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おはようございます。働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト第1090回をお送りします。
11月15日金曜日7時32分です。 なんかこう1090とか言うとちょっと笑えてきますよね。
なぜこんなことを1090回も喋っていられるんだろうと、 実に我ながら不思議に思います。
ただ一方で、お知らせをこれからしますが、 一方でですね、喋っていて昨日も思ったことなんだけど、
改めてこの二者心理って難しい。 なんか僕らの世界の常識に反してるからってこともあるんですけど、
同じ話を何度も何度もできるぐらい、気がつくと僕らはやっぱり心は心臓腑にあるんですよ。
体の中にあって、一人の一人の人の心は一人の人の頭の中にあり、中にあり、
それが外に漏れてるっていう部分を頭から無視してしまう。 しかもその方が分かりやすいときてる。
だからこの話は、私が喋っているような話は、私が喋ってても私自身にとってもしっくりこない。
現実はそうなってるんですけどね。間違いなく外に出ちゃってるんですけどね。
はい、あさって11月17日日曜日にタスク集と手帳術の会をやりまして、
ここで初のですね、ここを強調させてもらうのは色々わけがありますが、
Zoeさんがですね、Zoeさんで通じる方には通じると思うんだけど、
Zoeさんがライトニングトークをやってくださいますので、
まあこれあるから来るっていうのでもいいかなと思います。
私もやります。やることにしました。ライトニングトークね。
本当に僕は短めにしようと思っておりますけれども、やります。即席で。
でも僕は結構17日はタスク集と的には大事なことを喋ろうと思っております。
即席で短めにね。ここだけ持って帰ろうみたいな感じで僕は喋りますので、よろしければお願いいたします。
14時から渋谷で開催します。オンラインでもやりますのでハイブリッド開催となります。
以上です。お知らせはおしまいにして、12月になるとまたいろいろ、
そうだでもいくつかお知らせしておきますとタスク集と手帳が出ましたね。
これは150ぐらいはもう予約注文入っているので、おそらく残り50切ってるぐらいじゃないかなと思います。
そんなにお急ぎでなくても大丈夫ですけれども、最終的には残ったとしてもタスク集と総決算というのが、
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これが12月の14日だったかな。ちょうど1ヶ月後ぐらいにあるんですよ。
これもぜひ遊びに来ていただきたいと思うんですけど、これはお祭りですからね。そこに持っていっちゃうので、
手帳は多分年内中に入手されたいという方はですね、ここで予約をいただくのが一番確実かなと思いますので、
こちらよろしければぜひなるべくお早めにお願いします。
あと200部しかないんでね、全部で。年内はもう200部以上は作りようがない状況になってくると思いますので、
作ったとしても年内の発送は無理だと思いますので、一つその辺入手されたい方はぜひよろしくお願いします。
あと併せてタスク集と法人化というのを法人に向けてタスク集とを発信というか使っていただくというやつも現在企画中で、
ただこのポッドキャストでお話ししても人事の方とか聞いていらっしゃれば、もしかすると何か役に立つかもなんですけど、
今月の下旬に法人説明会を古川たけしさんという方と一緒にやります。
この方は習慣家の人で、習慣の本でブレイクした有名な方で、最近は各迷葬かな、だと思ったんですけどね。
そちらで結構これもブレイクして本当にいいなと思いますね。
出す本出す本がブレイクするのがビジネス書では一番良いことなので、やっぱりブレイクしないビジネス書って非常に存在価値としても厳しいものがありますんでね。
難しいんですよね。ロングセラーは間違いなく良いことなんだけど、狙えるかっていうとビジネス書って構造上ロングセラー向きにははっきり言ってできていないと思うんですよね。
まあでもロングセラーって頭から狙って作るのは、ベストセラーも同じですけどね、難しいとは思いますが。
といったわけでありますので、古川さんととにかく法人向けの説明会をやります。タスク修道の法人向けということですね。
こちらも一応よろしくお願いします。一応ってことはないんですけどね。
で、僕はさっき何を喋っていたのかを、今お知らせを喋りながら思い出そうとしていたわけですが、
二者心理の難しさっていうのはですね、
例えば、例えばと言いますかですね、どうしても
