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2025-02-07 38:04

「生きづらさ」というものを「抱えている人」ではないと思う【1133】

3ヶ月チャレンジの機能。
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おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、1133回をお届けします。
2月7日、金曜日、8時15分です。少し遅れました。
でも、7時半ぐらいから、断続的にこれについて考えていたので、僕の中ではいつもとそんなに変わらないんですけれども、
まあでもですね、口に出して喋るのと頭の中で、頭の中で考えるって、あんまり良いことだとは、もう最近は思わずにやってはいるんだけれども、
でも、考え込んじゃうことってあるんですよね。これが物思い的なものなのかどうなのかまで、
いちいち検討しなくてもいいんだけれども、まあまあ今は特にこの辺の時間帯、私にとって集中的にそういうことをする時間なんで、
これ以外の時間はほとんどこれはやらないんですよ。この後寝ちゃったりもしますしね。
とにかくここの時間帯が私にとっては、なんていうんですかね、これを自己分析って言っちゃうんでしょうね。
僕はもっとこう、そういう熟語的なものではない表現の方が、まあこれも倉園圭三さんのGood Vibesの影響もあるんだけど、
なんか物思いっていい言葉だと思うんですよね。そういう言葉の方が合ってる感じがします。
物思いにふけるって言うじゃないですか。ああいう感じがしますよね。まあこれは精神分析用語なんですよ。
精神分析の用語の良いところの一つは、こういうやつなんですよね。全部が全部こうじゃないんですけど、
抱えるとか物思いとか、そういう言葉の方が私は断然いいと思うんですよ。
熟語とね、それこそCBTとかの頭文字取るやつ、ああいう表現が好まれるのも今の時代の風潮なんですけど、
最大ピークはもう少し前にあった気がするんだけれども、とにかくこうなるべくなるべくなら和語を使いたいなというふうに。
柔らかいってこともあるんだけど、それよりもですね、自己分析ってそんなことはやってないなとしか言いようがないですよね。
自己分析、どっちもしてない。だからなんかね、他の言葉がないからそれになってしまうんですけれども、
全くその言葉は間違ってるって思うんですよね。自己分析っていうのは自己愛って言葉とよく似ていて、
元の意味が全然その中にない。私は自己を分析はしてないんですよ。
物思いにふけることと自己分析ってなんかえらい違う感じがしません?物思いにふけるというのは、どちらかというと自己が分析してるんですよね、せいぜい。
自己を分析してるわけじゃないんですよ。で、物思いにふけるって分析もしてないじゃないですか。分析なんてしてないんですよ。
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分析も解析も何もしてないんですよ。そういうことではないと思うんですよね。物思いにふけるっていうのは何ですかね。
なんかこう、空想を使って気持ちについて考えるみたいな感じなんですよね。それって自己分析なのかっていう感じなんですよ。
気持ちについて。ちょっと違う気がするんですよね。なんかこう、とりとめもなく考え込んでいるみたいな感じなんですよね。
私がやってるのはまさにそういうことなんで、自己分析はしてないんですよね。
そういう四字熟語で大体、沈思黙考みたいなのがまあまあ近いかなっていう感じがします。
四字熟語であえて言うならね。沈思黙考って、なんか何もしてなさそうじゃないですか。実際何もしてないとも言えるんだけど。
こういう感じのことを喋るのがこれですよ。このポッドキャストですね。
私のポッドキャストです。グッドモーニングボイスなんですよ。果たしてそれがグッドなのかわかりませんけれども、グッドモーニングボイスであることは確かだなという気がします。
タイトル変えちゃいましたけどね。
で、昨日に引き続き、昨日はタイトル的にあまりアレだったのか全くアクセスが伸びないんですが、まあまあここで聞いていただいている方が私の最小リスナーかなみたいな数字になっておりまして、
改めて考えさせられますけれどね。その延長のような話を懲りもせずやる。懲りないというのがね、私のこの活動のコアだなって思ったんですよね。
ここで簡単に懲りるようでは、この種の問題は永遠に多分展開していけないと思うんですよね。
