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おはようございます。グッドモーニングボイスです。
1月10日、水曜日、朝7時24分です。
今日もまた寒いですね。なんかもう昨日の焼き直し版みたいな感じが。
でも今日は昼はもっと暖かくなるみたいですよね、昨日よりは。
はい、お知らせ、お知らせですね。お知らせはもう、生まず絶えまず頑張る。
東京ライファーク研究会のゲスト会
1月20日の東京ライファーク研究会のゲスト会。
これですね、昨日ある方とお話をして、
売れ込みになっている具体例の人があまりにも、なんていうのかな、
あなたこんなことで困っていませんかの例が、あまりにも辛そうすぎるっていう、
面白い指摘だと思ったんですよね。あんまりこう、改めてそんなところは、
僕が、
全部、告知文書いたわけじゃないですけれども、そうか、これは、
なんていうのかな、そんなに会社員は大変じゃないみたいな、
そこまでではないという、これはちょっとわかんないですけどね、
そこまで大変な人もいるだろうし、そこまでは大変じゃない人もいるだろうし、
ただ、ライファーク研究会に来る人は、そこまで大変じゃないんじゃないかって言われると、
それはそうかもしれないなと思いつつ、
もう、どうしようかなっていうのを、ちょっと昨日、改めて読みながら考えました。
そうね、確かに、別に、辛い、なんていうのかな、人生の絶望感をなんとかするために、
ライファークするわけじゃないですもんね。まして今、東京ライファーク研究会は、
どっちかというと、ちょっとお楽しみ会みたいな、そんな感じで開催できると本当にいいんだけど、
そこがちょっと難しいところでもある。
そういうところでもあるんですよね。
リアルに参加するお楽しみ会っていうようなものだとすると、
それはリアル参加が前提なんですが、最近やっぱり、
潮流としてですね、オンライン参加っていうのが、セミナーは、
それができるなら、それに越したことはないよねって、
これは結局、学びの場に近いんだと思うんですよ。
で、私は、その、なんつうんだろうな、こう、悩みというのは、
なかなかこう、いわゆるこう、精神分析でもいう、セルフカウンセリングでは、
おぼつかないところがあるって話と似ていて、座学でどうにかできるような悩みは、
そういうケースもあるんで、つまり、なんつうんですかね、
レクチャーを受けるという形式がすごく好きっていう人もいるし、
好きじゃないんだけど、その時はたまたまうまくいくってこともあるし、
この辺だから、本当に、
わからんわけですよ。
その人のパーソナリティにもすごく左右されるし、悩みってものは、
その人の、その時の条件っていうのもすごく大事だし、
話す人の雰囲気とか、そういったものにも必ず左右されるんで、
座学というものが、だから良いとか悪いっていう話でもまたないですしね。
難しいんですよ。
ただ、一つ感じられるのは、
東京ライフアップ研究会は、
学じゃない方がいいような気がするんだけれども、
今回のテーマは確かにちょっと学っぽくなっちゃってるよねっていうのはあります。
あるんだけど、一方で、
あれを、これはずっと僕が言ってることなんですね。
あれを思いっきり実践するっていうのは、
なかなか踏み切りがつかない人の方が普通なはずなんですよ。
やっぱりちょっとの悩みで精神分析受けないですよ。
今の日本の人たちは。
まず、確実に。
そういう、なんかね、
何て言うんですかね、
文化がない。
我が国にはそういう文化はないと僕は思うんですね。
やっぱり、南米とかイギリスとかには、
今でもはっきりあるらしいんだけど、
ウィーンとかもあるんじゃないかと思うんですよね。
グロイド派生誕の場所ですから。
でも、東京はそうじゃないと思うんですよね。
だから、ライフアップのところに持ち込むぐらいで、
ちょうどいいんじゃないかと思っているんですけれども、
なんかこう、繰り返し繰り返し、
あの手この手で言ってますけど、
今年はこれをテーマにもしたいと思ってるんですよね。
同じことを繰り返し、
形式を少しで動かして言うみたいな。
こういうのは、もしかすると、
仕事の能橋悦夫さんが得意とする分野のような気もするんだけど、
私もこういう方向性でやっていきたいなというのはちょっとあります。
方針って言うんですかね。
まあ、とにかく20日よろしくねってことですよ。
今日は久しぶりにでもないかな。
タスクシュート的に、
タスクシュートの話にしようと思ってるんだけど、
もう一つ、それと並行してですね。
なんていうんですかね。
まあいいや。
とりあえずタスクシュートの話をしたいと思ってるんですね。
で、えー。
もう僕の頭の中では、
タスクシュートとはここを伝えるべきだというのはありまして、
なんだろうな。
端的に言うっていう言葉は、
全然端的じゃないっていう指摘をしばしば受けるんですよね。
うんと、
そうだな。
僕の今脳内には、
色がしっかりと分けられた2つの領域があるんですよ。
片方は、えー、
頭の中では未来と呼ばれている領域なのに、
片方は過去と呼ばれている領域なんですよ。
えー、タスクシュートで言うと、
プランとログの概念
まあ、プランと。
ジェイマス・ザキさんがそう名付けましたから、
プランと。
僕も尊重して言うことにもう決めました。
プランとログ。
で、このプランとログというのは質が異なるんですよ。
で、これはね、えー、
異論もあろうと思うんですけども、
一旦タスクシュートで、
どこがいいのか分からないとか、
なんでやってるのかが分からなくなってきたっていう方は、
一旦私の話を受け入れてみて欲しいんですね。
プランとログはプランの質の方が遥かに低い。
これを一旦受け入れ、あの、
プランの方が遥かに高いと思っていて、
しかもそれで上手くいってるっていう人は、
この話無視してもいいです。
ただし、その場合、
この番組を続き聞く価値は、
ほぼ無いんじゃないかっては思いますね。
プランとログでは、
プランとログでは次元が違って、
で、プランの次元の方がずっと低いんです。