傷つく、傷つけられる、イライラするみたいな話って、正義の話になっちゃうんですよ。
で、正義っていう意味ではですね、心の底から自分が悪いと人は普通思わないようにできているんで、
コンテナの構造からしても僕はそうだと思うんですよね。心のコンテイニングって話をしたときに、コンテインできない問題ってのが問題なのであって、コンテナそのものが悪いわけじゃないんで。
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コンテナに入り切るかどうかが問題なので、消化式、例えばお腹ね、中で消化するじゃないですか。
で、こういうことなんですよ。
家に悪い感じを持つ人ってほとんどいないはずなんですよ。
罪悪感ってのは食べ過ぎたことに対する気持ちなんですね。
ああ、うわ、食べ過ぎちゃったわ、みたいな。
食べ過ぎた俺が悪いっていう考え方はあると思うんですよ、当然。
でも、お腹痛くなったときにまず思うことは、食べたものが悪かったの。
これが多責なんですよ。
つまり心も同じで、言いそのものに罪悪感を持つはずがないんですよね。
だから誰も自分悪いと本当のところを思ってないんですよ。
食べ過ぎたことが悪いのかもしれないと人は思いますし、食べたものが悪いのかも。
自責と多責ってあくまでも自分が悪いって言ってるわけじゃないんですよね。
食べ過ぎたことが悪いか、食べたものが悪いかのどっちかを言ってるんですよね、大体において普通は。
もうめちゃくちゃ胃が痛くて、何も食べてないのに痛くて。
それだったら胃が悪いっていうのを本当の意味で疑わなきゃならないけど、これってもう大問題じゃないですか。
そういうふうにはなんないんですよ、やっぱり。
だから大概の人は自分を本当の意味で悪いとは思ってません。
そのことを人は不満に思うんだけど、人が本当に自分が悪いと思うっていうのはですね、大問題なので期待しないほうがいいですね。
でもこれが本当に起きちゃうと、僕は基本的には精神病水準になっちゃうと思うんですよ。
もう胃そのものが悪い、心そのものが悪い、私そのものが悪いみたいなね。
言う人は言うんだけど、あくまでもこれの言ってる意味はですね、やっぱり根底にしきれてないってことなんですよ。
もちろん、例えば胃が小さすぎるって意見の人いますよね。結構これ言い責めてるんだけど。
根底にしきれないこの心の弱さが悪いって言う人がいるんだけど、これ心が弱いって言ってるのに心が悪いって言ってるのがないんですよ。
胃が小さいと言ってるのであって、胃が悪いって言ってるわけじゃないんですよ。
これはしかもいいことなんですよ、絶対に。
そう思ってなかったら胃そのものに問題があるって思うってことは、本当にあるんだったら一大事なんですぐ病院行くべきだし、
本当に胃そのものが悪いと悪くもないのに思っているとすると、かなり不健全ですよね。
ましてそれを自分に適用してしまっちゃいけないんで、誰も自分のこと本当は悪いと思ってないっていうのは、とてもいいことなんですよ。
僕は100億近くいる人間の中で、本当に自分が悪いと思ってる、本当に人間である自分が悪いと思ってる人っていうのは、本当に誰もいないに等しいと思っているんですよ。
僕はこの感覚は、僕のような商売をする人間には必須だなと。
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カウンセリング的って意味じゃないですよ、個人セッション的って意味じゃないです。
ビジネス書とか書く人間には必須だと思ってるんですよ。
基本生前説に立つってことはね。
宗教とか哲学やってるんじゃないんだから、ビジネス書を書く人間は、これを読んでくれる読者はいい人だって思っておいた方がいいんですよ。
だってたくさん売れて、世の中の人は悪人だって思ってるっておかしいじゃないですか。
そしたら悪ばらまいでるようなもんじゃないですか。
性悪説ってそういうことですよね。
人間の本質は悪であるっていう人が、100万売れたぜって言って喜ぶのは、良くないことだと思うんですよ。
でも人はそう思わないだろうなって思うんですよね。
少なくとも俺の読者はいいやつだぐらいに思うのが、人間的な発想ってもんじゃないですか。
それが売れれば売れるほどいいってことはですね、潜在的な読者もみんないいやつだって言ってるのと変わらないと思うんですよ。
そういうことはつまりそれは性善説だと思うんですよね。
僕はそれでいいとつくづく思うんですよ。
この種の商売をしている人間が性悪説に立つなんて、そんな馬鹿げたことはないと思うんですよね。
個人説書ももちろん同じです。