西の上にも3年程じゃないですか。物足りないというぐらいな感覚が最近あるんですよ。7、8年はどうしたってかかるだろうという気持ちをどっかに持ってないと何にもできる気がしないっていうのが最近ちょっと思うところなんですよね。
で、今私が盛んに言ってるのはですね、3ヶ月チャレンジはそれがだいたいおこがましんだと言われるかもしれないですけど、しょうがないんですよ。
だって他の方法は全部ダメだった気がするんで、僕の中ではね。治療モデルからの脱却ってことなんですよね。治療モデルって言っても様々なんだけど、要は症状を取り除く治療モデルからの脱却なんですよ。
非常に分かりやすいところで言うと、どうしたらいいんでしょうからの脱却なんですよね。どうしたらいいのかというのは、こうするほど良いことが起きるっていうモデルを背景に持っていて、こうすると良いことが起きるということを分からない人と分かっている人がいるっていうモデルを持っているんですよ。
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要するに先生と生徒でもいいですし、医者と患者でもいいんですけど、ここに対象があるって考えがあるんですよ。
私は対象関係論っていうのは、そこから脱却している、脱却を目指している、そこに戻りがちなんですけれども、私たちはそこから何とかして抜け出そうとしている、そのような考え方であると思っているんですよ。
とにかく、生きづらさっていう表現が出てくるじゃないですか。あれを読むと、あたかもですね、生きづらい人がいるみたいなんですよね。
生きづらい人が先生のところにやってきて、「先生、生きづらいです。私はいろいろ生きづらさを抱えています。その生きづらさはこうこうこういう原因が、それがトラウマってことなんでしょうね。あるからなんです。」
親が毒親でしたとか、何かに傷つけられましたとか、ひどいことを言われましたとか、いろんなそういうことがあったために、私は生きづらさを抱える人になってしまいましたが、どうしたらいいでしょうかってこういうことなんですよね。
その場合は、と言って処方するものが、最も物質的な場合は薬になるでしょうね。その生きづらさにはこういう物質があるので、これを飲むと良くなります。
一番良さそうな気もするし、一番危なさそうな気もしますね。次に、その生きづらさを行動の側に持ってくっていう考え方がありますよね。
今流行っているのはこの2つなんですけど、行動を変えましょうと。特に言動を変えましょうと。感謝の言葉を発しましょうと。この場合感謝の言葉は感謝の気持ちからじゃなくていいのかっていうのがかなり気になってきますけど、とにかく行動を変えろってことですよね。
例えば朝早く起きろとかもそうですし、日の光を浴びましょうとかもそうですよね。うつぱんにも書いてありましたね、盛んに日光を浴びろと。
日光浴びるのかみたいに思うんですけどね。私なんかね、日光浴びればうつが治るんだろうかっていうのが素人的に悩みますが、まあまあそういうことですよね。早く起きましょうねと。夜更かしやめましょうねと。
まあ悪いことではないと思うんだけれども、そういうことですよね。だから生きづらさというものを行動で除去する。
で、さっき言ったような疑問が自然と湧いてくるんで、3つ目が認知を変えろってやつですよね。
日光を浴びる、朝早く起きるということが役に立つんだろうかというのであれば、その認識を改めていきましょうという考え方がありますね。これが認知療法的な考え方になってて、この辺からだんだんだんだん合わさっていく感じがする。
つまり、結局のところは戻っていく気もするんですよ。認知を考えるってところになってくるとですね、認知、考え方の癖みたいなものを強制する、除去するというやり方には、もうかなり精神分析が入ってくるんじゃないかなと思うんですよね。
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実際、カウンセリングで精神分析みたいな考え方だとしても、この除去モデルみたいなもの、症状を特定し、その症状に対して処方を与えるという考え方は、カウンセリングが精神力動的だと言われていたとしても、やりうると思うんですよ。
私はそこから脱却しようと言ってるわけですけどね。一般にはライフハックもこうだと信じられてはいますね。私はそうは信じなくなりつつありますが、ライフハックだってこの治療モデルというものの限界から逃れようとしている、少なくともそういう精神はあるように思っています。
いますけど、一般にはそうは思われていないですね。ライフハックというのはまさにこの薬物を出したり、薬物の代わりにガジェットを出したりしますけどね。あるいは行動を変えるための行動、要は習慣術ってやつですよね。習慣を変えましょうと。