低次元なんですよ。
ここを受け入れられるかどうかが、
えー、ポイントだと。
で、それならライフログでいいんじゃないかって言われるかもしれないですけど、
ライフログってもう、
形式的には似たようなもんなんだけど、
ライフログってのは、
プランという概念を持ってないんですよ。
で、僕はこれは持つ必要はあると思ってるんですね。
プランというのは、
イリュージョンなんですよ。
本能と現実の区別
それが分かるようになるために、
ライフ、あの、タスクシュートを使うんですね。
僕らは、
イリュージョンがイリュージョンだってことが分からない、
生き物なんですね。
それは、まあ、
あの、一面では、
多分、長所でもあるんだけど、
あまりにもその、
異常性が、
異常なことなんですよ、これは。
イリュージョンが現実でないというのが分からないから、
普通の生き物は、
発狂して死んじゃうんだと思うんですね。
僕の感じで。
だって、ほら、
目の前にトラがいるのに、
そんなシーンはあるわけですよ。
野生では。
これ、猫だって思ったら死んじゃうでしょ。
すぐ。
なぜか人間は、
これで死なずに来られている生き物なんですよね。
しかも、
トラほど強くはないくせしてね。
目の前にヘビがいるのに、
夢を見ていたら、
すぐ飼われて死んじゃうわけですよ。
でも、
僕らは、
そういうことを平気でやっておきながら、
死なないんですね。
で、精神分析ってのは、
精神分析の話になっちゃったんだけど、
精神分析ってのは、
これはどうして発狂しないんだって問う学問。
学問ではないな。
発想でもあるんですよ。
普通、発狂するよねっていう、
あれは、
前提を持ってる部分があるんですよ。
年に、
メラニー・クライン、
これが、
フロイトの、
僕は、
第2の弟子だと思ってるんだけど、
ある意味、第1の弟子でもあると思うんですけどね。
メラニー・クラインは、
幼児は丸ごと空想的っていう表現を使ったんですね。
幼児は丸ごと空想的っていうのは、
別の言い方すると、
幼児とは狂ってるんですよ、
っていうことなんですよ。
正、
正気であり、
現実的であるっていうのは、
どういうことかというと、
現実に即して本能で生きてるってことなんですよ。
なぜこれが食べられるんだろうと、
動物は考えないですね。
食べられるものに食らいつくんですよ、
本能で。
僕らはこれができないんですよ。
なぜこれが食べられるんだろうって、
考え出すことができるんですね。
人間ってのは面白いもので、
なぜこれが食べられるんだろうって、
考えるから、
私たちは正常なんでしょうって、
思ってるんですけど、
それはおかしいんですよ。
食べられるものと食べられないものの区別なんで、
本能でつけているっていう方が、
よっぽど正常なんです。
だから、
どんなに脳みそが足りないのか、
いなくても、
どんなに下等な動物でも、
トカゲとか脳みそ、
ほぼないですからね。
人間に比べればね。
爬虫類脳ですからね。
ほとんど脳みそないんだけど、
トカゲは、
自分が食べれもしないものは、
食べないわけですよね。
これが、
正常ってもんじゃないですか。
僕らは食べれないもの、
口に入れるじゃないですか。
赤ちゃんとか育てた人は、
みんな知ってることなんだけど、
これは、
何でも口に入れるはずからね。
全然、
本能が働いてないわけですね。
空想で生きてる。
空想で生きてるわけですね。
そういうのを発狂してるのと、
何にも変わらないよね。
いい大人がですね、
消しゴムを口に入れて、
パクパクしたら、
ちょっと、
やっぱり、
何か見てもらった方がいい、
みたいになってしまう。
つまり、
正気ってのは、
本能が働いてるってことなんだけど、
人間は、
この本能が働いてないんですよ。
人間の正気は。
でも、正気は保てる。
なぜだろうと、
考えたのが、
フロントなわけですよね。
で、
で、
タスクシュートになるんですよ。
プランってのは、
全部空想なんだよね。
これが、
僕らは分かってない。
で、
タスクシュートを使ってると、
いずれ、
イリュージョンとの関わり方
これが分かるようになる。
つまり、
正気に大きく近づくことができる。
だから、
時間の使い方が上手くなる。
っていうのは、
つまり、
現実との関わり方が上手くなるんですよ。
現実とうまく関われるようになるためには、
現実の中に見ているイリュージョンを、
イリュージョンだと、
必ず、
続いていくことが、
何よりも、
有効なわけですよ。
これがイリュージョンだと、
分かんない間は、
イリュージョンを、
一生懸命実行しようとして、
時間を無駄にするんです。
だから、
時間が無くなっていく。
っていう風に、
タスクシュート的に、
考えていると、
私は思います。
タスクシュートを使っているうちに、
これが分かるようになるはずだと。
僕が昔、
タスクシュートを使いさえすればいいんですよ。
って言ってたのは、
そういう意味なんですよ。
正しい使い方とか、
そういう話は、
一旦置いといて、
とにかく使おう。
使えば、
プランとログは、
いずれ、
一致せず、
プランの価値はない、
ってことに、
気付くはずだ。
でも、
僕の見たては甘くて、
全然そうはならない、
というパターン、
全然そうはならない、
というケースが、
いくらも見られる、
ということが分かって、
また、
J.Wazuzakiさんは、
それをね、
もっとこう、
組織を使って、
統計を使って、
膨大に、
検証してみて、
佐々木の言ってる通りに、
やるっていうことは、
起こらないんだ、
っていうことを、
彼はですね、
分かってですね、
その方向を、
捨てて、
やり方を、
大きく改めたんですね。
それが、
100日チャレンジに、
活かされてるんですよ。
あれは、
非常に大事な、
研究、
研究というのも、
おかしいんだけど、
でもあれは、
研究に近いなって、
僕は思うんですよね。
だから、
彼のやったことは、
偉いなと思ってるんですけど、
僕、
ああいうこと、
絶対やんないですからね、
はっきり言って。
自分の感性だけで、