だって本質的に相手が良いと思ってなければ、お客様が良い人だって本質的には思ってなかったら良くなるとかね、意味がないじゃないですか。
その人の本質に戻るとその人は悪人になってしまいますって言うんではダメじゃないですか。
僕のこのポッドキャストだって取り戻すって言ってるんだから、取り戻すだけで良くなるんだって言ってるわけだけど、良くなるってのは働けるようになるって意味じゃないですよ。
まして稼げるようになるって意味ではないです。
働くメンタルが戻ってくるってだけですよ。働かなくたって別に良いんですよ。まして稼がなくても良いんですよ。
ただ、働くメンタルは多分その人本来の在り方と共にあり得るというかあるものだって私は信じてる。
これ性善説ですよね、多分。性悪説ではないですよね、少なくとも。
心のメンタルが戻ってきたらその人は悪事を始めますみたいな。
それだったら性悪説になっちゃうんだけど、そう思ってたらこのポッドキャストの内容は明らかに矛盾してますよね。
だから私はそうは思ってないんですよ。
その人が本当の意味で悪いとか、その人に酷い目に合わせた人が本当の意味で悪いという風には決して思わないんですよ。
このことと二者心理が関係あると私は思うんですよ。
じゃないとどっちが悪いんだの問題になってしまう。
結局食べ過ぎた私が悪いのか、食べたものが腐ってたのかのどっちかになってしまうんですよ。
どっちも僕は良くないと思うんですよね。
あのコンテナモデルってのは多分僕は胃袋モデル、本質的にはそういうもんだと思ってるんですよね。
心を胃のようなものだと思ってる。
ただし体内にありますね、胃は。
ここが心のなんとかモデルの難しいところなんですよ。
全部心が体内にあることになっちゃってる。
こういうモデルを使うと。
美音が言いたいことは間違いなく僕は二者心理に徹底的にこだわろうとしてたと思うんだけど、
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店員言ってる人は基本そうだと思うんですよ。
逆店員のハイマンだって。
逆店員を言い出すということはそういうことだと僕は思うんですよね。
だって治療室っていうのは夢に例えられ、つまりその治療クライアントの心に例えられてるってことは、
治療室って心の中ってことじゃないですか。
人間そこに2人入ってるじゃないですか。
人の中に心があったんではこのモデルは採用できないと思うんですね。
ちょっとこれからゴミを捨てに行くんで一旦止めますね。
でですね、今戻ってきたから。
ちょっとした寸断があったと思うんだけど。
今の話に関連してよく私が念頭に置くのが、
どうすんの私っていう細川てんてんさんという方が書いた半自伝的なコミックなんですよ。
人の半自伝的コミックを事例に使うのはあれなんですが、
でもあれフィクションかもしれないじゃないですか。
そこに私は書ける。
事実とは限らないわけですよ。
人は別に半自伝と称してシャーシャーと嘘800書いても構わないわけですから。
本当のこと書かなければいけないという決まりはないわけですからね。
少なくともそこに脚色があるのは当然で、
実名とか出てこないでしょ。
だから脚色がなきゃいけないと思うんですけれども。
だからまあそこでちょっとお目こぼしいただこうと。
実例を使いたくないってことなんですね。
もちろん松木邦博さんが省令として使っている話をここに持ってくるのもいいんですが、
大体においてそういう話は深刻な上に込み入っていて、
説明をいっぱいしなきゃいけないので、
細川天天さんの話も込み入ってるんですけどね。
非常に簡単に言ってしまうと、
3人しかいない職場のうち、
細川さんの目の前で2人が不倫しているのかな。
とにかく恋愛関係にあるわけですね。
このことにすごいイライラするという話があるんですよ。
つまりイライラするのは未消化ですね。
コンテインしきれてないわけですよ。消化しきれてないわけなんですね。
だからイライラというものが出てきてしまう。
消化しきれてないのはお腹がいっぱいになりすぎて、
いやーこれ食べてるものは悪いだろうっていう目の前の不倫だかはなんだかよくわかんない、
じゃない、イチャイチャね。
これが食べてるものが悪いからお腹がゴロゴロするんだとか、
ギリギリするんだとか、
そういうことになって本当にお腹がゴロゴロしたりギリギリしたりしだすというのが、
この種の問題なんですよ。
もうちょっと詳しく言いますと、
課長なんですけど、課長は要するに、
女子社員となると誰にでも告白するという話なんですね。
もうそのことが作者のてんてんさんはめちゃくちゃ気に食わないと。
そこにあっさりなびいてしまう女子の事務員さんですね。