このSNSを見まくる習慣を改めて、ためになる本を読む習慣に切り替えましょうという考え方。だから本を読む方がいいんだってことですよね、これはね。
だからそういう行動を差し出すという、差し出す側の人と差し出される側の人がいるというモデルですよ。
僕はこれを言うなら一般治療モデルあるいはライフハック的治療モデルと勝手に呼んでるわけです、心の中でね。
やっぱりライフハックを貶めるわけじゃないんだけど、一般にこうなんで。我々は1970年代から向こうをずっとこれを徹底的にやってきたんで、これは基本、身体医療では基本的にこうなんですよ。
特にかかりつけのお医者さんとか街のお医者さんにかかった時にまず行われることはこれだし、我々はこれによってずいぶん恩恵を受けてきて、
あまりにもこれが気分を良くしてくれるもんだから、あるいは体の状態を良くしてくれると信じられてきたものだから、これを心の治療にも適応するようになってきていて、
もはやこれが全域、人生と生活の全域を追い始めているというのが現状だと思う。そのピークを迎えつつある。
いくらなんでもこれはそれは無理だろうっていうところまで、これが教育はもちろんのことですよね。全域を追ってきたんですよ。
特に僕は2000年代から2010年ぐらいまでかな、その辺をピークにしたと思いますね。もっと続いたかもしれません。
ただまあさすがに頭打ちになってきたと思う。やっぱりあの一元論って無理があるんですよ。
これも一元論じゃないですか。医療モデル一元論みたいなもんですよね。問題があったら全部このパターンに。で、ここでその医療の医療者の専門性というのが問われるようになってきてるわけですね。
だから教育は教育の専門家。ライフハックも一歩間違うと、私はライフハックにこれを適用するのは実は本当本心からごめんなとライフハックも専門家がいるんだって考え方ですよ。
そしてガジェット差し出す人と差し出される人がいる。それはさすがにナンセンスだろうと思うんだけど。だってアマゾン行って好きなもの買ったらいいじゃないですか。
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ここで専門性というのは本当に信用そんなに信用できるのかという。専門家って結局知識と検索に長けてるだけじゃないのかっていうところから合わせて検索市場主義みたいなものも出てくるわけですよね。
Google先生に聞きましょうってやつですよ。さらにそれを押し進めていくとAIが出てきて、おはやAIに聞いた方が専門家に聞くよりはるかに優れているってことになりかねなくて、ここで今僕らまさに今ここにいるんだと思いますよね。
でも私はそもそもそのモデルに無理があるだろうとは思うんです。ある種の分野では。だからAIに尋ねるという。わかんないです。これはもう僕の限界を単に言ってるだけなのかもしれない。
AIに尋ねるよりはサンチャレの方がマシだと思ってるのは私なんだけど。だからAIを使うなって話では全くないですよ。悩んだらAIに聞けばいいと僕も思います。
僕が言いたいのはそういうことではなく、このモデルつまり問い合わせる人と問い合わされる人ないしは問い合わされるAIというこのモデルによって、このモデルそのものによって問題が悪化はしないまでも前進しなくなる地点があるっていうのが一つの僕の持ってる感じと、もう一つはこのモデルそのものにそもそも問題があると思うということですね。
ですがまあそういうふうにここで言ってるだけとも言えます。で私が持ってるのはこのモデルからとにかく脱出すること。どうしたらいいんですかモデルというふうに私は別名言い換えておりますけれども、どうしたらいいんですかモデルから脱出するということ自体が3ヶ月チャレンジの一つのモデルであるということが言ってることですよね。
対象関係論が言ってることと何ら変わらないです。対象関係論で特に藤山直樹さんなんかがかなり強調しているのと、私がだって私はそれに何か線は引っ張ってないまでもそこを写真に撮ってエヴァノートとかに入れちゃってるんで、このモデルだよなっていうのはちゃんと、あのちゃんとっていうのも変ですけど藤山さんなんかはすごく強調的に書いていらっしゃいますね。
で、松木さんもそうなんだけど松木さんは藤山さんとは強調の仕方や強調の程度は違う。そもそもなんなんだろうわかんないです。私どちらも直接はご存じ上げませんからね。ただ松木さんという人は本を読む限りそういうところには慎重だし控えめな人がそうかどうかわかんないですよ。実は推しの強い人かもしれませんけど、あの読む限りではそういう印象がね。