こう組み立てていく、
っていう、
ところが、
ありますから。
で、
えっと、
プランとログ。
で、
例えば、
プランの中には、
不安というものが、
作り出した、
イリュージョンが、
あります。
不安の可視化と現実との区別
もう、
これが、
最もよろしくないんですけどね。
最もよろしくない例だけで、
行こうと、
今日は思ってるんですけど、
それで、
時間40分くらい、
経つはずだから。
あの、
不安というものは、
可視化でき、
あの、
見えませんよね、
不安そのものは。
だから、
不安が、
えー、
空想の形をとって、
これは、
非常にもう、
精神分析ですよ。
まさに、
メラニー・クラインが、
言わんとしてたのは、
そういうことだと、
私は思うんですね。
不安というのは、
本能から、
多分、
生まれる部分が、
あるんだと。
だけど、
不安そのものは、
見えない。
犬ってのは、
考えはしないんですよ。
まして、
空想はしない。
この肉は、
食べられる肉。
こっちは、
腐った肉。
イメージしてみよう、
みたいな、
絶対やらない。
家畜は、
分かんない。
人間に、
飼いならされすぎると、
本能が、
多分、
機能しにくくなるでしょうね。
でも、
野生の、
多分、
生き物は、
そういう、
愚かなまでは、
やんない。
それやってると、
死んじゃうんでね。
だから、
本能だけで、
生きていられるわけです。
想像とか、
多分、
イメージとか、
そんなものは、
ないよ。
んで、
んで、
えー、
僕らは、
それに、
ほぼ、
気づかないんですね。
だから、
不安というものが、
可視化されてくるわけですよ。
これを、
神経症と、
言うんですけれどもね。
例えば、
えー、
鍵閉めたかなと思って、
戻る。
この話も、
しょっちゅうしてますが、
鍵閉めたかなと思って、
戻る。
1回はいいですよね。
1回は。
これ、
人間として、
社会的な活動です。
あ、
閉まってる。
よかったと思って、
出かける。
で、
1分とたないうちに、
また、
あれ、
鍵、
ハーブ、
これ、
おかしいですよね。
戻る。
やっぱり、
閉まってる。
不安とイリュージョンの関係
健忘じゃないってことに、
要注意ですよ。
忘れてはいないですよ。
自分が、
閉めたことも、
覚えてる。
確認したことも、
2度目だということすら、
覚えてる。
そして、
もう1回、
行って、
あれ、
鍵閉めたかなと思って、
これは、
何なのかってことですよね。
これは、
不安が、
イリュージョンを、
作り出したら、
私たちは、
イリュージョンと、
現実の区別は、
つけられなくなる、
わけです。
今回、
Jマスザキさんと、
協調で書いた、
先送りゼロで、
彼がよく、
使うフレーズですが、
繰り返し、
繰り返し、
私たちは、
理想と、
現実の区別が、
つかないとか、
理念と、
現実の区別が、
つかないって、
一生懸命、
彼が書いているのは、
こういう話。
つまり、
私たちは、
現に、
そういう病は、
あちらこちらに、
普通にあるわけですよ。
普通にあるということは、
みんなが、
なりふるって話なんだ、
不安というものが、
現実の、
イリュージョンを、
作り出します。
このイリュージョン、
というものに、
僕らは逆らえない。
どうしてか。
それは、
覚えているか、
覚えていないか、
その場面を、
ビデオで撮ったか、
写真に撮ったか、
といった話では、
ないということです。
大抵の人は、
写真に撮れば、
大体、
その場を離れられる、
と思いますよ。
ただ、
大事なことは、
心の中には、
不安があって、
この不安は、
変装ができる、
変装というのは、
つまりあれですよ。
怪人二重面相の、
変装ですよ。
変身でも、
まあ、
変身はダメだな。
変換ぐらいが、
いいですね。
変換か、
変装。
つまり、
可視化された瞬間に、
イリュージョンが、
出来上がるわけです。
不安というものは、
見えません。
不安というものは、
時間に、
感じることしか、
できない。
聞こえるとか、
不安が聞こえたら、
大変です。
大きな問題です。
目に見えるとか、
そんなことは、
ありえないわけですよ。
だから、
夜道を歩いていて、
怖くなった。
なんで怖くなったのか、
わかんない。
不安というものが、
ある。
そして、
それが、
お化けというものを、
イメージさせる、
わけですよね。
つまり、
不安を見ている。
不安を見ると、
変なものが、
見えてくるわけですよ。
普通の人には、
見えないものだったり、
現実にありえない、
する。
しかし、
それを見ちゃう。
僕らは、
見るってのを、
目でやってるわけじゃないんで、
まあ、
目は使うんだけれども、
見るのは、
あくまでも脳ですから。
つまり、
見るって行為は、
すべて、
ある意味では、
いろいろ、
作り出す行為なので。
ただ、
目がなくても、
見えるものを、
外界に見てしまうのを、
妄想って言うんですよ。
もう一回言いますよ。
目をつぶっても、
見えるものを、
外界に見てしまうのを、
妄想って言うんですよ。
これを、
不安というものは、
作り出す、
原動力として、
とても有効だ、
ってことですよ。
ものすごく、
不安ってものは、
この種のものを、
作り出すの。
このことを、
よく、
考えながら、
このことを、
よく、
覚えておけば、
不安ってものは、
空中、
空間中に、
無いものまで、
作り出せてしまうんですよ。
つまり、
お化けですよ。
お化けを、
見るわけ。
お化けを、
見るって言うのは、
自分の心の中の、
不安を、
見ている、
ってことなんです。
これを、
踏まえれば、
タスクとして、
不安を、
書き出すのは、
絶対に、
起こる、
っていう風に、
確信できるはずだと、
僕は、
思うんですよ。
だって、
この時間帯に、
聞いてる方はね、
朝、
見ていただけると、
そこに無いものは、
見えないでしょ。
よっぽど頑張って、
空想しない限り、
そこに無いものは、
見えないはずなんですよね。
今、
私の目の前には、
黄色いコップがあるんだけど、
その前に、