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その女性の事務員さんに対してもめちゃくちゃ腹が立つと。
私がせっかく心配してやって忠告してあげたのに、
そういう誰にでも手を出す男に平気でなびいて自分の元の恋人は捨てると。
本当にどうなってんだって感じで怒ってるわけですけど、
この話私はめちゃくちゃ面白いと思うんですよね。
で、コンテインしきれないってところがミソなんですよ。
コンテインしてしまえばですね、
それは単なる社内の社内恋愛ですよね。
よくできてないかもしれないけど社内恋愛で。
こういうふうに何をしているか象徴化してるんですよ。
記号化しましたよね。
要するによくある社内恋愛っていうふうに文章に直してしまいました。
これを最近はなぜか言語化という言葉が流行っていますけれども、
象徴化ですよね。
僕らはこれができないときに、
象徴化するってことはもう相当その事実は小さくなってるんで記号になっちゃってますからね。
記号ってもう一つ縮めると不倫というものを記号化できるか知りませんけれども、
まあでも社内不倫的な恋愛っていうふうに言っとけばですね、
だいたいこれはこと足りるわけですよ。
で、一般化できる。
一般化するというのはねめちゃくちゃ大事なんですよ。
で、作者のてんてんさんはこれが一般化できない。
目の前で行われている具体的な実例として自分に常に降り注いできているような感じがしているんで、
消化しきれていないわけですね。
象徴化されないわけですよ。
常に具体的な事実としてそこにある。
心の中は記号に直すのが一番収納しやすいわけです。
だって記号なんでね。
私たちは1192年に源頼朝が天倉幕府を作りましたって言ったら、
一発でこのめちゃくちゃ本当は作装していて、
弟殺してみたり、いろんなことがそこにあるというのが、
兵器滅ぼしてみたり、自分殺されそうになってみたりっていう、
あのたくさんのねナラティブがあれは物語ですね。
全部たった一行に押し込められるんですよ。
そして心に収納できる。
本当は物語ですらないですからね。
だって実際に行われたことは物語じゃないじゃないですか。
実際に行われたことが動画のようになってしまったらもう、
1192年に鎌倉幕府成立みたいな一行がもうブワーってなってしまって、
それだけで一生終わるじゃないですか。
その研究で一生終えるっていう人だっていらっしゃるわけだからね。
だから心に収納するときには象徴化が一番確実なわけですよ。
だけど象徴化しきれない出来事っていうのは私たちにはあるわけですね。
めっちゃ嫌なこととか、めちゃくちゃ炎上して自分がすごい傷ついたことは、
だいたい象徴化しきれないわけですね。
それは炎上でしょうって言われても、
いやでも自分にとってはそれはすごい辛い出来事でってことが始まってしまうわけですね。
だから象徴化できるかできないかというのはすごい大事なことなんだけど、
点々さんは目の前のこの社内の不倫的なイチャイチャを象徴化できない。
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だからそれを物語化して漫画に描いている。
この辺がナラティブのできる人のすごいところですよね。
ひたすらそのことを誰かに語ってくる、
あんなに嫌なことがあるんだよみたいなことを言っているのではなくて、
漫画に直してしまうというね。
ナラティブを表現に変えてしまうんですよね。
人間はこれもできますね。
ただ心の中で未象化だった時代には、
当然未象化だったわけですから、
その会社で生き続けられなくなりますよね。
で、嫌なって辞めるということが起こるわけです。
この時にものすごく迫害的な感じというものが描かれているわけですよ。
押し込まれてくるわけですね。
その悪いもの。
それは自分に押し込まれていると思っているわけなんだけれども、
実際には自分がここが非常に、
ここで我々はいつもこの話、
私この話いつもしてますよね。
いつもしてます。
誰が悪いんだってことにすぐなるじゃないですか。
食べたものが悪いのか、食べ過ぎた私が悪いのか、
食べてる私が悪いのか、
食べさせられている私がかわいそうなのか。
この議論に話を持ってた時に、
僕らは発砲が塞がっていくんですよ。
なぜか大混乱が、大混乱というのかな。
ここで問題が解決しない方向に向かっていくわけですね。
他責が悪いとか自責が悪いって話をするんだけど、
それは僕は二者心理というものを導入しないと、
なかなかその問題って収まりが悪いよなと思うんですよね。
課長が悪いのか、課長に簡単になびいてしまう女の人が悪いのか、