この強調点は強調を私はしたいが、強調しすぎないでおくみたいなノリが文章からは感じられるんで、だからそこが本当に強調されているのかどうかはわからないんですよ。でもやっぱり私は2、えーとなんでしょうかな、松木さん流に言うと一者心理学からの脱却なんですよね。
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だから二者心理学に行くんだっていうニュアンスは、一者はすなわち三者なんで、これもなんかね、一は三だの三は一だのってゲーテンのファーストでやってましたけど、そういうわけわかんないこと言ってんじゃねーってことなんだけど、まあその三みたいな話ね。つまり一者モデルは三者モデルになっちゃうわけですよ。
一者の人の心の中っていうものを誰か客観的に見るっていうわけじゃないですか。まあこれから脱却したわけですけどね。ということは第三者がそこにいるってことになってしまうわけですよ。二人しか世の中にいないと客観性ってないわけですからね。だからどうしても三者モデルになるといわゆるエリプス的な話になってて、その上から目線ってやつが始まって、だって一者と二者に対して三者が調停するわけだから、やっぱりその人は一段上にいるわけですよね。
この一段上が問題なわけ。だからですね。一段上が問題なだけじゃないですよ。一段上だからいけないって話でもないです。そういう話ではないんだけど、そういう問題も出てくるよねということですね。三者モデルってことを始めてしまうとね。だからあくまでも二者間でやるんだと。精神分析は二者しかいませんから。そこに客観がない。客観がないっていうのがいかに面倒臭い事態を引き起こすかと。
夫婦ってそうじゃないですか。しばしばね、夫婦関係学でアツさんが盛んにやっていらっしゃいますけど、男性のための男性のためのとおっしゃってるんですけど、これやっぱり男性が今理不尽だ理不尽だって言ってるやつなんですよね。で、僕はこの理不尽だって言葉がすでに三者モデルにへのなんていうんですかな。いや、いいんですよ、別に。夫婦関係学なりアツさんなりが三者モデルですから、あれは。
あの脳というものは客観性を持っているっていう観点に現在は立脚されていますからね。だからオキシトシンとかそういったもの、偏頭体とか言い出すってことは、これは三者モデルなんですよ。私はそのモデルを取らないから。あの客観性というものを客観性というものがなければ理不尽とは言えないじゃないですか。
理というものが、理というものが正しいんだっていうことを言うためには、やっぱりそこには第三者ってものが必要であり、その第三者は正当な立場に立って、その夫が言われているそのお皿じゃダメですっていうのは理不尽だっていう、それは不当だって言ってるわけじゃないですか。不当って言うからには正当があるってことになるじゃないですか。でも夫婦ってどこまで行っても二者なんで、子供が調停してくれることはありますけど、子供っていうのはそういう意味で非常に助かる存在ですけど。
一段上からじゃなくて一段下からやってくれるから、これは非常に新しいモデルなんじゃないかって僕は思うんですけど、でもそれをやり過ぎると子供への負担が大きくなりますから、子供がね、夫婦関係の関係を気をもみまくるというのは、大体において家庭学的には昔からいいこととされてませんよね。
だからといって、そこをシュートメさんが調停したりすると、これはもう嫁シュートメ論争の真っ只中じゃないですか。だから第三者っていうのが夫婦には非常に投入しがたいんですよ。
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いつも夫婦関係っていうのは精神力度そのものだってよく思うんですよね。これを理不尽と言えないこの状況がここにはある。こんなに理不尽な気がするのに理不尽だと言ってのがどこかおかしい。
そこに俺は正しい、いや私が正しいっていうのを一生懸命やることになるわけですよね。これを私はやるべきだと思うんですけど、
内心ではね。なぜならそれは人間はPSポジションからは卒業できないということを明快に述べていると思うの。
これほど自称がそれを明らかにすることはないと思うんですよ。いくら私に正当性がある、私の長寿が万歳って頑張っていても、
所詮長寿側はSであって、決して一段上でもなければ正当でもないわけですよ。どこかそこには単なる力に頼っているっていう部分があるわけですよ。
腕力なり口達者さんなり、何でもいいんですけど何かに頼っているわけです。所詮はPSなわけですよ。
良いものと悪いものをスプリットして、良いものは私、悪いものがあんたっていうことをお互いがやり合う。悪いものをお互いが投影しあって、悪いものをボホボホにして、