青いコップがあるって、
一生懸命思うとしても、
まあ、
見えませんよね。
なのに、
イマジネーションによる不安の影響
幻覚を見る、
っていうことになってくると、
相当、
強い不安があるわけですよ。
二度も、
閉じまりを、
鍵がかかってるのを、
ドアを、
多分そういう時、
引っ張りますよね。
ガチャガチャってやって。
あ、もう、
絶対開かないなっていう、
確信を得て、
しかも、
その感触を、
記憶してるのに、
なお、
その扉に、
もう一回、
戻ってきてしまうほど、
そのイマジネーションが、
強くなるんですよ。
ドアが、
開いてるかもしれない。
しかも、
多分、
そのイマジネーションには、
続きがあって、
その間に、
めったに、
それだって、
無いことだと思うんだけどね。
空き巣が、
入るかもしれない。
不安が、
作り出す、
イマジネーションが、
ある。
空き巣が、
入るかもしれないと、
思って、
不安になったって人は、
考えるんだけど、
逆なんですよ。
不安が、
そのイマジネーションを、
作り出す。
そうじゃないと、
この話、
全然、
説明が、
つかなくなってしまう。
この人、
記憶喪失なのかな、
になっちゃうじゃないですか。
記憶は、
ある。
健忘症と、
脅迫神経症は、
全然、
違うんですよ。
だから、
これは、
記憶は、
不安が、
ある。
そして、
その不安が、
その人を、
舞い戻らせて、
しまうわけです。
このようにして、
私たちは、
不安というものが、
タスクを、
作り出すんですよ。
鍵を、
閉めておいた方が、
いいかもしれない。
とか、
何度も、
見に戻った方が、
いいかもしれない。
という、
タスクを、
作り出すんですね。
ここで、
もう一回、
メールを、
出す前に、
構成した方が、
いいかもしれない。
とか、
この人に、
メールを、
出す時には、
文体は、
徹底的に、
気を付けよう。
とかね。
あるいは、
このブログを、
アップする前に、
事実関係を、
調べておいた方が、
いい。
とか、
こういった、
タスクを、
どんどん、
作り出すわけですね。
で、
しかも、
これは、
現実的に、
絶対、
有意義だって、
思ってるわけです。
それは、
脅迫観念に、
捕らわれた人が、
何度も戻るのは、
有意義だって、
思ってしまう。
もう、
その気持ちに、
逆らえないのと、
何ら変わらないに、
ほとんど同じだって、
僕は思うんですね。
大量のタスクを、
作り出して、
それは、
全部不安が、
作り出すんだけど、
つまり、
イリュージョンの、
タスクなんですけれども、
だから、
そのイリュージョンの、
タスクを、
いくら実行しても、
何にも、
現実的には、
有効ではないわけです。
だって、
3回も、
4回も、
戸締まりの確認を、
何でしょうかな、
セキュリティ上の、
安全性は、
上がっていかない、
じゃないですか。
プランの実行とログ化の重要性
それと、
全く同じで、
プロジェクトにおける、
不安から生まれた、
タスクを、
いくら実行しても、
恐らく、
仕事の、
生産性だとか、
顧客満足度だとか、
いったものが、
上がっていかないんです。
でも、
我々は、
上がっていくと、
信じるんです。
なぜならば、
自分が、
不安だからです。
この不安は、
恐らく、
仕事から来るもの、
ではないんです。
何か、
閉じ間に、
何度も確認する人は、
空き室に入られるのが、
怖いわけでは、
ないんですよ。
本当はですね。
不安は、
全然、
違うところが、
来ている。
例えば、
私の不安であれば、
昔はね、
奥さんに、
怒られるという不安が、
全然、
関係ないところに、
あるわけです。
その、
怒られるという不安は、
元を辿っていくと、
母に怒られるという、
不安だったわけですよ。
このような、
不安が、
私の心の中に、
根を下ろして、
しまっていて、
それが、
新幹線を、
消すために、
新幹線に、
乗り損ねそうに、
乗り遅れそうになるのを、
構わずですね、
一生懸命、
走って、
戻っていっちゃうわけですね。
そういうことが、
起こるわけです。
家が燃える、
イリュージョンを、
作り出す、
ということが、
起こるわけですよ。
起こったわけ。
だから、
一個一個のタスクが、
肥大化していくし、
タスクの数、
そのものも、
増えていき、
それを、
全部やらなければ、
社会的には、
うまく、
生きることが、
できないんじゃないかとか、
人生の質が、
下がるんじゃないか、
という不安に、
戻っていくわけですね。
不安が、
何かを、
作り出し、
その不安によって、
作り出された、
イリュージョンを、
自分が、
うまく、
処理できなかった、
という、
結末が、
新しい不安を、
作り出すんですよ。
頭の中で、
生きていると、
これが、
ずっと、
続いてしまう、
というケースが、
あって、
だから、
私たちは、
タスクシュートを、
進めている、
という話なんですね。
プランが、
実行されて、
ログに、
変わらなくって、
プランが、
大量に、
残っていても、
人生に、
何にも、
差し支えは、
ないんだ、
という風に、
気づく、
タオルなんです。
プランというものが、
実行されて、
ログになった場合は、
それは、
質的に、
何かが、
不安によるタスクシュート
本質的に、
変換されていく、
ものであって、
だから、
ログの方が、
ずっと、
価値が高い、
ということですよ。
プランが、
ログになると、
全体的に、
利用しなくて、
いいわけです。
非常に、
極端に言うと、
プランを、
1万個、
作るというのは、
すでに、
それだけで、
駄目なんだけど、
やらなくて、
いいって、
ことなんですよ。
なぜなら、
プランに、
価値は、
ないからです。
で、
やった瞬間に、
ログになるでしょう。
そしたら、
質が、
変わってしまうんですよね。
本質的に。
次元が、
1段、
変わるんです。
2次元から、
3次元に、
ログというのは、
つまり、
実行したってことなんだけど、
ここに、
のみ、
価値が宿る。
この事実を、
踏まえさえ、
すればですね、