それともこのことにいつまでもぐじぐじと考えている自分が悪いのかって話を、
どこに責任を持って、他責か自責かって話をしていっても、
ぐるぐるぐるぐるぐる回り続けるだけで、
結局会社を辞めることになってしまうということになってしまうと思うんですよ。
つまりこれが欲打つ的でありながら他責的であるという、
一つの心理的な難しさなんだと。
どっちが悪いのかっていう話は、
でも正義的な話にしたい人にとっては大事なんですよ。
いやそれはだって社内で恋愛する人が悪いじゃないですかっていう、
なんで細川さんが会社を辞めなければならないのか、
とてもそれは理不尽な話だっていう、
そういうストーリーがあるんですよね。
そういう観点にすることも可能なんだと思うんですよね。
でもこれは過去に起こったことなんで、
だからそういう社会や会社を正していかなければならないっていう観点もあると思うんですよ。
僕はこの話をいつもしてますよね。
こうなるんですよ。
ひたすら一社心理で頑張ろうとすると、
僕の思うところではですね、
ひたすら一社心理で頑張ろうとするとそうなるんですよ。
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ここに少し違う観点を導入したのが、
あのそいつ今頃パフェでも食ってるようなんですよ。
細川さんはそんなに、ペンテンさんはですね、
そんなにイライラしてこの人たちの話を考えてるけれども、
その人たちにとってはそれは相当軽く扱われてる可能性もあるよねっていう話なんですね。
そこのところには少し二社心理っぽさが入ってきてるんですよね。
そこで一社心理で頑張ろうとすると、
僕はこれやっぱり転移というふうに捉える必要があると思うんですよね。
この3人の心の中にそれぞれ不倫なの、イチャイチャなの、
許せないなのがあるっていうのではなくて、
この3人はある、特に事務室はある種密封空間になってますから、
プライベート空間になってますから、
その話で細川さんが書かなければ、
この3人の心の中にそれぞれ不倫なの、
イチャイチャなの、許せないなのがあるっていうのではなくて、
その話で細川さんが書かなければ、
その3人以外は永遠にこの世の誰も知り得ない話じゃないですか。
この点で非常に精神分析の治療室に似てくるじゃないですか。
ドロッドロのその話は、密封されているような空間でこそ起きがちなんですよ。
だから多分、いきなり飛ぶ話飛ぶようですけど、
信田紗友子さんは家庭内は無法地帯だって書かれたんですよね。
でも家庭内が無法地帯だっていうことは、
家庭というものは正しく経営されなければならないっていう話になりやすくて、
エリプスなんだけど、それはそうなんですよ、確かに。
だけどそうすると強権がそこに介入するしかなくなるじゃないですか。
あなたの子育ては間違ってますから、
社会がこの子は育てますってことになりやすいじゃないですか。
会社も同じじゃないですか。
社内不倫とかで人がドロドロに傷つくのが良くないから、
もっとオープンにしましょう。
社長が主力自治を見張っているような状況に変えましょうってことになると、
強権がそこに介入されてくるしかなくなりますよね。
一人一人が心を正しく持てばいいみたいな話になるんだとしても、
結局その正しい心って誰が決めるんだっていう話は元に戻るんですよ。
昨日話したような話になるわけですよね。
強権が介入するわけですよ。
最終的に正しい心のあり方はソビエト連邦が決めますってことになるんですよ。
不思議に聞こえると思うんですけど、
僕はそうなるとしか思えないわけですよね。
この話昨日散々したからこのぐらいにしますね。
で、それ嫌だから我々は個人の各家庭のやり方は各家庭に任せてください。
各会社のやり方や各課のやり方は各課や各会社に任せてくださいってことにしてある。
これが多分自由主義ってもんだと思うんですよね。
でもそうすると人々は傷つくっていう問題、
厳密には自己愛が傷つくって問題、
つまり私が悪いんだろうか、それとも親が悪いんだろうか、
夫が悪いんだろうか、それとも課長が悪いんだろうか、
あるいは自分が考えすぎてるんだろうかってことで延々悩み続けるっていう話になっちゃうと思うんですよね。
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なっちゃうんですよ、多少はね。
だって全ての人の価値観がイコールだということは考えられないし、
ただ心の正しいやり方をソビエト連邦が決めてるわけじゃないんで、
そうすると自分が正しいと思ってるやり方を人はやって、
あとはそれが一般的に見てそれどうなの、常識的なの、人間としてどうなのみたいな、