あ、スッキリしたということを言って、あんなに頑張って結婚したのにその人を失うっていう結果を招くっていう、ものすごくクラインティックな世界にはまり込むわけですよね。
これをこれほどよく教えてくれるものは私はないと思うんで、ものすごい自分が本当に怒っちゃった時ですら、あーピーエスだわー俺本当ピーエスだわーっていうふうに思い知らされるんですよね。
こういう機会がとても貴重だと思うんですよね。お前本当にDがいるんだぞっていう。でもDにこういう状態に入るっていうのは要するに欲打つポジションに入っても、
本当に欲打つ的になるじゃないですか。あー俺本当ダメだわーみたいに。どこからどう見てもダメだわーになっちゃうじゃないですか。これほど嫌なことはないわけですよ。
こんなに理不尽だと思ってる、理不尽だと思う俺が間違ってるかそうでないとすると、うちの母とかが言いたがるセリフなんですけど、
でもあんたが結婚したんでしょ、その女の人がいいと思ったのあんたなんでしょってさらっと言われるわけですよね私は。あーっていう気持ちになる。
私の母はこういう時なぜかどういうわけか知りませんけど、実家に帰らせていただきますやっても全然見方をしてくれないのがうちの母なんでね。
うちの母の性格は本当に実に面白いところがあるわけですよ。こういう時になんか天下の正論みたいなものを吐くのが大好きな人なんですよ。
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あれはねやっぱり祖父のDVの影響だろうなと。なんていうのかな絶対負けたくない人なんですよね。
だから要するに心のどっかではね結局のところ中止なんですよね。嫁さんというものの方が好きです。嫁さんとセックスしてますな。
やっぱりうちの母はこう、私大好きですからねうちの母はね。心のどっかでは面白くないですよね。だから相子というわけですよね。
あんたが結婚したじゃん。あんたがあの子がいいって言ったでしょ。私は知らないわよみたいなね。そういうひどい目にあう。全部自業自得なのよというね。
だから思いっきりDポジションにはまり込むわけですよね。だから絶対人はPSというものを育てよう。少なくとも私はできないんだなと。
理不尽だ理不尽だいうお前はアホだって言われるっていうポジションから抜け出せないと。やっぱりDに行くしかないと。
この結婚生活を維持する維持しない。まあ維持することになりますけどねDに入れば。娘のことを考えましょうと。現実をよく見ましょうと。
行使しましょうと。どんなに良い文が理不尽でも継承しましょうと。現実を見に行きましょうと。
まあ倉園慶三さんのグッドバイオスですよね。現実を見に行きましょうと。
妄想の世界にはまり込んで、その辺ボコボコにしてもあなたにいいことは決して起こりませんからねと。
その結末をよくよく考えろと。だから考えられない状態になっちゃって。
変動体モードですよね。アツさんがおっしゃるところの変動体モードですよね。
美音が言うところの考える能力が狭められている。剥奪されている。考えられなくなっている。
要するに良いものと悪いもの、良いものと悪いもの、自分が良いもの良いもの良いものみたいな。
全然考えてませんから。鬼ヶ島に鬼退治に行く桃太郎状態になっちゃってるわけです。
あの話をこのものはやっぱり三歳児なわけですよ。頭が三歳児になっちゃってるわけですね。
だから私はいいものなんだ。あんな皿のことで、どっちだって絶対いいじゃん、あんな皿。
それに昔はあっちの皿に使えって言ってたじゃんっていう、それは本当なんだけど全部。
で、そういうモードになっちゃってるわけですよね。これは本当に不尽だわみたいな。
家庭裁判所に調停してやるみたいになってるわけだけど、頭は全く使えてないわけ。
大脳神秘室がウルスになってるわけですね。
だからDに行くと、そうするとガクッとなるわけですよ。
どこからどう見てもガクッとなるしかないわけですよね。
このガクッとなるというのを、クラゾーの慶三三流に言うと、
罪は人の作り出したものですって話になるわけですよ。
愛しましょうねっていう話になるわけですよ。もともと一つだったんですって話になるわけです。
何の話を使ってもかまわないけど、とにかく欲打ち的にはなっちゃダメだってことですね。
悪いもの、自分が悪いんだから自責します。
あんたが悪いんでしょっていうのは、あれはダメだってこと。
これは、これは受け入れないってことですよね。
そうして異なる観点、だからこれを資座って、松木さんなんかは呼ぶわけですよ。
視点を変えましょうと。それでいい観点がきっと見つかるからっていうわけですよね。