そして、
ログを、
実行するということは、
このログは、
忘れてしまっても、
いいと思うんだけど、
そのログの、
積み重ねの後に、
自分が生きている、
っていう事実が、
残るわけじゃない。
これで、
十分なはずなんですよ。
もっと、
よくできる、
とかいうことは、
プランを、
いくら実行したところで、
起こらない。
それでは、
管理する意味がない、
っていう風にね、
私は、
何度か言われてるんだけども、
そう思うということは、
自分の不安を、
すごく大事にしている、
っていう意味でしか、
多分ない、
と、
私は、
思うんですね。
脅迫症の人も、
必ず、
その問題に、
どうしても、
入ってしまう。
まあ、
そういう病気だからね、
仕方がないんですけれどもね。
万が一、
戸が閉まってなかったら、
どうするんですか、
っていう話に、
なってしまうんですよ。
この、
議論、
そのものが、
もう、
不安が、
作り出している、
議論でしか、
ないわけですよね。
万が一、
ガスの、
戻せんが、
止まってなかったら、
どうするんですか。
万が一、
このまま、
メールを出して、
相手の、
お客さんが、
激怒し始めたら、
どうするんですか。
これは、
議論の、
道筋が、
変わってしまって、
最初は、
そもそも、
そういう話では、
普通に、
生きている、
限り、
ほぼ、
一回、
閉めて、
その、
感触を、
不安にならずに、
家に、
家から、
離れることが、
できるんです。
問題なのは、
その、
離れることが、
できないという、
イリュージョンを、
作り出している、
不安の方、
あるのであって、
離れたら、
どうなるか、
という、
その、
イリュージョンの上に、
乗っかった上で、
議論をしても、
それは、
まあ、
なんていうんですかね、
不安とタスク可視化
専門家の領域だ、
ということですね。
その、
議論を、
したければ、
専門家とやるしかない。
つまり、
無意識を、
受けに行きましょう、
ということになって、
しまうんですね。
で、
まあ、
冒頭の、
CMに戻るんですけどね、
本当はね。
だから、
ライフハックの人も、
精神分析というものを、
えーと、
チラ見してみましょう、
みたいな話、
に、
戻るんですけど。
で、
えーと、
僕は、
この、
不安は、
短期記憶に、
現れると、
一様を、
思っているんです。
無意識じゃない。
不安そのものは、
無意識かもしれない。
だから、
無意識かもしれない。
の、
可能性も、
かなりあります。
自分で意識しきれてない。
で、
不安は、
さっき言った通り、
見えませんから。
えーと、
文字にする、
っていう程度、
不安って書く。
そういう風に、
文字にするということ。
文字にしても、
しょうがないじゃないですか。
私たちの心の中にあって、
目には見えません。
外見も、
ありません。
音もありません。
匂いもしません。
不安っていうのは、
そういうもんです。
で、
これを、
タスクに、
可視化してしまう。
この時に、
えーと、
これに価値はない。
繰り返し、
その、
事実を、
えーと、
確認するしかないんですよ。
これに価値はないってことは、
そのタスクは、
実行される、
べき、
理由が、
何もないってことです。
で、
私たちは、
そうは、
なかなか、
思うことは、
できないので、
考えても、
なかなか、
そこに行きつかないので、
考えてみて、
そこに行きつくのも、
大事ですけれども、
それだけでは、
なかなか、
その、
えーと、
事実を認識できないので、
やらなくても、
困らないという、
現実を、
えーと、
確認することが、
できるのです。
や、
やってしまえば、
それは、
もう、
えーと、
なんていうんですかね、
ログになって、
プランでは、
なくなるので、
つまり、
プランというもの、
そのものには、
何の価値もない、
わけです。
この事実をですね、
大量の、
プランというものを、
見ながら、
えー、
認識する、
ことが、
できるとですね、
プランそのものは、
恐らく、
消えていくはずなんですよ。
自分が、
不安によって、
えー、
作り出さなくなっていく。
不安がなければ、
多分、
そこにタスクは、
ないんですよ。
極めて、
えー、
数多くのタスクを、
減らすことができる。
非常に多くのタスクが、
黙っていても、
消える。
なんか、
僕のイメージの中ではですね、
あの、
フェードアウトして、
消えていく、
あるいは、
文字がこう、
砕けていくみたいな、
アニメの、
絵があるじゃないですか、
あんなイメージなんですよ。
さーっと消えていく。
これを、
実行するようなものではない、
っていうこと。
これを、
えーと、
実行すると、
なんていうのかな、
何かが、
改善される、
って思う、
っていうのが、
私の、
その、
行動パターンとリピート
観点からすると、
これを実行すると、
戸締まりが、
強化される、
っていう、
議論と、
よく似ている。
で、
ここに、
もう一つ、
リピートって話が、
出てくるんですね。
ある種の、
行動は、
繰り返す。
この、
リピートってのは、
パターンじゃないんですよ。
これはですね、
パターンだと思ってしまう、
私たちのね。
で、
まあ、
パターンだと思って、
うまくいく、
っていうケースが、
現実にはあるんで、
いいんですけど、
えーと、
これもうまくいってたら、
この話は無視してください。
うまくいかなく、
なった時に、
考えてみてほしいんですよね。
例えば、
えーと、
私の行動に、
あの、
生活には、
パターンが少ないから、
タスクシュートが使えないんです、
って話は、
えーと、
大きな誤解をしているんです。
プランというものには、
価値はないんだから、
えーと、
パターンがあるとかない、
といった話は、
関係ないんですよ。
そもそも、
パターンというものは、
ないんです。
これは、
すごい大事なんですよね。
私も、
毎朝毎朝、
5時40分に起きて、
一連の行動をとって、
娘の食事の支度をし、
その、
直後に、
妻を起こし、