結局話を元に戻すような話になってるところがあるわけですね。
で、これ傷つくっていう、傷つくってのはどういうことかと言いますと、
未消化ですってことです。
未消化は未消化なんですよ。
食べたものが悪いのか、食べすぎたのかっていう考えを取る前に、
まず未消化だってこと。
ここで止めなきゃいけないんですね。
私の胃が悪いのかはもちろん最初からなるべく問題にしない。
本当に胃そのものが悪いとか小さすぎるとか、
実は半分しかないとかそういうことは本当に深刻な話になってしまうんで、
精神病水準ってことですけれども、
それは他へ持っていきましょう、一旦。
ここでは食べすぎか悪いものを食べたかという問いをする前に、
未消化であるってことに話を集中する。
この未消化の胃は、そしてどこにあるのかという、
ペンテンさんの心の中にあるっていうふうにやり始めると、
もう食べたものが悪いか、私の胃が悪いか問題にするしかなくなってしまうんですけれども、
そうじゃなくて、我々はみんな胃の中にいますっていう観点にここで切り替えるんですね。
そういうことだと僕は思ってます。
我々はみんな胃の中にいるんですと。
この胃はどうも未消化っぽいですが、この胃の未消化どうしましょうかねっていうのを、
我々は胃の中にいるものとして考えていきましょうっていうのが、
僕は転移的だと思うし、対象関係論的だと思うし、二者心理的だと思うんですよ。
この観点を取ったとき、私はペンテンさんと一緒に胃の中に入り込むことになるんですよ。
で、ペンテンさん相変わらず苦しいと言ってる。
そうするとその苦しみは私も作り出しているものになっていくんですね。
この立場こそが精神分析科の置かれがちな、置かれる、おそらく置かれてしまう立場なんですよね。
あんたも邪魔なんだけどっていうことになっていくわけですよ。
あんた悪いんじゃないのってことにもなっていくわけですよ。
この胃が救急であるという状態を考えてみるとですね、この言い分は最もなんですよ。
最初は夫の暴力がひどい、夫の暴言がひどいって言ってたのに、
気がつくと、あなたのような治療者は最低だってことを目の前でカウンセラーは言われるわけ。
なぜこれが起きるのかというと、胃が救急だと言っている人のその胃の中に入っていくっていう作業をやってるからです。
この胃が変異されていて治療室なんですよ。
まさに2人ともその治療室の中に2人で入ってるじゃないですか。
あーこのお腹救急ですねどうしましょうか、いやあんた出てって言うってことですよ。
これは非常に大事ですよね。
こういうことがクライアントさんの心の中では絶え間なく起きる。
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それはなぜならば、なんだか理由はわからないけど食べ過ぎなのか知らないけれども、
昔悪いものを食べたからなのか、それとも割りつきがちっちゃいからなのかわからないけどとにかくそうなんですよ。
これに対して、いやあんた出てってよって言われた時、
いやでもあなたが呼んだから私来てるんですけどっていう話から全ては始まるわけですね。
あなたさえ出て行ってくれれば私すっきりするんだけどっていう話になって、
時々追い出してみる。でも治療者は戻ってくる。
実は治療受けに行ってるのは本人だからね。
これを繰り返しているうちに、あれ食べてるのは私だよなっていうことも起こるわけですね。
そうすると食べ過ぎている私が悪いのかもしれないとか、
さっきの話に戻ってくるんだけど、今度は2人で胃の中にいるっていう、
その中で今あなたは私を食べましたとか、今あなたはこういうことを言ってますとかいうのが
常に胃の中から言われてくるっていう時代に、
つまり胃が喋ってくれるみたいな感じになってって、
ここまで言うと言い過ぎかもしれないけど、
なってってその中で胃の有用というものが変転していくというのがカウンセリングなんだと思うんですね。
少なくともある種のカウンセリングってそういうもんだと思うんですよ。
こうするとまずできなくなることがありますよね。
食べ過ぎた私が悪い説はどこかで完全には採用できなくなる。
全部私が悪いんだ説は完全には採用できなくなる。
一方で食べたものが全部悪いんだ説も採用できなくなる。
だって治療者食べてるのは自分なんでね。
治療者は常にそこにいる。
少なくともカウンセリング契約が続いている限りはそこにいる。
食べ過ぎて苦しいって言ってるのに、
なんかいつも治療者自分食べちゃってるよねっていう状態がそこに出現するわけですよ。
そうすると全部治療者が悪い説も捨てなきゃならなくなる。
少なくとも破棄しなきゃならなくなる。