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でも美音は視点と言ってしまったら、すでにその人の物の見方に囚われるから変えられないじゃないかと。
だから頂点と言い換えましょう。
頂点じゃあかんねえだろって感じがするんだけど、
美音という人は数学的に物を考えたいんで、三角形には三つの頂点があるわけですよね。
だからそこを抽象化して考えて、どんな人にでも考えられるようにするためにやっぱり視点じゃダメだと。
資座もいけないと。頂点にしようと。
だから頂点を変えると。頂点じゃ変わんねえなって感じがやっぱしますよね。
みんなが視点とか資座っていうのはわけがあるわけです。
整然観点ですよね。頂点ってどうよって感じがします。
ビューポイントではないですよね、頂点はもはやね。
単なる角じゃない?それじゃっていう感じがするんだけど、美音の言いたいことはよくわかるんですよね。
こういう時こそ抽象化だって言いたいわけですよね、彼はね。
そもそも治療してるんだから、やっぱり全ての人に適応できなきゃ。
視点を変えるんだったらそれはあんたの視点じゃないかって美音は言いたいでしょうね。
所詮は特定の人間の考え方だろ、それはっていうことが言いたいんだと思うんですよ。
そうじゃなくて頂点を変えるんだと。
統合主張症を相手にするっていうだけのことはやっぱあるなぁとは思います。
話がこうあちこちに言ってるんだけど、依然として僕が言いたいのはですね、
これは二者モデルになったってことなんですよ。
正しいから私がこっちを採用するではないんですよ。
この関係そのものを変えたいわけじゃないですか。
夫婦関係なら夫婦関係そのものを、
つまり私が結局のところそれは理不尽なんだから、
あなたのその振る舞いなり言動なり心を入れ替えろって言うじゃないですか。
入れ替えなさいっていうこの観点を取ろうとするから、長寿がモデルになっちゃうわけですよ。
三者モデルになってしまう。
そうすると一本足が一番究極的に裁判所になるわけですよ。
裁判所どっち正しいんでしょうかねって。
私ですか妻ですか、私は私が正しいと思うんですけど、
っていう話になるしかなくなっちゃうんですよね。
このモデルを捨てる、捨てるというか脱却する、
そのためにはやっぱりですね、生きづらさを抱えた人間がここにいます。
先生これを取り除いてください。
ではこういう薬を、みたいなのはやめた方がいいってことですよ。
でそれをやるとなると、じゃあ落ち着く薬みたいになっちゃうわけですよね。
あるいは、まあこれはここが難しいんだけど、
夫婦の振る舞いを行動から変えていくのはどう?
これはありだとは思います。やる価値はあると。
私はその路線を取らないけど、やる価値あると。
まあ心にもなくてもね感謝の言葉を述べましょうと。
いてくれてありがとうとか言おうっていう話ですよね。
まあそれはありだと思います。
でも私はどうしても本当に感謝してるのかっていうところが気になる人間だから、
認知の話にだんだんなっていくわけですけど、認知を改めましょうと。
本当に奥さんは、もしかすると奥さんは今体調がよろしくないのかもしれないと考えてみましょうと。
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だんだんやっぱりこれは力度に近づいている気がするんだけど、認知ですよね。
今どう思ってるのか。コミュニケートを取ろうと。
コミュニケートを取らなかったならコミュニケーションを5分でいいから取ろうとか、
行動療法なのか認知療法なのかよくわかんないところに認知行動療法みたいなものが出てくるわけですよ。
まあ僕はこれについていろいろ喋れる立場にはそもそもないんですよ。採用してないんだから。
多分これもかなりブラッシュアップされてマインドフルネスを投入しますとか、
ACTですとかスキーマですとかいろんなことをやっているうちにナラティブですとかね、やっているうちに変わってきたんでしょう。
ただ僕は3ヶ月チャレンジで誤解されるかもしれないから言っておくと、このモデルではありませんということです。
このモデルは取らない。あくまでも私は生きづらさというものを抱えている人間という人はいないと思う。
生きづらさを抱えている人がここにいますってことではないと思う。
傷つけられた人がここにいますってことでは、私はそのモデルは無理がありすぎるというのがまず一つですね。
それってだって結局のところは客観性を要求するじゃないですか。
でもそのようなことはできないんですよ。3ヶ月チャレンジで人によっては絶対できないとは言いませんよ。