えー、
妻に、
弁当を作って、
用意してもらって、
えー、
その間、
娘の、
えーと、
身支度を、
若干、
手伝いながら、
えーと、
作るという、
準備をする、
ということを、
やってるから、
パターンがあるように、
思ってしまうんですけど、
毎回、
同じ、
行動をとってるわけでは、
ないし、
微妙に、
ずれるわけです。
もちろん、
娘は、
えーと、
非常に、
この種の行動、
なんていうのかな、
行動パターン、
みたいなものを、
えーと、
身につけるのが、
上手なんで、
えーと、
パターン化していきやすいんだけれど、
実際には、
そこにパターンなどというのが、
ないわけです。
僕らが、
勝手に、
パターン化したとか、
全く同じ、
物理的現実が、
蠢いてるってことは、
ないわけですよ。
で、
まあ、
こういう時ですら、
本当に、
考えると、
そうなんだけれども、
まあ、
儀式の本質的意味
こういう時は、
パターン的に、
認識されやすいことは、
確かです。
ただ、
つらんに、
価値がない、
っていうのは、
えーと、
この場合でも、
どの場合でも、
変化はないわけですね。
ここに、
不安という要素を、
持ち込んで、
しまったりすればですね、
当然、
えーと、
不安の行動は、
増やすことになりますよね。
一つや、
二つでも、
すぐ起こることじゃないですか、
そんなことは。
例えば、
えーと、
いや、
やっぱり、
あの、
学校に行く途中、
地震に遭うかもしれないから、
えーと、
毎日、
こう、
持ち物を増やしましょう、
って、
一つ増えますよね。
持ち物も、
やることも。
こうやって、
不安というものは、
えーと、
何かを増やすわけですよ。
多くの場合ね。
まあ、
イリュージョンをくっつけるんで、
現実に。
増加傾向は、
拭えなくなるわけです。
で、
やっても、
やらなくても、
同じだっていうふうに、
えーと、
思えるようにならないと、
えーと、
何度も、
何度も、
えーと、
家に戻ってくる、
みたいな、
行動が、
えーと、
追認されていってしまう。
で、
例えばですね、
ある種の行動パターンを、
身につけてしまうと、
3回は、
家に戻ると、
安心だ、
みたいな、
ことが、
起こるわけじゃないですか。
まあ、
これは精神分析では、
ない、
みたいな、
言い方をする。
儀式ってのは、
まさに、
パターン化しやすいものですよね。
で、
儀式ってのは、
しかし、
本質的な意味は、
ないわけですよ。
こういうことを言うのは、
えーと、
寺に生まれた人間としては、
非常に、
言語道断な面もあるんですけど、
儀式というのは、
本質的な意味は、
持たないわけですよ。
作為でしかないわけですからね。
例えば、
非常に多くの、
話で、
まあ、
これは、
身に覚えのある男性は、
多いかもしれませんけれども、
えーと、
自分が怖くなる時期ってのが、
思春期にあるんですね。
生真面目な男の子なら、
そういう人はいっぱいいます。
そういう人たちは、
えーと、
無性をしない、
えー、
ために、
例えば、
えーと、
枕の、
シーツは、
斜めにする、
とかいう、
儀式の込み入った効果
儀式を始めるわけですよ。
こういう、
ここから、
あの、
あれですよ。
脅迫神経症ってのは、
大いに進行した、
進展したんでね。
こういう研究は、
山のように、
実はあるんですけれども、
笑うところじゃないんですけどね。
とにかく、
えーと、
エッチな夢を見て、
無性しちゃうのが、
怖いんで、
そういう風にならない。
これ、
無意識の領域で起こることなので、
非常に難しいわけですよね。
で、
実際には、
えーと、
枕のシーツをどうしようと、
それ関係ないじゃないですか。
でも、
関係あると思いたいわけですね。
儀式ってのは、
こういうところがあるわけです。
で、
儀式が失敗すると、
儀式を込み入らせるんですよ。
これは、
面白いところですよね。
人間の。
儀式が失敗したら、
やめようっていう風には、
まずならないんですよね。
あっ、
ただ、
枕を斜めにしただけじゃ、
ダメかと。
では、
シーツも斜めにして、
みたいになるんですよ。
儀式というのは、
込み入ってくる傾向が、
強いんですね。
より、
込み入る方が、
効果が、
絶大だって、
考えるという、
非常に不思議なところが、
人間にはあります。
まあ、
そうなんでしょうね。
しょうがないんだと、
思うんですよね。
これもね。
こうやって、
タスクが、
増えてるんです。
間違いないです。
しかも、
非常に大事なことは、
儀式を増やすと、
不安は、
強くなるんですよ。
これも、
非常に面白い。
あの、
現実の行動というのは、
複雑になれば、
なるほど、
その通りにするのは、
難しくなりますよね。
当然。
したがって、
儀式に、
失敗する不安というのが、
元あった不安に、
追加されていく、
わけですよ。
だから、
私たちは、
ある人に、
メールを出すのが、
億劫だなと、
思った、
後で、
ある人に、
メールを出すのは、
怖い何かあり、
この人に、
こんなに伸ばしてしまった、
メールを、
今さら出すのは、
怖いなと、
どんどん、
恐怖が、
高まっていく、
というものを、
作り出して、
いくんですね。
こういうことを、
タスクシュートを、
やっていれば、
僕は、
本当は、
自動的に、
やめられる、
自動的というのは、
使ってさえいれば、
こういう事実に、
気づいて、
やめられるはずだ、
という、
観点から、
使い続けましょう、
という話を、
していた、
つもりで、
やめられるはずだ、
という、
つもりなんです。
習慣化とは、
関係がないんです。
僕は、
どっちかというと、
逆だと思うように、
なっているんですよ。
習慣というものは、
ありますけれども、
人間だから、
習慣化するために、
タスクシュートを、
使うというのは、
これもね、
難しいんですよね。
それで、
うまくいっているなら、
そうしてください。
ただ、
私は、
逆だと思います。
パターンは、
壊す方が、
望ましい。
どうしてかというと、