これは非常にしかし苦しいので、
やっぱり治療者に私は迫害されているに違いないという気持ちは常に出てくるわけですよ。
でも自分が食べてる。
つまり自責と迫害は同時に起きるという、
このような精神構造を自分は抱えて生きているんだという話も出てくるわけですね、ここに。
寝がわくば出てきたい。
もしかするとやっぱり治療者ダメだったわってことで治療者捨てられてポイされるかもしれない。
そうすると一時的には胃がすっきりしますね。
でもこのような食習慣と胃を持っている人は、
気がつくとなぜか胃がいっぱいになってるんですよ。
そうして話が戻るわけですね。
やっぱり私は食べ過ぎて悪いんだ。
いやでも食べたものが悪かったのかもしれないという話に戻ってしまうんですね。
これが反撃なんですよ、きっと。
本当はどうなのってここで問うてはいけないんです。
本当は胃がいっぱいになっているってことなんですよ。
本当はどうなのっていうのは全部、ちょっと今日は説明せずに飛ばしていきますが、マイナス系なわけです。
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本当はその女にやたら手を出す課長が悪いんではないか。
でも簡単になびいた女も悪いか。
ていうかそもそもこういうことをいつまでも気にしている私が悪いのかっていうぐるぐるは反復されるんですよ。
そういうふうに思われてはないかもしれないんだけど反復されるんですね。
その反復は課長が悪いというのはマイナス系ですね。
事実というふうに言ってるんだけど事実ではない。
そもそもあの漫画を読んでよく読んでみると課長本当に手を出したのかどうかはわからない。
わかんないですよね、てんてんさんには本当は。
マイナス系なんですよ。
その女の人はてんてんさんに述べた通り本当に課長になびいたのかどうかもわからない。
マイナス系ですよね。わかったことにしてしまったら。
そうするといつまでもそういうことをぐじぐじ考えたりマイナス系を連発している自分が悪いとてんてんさんが考えたらこれもマイナス系ですよね。
そのような事実はない。つまりわからないんです。
わかりつつある状態に迫っていくことはいくらでもできますが、わかることはできないんですよね。
親が昔暴言を吐いたのが悪かったのか、それとも傷つきやすすぎる自分が悪いのか、あるいは自分という子供の出来が悪かったのか、そんなことはわからない。
全部マイナス系ですね。
夫が暴言を吐くのが悪いのか、家事・育児を手伝わないのが悪いのか、でも手伝ったかもしれないじゃないですか、少しは。
少しとはどのくらいなのか、わからないんですよ。
それをソビエト連邦に決めてもらうわけにはいかないんですよね。
だからわからないものはわからない。お腹がいっぱいですってことだけはわかっている。これしかわからない。
なぜなのかは、ひとつひとつ丁寧にものすごい膨大な時間をかけてやる気になるならばですね、
ここになぜかお腹の中に一緒に入ってきたカウンセラーの力を借りてでもですね、もっと考えましょう、ますます考えましょうってことですよね。
解釈が続くってそういうことじゃないですか。
お腹がいっぱいなんです、確かに私もいますしね、みたいなそういう話ですよ。
え、だってなんであんたいるんですか。でも私を雇ったんですよ、先日みたいな。
これはなぜじゃあ私は雇うことになったんですか。
こうやってKのイングですね。迫っていくより他はない。Kを続けていくより他はないわけです。
でも苦しいんで、苦しくなければこんなことは簡単なんだけど苦しいんでやっぱ出てってほしいなみたいな。
これはHですね、ヘイトですよね。ヘイトらしきものですね。
憎んでるとは言えませんよね。やっぱ出てってほしいなっていうのは憎んでるわけじゃない。
でもそのうちに憎くなるかもしれませんけどね。
だから僕のような商売でもそうですが、個別セッションとかしたりビジネス書かれたりしてると、思わぬヘイトを食らうってことは当然起こるわけですよね。
これも憎しみのようなものですけどね。本当の意味で僕が憎まれてるわけじゃない。
決して本当の意味で私が愛されることはないように、本当の意味で私が憎まれるということはないので、
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そこは本当は安心してていいんですけれども、攻撃を受けられると憎まれたかのように誤解してしまうんですよ。
そこはだから私も私でお腹がいっぱいになりかけていったら、なぜお腹がいっぱいになってるんだろうと考えなければいけないわけですね。
Kに頑張らなければいけない。この人はクレーマーで私はクレームを受けたって言い出すと、