他の人を介して紹介され、3人の付き合いの中でその人を教えてもらう。
でもそうしたとしてもですよ。その人がそういうトラウマを抱えるに至ったと、その方が語ってくださるお話を私は信じるしかないけど、
それが事実であることを証明できるのかというとそうではないじゃないですか。
会社で理不尽な目に遭いました。ああそうなんだと思いますよ私は当然。
でも本当に理不尽な目に遭ったのかということはわからないですよね。
私はギャンブルですごい損をしました。ああそうなんだ大変だなって思いますけど、実はギャンブルなんかしてないかもしれないじゃないですか。
その人は口から出まかせを言ってる可能性がないわけじゃないし、なんならその人はそういう夢を見ているだけかもしれないし、それはわからないじゃないですか。
これは極端な話をしてるんだけれども、つまりここには2者しかいないじゃないですか。
その人が客観的にギャンブル強である人であるっていうわけではないですよ。そう言ってるだけです。
つまり何が言いたいかというと、この場でその人に語られている感じっていうものは、その場で語られている出来事を共有している2者っていう事実以外はそこには何もないと思うんですよやっぱりね。
つまり生きづらさを抱えている人を僕は会ってるのではなくて、私は生きづらさを抱えているんですという話を聞いているだけなんですよ。
これが私が考えるところの客観医療モデルを脱するために必要な前提条件なんです。
このように捉えるより他仕方がないなと。
例えば私は人に好かれないとか、人がみんな私のことを嫌いだと言っているっていう人はそこにいるわけじゃないんですよ。
30:08
そういう話を私が聞いていると、どんな感じがしていくか、逆転移でもありますよね。
転移と逆転移がそこで起きるんだけど、これ自体が問題なんですよ。問題というかそれ自体が問題になるか問題にならないかが全てなんですよ。
だと思うんですよね私はね。
だからここに転移という概念を持っている、伝統的に持っている精神分析でね、精神力度でもいいですけど、精神分析しかないと思うんですよね。
ある方とずっと話していて、だんだん私が、これを言うと気にされる方もいらっしゃると思うんですけど、でもこういうふうに言うしかないんですよね。
なんか面白くない感じがしてくるみたいな、これが大事なんですよ。
その人はもしかすると私は話がつまらないって言われているんですという悩みを抱えた人だと思っているかもしれないけど、そんなことは問題じゃないんですよ。
だってわかんないじゃないですかそんなこと。実はその人と話すのみんな大好きで、その人はそういうふうに言うかもしれないけど、みんなはその人と話すのが大好きなのかもしれないじゃないですか。
結構その人もいろんな人と話してるときはみんなが好いてくれてると思ってるんだけど、なぜか私と話すときだけは私はみんなと嫌われてる人なんだって言ってるだけかもしれないじゃないですか。
大事なのはその、私はみんなに嫌われてる人なんだって言ってる話を聞くとね、聞いてると、1時間以上聞いてると、ああこの話もういい加減に切り上げてくんないかなと思う。
この思いが大事なんですよ。この思いがそこの場に現れたときに、つまり私とその人じゃないと出てこないその思いが現れたときに、この私とその人がうまくいかなくなりかけているというのを何とかするしていくっていうのが、
それは3ヶ月チャレンジのモデルじゃないよね。対象関係のモデルだよねと言われると、申し訳ないんですけど、私が行き着いたのは、直感的に目指したのはこれだったんですよ。
これを目指しているカウンセリングというのを探していったら、精神分析にぶつかって、対象関係で、特に藤山直樹さんがこれを強調していらっしゃるという。
つまり話としては、お母さんの話、毒親の話とかなのかもしれない。でもそのお母さんが毒親だと私が信じているわけではないんですよ。
信じているような気持ちになって話を聞いていくうちに、この話は興味深い、この話はためになる、この話はつまらない、この話は聞いていると眠くなる、いろいろ起こるわけですよ。
これを全部その場で取り扱っていくうちに、もうこの人とはやっていけないみたいな感じになるかもしれないじゃないですか。
それはめちゃくちゃ大事なんですよ。なぜならば、この人とはやっていけないって思った瞬間に、僕は次のことを考えますよね。
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でもこの方からはお金をいただいている。
だから僕はね、あんまり僕は自分が大金持ちになっちゃダメなんじゃないかって時々思うんですよ。余計なことかもしれないんだけど。