今言ったような、
理由がありまして、
行動が、
複雑になれば、
なるほど、
そうなっていくはずだから。
一連の、
複雑な行動を、
パターン認識に、
切り替えて、
極めて、
複雑な行動を、
毎日、
同じようにするというのは、
そうしないより、
ちょっと、
難しいことなんです。
私は、
だから、
この番組も、
そうですけど、
朝に撮ったり、
夜に撮ったり、
夕方に撮ったり、
モーニングとか、
おはようとか、
言っておきながら、
無茶苦茶な時間に、
撮っているわけですよ。
この方が、
続く。
朝に、
パターン化して、
いいんですけど、
僕はそれは、
デタラメだと、
よく思っているんです。
だって、
事情は変わるんで。
昨日だか、
一昨日も言いましたけど、
今は、
朝がとても寒いです。
ストーブつけて、
なんかこう、
あったかそうなやつに、
くるまって、
やってますよ、
今。
同じ時間でも、
8月ともなれば、
首に、
凍らせておいたやつを、
巻かないと、
とても、
やってられなくなる。
現実は、
変わるわけですよ。
大幅に変わる。
同じようなやり方を、
貫こうっていうのは、
ものすごく、
ここに、
力がかかってくるわけです。
だったら、
涼しくなってから、
やるとか、
暖かくなってから、
やるっていう風に、
そもそも、
そもそも、
切り替えた方が、
よっぽど楽に、
できるわけですよ。
だから、
そうしてるわけです。
僕は、
こうやってきてるから、
900回も、
やってられるんで、
多分、
朝にしか、
撮っちゃダメってことになったら、
もう、
やめてると思うんですよ。
これは。
そこまで、
僕の仕事に、
ものすごく、
大きな、
絶大な、
効果を、
発揮してるとか、
いうわけでは、
ないですし、
視聴者も、
こういうこと言うから、
言えないのかもしれませんが、
視聴、
再生回数も、
完全に、
頭を打ってますから、
別に、
これを、
1000回も、
2000回も、
続けていく理由は、
特にないわけです。
ただ、
僕は、
これをパターンだとは、
認識しないし、
いかなるリピートの、
頻度も、
決めてないんです。
ただ、
毎日、
good money voice ってものが、
現れてはきます。
めんどくさいからね。
いちいち、
ここでも、
そうなんです。
やっても、
やらなくても、
同じである。
で、
これが、
途切れたら、
どうしようとかは、
一切、
存在しない方が、
いいわけです。
途切れたら、
どうしようと思えば、
途切れさせないための、
不可解な儀式を、
ここに、
投入してしまうでしょう。
複雑な行動とパターン認識
人間の、
作画として。
そうすると、
行動が、
著しく、
複雑になり、
それを、
やり損ねたら、
止まるという、
不安に駆られて、
止まるんですよ。
ついていけなくなるんです。
ものすごく、
必要になりますからね。
そもそも、
そんなに、
大きな不安と、
ずっと、
付き合っていたいとすら、
思わないじゃないですか。
まあ、
そうやって、
ずっと、
付き合ってしまうと、
脅迫的になっていくんだけれども、
当然、
そんなものと、
本当はね、
不安というのは、
不愉快な感覚ですから、
付き合っていきたい、
わけじゃないわけですよ。
僕は、
これが、
続くか、
続かないかなど、
という不安は、
一切持っていない。
なぜならば、
続けなければいけない、
わけではないからですよ。
続けなければいけない、
わけでは、
全く、
実際、
ないわけです。
続ける意志と他の要素の影響
明日にも、
やめても、
別に、
差し支えはない。
だから、
まあ、
続くといえば、
続くんでしょうね。
これを、
やりたいと思っている限りは、
やる。
これを、
あの、
喋っていたいと思う限りは、
喋っている。
続くんですよ。
誰に、
何かを言われたからといって、
途切れることは、
決してない。
実際に、
誰かが、
何かを、
これについて、
えっと、
それを、
守らなければいけないと、
私は思わない。
例えば、
現在、
あの、
フォークソングみたいな、
バックグラウンドミュージック、
つけてますけど、
別に、
つけなくてもいいし、
違うやつ、
時々、
つけてますが、
何にしてもいいわけですよ。
で、
他のに変えられると、
嫌だっていう人も、
いらっしゃると思うんだけど、
その人の話を、
聞かなければならないと、
僕は思わないので、
えっと、
かけらほども、
思わないので、
それは。
だから、
えっと、
でも、
どっちでもいいんですよ。
なぜなら、
どっちでもいいからですよ。
どっちかの方が、
いいだろうって、
プランとログ
思うと、
えっと、
何らかの形で、
僕らは、
先に、
そこにですね、
つまり、
プランの方に、
正しさを、
持ってしまう。
プランの方が、
正しいと、
信じてしまう。
つまり、
ああ、
この人が、
聞き続けてくれるためには、
このフォークソングの、
音楽を、
選択した方が、
いいんだなと。
で、
あれが、
引き続くから、
嫌なんです、
みたいな感じで、
現れると、
今度、
暴笑もなくなるじゃないですか。
一人でも減らしたくない、
みたいな気持ちになってしまうと、
えっと、
どっちかを選ばなきゃ、
なんなくなりますよね。
BGMなしか、
このBGMに固定するか、
みたいな。
そんなことは、
ないわけですよ。
で、
どちらかの人が、
聞かなくなっても、
全く問題は、
ないわけですよ。
なぜなら、
それは、
どっちでもいいからですね。
この感覚は、
何かをする上では、
僕はもう、
欠かせないと思うんです。
何をするにも、
しても、
しなくても、
どちらでも良い、
わけです。
どちらでも良い、
という確信を、
持ってないと、
えっと、
必ず、
どちらかを、
選ばなければならない、
という気持ちが、
不安を生み出して、
どちらかを、
しなければならない、
という、
どちらかを、
するという現実を、
やり損ねないための、
儀式が、
必要になって、
くるような、
気がするわけです。
しかも、
この儀式は、