それはどんなに真実らしく見えてもマイナスKでしかないわけですね。
この人はクレーマーではないかもしれない。私はそもそもクレームなんか受けてないかもしれない。
私は憎まれてないかもしれないし、好かれなければいけないってこともないかもしれない。
すべてマイナスKはKでは絶対ない。真理ではないわけです。
どれほど親に虐待されたというふうに言えたかもしれないとしてもですね、やっぱりそのような象徴化はおそらく間違っているわけですね。
でもそれを言うとこういうことはできないんですよ。
あなた本当に虐待されてないんですなどとはとても言えない。
それ自体が虐待みたいになってしまうので、だから胃の中に2人で一緒に入っている以上、この胃をそれ以上に傷つけるってことは極力回避しなければいけないわけです。
だけれども回避だけずっとしていると回避性障害みたいになってしまって、傷つくことは全部やめようみたいになって、
ひたすらこう慰めるだけの人になってしまうじゃないですか。
何かみたいにですね、あなた本当に傷ついたんだから、あなた本当によく頑張ったんだからってずっと言っているというのは解決にはならないんですよ。
問題になっているのはここで、お腹がめちゃくちゃいっぱいだってことなのに、
いやあなたは本当にそんなに食べたけど全然大丈夫なんだよと、食べたものが悪かったんだから、本当に腐ったものを食べたんだから、腐ったものがいけないんだよっていくら言われても全然救われないじゃないですか。
こういうことではないと思うんですよね、やっぱりね。
カウンセリングっていうものがそういうものであったって機能しないと思うんですよ。
ましてあの、てんてんさんの漫画みたいにですね、本当この課長ひどいよね。
こういう女に手を出しまくる課長って最悪ですよね。
てんてんさん間違ってないですよって横でずっと言ってくれる人がいても、
事務仕事は一向に挙がらないと思うし、結局その会社は辞めたくなると思うわけですよ。
だからあの、ひたすら慰めてもらうというのは答えにはならない。
だけれども、だからと言って、そこでずっと説教されてても困るじゃないですか。
そんなことあなたは気にしているのがいけないんだよっていう、何か言われそうなセリフなんですけれども、
あんな課長のことは気にせず、仕事バリバリやんなさいみたいなこと、相的になってるんだけれども、
そういうことを言う、多分そういう方針で行こうと思った日はあったと思うんですよね。
気もしないと僕はこれも思うんですよ。
お腹がはち切れんばかりになってんのに、あなたが食べ過ぎたのもいけないんで反省して、
ヨヘルミン飲んで、そんな胃の痛みのことは忘れてガンガン仕事しましょうみたいなことを言っても、
そうはいかないと思うんですよね。
まして心がはち切れんばかりになってる時の苦しみは、
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胃が満パンの苦しみよりは遥かに先を行ってしまうことがありますから。
で、もう時間なので今日は飛ばしますけど、最後にこれは確実に問題になってくると思うんですよね。
治療者と二人でいて、なんでこの治療者平気でいられるんだって問題がここに浮上してくると思うんですよ。
私の胃袋の中ではなくて、この治療者の胃でもあるこの治療空間という心の中で、
はち切れんばかりで私は苦しいのに、なんでこの治療者は平気な顔していられるんだろうっていう問いは、
いつか立つ日がやってくると思うんですね。
で、その次にもしかしてこの治療室を満載にしているこれは、
もともと存在しないものの集合体なんじゃないだろうか。
これが不在ってことですよね。
悪いおっぱいはないおっぱいやつです。
悪いと思っているこの悪い食べ物はもしかしてもともと一つもなかったのかもしれないってところまで行けるかどうか。
イリュージョンって話になってくるんですけれども、
これがつまり言ってみればですね、この風船みたいに膨らんでしまっているこの胃袋は、
実は風船と同じで空気でいっぱいになっているだけなんじゃないだろう。
この空気を押し出したりないことにするのは実は実に簡単なことなんではないだろうかっていうことに気づけるかどうかっていう話なんです。
一見これは非常に簡単に気づけるようだけどそんなことはないんですよ。
空気でいっぱいになったとしてもですね、
自信ばかりになっているときは苦しさの方が勝つんで、
ないのかもしれないというふうに検討する心の余裕、つまりそれが胃袋の余裕ってことになるんですよね。
余裕がないとできないことが余裕がないためにできていないっていうのが今置かれている状況なんだと思うんですよ。