これは私の娘の例えばですよ。
全然そんなことはないんだけど、予備校代にいるんだったよなって考えるかもしれないです。
めちゃくちゃ生々しい話なんだけど、この生々しさがものすごく大事なんですよ。予備校にいるんだよね。
でもこの人の話を聞いていると本当に結構耐えがたいんだよな。
でもこのお金がないと予備校に。
3カ月チャレンジの参加者さんが聞いていらっしゃるのは知ってるんで、この辺が政治分析と違うところなんだけどね。
これを真に受けないでくださいね。僕今一生懸命話作ってるんですからね。
娘を予備校に行く予定はないんでね。まだ中学生なの。
でも生々しくしないと意味ないんで。
だって僕がこれで資産1億ですってなると、別にお金もらってもどっちでもいいから、この人と話すの嫌だからって言って、どんどんどんどん好きに勝手に切れるじゃないですか。
そしたら話したい人とだけ話す人に僕なっちゃうじゃないですか。
ここら辺がすっごい難しいし、生々しさが必要なんですけれども、参加者さんとしてはですね、多分僕とわざわざ1時間も話すんだから、楽しく話していたいというのはあると思うんですよ。
あるいは気持ちよく話していたい。私が嫌悪するようにはしたくないというのはあると思うんだけど、
でもただただ楽しく話すのは不毛じゃないですか。
それだったら別に僕に大金払っていただかずとも、どっかのカフェに行ってお互いがコーヒー代払って楽しく話せばいいわけですよ。
だから高いお金を払って時間を予約して楽しい話をするっていうのは不毛なんですよ。
こういうのも大事なんですよ。
でも楽しい話ばっかりしちゃうっていうことになってくると、一例ですよ。
でも楽しい話ばっかりして、そういう話もしませんけど野球談義をずっとしてますみたいになったらですね、
なんか自分は避けたい話があるんじゃないだろうかってことになるかもしれないじゃないですか。
つまりそれっていうのは私との関係というものを通じて、この関係がこの治療にふさわしいという、それは何がどうふさわしい。
治療じゃないし、治療だと今治療モデルを言ったから治療だって言ってるんですけど、治療だとしてですよ。
この治療というものに精神分析のことを指してます。
ふさわしい会話をしなければ、これを払ってこの時間を使うのは不毛だって感じがしてくるはずじゃないですか。
ではそれは何だろう。
答えが一時的に決まらないですよね。
最初は、例えば先送りでいい、先送りを何とかしたいって来たと。
でも先送りを何とかしようと言って何度も何度も来てるんだけど先送りは一向に減らないと。
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これ佐々木がダメなんじゃんってことになるじゃないですか。
例えばですよ。でも先送りしてるのは自分じゃないですか。
こうやって僕らはそういう関係の中で、この関係を維持しがたい事態にぶつかるわけですよ。
私と参加者さんというこの関係は、このモデルの中では維持しがたいという事態にぶつかるわけですよ。
この人間関係が維持したい、維持したくない、維持するには何かがおかしいっていう事態にぶつかるわけですよ。
でも私はここに来ているっていう事態にもぶつかるわけですよ。
そして私が退屈しているとか、でも私はお金が必要だとか、でも私はこの人と喋っていたいとか、
でも喋っているだけじゃダメだとか、そういういろんなものにぶつかるわけですよ。
これが生きづらさじゃないですかってことなんですよ。
これはその人が生きづらさを抱えている人ではないんですよ。
生きづらさとはこのようにして出現するものなんですよ。
だったら生きづらさを出現させるようなことをしなければいいじゃないかってなるじゃないですか。
なると思うんですよね。
だから3ヶ月チャレンジやめちゃえばいいじゃないかっていう風にやめることにするとするじゃないですか。
多分今の段階では私も含めて3ヶ月チャレンジは運営している人の中にも参加者さんの中にも
これなくなると困るっていう人がいらっしゃるんですよ。
いないんだったら僕はやめます。
いるんですよ。いらっしゃるんですよ。
つまりそれは生きづらさというものをわざわざ出現しなければ生きていけないという状況がそこにあるんです。
これを何とかして生きづらくないように持っていくためにはこの関係を調整していくより他ないですよね。
この調整する力をつけていくということが3ヶ月かけてやっていくということが3ヶ月チャレンジというものの
私は機能だと目標だと思っています。
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