そのための役には、
実際、
立たない。
なぜなら、
相手が、
多分、
最終的な決定は、
かなりの部分、
無意識に、
乗るんですよ。
これを続けたい、
というのは、
無意識、
多分、
無意識というものが、
同意してくれなければ、
続かないし、
無意識というものが、
絶対やめる、
ってなったら、
僕は、
これを、
やめざるを得なくなるんです。
なぜだかは、
自分には、
決して分からないけれど。
そういうところが、
あるから、
タスクに、
上に乗っかっているもの、
というのは、
それに、
無意識が、
同意しているかどうか、
本当は、
分からないんです。
こうやって、
タスクというのは、
実行されるんだろうな、
って思う。
されるんですよね。
きっと。
私の無意識は、
例えば、
約束は、
守らなきゃいけないと、
固く信じているから、
約束を、
守るんですよ。
守るために、
ありとあらゆる儀式を、
ここに乗っけても、
守ることは、
できないんだと、
思うんですよね。
そういう話は、
いっぱいあるじゃないですか。
なんか、
目覚ましいっぱい、
かけるとか、
リマインダーいっぱい、
するとか、
行くとか、
僕、そんなこと、
一つもしてないけれども、
約束というのは、
大体、
守れます。
それは、
たった一つの事実に、
よると思うんですよね。
無意識的に、
そう信じている。
で、
不安になることは、
ない。
不安というのは、
多分、
あの、
無意識が、
それに反対する、
っていうような意味が、
含まれているでしょうからね。
無意識が、
家から離れるのに、
反対するんですよ。
不安というのは、
そういう部分が、
大きいと思います。
で、
これは、
あの、
かなり、
厳密な意味で、
使う必要があります。
意識することが、
できない、
ということです。
潜在意識といった、
ようなものが、
ないんですよ。
なんとなく、
そういう気がするとか、
そういう話だと、
全く、
自分には、
感知できてない、
っていう部分が、
大事だと思う。
僕は、
そういう風に、
プランというものを、
実行します。
つまり、
えーと、
何かをやる、
っていうのは、
自分の、
全く、
意識できていない、
ところで、
それをやりたい、
という、
本能っていうのは、
そういうところに、
あるんだろうと思います。
人間の場合は。
だって、
そうですよね。
ご飯を食べるっていうのは、
結局、
お腹がすくから、
じゃないですか。
で、
いつ、
どのように、
お腹がすいたか、
っていうものは、
僕ら、
ほとんど、
全く、
意識しないですよね。
あの、
おいしいものを、
どうしても、
すぐに食べたいから、
ちょっと、
そこらへん、
ひとっ走りしてくる、
っていうことを、
時々、
子供はやりますが、
自動的に、
そういう事態が、
起こる。
だから、
タスクを実行する、
っていうのは、
多分、
そういうものでしか、
本当は、
できないんじゃないか、
っていうふうにも、
思うんです。
それをする、
っていうのに対して、
妨げるものは、
何もないみたい。
ご飯食べると、
きそうですよね。
あの、
ものすごく、
お腹がすいてれば、
もう、
極めて積極的な理由によって、
食べますが、
ほとんどの場合、
食べるってこと、
妨げるものが、
なければ、
食べますよね。
食べられるものなら。
妨げるものとして、
筆頭は満腹ですよね。
満腹になったら、
我々は、
ご飯食べられなくなる。
タスクにおいては、
しばしば、
これが、
起きてると思うんですよ。
何かが、
妨げている。
不安なんだけど。
しかも、
タスクを作り出すのは、
何かというと、
多くの場合、
特に、
タスクシュートなんてものを、
最初に使いだしたときは、
不安が、
それを作り出すんですよ。
で、
そのタスクは、
まず、
実行できないわけです。
不安というものは、
妨げるものになる。
お腹が、
いっぱいのときに、
ご飯が、
食べられないようなものなんで。
話が、
錯綜しているように、
聞こえるかも、
しれないんですけれども、
僕の中では、
一貫して、
同じ絵しか、
ないんですね。
上が、
青で、
下が、
赤。
逆でも、
いいですけど。
そういう、
絵が、
あります。
で、
次元が、
違うんです。
プランと、
ログでは。
タスクシュートの役割
両方、
書いておく必要があります。
その次元には、
分かるため。
で、
赤と、
青で、
二つの領域を、
分ければ、
間に、
線が、
できますよね。
幅のない、
線が。
ここに、
現在、
実行中の、
タスクというものが、
来るんですよ。
それが、
タスクシュートってものだと、
自分は、
思うんですね。
この形で、
なんていうんですかね。
自分の、
短期記憶だ。
自分の、
短期記憶というものを、
意識している限り、
時間は、
必ず、
必ず、
必ず、
使えるようになってくる、
色分けの意味
と思います。
で、
僕の場合は、
青かな。
青の部分に、
プランがあります。
これはもう、
ほとんど、
透明みたいにして、
見えなくたって、
いいんですけれども、
見えないと、
不便になって、
大体、
文字が見えれば、
いいんですけれども、
色分けしたり、
優先順位を、
用意したりする、
理由は、
何も、
本当は、
ないんです。
僕は、
趣味で、
色分けは、
してますけど、
ここに、
アクシュートが、
使えないというのは、
僕からすると、
完全に、
何かが、
誤解されている、
感じが、
します。
大事なのは、
この青が、
どのぐらい、
青を、
赤に変える、
っていう作業を、
私が、
実際の、
手を使って、
するか、
っていう、
点だけであり、
それは、
してもしなくても、
いいことであり、
青の部分に、
価値はない。
で、
次元が、
そもそも、
全く違う、
平面のものに、
平面のパンとか、
食べられないじゃないですか。
それと、
全く同じです。
そこに、
プランとは絵に描いた餅のこと
良し気は、
ないんです。
平面のパンなんですよ。
プランというのは。
絵に描いたもの、
って、
やつですね。