったと思うんですね。
で、結局その人のあるがままというものを否定的に見ている以上、
絶対自分はあるがままでいちゃいけないわけですよね。
あるがままでいれば必ずこう、何がいけないのかわからないんだけど、
自然の方向に向かってしまう。
ただ流されているだけだっていうのが僕がよくいただく批判なんですけど、
ただ流されているだけっていうのは批判になってはいないと思うんですよ。
ただ流されているうちに立ち壺に落ちて、
お前は不乱死体になって悲惨な最後を遂げるんだからなっていう、
あれは批判なんだと思うんですよね。
ただ流されているだけだっていうだけだったら、
流された先に素晴らしい結末が待っているかもしれないから、
それ自体は批判にはならないと思うんですよ。
その先には必ず悲惨な最後が待っているよっていう意味なんですよ。
でもこれってやっぱり過酷なんですよ。
我々はそれを言ったら最後は自然に帰っていくわけだから、
行った先が悲惨だっていう、これも心象風景なんだけど、
その風景をがっちり心が掴んでいる限りはですね、
そこに実はどんな逆らい方をしてみたところで、
平安にも幸福にもなれないんじゃないかなという感じがするんですよ。
死ぬのを遅らせたり老化を遅らせることはできますけれども、
完全な意味で避けるってことは現状できないわけですし、
ただ僕はこれを完全に避けるってことに、
つまり不老不死みたいなやつね、
それ自体が現実的じゃないと思うんだけど、
現実に不老不死のものって自然下にないですから。
でも不老不死というのが実現できたとしても、
なんとなくそこに幸せってものがある感じはしないんですよね。
なぜならこの不老不死の発想のやっぱり原点に、
脱出ゲームがあるからだと思うんですよ。